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 外編  2  四天王修法と四王寺


《 四天王修法と四王寺 》
 貞観九年に伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の国司への下知で設けられた「四天王法を修する」ための道場について見ていきます。
 記事《島根県の「大亀山末古四王寺」情報について》で、石見国の四王寺跡とされる所(旧邑智郡桜江町)について見てきましたので、石見国以外の四王寺跡とされる所について見ます。
 この記事は、《島根県の「大亀山末古四王寺」情報について》からの展開となります。
 〈「四天王修法」の用字については、「延喜式・主税上」〈後出〉、三上喜孝「古代日本の境界認識と四天王信仰」(「太宰府四王院 ー 『西の都』に築かれた鎮護国家思想の寺」〈後出〉)にあることから、「四天王法を修する」は虎尾俊哉『古代東北と律令法』〈後出〉にあることから使わせていただきました。〉

◇1, 伯耆・出雲・隠岐・長門の四王寺跡
※『桜江町誌 下巻』(旧邑智郡桜江町発行)の記す石見国以外の四王寺跡
○「伯耆国四王寺」とされる「東伯郡社村」は、鳥取県旧久米郡社村で現在は倉吉市です。
*『倉吉市内遺跡分布調査報告書[』(平成6年度・ 倉吉市教育委員会)〈ネット検索しPDFダウンロード〉に「3.大谷地区(四王寺跡)/ 調査地点 倉吉市大谷字一ノ谷、大谷山」とありました。
 ネット上に「四王寺山」もあり山頂に四王寺の建物があるようです。四王寺の所在地は倉吉市北面のようで、隣接して四王寺山山頂展望台があるようです。
 『桜江町誌 上巻』に「国分寺及び部内の練行精進の僧四口を請じ」とありますが、地図の平面間での直線距離で四王寺の1700メートルほど南に伯耆国分寺跡があります。
○「出雲国四王寺」とされる「八束郡山代村」は、島根県八束郡大庭村山代でしょうか。
*『四王寺跡発掘調査報告書 』(1996年3月・松江市教育委員会)〈ネット検索・PDF〉によると「四王寺跡は松江市街地南東の茶臼山南麓に所在する。」「山代町字師(四)王寺の西端にあたり、標高20mに位置している。」とあります。
 「標高20m」は道場設置場所の条件からするとずいぶん低いように思います。
 「師(四)王寺」は「シワジ」と読むようです。「師王寺」「シワジ」は四王寺があったことからなのでしょう。
 ここから2キロメートル以内に出雲国分寺跡があります。
 この場所をめぐってもいろいろの見解があるようです。
*「長門国四王寺」とされる「豊浦郡豊東前村」は、明治31年王司村になり昭和14年に下関市に編入となっています。
 山口県下関市大字田倉に四王司山及び四王司神社があるようです〈参考:下関長府観光協会HP〉。
 地図を見ると、田倉地区の北部で松小田地区と接する境付近に四王司山山頂があるようです。
 四王司も四王寺があったことによるのでしょう。
 長府四王司町・長府新四王司町という町名が見えます。
 四王司山は周防灘側であり日本海側ではないことが気になりますが、長府は長門国府であり長門国分寺などもあった場所になります。
 国分寺跡〈参考:下関長府観光協会HP〉をとされる場所付近から四王司神社までは、地図上の平面で3キロ以上あります。
*隠岐については、隠岐の四王寺は隠岐国分寺境内に置かれていたとする見解があります。(国立国会図書館デジタルコレクション〈以下〔国図デ〕〉『隠岐島の歴史地理学的研究』(田中豊治 古今書院 昭54・1979))
*石見の国分寺跡は浜田市国分町とされています。
 文献などの各種の資料に「四王寺」と記されています。

※四王寺という名称について
 「四王寺」と称して、「四天王寺」としないのはなにによるのでしょうか。
*貞観九年(867)に伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の五国に八幅の四天王像を下し、「賊境を瞼瞰するの道場を点択すべし。若しもとより道場なくんば新たに善地を択んで仁祠を建立して尊像を安置し、国分寺及び部内の練行精進の僧四口を請じ、各まさに像前に最勝王経四天王護国品により、昼は経巻を転じ、夜は神咒を誦し、春秋二時別に十七日清浄堅固、法により薫習すべし」(『桜江町誌 上巻』による)とあり、道場を選定するか新たに建立することの記述はありますが、道場を四王寺とする旨は記されていないようです。
 四天王像及び最勝王経四天王護国品云々とあって、四天王寺ではなく四王寺と称するのは、どのようなことによるのでしょうか。
 四天王寺たるための伽藍の構成や規模の基準があるのでしょうか。
 そういったことから、新羅に対して「賊心を調伏し、災変を消却」する専用の道場は四天王寺といえないのでしょうか。  
 四天王を安置した専用道場であれば「四王堂」でもよいのではないかと思いますが、国分寺から2キロ近くも離れていたり山中にあったりで、僧侶の起居する必要があり「寺」としたのでしょうか。

