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 外編  4 延喜式(主税上-諸国本稲条)出羽国の「四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束」について 


〈 はじめに 〉
 古四王神社について知ろうとすると、大山宏氏の論考、特に「古四王神社の源流を尋ねて」「秋田城阯に就いて」の二論文、の検討が必要になると思います。
 〈「古四王神社の源流を尋ねて」(初出:秋田魁新報に連載1925年12月9日〜。所収『秋田郷土叢話』昭和九年刊行:書籍収録にあたって改稿の模様)。「秋田城阯に就いて」(所収『秋田縣史蹟調査報告 第一輯』昭和7刊行)〉

*大山宏の上記二論文には数々の論点がありますが、その一つとして延喜式-主税上-諸国本稲条の出羽国項に「四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束」が記されていることと秋田城付属寺院の四天王寺の復興・再建とを結び付けて論じている事があると思います。
 「古四王神社の源流を尋ねて」においては、項目「十一、四天王寺と秋田城」中に、天長七年正月の大地震で四天王寺・丈六佛像・四王堂舎も顛倒したが、「その後再建せられたことは、延喜式出羽国正税に四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束とあるので知らるゝ」とあり、「秋田城址に就いて」-「第六章 四天王寺及四王堂舎」中に、「元慶二年夷俘反乱」で「四天王寺並に四王堂舎も回録の災を免れなかったであらう」が「平定後間も無く復興されて、凡厥塁柵楼塹皆倍旧制〈「藤原保則伝」〉とあれば、四天王寺並に四王堂舎も輪奐の美を極めたに違ひない。この事は延喜式出羽国正税の條下に四天王修法僧供養並法服料二千六百八十束が計上してあるので推測される」と記しています。
 「藤原保則伝」の「於是公復立秋田城。凡厥塁柵楼塹、皆倍旧制」と延喜式巻第二十六主税上の諸国出挙正税公廨雑稲の出羽国の記載に四天王修法僧供養並法服料云々があることをもって、天長七年大地震及び元慶の乱の後に四天王寺が再建・復興されて存在したことの証左としています。
 なお、『秋田市史 第七巻 古代 資料編』〈以下『市史七』〉によると、「藤原保則伝」は文章博士三善清行が延喜七年〈907〉に選定した伝記で、「秋田城を旧来の二倍の規模に再建したということは三代実録にはみえない」とあります。

*この延喜式-主税上-諸国本稲条の出羽国項の四天王修法僧供養並法服料云々に関しては、本HPの「探訪記録以外の記事」の「外編2 四天王修法と四王寺」において、出羽国の四天王修法云々の記載内容と延喜式・主税上の長門国の四王寺修法料の「細目を比べると興味深いものがあると思います」と記して、出羽国では「四天王修法」をおこなう僧供養と法服料の記載だけで、四王寺修法料の「飯料や燈油などが無いのは、施設維持費を計上しなくてもよい場所での修法なのでしょうか」という、早くにいだいた疑問を記しています。

*延喜式の出羽国条で四天王修法を行なう僧の供養料及び法服料が定められていることは、四天王修法が行なわれているとは言えても、四天王寺が存在することを、秋田城付属寺院の四天王寺(あるいは四王寺)が再興されたことを、直接示すものではないのではと思います。
 そのことから、出羽国にわざわざ修法僧の供養料や法服料を定めているのは、四天王修法を行ない得る僧がいないとか四天王寺が無いとかによって、四天王修法を行なう僧を招請する必要があって供養料や法服料が規定されているという可能性はないだろうかと思い、また出羽国に四天王寺が存在し四天王修法を行い得る僧が存在するのであれば、四天王寺料とか四天王修法料とかの計上でよいのではないかと思いました。
 これは、大山論文の当該の記述を短絡的で結論を急いでいて論証されていないように感じたことから、そのような事を思ったのですが、延喜式-主税上の四天王修法に関連すると思われる部分を読んでみた段階での感想のようなものになります。

 延喜式-主税上-諸国本稲条-出羽国の項中の「四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束」について、あらためて調べていきたいということがこの記事の動機になっています。

〈本記事の大まかな構成〉
 1 延喜式-主税上
  ○「諸国本稲」条  ○寺院に対する財政措置  ○玄蕃寮
  ○「諸国本稲」条の出羽国・他  ○出羽国の国分寺  ○出羽国の五大尊常燈節(佛)供料
 2 太宰府の四天王像安置・四天王修法施設について
  ○資料集『太宰府 四王院』  ○四天王寺・四王院・四王寺
 3 伯耆国・出雲国・長門国および出羽国の四天王修法について
  ○延喜式-主税上の伯耆国条・他  ○伯耆・出雲・長門の四王寺

〈註〉
 〈山括弧〉は、当方による補足・注などの書き入れに用います。
 引用に際しては、旧字・異体字などでシステム的に表記できない場合で新字体表記が可能であれば改めます。
 表記・判読不能文字は■をおき、可能であればユニコードや文字の形を示すようにします。
 漢文・和漢分などの場合は横書きでは「返り点」を省略しています。
 漢文・和漢分などに付けられている句読点は引用文の最後にも付けます。
 フリガナは漢字に続けて半角でフリガナを入れます。フリガナを省略する場合もあります。
 改行表示をする場合には/ないし/を用います。
 割書は、割書部分を〔亀甲括弧〕で示し〔割書: /  〕と記します。
 引用文中に『 』「 」がある場合は、「 」を『 』に変えると区別が付かなくなりますので、引用部分を〔引用: 〕とする場合があります。

1. 延喜式-主税上
◇虎尾俊哉は『古代東北と律令法』(吉川弘文館 平7年6月)の「U 2 古四王神社と四天王寺・四王堂」において、「延喜主税式上諸国本稲条の出羽国の項に『四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束』が揚げられていることについても」「太宰府四王寺の例は俊示を与えてくれる。すなわち同寺では、宝亀五年以来、時に弛張はあったが、四天王法を修するために四僧が置かれ、その供養と布施の料が措置されていた。別々に安置されていた一王ごとに一僧が修法の任にあったと見て差支えあるまい。前掲延喜主税式諸国本稲条に規定された出挙の利稲は、これと同じような形で出羽国から秋田城の四王堂修法僧に配分されたのであろう、というのが私の密かな推定なのである。/なお延喜主税式上によれば、伯耆・出雲・長門の国々にも『四王寺』があり、この三カ国では修法料が当国の正税をもってまかなわれていたことが分かる」と記しています。
 この俊示に従っていこうと思います。
 〈虎尾が「秋田城の四王堂修法僧」と記している意味に留意したいと思いますが、この記事では触れません。〉
 先ず、延喜式・巻第二十六主税寮上の出羽国の記載について、詳しく見ることが必要のようです。

◇虎尾俊哉『延喜式』(吉川弘文館 昭39、令1年5月新装版第六刷)の「四-6 民部省関係の式」の「主税式」中に「諸国出挙正税公廨雑稲」について、「これは、諸国の出挙稲の本稲の額を、正税稲(利稲を一般的支出にあてる)・公廨稲(利稲を国司の俸料にあてる)・雑稲(利稲の使途の指定されている種々の出挙稲)の三区分によって示したもの」とあります。

◇虎尾俊哉「延喜主税式諸国出挙本稲条の研究 ー延喜主税式研究(二)」から、後で幾つか引用させて頂きます。
 (所収『弘前大学国史研究』19/20号 1959-12 :昭34)〈以下、「虎尾1959」〉
 〈弘前大学学術情報リポジトリ https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/records/765 〉 
◇訳注日本史料『延喜式 中』(虎尾俊哉 編 集英社 2007-6)〈以下、『延喜式 中』〉
 延喜式の条文について記述する際に参照させて頂いた部分を《二重山括弧》としました。

※本記事は、『延喜式』を『新訂増補 国史大系 第二十六巻』(黒板勝美編 国史大系刊行会 昭12)によって見ます。
 〈国立国会図書館デジタルコレクション・個人送信サービスにて閲覧可能〉
 同書からの引用にあたっては、本文に付された校勘のしるしとその註を省略する場合があります。本文の校勘を表示する場合は、当該文字に(半角小括弧)を付してその註を引用文の後に略記します。

◎延喜式-主税上-「諸国本稲」条
*「延喜式 巻第二十六 主税上」の最初から12行目で本文欄外に「諸国本稲」とある「諸国出挙正税公廨雑稲」の項目を見ていきます。
 欄外の「諸国本稲」は、二文字づつに分けて記され、周囲を囗で囲われています。これは「凡例」に「毎條の標目」とある標目の事と思いますので、欄外の囗内の記載を示すときは標目と記すこととします。
 なお、「れきはくホームページ」の「延喜式関係論文目録データベース」ページにある「項目説明」中の「史料」中に「※条文番号一覧」のリンクがあり、「条文名・条文番号一覧」が閲覧できました。
 〈国立歴史民俗博物館HP トップページから「研究/研究・大学院」に進み「資料・データベース」ー「データベースれきはく」ー「データベース一覧へ」ー「研究成果・論文目録データベース」ー「延喜式関係論文目録ー概要説明」
 〈 https://www.rekihaku.ac.jp/doc/gaiyou/boed.html 〉
 この「条文名・条文番号一覧」は史料項目の内容に〔引用:条文名・条文番号は原則として『訳注日本史料 延喜式』下巻(虎尾俊哉編、集英社刊)掲載の「条文名・条文番号一覧」に従いました〕とあるものです。
 国史大系本標目「諸国本稲」の「諸国出挙正税公廨雑稲」は、「条文名・条文番号一覧」での番号と条文名は[5/出挙本稲]です。
 以下「条文名・条文番号一覧」による番号と条文名は[大括弧内に番号と条の文字/条文名」で表示します。
 本記事では、「諸国出挙正税公廨雑稲」の条文名を標目の「諸国本稲」条と記すことにします。

§「諸国本稲」条には、山城国から薩摩国までの66の国と壱岐嶋と対馬嶋の2嶋が記載されています。
 国の記載は、畿内の五国、東海道の諸国、東山道諸国、北陸道諸国、山陰道諸国、山陽道諸国、東海道諸国、西海道の諸国と壱岐・対馬の順で、畿内は山城・大和・河内・和泉・攝津の順、各道は畿内に近い方からとしているようです。
 なお、陸奥国・出羽国・佐渡国・隠岐国・壹岐島・対馬島は、「延喜式 巻二十二 民部上」には「右四国二島為邊要」とあります。

