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探訪記録 山形     : 最上  1


リスト外 : 最上郡金山町羽場    古四王神社

《探訪の準備》
*最上地方に古四王神社の所在する情報は、古四王神社に関心のある方々にもあまり知られていなかったと思いますので、所在情報だけの段階ですが、所在地情報を記事にしておきたいと思います。

*『金山町史 通史編』(金山町 昭63・1988)の「第八章 余録」-「十二 神社・堂祠」に「異色のものとしては、羽場の古四王神社、山崎の三十番神、杉沢の姥乳ウバチ地蔵、谷口の吉次神社、柳原の弥栄イヤサカ神社等がある。」があります。
 「第4表 神社堂祠一覧」を見ると、「本町地区(魚清水を含む)」の区分中に古四王神社が記載されていて、祭神は武甕槌命で所在地は羽場と記されています。
 羽場には他に、所在地が羽場131として山神神社、所在地が羽場として地蔵祠が記載されています。

*『金山のあゆみ』(金山町史編集委員会 金山町教育委員会 昭58・1983)の「七、集落誌」-「1 中心四ヶ町」に内町・七日町・十日町・羽場の記載があり、「金山町中心部図(昭50年)」があり、羽場についていくつか知ることが出来ました。

*『平成の祭』で最上郡金山町の神社を見てみると、鎮座地・金山町大字金山字羽場131に白山神社の記載がありますが、字羽場には他の神社の記載はありません。
 白山神社の鎮座地は現在の住所表示では、金山町金山131になるようです。
 白山神社については、町史の第4表の「本町地区(魚清水を含む)」の区分中に白山神社がありますが、所在地は公園地九三四ノ一になっております。公園地頂上という所在地に古峯山が記載されています。

 『平成の祭』では、金山町に「伊夜比古神社」「伊夜彦神社」が記されていました。

*国道13号線の東の金山町市街を北西に薬師山方面に向う道から田家に向う道に進んだ場所に、「ストリートビュー」によると道路脇に小社殿が見えます。
 ここを探訪の候補地としたいと思います。

 いまのところ、所在地情報だけの記事です。

《探訪の記録》
※2023−05−26
 金山町を訪ねることが、ようやくできました。
 酒田港インターチェンジから県道59号を東に向い、城輪柵跡を過ぎて、国道344号で旧八幡町市条の八幡神社付近を通り、青沢越えの道で真室川町から金山町へ入りました。
 旧八幡町市条にあった古四王神社は、八幡神社に合祀されていますが、古四王神社跡が分っています。 「探訪記録 山形・庄内12」参照。
 この国道344号を通る青沢越えの道は、相当の昔から山形県北部の内陸部と酒田方面を結ぶ主要な陸路であったのではないかと思います。
 山道は車でもかなり厳しい道で、車を止めて沢や山を眺めることも無いまま通り抜けました。
 金山町には、町の北西側から入って行くことになり、姿のよい薬師山に向って行くような感じでした。
 目指す小祠は、薬師山の南東の麓の旧「羽州街道」沿いの、「里の名水・やまがた百選」の「中の森 長命水」の近くのようです。

*小祠は、道路端からやや奥まったところにありましたが、探すまでもなく分りました。
 車を駐めて、祠に近寄って見ると、横書きの「古四王権現」の板額があげられていましたので、間違いなくここが金山町にある古四王神社になります。
 祠は、道路脇から少し高くなった所にあり、左右に杉が立ち、石で土留めをした数段の階段をあがったところに鎮座しています。
 屋根は平入の形で、祠本体部(身舎)の正面に上部が縦格子の窓になった両開の扉があり、屋根幅と同じ幅の床があって、床まで三段の階段があります。
 身舎の上部に、扉幅よりやや狭い「古四王権現」板額があります。身舎部の縦横は4尺くらいでしょうか。
 祠の正面は、道に面していて、東向きでした。祠の背面側に、御神体などを収めるような張り出し部分が付けられていました。
 縦格子の隙間から祠内部を見ると、鈴緒が複数奉納されており、白い帳がかかる奥の棚に丸石が複数置かれていますが、穴あき石ではないようです。

 左上: 道路から見る小祠                          右上: 古四王神社
 左下: 古四王権現の額                           右下: 中央「西田家」石碑 右下「長命水」柱と水受鉢
 石碑等のある一画、案内版 (露光等調整)

*祠から、道路を少し先に行くと、石組みがあり石碑が建っています。
 石碑には「西田家一族之墓」とあり、碑の前の未舗装路の奥に墓所があるようです。
 碑の手前の道路脇に「中の森 長命水」の案内柱があり、水鉢に水が流れていました。
 道を挟んで斜め向い側に、石碑などがある一画があり、「羽長坊の句碑」と題された案内版がありました。
 それによると、西田家の十三代西田芳松氏が昭和十九年に建てた句碑で、羽長坊は俳号で、苗字帯刀を許された豪商西田家の江戸後期の御先祖ということのようです。富と文化人の関係がうかがわれるようです。
 金山町の街中に「マルコの蔵」という、西田家よりご寄付いただいた明治時代に建築された土蔵2棟がある「金山町街角交流施設」があることは、事前の調べで承知していました。「マルコ」というのが、西田家の屋号ということをこの案内版で知りました。

*祠から金山町の街中へ向い、「きごころ橋」の横を通り、「マルコの蔵」「町役場」あたりを通過し、農村環境改善センター内の中央公民館をお訪ねしました。
 公民館の職員の方には大変お世話になり、後日教育委員会の方から金山町の古四王神社の資料のコピーを送っていただきました。
 山形県立図書館で金山町関連の資料を2度探しているのですが、何故か見つけられなかった資料でしたので、有難かったです。
 ほとんど通過しただけですが、金山町は気持ちのいい街に感じました。


