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 外編  3  四王寺印と古四王寺の印鑰祭


◇はじめに
 大山宏は「古四王神社の源流を尋ねて」(『秋田郷土叢話』昭9・1934)において、「調査し得た」古四王神社の存在する地方を列挙して「以上は皆越後の古志以北」としています。
 そのあと、「ここに不可解な事實が二件潜んでゐる」として、「天台宗園城寺聖護院院家積善院に古四王寺祭といふものがあること、わが秋田より移ったもの」と「石見国邑智郡川戸村大字小田大亀山末古四王寺大體拜立の銘あること」を示し、「越後の古志以北」から大きく離れた京都市と島根県江津市の例を取上げています。〈太字:原文は大山による傍点〉
 本稿では京都市の例について検討します。 
 なお、文献の引用にあたっては、表示の関係から旧字・変体かな・旧かなを改めた部分があります。また、振仮名は〈カギ括弧〉に記し、傍点は太字とします。/斜線は改行を示したい場合に用います。漢文調表記の返り点を省略しています。■四角は判読不能ないし表示不能文字です。

◇大山宏「秋田城阯について」を見ます。〈以下「大山論文」と表記〉
 (『秋田県史蹟調査報告 第一輯』秋田県 昭七・1932 国立国会図書館デジタルコレクション)
 「秋田城阯に就いて」の「第一編第六章 四天王寺及四王堂舎」中に、「古四王神社の源流を尋ねて」に記された「天台宗園城寺聖護院院家積善院に古四王寺祭といふものがあること、わが秋田より移ったもの」の元になる記述があります。

◎この章は「天長七年〈830〉正月三日辰刻に秋田城に大地震があり、其の公報の中に、〈改行〉大地震動、響如雷霆、登時城郭官舎、并四天王寺丈六像、四王堂舎等悉皆顛倒。〈改行〉といふのがある。是に由って観れば、秋田城内には四天王寺、並に四王堂舎があったのである。此の四天王寺や四王堂舎を尋ね当つることが出来れば、秋田城の位置は自ら明かになる。此のやうな見地からして確かな文献の引証によって時代を追うて跡づけて見よう。」から始まり、「元慶二年〈878〉夷俘反乱の際の報告に焼損秋田城・並郡院屋舎・城邊民家〈略〉などゝあれば、四天王寺並に四王堂舎も回禄の災を免れなかったであらう。けれども平定後間も無く復興されて、凡厥塁柵楼塹皆倍旧制とあれば、四天王寺並に四王堂舎も輪奐の美を極めたに違ひない。其の事は延喜式出羽国正税の條下に四天王修法僧供養並法服料二千六百八十束が計上してあるので推測される。」と続きます。
*この章において大山は古代秋田城の位置を求めるための一方策として天長時代の四天王寺・四王堂舎の変遷を文献史料によって跡付けることを試みるようです。
 古四王神社に関する研究も秋田城の探求から始まるようです。

○大山は続けて、史料の所在を確かめ得ない状態であるが棄て難く収録することにしたとして、「寛元三年乙巳二月十六日の識語ある聖徳太子伝私記」に「天王寺 出羽国秋田城在之、御在御印、半令量給、半者津国天王寺在之」の「如き記載があるといふことを聞いたことがある。」を記し、この記載は「誤字・脱落があるのか十分判読が出来ない」を記しています。

○次に、仙北郡神宮寺町縣社八幡神社の棟札に「干時長享三〈1489〉己酉拾月廿九日」や「筆者秋田城四天王寺内黄金寿院 僧□□〈ママ〉」がある事を記し、「四天王寺は之を打切として、慶長年中再興までは物に見えないのである。然るに吉野朝時代に、古の字一個加はつた古四天王寺と云うのが陸中国新渡戸文書に見えて居る。これは古四王神社研究に重要な文書であるから全文を採録して置く。」として、「出羽国秋田城古四天王寺別当助法印恒智代」に始まり後半に「右当寺者、為聖徳太子御建立之地、天下無双霊場也、而成遍僧都以来、至当寺務恒智法印、六代相伝当知行無相違者也」があって「延文元年六月〈日にちの記入無〉日」で終わる文書が記されています。
*文献では、「天長七年」に「四天王寺」の存在があり、「延文元年」に「秋田城古四天王寺」という四天王寺の頭に古のある記載があり、時代が下った「長享三」年の仙北郡の神社棟札には「秋田城四天王寺」と記されているようです。
 大山は「此の古四天王寺が四天王寺たることを証明し得れば、四天王寺は天長の昔より昭和の今に至るまで連綿として寺内丘陵に奉祀されつゝあることを知り、随って此處が秋田城址であることも証明し得らるゝのである。」を記しています。 
 古四王神社に関連する年代関係の資料についての検討は、別稿としたいと思います。
 〈註「僧□□〈ママ〉」:『秋田市史第八巻 中世史料編』に「僧賢□」、『社寺の国宝・重文建造物等棟札銘文集成―東北編―』(国立歴史民俗博物館 平成九年三月)に「僧((カ))□□殿」(ルビ(カ)は判読のあやしい文字〉〕

◎積善院の秋田祭
 大山論文はこのあとに積善院の秋田祭・印鑰祭についての記述になります。

○「天台宗園城寺聖護院院家積善院に秋田祭と云うのがある。一名を印鑰祭と云う。祭りの対象たる本尊は方一寸七分五厘の古銅印で四王寺印の四字が陽刻してある。」とあります。
 大山「古四王神社の源流を尋ねて」で京都市の例に記されていた「積善院に古四王寺祭」は、ここでは「積善院に秋田祭」と記してあり、それを一名「印鑰祭」とも言うとのことですし、「四王寺印」という古銅印を祭の対象としているとあります。
 続いて、「此の古銅印の由来に就いては同院所蔵の古四王寺祭礼之作法表白に」として引用文「年並不変御勤、太簇二八之朝点、修厳重難思之祭礼御事、有其旨趣、如何者夫智証大師伝青龍寺之印鎰〈ママ〉納園城寺之勝地、聖徳太子持百済国之印鎰〈ママ〉崇秋田城之霊寺、彼権化此〈ママ〉聖仁、共大権化現也、定深意有者哉、然間当寺勧主開之、合竭合之掌、集会道俗拝之、致帰命之礼、奉帰之者身心安楽、奉拝之者福寿増長」を記載しています。
 〈註:「印鑰祭」とあって「印鎰」とあるので〈ママ〉を記しました。「此」の〈ママ〉は後述する別資料に「是」とあることによります〉
 そして、「聖徳太子持百済之印鎰ということはとにかくに、嘗て秋田城四天王寺に崇めてあったことは事実に違いない。」としています。
 続けて、「此の印鎰祭には本地供と云うて毘沙門供があり、後夜寅刻日中正午初夜戌刻の三時に勤行することを以て三時供の称もある。而して此の祭礼執行の日記には古四天王寺祭、古四王寺祭、古四王祭などとある。是に由って観れば秋田城四天王寺の印鎰祭(鑰の方はどうなったのかとんと判らない)が古四天王寺祭となっているのだから、四天王寺と古四天王寺とは同一でなければならぬ。即ち延文の古四天王寺は長享の四天王寺で共に天長より脈を延いているものである。」と述べて、先の延文元年と長享三年の文献のところで記した「此の古四天王寺が四天王寺たることを証明」が積善院の史料によってなされるかのように記しています。
*大山の記述で、積善院所蔵の「古四王寺祭礼之作法表白」というものに「古四王寺祭」とあることが分ります。この祭を「秋田祭」または「印鑰祭」とも言うそうです。
 そして、「古四天王寺祭」という表記は積善院所蔵の資料であろう「祭礼執行の日記」にある文言であり、祭礼執行日記には「古四王寺祭、古四王祭など」ともあるそうです。
 「古四天王寺祭」「古四王寺祭」「古四王祭」という表記は、理由のある区別がなされているのか混用されているのか、日記に当たってみないとどのように用いられているのか判断できかねます。
 大山は「印鎰祭」が「古四天王寺祭となっている」ことを理由に、「四天王寺と古四天王寺とは同一」「延文の古四天王寺は長享の四天王寺で共に天長より脈を延いている」としているようですが、はたして理由にできるものなのかどうか疑問です。
 そして、印に陽刻された「四王寺」は、「四天王寺」「古四天王寺」とどのような関係なのかも明らかではありません。

○続く大山の記述は、「此の秋田祭は印鎰祭と毘沙門供との融和抱合したものである。毘沙門は云うまでもなく四天王の一躰でもと四天王が祭つてあつたと云うことは祭禮の作法に、本尊根本印小咒印大咒小咒の次に雙身印神咒、其の次に四天惣印明と神咒が載せてあるので明らかである。」を記しています。
 この「秋田祭は印鎰祭と毘沙門供との融和抱合したもの」については、「秋田祭」の「一名を印鑰祭」とあったこととどう関わるのでしょうか。
 また、「もと四天王が祭ってあった」のは「明らかである」というのも、明らかなことなのでしょうか。

○さらに、「徳川初期の佐竹右京大夫の文書」として「秋田城鎮守古四王大権現本地 / 釈迦四天王にも取る也、又五大尊にもとる、但不動をのぞく / 縁日 正月八日 十五日 / 佐竹右京大夫」を記して、大山は「右京大夫は義處公であらう」として秋田佐竹藩三代藩主としています。
 こちらも積善院に関連する史料のようです。
 積善院関連の史料は、四天王寺に関連する文献の重要なものになるようです。
 大山は続いて、古四王神社の祭神に関連して様々な論拠を示していますが、省略します。

 〈註:大山「秋田城阯に就いて」を国会図書館デジタルコレクションで見ているのですが漢字の細部が明瞭ではなく判読に困りました。
 『寺内町誌』の「第二編第四章 古四王神社」中に「延文元年六月」の文書及び「古銅印の由来」に関する積善院所蔵の文書などが、読みやすい活字になって収録されていましたので、ここに記載した「秋田城阯に就いて」からの引用文は『寺内町誌』の引用文と相互参照した文面です。
 ただ、両者の引用文には若干の文字に違いがありましたので、「秋田城阯に就いて」で記されている文字で記載しています。「古銅印の由来」の引用文中の下線を引いた2文字に違いがありました。
 今の時代は、コピーが簡単にできますし、デジタル技術の恩恵を受けて、インターネットで文献検索や閲覧が居ながらにして行えますが、大山宏氏の時代にこれ程の卓越した論文を書くことは驚異的な事と思います。〉

◇『寺内町誌』〈以下『町誌』〉を見ます。〈振仮名、傍点(太字)は町誌〉
 (復刻版:寺内史談会 昭53・1978 / 原本:寺内町誌編纂委員会 昭22・1947)

◎「第二篇第四章」-「8古四王神社-(四)聖護院家秋田祭」の項目に「大山宏氏の調査研究報告に、天台宗園城寺聖護院院家積善院に秋田祭というのがある。一名を印鑰〈やく〉祭と云う記事がある。」として「その大要を記すこととする。」があります。
 『町誌』では、「秋田祭一名印鑰祭の対象たる本尊は」、「『四王寺印』の四字が陽刻してある」古銅印で、「此の古銅印の由来に就いては同院所蔵の古四王寺祭礼の作法表白に」として大山の引用文と同じ部分を記載しています。
 続いて「聖徳太子持、百済之印鎰とは兎も角に、嘗て秋田城に崇めてあったことは事実に違ひなく、秋田城霊寺とあり、祭礼の名称は既に四王寺とある。而して此の祭礼執行の日記には古四天王寺祭、古四王寺祭、古四王祭などとあって、秋田城の印鎰〈いつ〉祭なれば、秋田城鎮護の四天王寺であり、これが古四天王、古四王となり、また単に四王寺とも呼んだことが、本尊の陽刻文字によって明かである。」としています。
*この「秋田城の印鎰祭なれば、秋田城鎮護の四天王寺であり、これが古四天王、古四王となり、また単に四王寺とも呼んだことが、本尊の陽刻文字によって明かである。」という部分は、大山の記述を越えた『町誌』による見解になります。
 これは論理展開にかなり無理のある記述で、どうしてそうなるのかよく分らないと思います。
 四天王寺のことを「単に四王寺とも呼んだ」とも読めますが、四天王寺を四王寺と呼ぶ事は当たり前なのでしょうか。
 「四王寺」が四天王寺の通称ないし略称のようなものであれば、正式名称ではない呼称の印を造るものでしょうか。
 「四王寺印」に陽刻された寺名は「四王寺」とあり「四天王寺」とは同じではありませんが、違いに目を向けてようとしないで、四王寺を四天王寺と同一視しているように思えます。
 四王寺と称される四天王修法の施設の存在を、山陰や太宰府に見ていますので、四天王寺ではない四王寺が秋田にもあった可能性は否定できないのではないかと思います。

○この項目の終りに「因みに此の印鑰祭に、鎰〈いつ〉(国訓特にかぎ)、鑰〈やく〉(ぢやう)のことが研究されているが、印鑰〈やく〉とは印鑑の義であり、印鎰〈いつ〉の鎰は鑰の誤用かも知れぬ。したがって印鎰祭はやはり印鍮(印鑑)祭と解すべきであらう。」とあります。
 文末の「印鍮(印鑑)祭と解すべき」は「印鑰(印鑑)祭」の誤記ではないでしょうか。
 鑰も鎰も辞書的にはカギの意があり、広辞苑(第七版)で「いんやく」を引くと【印鑰・印鎰】とありましたので、区別して扱うまでもないのかもしれませんので、「誤用」とまでは言わなくてもよいのではないかと思います
 大山は「印」と「鑰」を区別して印章と鍵としているようですし、印鑰と印鎰の両文字が記されていますので、上記の「因みに」以下の文が記されたのではないかと思います。
 印鑰と印鎰の両文字が記されているのは、史料にそのようにあるためか、大山の混用かの判断はいまのところ出来かねます。
 本稿は、地の文では「印鑰」と表記します。
 「印鑰」表記が用いられていることについては、印鑰が崇められる時代を反映してか、権威の象徴としての名称を用いるためか、「四王寺印」のみを祭る対象にしていても、「四王寺印」のことを「印鑰」と表現しているのではないだろうかと思います。
 かつては印と鑰があったのかもしれませんが。


◇ 印鑰祭に関して
*京都国立博物館の出版・刊行物に研究紀要「学叢」があり、その第3号(昭56ー3・1981)中に「資料紹介」として「『四王寺印』と印鑰祭 / 難波田徹」があり、PDF化されています。
 〈 https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/assets/publications/knm-bulletin/03/003_siryou_a.pdf 〉
 〈この資料については、桑原正史氏の新発田歴史図書館への寄贈資料によって知り、2018年9月にPDFをダウンロードしておりました。〉

◎「『四王寺印』と印鑰祭/ 難波田徹」〈以下「難波田論文」〉
※先ず、【前書き部分】を見ます。
 そこには、「現存する大和古印のなかでも、この四王寺印は優品の一つに数えられており、古印の図録などには必ず紹介されている周知のもの」で、印は「重要文化財の指定を受けているが、江戸時代の寛文年間〈1661〜1673〉以後に京都の聖護院末の積善院に伝来し、近年文化庁が購入」のもので、印の「付属の文書によって、印が使用された用途についても知りうることができる。ここでは、従来あまり紹介されなかった付属文書を公刊することに主目的がある」とあります。
 続いて、印・箱・付属文書についての案内文があります。