§それぞれの国の記載内容は、国名に続いて多くの場合「正税公廨各○万束」と記され、次いで雑稲部分が記されています。
 正税と公廨の数字が同じで各○万束と記述する国が55箇国で、それ以外の11箇国中の8箇国(駿河・陸奥・出羽・佐渡・丹波・出雲・隠岐・淡路)では正税より公廨が多く、安藝国と大隅国では正税の方が公廨よりわずかに多くなっています。
 志摩国は「正税穀一千二百斛。救急料五百斛。」とあり、稲の単位ではなく穀の容積単位で記されているようです。
 『延喜式 中』の頭注に、「正税穀一千二百斛を穎稲に換算すれば一万二〇〇〇束、救急料五百斛は同様に五〇〇〇束となる」とありました。
 なお、壹岐嶋は「正税一万五千束。公廨五万束。修理池溝料五千束。救急料二万束。」とあり、對馬嶋は「正税三千九百廿束。」とだけあります。

◎「諸国本稲」条の諸国の雑稲(1)
 雑稲の部分には、例えば「国分寺料○万束。文殊会料○千束。□□寺料○束。修理池溝料○束。救急料○束。俘囚料○束。」等が記載されています。
§国分寺料は、安房国と出羽国と志摩国には記されていません。
 しかし、志摩国については伊勢国と参河国に「修理志摩国国分寺料三千束」とあり、志摩国には修理される国分寺があることになります。
 欄外に、伊勢国の「修理志摩国国分寺料三千束。文殊会料二千束」は他の本により補った旨が記されています。
 これにより、国分寺料が記されていないのは、安房国と出羽国の二国になります。

*志摩国が気になります。
 志摩国の項には「正税穀一千二百斛。救急料五百斛」とあるのみでしたが、公廨料の手当については、[14条/志摩公廨]に「凡志摩国(・)公廨料。用尾張国縁海郡正税穀。給守三百石。目百五十石。吏生七十五石。:(・)弘仁式に国司」とありますし、[49条/志摩国安居]に「凡志摩国講(読)師安居法服布施供養。以尾張国正税充之。其所請用読師以参河国正税充之。正月転読最勝王経会亦同。 :(読)無し本有」もあり、志摩国ではまかなえない国分寺の講(読)師の安居の法服・布施・供養に尾張国の正税を充て、請じて用いる読師には参河国の正税を充てる。正月転読最勝王経会についても同じ。としているようです。
 なお、[15条/鎮守府公廨][16条/大宰府公廨]があります。

※寺院に対する財政措置
◇吉田一彦「古代国家の仏教儀礼と地域社会」(所収『芸能史研究』 第192号 2011年1月)〈以下「吉田 2011」〉
〈 論文名で検索するとpdf.が閲覧できました 〉
 項目「三、延喜主税式に見える仏教儀礼」の「仏教儀礼の料」に、「延喜主税式上には、第四十五条(十五大寺安居条)から第七十三条(供御餅条)まで、寺院に対する財政措置が規定されている。そこには、十五大寺安居の供養料からはじまり、仏教儀礼に関わる規定が少なからず見られるが、他方、年中供養、衆僧供養、仏供、仏聖供、僧供、あるいは年料油、年料米、修理料穀といった、必ずしも仏教儀礼にともなうわけではない経常的支出に関する規定も見られる。仏教儀礼に関わる条では、『布施』『供養』『法服』などについての財政措置が規定されている。〈略〉」とあります。
 [49条/志摩国安居]は、[45条/十五寺安居]から[73条/供御餅]までの、寺院に対する財政措置に関わる規定に含まれています。

◎延喜式-主税上の寺院に対する財政措置の例
○[45条/十五寺安居]は、国史大系標目では「十五寺安居供」で、「凡十五大寺〔割書:其号見/玄蕃式〕安居供養料米。寺別廿一石六斗二升七合。但大安寺加大般若経會料六石八斗。並「以」當国舂正税送之。其舂運功亦用正税。 :「以」衍字か」とあります。
 「並當国舂正税送之。其舂運功亦用正税」は、『延喜式 中』では、安居供養料米を《みな当国、正税を舂きて送れ。その舂運の功もまた正税を用いよ》とあり、頭注に「当国」は各寺の所在国で、「舂運功」は穎稲・稲穀を舂いて米にし、また運送することの経費とあります。
 この条に関して、『延喜式 中』頭注に、この条は玄蕃式4条に基づく支出規定とあり、十五大寺の号も玄蕃式4条を、安居供養についても玄蕃式4条を参照とあります。
 玄蕃式は、延喜式巻二十一「治部省、雅楽寮、玄蕃寮、諸陵寮」に収められています。

◇「吉田 2011」の「一、延喜玄蕃式に見える仏教儀礼」-「延喜玄蕃式の規定」中に、「国家が挙行もしくは関与する仏教儀礼について直接規定する条文は、巻二十一の玄蕃寮に納められていることに気づく。他の部分に配列される条文は、それとは異なり、仏教儀礼について言及はしても、その役所が関わる業務の部分についてのみ規定するものになっている」「玄蕃寮は、仏教儀礼、寺院、僧尼など仏教関係の行政、および外国使節への対応業務を担当する部署で、延喜玄蕃式には全九四箇条が掲載されている。そのうち第一〜九一条は仏教関係」の規定になっているとのことです。

○[46条/正月読経〈国史大系標目「諸国正月読経」〉]に、「凡諸国国分二寺。各起正月八日。迄十四日。転読最勝王経。其布施三宝絲卅斤。僧尼各■〈U+7D41あしぎぬ〉一疋。綿一屯。布二端。定坐沙弥。尼各布二端。但供養用寺物。」とあって、この法会の布施の対象と明細が記されていて、ただし供養には寺物を用いる事が記されています。
 布施についての負担先が記されていないようですが、記さなくてもよい自明の事なのでしょうか、あるいは別に規定が設けられているのでしょうか。
○[47条/吉祥悔過]は、「凡諸国自正月八日。至十四日。請部内諸寺僧於国庁。行吉祥悔過法。惣計七僧布施。■〈U+7D41〉七疋。綿七屯。調布十四端。法服■〈U+7D41〉廿・疋。綿十四屯。混合准價。平等布施。其布施供養並用正税。但太宰観世音寺法服布施。並用府庫物。数同諸国例。佛聖供養料稲〈数量略〉。以筑前国正税充之。」とあります。
 正月八日から十四日まで諸国の国庁に部内〈国内〉の諸寺の僧を請うて営まれる吉祥悔過法の布施と法服の内容とその「布施供養」に正税を用いることが記されているようです。
 「混合准價。平等布施」は、『延喜式 中』の頭注に「布施と法服の料を合せて、■〈U+7D41〉・綿・調布などの現物ではなく、その価格に相当する正税を各僧同額に支給せよの意であろう」とあります。
 「其布施供養並用正税」とあって、ここでは布施ばかりではなく供養にも正税を用いるとあります。布施とあって法服と記されていませんが、「混合准價。平等布施」とありますので、この布施には法服が含まれていると思います。
 但し書きで「太宰観世音寺法服布施」については「並用府庫物。数同諸国例」《みな太宰府の府庫の物を用い、数は諸国の例と同じにせよ》とし「《仏や聖僧像へ供養料の》佛聖供養料稲〈数量略〉。以筑前国正税充之」と定めているようです。
 太宰府観世音寺の吉祥悔過については、府庫の物を用いるとあり、僧の法服布施はありますが供養がなく、佛聖への供養料は府庫ではなく筑前国正税を充てる事が記されています。
 僧供養は観世音寺の寺物を用いるということでしょうか。
○[48条/安居]は、「凡諸国金光明寺安居者。三宝布施絲卅斤。講読師法服各■〈U+7D41〉五疋。布施講師〈内訳略〉読師〈内訳略〉〈他の僧の記載略〉。其供養。講読師日米各六升四合〈内訳及他僧記載略〉。並用正税。太宰観世音寺用筑前国正税。」があります。
 国分寺の安居については、僧の法服も布施も供養もみな正税を用いる事が定められています。
 ただし書きで、太宰観世音寺の安居については筑前国正税を用いるとあります。
○このあとに[49条/志摩国安居]があるわけです。
○続く[50条/春秋読経〈国史大系標目「二仲読経」〉]は、「凡諸国春秋二仲月各一七日。於金光明寺。請部内衆僧。転読金剛般若経。其布施。三宝綿十屯。僧各布一端。但供養用本寺物。若無国分寺及部内無物寺者。並用正税。」とあります。
 こちらは、国分二寺ではなくて国分寺での部内の僧を請じての法会ですが、[46条]と同じように、布施について記されていますが負担先が示されずに、供養についてだけ負担先が記されています。
 それは、「但供養用本寺物」《ただし供養は請うた僧の所属先の寺の物を用いよ》とあって、もし国分寺が無く国内の物が無い寺は正税を用いる事と定められているようです。
 国分寺には封子や水田の財源があり、国分尼寺にも水田はあるわけですので、正月の法会の供養には寺物を用いるということなのでしょうが、国分寺での春秋読経では部内の衆僧の供養は所属寺の寺物を用いるとありますので、部内の寺も僧の食事の料に用いる寺物を持っていないと寺院が維持できないと思いますので、僧の供養を所属寺に求めるのも可能かも知れませんが、なぜそのようにしているのでしょうか。
 国分寺の財政負担を減らす措置でしょうか。国分寺の法会に請われることは名誉になるので、手弁当で駆けつけるというようなことなのでしょうか。

*これらを見ると、特定の法会などの仏教儀式については、布施や法服や供養の料の内容が記されその負担先について正税とか寺物とかと定められているようです。
 特定の法会などについては、寺院の財源からではない支出の手配をしているようです。
 そうであっても、一部を寺院負担とする場合もあるようです。
 吉祥悔過には正税が用いられ、諸国の国分寺での安居にも正税を用いるとあります。
 安居のような規模の大きな宗教行事には法服や布施と供養料を正税でまかなうこととしているようです。

*「虎尾1959」論文の「一、稲種別の検討」-「雑稲」に、「(イ)国分寺料・・或は修理国分寺料とも呼ばれる。その創設は天平十六年七月廿三日の事で、額は僧尼両寺で国別計四万束、その利は造寺用にあてられる事になっていた(続紀同日条)。天平神護二年八月十八日の官府によれば、この料稲は造寺料稲とよばれていたらしいが、周知の如く当時の『造』字の用例は修理の意味を含んでいる」とありましたので、「国分寺料」には国分寺での法会等の諸費用は含まれないのでしょうか。
 また、志摩国の「修理志摩国国分寺料三千束」に「修理」があることで、志摩国分寺を破損状態と考えることはないということでしょうか。