◇2, 秋田城と太宰府
※文献資料
*大山宏の著作により『類聚国史』に載る天長七年正月の大地震による秋田城の被害状況「大地震動、響如雷霆、登時城郭官舎、並四天王寺、丈六像、四王堂舎等、悉皆顛倒」を見ておりましたので、〔国図デ〕で『類聚国史 巻第百七十一 災異部五 地震』〈タイトルー六国史:国史大系 類聚国史 大5・1916〉を閲覧しました。
*新野直吉『出羽の国』(学生社 昭48・1973)に「六ー2 延喜式の出羽の国」の「天長地震」項目に現代語訳が記されています。
 同項目中に「城の官庁舎はもちろん、城内鎮護の四天王寺、その本尊であろう丈六仏、さらに四王を祭っている堂舎などが、倒れて壊れたのである。四天王寺は再建されなかったかもしれないが、四王堂というのは現在の古四王神社の前身であろう。」の記述や「印鑰〈インヤク〉祭、一名秋田祭」に関する記述がありました。
 『国史大系 類聚国史』での句点の打ち方によれば、 秋田城内には、創立年代は不明ながら天長七年(830)年以前に四天王寺と四王堂舎があったようです。
 四天王寺がありさらに四王堂舎があるとすると、そのことをどのように理解するかが問題とされる事になります。
 先に見た貞観九年の五国の「四王寺」と「国分寺及び部内の練行精進の僧四口」から類推すると、四天王寺の僧侶が四天王法を勤めるための道場が四王堂舎かもしれないと思います。

*虎尾俊哉『古代東北と律令法』(吉川弘文館 平成7・1995)の「Uー二 古四王神社と四天王寺・四王堂」があり、大山「秋田城阯に就いて」と新野『出羽の国』を取上げたうえで、「この問題については、従来なぜか閑却されて来た太宰府北方の四王寺山にあった四天王寺ないし四王堂・四王院がかなり参考となるのではあるまいか。」として小田富士夫の「古代の太宰府四王院」での見解を示し、これが「当面の秋田城における四天王寺ないし四王堂の在り方を推定するうえで、大いに参考となるように思われる。すなわち秋田城の四王堂舎とは、一堂に四天王を安置しているのではなく、東・西・南・北の要所にそれぞれ堂舎を設け、一堂に一王を安置する形をとったのではないか、こういう推定が可能となると思うのである。そしてこれならば、四天王寺と四王堂が併列的に記されている天長七年紀の記載もかなり分りやすくなると思うが、如何であろうか。さらにまた、延喜式主税式上諸国本稲条の出羽国の項に『四天王修法僧供養並法服料二千六百八十束』が揚げられていることについても(〈括弧内記載は別記〉)太宰府四王寺の例は示唆を与えてくれる。すなわち同寺では、宝亀五年以来、時に弛張はあったが、四天王法を修するために四僧が置かれ、その供養と布施の料が措置されていた。別々に安置されていた一王ごとに一僧が修法の任にあたったと見て差支えあるまい。前掲延喜主税式諸国本稲条に規定された出挙の利稲は、これと同じような形で出羽国から秋田城の四王堂修法僧に配分されたのであろう、というのが私の密かな推定なのである。なお延喜主税式上によれば、伯耆・出雲・長門の国々にも「四王寺」があり、この三カ国では修法料が当国の正税をもってまかなわれていたことが分る。いずれも日本海に面する国々であることから、その創建の趣旨は同じと見てよいであろう。」が記されていました。
 〈別記:(括弧内記載)は「弘仁主税式断簡の出羽国にはこの出挙稲は規定されていないが、それはこの修法僧に対する支出が外の財源でまかなわれていた可能性まで否定するものではない。念のため」〉
 引用中の「同寺〈太宰府四王寺〉では、宝亀五年以来、時に弛張はあったが、四天王法を修するために四僧が置かれ、その供養と布施の料が措置されていた。」は、「類聚三代格巻第二」(〔国図デ〕『国史大系 第十二巻』 明33・1900)の「宝亀五年(774)三月三日」の「太政官符」にある「供養布施並用庫物及正税」と関連の記述によると思います。
 また、「時に弛張はあった」というのは、『日本逸史』(〔国図デ〕『国史大系 第六巻』 明30・1897)の「巻第十」の延暦二十年(801)正月廿日の「停太宰府大野山寺。行四天王法。其四天王像。及堂舎法物等。並遷便近寺。」の記事、及び「巻第十五」の大同二年(807)十二月(808年か)の「太宰府言。於大野城鼓峰興建堂宇。安置四天王像。令僧四人如法修行。而依制旨既從停止。其像並法物等。並遷置筑前国金光明寺畢。其堂舎等今猶存焉。而遷像以来。疫病尤甚。伏請奉遷本處者。許之。但停請僧修行。」の記事に関することかと思います。
 ここでは「太宰府大野山寺」とあります。
〈追記:『国史大系 第六巻』の『日本逸史』では、「巻第十五」の大同二年十二月のところでは「大野城鼓峰」とあります。「巻第十九」弘仁二年のところには「太宰府皷岑四天王寺。造釈迦仏像。」(鼓の右側が皮、山の下に今)とあります。〉