○印について:
 「鋳銅印で、銅質、鋳技ともに良好である。印面方形(縦五・八糎、横五・六糎、高六・四糎)鈕はいわゆる鶏頭鈕に類する形式のもので、鈕孔があり、印台は極めて厚い。印文の彫りは深く、『四王寺印』の四字を二字づつ二行に配している。書体は大和古印特有のもので、整然と配されているが、この四文字のうち『四』には篆書の崩れた趣がある。印は平安時代初期の製作にかかるものである。」とあります。
*この印章が平安時代の初期の製作であれば、平安時代初期をどこまでとするのかにもよるのでしょうが、天長七年の秋田大地震以前に作られていた可能性があるかもしれませんし、地震以後の鋳造の可能性も、元慶の乱(元慶二年・878)後の復興の頃も含まれる可能性もあるのではないでしょうか。

○箱について:
 被蓋作りの外箱(杉材)中箱(桐材)と積善院に移ってから製作された内箱(ラワン材)の三種の箱に収納されていて、内箱は印が奉懸されるように作られているとのことです。
 中箱蓋裏に墨書銘「永正元年(甲/子)〈1504〉七月十七日/新造之訖/前大僧正興雅(俗年六十六/法搆ワ十二)」があります。〈(割/書)〉
 外箱蓋裏墨書銘は「御本尊箱」。外箱底裏墨書銘は「大永四年(甲/申)〈1524〉/正月十六日/至明治三年従/大永弐百四拾八年」です。
 これについて難波田は「後二行は明治三年に記されたものであり、この大永から明治の期間は『参百四十八年』の誤りと思われる。」と記しています。
 かぶせるフタの中箱・外箱は、積善院に移るより前に作られた箱ということになります。
 この印と箱については、大正十三年の沖野安良氏の『考古印譜』にも紹介されているとして、そこには「京都聖護院積善院所伝/羽後国南秋田郡古四王寺の旧蔵(現在古四王神社なり)/秋田祭作法記ニ毎年一月元旦より/二周間此の印を本尊として祭り/鮭昆布餅を献して満願の日ニ寺僧/分けて頂くと云ふ」とあって、「これから紹介する『秋田祭作法記』の記述を要約している。」と記しています。
 当方では『考古印譜』については確認できていません。

○付属文書について:
 「この印に付属する五件の文書は、/(一)秋田祭作法 宥雅筆/(二)印鑰/(三)古四王寺祭日記 宥雅筆/(四)古四王祭日記草 晃諄筆/(五)古四王寺次第記/の五件で、これらによって、四王寺印の由来、性格などが理解できる。」とあります。
 なお、「(五)古四王寺次第記」は、「(1)秋田祭之事 古四王寺」「(2)古四王寺〈割書〉双身ノ三身/秘印事」「(3)物忌令」「(4)秋田ノ本尊ノ名」という四文書よりなっています。
 案内文の引用を続けると、「四王寺印は、寛文年間ごろに積善院に移されたといわれているが、もと秋田県の四王寺に伝えられていた。このことは、宥雅の『秋田祭作法』に、『智証大師ハ伝青龍寺之印鑰ヲ納玉フ園城寺之勝地ニ聖徳太子ハ持メ百済国之印鑰ヲ崇候ス秋田之城之霊寺〈返り点略〉』とあり、聖徳太子持、百済国印鑰のことはともかく、かつて秋田城の霊寺、すなわち四王寺に崇められていたことは事実のようである。」と記しています。
 続く記述で「この秋田城は出羽の蝦夷鎮圧のために設けられたのであり、この秋田城鎮護の目的で造営されたのが四王寺であったと考えられる。この四王寺のことについては、これまでにもよく引用されているが」として、『類聚国史』天長七年正月の秋田大地震による記事を「出羽国駅伝奏云」から「城郭官舎并四天王寺丈六像。四王堂舎等。悉皆顛倒。」までと『延喜式』巻二十六主税上の「出羽国正税」記事中の「四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束」を引用して「四王寺の存在が確認できる。」としています。
*難波田が引用した部分には「四天王寺」「四王堂」「四天王」とは記されていても、「四王寺」とは記されていないにもかかわらず、「四王寺の存在が確認できる。」としていますが、四王寺と四天王寺を区別しない記述でよいものでしょうか。
*最後に「なお、この四王寺印が積善院に移ったことについては、古四王神社の神宮寺が聖護院末(積善院は聖護院の塔頭)であり、慶長十八年五月、幕府は聖護院を修験道本山法頭とし、本山派の山伏を直営せしめており、この関係で積善院に移ったと考えられている。」と記していますが、関係を述べただけで具体的な四王寺印移動についての説明にはなっていないと思います。

 付属文書を見ていく前に、先行論文に当たっておきたいと思います。

◇先行論文
☆中村直勝「聖門所蔵『四王寺印』考」〈以下「中村論文」〉(所収『芸文』第拾八年第八号 昭2・1927:国会図書館デジタルコレクション-送信サービス)に以下の記述がありました。
 「大正十年十月八日の事」「京都市の聖護院御殿に於いて」、いろいろ拝見していたとき、「当時の門跡であった岩本光徹老師から、外にも面白いものが一つあると言って示されたものがあった。」として、「その或る品物」について記しています。
 先ず、外箱は「六寸五分平方、高さ六寸七分」で、その底にある墨書を記して〈墨書略〉、墨書の「至明治三年〈略〉」のところに「○異筆」と記してあります。
 難波田論文の「後二行は明治三年に記されたもの」の根拠が分ります。
 次いで、「更にその中に第二の外箱がある。」と記し、「それの蓋(外経五寸三分平方)裏」にある墨書の記録に「権大僧都興雅」とあり、難波田論文の「前大僧正興雅」と違っています。
 次いで「更にその中に内箱があって、これは観音開の戸を有する屋根形の箱であったと記臆する」の記述と、内箱に「幾重に重ねられて居るか判然せない程糸目も乱れた破れ金襴に包んだ堅いものがあった。」「その包んだ金襴を丁寧に開けると、中から古色真に掬すべき一顆の古銅印が現われたのであった。それが今言わんとする四王寺印であったのである。非常に奇異な思いをして暫時いぢつて居ったけれども、当日は、これを調査すべき何の用意もなかったので異日を期して他の方の調査を遂げて帰った。」とあります。
 そして「それから二年有余の歳月を経て大正十三年二月五日再び御殿に推参して、その四王寺印を親しく測定し、陰影を貰った。」として挿入図が載せられています。
 次いで「それからこれに就て、いろいろ記録文書を求めた所左の六点を得た。/一、秋田祭次第作法 一通/二、四王寺秘印 一通/三、秋田本尊記録写 一通/四、秋田祭作法 一帖/五、古四王寺祭日記 一冊/六、古四王寺物忌令写 一通/右のうち第一及第二のものは年記がないけれども、共に徳川初期のものであり、第三のものはやゝ古く戦国時代のものと思はれ、第四のものは折本であるが、その奥に/右古王寺〈ママ〉祭礼之作法者、寛文九年三月十日、予灌頂、翌年道晃親王於座下受之則以古本令書写畢 / 迅疾金剛宥雅 /とした奥書のあるものであり、第五の祭礼日記は、寛文十一、十二、十三延宝二、三、天和四、貞享四、五、元禄八年等の祭日記であって、表紙に「宥雅」の自署がある。宥雅が書き始めて、以来書き継いだ記録である。第六のものは弘治三年正月十四日の日附ある物忌令であって、もと古四王本尊(即ち前記の銅印の事を斯く称す)の箱中にあったものゝ写である。これだけの材料からして、少しくこの古銅印の性質を考察して見たいのである。」と記して、以下の記述を続けています。
 中村は、銅印は「平安朝―いくら遅く見ても鎌倉以後の時代には降らない古さを有するもの」、「この印章を本尊と称する『秋田祭』なるものが行われたものである事」を記し、「その秋田祭なるものは、毎年正月元日後夜時から行われる『古四王本地供』に始り、十六日後夜に至って結願となるもので、その間、毎日本地供三時之行法をやり、日中時に御鏡餅を備へ、観音経を五巻又は七巻読誦する事を例とする。殊に十三日夕方からは、更に改火、用行水となって、道俗共に参籠し、他のものをして入堂せしめない。而して十六日夕方に至って結願に到ると、その時に始めて神體を取出し、九重ある袋の外部二重だけを解いて、参籠した道俗が之を拝するのである。又その前日十五日には、初夜の行はてゝ後、三杯の鏡餅の上に昆布二枚を重ね、その上に干鮭一本を供えるが、結願のとき、これらの供物を参籠の僧侶に分配し、もし残れば辰巳の角に埋んでしまう規定があり、その道場は護摩堂を用いてはならないとされて居る。茲にいう毎日三時の本地供というのは毘沙門供であるという事を記して居る(第一、秋田祭次第之事)のは、最も注意に価すると思う。」と秋田祭の次第の記述があります。
 さらに、「『秋田祭作法』の中にある表白の中に/(前略)修祭礼御事、有其趣旨、如何者、夫智証大師傳青龍寺之印鎰、納園城寺之勝地、聖徳太子持百済国之印鎰、崇秋田城之霊寺、(後略)/といふ事を申して居るので、秋田祭とは、この印鎰の神の祭礼に外ならぬ事を知り得るのである。」を記し、「茲まで記して来れば、この古銅印はもと秋田城の関係のあった四王寺の印章である事は明らかであるが、然らば秋田城にいつ四王寺が創造されたであらうか。」として、貞観九年〈867〉の「八幅四天王像五鋪を造らしめて伯耆・出雲・石見・隠岐・長門に下し国司に下知し」た例、及び天長七年〈830〉の大地震の例などを記しています。
 「この銅印を『神』として崇拝する思想に就て」の記述〈記述内容-略〉があって「この古銅印が印鎰神として、行法の本尊として、幾星霜の間、僧俗信仰の対象であった事実も、不充分ながら了解し得ると思ふ。」と記しています。
 最後に、寺内村の古四王神社に関する記述がありますが、省略します。

*六点の記録文書の年代に関する記述が気になりますし、難波田論文の五件の付属文書とどのような関係にあるのでしょうか。
 また、箱に関する事などは、後述します。
 中村論文は、短いのですが、非常に興味深い文献と思います。
 「四王寺印」研究はここから始まったのでしょうか。
*大山「秋田城阯に就いて」で「青龍寺之印鎰」「百済国之印鎰」とある所は、中村「聖門所蔵『四王寺印』考」でも「印鎰」とありました。
 難波田論文では、共に「印鑰」となっています。
 その難波田論文の最後に「秋田祭作法 宥雅筆」とある文書写真が載っています。
 また☆ウエッブサイト「銅印『四王寺印』-文化遺産オンライン」に、「秋田祭作法 宥雅筆」の「太簇二八之朝〜福寿増長爰処」までの写真が載っていますので、それらを見てみます。
 〈 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/546405 〉 
 それによると「印鎰」ではなく印と「金遍に八一八皿ではなく益のような文字の皿に横棒が入っている文字」が記してあり、「青龍寺之印鎰」のところにヤクとフリガナがあります。
 活字化に際して、原文に近い表記を選択するならば「印鎰(ヤク)」となると思いますが、一般的には「印鑰」と表記されているようです。

☆篠崎四郎『大和古印』(葦牙書房 昭16・1941:国会図書館デジタルコレクション-送信サービス)の、
「三、大和古印 ハ、印譜解説」中の「四王寺印」の項目に、「京都聖護院の寺宝」、「此の印は秋田城の四王寺所用で、平安朝頃の製作に係る。」「本古印は江戸時代に、古四王神社別当寺が聖護院末寺であった因縁から、住僧の往来等に依り将来されたものと思われる。」があります。
*「江戸時代に、古四王神社別当寺が聖護院末寺であった」とあります。江戸時代というのは、いかがなものでしょうか。
 この古印は「古四王神社別当寺」にとっても寺宝と思いますが、それが本末関係による往来等によって移されるようなものなのでしょうか。

☆『日本の古印』(木内武男編 二玄社 昭39・1964)中の、
「圖版解説」にある「(重文)四王寺印」には「京都 積善院(しゃくぜんいん)蔵」とあり、寸法と「平安時代」とあって、「銅質・鋳造ともに良好であり、縁■を帯びる。鈕は三角柱状の弧鈕で鈕孔を有し、印台は極めて厚い。印文の彫りは深く、書体もまた古拙であり、整然として雅趣に富んでいる。」とあります。〈■は、金編に肅:シュウ さび U+93FD 〉
 また「古四王神社の別当寺が聖護院末であり、また積善院が同じく聖護院の塔頭であることにより、寛文頃本院の有に帰したものであろう。」と四王寺印が移ったことを記しています。
 別当寺と聖護院の関係を示したもので、印章が移った理由を関係に求めるしかなかったのでしょうが、ありきたりな記述と思います。
 寺宝にあたるものを移すというのは、その寺の存亡に係わるような時ではないかと思いますので、なにか重大な理由があるのではないかと思います。
*文末に「なお木製の函に『永正元年甲子七月十七日新造之訖、権大僧都典雅云々』の墨書銘がある。」と記されていますが、中村論文の「権大僧都興雅」とは一字違いですが、難波田論文の「前大僧正興雅」とは異なります。
 「新造之訖」とあって、現在ではなく「前大僧正」を持ち出すのは、どうなのでしょうか。
 「権大僧都」であれば、天台宗を思わせ、付属文書中の「智証大師云々」の事からも、この読み方のほうが可能性があるように思います。

☆『日本の古印』収録の、
木内武男による「日本古印の沿革」の「三 令格時代の印章 (2)公印」に「奈良時代以降官司の印が権威あるものとなるにしたがい、神社・寺院なども官司に做つて印を用い、中には勅宣によって給付されたものもあった。官印に準じた公印として、僧網印・神社印・寺院印・その他給付の記録はないが官印の性格にもっとも近いものとして、国倉印・郡印・郷印・軍団印などがある。」、「寺院印には、宝亀二年はじめて大安・薬師・東大・興福・新薬師・元興・法隆・弘福・四天王・崇福・法華・西隆の諸寺に給付されたことが記されている。このほか多くの寺印がみられるが、とくに勅願寺の印はとりわけ官印的性格を有したことであろう。」があります。
 摂津国の四天王寺に寺院印が給付されたようです。
 同書の「図版」には、これら給付の寺印は掲載されていません。
*また、同じく「日本古印の沿革ー五 印章に対する信仰」に「印章は現代にあってもなお重要な使命をもっているが、古代においては神宝のごとく貴重なものとされていた。」から始め、官印のうち内外印について述べ、次いで「諸国印にあっては、国府の所在地には印鑰社(印役社)が置かれ、国司の印と府庫の鑰とが祭祀されていたという。」「神社印についても、単なる神宝としての意味からだけでなく、またその印そのものに特殊の観念を有していたことが分る。」とあり、伊勢太神宮の例などが記されています。

☆荻野三七彦「日本上代の印章」(所収『古代学』第十三巻第二号 昭41/1966:国会図書館デジタルコレクション-送信サービス)に、
「『四王寺印』と印鑰祭」の項目があり、そこに『日本の古印』の図版解説からの引用、大山宏「秋田城阯について」から印鑰祭に関する引用があります。引用には、大山が「聖徳太子伝私記」の記載として取上げた部分は含まれていません。
 荻野は「私が従来から疑念を持ち続けていたことは、私に関係の深い例の法隆寺の顕真得業の著した『古今目録抄』中の次ぎの記事である。それは同書下巻に(〈割書〉拙著同書『考定本』昭和10年刊では85頁下段)、四天王寺 出羽国秋田城在之、御印半令置賜、残半者津国天王寺在之、とある。」を記しています。これは「聖徳太子建立46カ寺のことに関する記事の一部として記したものである」とのことです。
*「古今目録抄」は「聖徳太子伝私記」とも呼ばれているようです。
 「聖徳太子伝私記」(「古今目録抄」)とその記載内容については、後述したいと思います。