*[50条/春秋読経]に、国分寺が無い場合の記載があることで、そのようなことが一つ二つの事ではないことがうかがえるようです。
 延喜式巻二十一の玄蕃寮の[21条/転用国分寺]にある「凡和泉国安楽寺。伊豆国山興寺。加賀国勝興寺。能登国大興寺。並各為国分寺。置僧十口。壱岐嶋直氏寺為嶋分寺。置僧五口。」の記載が「若無国分寺」にあたるのでしょうか。
 この伊豆国は「諸国本稲」条に「正税。公廨各六万束。三嶋神料二千束。国分寺料一万束。大安寺料三千束。禅院料一千束。国分二寺供養料一万束。三神寺料二千束。文殊会料一千束。修理池溝料一万束。救急料一万束。」とあって、国分寺料があって国分二寺供養料がありますが、伊豆国の国分寺は代用国分寺とのことですので財源不足だったのでしょうか。

◎延喜式-玄蕃寮
○玄蕃寮の[4条/安居]は、主税上[45条/十五寺安居]に関する参照先とあった条ですが、この条には「凡十五大寺安居者。寺別請講師読師及法用僧三口。〈請ずる僧に関する記述・略〉。並起四月十五日。盡(尽)七月十五日。分経講説。東大寺法華。最勝。仁王般若経各一部。理趣般若。金剛般若経各一巻。〈他寺の講説する経の記述・略〉。其施物三宝絲卅■〈U+7D47。糸に句〉。裹〈U+88F9〉料調布九尺。木綿三分。講師〈内訳略〉。読師〈内訳略〉。法用三口〈内訳略〉。〈他の僧の施物・略〉。竝(並)用本寺物。〈東西二寺に関する但書・略〉。」とあります。
 《十五大寺の寺ごとに請じる地位ごとの僧について記し、安居期間に講説する経を寺院に分けて、東大寺は法華・最勝・仁王般若経各一部と理趣般若・金剛般若経各一巻とし、興福・元興・大安・薬師・西大・法隆・新薬師・元元興・招提・西寺・四天王・崇福等の十二寺は法華・最勝・仁王般若経各一部とし、弘福寺は法華・最勝・維摩・仁王般若経各一部、東寺は法華・最勝・仁王般若・守護国界主経各一部と記して、その施物について三宝には糸三十■〈U+7D47〉、裹ツツミの料の調布九尺、木綿三分とし、講師・読師・他への内訳を記して、みな本寺の物を用いよ「竝(並)用本寺物」としています。
 十五大寺(東寺西寺を除)の安居の僧への施物は本寺の物を用いると規定されているようです。
 この条の頭注に「供養」があり「布施(施物)が仏事に伴う謝礼であるのに対し、供養は僧の生活を支える食物」とありました。
 これを、主税上[45条]の「安居供養料米。寺別廿一石六斗二升七合。但大安寺加大般若経會料六石八斗。並當国舂正税送之。其舂運功亦用正税。」と比べて見ると「安居供養料米」には「當国舂正税送之。其舂運功亦用正税」であり、僧への布施(施物)には「用本寺物」ということになるようです。
○玄蕃寮[13条/修正会]に、「凡諸国国分二寺。依僧尼見数。毎(寺)起正月八日。迄十四日。転読金光明最勝王経。其施物用當處正税。〔割書:数見主/税式〕。:(寺)年とする本有」とあります。
 この条は主税上[46条]と対応関係にあるようです。
 [46条]では、布施の内訳はあるのに負担先の記載がないように思いましたが、この[13条]で僧尼への施物には正税を用いることが規定されていたようです。
 僧尼の供養には寺物を用い(46条)、施物には正税を用いる(13条)ようです。
 ただ玄蕃寮[13条]の「施物」についての補注には「布施は仏事に対する謝礼、供養は僧尼の生活の資を意味するが、本条の『其施物』は布施・供養の両者を指しているようである」ともありますが、ここに僧尼の供養が記されていないので、施物に供養も含まれているのではないかと想定したと思われます。
○玄蕃寮[14条/吉祥悔過]は、「凡諸国起正月八日。迄十四日。請部内諸寺僧於国庁。修吉祥悔過。〔割書:国分寺僧専読最勝/王経。不預此法。〕惣計七僧法服并布施料物。混合准價。平等布施。並用正税。其供養亦用正税。〔割書:竝(並)見主/税式。〕但太宰観音寺於本寺修之。其布施法服。准諸国数用府庫物。」とあり、主税上[47条]に対応しています。
*[47条]では「太宰観世音寺」とあったのが、この[14条]では「太宰観音寺」とあります。
 玄蕃寮[4条]では、寺院名の略称や経典名の略称が記されていましたので、観世音寺についても略称を使用しているのでしょうか。
 同[55条/観音寺講読師]に「凡太宰観音寺講読師者。〈以下略〉。」とあり、同[73条/沙弥沙弥尼]の条文中に「西海道於筑紫観世音寺受戒。」があります。
 太宰府の観世音寺のを、観音寺と記したり観世音寺と記したりしています。
*なお、同[4条]で、四天王寺は四天王とありました。
 同[65条/四天王寺三綱]に「凡四天王。梵釋。常住。仁和等寺三綱。各以十僧内補之。」があり、四寺院の略称が見えます。
 「四天王」表記については、『続日本紀 巻三十一』光仁天皇宝亀二年八月二十六日(己卯)条に「初(冬)令所司鋳僧綱。及大安。薬師。東大。興福。新薬師。元興。法隆。弘福。四天王。崇福。法華。西隆等寺印。各領本寺。 :(冬)不要か」とあるのを、本HP「外編3 四王寺印と古四王寺の印鑰祭」の史料として見ていました。
 〈 『六国史:国史大系』続日本記、経済雑誌社、大正3、国立国会図書館デジタルコレクション〉
○玄蕃寮[15条/金光明寺安居]は、「凡諸国金光明寺安居。講説最勝王経。〔割書:尼会/同寺〕其布施用當處官物。〔割書:数見主/税式。〕とあり、主税上[48条]と対応するようです。
 [48条]では三宝の布施、講読師の法服、僧ごとの布施、僧ごとの供養の内容を記してこれに正税を用いることとありますが、[15条]では布施にそのところの官物を用いよとあって、法服も供養も記されていません。
 [15条]条は記載されている事項(布施)に関する規定であって、そこに記載されていない法服や供養については、他のところに規定があるということでしょうか。
 「官物」を「正税」と受け取ってよいのでしょうか。

◎「諸国本稲」条の諸国の雑稲(2)
§「諸国本稲」条で、□□寺料の形で記されている寺は、ほとんどが一国に記されるだけですが、大安寺・薬師寺・興福寺・京法華寺は複数の国に記載があります。
§「諸国本稲」条の文殊会料は、摂津国と志摩国に記載がありませんが、摂津国の欄外標注に「或脱文殊会料二千束七字」とありますので文殊会料が抜落ちたようです。
 多くの国は文殊会料二千束ですが、和泉・伊賀・飛騨・能登・隠岐・淡路(8国・国分寺料五千束)、伊豆・若狭・佐渡・長門・土佐・日向(6国・国分寺料一万束)、丹後・石見・大隅・薩摩(4国・国分寺料二万束)、安房(国分寺料無し)は一千束です。これらの国は「巻第二十二 民部上」の下国と中国にあたります。
 文殊会についての布施・法服・供養料について規定が見当らないのは、文殊会料として法会の費用が定められているからでしょうか。

*「虎尾1959」-「一」-「雑稲」-「(ロ)文殊会料」に「文殊会は毎年七月八日に全国で行なわれる文殊菩薩供養の法会であるが、その創始は天長四年十一月十三日であって、その時の規定では会料として救急料の利の三分の一を充用する事になっていた。その後会料に不足を生じた為、承和七年三月十四日に至って、この文殊会料なる雑稲が設定され、大上国各二千束中下国千束が定められ、この利を加えて会料とする事になったのである。従って本條に言う文殊会料は、会料の全てを支弁すべき出挙本稲ではない。〈略〉」があります。
 救急料については、同「(ハ)救急料・・延喜交替式には/ 凡救急料稲。国司出挙。毎年以其息利。矜乏絶助農桑。但挙任民情。莫必満数。雖充借貸。不責息利。/と、本稲の用途を示した規定がある。〈中略〉この救急料の利は、実際には種々の事に使われたらしい。〈使用例等・略〉」があります。
 〈注:「凡救急料稲。〜不責息利。」の記載は「虎尾1959」pdf印刷文字が判然としないため『新訂増補 国史大系 第二十六巻』-「延喜交替式」によりました〉

◎「諸国本稲」条の国別の記載について
 出羽国についての記載を見たいと思いますが、他に陸奥国と越後国と安房国を見ておきます。
 原本では続いて記されている正税・公廨と雑稲部分を、ここでは分けて記します。
○陸奥国正税六十万三千束。公廨八十万三千七百十五束。〔割書:国司料六十四万一千二百束。鎮/官料十六万二千五百十五束。〕
 祭鹽竈神料一万束。国分寺料四万束。学生料四千束。文殊会料二千束。救急料十二万束。
○出羽国正税廿(五)(万)束。公廨(四十)四万束。
 月山大物忌神祭料二千束。文殊会料二千束。神宮寺料一千束。五大尊常燈(節)供料五千三百束。四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束。健児粮料五万八千四百十二束。修理官舎料十万束。池溝料三万束。救急料八万束。国学生食料二千束。
 〈頭注によると:(五)は複数本により補筆、(万) 「閣本无〈無〉万字」、(四十)は「卅」にもう一本縦棒を加えた文字が記されていて、「原作卅、拠九本改」とあり、(節) は「九本傍朱書佛」があります。〉
○越後国正税。公廨各卅万束。
 大学寮料一万束。国分寺料三万束。京法華寺料一万八千四百五十五束。西隆寺料一万束。神宮寺観音院料四千束。文殊会料二千束。修理池溝料三万束。救急料八万束。俘囚料九千束。
○安房国正税。公廨各十五万束。
 薬師寺料二万束。文殊会料一千束。安居僧供料一千束。修理池溝料二万束。