*これらに対して堀裕は「東北の神々と仏教」〔東北の古代史4『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編 吉川弘文館 平成28年)〕の項目「秋田城四天王寺」で「寺院の建物一般を指す『堂舎』の語句を用いて、固有の建物を『四王堂舎』と呼ぶのは落ち着かない。そこで、『四天王寺の丈六仏像・四王・堂舎』と読むのも一案である。」と述べています。
 また、「松川博一が、『類聚国史』に『大野城鼓峰』に堂を建て四天王像を安置する、あるいは『大野城鼓峯』で四天王法を行うとあることを根拠に、四天王像は大野山西部の『鼓峯』にあり、〈略〉、と虎尾の依拠する説を否定した(松川、2014)」を記して「城の四隅に四王堂があったとは考えられない。」としています。
〈追記:引用文に『大野城鼓峰』に堂を建て四天王像を安置とありますが、私の見た『類聚国史』(後記)では「鼓峯」とありました。〉
 松川の説は、参考文献にある「太宰府と寺社」によるのでしょう。
 そのように、四王と堂舎を分ける読み方も可能と思いますが、「丈六仏像」と記していることと対比すれば、ただ「四王」と記すのはふさわしいでしょうか。「四王」ではなく「四王像」と記すのではないかと思います。
 確かに「四王堂舎」と記されているのは落ち着かない感じがあります。四王堂舎というのは四王堂の建物という事なのでしょうが、四王堂が一棟であれば四王堂と言うだけでよいのではないかと思いますので、もしかすると四王堂は方角ごとに四舎あった可能性もあるのではないかと思ったりします。
 松川の「太宰府と寺社」を読むことは出来なかったのですが、次に取上げる「太宰府四王院 ー 『西の都』に築かれた鎮護国家思想の寺 ー」の研究発表1として松川博一の「筑紫大野城と太宰府四天王寺」がありました。
 これによると、『類聚国史』の大同2年12月(808)の太宰府からの上申に「大野城の鼓峯に堂宇を建てて四天王像を安置した」とあるとのことです。
 〔国図デ〕で「『六国史:国史大系』類聚国史」を見ると「巻第百七十八 佛道部五」の「修法」に大同二年の「太宰府言。於大野城鼓峯。興建堂宇。安置四天王像。〈以下略〉」と大同四年の「復令太宰府於大野城鼓峯。行四天王法」がありました。
 大同二年のものは、先に『日本逸史』から引用した文面です。峯の文字表記が異なります。
 宝亀五年以降に太宰府四王寺が置かれて、延暦二十年に「停太宰府大野山寺。行四天王法。其四天王像。及堂舎法物等。並遷便近寺。」と停止になり、四天王像等は近くの寺、つまり筑前国金光明寺に遷された。その後の大同二年に「於大野城鼓峰興建堂宇。安置四天王像。」と復興されたという経緯があります。
〈訂正追記:前文の〔大同二年に「於大野城鼓峰興建堂宇。安置四天王像。」と復興された〕の記述は、〔於大野城鼓峰興建堂宇〕を鼓峰の堂宇を復興した堂宇と受取ったことによる記述ですが、三上喜孝「古代の辺要国と四天王法」(山形大学歴史・地理・人類学論集 第5号 2004年 PDF「山形大学 学術機関リポジトリ」より)中の「大野城の鼓峰に堂を建てて四天王を安置したが、これを筑前国分寺に移した。ところがその後疫病が甚だしくなったので、もとの場所に戻した。ただし僧侶は置かなかった。」という記述からすると、これは四天王像の経緯を述べていてもともとの四天王を安置した堂が鼓峰に存在していたということで、鼓峰にあらたに堂を興したということではないとするのが正しいようです。以上、訂正 2023-05-16〉
 大同二年の復興に際して大野城鼓峯の堂宇に四天王像を安置したとしても、宝亀五年以降の四天王像がどのように安置されていたかとはまた別の問題と思いますので、大同二年の記事をもって「城の四隅に四王堂があったとは考えられない。」と断定してしまうのはいかがなものでしょうか。〈この2行は書替えました。2023-05-16〉

※太宰府の四天王修法施設の名称について
 太宰府の当該施設を何と表記しているか、ネット検索してみました。
*太宰府市公文書館の「太宰府の文華 〜公文書館だよりK〜」は「北と南の四王寺(四天王寺)」の題名で、太宰府の大野城と出羽国の秋田城を取上げておりますが、「大野城には奈良時代末の宝亀5(774)年、新羅の呪詛を攘うために四王寺(四王院)が設けられ、ここで四天王法が行われることとなりました。これが現在の四王寺山という名前の由来と考えられます。」とあり、太宰府の施設を四天王寺とは記していません。
 〈 https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/4057.pdf 〉
*四王寺山で検索して「福岡ー四王寺山 - 日本山学会」のサイトを見ると「しおうじやま」について「太宰府市のすぐ北になだらかに広がる四王寺山は、最高点のある大城山(410m)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4つの山から構成され、総称として四王寺山と呼ばれる。」とありました。
 〈 https://jac.or.jp/oyako/f10/c5020.html 〉
*太宰府市公式ホームページの太宰府市文化財情報の「市外文化財遺産(2)」には「四王院跡(四王寺跡)」とあります。
 〈 https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/bunkazai/2390.html 〉
 〈このURLでアクセス不調の場合は、「太宰府市文化財 四王院跡」で検索してみてください。〉
*「太宰府研究」で検索して「太宰府研究ー九州国立博物館」に進むと「九州国立博物館『太宰府学研究』事業・特別史跡『大野城跡』史蹟指定90年記念シンポジュウム 太宰府四王院 ー 『西の都』に築かれた鎮護国家思想の寺 ー」という頁が表示されます。
 資料集がPDFで見れます。
 〈令和4年12月20日アクセス: https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_dazaifu.html 〉
 この令和4年9月4日に行われたシンポジュウムの資料の表紙に「太宰府四王院」とあります。
 これ以外のサイトで太宰府の当該施設を四天王寺と記する例が無いわけではありませんが、例示した公共的なサイトでは四王寺ないし四王院と称していて、四天王寺と称するのが正しいと主張するような論調は見受けられないようです。
 シンポジュウムの資料集を見ると、三上喜孝の基調講演「日本古代の境界意識と四天王信仰」や他の研究発表があり、その内容に触れる力はありませんが、それらの発表の中に名称についての特段の説明もなく「太宰府四天王寺」と記述されている方もいらっしゃいます。
 また、虎尾が紹介している小田富士夫の見解とは別の見方も示されています。