◇四王寺印の移動について
 付属文書を見る前に、四王寺印が聖護院の院家の積善院に移った事について見てみます。

○江戸時代の「古四王神社別当寺」は「東門院」と思われます。
 『町誌』によると、「元禄三年御改秋田六郡寺院調/『亀甲山四天王寺東門院、開基聖徳太子、開山不分明、再興開山宥哲法師、従是代々宝鏡閑居所ト成ル。慶長十三年戊申歳建立。新義派。本寺宝鏡院。当寺、末寺、門徒無之』」とあり、同書項目「亀井家文書」には「古四王宮別当亀甲山四天王寺東門院世代慶長年以前焼亡不詳」とあります。
 「宥哲」については、「中興初代/宥哲 如意山台幢寺宝鏡院八世」で慶長七年の佐竹氏の「秋田エ封遷ノ時従テ」下り、慶長十一年に「寺内村東門院ニ閑居同院ヲ兼務古四王宮別当職をヲ命セラル」とあり、慶長十一年に東門院に移っているようです。
 慶長十三年「建立」とありますので、東門院を改めて建立したのでしょうか。
 東門院の再興、建立、古四王宮別当職とあるこれらの事柄は佐竹氏の秋田移封後のことであり、それ以前の東門院世代については「慶長年以前焼亡不詳」とあります。
 慶長八年からは江戸時代に入るので、慶長十一年に宝鏡院八世宥哲が東門院に閑居し古四王宮別当になるまでは、東門院は聖護院末であると言えるかも知れませんが、再興東門院は新義派とのことですので聖護院末寺にはなりません。
 江戸時代に古四王神社の別当寺が聖護院末寺であったと記すと、誤解を招くと思います。

○付属文書「(4)秋田ノ本尊ノ名」
 難波田論文の付属文書「(五)古四王寺次第記」の「(4)秋田ノ本尊ノ名」は、「古キ写/秋田城鎮守/古四王大権現本地/尺迦四天王ニモトル也/五大尊ニモトル但不動ヲ/ノソク/ 御縁日/正月八日十五/佐竹右京大夫」とある文書です。
 大山論文や『町誌』では、佐竹右京大夫は、佐竹氏第三代義処公ということです。
 この文書が三代藩主によるものとすると、承応三年(1654)従四位下右京大夫に叙任し寛文九年(1669)に侍従にすすみと☆『新訂 寛政重修諸家譜 第三ー巻第百二十九』(続群書類従完成会 昭39・1964)にありますので、この文書の事柄はこの間のこととなります。なお藩主になるのは寛文十二年です。
 積善院の宥雅が、付属文書の「(一)秋田祭作法」を書写したのが、中村論文にも記されていますが、「(一)秋田祭作法」の奥付に「右古四王寺祭礼之作法/者寛文九年三月十日予/灌頂翌年道晃親王/於座下受之則以古本/令書写畢 / 迅疾金剛宥雅」とあることから、寛文九年の事でしょうから、承応三年以降寛文九年までに四王寺印と関連文書が積善院に移ったことになります。
 佐竹右京大夫が三代藩主のことであれば、「(4)秋田ノ本尊ノ名」の書かれた時と積善院に印章と文書の移った時がいくらも離れていないことになります。
 そうであれば、その文書はそう古いものではないと思われるのに、「古キ写」とあるのは何故だろうか、「古キ写」文書は何時何処で書かれたのだろうか、という疑問が生じます。

*『町誌』によれば、慶長七年(1602)の佐竹氏の秋田へ封遷の時に従った宝鏡院八世の宥哲が、慶長十一年に「寺内村東門院ニ閑居同院ヲ兼務古四王宮別当職をヲ命セラル」とのことです。
 久保田藩初代の佐竹義宣公は、『寛政重修諸家譜』によれば、天正十八年〈1590〉に「従四位下侍従に叙任し、右京大夫となる。」とあります。
 同書に、慶長七年〈1602〉9月「秋田郡土崎の湊城にいたる。八年五月同郡久保田に新城をいとなみ、九年八月二十八日に彼城に移り湊城を破却す。」があり、急速に藩体制を定めています。
 寛永三年〈1626〉に従四位上中将に叙任されています。
 久保田藩の初期の慶長十一年に東門院に古四王宮の別当を命じたのは初代藩主の右京大夫義宣公でしょう。
 初代藩主が古四王宮を検分したとすればこういった対処に当たってのことではないかと思いますので、それは慶長十一年以前であろうと思います。
 佐竹右京大夫文書は久保田藩初代藩主の古四王宮検分記録と思います。
 古四王宮を検分して、古四王大権現の本地が釈迦と四天王のようでもあり不動尊を除く五大尊のようにも見えたという文書ではないでしょうか。
 慶長十一年からは寛文九年まで六十年余ですから、「古キ写」と言えるのではないかと思います。
 「古キヲ写ス」とあれば、古い文書をあらたに写し取った文書でしょうが、「古キ写」とあるので、「写」である文書が古いものという事を示しているのではないかと思います。
 佐竹公が書いたものではなく、佐竹公が古四王権現宮を検分した折の記録の控えの文書ではないでしょうか。

☆『秋田の密教寺院』(佐藤久治 昭48・1973)に、
「常州の佐竹は、本山派であり、関東一帯の触頭であった。佐竹庶流の今宮常蓮院が武将兼触頭であった。久保田に転封されたという段階で、聖護院は触頭職を解除した。それに憤慨した秋田一代目佐竹義宣は、当山派三宝院に自らすすんで、客分となった。そして藩内修験を当山派三宝院の支配下にした。」とあります。
 これがあって、東門院を真言宗として再興し古四王宮の別当としたのではないでしょう。

*福島県田村郡三春町は、秋田の地から宍戸を経て三春に転封された秋田氏の三春藩があったところですが、その秋田氏の祈願寺であった真照寺境内に古四王堂があります。
☆喜田貞吉「越の国及び越人の研究(下)」(『東北文化研究 第一巻第六号』 昭4年3月・1929)に、
「同寺〈真照寺〉所蔵の縁起の草案に」として、古四王像を「常には東門院境内に城主守護として、城へ向け安置す」とあることを記しています。この「縁起草案」は、喜田は先に「三春の四王堂縁起」と記しているので、古四王堂の縁起草案と思われます。
 古四王像は、東門院に安置でも東門院内に安置でもなく、「東門院境内」とありますので、東門院とは別に安置施設があったのではないでしょうか。その安置施設は、古四王堂(宮)以外には想定できないと思います。古四王堂(宮)を東門院の境内にあるという認識を、秋田の地を離れていたであろう縁起草案の起草者は持っていたと思われます。
 秋田にあった安東氏の時代に東門院があり、古四王宮の別当であったのではないでしょうか。

*ここで、中村論文で「秋田祭作法」から引用されている「智証大師傳青龍寺之印鎰納園城寺之勝地 聖徳太子持百済国之印鎰崇秋田城之霊寺」をあらためて見てみます。  
 この部分を含む引用は、大山論文・『町誌』・難波田論文でも引用されており、この三者は「聖徳太子持百済国印鑰のことはともかく」というように記しています。
 「智証大師傳青龍寺之印鎰納園城寺之勝地」とあり、四王寺印が聖護院の院家積善院に伝わっていることからも、この「秋田祭作法」は天台宗寺門派、本山派修験の記したものを伝えていると思われます。
 秋田安東氏時代の東門院が本山派修験の寺院であれば、佐竹氏によって関係者は東門院にいられなくなり、行っていた修法はできなくなったでしょうから、この関係者が四王寺印と文書を持ち出したのではないでしょうか。持ち出したものは他にもあるのかも知れません。
 しばらくは雌伏し様子を見ていたのかもしれませんが、本山派修験として古四王の別当に戻ることは出来ないことが動かないことになり、寛文八年頃までに四王寺印他が聖護院に移されたのではないでしょうか。
 四王寺印と印鑰祭関連文書は、秋田の修験者が直接自ら聖護院にもたらしたと思いますが、その後修験者はどうしたのでしょうか。
 秋田の方面に戻って、(古四王権現を祀った)修験者として生きようとしたのでしょうか。

*『積善院準堤堂』のホームページ〈 https://www.shakuzen-in.kyoto/ 〉を見ると、
「積善院」について「積善院は、東北地方の聖護院門跡の末寺を霞下に置く正院家として平安末から鎌倉にかけて創建された寺院です。」とありましたので、佐竹氏の秋田の状況は先ず積善院に伝えられていたのかもしれませんし、四王寺印他も積善院を通じて聖護院に託されたのかもしれないと思います。

☆佐藤久治の『秋田の神々と神社』(秋田真宗研究会 昭56・1981)にも、以下のようにあることを知りました。
 同書「第四部-第三章」中の項目「古四王神社」に「中世の寺内古四王堂の別当は本山派(天台宗)の修験であって佐竹公が入部し、佐竹第一等の祈願寺宝鏡院の閑居寺を東門院にし、東門院を古四王堂の別当にしたとき、それまでの古四王堂の別当本山派修験を、排除したものであろう。排除された修験は四天王寺の什物をもって京都の積善院にはいったものと推定する。」がありました。

*付属文書「(五)-(4)秋田ノ本尊ノ名」は、秋田祭関連文書のなかでは異質であり、秋田祭の付属文書に含まれる必要が無いと思います。
 この文書が付属文書に含まれているのは、佐竹公の検分の頃には本山派修験が関わりを持っていたことによるものでしょうし、かような事態を招いた張本人とその見識の程度を無言のうちに語るためかも知れません。

*なお、佐竹氏以後の東門院は「亀甲山四天王寺東門院」とありますが、「四王寺印」の付属文書には「古四王寺」とありますので、佐竹氏移封以前は「亀甲山古四王寺東門院」と称したのかも知れないと思います。
 大山論文で、「四天王寺」の名称は、長享三年の八幡神社の棟札に「秋田城四天王寺内黄金寿院」がある以降は、「慶長年中再興までは物に見えないのである」と記している「慶長年中再興」は、佐竹氏による亀甲山四天王寺東門院の再興の事でしょう。
 その「四天王寺」名は、佐竹氏により接ぎ木されたような、経緯と無関係の東門院が、古四王寺名称を棄てて、古い口碑・伝承から引っ張り出して名乗ったものではないかと思います。
 古四王権現・古四王堂が、四天王権現・四天王堂に変わることはなかったようです。

☆渋谷鉄五郎『秋田「安東氏」研究ノート』(無明舎出版 1998二刷)に、
東門院に関して「弘治二年(1556)『湊安東二郎春都季、東門院主と矛盾、院主戦死して堂舎は悉く炎上す』(『檜山郷土史稿』上巻)という記事がある。」「(安東)愛季は湊家旧臣の反対を強引に押しきって、弟の茂季を湊家の後嗣とした。湊家派は愛季を怨嗟し、檜山系に対する強い反発思潮が潜在した。それは、後の湊合戦となって実証される。」がありました。そして「湊合戦の勝利によって障害を一掃した(安東)実季は、本格的に湊を領国経営の政治・軍事上の府として、その建築にとりかかった。」「慶長四年の夏すぎから工事を開始したようである。湊の地に実季の築造した城の規模がどの程度のものであったかは不明」とあります。
 この「湊合戦」は、天正十七年〈1589〉の事と思います。
 安東実季が寺社領を寄進した寺社は、「安東実季の文禄元年(1592)分限帳」に「寺社領を寄進された寺社は、この分限帳に次のように列記されてある。」として二十二の寺社が記されていますが、その最初に「真照寺(二百八石・檜山)」があります。東門院は見当たりません。
 この真照寺については、「安東家の祈願所で檜山にあったというが、現在は寺跡さえも定かでなく、沿革等は不明である。」「檜山における寺社中、安東家菩提寺の寺領高をぐんと引きはなし抜群の寺領を給され」「重い由緒があり檜山安東家にとっては、鄭重をきわめた寺院とみられる。」とありました。
 慶長六年(1601)の分限帳では、本山衆・新山院主・延命寺に次いで四番目に「東門院(七十石・寺内)」があり、十二番目に「真照寺(三百九十七石・檜山)」があります。

☆佐藤『秋田の密教寺院』-「第二章-五」の項目「真言宗 亀甲山四天王寺 東門院」中に、
「『古四王社縁起』元禄年中東門院よりの書上」よりとして弘治二年の東門院炎上のあと「天正18(1590)安東愛季が再興す。」があります。34年を経ての再興になります。その間はどうしていたのでしょうか。
 ここに出てくる「古四王社縁起」については本稿では詳しくは触れませんが、☆『能代市史資料編中世二』(能代市史編さん委員会 平10・1998)中の項目「古四王社縁起」には活字化された原文の他に読み下し文と解説があり、その「解説」に「安東愛季が再興」は「実季」の誤り」の指摘があります。安東愛季は天正十五年死去とされています。
 「古四王社縁起」の最後の方に、市史の読み下し文によると「湊二郎東門院主と矛盾の義」の事が記されていて、続いて「永禄元戊午歳(1558)二月二十七日夜、湊兵庫頭兄弟三人、子四人生害す。これすなわち当社の神罰なり、湊氏断絶す、故に同年四月五日松前下国九郎愛季をもって湊家を相続せしめ、秋田城介に任ず。天正十八年〈1590〉庚寅歳三月愛季再興して今に到る。」とあって、「古四王社縁起」は終わっています。
 そうすると、「湊二郎と東門院主と矛盾」というのは、湊二郎は湊安東氏で、東門院は桧山安東系ということにならないでしょうか。


◇「『四王寺印』と印鑰祭 難波田徹」の付属文書
※難波田論文に【付属文書】が活字化されていますので、それを見ます。
*文書はほぼ漢文的表記でもあり、HPに横書きで引用することが難しいので、難波田論文をインターネットでご覧頂いていることを前提にさせていただきたいと思います。
 密教や修験道の門外漢のうえに漢文調の文書でもあり、文書の記載内容を理解することができかねますので、以下の記述は想像によって記しているところが多々ありますので、そのようにご承知頂ければと思います。

○先ず、〔付属文書箱蓋表銘〕とあり、「古四王寺記(并伝記表白/本地供)/ 積善院」〈括弧内割書〉と記されています。
 ここに記された、古四王寺記、伝記表白、本地供、のそれぞれが気になります。
 付属文書は、このように書かれている箱に納められているようです。
☆ウエッブサイト「銅印『四王寺印』-文化遺産オンライン」の写真にある箱が、この箱と思います。
 〈 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/546405 〉

文書について記します。
◎「(一)秋田祭作法 宥雅筆」の文書。
 〔表紙〕とあり「秋田祭作法〈用紙左上部〉/迅疾金剛宥雅〈用紙右下部〉」と記されています。
 宥雅によるこの文書の写真が、論文の巻末に掲載されています。