*金山町から国道13号線で秋田県に向います。途中の金山町上中田の「弥彦神社」を訪ねる予定でいました。
 ここは、山崎幸和氏の『弥彦神社 各地分布の謎』(新潟日報事業社 平30・2018)という労作に山形県に3社記されている中の1社です。
 山形県の他の2社は、金山町春木の伊夜比古神社と真室川町栗谷沢の伊弥彦神社です。
 上中田の神社は、行先の途中にあるということだけでなく、耳の病にご利益があるとされ「穴明き石」を奉納して平癒を祈願したそうなので、ぜひ立ち寄ってみたいと思っていました。
 上中田公民館を目指していたのですが、公民館は分らないまま、空き地に鳥居を見つけました。
 車を駐めて、傘を出して、鳥居に近づくと、鳥居に「弥彦神社」の社額があげられていて、その先に「上中田弥彦神社」案内版がありました。
 社殿は、奥の山にあるようです。コンクリートの階段がありましたので登っていくと、木立の間を抜ける石段となり、その先が少し開けて社殿がありました。
 社殿に至る手前や社殿の横に大きな切株があり、下の案内版にあった平成28年に倒木の恐れから伐採された大木の切株ということでしょう。
 まさに大木の切株で、切株も圧巻でした。
 社殿は、『弥彦神社 各地分布の謎』の写真(平成21年8月)より新しいように思います。
 「伊夜比古神社」と右から書いた社額があげられています。この社額は古いもののようです。
 社殿の周辺や床下には穴あき石は見あたりません。社殿内に奉納されているのだろうと思いますが、扉が閉まっており、窓もありませんので、社殿内の様子が分りません。
 境内のもう一段高い場所にも「弥彦神社」よりやや小ぶりの社殿があり、「弥彦神社」と同時期の建物のようですが、山神の社殿でしょうか。
 稲荷社と秋葉社と思われる正面が連子になっている小祠があり、秋葉社と思われるほうの連子の中に様々な石が収められていて、一つの石には穴があるようにも見えますが、貫通した穴かどうかは分りません。

 左上: 道路脇から見る鳥居・案内版                   右上: 案内版
 左下: 右側や中央に切株。左奥に社殿。手前に小祠         右下: 伊夜比古神社額


《探訪の整理》
*送っていただいた資料は、『金山町史資料編 歴史を探る』(金山町教育委員会 平7・1995)の166〜167頁で、「文責・栗田弥太郎町史研究員」による「古四王神社と小姓林」の記事があります。
 それによると、「今の社殿は昭和三十年ごろ、中の森に製材所を経営していた西田芳松氏が材料を提供し」現在の管理者さんの親戚の内町の方が棟梁で建てたものだそうです。それ以前は「もっと小さい祠があった。」そうです。
 「旧暦の九月の節句が祭の日で、九日、十九日、二十九日には、紅白ののぼりを立て、餅を供えて参詣したものだという。」ことです。
 古四王神社の辺りを「コショウ林」といっていたそうで、古四王神社付近の林という意味とのことです。
 正徳二(1713)年に作成された『十日町本新田地方帳』という土地台帳に「羽場村百姓、孫市の持田に『小姓林』の地名が見える。」と資料が紹介されており、「この神社の創建はそれ以前からここに祀られていたものとみなければならない。」があります。
 「現在、御神体として祀られている丸石は、もと○○家の持田で現在□□△△さんの所有田となっている旧飛森間道の側の田圃から掘り出されたものである。そのほかに数個の丸石があるが、これは後に人々が納めたものだという。ここは特に眼の病を癒す神様といわれ、人々の信仰を集めていた。」の記載があります。〈○○、□△は筆者のよる〉
  そうすると、少なくとも正徳年代以前にこの辺りに神社があった。それは、こしょう様とかこしょう堂と呼ばれたいたのではないかと思え、文字は「小姓」と表記されていたと思われます。
 「小姓」は、こしおうの転訛であろうという、研究者の説があります。
 御神体が丸石という自然石であり、眼の病に御利益があるという民間信仰があるそうです。
 「旧飛森間道の側の田圃」というのが、どのあたりなのか分りませんが、御神体として祀られるのは、なにによるのでしょうか。
 社殿内に見えた丸石は「後に人々が納めたもの」と思われます。
 神社の近くの湧水が名水とされていることは、眼の病を癒すことと関係があるのでしょうか。
カシミール3D・解説本の地図:金山町の古四王神社
                                                                山形県には、御神体が自然石で耳の病に御利益があるとされる古四王神社が
かなりあります。
 鈴緒がらせん状の紅白であったことと「紅白ののぼりを立て」たことは、関係が
あるのでしょうか。
 西田芳松氏は西田家十三代の方でしょうか。

 武甕槌命のみを祭神とする古四王神社の例に、法人社では山形県小国町大滝
の古四王神社があります。
 最上郡の古四王神社の存在は、昭和時代までの古四王神社の研究者には知
られておらず、最上郡は山形県での古四王神社空白域とされていました。
 ともかくも最上郡金山町に古四王神社が存在しました。
 金山町に古四王神社の小祠が1社ありましたが、最上郡にはこの1社だけなの
かどうか。


*上中田弥彦神社
 古四王神社の分布を調べている者として、上中田の弥彦神社(伊夜比古神社)は越後一宮の弥彦神社の分布状況としても参考になると思いますが、このたび訪ねたのは耳の病の平癒を願って穴あき石を奉納する事が行われていたという情報があったためです。
 耳の病と穴あき石の取り合わせは、古四王神社にもそのような民間信仰と結びついている例がいくつも認められますので、訪ねてみました。
 穴あき石と奉納の様子を確認できていないませんので、情報として記録しておきたいと思います。

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