*近藤謙はこの研究発表者の一人ですが、同人の「古代の四天王信仰と境界認識」(仏教大学宗教文化ミュージアム研究紀要05号 2009年・平21)のPDFをネット検索で見ていました。
 〈アクセス令和4年12月15日: https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SB/0005/SB00050R005.pdf 〉
 こちらの論文を見てみますと、「八世紀に入ると四天王信仰は再度の高揚期を迎える。『金光明四天王護国之寺』と称された護国仏教の拠点というべき諸国国分寺の創建はその頂点といってよいだろう。また称徳天皇が天平神護五(765)年に建立した西大寺には金銅製の四天王像を本尊とする四王堂が建立された。これは恵美押勝の乱平定を目的としたものであったといい、東大寺に匹敵する最高の国家官寺に四天王像を本尊とする特別な堂宇が建立されたという事実は、この時代の四天王に寄せられた護国信仰の大きさを物語るものであろう。」があり、また「宝亀五(774)年には特筆すべきこととして太宰府大野城に四王寺(院)が建立される。『類聚三代格』に見えるこの記事は、正確には四王寺〈ママ〉の塑像四天王像の造像を指示したものである。」「この寺院は六六五年に築城された大野城に付属する施設として造られていた。」があります。秋田城や貞観九年の四王寺に関する事や太宰府四王寺の変化に関する事なども含めいろいろ教えて頂く事があります。

 その『類聚三代格巻第二』(〔国図デ〕『国史大系 第十二巻』 明33・1900)には「太政官符。/應奉造四天王寺□像四躯事。各高六尺。」とあり、続いて本文が七行あって、年号「宝亀五年三月三日」があります。〈原文の表記不能文字□はユニコード「U+57DD」土偏に念、躯のメは品〉 
 この「宝亀五年」記事の本文の太宰府での四天王像の安置場所や修法内容は、後の貞観九年の石見他の五国の四天王像の安置場所の条件や四天王修法のありかたと同じように思います。
 この五国の修法施設は四王寺と呼ばれていたようです。
 この部分について、虎尾は先に引用した章節中に「本文中には造像のことと浄行僧四口による四天王法のことしか見えないが、事書きには『四天王寺捻〈ママ〉像四躯』とあり、この『寺』字は諸本に異動がない。」と記しています。
 本文中には、造像のことは「奉造件像」とはありますが、それ以外のほとんどは四天王修法に関する記載と思いますので、四天王像を造ることを言っているのでしょうが、四天王像という文字はどこにも記されていません。
 「事書き」というものに「四天王寺捻像四躯」とあるのは、四天王寺の捻像四躯を造るということであれば、太宰府の施設名が四天王寺でありその寺の捻像四躯を造るということになるのでしょうが、捻像四躯の仏像名の明記がないとも言えるのではないでしょうか。
 四天王寺捻像四躯の記述は四天王像を造ることを言っているとも受けとれるようにも思え、この場合も捻像四躯の仏像名の明記がないとも言えるでしょうが、太宰府の施設が四天王寺であるとするのは疑問に思います。
 この部分について、近藤の「正確には四王寺の塑像四天王像の造像を指示したもの」という受取り方があります。
 虎尾はまた、「政事要略五十六延長八年(930)八月十五日官牒」と「扶桑略記」についても記しています。
 『政事要略巻五十六』(〔国図デ〕『国史大系』第28巻 昭和10年)には、「太宰府四王寺」とあり、『扶桑略記』(〔国図デ〕『国史大系』第6巻 明治30年)の「光仁天皇」宝亀五年記事に「是年。太宰府起四王院」とありました。
 『日本後記』(〔国図デ〕『国史大系』第3巻 明治30年)の「巻第廿一」の「弘仁二年(811)二月廿五日」に「於太宰府鼓岑四天王寺。造釈迦仏像。」とありました。
 『日本三大実録』(〔国図デ〕『国史大系』第4巻 昭和9年)の「貞観八年(866)二月十四日」に「太宰府司於城山四王院。転読金剛般若経三千巻。」がありました。
 宝亀五年に関する記事に、四天王寺と四王院があり、混乱します。
 これらの史料を検討する力はありませんので、勝手な想像を記します。
 四天王像を安置して四天王修法の施設を造ることが命ぜられ、施設の名称を定められていたわけではなく、四天王寺の建立を命じたものではない、のではないでしょうか。
 貞観九年の五国の修法施設は「四王寺」として伝わっていると思います。
 太宰府の施設について、「四王寺」「四王寺山」があり「四王院」が伝わるのは、両方の名称が使われていたのでしょうか。
 太宰府でも「四王寺」と呼ばれていたと仮定すると、「四王院」の名称は「四王寺」の停廃と復興などに関係するのでしょうか。
 四天王寺と称すことのできるような伽藍ではないことから、四王寺と言われ、釈迦像が造られたことで四王院と言われていったということを思ったりします。