○本文は始めに「印鑰祭表白等」とあり、これは標題と思います。
*行を改めて「三礼 如来唄」とあり、次の6行に「三礼〈サンライ 一切恭敬から当願衆生まで〉」と「如来唄〈ニョライバイ 如来抄から是故我帰依まで〉」が記されています。
*1行分を開けてから、「正月修善之庭祭礼御願之」から始まる全9行の文があり、4行目〜7行目に「六十余州普天率土有勢無勢ノ大小神祇殊ニ当所勧請妙見大菩薩古四王太子両処八幡白山々王」が記されています。日本国中のありとあらゆる神祇、特にこの地にお迎えしている妙見大菩薩・古四王・聖徳太子堂・鳥海月山両所宮・八幡・白山・山王に祈願ということでしょうか。この最初に妙見菩薩がおかれてから「古四王」があり、妙見と古四王の取り合わせのようにも思えます。
 いわゆる神分祈願と言われる部分と思います。

○次いで「表白」とあり、改行して「慎敬白常住界会三身一体尺/迦牟尼〈略〉」とあって「観音経一巻尊勝陀羅尼三反」までの、全37行の文があります。
 この部分が「印鑰祭表白」に当たり、修法の目的・意図・意義・等を述べている部分と思います。
 大山論文が引用した部分は、10行目から22行目までに「年並不変ノ御勤メ/太〈ママ〉簇二八之朝ニ点〆(シテ)修シ厳重テウ/難思之祭礼ヲ御マス事有其旨趣/如何者夫智証大師ハ伝テ青龍/寺之印鑰(ヤク)ヲ納玉フ園城寺之勝地ニ/聖徳太子ハ持〆白済〈ママ〉国之印鑰ヲ/崇(アカメ)候ス秋田ノ城之霊寺ニ彼ハ権化/是ハ聖仁共ニ大権ノ化現也定テ/深意有ラム者哉 然ル間当/寺ノ勧主ハ開テ之合竭(カツ)合之掌ヲ/集会ノ道俗ハ拝之至帰命之/礼ヲ奉ツル帰キシ之レニ者ハ身心安楽ナリ/奉拝シ之ヲ者ハ/福寿増長ス」〈返り点略〉とあります。
 ここに「彼ハ権化是ハ聖仁共ニ大権ノ化現也定テ深意有ラム者哉」とあるのもなんだか気になります。
 〈この「是」が、大山論文の引用文では「此」になっていました。〉

○1行分を開けてから、「毘沙門」とあります。
 「印鑰祭表白等」が標題であれば、この「毘沙門」も標題になるのだろうと思います。
*改行し「唱礼三身」、改行後に「南無云々」「南無云々」と五つの「南無云々」が記されています。
 次に「発願」とあって、改行後3行の文「至心発願 唯願大日 本尊界会/多聞天王 大吉祥天 八大夜叉/諸大眷属 三部界会 己下如常」があります。
*次は「讃 大日 本尊 四智」、改行し「■ホタホチサテイヘイクロヤ訶」〈カタカナは漢字の振仮名。漢字略〉の1行。
 〈■:オン、俺の人偏が口、U+5535〉
*次は「本尊観」とあり、改行後に5行文「壇ノ中ニ有(種子)字■変〆(シテ)成宝棒令/変成毘沙門天王ト坐ス二鬼上身ニ/著〆甲冑ヲ左ノ手ノ掌ニ承テ塔ヲ右ノ手ニ/執シリ宝棒ヲ身金色〆面ニ現ス忿怒ヲ/此ノ天王是レ大日如来ノ差別智身也リ云云」。
 〈■は二の字点。表示不能文字のため以後「(々)」で二の字点の代用とします。「毘沙門」「唱礼三身」の文中にある五つの南無の二つめからは(々)(々)と連ねて(南無)と読ませています。〉
 毘沙門天の様子が記されているようです。
 この文中の「(種子)」には「ハイ」の振仮名があります。
 宥雅の文書写真を見ると、「(種子)」には梵字が記されてハイと振仮名があります。記された梵字は判読が難しいのですが、ベイ毘沙門天をあらわす梵字に見えるようです。
*次は「本尊根本印」とあります。改行して2行あり「内縛二水合立二風ハ開テ 大呪/左右釣当口」とあります。印の結び方が記されているようです。
*続いて「次小呪印〈割書-略。割書に印の結び方が記されているようです〉」、改行し1行文「■吠室羅摩拏野訶」〈毘沙門天の小呪(短い真言)と思います〉があります。〈■:ナン?、目を横にした「あしがらみ」に南、U+7F71〉
*続いて「念誦」、改行後「大日 釈迦ナン姿 観音」、改行し一字下げて「本尊大小正月吉祥天オン〈5文字略〉訶/諸夜叉〈8文字略〉訶諸夜叉女/訶〈8文字略〉訶 諸天/三部 一字/大呪漸婆羅野爾也連多羅駄也訶占三度」とあります。
 この「吉祥天」「諸夜叉」「諸夜叉女」のそれぞれに続く「オン〈5文字略〉訶」等はそれぞれの真言かと思います。
*次に(貼紙)部分があります。
 そこに「双身印 本尊印ノ次」〈「双」は宥雅の文書写真では「雙」〉、改行「堅実合掌 二掌相合」、改行「オンシチロソハカ」〈振仮名。漢字略。双身呪つまり双身毘沙門天の真言かと思います〉。
 一行あけて「四天王惣印明」、改行後の二行は印の結び方が記されているようですが、略します。
 最後に「オン漸婆羅謝輦陀羅夜訶」〈四天王総呪かと思います〉とあって、貼紙部分が終わります。   
 ただ、宥雅の文書写真では、貼紙の部分は難波田論文の示している位置と異なり「念誦」の前に置かれているように見えます。
*次に9行の文があり、漢字に振られたカナの一部を記すと「ナモアラタナラヤヤナモシ/7行略/ラマタヤ ナンナタヤソハカ」とありますので、陀羅尼というものでしょうか。
 ここまでで本文は終りになります。

○1行開けて「右古四王寺祭礼之作法/者寛文九年三月十日予/灌頂翌年道晃親王/於座下受之則以古本/令書写畢 /  迅疾金剛宥雅」の奥付があります。
 署名のある表紙に「秋田祭作法」とあり、奥付に「右古四王寺祭礼之作法」とありますので、「秋田祭」と「古四王寺祭礼」とは同じ内容という事になると思います。
 「古四王寺祭」とは秋田で古四王寺が行なっていた修法の事であり、積善院で古四王寺祭を受け継いで行なう修法のことを「秋田祭」と称している、ということではないでしょうか。

 文書「(一)秋田祭作法 宥雅筆」は以上です。
 この「(一)秋田祭作法 宥雅筆」の文書は、中村論文の六点の記録文書の「四、秋田祭作法 一帖」になると思います。

☆浅田正博「積善院宥雅について-聖護院調査中間報告-」がネット上にあがっておりました。
 〈 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/28/2/28_2_873/_pdf/-char/ja 〉
 この報告書の最初に、「昭和五十二年三月より竜谷大学の山崎研究室を中心として、京都市左京区に在る本山修験宗の総本山、聖護院門跡の蔵書調査を行なっている。小論はその中間報告を兼ねて、聖護院が二度の火災の後、現在地に移転して、現在所蔵されている書物の大半を書写収集した中心人物であろうと考えられる『積善院宥雅』に焦点をあてて考察してみたいと思う。」とありました。
 興味深い内容には触れ得ませんが、一部を引用します。
 「宥雅は承応三年〈1654〉頃よりここ〈聖護院の院家である積善院〉に住んだのであろう。」、「宥雅は道晃法親王に仕え、道晃の指示によって書物を筆写し、あるいは親王自らの所持本を拝借して筆受していたようである。」、「〈慶安三年〈1650〉より宝永二年〈1705〉までの〉五十二年間に四十四部以上もの修験・密教関係の書物を写了し、道晃法親王に親しく仕えて大僧正にまでのぼった三井寺系の学僧であることまでが判明した。」がありました。
 同書の年表によると、「寛文八年 44歳 道晃より灌頂を受く」「延宝元年 49歳 護持僧に補せられる」「宝永四年〈1707〉 83歳 入寂」などがあります。
 この「寛文八年」の「道晃より灌頂を受く」は、付属文書「(一)秋田祭作法」の奥付に記された事柄と一致しており、灌頂を受けての密号が「迅疾金剛」であり、灌頂の翌年の寛文九年に道晃親王から託された古本を書写したのが、「(一)秋田祭作法」ということではないでしょうか。
 後で見ることになる、宥雅の「古四王寺祭日記」は、寛文十一年から記されていますので、寛文十年には秋田祭を執行するに至らなかったのではないでしょうか。

◎「(二)印鑰」の文書。
〔表紙〕として「印鑰」とあります。筆者名は記されていません。

○本文は、始めに「印鑰祭表白等」の標題があります。
*行を改めて「三礼 如来唄」とありますが、「三礼 如来唄」の文は記されていません。
*続いて「正月修善之庭祭礼御願之」に始まる全9行の文があり、宥雅筆の「(一)秋田祭作法」と同文の神分祈願部分になります。「妙見大菩薩・古四王・聖徳太子堂・鳥海月山両所宮・八幡・白山・山王」の部分も同じです。ただ、一部に文字表記の違いと改行位置の違いがあります。

○次に「表白」と記され、改行し「慎敬白常住界会三身一体」に始まる、全41行の文があります。
 この41行の文は、「(一)秋田祭作法」の37行の文とは改行位置が異なるために行数が違い、一部文字表記の違いや送り仮名の違いがありますが、同一の文と言って差支えないと思います。
 宥雅の「(一)」文書で「太簇」とあったのは「(二)」では正しく「大簇」〈タイソウ 陰暦1月の異称〉とあり、同じく「〆」は「シテ」と送り仮名で記されています。漢字への振仮名は「(二)」のほうが多く施されています。
*大山論文が引用した部分は、11行目から25行目までになります。
 聖徳太子は百済国の印鑰を持して秋田城の霊寺に崇め置かせたとあるようですが、智証大師が青龍寺の印鑰を園城寺に納めた事に対して、智証大師―聖徳太子、青龍寺―百済国、園城寺―秋田城之霊寺、と並べるように記載しており、智証大師を聖徳太子に優先する記載に思えます。
 智証大師円珍が青龍寺のある唐から戻るのが天安2年(858)とのことですし、智証大師の諡号を賜わるのが延長5年(927)とのことです。
 智証大師派が園城寺に入るのは正暦4年(993)ということですので、この文書は早くてもそれ以降となると思います。
 このことや、四王寺印が積善院に移った経緯からすると、この文書を本山派の修験によるものと考えたいと思います。
 また、「印鑰」とありますが、百済国の印と百済国の鑰、青龍寺の印と鑰とも思えず、印章のことを印鑰としているのではないかと思えます。
 印鑰とはあっても、「四王寺印」ないしは四天王寺の印とは記されていません。

*本山派修験が古四王寺の担い手として、古四王寺としての創建は、「四王寺印」を収める中箱蓋裏の墨書銘「永正元年〈1504〉七月十七日/新造之訖」まではさかのぼれる可能性が高いのではないかと思います。
 先に少し触れた「古四王社縁起」ですが、その後段には、二度目の元寇後の弘安六年〈1283〉の修造以降、観応二年〈1351〉二月の修復、文明四年〈1472〉正月二十八日の炎上、文明八年〈1476〉の再興、天文三年〈1534〉六月の炎上、天文十二年〈1543〉からの湊尼崎洪廓による再建、弘治二年十二月の兵火、天正十八年〈1590〉の安東実季の再興までが、記載されています。
 鎌倉時代以降になると記録が具体的になるようです。
 印鑰を収める箱に記されたふたつの年号、永正元年〈1504〉と大永四年〈1524〉は、文明八年の再興から天文三年六月の炎上までの間の出来事ということになるのでしょう。

○「表白」の41行の文が終わると、続けて6行記されています。この6行は「三礼 如来唄」の文言です。文言の前に「三礼 如来唄」との記載は在りません。

 「(二)印鑰」の文書はここで終わりです。
 「(一)秋田祭作法」に記されていた「毘沙門」以下の記載はありません。
 この「(二)印鑰」は、「(一)秋田祭作法」の前半部分と同一内容です。
 この両者の関係はどうなのでしょうか。

◎「(三)古四王寺祭日記 宥雅筆」の文書。
 この文書は、中村論文の「五、古四王寺祭日記 一冊」になると思います。
 〔表紙〕として「古四王寺祭日記/ 宥雅」とあります。

○寛文十一年の日記
*本文は「寛文十一辛申〈ママ〉年〈1671辛亥〉正月古四王寺祭ノ記」とあって、「元日朝ヨリ改火用行水後夜時ヨリ/古四王寺本地供始行三時修之日中ノ/時ニ御鏡壱重ツゝ三坏備之始終米/仏供備之観音経五巻読」とあり、続いて「一 十五日マテノ御鏡早天ニ用意大キサ三寸斗」があります。
 次いで二日の記載が「二日本地供三時修行日中ノ御鏡/如昨日観音経五巻読誦」とあり、「三日三時之行法修之御鏡同前/備之観音経五巻読之」と続いています。
 四日は「三時之行法等如例」とあって「○観音経七巻読之」となり、「御鏡日中時備之」が小さな文字で「○観音経」部分の横に書入れられています。また、「照高院殿」「聖護院殿」へ「御礼ニ参」が記されています。 
 五日は「三時之行法等如例」「○観音経五巻読誦」とあり、「○観音」部分の横に細字「御鏡日中時備之」です。六日は五日とほぼ同様ですが、「○観音経七巻読之」とあります。
 七日以降は「三時之行法等如例」のあとに、細字ではない「御鏡日中時備之」があり、「観音経五巻読之」と続いて記されています。
 九日に「諸礼ニ出ル照/門院ニ参」があり、十日は観音経七巻で、十一日に「方々へ礼ニ出ル」があります。
 十三日の同様の記載の後、改行し「一 今日夕方ヨリ○猶改火也用行水十六日マテ/禁足コモリ候道俗同前他ノ者/○十六日まで不入」とあります。
 十四日十五日も七日以降とほぼ同様の記載ですが「観音経七巻読誦」とあります。
 十五日は続いて「初夜時畢テ大キナル御鏡二枚つゝ/三盃備之三坏ノ鏡ニカ/ケテ昆布二枚備之又昆布之/上ニ干鮭壱本備之」があります。
 十六日は「用行水○後夜時結願(々)(々)ノ時神/体取出九重アル袋二重トル也/行法畢テ三礼法則等読之結願/結願以後コモリ候道俗拝之」とあ
ります。細字の「用行水」は「後夜」の横に補記のように記され、細字「行法畢テ三礼法則等読之結願」は「結願以後コモリ候」の横に記されています。
 二の字点の(々)(々)には、結願が入るのでしょうか。結願が続くので二の時点なのでしょうか。
 改行があり、そこに一行あるようですが、「一 (この行抹消)」とあります。
 改行して「一 備ル所之御鏡昆布干鮭等/〈略3行:籠った者でこれをいただき余った物は辰巳の角に犬などが掘らないように深く掘って埋める事〉」とあります。
 次の行に「用意物」とあり、改行して餅米九升此内小鏡ニ七升大鏡ニ二升/昆布二枚/干鮭壱本が記されています。
 以上が寛文十一年の記載となります。