§陸奥国の正税六十万強と公廨八十万強は記載国中で一番多く、これに次ぐのは常陸国の正税・公廨各五十万束になり、次は播磨国の正税・公廨各四十四万束です。正税・公廨各四十万束の国に武蔵国・上総国・下総国・近江国・越前国・肥後国があります。
 これら九国は大国にあたる十三国中の国となります。
 陸奥国の公廨は飛び抜けて多く、その内訳がわざわざ割書で記されています。
 〈この公廨の数字については、誤りとする指摘(虎尾俊哉『古代東北と律令法(W-一)』)がありますが、ここでは触れません。〉
 祭塩釜神料一万束と国分寺料四万束、文殊会料二千束、他があります。
 祭塩釜神料は陸奥国に特有のものでしょう。
 国分寺料の四万束は創設時の額ですが、常陸国・近江国は六万束で武蔵国・下総国・上野国は五万束です。
§出羽国の正税・公廨は、国史大系第13巻(明治22)では「出羽国正税廿万束。公廨卅四万束。」とあり、その頭注に「類聚国史云天長七年十月増加出羽国公稲十四萬束拠之則正税公廨各廿万束而増公廨十四万束其数符号」という、私には分り難い文言があります。
 『秋田市史 第七巻 古代 史料編』〈以下『市史七』〉の122番の「天長七年(八三〇)十月十五日乙卯/出羽国の出挙稲と公廨稲を増額させる。(類聚国史 巻八十三)」に「増加出羽国出挙論定稲六万束・公廨稲十四万束。人民蕃息、兼辺吏之資也。/出羽国の出挙の論定稲六万束・公廨稲十四万束を増し加う。人民蕃息して、辺吏の資に乏しきを兼ぬるなり」とあり、「解説/論定稲とは正税稲のことで、これにより出羽国の正税稲は二十万束、公廨稲は三十四万束になった(史料116−A参照)。以下略」があります。
 この(カッコ)内の参照史料は、弘仁式の主税の出羽国の条を指しており、弘仁式の正税・公廨から増加があって正税二十万束、公廨三十四万束になったとしています。
 天長七年正月には大地震があり秋田城や付属寺院等に大きな被害が生じています。
 なお、「出羽国正税廿五万束。公廨四十四万束。」については、『市史 七』-史料番号198「延長五年(九二七)/延喜式に出羽国にかかわる規定がみえる」の(26)「諸国本稲条」の「解説」に「原文の『正税廿五万束・公廨四十四万束』は『正税廿万束。公廨卅四万束』の誤り」の記載があります。
 『能代市史 資料編 古代/中世一』〈以下『能代資料一』〉の資料番号208「延長五年(九二七)/出羽国の正税・公廨稲などの定額が規定される」の「注(1)」に「正税二十万束・公廨三十四万束=原文は正税二十五万束・公廨四十四万束とするが(神道大系本も同じ)、本文のように改める」があります。

◎「弘仁式 主税」(『新訂増補 国史大系 第二十六巻』)との比較
○陸奥国。正税六十万三千束。公廨六十万八千二百束。〔割書:国司料五十一万一千二百/束。
 鎮官料九万七千束。〕祭鹽竈神料一万束。国分寺料六万束。学生料四千束。
○出羽国。正税十四万束。公廨廿万束。
 国分寺料四万束。健児粮料二万六百五十六束。
○越後国。正税公廨各卅一万束。
 国分寺料二万束。京法華寺・一万八千四百五十束。西隆寺・一万束。
○安房国は「前闕」部分となり記載なし。

*延喜式には見えて弘仁式に見えない項目のなかで、文殊会料のように延喜式において新たに記載された項目が他にどのくらいあるのか調べていませんし、弘仁式の主税に収録された諸国の記載内容は漏れの無いものなのか私には不明です。
 延喜式・弘仁式ともに、引用本『新訂増補 国史大系 第二十六巻』に記載されている内容・数字に基づいて見ていきたいと思います。
 延喜式を弘仁式に比べて見ると、陸奥国は延喜式で公廨が増えていて、国分寺料が減って、文殊会料の記載があります。
 出羽国は延喜式で正税公廨の増加があり、国分寺料が見えなくなり、月山大物忌神祭料・神宮寺料・五大尊常燈節供料・四天王修法僧供養并法服料が記載され、文殊会料・修理官舎料・池溝料・救急料・国学生食料も記載され、健児粮料が増えています。
 越後国では延喜式で正税公廨が各二万束増え、京法華寺料が五束増え、文殊会料・神宮寺観音院料・修理池溝料・救急料・俘囚料が記載されています。
 陸奥国の祭鹽竈神料は弘仁式にもありますが、出羽国の月山大物忌神祭料は弘仁式にはありません。
 鹽竈神も月山大物忌神もそれぞれの国に鎮座する神で、それぞれの国で費用を計上するようです。
 寺院の料は多くの国に記されていますが、神は伊豆国の三島神料と淡路国の大和大国魂神祭料の合せて四箇国に記載があるだけです。
 弘仁式の淡路国には大和大国魂神祭料は見えません。
 出羽国の神宮寺料は月山大物忌神の神宮寺のことと思います。
 越後国に見える京法華寺料・西隆寺料は畿内の寺院のためのものでしょうが、神宮寺観音院料は、新潟県十日町市四日町に四日町観世音別当神宮寺と言う臨泉山神宮寺が現存していますので、越後国のための費目と思います。
 出羽国の五大尊常燈節供料・四天王修法僧供養并法服料も出羽国に特有の費目のようですが、これらについては、後であらためて見ていきます。
 また、修理官舎料十万束・池溝料三万束・救急料八万束は、諸国の雑稲に見られる費目です。
 ただ、修理官舎料が見られるのは出羽国の他は大和国二万束・和泉国一万束・美濃国二万束・長門国二万束・薩摩国二万束であり、出羽国は十万束と飛び抜けて多くなっています。これは出羽国になんらかの特有の事情があるのでしょうか。
 ちなみに、修理駅家料が山城国一千束・丹波国二万束・播磨国四万束・備前国一万束あり、丹波国には官舎料四万束があり、近江国に修理国府料四万束があり、修理府官舎料が筑前国六千束・筑後国六千束・肥前国六千束・肥後国一万束・豊前国六千束・豊後国六千束と西海道の北側の六国にあります。
 出羽国の健児粮料は弘仁式にもありますが他の諸国には見えません。
 これについては、『市史七』史料番号110「弘仁五年(八一四)正月十五日/出羽国の健児の食糧を、出挙の利稲により充てることとする。(類聚三代格 巻六)」〈本文・解説省略〉があり、先にも見た同書・資料番号198の延喜式の出羽国に関する規定では「P諸国健児条(巻二十二民部上)」の後半に「其食、畿内用乗田地子。余以国営健児田充之。出羽国出挙給之。隠岐国以国造田三町地子充之。」があります。出羽国には国営の健児田が無いということでしょうか。
 また、国学生食料も他の諸国には見えませんが、「虎尾1959」-「二、国別の検討」の「上野国」中に「学生料一万束。これの類例としては陸奥国に学生料四万〈ママ〉束、播磨国に同千五百束があり、出羽国に国学生料〈ママ〉二千束がある。之は何れも当該国の国学の学生に給する食料を支弁するものであろう。出羽国のみが国学生料と称している点から、学生料と国学生料とを区別して、前者を以て京都の大学の学生料と考えられないでもないが、之に照応すべき大学式の記載のない点からこれは取らない。名称の異同の如きさほど意に介すべきでない事は、これまでの例から明らかであろう」とありました。
 陸奥国や越後国に比べて出羽国には他国には見えない費目が多いように思えます。
 国分寺料が見えないこととなんらかの関わりがあるのでしょうか。
 国分寺料の見えない安房国に安居僧供料一千束という他国にはない費目があります。

◎出羽国の国分寺について
 弘仁式の出羽国には国分寺料が見えていますし、『能代資料一』の資料番号・古代208の「解説」に「出羽国に承和四年(八三七)段階で国分二寺があったことは史料に明記されるところであり(『続日本後記』)、山形県飽海郡八幡町の堂の前遺跡〈現:酒田市法連寺字堂の前〉を出羽国分寺とする考えもある(川崎利夫「出羽国分寺をめぐる諸問題」、『日高見国』、一九八五)。五大尊常燈仏供料〈原文の節を神道大系本により仏に改めている〉・四天王修法の僧供養并びに法服料はあるいは国分寺にかかわるものかとも考えられる」を記しています。
 ここに、「四天王修法僧供養并法服料云々」を国分寺にかかわる記載ではないかと考える例があり、秋田城の四天王寺と結び付けない例になると思います。

*国分二寺があったとする史料は、『続日本後記』(『六国史:国史大系』日本後記・続日本後記・日本文徳天皇実録、経済雑誌社、大正7.国立国会図書館デジタルコレクション)の「巻第六」承和四年六月〈837〉に「丁酉(六月六日カ)。依従五位下勲六等小野朝臣宗成請。勅聴出羽国最上郡建立済苦院一處。又宗成所司国分二寺奉造佛菩薩像。并写得雑経四千余巻。並令附官帳不紛失事具官符。」がありますが、これでしょうか。
 承和四年は天長七年の大地震から七年後で、この大地震の秋田城周辺の被害状況を報告したのが、この時に「鎮秋田城国司」であった「正六位上行介藤原朝臣行則(類聚国史 巻百七十一)」で、「従五位下勲六等小野朝臣宗成」は『市史七』史料番号124「天長七年(八三〇)閏十二月二十六日/出羽国の官人の増員を許可する。(類聚三代格 巻五)」に「国守従五位上勲六等少野朝臣宗成」が見えていて、「従五位下勲六等小野」と「従五位上勲六等少野」と異なるところがありますが、出羽守小野宗成のことでよいのだろうと思います。
 この史料124の読下し文中に「此の国、頃年コノゴロ、戸口増益し倉庫充実せり、遂初スイショを稽カンガうるに寔マコトに殷繁インバンと為す。また雄勝・秋田等の城及び国府の戎卒ジュウソツ未だ息ヤスまず、関門なお閇トず。この数処に配するに国司、員少なし。方今、干戈動かず辺城静謐なりと雖も、犲狼の野心、慎まざるべからず。望み請うらくは、人の数に准じて官員を増し加えんことを」があります。
 秋田城付近に大地震があっても、出羽国は戸口増益し倉庫充実の状況のようですし、雄勝・秋田等の城及び国府の記載があります。