◇3, 秋田城と付属寺院
※時系列にそって見ます
*四天王寺 : 推古天皇元年(593)
*国分寺  : 天平13年(741) 聖武天皇「国分寺建立の詔」
        国分僧寺ー金光明四天王護国之寺  国分尼寺ー法華滅罪之寺
  ・東大寺 : 金鐘山寺が昇格して大和国国分寺(金光明寺)が前身(東大寺HP)、総国分寺
  ・法華寺 : 総国分尼寺
 ・西大寺 : 天平神護元年(765)称徳天皇
        金銅製四天王像の鋳造ー西大寺のおこり(西大寺HP)、四王堂
*太宰府四王院:宝亀5年(774)
       延暦20年(801)停止
       大同2年12月(808)復興
*秋田大地震 :天長7年(830) 四天王寺、四王堂舎
  和銅5年(712)ー出羽国設立
  天平5年(733)ー出羽柵を秋田村高清水岡に移す
  天平宝字4年頃(760)ー出羽柵を秋田城に改める
  延暦23年(804)ー秋田城を停廃し秋田郡を置く
 〈参考『秋田県の歴史 県史5』(山川出版社 平24・2012 第2版2刷)〉
*四王寺(石見他の5国):貞観9年(867)

 秋田高清水岡に出羽柵が移るのが天平5年ということですから、そのあとに「国分寺建立の詔」となりますが、出羽国の国府、国分寺の所在地については諸説あるようです。
 天長7年に秋田城付近に国分寺があれば、国分寺の他に四天王寺は必要でしょうか。
 国分寺があれば、四天王法を修する僧は国分寺の僧が担うことが出来ると思います。
 秋田城付近に国分寺が無いため四天王寺が造られたのではないでしょうか。
 四王堂舎とは、特別な目的の為に造られた四天王像を安置する施設であり、四天王法を修する道場ということではないでしょうか。
 その道場と四天王寺が近接しているため、四天王像を安置する施設に僧が起居する必要が無く、四天王像のみを安置した施設であるため四王堂と呼ばれたのではないでしょうか。
 西大寺と四王堂の例もあるように、四天王修法を求める事態があって、四天王像を造立し、像を安置して特別の修法をするための場所を造り、修法を勤める僧を手配する。僧は、国分寺等の僧を請うか、あらたに寺院を設けて確保することになるのではないでしょうか。
 西大寺の四王堂は、正安2年(1289)十一面観音像が客仏本尊として安置されると観音堂とも称するとのことです(「西大寺」HP)。
 現在は堂前の寺号石柱に「四王金堂 四王院」とあるそうです(「奈良の宿大正楼」HP)。
 延暦寺の四王院は、後に記すように『延喜式』には「四王堂」とありますが、四王院と呼ばれたようです。
 四天王像を安置し修法を行う施設については、四王堂・寺・院と称して、あえて四天王堂・四天王院・四天王寺とは言わないようにしているかのようです。
 四天王寺という名称は、そう簡単に名のってよいものとはされていなかったのでしょうか。
 そうすると、もろもろの経緯があったのかもしれませんが、秋田に四天王寺があることは特別のことかも知れません。
 勝手な想像ですが、国分寺が無い状態にあるので、国分寺に類する寺として四天王寺の名称が認められたのかもしれません。
 聖徳太子に関する伝承があるのも四天王寺という名称ゆえかも知れません。