*日記には、「古四王寺祭ノ記」とあって、「古四王寺本地供」を元旦の後夜より三時の修法として16日の後夜での結願まで行なうとあります。
 この修法の一連のありようは、先に中村論文で見ていた「正月元日後夜時から行われる『古四王本地供』に始り、十六日後夜に至って結願となるもので、その間、毎日本地供三時之行法をやり、日中時に御鏡餅を備へ、観音経を五巻又は七巻読誦する事を例とする。殊に十三日夕方からは、更に改火、用行水となって、道俗共に参籠し、他のものをして入堂せしめない。而して十六日夕方に至って結願に到ると、その時に始めて神體を取出し、九重ある袋の外部二重だけを解いて、参籠した道俗が之を拝するのである。又その前日十五日には、初夜の行はてゝ後、三杯の鏡餅の上に昆布二枚を重ね、その上に干鮭一本を供えるが、結願のとき、これらの供物を参籠の僧侶に分配し、もし残れば辰巳の角に埋んでしまう」というものでした。
 鏡餅と干鮭と昆布の供え物は、鮭を正月魚とする北国の正月の行事の供物のようにも思えます。
 ここに「十六日後夜に至って結願となる」とあり「十六日夕方に至って結願に到る」とありますが、後夜が明け方であれば、結願が十六日の明け方と夕方とあるのは、夕方は誤りなのだろうか。
 あるいは、細字で補記のように記されている文言「行法畢テ三礼法則等読之結願」に、この結願の問題を解く鍵があるのでしょうか。

○寛文十二年の日記
*翌寛文十二年正月の「古四王寺祭之記」は、「照門主聖門主江御礼ニ参」が七日になっているほかは寛文十一年のものとほとんど同じ内容の記載です。

○寛文十三年の日記
*寛文十三年正月は「古四王寺祭礼之日○々記」とあり、改行して「元日改火用行水古四王子((ママ))本地供」とあります。
 何故「古四王子」と記したのでしょうか。コシオウジと書く気持ちで手は王子と動いたのでしょうか。熊野詣でと王子社のことなどがあって、王子は普段は目にしたり記したりしない文字ということではないのかもしれません。
 この年の日記は、記載にやや省略が見られますが、元日から十六日まで日毎に記載されています。
*十六日の記載の後に2行あけて「去年秋道寛親王廿六才古四王寺/祭可被受由仰也予返答云我雖/及五十可為附法無弟子幸御/伝授可申旨御請申干時経教/日道寛仰云古四王寺之法御伝授之/事者可為延引旨被仰次御物/語云有夜蒙霊夢給老僧/来云古四王寺之法者為若而受事/於受給者短命也ト告畢テ夢/覚云々仍今度御伝授無沙汰/平安之古記続統記ニモ此権現/之霊夢書記誠ニ可崇為霊/感者歟」の記載があります。
 「古四王寺之法」の伝受はおいそれとはできない程の事のようですが、「平安之古記」という「続統記」とはなにをさすのでしょうか。

○延宝以降の日記
*次の延宝二年〈1674〉は、「延宝二年甲寅正月元日後夜/ヨリ古四天王寺祭之毎日三時ノ/行法御鏡等供物如例年」と始まり、日毎の記載は無く、修法の要点のみを6行記して、最後に「一 十三日ノ夜ヨリ猶改火用/行水禁足」までの全11行と短いものになっています。
 寛文の日記では年号の後に続いていた「古四王寺祭之記(祭礼之日(々)記)」が記されていません。
 大山が取上げていた「古四天王寺祭」がここにありました。
*次の延宝三年は、「正月朔日朝ヨリ/例年ノ古四王祭始行毎/〈2行略〉/御鏡等如例年十六日/後夜結願諸事作法/如例年」の全7行です。
 この年は「古四王祭」と記されています。
 「古四王寺祭」と記してあったのが、「古四天王寺祭」や「古四王祭」とも記しています。
*次に記されている日記の年号は、天和四年〈1684〉に飛んでいます。
 年号に続いて「正月朔日ノ朝より古四/王本地供始行十五日まて三時/〈以下9行に修法の概要・略〉」とあり、寛文十二年の記載以来となる「用意物」の記載があって、全15行です。
 用意物の餅米の量が変わっており「七升二升ハ大鏡六/五升ハ小鏡九十」となっていました。
 寛文十一・十二年には「古四王寺本地供」と記されていたのがここでは「古四王本地供」になっています。
*次は貞享四年〈1688〉」で「正月朔日朝ヨリ/古四王子〈ママ〉祭始之作法等如例年/同十六日朝結願供物等同前也」のわずか3行です。
*次の貞享五年も「古四王子〈ママ〉祭」とあり3行の記載があります。
*次は行間の空きを設けずに元禄八年〈1695〉の日記に飛んでいます。
 年号があり「正月朔日朝ヨリ古四王祭始/行作法等如例/十六日朝結願作法如例供物等道俗如例/十三日マテ観音経七巻ツゝ読之/十四日十五日三十三巻読之」の五行です。
 「古四王祭」とあります。
 宥雅の記録はここまでになります。

*寛文十一年から延宝三年までの五年間は、記載は簡潔になっていきましたが毎年記されていますが、その後八年の記載がなく、九年目の天和四年が記され、次は三年後の貞享四年にわずかに三行の記載があり、続く貞享五年にも三行の記載があって、次は七年後の元禄八年の最後の記載になります。
 1671年から1695年までの通算24年となりますが、記録されているのは9年分です。
 日記の空白期間に何があったのか気になります。
 延宝三年十一月の京都大火で聖護院焼亡ということがあったようです。

○さて、大山論文に「祭礼執行の日記には古四天王寺祭、古四王寺祭、古四王祭などとある。」とあったのは、まさにこの宥雅日記での表記の違いのことでしょう。
 「古四天王寺祭」の記述、あるいは「古四王祭」の記述は、その表記を選択する根拠を持った意図的なものなのでしょうか。
 延宝二年の日記に一回だけ記されている「古四天王寺祭」の記述にもっともな根拠があるのであれば、翌年の日記に「古四王祭」とあるのは如何なることになるのでしょうか。
 大山論文は「古四天王寺祭となっているのだから、四天王寺と古四天王寺とは同一でなければならぬ」と記していますが、宥雅の日記に「古四天王寺祭」の記載があることを証拠にすることはできないと思います。

◎「(四)古四王祭日記草  晃諄」の文書。
 〔表紙〕として「古四王祭日記草  晃諄」とあります。
 この文書は執筆者が「晃諄」となっていて、「古四王祭」とあります。
 宥雅日記の最終年号の元禄八年からは10年後の宝永三年〈1706〉の「本地供」について、その前年の十二月廿二日から始めて正月十六日までの日々の行法について、宥雅日記には記されていなかったことも記されていますし、宥雅日記の記載とは異なる事も記されています。

○宝永二年の「十二月廿二日到/積善院室大阿闍梨宥雅古/四王受秘決退出/同晦日晴天申上刻〈15時過頃〉移/新熊野設小壇如図荘厳/同三歳丙戌大蔟元旦曇天/庚申室宿/木曜寅刻〈3〜5時〉改火沐/浴本地供始行」とあって、続いて「後夜一座/普門品一巻 尊勝多羅尼三巻/於堂外小呪三百反」、次に「日中一座/〈後夜に同じ〉」「初夜一座/〈後夜に同じ〉」があり、次いで「妙見菩薩 心経一巻 尊勝陀羅尼一巻/太子 同前/両処 同前/八幡 同前/白山 同前/山王 同前」があります。
*先ず宝永二年の十二月廿二日の事柄と晦日の事柄が記されています。
*宝永三年の元日には、夜明前と午前と日没後に行なわれる三時の行法を行い、初夜のあとに妙見菩薩・太子・両処・八幡・白山・山王に経典を唱えることも行なわれるようです。
 ここに記されている普門品は宥雅日記の観音経と同じ経を指しているのかも知れませんが、行法で読誦される経典等や初夜後の妙見菩薩他への読経のことは宥雅日記と同じではありません。
*続く二日の記載は、「同二日降雨辛酉 壁宿/金曜/後夜 日中 初夜/勤行如前日」とあり、三日以降も日付・天気・暦を記し「後夜 日中 初夜/勤行如前日」とあります。
*十三日は前日までと同様の記載をした後に「未刻到積善院伴僧一人/召具申刻火改沐浴室内/之道俗等皆浴酉刻初夜/行法」とあります。
*十四日は前日までと同様の記載のみです。
*十五日は天気・暦を記してから「巻数仏布施等用意」とあります。
*十六日は天気・暦を記してから「後夜結願沐浴素絹/五条着之/大阿闍梨宥雅衣体同前/御厨子之箱之符切亦内/包之紙ノ上打緒ニテ十文/字結符付候ヲ切リ紙ヲノケ/又小キ厨子ノ上ヲ紙ニテ包/如前符付アル其儘机ノ上/ニノセ置退出干時後夜/行法一座巻数仏布施/作法如常行法終テ壇/ヲ改メ鮭ヲ昆布ノ上ニノ/セ行者ノ左ヲ魚ノ首ヲトシ/腹ヲ前トス承仕役干時/取香呂三礼登礼盤三/礼表白次観音経尊勝多/羅尼誦ス終テ下礼盤云々/作法終テ道俗拝〆後道/場荘厳等即時取去也/供物等道俗悉令食其後/開門スル也」と記されています。
 これで晃諄の「古四王祭日記草」の記載は終わります。

○十六日の記載に「登礼盤三礼表白次観音経尊勝多羅尼誦ス終テ下礼盤」とあり、礼盤上で「三礼表白」し「観音経尊勝多羅尼誦ス」とありますので、「(一)秋田祭作法」の「印鑰祭表白等」が三礼如来唄に始まり神分祈願があって表白があり、表白は「観音経一巻尊勝陀羅尼三反」で終わることと一致しているように思えます。 
 結願を迎えて修法の最終段階で印鑰祭の表白が読み上げられるということでしょうか。
 宥雅の寛文十一年の日記の十六日の記載にある細字の補記の「行法畢テ三礼法則等読之結願」は、このことを記しているのでしょうか。

*宝永二年十二月廿二日の「積善院室大阿闍梨宥雅古四王受秘決退室」とありますが、ここに「古四王」とあり「古四王受秘決」とありますが、これは「印鑰」についてのことかと思いますが、どういうことを言っているのでしょうか。
 また、退出とはどこからどこへでしょうか。
*晦日の「新熊野設小壇如図荘厳」とはどういうことなのでしょう。
 その「図」が付属文書「(五)-(1)秋田祭之事」の絵図であれば、図のような飾り付けの小壇を関係の深い「新熊野〈いまくまの〉社」に設けるということでしょうか。
*十六日になり後夜結願の記載に、積善院宥雅の役割が厨子を収める箱の符を切るなどをし小厨子の上を紙で包むなどして机の上にのせて退出するというように記されているようですが、これは宥雅日記の十六日に記されている「神体取出九重アル袋二重トル也」の前段階の作法なのでしょうか。
 「作法終テ道俗拝〆」とある「拝シテ」は、「印鑰」を拝する事かと思いますが、「神体取出九重アル袋二重トル也」にあたることが記されていないようですが、それは記載を省略されただけなのでしょうか。「神体取出九重アル袋二重トル也」の後に拝したのでしょうか。
 「拝シテ」は、「印鑰」を拝する事ではないのでしょうか。
*また、ここに記された「退出」は、「新熊野」に設けられた修法場からの退出ということかと思います。
 本地供の三時の行法に行われている「於堂外小呪三百反」というのは、本地供が毘沙門供であれば毘沙門天の小呪を堂外において三百回唱えるということなのでしょうか。
*初夜行の後に記される「妙見菩薩 心経一巻 尊勝陀羅尼一巻」続いて「太子 同前」以下「両処・八幡・白山・山王 同前」は、付属文書「(一)・(二)」にある「殊コトニ当所勧請妙見大并(菩薩)古四王太子両所八幡白山々王」によるものでしょうか。
 そうであれば「古四王」がありません。これはどういうことなのでしょうか。
 京都では、古四王が勧請されていないからでしょうか。
 古四王の本地供で、その古四王に経を読むことが整合しないからでしょうか。
 門外漢ゆえの疑問なのでしょうが、付属文書「(一)・(二)」に妙見菩薩や古四王などへの祈願があることも整合しないのではないかという疑問が生じます。

*「古四王寺祭」ではなく「古四王祭」と記されていますし、「秋田祭」とは記されていません。
 宥雅日記にも「古四王祭」と記した例がありました。
 このことを考えるにあたり、☆『秋田の山伏修験』(佐藤久治)の「第四部 神仏分離」-「1神仏習合」中の「修験は現在の市町村の部落(かつては村)に、少なくとも一人(一寺院)は存在し、現在の神社(かつては堂または宮か社)の別当をした。そして寺院名で呼ばれた。ホーエンまたはベットウと特別に呼ばれた。/神社自身をも寺院名で呼んだ。〈その例の記載を省略〉神社のほかに寺院があったのではない。神社名即ち寺院名なのである。そしてその神社即寺院を掠とする別当がいたのである。別当は修験でも社家でも村人でもかまわない。しかし修験は断然多かった。」という記載を参考にして、古四王寺と古四王社との事を考えてみたいと思います。
 古四王神は古四王権現と呼ばれ、その社は古四王堂(宮)とも古四王権現堂とも呼ばれていたのではないでしょうか。
 古四王権現の別当の本山派修験は、古四王権現堂のことを古四王寺と称し、その山号を亀甲山としたのではないでしょうか。
 古四王権現堂と古四王寺は別々に存在したのではなく、古四王権現堂と古四王寺は区別されるものではないということでしょうか。
 別当である本山派の修験者自身の寺院が東門院であり、東門院□世○○と名乗っていたのでしょうか。東門院も亀甲山を付けて呼ばれたのでしょうか。
 また、古四王権現の別当は古四王寺とも呼ばれたのでしょうか。
 いろいろ分からないのですが、古四王寺と古四王権現(古四王堂)を別個の存在とせずにひとつのものの両面のように考えてみたいと思います。
 古四王権現を古四王様と呼んだり、固有の名称部分の古四王をもって表わすのはあり得る事ではないかと思います。
 「古四王寺祭」や「古四王寺本地供」を「古四王祭」「古四王本地供」とするのも、あり得ると思います。

○『修験道聖護院史要覧』(首藤善樹 岩田書院 平27・2015)を国立国会図書館サーチで検索して、
「目次」を見ていくと「第十章 二」に「住心院十代晃諄」がありましたので、ネット検索で調べてみると「住心院―SHINDEN―神殿大観」に情報がありました。
☆コンテンツ「住心院」は「出典:安藤希章著『神殿大観』(2011―)」とのことです。
 〈 http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BD%8F%E5%BF%83%E9%99%A2 〉 〈最終確認:2024−01−26〉
 先ず、住心院(じゅうしんいん)は、「修験道本山派の寺院。本尊は毘沙門天。聖護院門跡の院家であったと同時に六角堂頂法寺の塔頭だった。新熊野神社別当。旧称は勝仙院。」とあります。
 「歴代住職2 勝仙院(のち住心院と改称)の歴代」の10世に「晃諄 生没年1667―1728 在職年?―1719」とあります。

☆『修験道聖護院史要覧』の「第十章 院家=京都六角勝仙院と住心院」の項目「晃諄」によると、
元禄三年九月に入壇し同年十一月に住職になっており、宝永二年二月に大僧正になり、宝永五年の京都大火で類焼した住心院(勝仙院)を再建とあるので、この「晃諄」が「(四)古四王祭日記草」の「晃諄」である可能性はありそうです。
*そうであれば、宝永三年は大阿闍梨宥雅82歳で入寂の1年前であり、積善院で古四王寺本地供を修法することが困難になり、住心院に託したことで、この晃諄の「古四王祭日記草」があるという事ではないかと思います。
 積善院で別の僧に修法を行なわせるということではなく、大僧正の住心院晃諄に託したとすると、古四王寺祭を重要視していたことが窺われるのではないでしょうか。
 「新熊野」に「設小壇如図荘厳」も、住心院自体に修法場を設けることが出来ない理由があってのことかとも思えます。
 宝永二年十二月廿二日に「積善院室大阿闍梨宥雅」が「退室」したのは、住心院からということでしょうか。

