外編 1 島根県の「大亀山末古四王寺」情報について
《 島根県の「大亀山末古四王寺」情報について 》
◇はじめに
大山宏は「古四王神社の源流を尋ねて」(『秋田郷土叢話』 昭9・1934)において、「調査し得た同社の存在する地方を列挙」と、秋田県内14箇所と県外16箇所の分布状況を示し「以上は皆越後の古志以北」と分布の南限を示しています。
そのあとに「ここに不可解な事實が二件潜んでゐる。」として京都に「天台宗園城寺聖護院院家積善院に古四王寺祭といふものがあること、わが秋田より移ったもの」と島根に「石見国邑智郡川戸村大字小田大亀山末古四王寺大體拜立の銘あること」を取りあげています。〈太字は原文では傍点〉
大山は「秋田城阯に就いて」(『秋田県史蹟調査報告 第一輯』 昭7・1932)の「第一編第六章 四天王寺及四王堂舎」を「天長七年正月三日辰刻に秋田城に大地震があり、其の公報の中に、/大地震動、響如雷霆、登時城郭官舎、並四天王寺丈六像、四王堂舎等悉皆顛倒。/ といふのがある。是に由って観れば、秋田城内には四天王寺、並に四王堂舎があったのである。此の四天王寺や四王堂舎を尋ね富つることが出来れば、秋田城の位置は自ら明らかになる。此のような見地からして確かな文献の引證によって時代を追うて跡づけて見よう。」とはじめて、「延喜式出羽国正税の條下に四天王修法僧供養並法服料二千六百八十束が計上してある」ことや「聖徳太子伝私記」の記載や「古四天王寺」と記された文献史料等を取上げたあとに、「天台宗園城寺聖護院院家積善院に秋田祭と云ふのがある。一名を印鑰〈ヤク Unicode U+9470〉祭と云ふ。」を記し「此の祭礼執行の日記には古四天王寺祭、古四王寺祭、古四王祭などとある。」事を示し、積善院〈シャクゼンイン 現在:積善院準提堂 京都市左京区聖護院中町〉の秋田祭が秋田城四天王寺とつながりのあることを論じています。
この章については詳しく見る必要があると思いますが、本稿では「不可解な事實が二件」のうちの一件「積善院に古四王寺祭といふものがあること、わが秋田より移ったもの」のもとになる論究があることを示しておきます。この章の内容は「古四王神社の源流を尋ねて」の項目「十一、四天王寺と秋田城」に反映されています。
もう一件の「石見国邑智郡川戸村大字小田大亀山末古四王寺大體拜立の銘あること」については、「不可解な事實」のひとつとして記している以外に取上げている文章を見ていません。
島根県のこの例についての論究が見受けられませんので、調べてみます。
〈文中の、/は改行。■は判読不明。以下同じ〉
◇島根県の「古四王寺」情報について
「石見国邑智郡川戸村大字小田」は、現在の島根県江津市桜江町小田になります。
「川戸村大字小田」とありますので、川戸村・小田村・後山村の一部が合併して川戸村になった明治22年以降の住所表示です。
昭和29年に川戸村・長谷村・市山村・谷住郷村・川越村が合併して桜江村が発足し、昭和31年に桜江町になり、桜江町は平成16年に江津市に編入となって現在に至ります。
国立国会図書館デジタルコレクション及び図書館相互貸借で以下の書籍を見ることが出来ました。
*『石見誌』(天津亘編纂 大13・1924)の社寺の項目に「四王寺 邑智郡川戸村大字小田字四王地(○○氏家号)の後山に趾あり木像を今も安置す。貞観九年五月〈略〉」がありました。
〈○○氏は、当方で名を伏せました。以下同様です。〉