※四天王修法の費用について
 『国史大系』第13巻(〔国図デ〕明33・1900)で『延喜式巻第二十六主税寮上』を見てみます。
 虎尾俊哉『延喜式』( 吉川弘文館 平31・2019 新装第六刷)によると、巻二十六主税上の巻頭に「正税帳の勘査の手続きと、その結果に基づく処置」の規定があり、「この規定を第一条として、この次に租帳勘査の規定がつづき、更に二ヵ条を間において、その後に『諸国出挙の正税・公廨・雑稲』と題する長大な一覧表がある。」とあります。
 「諸国出挙正税公廨雑稲」を見ます。
 諸国は山城国から始まり「山城国正税公廨各十五万束。国分寺料〈異体字:米+斤〉一万五千束。」とあり、続いて「嘉祥寺料一千七百卅六束四把。海卯寺料三千束。」さらに、「元慶寺料、圓覚寺料、東光寺料〈束数略〉」とあって、「文殊会料二千束。修理駅家料一千束。池溝料三万束。救急料六万束。」等、が記されています。
 続く大和国は「大和国正税公廨各廿万束。国分寺料一万束。」とあり、豊山寺料をはじめ六寺の料と文殊会料修理官舎料池溝料救急料の記載があります。東大寺は記されていません。
 気になるところでは、摂津国は「摂津国正税公廨各十八万五千束。国分寺料一万五千束。大日寺料五千束。修理池溝料三万束。救急料六万束。」とあり、四天王寺は記されていません。
 美濃国に「美濃国正税公廨各卅万束。国分寺料四万束。薬師寺料二万七千束。延暦寺総持院料四万束。同寺四王堂料四万束。文殊会料二千束。〈略〉」がありました。
 延暦寺の「四王堂」でネット検索すると「四王院跡」という記事があり、「四王堂」とはされていませんでした。その記事よると四王院の建立は仁寿4年(854)とのことですが、承和5年(838)説もあるそうです。廃絶となっています。
 このように各国に国分寺料の記載がありますが、出羽国には国分寺料の記載がありません。他に国分寺料の記載の無いのは、国では安房国のみです。
 出羽国の記載は「出羽国正税廿万束。公廨卅四万束。月山大物忌神祭料二千束。文殊会料二千束。神宮寺料一千束。五大尊常燈節供料五千三百束。四天王修法僧供養並法服料二千六百八十束。健兒粮料五万八千四百十二束。修理官舎料十万束。池溝料三万束。救急料八万束。国学生食料二千束。」とあります。
 陸奥国は「陸奥国正税六十万三千束。公廨八十万三千七百十五束。」とあって「祭塩竃神料一万束。国分寺料四万束。学生料四千束。文殊会料二千束。救急料十二万束。」とあります。
 伯耆国・出雲国・石見国・隠岐国・長門国も国分寺料の記載があり、他の寺の記載はありません。
 筑前国では国分寺料の記載につづいて「修理観世音寺料一万束。文殊会料二千束。」他の記載があります。
 諸国の記載は、薩摩国、壱岐嶋、対馬嶋まで続き、そのあとは様々な使途や規定が記されているようです。
 鎮守府公廨給云々とか太宰府處分公廨云々とか十五大寺・諸国国分二寺・諸国金光明寺安居者・東大寺年料・興福寺南圓堂料・延暦寺燈分油云々・等々とが記され、石清水八幡宮護国寺年料云々、神護寺宝塔院佛燈油云々と寺社に関する記載が続いていき、「凡伯耆国四王寺修法料稲四千四百九十束三把。用當国正税充之。」「凡出雲国四王寺春秋修法。毎季七箇日供養並燈分料。四王四前。〈割書略〉僧四口。〈割書略〉童子四人。〈割書略〉年料。〈割書略〉以正税充行。若請用国分寺僧。除二季之外供養本寺充之。」「凡長門国四王寺修法料稲四千六百六十八束四把。〈割書略〉以當国正税充之。」の記載がありました。
 省略した割書は、四王四前に続く「一前一日供飯料稲四把。粥料稲八分。餅餉料各稲三把。煎餉料油一合八勺。雑菓子四升。燈油二合。」、僧四口「一口一日供飯料稲四把。粥■料稲八分。塩一合二勺。芥子五勺。紫苔大■菜■未■酢各一合。海藻滑海藻各三両。大豆小豆各五合」、童子四人「一人一日飯料稲二把。塩二勺。海藻三分。」、年料「除春秋修法日。常燈日別二合。通計長夜短夜。所行四王供飯粥。四僧供飯海藻滑海藻塩酢。童子四人飯塩海藻等。准修法日供行之。」、長門国の割書は「三百束四王燈油料。八百六十二束四把同四王・供。並四僧童子四人食料。千七百八十二束僧四口二季法服料。千七百廿四束同僧布施料。」〈■は判読不明。字体をあらためた部分があり、当方の表示文字が誤っている可能性がある。〉という細目です。
 石見と隠岐に関する四王寺修法料の記載はありません。太宰府の四王寺修法料の記載はありません。
 石見と隠岐については、五国のうちの二国だけを修法停止にする事は無いと思いますので、この二国に何らかの出来事があったのでしょうか。
 出雲の記載に「若請用国分寺僧。除二季之外供養本寺充之。」がありますので、石見と隠岐での四天王修法は国分寺で行われたという可能性はどうでしょうか。
 先の出羽国の「出羽国正税廿万束。公廨卅四万束。」以下の記載内容となる出羽国の状況や時代が分りかねますが、伯耆・出雲・長門のように「四王寺修法」ではなく、「四天王修法僧供養並法服料二千六百八十束」と表記の違いが気になります。

※補記 : 天長大地震の前後の秋田城と付属寺院                           
*新野直吉『古代史上の秋田』(さきがけ新書 昭56)に「平安朝初期の状態を示す『弘仁式』では、『延喜式』にはない出羽国の国分寺料のことはあるが、四天王修法料はない。」がありましたので、〔国図デ〕で『新訂増補 国史大系 第二十六巻』(昭12)の「弘仁式 主税」を見ると、「出羽国。正税十四万束。公廨廿万束。国分寺料四万束。健兒粮料二万六百五十六束。」とありました。
 安房国は前闕部分になるようで、見当たりませんでした。
 『秋田市史 第七巻 古代 資料編』(秋田市 平成13年)の第二編第一章の史料番号122に「天長七年十月十五日乙卯/出羽国の出挙唐稲と公廨稲を増額させる。(類聚国史 巻八十三)」があり、これにより出羽国の正税稲二十万束・公廨稲三十四万束になったとあります。このことで延喜式の正税稲・公廨稲の数字があるようです。
 天長大地震のあとのことになるわけです。
 大地震の時は「弘仁式 主税」の状態にあるとすれば、出羽国に国分寺は存在しているのかもしれません。
 国分寺があるとすると、秋田城の近くには四天王寺はあっても国分寺は無いということになるのでしょう。
*天長七年正月の大地震の頃の秋田城はどのような状態であったのでしょうか。
○『秋田城跡ー政庁跡−』(秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所 平成14年・2002)によると、「秋田城の政庁の遺構期については」「これまでT期からY期の設定が考えられている。」
 T期は「秋田『出羽柵』の創建期になる。」
 U期は「始まりは8世紀後半の前葉と考えられる。終りは〈略〉8世紀末〜9世紀初頭と考えられる。」「U期の政庁は焼失したと考えられる。」
 V期は「政庁域全体に整地作業を行い、全体的な改修を行っており、変遷における大きな画期」となっていて、V期の「始まりについては8世紀末から9世紀初頭頃と考えられる。
 また終りについては明確な根拠はないが、天長7年(830)の出羽国の大地震の被害影響による建て替えによる可能性が考えられる。」とあります。
 W期は「存続期間等も考慮し、AとBの2小期に区分される。」とし、A期の始まりを9世紀第2四半期以降、B期の「終りについては9世紀第3四半期以降になり」「元慶2年(878)の俘囚の反乱による焼失によるものであることが想定できる。」
 X期は「大規模な火災による焼失等、元慶の乱で受けた被害を復興した時期と考えられる。区画施設および門の構造や建物配置なども大きく変わり、変遷における大きな画期となっている。」
 終りは「10世紀第1四半期頃と考えられる。」
 Y期は「政庁の最終末期」、「終末については明確ではないが」「10世紀中葉頃に収まると考えられる。本期が古代における政庁跡の連続した使用としては最終期となると推察される。
 そして「この中で大きな画期は、U期〜V期の築地塀から一本柱列塀への変遷であろう。この変化は、外郭においても同様に認められる。時期的には〈略〉8世紀末から9世紀初頭と考えられる。」
 この時期は「秋田城の停廃問題や、河辺府に機能を移した上で、郡制に移行しようとした大きな変革期である。このように宝亀年間から延暦年間にかけての一連の政治的背景が、本来の秋田城の機能を河辺府に移し、秋田城制を存続しつつ、より実務制を備えた郡制に移行したことによって政庁や外郭の区画施設を視覚重視の築地塀から実用的な材木塀へと変化させたものと考えられる。」という見解が示されています。