*十六日の記載にある「御厨子之箱」と「小キ厨子」との関係は、どうなのでしょうか。
 「御厨子之箱」に「小キ厨子」が収められていて、「御厨子之箱」が中箱で、内箱が「小キ厨子」ということでよいのでしょうか。

☆京都府立総合資料館発行の『総合資料館だより』の「2012,4,1 NO.171」号に「『四天王寺印』―矢野家写真資料から−」に、「この印章・付属文書と入っていた厨子を集合した写真」というのがあります。 〈 https://www.pref.kyoto.jp/rekisaikan/documents/dayori171.pdf 〉
 この記事内容については後記します。

*写真には、印面を向けた「四王寺印」と、その背後に付属文書の「秋田祭作法 迅疾金剛宥雅」があり、その文書の背後の左側から一部分が見えている表題のわからない文書があり、それらの文書の背後にそれら文書より大きい右側で綴じられている文書の一部が見えていて「古四王」部分と宥雅署名が読めますので、付属文書「古四王寺祭日記 宥雅」でしょう。
 表題のわからない文書は、古いものなのか使い込まれているのか、紙の色も変色しているようですし、紙をめくったあとが用紙の左側の上下についています。
 「古四王寺祭日記」文書は右側の綴じた側と用紙の左端部分に変色があるようですし、めくって使用した感じがありますが、「秋田祭作法」文書は紙の四隅もしっかりしており使用感のない綺麗な状態に見えます。
*表題のわからない文書にも二文字が記されているようで、下の文字に金偏があるようにも見えますので、「矢野家写真資料」を京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ(公開)で、☆「矢野家写真資料 写真009 写真番号248」 (最終閲覧 2024−02−19)
 〈 http://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detailLink?cls=132_picture_catalog&pkey=0000004311 〉
によって見ると、「印鎰」と読めるようですが、「印」の文字もかなり崩した文字で、「鎰」の文字は旁が変です。
 「印」は宥雅の記す「白済国之印鎰」の「印」の文字に似ていますが、「鎰」の文字は宥雅の文字とは形も異なっています。
 この「印鎰」は、宥雅ではなく別人の記した文字のようです。
 この「印鎰」とある文書は、付属文書「(二)印鑰」と考えてよいと思います。

*「(二)印鑰」文書は、宥雅筆の「(一)秋田祭作法」の「印鑰祭表白等」と比べると、改行の区切りに文言のまたがりが少ないように思えますし、振仮名や送り仮名がよく施されていて、文字の誤記も無いようですし、この「印鎰」とある文書の使用感と変色からすると、宥雅が書写した古書が「(二)印鑰」で、「(一)秋田祭作法」の前半部分は「(二)印鑰」が元になっているのではないかと思います。
 「(二)印鑰」は、修法で読み上げる部分を特に記した文書なのでしょうか。

*矢野家写真資料の写真では、四王寺印と三文書の横に四角形の観音開き扉の立方体の箱があります。この観音扉の箱を、写真の説明文では「厨子」と記しているわけですが、この厨子が中村論文で内箱について「観音開の戸を有する屋根形の箱であったと記臆する」の箱であれば、屋根形の箱というのは記憶誤りのようです。
 写真から寸法を割り出してみると、印の縦を約6センチとすると、「秋田祭作法」は縦約13センチ・横約10センチ、変色した文書の縦は「秋田祭作法」よりやや小さく、「古四王寺祭日記」は縦約17センチ・横約12センチで、厨子は縦約10センチで、ここに高さ約8センチの観音扉があり、横は縦よりやや小さく、奥行きは不明です。
 この大きさの厨子であれば、「小キ厨子」でしょうし、この厨子の中に更に小さな厨子を入れるということはないと思いますので、この厨子が四王寺印を納める内箱ということでしょう。
 中村論文にある第二の外箱の蓋の寸法は「外経五寸三分平方」とありましたので、中箱蓋は正方形で縦横約16センチで、外箱は「六寸五分平方、高さ六寸七分」ですので、外箱蓋も正方形で縦横20センチ弱で高さ(深さか)約20センチと思われます。
 蓋をかぶせる下の箱(身)はさらに小さい訳ですから、それぞれの箱は丁度取り出せる隙間で作られているようです。

◎「(五)古四王寺次第記」とある文書。
 〔表紙〕ではなく〔包紙〕とあって「古四王寺次第記」とあります。
 この「(五)」には、四つの文書があります。
 四文書がまとめて包紙に包まれていて、包紙に「古四王寺次第記」とあるのだと思います。
 「(五)古四王寺次第記」のもとに収録されている四文書は、「(1)秋田祭之事 古四王寺」「(2)古四王寺双身ノ三身/秘印事」「(3)物忌令」「(4)秋田ノ本尊ノ名」とある文書です。
 順に記します。

○「(1)秋田祭之事 古四王寺」
*文面は「朔日ヨリ十五日迄行フ吉日良辰/ヲ勘不及/朔日朝ヨリ火ヲ改毎日如此/毎毘沙門供三時ニ行ヲ/双身ノ印明加之古四王寺之/秘印心中心也/出入之者火をえらひ/悪火ノ者エラフヘシ/十五日一同禁足家内/者不出他所者不入/十四日夜半より亥刻?/用行水其後如右」とあります。
 一行あけて、「朔日餅ヲツキ鏡大サ二寸五分斗/一重ツゝ/三杯ソナユル也」とあり改行、毎日替えるこの鏡餅は朔日に一度に用意のこと
を記し、「結願ノ時ノハ/十五日ニツク是ハ数ハ同シ/丈ニスル也一ぱいにて可使歟」があります。
 一行あけて、「十五日初夜行過テ三杯ノ」以下の記述は、三杯の鏡(餅)の上に昆布二枚重ねて三の鏡にかけて供え、その上に干鮭一本を置く、十六日に結願して昆布干鮭鏡等は籠る僧に食べさせる、とあるようです。
 一行あけて、残りは辰巳の角を深く掘って埋める、毎日餅は遣わし次第食べさせる、とあるようです。「朔日餅ヲツキ鏡」からここまで餅に関して記されています。
 次は一行あけて、「道場不用護摩堂可用別殿/カラザケヲソナユル故也」があります。
 次いで、行を行なう場所の配置が図示されています。この図が「(四)古四王祭日記草  晃諄」文書にあった「新熊野設小壇如図荘厳」の「図」ではないでしょうか。
 続いて、「十六日ノ/暁結願/ノ時袋/九重アルヲ/二重取出ス也」とあります。
 2行あけて「十五日之間観音経読誦/員数不定五巻にも/七巻にも或卅三巻にも/衣帯ハ常ノ為仏堂衣/結願ニハ用素絹」とあって、「秋田祭之事」の記載は終わっています。

*中村論文で「本地供というのは毘沙門供であるという事を記して居る(第一、秋田祭次第之事)のは、最も注意に価すると思う。」と記していましたが、この「第一、秋田祭次第之事」というのは、中村論文の「記録文書」六点の「一、秋田祭次第作法」のことでしょうから、いま見た「(1)秋田祭之事 古四王寺」文書がそれに当たると思います。
 宥雅が「(三)古四王寺祭日記」の寛文十一・十二年の日記で「古四王寺本地供」としているところに、この文書では「毎毘沙門供三時ニ行ヲ」とあり、毘沙門供を後夜・日中・初夜の三度行うことが記されています。
 古四王寺本地供が毘沙門供であり、古四王寺は古四王権現と一体のものであれば、古四王寺は古四王権現の本地仏たる毘沙門天を修験道で祭るということになるのではないかと思います。
 そうすると、「(一)秋田祭作法 宥雅筆」に「印鑰祭表白等」とあった「印鑰祭」と毘沙門供とはどのような関係にあるのでしょうか。
 秋田祭は古四王寺祭の別名であるとして、古四王寺祭が古四王寺本地供を行い、それが毘沙門供なのですから、印鑰祭は毘沙門供であるとしてよいのでしょうか。
 印鑰祭は毘沙門供そのものではないと思います。
 大山論文のように「此の秋田祭は印鎰祭と毘沙門供との融和抱合したものである」とするのもどうでしょうか。
 印鑰祭は、正月元旦後夜から十五日の初夜までの15日間におよぶ古四王権現の本地たる毘沙門天を三時の行法によって供養することで十六日目の結願の行法を行なうことができ、もって印鑰たる四王寺印の霊威をさずからんとする一連の修法のことと理解したいとおもいます。
 印鑰祭は、古四王神の本地である毘沙門供より上位にある(という言い方が正しいのかわかりませんが)ので、あるいは毘沙門供を積み重ねることではじめて行ないうる儀式なので、印鑰祭の表白にさいして妙見菩薩や古四王などへの祈願が行なわれてもなんら差支えないということでしょうか。

*この文書は、「秋田祭之事 古四王寺」とあるように、古四王寺による秋田祭についての手引書になると思います。
 秋田に於いて「印鑰」の祭りを執行していたのは古四王寺であり、その印鑰「四王寺印」と引継がれてきた修法のしきたりや手順などを積善院に伝えたのが古四王寺であることは、疑いようがないと思います。
 宥雅日記などを見ると積善院側では受け継いだ「印鑰」の祭りを「古四王寺祭」と称したもようですが、秋田の地で古四王寺が印鑰の祭をどのように呼んでいたかはっきりしないのですが、文書「(二)印鑰」が古四王寺が伝えた文書であれば「印鑰祭表白等」とあることから「印鑰祭」と称していたのではないかと思いますが、そうでなくても古四王寺側が古四王寺祭とか秋田祭とかと称することは、その可能性がまったく無いとは言えないまでも、恐らく無いと思います。
 「秋田祭」の名称は積善院で秋田古四王寺の祭事を引きつぐ事になってからの名称で、秋田での担い手であった古四王寺の者がその次第を記したものであろうと思います。
 古四王寺側は「古四王寺祭」ではなく「秋田祭」と称してもらうことを望んだのかも知れません。
 その意味で「秋田祭之事」と題した次第記を用意したのではないでしょうか。
*「秋田祭」とあるのは、この文書「(1)秋田祭之事 古四王寺」と「(一)秋田祭作法 迅疾金剛宥雅」文書だけです。
 宥雅の寛文十一年の日記の修法の次第が、「(1)秋田祭之事 古四王寺」と同じに行なわれているようです。
 「(1)秋田祭之事」の次第に則して修法を行なった記録が「(三)古四王寺祭日記 宥雅」となるのではないでしょうか。

*この文書の、「毎毘沙門供三時ニ行ヲ」に続いて「双身ノ印明加之古四王寺之秘印心中心也」とあり、印鑰祭の核心に触れると思われる記述がここにあるようです。
 これらは、付属文書「(一)秋田祭作法 迅疾金剛宥雅」の「毘沙門」以下の記述につながり、とりわけ「(貼紙)」の部分につながる記述なのではないかと思います。
 「双身ノ印明加之古四王寺之秘印心中心也」はなにをあらわしているのでしょうか。
 「結願ノ時袋九重アルヲ二重取出ス也」とありますので、「印鑰」を収める袋の九重の二重を取出しても「印鑰」は秘されたままですので、「印鑰」が「秘印」なのだと思います。
 付属文書「(一)」で、毘沙門供の貼紙部分に「双身印 本尊印ノ次」とありましたので、本尊の毘沙門天の印契及び呪に次いで双身の印契と呪が記されていて、さらに「四天王惣印明」と続きますので、双身は双身毘沙門天のことではないでしょうか。
 「双身ノ印明」は双身毘沙門天の核心の心中心の印契と呪で、古四王寺の秘印の本地の心中心の印契と呪であるということなのでしょうか。
 秘印は双身毘沙門天が印の形象で現出したもので、秘印の本地が双身毘沙門天ということでしょうか。

○「(2)古四王寺〈割書〉双身ノ三身/秘印事
 こちらの標題は、古四王寺とあって、双身ノ三身秘印事とあります。
 このような標題なのですが、「(1)秋田祭之事」のような修法の手順が記されています。

*文面は「朔日ヨリ十四日迄毎日改/火行之十四日晩炊/以後一家中○用行水無出入/十五日朝結願/朔日ヨリ餅三ツゝ/入三坏供物也十四日/朝飯以後鏡ヲつき/三ツツゝ三坏供物/結願給之十四日迄毎日/供物餅ハ朔日改火/一度ニツキテヲク也/十五日結願後供物/籠者不残食之残所ハ/辰巳ノ角ニ埋也/讃ハ奥ノ短ヲ用/鏡三杯ノ上ニ昆布ヲ/長ク〆〈シテ〉布其上ニ/カラザケヲ置/ 毘沙門供行要別ニアリ/文殊三種悉知/アラハシヤナ/先内五古/次内五古ヲ離左上ヘアクル/次内五古ヲ離各右ヲ上ニアクル/普賢三種悉知/サンマヤサタハン/先内五古/次内五古ヲ離右上へアクル/次内五古ヲ離左ヲ上へアクル/不動五ケ印/〈以下不動五ケ印・略〉」とあります。
*小さい文字で「毘沙門供行要別ニアリ」が記されていますが、これはどういうことでしょうか。
 この「毘沙門供行要別ニアリ」は、本文中にもともと記されていた註のようなものではなく、「文殊三種悉知」以下を記した後に書き加えられたものではないかと思います。
 「毘沙門供行要別ニアリ」が、「カラザケヲ置」の後「文殊三種悉知」の前の位置に記されている理由は何でしょうか。
 「カラザケヲ置」より前の記述は行の日程と餅などの供物に関する事で、行なう行法については記されておらず、「カラザケヲ置」の後に「文殊三種悉知」以下の記述があります。
 「文殊三種悉知」以下の行法の記述の前に小さい文字の「毘沙門供行要別ニアリ」が記入されていますので、意図してこの位置に挿入されたのではないかと思います。
 もし、単に毘沙門供行要については、この文とは別に記載したものがあるということを言うのであれば、この位置に小さい文字で記入する必要は無いと思います。
 また、「文殊三種悉知」以下の行法の後に毘沙門供を行なうのであれば、この位置に記入する必要がないので、「毘沙門供行要別ニアリ」の記入は、「文殊三種悉知」の前に毘沙門供を行なうがその行要については別に記したものがあるので記さずに省略するということなのではないでしょうか。
 「別ニアリ」とされる「毘沙門供行要」は難波田論文や中村論文の示した付属文書中にあるとすれば、「(1)秋田祭之事 古四王寺」ということにならざるを得ないのでしょうが、はたして「(1)」文書は「毘沙門供行要」でしょうか。
 別にあった毘沙門供要は、失われてしまったのではないでしょうか。
 文書「(一)秋田祭作法 迅疾金剛宥雅」の「毘沙門」以下の記述が、別にあった「毘沙門供行要」を書写したものという可能性があるかもしれないと思います。
*続く「文殊三種悉知」「普賢三種悉知」「不動五ケ印」は、他の文書に見当たりません。
 このような行法について、密教や修験道の門外漢は分らないとしか言えないのですが、アラハシヤナは五字文殊と言われる真言のようで、「五古」は五鈷杵のことであろうと思います。
 五鈷印という印契に外五鈷や内五鈷という組み方があるそうですので、それについての記述かも知れません。
 「不動五ケ印」に続いては、五ケ印の結び方が記されているようですが、その印契の名称は分りません。