*『邑智郡誌』(編輯兼発行人 森脇太一 昭12・1937)「第一編第三章第三節 史的伝承及古墳墓」に「石見四王寺 川戸村大字小田字北野山林」の記事があり「清和天皇貞観九年伯耆、出雲、隠岐、石見、長門の五国に命じ、外寇調伏の為め四王寺を建立せしめらる。新羅の跋扈するを以つてなり。」「今は寺跡を存せずと雖も全山を跋渉すれば七堂伽藍の跡あり。隆盛の蹟想像すべて〈ママ〉山麓に小堂あり。千手観音立像の古佛多聞天不動明王の像あり。○○氏屋敷を四王地といふ。」とあり、その周辺の様子が細かく記され、四王寺跡とすることの当否についてふれています。
同書「第四編 地誌」の項目「川戸村」の「三、 古跡 四王寺」に「同家の後の小高い山には碑があって『大亀山末古四王寺』と記されてゐる。この碑は有名な禅僧大休玄密師の書」「其の碑を上ると廣い昔の屋敷跡らしい土地があって、鐘つき堂の跡と称する處に小さい堂があり、其の中には雑多の仏像が納められ、四天王の内二天王だけは今も尚存して居るといふ。頂上には小さい祠があり、昔から四王寺の跡と傅へられて居る。」があります。〈下線は当方〉
*『桜江町誌 上巻』(発行/島根県邑智郡桜江町 昭48・1973)の「第三編第二章第一節二 平安時代の仏教」に項目「四王寺の建立」があり、四王寺建立の由縁について「三代実録」の貞観九年五月二十六日の条に次の記事があるとして「八幅の四天王像五鋪を造り、各一鋪、伯耆、出雲、石見、隠岐、長門の国に下し、国司に下知して曰く、彼の国の地西極に在り、堺新羅に近し、警備の謀り、まさに他国に異るべし、宜しく尊像に帰命し、勤誠法を修め、賊心を調伏し、災変を消却すべし。仍ってすべからく地勢高敞にして賊境を瞼瞰するの道場を点択すべし。若しもとより道場なくんば新たに善地を択んで仁祠を建立して尊像を安置し、国分寺及び部内の練行精進の僧四口を請じ、各まさに像前に最勝王経四天王護国品により、昼は経巻を転じ、夜は神咒を誦し、春秋二時別に十七日清浄堅固、法により薫習すべし〈敞は町史原文「高攵」を変更〉」と現代語訳で記しています。
さらに「寺を建て、四天王像をお祀りして、賊心の調伏と災変の消却のため、修法を行うことを命ぜられたのが四王寺である。現今小田の志応地(在家人の居宅のため四王寺の名をさけて、志応地と改称したと、先年物故した○○老人は語っていた)後方の小高い平地にある四王堂(明和九年秋、福応寺十二世大極道一により、古の四王寺を福応寺末四王寺として復興し維持されてきたが、明治六年八月廃寺後、堂として○○氏により維持存続されている)には、往年本尊として祀られたと伝えられる千手観音の像と四天王のうち北方を守護する多聞天王、不動明王の三像が安置されている。なお、この地には津和野町永明寺十七世大休玄密(一六六三−一七二一)の書になる、大亀山末古四王寺、の碑が明和九年に建てられ千手観音を本尊としている。」が続いています。〈下線は当方〉
同書「第三編第二章第六節」の項目「廃寺」に「四王堂 曹洞宗 小田」があり「 福応寺十二世大極道一により、古四王寺を復興して、その趾に建てられたこの堂には往時四王寺の本尊だったと伝えられる、千手観音(等身大)と毘沙門天、不動明王が祀られている。この寺も明治六年八月に廃寺、建物、境内地共に志応地○○氏の所持、造営のため、建物、地所は同家に還し、仏像、什器は福応寺に合祀する約定は、さきの滝三寺と同様であるが、現今ともに志応地によって維持されている。」があります。
「古四王寺を復興して」とあるのは「四王寺を復興」の誤記ではないでしょうか。
〈文中の(カッコ)は原文では「カギカッコ」〉
同書「第三編第四章第三節」の項目「四王寺址」に「小田字北野、山林の中に石見四王寺跡と伝えられる遺跡がある。」から始まる記述があって、「島根県史はこの遺跡について、『海を距たること凡そ四里、石見国分寺及び国府を距たること七里ばかりなれば、当時四王寺と関係深き国分寺及び国府とは余に遠距離にして不便多かりしを察すべし。故にこの四王寺址は石見四王寺の代用寺なるか、あるいは本来の四王寺廃滅後何等かの事情の下に、此処に遺物を移したるか、明らかならず』と記している。なるほど現在の内陸観をもってすればそうであるが、〈略〉」と県史の記述を紹介しつつもそれに疑義も呈しています。