*出羽国の国分寺が承和四年段階には存在し延喜式には見えないことについては、『能代資料一』資料番号208の解説中に出典として記されている論文から引用しておきたいと思います。
◇川崎利夫「出羽国分寺をめぐる諸問題」(『日高見国:菊池啓治郎治学兄還暦記念論集』菊池啓治郎学兄還暦記念会 1985.12)〈国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス〉
 「出羽国分寺に関する記事は、その後の『延喜式』主税部には見えない。これは記載もれか、10世紀初頭にはなかったのかどちらかであろう。後者とすれば、嘉祥3年(850)に出羽国をおそった大地震のため、国府も大きな被害を受け、その遷移が検討された程であるから、国分寺の堂塔も倒壊などにあったことは推測されるところである。しかも海進現象のため、海水が近くまでおしせまってくるという不安定な時期であり、仁和3年(887)には国府を内陸部へ移したいと願い出る程であったから、国分寺も再建されないまま放棄されていたと考えられる。『近側高敝〈ママ〉之地』に移された新国府が八森遺跡だとすれば、『延喜式』が成るのは10世紀初頭のその時期である。国分寺が機能を果していなかったことは充分に考えられる」とあります。
 嘉祥三年に出羽国に大地震があり、その三十数年後の仁和三年の国府移転の願出は、『市史七』史料番号187にあって「先是、出羽守従五位下坂上大宿祢茂樹言」として、出羽郡井口の国府の地が「去嘉祥三年地大震動、形勢変改、既成窪泥。〈略〉」となったことで、現地での国府保持を無理として「遷建最上郡大山郷保宝士野、拠其険固、避彼危殆者」と具体的な遷移先候補を示して「望請」していますので、この「望請」にいたるまでの三十数年の間は、貞観十三年(871)の鳥海山の噴火や元慶の乱(878)などもあり出羽国が平穏であったわけではないと思いますが、地震被害の復興がうまくいかなかったのか、復興が計られなかったのか、国府機能はどうなっていたのか、疑問です。
 出羽国の修理官舎料十万束という大きな数字は、嘉祥三年の大地震により官舎が被害を受けたことに対応したものなのでしょうか。
 さて、この「望請」は、様々に検討された結果「須択旧府近側高敞之地」とされ、国府の遷移先は出羽郡井口から遠くない高くて見晴らしのよい所にするように命じられたようです。
 国府が不安定であれば、国分寺が安定して機能し続ける事は困難と思います。
 こういったことが延喜式・主税に反映して、出羽国に国分寺料が見えない事になったと思うしかないようです。

*また、延喜式・主税の安房国に国分寺料が見えないことについては、安房国の成立の事情から、国分寺の建立時期が遅いとか、定額寺を国分寺に充てたとかが言われているようですが、それらは延喜式に見えない理由にはならないようにも思えます。
 安房国の国分寺料が記載もれでなく、あるいは他国による安房国分寺料負担の記載がもれているのでなければ、安房国に国分寺が存在しない状態になったことが考えられるのでしょう。
 その場合でも、国分寺料が造寺・修理料に充てられるものであれば、国分寺料が記載されていてもいいはずではないかと思いますし、さらに国分寺の再建料とかを手当してもよいのではないかと思います。
 国分寺を再建ないし修理できないなんらかの事情があるために、国分寺料の記載がないのでしょうか。
 この安房国に関する疑問は、出羽国の国分寺の状況についても当てはまるのではないかと思います。

◎出羽国の五大尊常燈節供料について
 五大尊常燈節供料については、五大尊常燈節供料に続いて四天王修法僧供養并法服料が記されて、五大尊と四天王がともに記されていることを含めて、どう考えたらよいのでしょうか。
 五大尊常燈節供料あるいは五大尊常燈佛供料〈佛:『神道大系 古典遍十二 延喜式(下)による。神道大系編纂会、1993.8 国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス〉に関してですが、先に引用した「吉田 2011」-「三、延喜式主税式に見える仏教儀礼」の「仏教儀礼の料」中に「年中供養、衆僧供養、仏供、仏聖供、僧供、あるいは年料油、年料米、修理料穀といった、必ずしも仏教儀礼にともなうわけではない経常的支出に関する規定も見られる」と「仏供」がありますので、以降「五大尊常燈節供料」ではなく「五大尊常燈佛供料」と記したいと思います。

◇皿井舞「醍醐寺薬師三尊像と平安前期の造寺組織(下)」〈 検索ワード : 醍醐寺薬師三尊像と平安前期の造寺組織 〉
 (所収『美術研究』398号 国立文化財機構東京文化財研究所 2009.8)
 〈 論文名で検索可能、閲覧可能ですが、論文へのリンクがはれないようです。サイト「東京文化財研究所刊行物リポジトリ」から「美術研究」へ進むことも可能のようです。 〉
 〈 東京文化財研究所刊行物リポジトリ :
 https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=0&q=0
 この「三、第二節 五大明王と五大力菩薩-(2)護持国界・消却災難の造像」に陸奥国の五大菩薩像と出羽国の五大尊に関する記述がありますので、引用して見ていきます。
 項目名に続いて「次に五大明王像が実際にどのような局面で造られたのか、五大明王と対応付けられる五大力菩薩像をも含めて考えていきたい。/平安前期における五大明王像や五大力菩薩像は、関係史料が少なく、ましてその造像目的を明示するものがほとんどないと言ってよい。そのなかで、陸奥国・武蔵国の両国分寺に安置された五大力菩薩像、および出羽国の五大尊像の例は希有なものと言える。これらはその造像事情をうかがい知ることのできる貴重な事例である」として、「史料6」として『日本三代実録』貞観十五年(八七三)十二月七日条からの引用「(前略)先是、陸奥国言、俘夷満境、動事叛戻。吏民恐懼、如見虎狼。望請、准武蔵国例、奉造五大菩薩像、安置国分寺、粛蛮夷之野心、安吏民之怖意。至是、許之。」を示し、その意訳を記したうえで「すなわち夷狄の脅威を理由に、『五大菩薩像』が造られているのである。/一方、そのモデルとなった武蔵国もまた、陸奥国と似た状況下にあったことが知られている。〈中略〉武蔵国の『五大菩薩像』も、九世紀後半の争乱状況を背景に造像されたものであったのである」と記しています。
 さらに、「五大菩薩」について「〈武蔵国と陸奥国の〉二つの事例とちょうど同じ頃、水旱疾疫の災いの徴候があるとして、天皇が七大寺及び諸国で仁王経などの般若経典の読誦を命じたことがあった(註39:『日本三代実録』貞観九年十一月二十九日条)。その勅を見ると、『庶使五大菩薩大願能彰、八部鬼神新妖自断、致真福於冥助、鎖禍胎於未萌、歳稔時和、人平国富。』との文言があり、『五大菩薩』の大願が十分に現れて、災いを未然に阻止することが願われている。すなわちここには、『五大菩薩』には災いを未然に阻止するという機能のあることが明示されているのである。/そしてこの勅の内容からすれば、そこに記される『五大菩薩』とは、仁王経の五大力菩薩であることは間違いない。考えてみると、史料6の陸奥国・武蔵国の『五大菩薩像』も、やはり差し迫った戦乱の災いを未然に阻止することを目的として造られたものであった。その目的が先に見てきた五大力菩薩の機能と合致することからしても、陸奥・武蔵両国の『五大菩薩』は五大力菩薩のこととみるのが妥当であろう。すなわち五大力菩薩像は、仁王経の説く『護持国界・消却災難』の力を、具体的に表わすものとして造像されたのであった」を記述し、『日本三代実録』貞観九年及び十五年の史料に見える「五大菩薩」は「五大力菩薩」のことである事を論じています。
 次に出羽国の「五大尊」を取上げて、「史料7」として延喜式・主税上「諸国本稲」の出羽国の記載を示して、「出羽国には、『五大尊常燈節供料五千三百束』のための出挙本稲が準備されており、これはこの国にしか見られない特徴的な経費である。この記述は弘仁式主税式の該当条に見出せないことから、『貞観式』か『延喜式』で付加されたものである」を記し、出羽国の状況を記して、「陸奥・武蔵国の例を考慮すれば、この出羽国に置かれた『五大尊』像もまた、兵疫などの災いを退ける目的で造られたとみてまず大過ないであろう。なお、この『五大尊』は五大力菩薩ではなく五大明王を指している可能性が高いが、確言はできない(註41)。/以上に見てきたように、五大力菩薩(『五大尊』)像は、実際に争乱状態にあった坂東地域の諸国の地に、緊急の災厄を防ぐという実践的な目的のために造像・安置されていったものであった(註42)。仁王経の説く『護持国界・消却災難』の力を現実に期待されて、五大力菩薩(『五大尊』)像は造られていたのである。/「最後に、五大明王にも触れておこう。前項〈第二節五大明王と五大力菩薩像-(1)九世紀の五大明王信仰〉では、九世紀後末期に、五大明王が五大力菩薩像に対応するものとして認知されるようになっていたことを論じた。とするならば、当然五大明王にも五大力菩薩像の以上のような機能は引き継がれたとみるべきであろう。出羽国の『五大尊』が、五大明王であっても何ら不思議ではないのである」としています。
 「前項」たる「(1)九世紀の五大明王信仰」の論述には触れませんが、註41と註42について見ておきます。

§註41は、出羽国の五大尊の他に、『延喜式』に記された「五大尊」として、「延喜主税式の延暦寺燈分条〈主税上[56条/延暦寺灯分]〉にある@『勧修寺五大尊燈油一斛八升』、同貞観寺条〈主税上[61条/貞観寺]A『崋山寺観中院燈油四斗五升、同院五大尊七斗二升』の二つが挙げられる。以下に述べるように、これらはいずれも、『延喜式』の編纂段階で新しく加えられた条文であり、そくに見られる『五大尊』は五大明王とみてよいものである。〈@勧修寺とA崋山寺観中院に関する記載を省略〉」とあります。 
 ここに、勧修寺五大尊と崋山寺観中院五大尊の例が記されていましたが、これらの寺院がいわゆる子院であれば、少ない例だけからすると、五大菩薩は国分寺に安置であっても明王である五大尊は子院級寺院に安置というようなことが事はありうるでしょうか。

*延喜式・主税上の延暦寺燈分条は「凡延暦寺燈分油一斛八升。同寺宝幡院灯油二斛六斗四升。僧供養黒米六十九斛一斗二升。〈中略〉勧修寺五(大)尊燈油一(斛)八升。(僧)供養白米卅三斛六斗。竝近江国以正税交易并春備。毎年十月以前送納寺家。 :(大)原作太、(斛)原作石、(僧)補筆」とあって、燈油規定だけではなく僧供料についても記されており、その負担についても記されています。 
 ここに記されている燈分油・灯油・燈油も容積で表わされ、僧供養黒米・白米も容積で表わされていますが、油は油としての容積で、米は搗(舂)いた米の容積と考えてよいのでしょうか。
 また、貞観寺条は「凡貞観寺佛供并燈油料白米日六升。小豆日九合。油夜三合。〔割書:尊勝佛。延命菩薩。/聖僧合三座料。〕崋山寺観中院燈油四斗五升。同院五(大)尊料七斗二升。鵜原寺料一斛八升。以山城国正税稲交易并春備。毎年送寺家。 :(大)原作太」」とあります。
 ここに、佛供并燈油料白米日六合とあり、小豆は日九合、油は夜三合とあり、同院五大尊料七斗二升、鵜原寺料一斛八升とあります。
 「五大尊料」と「鵜原寺料」の斛・斗・升は容積ですが、容積で計る物が何であるか、白米・小豆といった種類が記されていません。
 これらの料は、「諸国本稲」条の「志摩国正税穀一千二百斛。救急料五百斛。」のように、「穀」の容積ということでしょうか。
 「佛供并燈油料白米日六升」は料とありますので佛供并燈油に充てる白米の容積で、小豆と油には料がありませんので小豆と油の容積と思いますが、小豆と油も穀の容積に換算されて記されているのでしょうか。