*この文書では、一日から十四日までの行で、禁足不出不入は十四日晩炊以後で、十五日朝に結願とあります。十四日までの供物餅は朔日に一度についておき、十四日朝飯後に結願の鏡餅をつくとあります。
 鏡餅三杯の上に昆布を長く布いてその上にカラザケ(干鮭)を置くとあるのは、結願の餅について記していると思いますので、十四日に行なわれると思います。
 十五日の結願後に籠者が供物を食すとあります。
 一方「(1)秋田祭之事」では、一日から十五日までの行で、禁足不出不入は十五日からで、十六日に結願とあります。毎日替える鏡餅は朔日に一度に用意して、十五日には結願の鏡餅をつくとあります。十五日初夜行後に三杯の鏡餅の上に昆布二枚重ねて供えてその上にカラザケ一本置くがあり、十六日に結願してそれら供物を籠り僧に食べさせるとあります。
 「(1)」は「(2)」よりも、結願までの行の期間が一日長くなっています。
 宥雅の「(三)古四王寺祭日記」の寛文の日記では、十三日の夕方から禁足不出不入となっていて、さらに禁足期間が長くなっています。
*「(2)古四王寺双身ノ三身/秘印事」の文書を「(1)秋田祭之事」文書と比べてみると、「(2)」は修法の日時に関する記載が簡素で「(1)」のような説明がないことと「(2)」に文殊三種悉知以降の記述があることを除けば、行法期日の違いによるもの以外はほぼ同じような行法が行なわれているようです。
 「(2)」の標題に「双身ノ三身秘印事」とありますが、「秘印」や「印鑰」に関する説明は見当たらないと思います。
 この「双身ノ三身秘印事」とは、「双身ノ三身秘印」の修法の手順を記したものということなのでしょうか。
 「四王寺印」祭の修法の元のありようが、このようであったのでしょうか。
 この文書の標題が「古四王寺」とあり、割書で「双身ノ三身/秘印事」とあって、割書が補記のようにも思えるのですが、この標題と本文の内容とが結びつかないというかしっくりこないように思います。
 「(2)」の標題は、「(1)秋田祭之事 古四王寺」に対応するようにも思え、秋田の古四王寺に秘印の行法次第を記した文書が伝わっていて、その文書に秋田祭ではなく古四王寺という表題を付けて積善院に渡したようにも想像したりします。
*この文書は、中村論文にある「二、四王寺秘印 一通」なのでしょうか。
 文書「(2)」には「古四王寺」「秘印」の文字があります。
 中村論文の六点の文書に「印鑰」と題された文書はないことから、もしかしたら「(二)印鑰」のことを「二、四王寺秘印 一通」と称しているのかも知れませんが、そうすると「(2)古四王寺双身ノ三身/秘印事」にあたる文書がありませんので、「(2)」を「二、四王寺秘印 一通」とするほうが妥当なのでしょう。
 中村論文の題名は文書に記されていた題名そのものを記したものではなく、自らの理解に添った題名にしているのかもしれません。

*秘印について、「「双身ノ三身」とあります。
 「双身ノ印明」が双身毘沙門天の心中心の印契と呪であれば、「秘印」はさらに双身毘沙門天の現出した形象であって、毘沙門天の三身としての秘印ということなのでしょうか。

○「(3)物忌令」
 物忌みの決まりが十五項目にわたって記されています。内容略。
 最後に日付が「弘治三年〈1557〉正月十四日」とあります。
*弘治二年十二月二十五日には、先に見たように、「湊安東二郎春都季、東門院主と矛盾、院主戦死して堂舎は悉く炎上す」が起っているようですので、「弘治三年正月十四日」の日付けが正しいとすると、東門院が記したものではないと思います。
 この日付のあるこの文書は、何を意味するのでしょうか。

*本文の記載の終わると、行をあらためて小さな文字で「右古四王寺本尊箱ノ中ニアリシ写」が記されています。
 小さな文字は、書き加えられた文ではないかと思います。
 この文書は、中村論文が「箱中にあったものゝ写である」とする「六、古四王寺物忌令写 一通」にあたるものでしょう。
 中村論文の記述のように、本尊箱の中にあった物忌令を写した文書ということでしょうか。
 こじつけのようにも思えますが、「箱ノ中ニアリシ写」とあり“アリシヲ写”ではありません。
 “アリシヲ写”とあればその文書は写しをとったものでしょうが、「アリシ写」なのでこの物忌令文書が「写」と分る者が積善院に渡す際に記した註という可能性もあるのではないかと思います。
 「本尊箱」というのは、普通に考えれば、「御本尊箱」の墨書のある秘印を収めた外箱を指しているのだろうと思いますが、他の可能性はないのでしょうか。
 古四王寺の修験者は、毘沙門天ないしは双身毘沙門天を本尊箱に入れて運び出したということはあり得ないでしょうか。

○「(4)秋田ノ本尊ノ名」
 これは、中村論文が「第三のものはやゝ古く戦国時代のものと思はれ」とする「三、秋田本尊記録写 一通」のことでしょう。
 小さな文字で「古キ写」とあって、「秋田城鎮守/古四王大権現本地/尺〈ママ〉迦四天王ニモトル也/五大尊ニモトル但不動ヲ/ノソク/御縁日/正月八日十五/佐竹右京大夫」とあります。
 この「古キ写」も書き加えられた註ではないかと思います。
 この註記は、古い文書を写したということなのかもしれませんが、文書が写しと承知している秋田古四王寺の者が積善院への註として記したのではないかと思います。
 この文書が、印鑰祭の付属文書の扱いを受けているのは何故でしょうか。

*「(五)古四王寺次第記」としてまとめられている文書は以上です。
 署名のない「(二)印鑰」の文書は、秋田時代に記されていた可能性があると思いますし、「(五)古四王寺次第記-(3)(4)」はもとより、「「(五)-(2)」も秋田時代のものという可能性もあるかもしれません。


◇四王寺印の読み方について
☆『日本 古代印 集成 「非文献資料の基礎的研究ー古印ー」報告書』(国立歴史民俗博物館 平8・1996)の、
資料「四王寺印」(資料番号134)の「備考」欄に「京都国立博物館の宮川禎一氏は、印文の第1字を『四』」と『天』の合せ文字とみて『四天王寺印』とする。」がありました。
 同資料の「古印の状態」欄に「破損」「破損の状況 印文「四」「寺」の一部に欠損した痕跡あり」があります。
 同「伝来の経緯」欄には「元来、聖護院内の積善院に伝わる。秋田祭(印鑰祭)にて『本尊』として使用されたことを示す『次第』が付属している。それによれば『隻身印』と称する印も存在したらしい。」があります。

○「四王寺印」の印面・印影を見てみます。
 ウェブサイト「銅印『四王寺印』―文化遺産オンライン」に印章の画像があります。
 〈 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/546405 〉
 印影については、国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスになりますが、『出羽の国』(新野直吉 学生社 1973)の「95コマ」(183P)、『秋田県の考古学』(奈良修介/豊島昂 吉川弘文館 1967)の「104コマ」(175P)に記載があります。

*「四王寺印」の「四」の文字は、「只」の字の口を四にしたような、四に足がついているような形に見えます。「四+八」のような字形です。
 ウェブサイトの「篆書字体データセット」(人文学オープンデータ共同利用センター)で、
 〈 http://codh.rois.ac.jp/tensho/unicode/U+56DB/ 〉 
 「四」を検索すると、四のクニガマエの中の二本の線がクニガマエの外に伸びて長めの足のようになっている例が記されていますが、四王寺印の「四」は四に短めの足を付けたような字体なので、そっくりの例は見当たりませんでした。
 それで「『四』には篆書の崩れた趣がある」としたのでしょうか。
 同様に「天」を検索すると、 〈 http://codh.rois.ac.jp/tensho/unicode/U+5929/ 〉、
 その中に「兀」の下に「兀」のような字形を見いだす事が出来ました。「一+八+一+八」のような字形です。
 下部の「八」が上部の「八」より長い例が多いものの、上下がほぼ同じ字体の例は見られますが、下部の足の「八」の方が短いものは見いだせません。
 上の部分の「兀」の左右に縦線を引けば「四+八」のようになりますので、「四王寺印」の「四」の文字は「天」の篆書の上の部分の「一+八+一」を四に変えて下部の足を短めにすればできあがるようにも見えます。
 その四でも天でもない文字を四と天の合せ文字と言えば言えるかも知れませんが、四と天の合せ文字と見えるようにするには、「四」の下の足を長めにして「天」らしくするのではないでしょうか。
 なお、同様に「印」の篆書字体の例を見てみると、「四王寺印」の「印」と似ている例は見出せませんでした。あるいは、「印」の文字に欠損があるのかも知れません。

*「四王寺印」の「四」が、四と天の合せ文字であれば、印章は「四王寺印」ではなく「四天王寺印」の可能性もあるわけですが、「四天王寺印」を「四と天の合せ文字」に「王寺印」の陽刻として鋳造するのであれば、誰が見ても四と天の合せ文字と分かるように造ろうとするのではないでしょうか。
 「四王寺印」の「四」は、隣の「寺」の文字よりも上下が短いので、四の下部の足をもっと長くする余地はあるし、上部の四をもう少し小さくすれば四に長めの足がつけられます。
 そこからすれば、四と天の合せ文字に見せる努力が払われているとは言えないと思います。
 「四王寺印」の「四」は、大きな「四」が目立ち、そこに足があるように見えるので、「四王寺印」とされてきたのではないでしょうか。

*合せ文字という、いわば四でも天でもない文字を作る意味は何でしょうか。
 寺院名の印章に「合せ文字」を使うものでしょうか。そのような例はあるのでしょうか。
 摂津国の四天王寺の印章ないしは印面のある文書が見いだされて、四天王寺印が四と天の合せ文字であれば論を待たないのですが。
 本稿では「四王寺印」として論をすすめていきます。

○寺院名の印章に「合せ文字」を使うものだろうかという疑問があり、そのような例はあるのだろうかと思い、宮川禎一氏の論文を探してみました。
 京都国立博物館のホームページの「研究員紹介」で宮川氏の業績や過去の執筆物を見ても該当しそうな論文は見当たらず、『京都新聞 京都国立博物館名品手帳』というコラムに〔銅印「四王寺印」〕が2014年5月21日にあることが知れたのみでした。
 コラム〔銅印「四王寺印」〕は二面に分けて掲載されておりますが、「『四』の字形が面白い。」とあるだけです。

☆京都府立総合資料館発行の『総合資料館だより』(2112.4.1 NO.171)〈 https://www.pref.kyoto.jp/rekisaikan/documents/dayori171.pdf 〉
に「歴史資料課の窓から 『四天王寺印』―矢野家写真資料から−」という記事があり、
「最初の文字が『四』と『天』の組文字になっていることがわかります。したがって、この印文は『四天王寺』と読むべきですが、重要文化財に指定されたときはそこまで読めておらず、「重要文化財『四王寺印』」とされています。」と記されていました。
 学問水準が進んで、四天王寺と読むようになったと言いたいのでしょうか。
 また「この印章が積善院に移されてから、京都で『秋田祭』と呼ばれる祭が行われていました。その時の作法を伝えたものが付属の5種類の古文書で、写真1に写っているものです。いずれも江戸時代に積善院の門跡が記述したものです。」ともあります。 
 この記事の参考文献は、難波田徹「『四王寺印』と印鑰祭」、『日本古代印集成』(国立歴史民俗博物館 1998)、、土橋誠「印章の持つ呪術的性格について」(『朱雀』第13号 京都府京都文化博物館 2001)、土橋誠「積善院『秋田祭(印鑰祭)』に関する一考察」(『琵琶湖と地域文化』林弘道先生退任記念論集刊行会 2011)と記されていました。
 ここにある『日本古代印集成』は、本記事で既に触れている『日本 古代印 集成 「非文献資料の基礎的研究ー古印ー」報告書』(国立歴史民俗博物館 平8・1996)と年号に違いがありますが同じものではないかと思います。 
 土橋誠をウエッブ検索してみると、サイト「日本の研究.com」「Webcat Plus」に記事があり、2011年度は京都府立総合資料館・職員のようです。

☆土橋誠「積善院『秋田祭(印鑰祭)』に関する一考察」を見ます。
*論文の「1.はじめに」の終りに「なお、『四王寺印』については、かつて述べたことがあるように註2、『四天王寺印』とするのが正しく、本稿でもこの名称を用いることにする。」があります。
 その註2には「土橋1998。この印章を調査した際、京都国立博物館の宮川禎一氏より、『四』と『天』が組み文字になっているのではないかとの指摘を受けた。その旨を報告の中で記しておいた。改めて御指摘には感謝したい。」とありますが、論文の文献欄に「土橋1998」が見当たらず、『日本古代印集成』1998〈1996の誤りか〉がありますので、本記事で既に見たように〔資料「四王寺印」(資料番号134)の「備考」欄に「京都国立博物館の宮川禎一氏は、印文の第1字を『四』」と『天』の合せ文字とみて『四天王寺印』とする。」〕を記したのは土橋誠と思われます。
 そうすると、指摘を受けてそのまま報告書に記述したということで、組み文字ないしは合せ文字であることの論証は試みられてはいないのではないでしょうか。
 仮説としてであれば、なるほどとも思えるのでしょうが。
 合せ文字とあったり、組文字とあったりしていますが、どちらも二文字を組み合わせて一文字とする造字というような定義がある単語ではないようで、いわば造語のようなものではないかと思います。
 本稿では、文献に記載された「合せ文字」という表記を踏襲しておりましたが、以後地の文では「合字」と表記します。
*そして、「四王寺印」を四天王寺印と読めるとする人がいたという事実は、過去にもそのように読む人がいたのではないかと思わせます。
 そこに「四」の字形を変化させた意図が隠れているのかもしれないとも思わせます。
*また、資料「四王寺印」(資料番号134)の「伝来の経緯」欄にある「隻身印」ですが、四王寺印の付属文書に「隻身印」は見当たりません。「雙身印」という記載はあります。

*さて、土橋論文には難波田論文を受けての記述に、印の外箱が大永4年に制作されたことになると記して「重要なのはこの墨書〈外箱底裏銘〉が明治3年以降に書かれていることである。」、「外箱裏の銘には『大永四年』に作られたとする明治3年に書かれた墨書があった」と記述しています。
 難波田論文は「外箱底裏銘の後二行〈至明治三年・・とある二行〉は明治三年に書かれたものであり」と記していて、前二行「大永四年甲申/正月十六日」については明治に書かれたものとはしていません。
 これを見落とすような読み方は考えられません。

*また、難波田論文の示した五件の付属文書について「いずれもこの祭が積善院で行われるようになってから、その由来を述べ、この文書を作成した当時、どのような手順で秋田祭が行われているかを記したものである。」とか「これらの史料はあくまで江戸時代に積善院で行われていた秋田祭に関するものであり」と記しています。
 付属文書「(五)古四王寺次第記」について「この『古四王寺次第記』が示す内容は古い要素を持ちながら、積善院で行われたものの図などを書いてまとめられたのではなかろうか。」と記しています。
 また、付属文書「(一)秋田祭作法 宥雅筆」の文末の「右古四王寺祭礼之作法」に始まる五行の文について「寛文9年に宥雅が灌頂を受け、翌10年に道晃親王が灌頂を受けたときに古本を書き写したとする。よくわからないような後書きではあるが、」と本当によく分らない記述をしています。
 付属文書のすべてが積善院で記されたものと考えているように思えますが、その認識には同意できかねます。
 付属文書の読み取りや分析に関しては、すぐれたものもあり教えられる点もありますので、史料読みを急ぎすぎたのでしょうか。
 先に記した、京都府立総合資料館発行『総合資料館だより』の記事の、付属文書は「江戸時代に積善院の門跡が記述したものです。」も、この土橋論文と同じ認識ですので、『総合資料館だより』の記事は土橋誠によるものと思われます。