○『秋田城跡Uー鵜ノ木地区−』(秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所 平成20年)を見ます。
 「鵜ノ木地区」とは、「史跡秋田城跡における位置関係で見た場合」「城外南東側一帯にあたり、地区中央南側の比高差5〜8m、標高40〜45mの小高い丘部分を中心にして秋田城跡に付属する古代の建物群等の施設が検出されている。」ところとのことです。
 第Y章考察・第3節の「鵜ノ木地区の変遷」から見てみます。
 鵜ノ木地区は「古代以降おおよそ6時期の変遷が把握」されており、変遷上の画期としては、T期(創建)からの地区中央建物群に新たな建物群による新たな施設を付設するU期、地区中央建物群のプランを大幅に変更し全体的な改修を行うと供に、地区北部や東部の利用状況も変化したV期があげられる。各遺構期の年代からは、それら鵜ノ木地区中央建物群を中心とする遺構群の変遷と画期が、秋田城の外郭区画施設や政庁などの主要施設の変遷およびその画期に対応していることが把握される。またそれらの変遷と画期は、文献史料上の記事に示される事件、政治的・社会的背景や動向に関連するものとなっている。」
 T期の建物郡の創建時期は「天平5年の秋田『出羽柵』創建時期まで遡ることが把握される。」
 T期の終りは「8世紀の第3四半期頃となり」、想定年代としては「『秋田城』への改称と改修がなされた天平宝字年間の西暦760年頃が考えられる。」
 建物群の性格は「寺院となる可能性が高い。」「鵜ノ木地区に秋田『出羽柵』創建当初より、付属寺院が存在した可能性が高い。」
 U期は「T期の主要施設の一部を改修し付属施設を加え充実を図るとともに、新たに東側に建物群を増設・配置し、建物群全体に新たな機能を付加したことが理解される。」
 新たに増設した東側建物群は「特異かつ優れた構造の水洗便所を渤海使節などの大陸からの来訪者が使用した可能性が指摘される」
 それらから「従来の寺院としての機能に客館機能を付加した、寺院兼客館としての性格が指摘される。」
 U期の終りは「8世紀末から9世紀初頭に位置付けられる。」「『日本後記』延暦23年(804)条に見える秋田城停廃問題が起きた頃と考えられる。」「U期の建物は火災により焼失し、廃絶していると判断されるが、秋田城の建物火災についての文献史料上の記録は、元慶2年の元慶の乱時以外は見あたらない。しかし、政庁調査や焼山地区建物群の調査では同時期の建物が火災により焼失しており、秋田城全域に火災が及んだ可能性が指摘される。」
 V期は「地区中央建物群全体の基本プランが大きく変更され、建物の構成・配置・方位等が変わる。」「地区の中心施設である中央建物群V期段階における、東側建物群の消滅と堂風建物を中心とする建物群への集約は、秋田城の外交施設としての役割が変化したことにより、客館(迎賓館施設)を要しなくなり、一堂形態の寺院へ機能が変化、集約したためと考えられる。」
 V期の開始は「外郭区画施設や政庁など城内主要施設の大改修が行われた外郭・政庁第V期の開始、8世紀末から9世紀初頭の大改修に対応すると考えられる。」
 終りは「『類聚国史』天長7年(830)条に見える天長大地震によるものと考えられ、その地震により倒壊した『四天王寺』にV期建物が該当するものと考えられる。」
 W期は「地区中央建物群は、仏堂である四面庇堂風建物を中心とする基本プランが踏襲される。」 中心建物を中心として「一帯が柱列塀の区画施設により方形のプランで区画されるようになる。この段階になり、区画施設により寺域が明確化する。」「鵜ノ木地区における宗教的性格がもっとも強まる時期となる。」
 W期の開始は「天長大地震に伴う被害の復興によるものであり、政庁第W期の開始に対応すると考えられる。」
 終りは「元慶の乱に際する秋田城主要施設の焼失によるもの」と考えられる。
 X期は「地区中央では、建物や区画施設が確認されなくなるが、削平により不明となっている前期建物群の南半分または周辺に寺院建物が存在した可能性を残す。地区全体でも遺構数が減少し、地区北部と中央の一部を除き利用されなくなる。地区中央を中心とした鵜ノ木地区の利用状況が大きく変化する。」
 X期の開始は「元慶の乱に伴う被害の復興によるもの」と考えられる。
 終りは「10世紀前半代、政庁Y期のうちに収まるものと考えられる。」
 Y期については「鵜ノ木地区では、10世紀後半以降に明確な遺構は検出されなくなり、平安時代後半の実態や利用状況は不明確となる。これは、古代の秋田城全域に共通している。」とあります。
 同章第4節「鵜ノ木地区の機能と性格」を見てみますと、「秋田城の付属寺院である『四天王寺』に比定される遺構群は、現在までの調査では鵜ノ木地区以外では確認されておらず」「寺院と判断される鵜ノ木地区中央建物群が、それに比定されると判断される。」
 同章同節の項目「中世における鵜ノ木地区の機能と性格」に、「鵜ノ木地区には、12世紀末から13世紀中葉を中心として14世紀までの年代に位置づけられる中世遺構群が検出されている。地区中央と北部は総柱式掘立柱建物と井戸からなる居住域が主体で、一部に焼土遺構を伴う。また、地区西側は墓壙群よりなる墓域として利用される。地区全体として、居住域及び生産域と宗教域からなる複合的な利用状況を示している。
 史料上では中世前期に鵜ノ木地区を含む寺内地区に古四天王寺や湊三カ寺といった寺院が存在した記録があり、墓壙群の存在や懸仏の出土等と合わせると、寺院と関係を持つ、寺院周辺の居住及び生産区域としての性格が指摘される。」
 「古代の鵜ノ木地区と密接な関係にあった『秋田城』については、中世にもその名称が継続して認められ」「官職名としての出羽城介、施設名としての秋田城の存在を示す史料がある。」「しかし、現時点で秋田周辺では古代秋田城跡周辺以外に遺構や出土遺物から中世に行政・軍事的拠点となり得る地域は確認されておらず、鵜ノ木地区を含む高清水丘陵上にも中世秋田城に比定される行政施設や防禦施設は確認されていない。」