▽油の単位の「斛」等は、「穀」や搗(舂)いた精米の単位としての「斛」等と、計量する物の違いはあっても容積単位としては同じかと思います。
 稲の場合は、頴稲1束は10把で、脱穀して籾状にすると穀1斗ということです。
 頴稲1束は穀1斗となり、稲は「束・把」で、穀は「斛・斗・升」で、1斛=10斗=100升ということのようです。 
 僧供養の黒米・白米は精米したものと思いますが、1束を搗(舂)いて精米すると米5升ということです。 
 そして、この古代の枡の容積は現在の容積の約45%程と小さく、古代の1合はおよそ80cc(現在の1合は180cc)程となるようです。
 そうすると、1束は、穀1斗ですので10升=100合で、穀8000cc=8リットルとなり、精米すると5升=50合で4リットルの米となるようです。
 〔参照:舘野 和己「天平4年度『越前国郡稲帳』を読む」(『福井県文書館研究紀要16』2019.3)
 〈pdf: https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615591.pdf 〉

§註42は、「なお本文で述べなかったが、このほか諸国に安置された五大力菩薩の一例と考えられるものに、延喜主税式諸国本稲条の讃岐国項に記される五大菩薩がある。九世紀半ば以降の畿内・瀬戸内海地域では、盗賊・海賊が活発な動きをみせており(註・略)、やはり興味深い事例と言える」になります。
 讃岐国の記載は「讃岐国正税。公廨各卅五万束。国分寺料四万束。弥勒歸敬寺燈分料五百束。五大菩薩供養料二千束。文殊会料二千束。薬分料一万束。造院料一万束。修理池溝料三万束。救急料八万束。俘囚料一万束。」とあります。
 ここにある「五大菩薩供養料二千束。」は諸国本稲条の讃岐国の雑踏に記載されているものであり、いわば財政の大綱に定められた事柄のようなものではないかと思います。
 また、[56条/延暦寺灯分][61条/貞観寺]は寺院などの個別の対象に対する財政措置の具体的数量規定となり、いわば細則のようなものでしょうか。

*延喜式-玄蕃寮[26条/仁王会堂装束]は、「堂装束/釈迦牟尼佛并菩薩羅漢像一鋪。〈割書・略。〉仁王般若経一部二巻。〈割書・略。〉香華案ツクエ一脚。〈以下、「席〈ムシロ〉二枚」まで・略。〉諸堂悉依此数。但大極殿者。佛台便用高御座。又有五大力菩薩像五鋪。榻〈U+69BB〉五脚。〈割書・略。〉聖僧榻一脚。〈以下、略。〉/右諸堂所設如件。其佛像経等雑調度。及高座榻案等類者。京畿諸国依件儲備。當有会事。便以供用。」とあります。
 これは仁王会の行なわれる堂の装飾を定めたもののようです。
 「但大極殿者」とあって「佛台便用高御座。又有五大力菩薩像五鋪。榻五脚。〈以下、略。〉」が記されていますので、大極殿での仁王会では五大力菩薩の五画像をかかげるようです。
 仁王会の五大力菩薩が、記されていました。
 仁王会に関しては、続く[27条/仁王会講師][28条/仁王会読師]で講師と読師の法服についての内容の詳細が記され、[29条/仁王会布施]に「三宝布施。細屯綿十屯。〔割書:唯供大極殿講/堂。自餘不須。〕講師〈内容・略。〉読師〈以下、略。〉/〈字下げ〉右布施者。以京庫物充之。其諸国者。准當土估〈U+4F30〉。以正税買用。」がありました。
 [29条]の三宝の布施は、割書に《ただ大極殿の講堂に供えよ。自余は須モチいざれ》とありますので、大極殿での仁王会に限られる事のようです。また、同条の改行字下げでの記述には、この布施は《京庫(頭注:ここでは大蔵省の庫を指す)の物を以て充てよ。其れ諸国は、当土の估アタイに准えて、正税を以て買い用いよ》とあるようです。
 玄蕃寮にこのような詳細な規定があるためでしょうか、主税上に仁王会に関する条文が見当らないようです。

§皿井論文を見てきて、出羽国の五大尊常燈佛供料について、他の例と比較することができるのではないかと思います。
 陸奥国と武蔵国の五大菩薩は国分寺に安置されている模様ですが、延喜式・主税上諸国本稲条の武蔵国と陸奥国には五大菩薩及び五大力菩薩に関する費目は見られません。
 五大菩薩(五大力菩薩)の法会がなされたのだろうと思いますが、その費用は国分寺の寺物でまかなわれたと言うことでしょうか。
 讃岐国では、諸国本稲条に国分寺料があり、陸奥や武蔵や他諸国には見ない五大菩薩供養料が記されています。
 五大菩薩供養料を必要とする何らかの事情があるということなのでしょう。
 また、出羽国の五大尊は、武蔵国・陸奥国の例に準ずれば、出羽国が五大尊を安置し五大尊の修法を行なう必要があったということでしょうが、国分寺が機能していないとすれば、国府にほど近い定額寺に安置ということになるのではないかと思います。
 五大尊の安置と修法を特別に必要としたのでしょうから、そのための費用措置が講じられて、諸国本稲条の「五大尊常燈佛供料五千三百束」が記されたのであろうと思います。
 この「五大尊常燈佛供料」の表記は、「諸国本稲」条に記されている讃岐国の「五大菩薩供養料」のように五大尊供養料ではないことを疑問とすることもできるとも思いますが、この「常燈佛供料」は、[61条/貞観寺]の「凡貞観寺佛供并燈油料白米日六升」の「佛供并燈油料」と同様のことであるとすれば、「佛供并燈油料」は「供養料」に含まれると思いますので、表記の違う「常燈佛供料」と「供養料」は、実際には違いを問題にしなくてもよいのかも知れないとも思います。

2.太宰府の四天王像安置・四天王修法用施設について
 次に、虎尾俊哉が『古代東北と律令法』で示した「大宰府四王院の例は俊示を与えてくれる。すなわち同寺では、宝亀五年以来、時に弛張はあったが、四天王法を修するために四僧が置かれ、その供養と布施の料が措置されていた」について見ていきたいと思います。
 その後に「伯耆・出雲・長門の国々にも『四王寺』があり、この三カ国では修法料が当国の正税をもってまかなわれていたことが分かる」について見ます。

◎「大宰府四王院」について
 『大宰府四王院』(「九州国立博物館『大宰府学研究』事業 特別史跡『大野城跡』史跡指定90年記念シンポジウム 資料集 令和4年9月)を見てみます。 〈 https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/dazaifu/p220904.pdf 〉
 同資料集の32頁「『大宰府四王院』関連年表」〈以下「関連年表」〉に、「宝亀5年(774) 大野城内に四天王寺を建立する」があります。
 このことについて、シンポジウムの基調講演の三上喜孝「日本古代の境界意識と四天王信仰」〈以下「三上 2022」〉の項目「2 大宰府四天王寺の建立とその背景」で『類聚三代格』宝亀5年(774)3月3日太政官符を取上げ、その訳文を「太政官符す/応に四天王寺■〈土に念、U+57DD〉像四躯を造り奉るべきこと(各高さ六尺)/(中略)聞くならく、新羅の兇醜、恩義を顧みず、早く毒心を懐き常に咒詛を為し、仏神誣し難く、慮或いは報応す。宜しく太宰府をして新羅に直する高顕の浄地に件の像を造り奉り、その災いを攘却せしむべし。よりて浄行僧四口を請い、おのおの像の前に当たり、一事以上最勝王経四天王護国品に依りて、日は経王を読み、夜は神咒を誦せ。但し春秋二時一七日ごとに、いよいよ益々精進し法に依りて修行せよ。よりて監已上一人その事を専当せよ。(中略)供養の布施は並びに庫物および正税を用いよ。自今以後、永く恒例と為せ」と記しています。〈下線は当方による〉
*『類聚三代格』(『国史大系』第25巻:黒板勝美編、国史大系刊行会、昭和11。国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス)の「巻第二」-「造佛ゝ名事」の最初に宝亀五年三月三日の太政官符がありますので、上記訳文の下線部分の補足として見ておきたいと思います。
 初めの(中略)は、「太政官符/應奉造四天王寺■〈土念〉像四躯事 各高六尺」に続く「右被内大臣從二位藤原朝臣宣称〈原文:U+5041〉。奉勅。」の部分で、“〈当方勝手訳〉右、内大臣從二位藤原朝臣の宣を被るに称はく。勅を奉るに。”でしょうか?。
 像には、ミカタチのフリガナが付いています。
 一事以上から修行せよまでは、「一事以上依最勝王経四天王護国品。日ヒルハ読経王。夜誦神咒。但春秋二時別コトニ一七日。彌益精進依法修行。」で、“〈当方勝手訳〉ことごとく〈一事以上〉最勝王経四天王護国品(のお力)により、昼はすぐれて尊い経を読み、夜は四天王の真言をとなえること、ただし〈但〉春秋の二度にそれぞれ〈別〉一七日〈いちなのか?〉に、いよいよ一層精進し法にのっとって行を修めよ。”でしょうか?
 監已上は、監は第三等官の已上で、第三等官以上となるでしょう。
 次の(中略)と供養の布施は部分ですが、(中略)は僧の法服と布施の記述で「其僧別法服。麻アサノ袈裟蔭脊シャク各一領。麻裳■〈U+7D41〉モアシキヌノ綿袴各一腰。■〈U+7D41〉綿襖アヲ子汗衫ウエノキヌ各一領。襪菲クツ各一両。布施■〈U+7D41〉一疋。綿三屯。布二端。」とあり、次いで「供養布施並用庫ミクラ物及正税。自今以後永為恒例。」とあります。
 法服と布施の規定を記した後で、法服が記されていない「供養布施並庫物及正税」とありますが、この「供養布施」には法服が含まれていると受け取ってよいのではないかと思います。それを太宰府の庫物と筑前国の正税でまかなうとしているものと思います。
 もし、法服だけは、太宰府庫物でも筑前国正税でもなく、寺物でまかなうのであれば、四天王修法の寺とその財政が措置されていなければならないと思いますが、それに関する史料の紹介がありません。