◇大山の「聖徳太子伝私記」に関して
☆荻野三七彦編『聖徳太子傳古今目録抄(本編)』(法隆寺 昭12・1937:国立国会図書館デジタルコレクション送信サービス)を見ます。
 「荻野三七彦考定」とあるこの書籍の「例言」に「一 本書は御物顕真自筆の古今目録抄を底本として印行したるものなり。/一 本書には未だ確定したる名称なし、今これを聖徳太子傳古今目録抄と称せり。〈以下略〉」とあります。

*同書の下巻の終りに近い方に記載されている「太子建立四十六箇寺院」の最後に「四天王寺」とあって、その下に割書「出羽国秋田城在之御印半令/置給残半者津国天王寺在之」が記されていました。
 (『考定本』昭和10年刊では85頁下段)とありましたが、閲覧本でも85ページです。 国会図書館デジタルコレクションでは、107コマ 〉
 四十六箇寺院の三番目に「御□院四天王寺〈割書〉摂津国玉造岸上立之本天王寺□(者)合/戦願寺也此所被移立新天王寺也/金堂名也」がありました。
*大山論文の記した「寛元三年乙巳二月十六日」の日付は、「太子建立四十六箇寺院」などが記されている表面ではなく用紙の裏面の記述のなかにあるものです。国会図書館デジタルコレクションでは95コマの上段に記されています。

☆『聖徳太子伝古今目録抄の基礎的研究』(『聖徳太子傳古今目録抄』別冊 荻野三七彦編 法隆寺 昭12・1937:国立国会図書館デジタルコレクション送信サービス)の、
「序説」に「本書は、鎌倉時代中期に法隆寺の僧顯眞によって編まれたものであって、当時に於ける法隆寺竝に聖徳太子傳に関する記録である。」とあります。
*「第二章 稿本の考察 第二節 内容」に、「顯眞は本書の編著に言及して、自ら次の如く云ってゐる。この抄に記載する所は概して口傳である、それは所謂、増覚晄S入寺 覺印五師 禅覺五師 智勝五師 隆詮五師等相承の口傳であると。」、「更に又此等相承の口傳以外に、一般世間に流布する口傳の抄を少々加へ記したと附言してゐる。」とあり、「上巻は嘉禎四年即ち暦仁元年〈1238〉に、下巻は延応〈1239ー1240〉より寛元〈1243ー1247〉に至る数年間に一応は編著された事となる。」がありました。鎌倉時代の元寇以前の時代です。
*この下巻の編著年代について、下巻の裏面の記事に六箇所の年紀があり、ここに大山の言う「寛元三年」もあるのですが、これについて荻野は「必ずしも夫々〈仁治三年・寛元三年〉の年紀と同時に記録されたとは云ひ難き性質のものである」と記していますが、これらの年紀の中から下巻の編著年代を推定したとしています。

☆田中重久『聖徳太子御聖蹟の研究』(昭19・1944:国立国会図書館デジタルコレクション送信サービス)の、
「第三編 聖徳太子建立四十六院の研究」の項目「聖徳太子建立四十六院の研究」の「三 御物聖徳太子伝私記の四十六院の記の二種様」中に、「法隆寺僧顯眞によって書かれた聖徳太子傳私記(下巻表)に、此の頃既に太子によって創立されたと傳へた寺々を列挙して」と記して、「四十六箇寺院者二種様」以下に記載されている寺院を「符神寺」から順に「施鹿薗院法隆寺北山在之玉造四天王者依被移荒陵上不入四十六ケ数云」までを引用し、その引用記載を受けて「と記し、又其の直後に/野中寺河内国蘇我大臣造 /四天王寺〈割書〉出羽国秋田城在之、御印半令置給、今〈ママ〉半者、津国天王寺在之/とも記している。」とあります。
 そして、この寺院一覧について、太子以外の建立と記している寺〈野中寺河内国蘇我大臣造もその一例〉などについても「之等を悉く太子寺院として数へてゐるのである。以て之等の太子建立寺院が既に筆者顯眞に於ても如何なる性質のものであったかが推されよう。言わば彼は当時太子建立と傳へる寺々を手当り次第に列記しただけで責任は負はないのである。」とあります。
 確かに、この寺院一覧に「二種様」とあり、四十六院とされる寺院の数え方に少なくとも二種類あることが記されており、その二種類の寺院が記載されているためでしょうが、記載の寺院数は「施鹿薗院寺」までで五十寺院になっているようです。
 野中寺と出羽国四天王寺は、その後に付け加えられているようです。

*☆「顕真著『顕真自筆古今目録抄:聖徳太子伝私記』下巻 昭9:」を、国会図書館デジタルコレクションで見て、
 〈 https://dl.ndl.go.jp/pid/1186792 〉
顕真の自筆を確認すると、野中寺と四天王寺の部分〈48コマ〉の文字はその前に記されている寺の文字より小さく見えます。
 「四天王寺」の文字の右側が欠けているように見え、割書の「出羽国秋田城」文字の左側が欠けたように見えるのは、紙の継ぎ目があるためのようです。

*また、田中重久の同書・同編の「二 太子建立四十六院記の上限」中に「後世之等推古朝の四十六寺〈推古天皇紀、第三十二年條〉は、悉く太子が御創立になったものだといふ考へ方が胎生し、発生した。詰り世に太子建立四十六院といふものは、決して太子建立七寺が八寺になり、九寺になり、十寺になり、十一寺になりして、軈て遂に四十六院に到達したものではなくて、之は推古朝の四十六院が太子の四十六院に置き替へられただけのものである。」があり、「従来の学者は太子建立四十六院の発生を鎌倉時代以後のこととして来た。併し御物聖徳太子伝私記下巻表にも「四十六箇寺院者」として「二種様」と言ひ、現存の文献だけを見ても少なくとも三種類の太子四十六院が鎌倉時代に行われていたことが指摘されるから−かく発達した四十六院の祖形は、もっと早い頃から言ひ出されていたことが考へられるのである。」「太子建立四十六院の傳は恐らく法隆寺内或は四天王寺内で、天喜〈1053〜58・平安時代〉の頃或はその少し前から言ひ出したものと見られる。」を記しています。
*同書・同編「六 鎌倉時代の四十六院の性質」に「鎌倉時代に太子建立寺院として四十六院の名に引き摺られ記し挙げられた寺々は約七十カ寺であった。之等を今国別に見ると大和国が三十七寺、近江国が十三寺、河内国が八寺、山城国が四寺、摂津国が三寺、駿河、信濃、三河、出羽の五国が各一寺で、大きく地方的に見ると近畿地方に六十五寺、中部地方に四寺、東北地方に一寺となり、何と言っても大和が中心で畿内近江を除く に五十二寺を数える当然さが首肯され、信州や駿河、秋田に一寺を見ることが如何にも不審とされる。」「飛び離れた秋田で一寺を数へたのは、かかる鄙地に四天王寺といふ名の寺のあることに驚いての附会に相違なく、もとより顕真の気まぐれであったらう。/ところが之等鎌倉時代の四十六院は、室町時代には更に其の数を加え、〈略〉」があります。
*同書・同編「七 行基建立の四十九院と太子建立の四十六院」では、推古天皇紀の四十六院から転化された假空の太子四十六院に何故に一々寺名が与えられたのであろうかと問うて「私は之は行基建立四十九院の影響であらうと思ふ。」と記して、「安元元年〈1175〉に編まれた行基年譜には、之等の四十九院の寺名と其の所在、建立年代を一々挙げて記している。」「太子建立の四十六院といふものに、一々寺名を与えて夫れを列記した流行は、此の行基年譜のー或は今の年譜の祖本の影響によるものと推されるのである。」と記しています。
*同書・同編の「聖徳太子建立四十六院の遺蹟」中に「十六 出羽国四天王寺の創立」があり「類聚国史に拠れば秋田城内四天王寺の本尊は丈六の仏像であったといふから、四天王像を本尊とした訳ではなく、四天王は西大寺の如く四王堂に奉祀されていたらしい。」を記しています。

*『聖徳太子伝古今目録抄』の太子建立四十六院に出羽国の四天王寺が追加記入されたことで、その追加された年代を特定できないまでも、おおよそ鎌倉時代頃には秋田の地で秋田の四天王寺も聖徳太子四十六院に含まれるという説が言われていて、法隆寺の僧の耳にも届いていたことになるのでしょう。
 大和や鎌倉のほうで、秋田にあったという四天王寺は聖徳太子建立四十六院に含まれるのではないかという説が言われ出したということではないように思えます。

○先に、「陸中国新渡戸文書」の「出羽国秋田城古四天王寺別当助法印恒智代」に始まり後半に「右当寺者、為聖徳太子御建立之地、天下無双霊場也、而成遍僧都以来、至当寺務恒智法印、六代相伝当知行無相違者也」があって「延文元年六月 日」で終わる文書について見ました。
 「出羽国秋田城古四天王寺別当」を名告っており、「古四天王寺」の初代成遍僧都以降の時代は鎌倉時代になるわけです。
 その「古四天王寺」は、「聖徳太子御建立之地」にあって「天下無双霊場」との由緒を伝えています。「聖徳太子御建立」ではなく「聖徳太子御建立之地」とありますので、聖徳太子御建立の四天王寺がかつてあった場所であり、いにしえの四天王寺に敬意を表わし四天王寺に連なることを示すための古四天王寺の名乗りではないでしょうか。
 「古四天王寺」初代以前の段階に、秋田の四天王寺も聖徳太子御建立とする説が言われていたことでの「古四天王寺」ではないでしょうか。
 『聖徳太子伝古今目録抄』の出羽国の「四天王寺」に続く割書は四天王寺に関する情報で、所在地「出羽国秋田城在之」と太子建立四十六院たる根拠「御印半令置給残半者津国天王寺在之」の記載ではないかと思います。

○「御印半令置給」とは、どんな意味なのでしょうか。何をどうしたというのでしょうか。
 御印は印を尊んだ言い方とすれば、印の半というのはひとつの印の半分ずつを出羽国と、摂津国の天王寺・四天王寺に置かせたということでしょうか。
 割符のように印を半分にすることは考えがたいと思いますし、「四王寺印」の存在から考えれば、「御印半令置給」の印は「四王寺印」のことなのではないかと思います。
 妄想になるでしょうが、「四王寺印」の謂れが分らなくなっている時代、四王寺の存在が忘れられてしまった時代に存在した寺院が、この寺院は紆余曲折はありながらも四天王寺からの歴史に連なっていると思えば、伝わっている印章は四天王寺印であるはずなのに四王寺印とあるので、四天王寺印の半分の四王寺印が秋田にあって、残りの半分の天王寺印が摂津の天王寺・四天王寺にあるという話を作りあげてしまったという可能性があるかもしれないと思います。

*「四王寺印」の存在する事からすれば、秋田城付属の四天王寺を再興する必要が生じた時、四天王寺の再建ではなく、四天王修法のための四王寺とし建立されたのではないでしょうか。
 その復興は、平安時代の前期の、天長七年〈830〉の大地震の後か、元慶二年の乱〈878〉以降の復興時ではないでしょうか。
 四王寺は四天王修法のための四王堂を中心とする寺院であったのかも知れないと思います。
 時代を経て、寺が廃れ僧侶がいなくなったとしても、四王堂が残れば、周辺の民衆は四王堂を信仰の対象としていったのかも知れないと思ったりいたします。

○「四王寺印」について、四と天の合せ文字ないし組文字によるもので四天王寺印と読むべきという説があります。
 四王寺ではなく四天王寺として再興されていれば、四天王寺の印章を作る場合に、もし印文に四文字の制約があったとしても、四と天の合字の、どこにも無い文字のどこの寺印か分かりにくいような印を鋳造するものでしょうか。
 もし合字で鋳造するのであれば、四と天の合字と分かりやすい字形を工夫するのではないでしょうか。
 「四王寺印」の「四」は、分かりやすい合字ではないと思いますので、四天王寺印ではないと思います。
 「四」の文字の「只」の「口」部分を「四」にしたような字形が「四天」を意図したものであるとすれば、四王寺として建立されたことが不本意で四天王寺たることを主張したい思いを隠して、簡単には四と天の合字と思わせずに、四王寺印を四天王寺印のようにも読める印を作りたかったのかもしれないと、妄想いたします。
 四王寺印とも四天王寺印とも読める印章であれば、それはひとつの印ではなくふたつの印が合わさっている形象、つまり双身印であり、双身毘沙門天が聖徳太子の霊寺の印章として具現化したものであるという考えが生まれる可能性があるかも知れないと、妄想を重ねます。

*佐竹氏の移封以前にあった古四王寺の別当が積善院に伝えた四王寺印は、平安時代からどのような経緯を経て、どのような「印鑰」として伝えられてきたのでしょうか。
*鎌倉時代中期の『聖徳太子伝古今目録抄』の聖徳太子建立四十六院への出羽国「四天王寺」の追加記載に「御印半令置給」があり、佐竹氏の秋田移封まで「古四王寺」が行っていたであろう「四王寺印」を祭る「印鑰祭」には「聖徳太子持百済国之印鑰崇秋田之城之霊寺」とあるのは、ともに印章に関する伝承ですが、それぞれ異なる四王寺印に対する認識に由来する発祥時期の異なる伝承なのではないかと思います。
 一方は、四王寺印を四王寺印と読むことで生じた半分の印という想像からの伝承であり、もう一方は、四王寺印を四天王寺印と読めるとしたことからの想像によるひとつでふたつの双身印とする伝承なのではないでしょうか。

*「印鑰祭表白等」に記される「秋田之城之霊寺」というのは四天王寺が念頭にあるのだと思いますが、「御印半令置給」の伝承ではなく、「聖徳太子持百済国之印鑰」とあります。
 聖徳太子と太子に係わる印章があるという伝承があって、聖徳太子持百済国之印鑰ということになったのでしょうか。
 こちらの方が「御印半令置給」伝承より後に生まれた伝承になるのであろうと思います。
*古四王寺の「印鑰祭」は、「百済国之印鑰」のための修法には思えません。
 「百済国之印鑰」はどのような印鑰とされているのでしょうか。
 妄想をすれば、「双身ノ印明」や「双身ノ三身秘印」とあることと「百済国之印鑰」を結びつけるとすると、印鑰祭表白文中にある「彼ハ権化是ハ聖仁共ニ大権ノ化現也定テ深意有ラム者哉」という文によって、「百済国之印鑰」は「双身ノ三身秘印」と化するのでしょうか。
 「四王寺印」が四王寺印以外の何物でもない単なる寺印で、四天王寺印と読むことができないような印であれば、伝えられるような形の「印鑰祭」は行なわれたでしょうか。
 双身印とされたことで、双身毘沙門天の化身の霊威のある印とされたのではないでしょうか。
 「四王寺印」の鋳造者は、意図を越えて、ふたつの伝承を生んだのかもしれません。

*ここまで、分らないことを想像・妄想で、あれこれと記してきました。
 この記述の状態で公開して記録しておきたいと思います。

*2024年4月15日
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