 長々と引用しましたが、政庁とそれを囲む外郭施設の範囲を秋田城とすると、付属寺院は秋田城の南東側の鵜ノ木地区に存在したようです。
 鵜ノ木地区の中央建物群が付属寺院にあたるようです。
 天長大地震前の秋田城と付属寺院は、ともにV期の遺構期になり、政庁域が全体的に改修され鵜ノ木地区中央建物群全体の基本プランも大きく変更された時期となります。
 U期からV期への移行は、秋田城と付属施設で大きな改修が行われた事を画期としたものになり、「延暦23年(804)条に見える秋田城停廃問題」「郡制移行」にともなう改修となるようです。
 秋田城の停廃と郡制移行がなぜ大きな改修になるのかということについて、熊谷公男は「秋田城の成立・展開とその特質」(『国立歴史民俗博物館研究報告 第179号』2013年)〈 file:///D:/MYBOX/Downloads/kenkyuhokoku_179_08.pdf 〉)
に「三十八年戦争の勝利をほぼ手中にした律令国家は、陸奥・出羽両国にわたる城柵支配の再編、強化策を断行する。それが延暦二十一年(802)の胆沢城、翌二十二年の志波城、払田柵の造営と、延暦二十三年の『停城為郡』という決定を受けて着手されたとみられる秋田城の大改修である。この事実をふまえると、『停城為郡』とは、この時期に組織的に実施された城柵支配の強化策の一環をなす政策にほかならず、その結果として長年にわたって懸案とされてきた秋田城の『孤居北隅、無隣相救』という特異な立地がようやく解消に向かい、特殊な城制から通常の郡制への移行も行われて、秋田城の城下支配が格段に強化されることになったのではないか、というのが筆者の見通しである。」を記しています。
 U期の「客館機能」とV期の「客館(迎賓館施設)を要しなくなり」については、『秋田市史 第一巻』(秋田市 平成16年・2004)の「第六章第三節・5秋田城と渤海」に「延暦十七年(798)の第十四回使以降、渤海使が出羽に来ることはなくなる。日本政府は、すでに八世紀後半から渤海使が『北路』(出羽・北陸などに着岸する航路)を取ることを禁止し、太宰府から入国するよう再三にわたって要求していた」「延暦二十三年(804)六月には、能登国に渤海使滞在のために『客院』が造られており」「渤海使の受け入れは、出羽に代わって能登以西の日本海沿岸諸国が担うことになるのである。」があります。
 W期は天長大地震からの復興から元慶の乱での秋田城主要施設の焼失までで、鵜ノ木地区中央建物群の宗教的性格が強まる時期とされているので、地震で倒壊した四天王寺や四王堂舎なども復興されたのではないでしょうか。
 秋田城政庁域のX期及び鵜ノ木地区の「地区中央では、建物や区画施設が確認されなくなる」X期に、四天王寺等はどうしたのだろうかと思います。
 また、「延喜式・巻二十六主税上」の記載の頃にあたるのは何期の遺構期になるのでしょうか。
 延喜式に出羽に国分寺料が見えないことから、国府近くにあったであろう国分寺はどうしたのだろうかと思います。嘉祥三年(850)の大地震やそのことからと思われる仁和年間の国府移転問題などによって国分寺が存在しなくなっていたのでしょうか。
 「四天王修法僧供養並法服料二千六百八十束」がありますが、「凡伯耆国四王寺修法料稲四千四百九十束三把」や「凡長門国四王寺修法料稲四千六百六十八束四把」の細目と比べると興味深いものがあると思います。
 「四天王修法」をおこなう僧供養と法服料で、「四王寺」での修法料に含まれる細目の飯料や燈油などが無いのは、施設維持費を計上しなくてもよい場所での修法なのでしょうか。
 国分寺料が見えないことから、国分寺以外のところで「四天王修法」を行うことによる費用記載でしょうか。だとすると、その修法の行われる場所はどこなのでしょうか。
 これらはとんちんかんな想定なのだろうか。


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