*『桜江町誌 下巻』(昭48・1973)にも「石見の四王寺」等の項目があります。
「石見の四王寺」項目中に「現在では山陰における四王寺跡としては、伯耆国四王寺が東伯郡社村、出雲国四王寺が八束郡山代村。長門国四王寺が豊浦郡豊東前村に遺跡として残っているという。石見・隠岐国については諸説があって一定していないのであるが、有力な四王寺跡がわが桜江町川戸にある。」を記し、「石見国四王寺跡と云われる場所」に関する説明を記して、この場所についての反論を取上げ、それに対してこの周辺の当時の環境考察による論考を記しています。
*『島根県邑智郡桜江町遺跡詳細分布調査報告書U』(邑智郡桜江町教育委員会 1991・平3)に「伝四王寺跡」の記載があります。
これらの資料から、大山の記した「石見国邑智郡川戸村大字小田大亀山末古四王寺大體拜立の銘あること」は、『邑智郡誌』『桜江町誌』に記された「大亀山末古四王寺」の碑があることによるものと考えられます。
この碑文によって、島根に古四王寺の情報があるとして、古四王神社の分布範囲からは不可解な例とされたのでしょう。
「大體拜立」は私には分りかねます。
※「古四王寺」という名称について
平安時代の石見国に律令国家の命により設けられた国家的使命をもった仏教施設があり、その施設は四王寺と言われ、その跡地と称する場所が旧・邑智郡桜江町にあることを見てきました。
『桜江町誌 上巻』の文章は意味が取りにくいように感じられるのですが私の受取り方では、桜江町小田の地に明和九年秋(1772)に福応寺十二世大極道一によって古の四王寺を福応寺の末寺として復興する寺を造り、大亀山末古四王寺の碑を建てた。この寺は明治六年に廃寺になったが、土地建物の所有者○○家によって四王堂として維持され千手観音・毘沙門天・不動明王が安置されている、ということのようです。
いにしえの四王寺の復興という意味合いの寺なので古四王寺と称したのではないでしょうか。
かつてあったという四王寺をあらためて造るということであるならば新四王寺ということもありうるかも知れませんが、新とするとかつてのものとは別物というような感じではないでしょうか。
かつてあった名のある寺の復興、かつてあった寺の後継と称する寺を造る、ということに重きを置くのであれば、かつての寺にあやかつて、古四王寺とするほうが造立者の意に適ったのではないかと思います。
かつての寺の再興の意味合いで建てる寺の名称として、かつての寺号の四王寺をいただいて古を冠して古四王寺とした、江戸時代にあった例と言えるのではないでしょうか。
なお、『邑智郡誌』によると、大亀山福応寺は曹洞宗で市山村江尾にあり元享元年(1321)創立で石見十二番札所とのことです。
永明寺(ヨウメイジ)は応永二十七年(1420)創建の曹洞宗の寺のようです。
十七世大休玄密は「一六六三−一七二一」とありますので、寛文三年から享保六年の方のようです。
そうすると、大休玄密の「大亀山末古四王寺」の書は、享保六年以前に書かれた、明和九年より50年以上前の書になります。
享保六年以前に「大亀山末古四王寺」を復興する計画があったのか、「大亀山末古四王寺」碑が建ったのが明和九年で、寺自体はもっと早く復興されていたのか、その他の経緯があるのか、不明というしかありません。
いずれにせよ、島根の「古四王寺」情報は、四王寺がかつてあったことで古四王寺が建立された例であるかも知れませんが、現在の古四王神社の分布問題とは無関係と断定して差支えないようです。