*この太政官符で、太宰府での四天王修法の供養と布施に「庫物及正税」を用いることが規定されていることを、虎尾は「四天王法を修するために四僧が置かれ、その供養と布施の料が措置されていた」と記したと思われます。
 この規定があることによるのでしょうか、延喜式・主税の「諸国本稲」の筑前国に四天王修法に関する記載は見受けられませんし、同・主税で寺院に対する財政措置が規定されている第四十五条から第七十三条までにも太宰府での四天王修法の費用についての記載は見受けられませんでした。
 観世音寺については、先に見た、同・主税の47・48条に但し書きとして記されています。

※この官府を、『神道大系 古典編十 類聚三代格』によって「類聚三代格 巻第二〔底本ー前田家本〕」を見ます。
 〈 『神道大系 』古典編十、神道大系編纂会、1993.10.国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス 〉
 これには、「應奉造四天王「寺1」■〈土念〉像四躯事 各高六尺」とあり、寺の字に「カギ括弧」と数字1が付けられており、「校異」の記述に「格抄185(四治6)。1寺(底)ー格抄・編年記ナシ、衍字。〈略〉」とあり、「弘仁格抄-格巻第四-治部の6」に「應奉造四天王■〈土念〉像四躯 高各六尺」とあり、弘仁格抄と帝王編年記に寺字が無いことから誤って加えられた不要文字としています。
 たしかに、『国史大系 第25巻』本の『類聚三代格 巻第二-佛事上』には「太政官符/應奉造四天王寺■〈土念〉像四躯事 各高六尺」とありますが、「四天王寺■〈土念〉像四躯」では、四天王寺の■〈土に念〉像というのでは何の事か分からないと思いますし、同じく『国史大系 第25巻』本の「「弘仁格抄-格巻第四-治部」にまさしく「應奉造四天王■〈土念〉像四躯 高各六尺」とありましたので、『神道大系』本に従って「應奉造四天王■〈土念〉像四躯事」のように受け取りたいと思います。

§この太政官符では、四天王像の造像と四天王修法の実施とその法服や布施と供養の費用負担について記していますが、四天王像を安置する施設の名称については記載がありません。
 四天王修法を行なう浄行僧四人の法服や布施の料について記されているのは、特別な法会としての四天王修法の僧の法服や布施の内容を定めたのかもしれませんし、供養についても記されていますが、寺院の費用の料などについて記されていないのは何故なのでしょうか。
 四天王像を造り四天王修法を行なう事を指示するものであって、四天王修法のための寺院の創建は目的ではないようにも受取れます。

*この「よりて浄行僧四口を請い、おのおの像の前に当たり、一事以上最勝王経四天王護国品に依りて、日は経王を読み、夜は神咒を誦せ。但し春秋二時一七日ごとに、いよいよ益々精進し法に依りて修行せよ。」(『国史大系』第25巻では、「仍請浄行僧四口。各當像前。一事以上依最勝王経四天王護国品。日読経王。夜誦神咒。但春秋二時別一七日。彌益精進依法修行。」〈仍は「すなわち」かも?〉)とあるようにすることが、四天王修法であり、四天王法を修行するという事ではないかと思います。
 「一七日」は、いち七日ないしはひと七日で七日間のことで、春三月と秋九月に七日間の行が二度ということかと思います。
 特別な事態に際して四天王修法を行なう事はあっても、通常は春秋のそれぞれ七日間の最勝王経四天王護国品に依って経王を日読し神咒を夜誦することをもって、四天王法の修行というのではないでしょうか。
 そうであれば、四天王を安置する施設を、僧侶が常駐する、いわゆる「寺院」として造らなくともよいかも知れないと思います。
 毎日「日読経王。夜誦神咒」の修行をおこない、とりわけ春と秋の二度「一七日」間「彌益精進。依法修行」をするのであれば、修法を行なう浄行僧四人が日々修行し居住しうる「寺院」が必要になると思います。
 どうなのでしょうか。私には、四天王法の修行ということの実際のありようが分かっていません。

*寺院の費用の料などについて記されていないのは、大野城内には四天王修法を担いうる四僧が常駐する寺院を設けず、国分寺なり観世音寺の浄行僧四人に春秋二時の四天王修法を託したためかもしれないと思います。
 大野城内に四天王修法を行なうための寺院を設けて一年を通して僧が勤め居住するのであれば、春秋の四天王修法日以外の僧の食費や寺院の費用の手当が必要なのではないかと思います。
 寺院の費用について定めておく必要がないとすれば、四天王修法の施設が春秋の四天王修法日にだけ使用する施設のためであるかも知れないと思いますし、その施設の維持費用は大野城の費用で手配されているのかもしれないと思います。

◎大野城の四天王修法施設の名称について
 九州国立博物館による「特別史跡『大野城跡』史跡指定90年記念シンポジウム」の資料集名の『太宰府四王院』は、何故「四王院」としているのでしょうか。
 資料集中に、四王院とした理由の説明は無いようです。
 『類聚三代格』の「太政官符/應奉造四天王「寺」■〈土念〉像四躯事 各高六尺/〈以下・略〉」は、「宝亀五年三月三日」日付け入りの太政官符です。
 『扶桑略記』−「扶桑略記抄二−光仁天皇」の宝亀五年条には○二月と○六月十五日と○八月十・日と○十一月の記載があり、その後に「◎是歳。太宰府起四王院。」と月日がなく是歳とある記載があります。
 この『扶桑略記』の記載を、宝亀五年に造られた四天王修法を行なう施設を「四王院」とする根拠にすることはできないと思います。
 〈 扶桑略記:『国史大系』第12巻、黒板勝美編、国史大系刊行会、昭和7。国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス 〉
 先にも見たように、資料集中の「『大宰府四王院』関連年表」には「宝亀5年(774) 大野城内に四天王寺を建立する」と「四天王寺」とありますし、後で見ていきますが、この年表中には「四王院」「四王寺」という記載もあります。
 基調講演の「三上 2022」は「太宰府四天王寺」と記し、松川博一の「研究発表1」は「筑紫大野城と太宰府四天王寺」〈以下「松川2022」〉と題しておりますが、項目「2 太宰府四天王寺の成立」中に「宝亀5年(774)、大野城内に四天王寺(四王寺・四王院)が建立され、四天王像が安置された。大野城の築城から110年後のことである」と寺院名称を併記しています。

 この記事では、大野城の四天王像を安置し四天王修法を行なう施設を寺院の名称で表記する事を避けてきていますが、当面、当該施設を「四天王施設」と記すことにしたいと思います。

§「関連年表」には、「宝亀五年」の次に「延暦二十年(801)  大野山寺の四天王法を停め、四天王像等を筑前国分寺に移す」があります。
*宝亀五年の太政官符から二七年後の延暦二十年(801)正月には「停大宰府大野山寺行四天王法。其四天王像及堂舎法物等。並遷便近寺。」(『類聚国史-巻百八十・佛道部七・諸寺』)とあります。
 〈 類聚国史:『国史大系』第6巻、黒板勝美編、国史大系刊行会、昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス 〉
 ここには、寺院名が「大野山寺」とあります。
 「四天王施設」を置いた事由の新羅との緊張関係が緩和したためか、四天王修法を必要としなくなったようです。
 そして、四天王像と堂舎の法物等を近くの寺に遷したそうですが、「四天王施設」をどのように処したかというような記述はありません。
*大同二年(807)十二月には、同じく『類聚国史-巻百八十・佛道部七・諸寺』に、「大宰府言。於大野城皷峰。興建堂宇。安置四天王像。令僧四人如法修行而依制旨。既從停止。其像并法物等。並遷置筑前国金光明寺畢。其堂舎等。今猶存焉。而遷像以来。疫病尤甚。伏請。奉遷本處者。許之。但停請僧修行。」とあります。
 これは、大宰府言上。大野城皷峰に堂宇を建て四天王像を安置して、達しにより僧四人に四天王法の制による修法を行なわせた。既に停止に従い、四天王像や法物等を筑前国の国分寺に遷し終えている。その堂舎などは今なお在る。四天王像を遷して以来、疾病がとりわけはなはだしい。四天王像をもとのところに遷し奉る事の許可を請い願います。ただ僧の修行は行ないません。というようなことでしょうか。
 ここにも「興建堂宇。安置四天王像」とあって、寺院名はありません。
 ここにある「其像并法物等」「其堂舎等。今猶存焉」は、延暦二十年正月の記事に対応するものと思います。

◇三上喜孝「古代の返要国と四天王法」〈以下、「三上 2004」〉( 所収『山形大学歴史・地理・人類学論集』5号 2004-3 p115〜126 )
 〈 「山形大学 学術機関リポジトリ」 PDF・ダウンロードページ :  https://yamagata.repo.nii.ac.jp/records/1632 
 〈 論文名で検索可能で、閲覧も可能でしたが、論文自体へのリンクはつながらないようです。 〉
論文の項目「二 古代返要国における四天王法の諸相」の【史料7】で、このことについて「大野城の鼓峰に堂を建てて四天王を安置したが、これを筑前国分寺に移した。ところがその後疫病が甚だしくなったので、もとの場所に戻した。ただし僧侶は置かなかった」と簡略に記しています。
 大野城皷峰の堂宇で四天王法を修法するということは、かなり大変なことだったのではないでしょうか。

*『類聚国史-巻百七十八・佛道部五・修法』に、「嵯峨天皇大同四年〈809〉九月乙卯。復令大宰府於大野城鼓峯。行四天王法。」があり、大野城鼓峯での四天王法を行なう事がまた命ぜられたようです。
 同書には、この条に先だって、延暦廿年正月の「停大宰府大野山寺行四天王法。〈以下略〉」の記載があり、大同二年十二月の「大宰府言」以下の文言とほぼ同じ記載〈「其像并法物等。並遷置筑前国金光明寺畢。其堂舎等。今猶存焉」部分が「云々」とされている〉があります。
*『日本後記 巻廿一』の弘仁二年〈811〉二月二十五日の記事に「於大宰府皷岑四天王寺。造釈迦佛像。」があり、四天王像を再安置した大野城鼓峯の四天王寺に釈迦像を造ったとあり、ここには大野城鼓峯の「四天王寺」とあります。
〈 『国史大系』第3巻、国史大系刊行会、昭和9.  国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス 〉
*「『大宰府四王院』関連年表」に、「弘仁11年(820) 大宰府、今後、四王寺悔禍を観世音寺講師に行なわせる」があります。
 これは、「三上 2004」-項目二で「【史料10】平安遺文 第四九〇〇号 弘仁十一年(八二〇)三月四日大宰府牒案」として記載している事柄にあたると思います。
 「大宰府牒案」は「府牒 観世音寺/応四王寺悔禍預彼寺講師事/〈本文・略〉」とあり、これについて「大同四年以降、四天王寺の悔過法は筑前国講師の道証が行なっていたが、四天王像が筑前国分寺から大野城にもどされたことにより、悔過法のつとめを、太宰府の観世音寺の講師がつとめるべきことを定めた」と記しています。
 私には、この本文を読取り理解することは出来かねるのですが、大同二年に僧を置かず四天王法を修しないが四天王像を筑前国分寺から大野城の元の堂舎に戻したことがあり、大同四年九月には大野城の鼓峯で四天王法がまた行なわれるようになり、弘仁二年に釈迦像が造られたことに関連した事で、四天王像が国分寺に遷されたことから筑前国講師が法会を修していたが、本文中の「今件寺在大野城中、彼城且付府已了」により国府から離れて太宰府の観音寺が替わって其の法の講師を勤めることを命じるというようなことなのでしょうか。
 そうすると、弘仁十一年の太宰府牒案にこのことが記されていることが、どういうことなのか混乱します。
 弘仁十一年まで、四王寺悔過法を筑前国講師が取り仕切っていたということでしょうか。
 国分寺と観世音寺に勢力争い的なことがあったのでしょうか。
 大野城の管轄が、弘仁十一年に筑前国から太宰府に替わったのでしょうか。
 この本文には「今件寺在大野城中」がありますので、大野城中の寺を「四王寺」としています。
 また、「四王寺悔過」とはなんでしょうか。
 四天王修法についての記載がないのは何故なのでしょうか。
 四天王修法が行なわれていないのでしょうか。
 四天王修法は浄行僧四口を請うことになっているので、悔過法の講師の変更とは関係が無いと言うことでしょうか。

▽「悔過」に関しては、延喜式-主税上では[47条/吉祥悔過]に「吉祥悔過法」の記載を見るだけと思いますが、延喜式巻二十一の玄蕃寮では[8条/薬師寺大般若]に「凡薬師寺大般若会。毎年起七月廿三日。尽〈盡〉廿九日。一七箇日。請僧沙弥各卅口。読経并悔過。〔割書:沙弥読金/剛般若経〕。〈略:施物の内容・負担「施物用本寺物」〉」、[9条/崇福寺悔過]に「凡崇福寺毎年四月十二月悔過各三日。〈略:僧種別口数・負担「其布施供養用寺田地子物〉」、[14条/吉祥悔過]は「凡諸国起正月八日。迄十四日。請部内諸寺僧於国庁。修吉祥悔過。〈略:惣計七僧の法服并布施の内容と負担について〉」とあり、[30条/旱災]に「凡天下若有旱災。令京畿内諸寺僧尼。限三箇日読経悔過」がありました。  
 さて、この[9条/崇福寺悔過]には「○○寺+悔過」と記されていますが、これは「条文名」で本文にはそのような記載はありませんし、他の小数の例にも「○○寺+悔過」はありません。 
 「四王寺悔過」と記しているのは、四王寺で修される悔過ということでしょうが、四王寺の本尊が弘仁二年に造られた釈迦像であれば、釈迦悔過ということでしょうか。

*この「 弘仁十一年三月四日大宰府牒案」文書は、「文化遺産オンライン」サイトで「大宰府牒案 弘仁十一年三月四日付」として紙幅状態のものが載っています。 〈 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/592529 〉
 この紙幅について、九州国立博物館のサイトの「収蔵品ギャラリー」で見ますと「法量(cm) 縦28.5 横51.8」「年代世紀 保安元年(1120)」とあります。 〈 https://collection.kyuhaku.jp/gallery/8678.html 〉
 太宰府市文化ふれあい館のサイトの「ふれあい館 スタッフブログ」の「『碑帖辿暦(ひじょうてんれき)−拓本で紡ぐ史跡のかたち〈平成31年4月からの展覧会〉』みどころ紹介(1)」中に「今回ご紹介するのは、九州国立博物館所蔵の観世音寺文書『大宰府牒案』です。この文書は、観世音寺が奈良東大寺の末寺となるにあたって、保安2(1120)年に観世音寺にあった文書群の写しを作成して、本寺東大寺へと進上したもののひとつです。案分(写し)ではありますが、平安時代に書かれた文書であり、古代の観世音寺の歴史を知ることのできる貴重な資料です」がありました。
 保安元年(1120)と保安2(1120)年とありますが、「大宰府牒案」を「ふれあい館 スタッフブログ」の内容で受け取ってよいだろうと思います。 〈 https://dazaifu-bunka.or.jp/blog/detail/162.html 〉

※府牒に「観世音寺/応四王寺悔禍預彼寺講師事」と「四王寺」とありますが、三上は「四天王寺の悔過法は」と四天王寺と記述しています。
 府牒は「観世音寺」については観音寺などとはしていませんから、「四王寺」も四天王寺を略して記したものではないと思います。
 太宰府に観世音寺があり、多賀城廃寺は観音寺とされた可能性があるとされ、出羽国にも定額寺の観音寺があったとされていますので、太宰府の観世音寺と地方の観音寺という関係性が考えられるかも知れません。
 摂津の四天王寺と地方の四王寺という関係性も検討されてもよいのではないかと思います。

*「関連年表」に、「仁寿元年(851)僧円珍等、入唐のため、城山四王院に寄住する」があり、これは「三上2004」-項目二の「【史料11】 平安遺文 第四四九四号 太政官牒(園城寺文書)」にあたり、「太政官牒」本文中に「暫寄住城山四王院」があり、この史料について「入唐僧・円珍は〈略〉大宰府に到着したが、『便船』がなかったため、しばらくの間、『城山四王院』に寄住していたという。同様の史料は、平安遺文四四六四、四四八二号にもみえる」を記しています。
 ここには「城山四王院」とあります。
*『日本三代実録 巻第十二』の貞観八年〈866〉二月十四日の記事に「神祇官奏言。肥後国阿蘇大神蔵怒気。由是。可発疫癘憂隣境兵。勅。国司潔斎。至誠奉幣。并転読金剛般若経千巻。般若心経万巻。大宰府司於城山四王院。転読金剛般若経三千巻。般若心経三万巻。以奉謝神心消伏兵疫。」があります。〈 日本三代実録:『国史大系』第4巻、黒板勝美編、昭和9。国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス 〉
 ここも「城山四王院」で、阿蘇大神の怒りを鎮め疫癘と隣境の兵禍を消却のため、転読金剛般若経三千巻・般若心経三万巻とあります。
*また、同関連年表に「延長8年(930) 大宰府四王寺の四僧は、東寺がこれを選任することとする」があり、「四王寺」と記されています。
 これは、『政事要略 巻五十六』中の「延長八年八月十五日」の「太政官牒東寺/應擇補大宰府四王寺四僧事/右左大臣宣。奉勅。大宰府四王寺者。〈以下・略〉」を出典とするものでしょうか。
〈 『国史大系』第28巻、国史大系刊行会、昭和10。国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス 〉

◇これについては、「松川 2022」論文の「おわりに」に「延長8年(930)、醍醐天皇は、四天王を供養する4人の僧の人選に問題があるため、このままでは『兵賊』(外敵)に対して何の神験を示すこともできないとして、天台宗と真言宗の僧から適切な人物を選び任命するように命じた上で、その権限を真言宗の根本道場であり国家鎮護の官寺である東寺に与えている。/4人の僧は大宰府四王寺四禅師と呼ばれ、6年勤めれば国講師に任じられるという特典があったため、希望者は任料を東寺に納めて四禅師への補任を求めた。〈略〉」があります。

*続いて「関連年表」は「天慶6年(943) 大宰府四王寺、天王像振鳴の怪異を言上する」、次に「寛仁3年(1019) 刀伊の入寇に際し、四王寺での御修法を大宰府に命じる」があります。
 「天慶6年」に関しては、「三上2004」-項目二に「【史料13】 『永昌記』天慶六年(九四三)六月十七日条」に「四天王寺言上天王像振鳴」があり、「【史料14】 『日本紀略』天慶六年(九四三)八月二日条」に「〈略〉依祈大宰府四王寺仏像堂舎鳴響也」がありました。
 同じ天慶六年の六月と八月の出来事ですが、寺院名が四天王寺であったり四王寺であったりしていますので、異なる寺院名の記載は史料の問題ということになります。
 刀伊の入寇に関しては、出典が分かりません。
*「関連年表」は続いて「万寿3年(1026) 宇佐八幡宮の怪異により、大宰府四王院で祈祷を行なう」があります。
 「三上2004」-項目二「【史料16】 『類聚符宣抄』万寿三年五月十三日太政官符」に「太政官符大宰府/応祈祷仏神攘除疾疫兼慎兵革事/〈略〉右大臣宣、奉勅、宣仰彼府於四王院、修善祈祷。予鎮兵革。〈略〉」とあります。
 ここでは、また「四王院」とあります。
*「関連年表」には、このあと「康和2年(1100)・康和4年(1102)・嘉祥元年(1106)・元永元年(1118)・元永2年(1119)・久安2年(1146)」までの事柄が記されていますが、康和2年・4年は太宰府四王寺、嘉祥元年・元永元年・2年は四王寺山、久安2年は四王寺とあります。

◎四天王寺・四王院・四王寺
§大野城鼓峯に建設された施設は、四天王寺・四王院・四王寺と記されていますが、どういうことでしょうか。
 私の勝手な推定を記すと、宝亀五年の創建以来、延暦二十年の四天王像等を国分寺への引き上げを経て、大同二年に元の所へ戻すまでは、この「四天王施設」は四天王安置と修法のための目的が限られた施設であり、いわゆる「寺院」として日常的に運営されていたものではなかったのではないでしょうか。
 延暦二十年の『類聚国史』記事に「大野山寺」とあるまでは、寺院名が見られません。
 この「大野山寺」はその後使われていませんので、大野山にある寺ということで他と区別できて特定できるということで、とりあえずそのように記されたのかもしれません。
 『扶桑略記』が「四王院」と記すのは、そういった目的が限られた施設の状態からの記述かもしれないと思います。
 四天王安置と四天王修法のための四天王堂と僧の宿舎程度の施設だったかも知れないと思います。

§大同二年に元の場所に戻され、弘仁二年に釈迦像を安置することで、寺院名で呼ばれる施設になっていったのではないかと思います。
 弘仁二年の『日本後記』記事には「大宰府皷岑四天王寺。造釈迦佛像」とありますが、それまでは大宰府鼓峰の「四天王施設」には釈迦像も無く四天王を安置する四天王(四王)堂であったため寺院名はなかったが、釈迦像を安置して寺と見られることになり、大宰府鼓峰の「四天王寺」と記されたのではないかと思います。
*この「四天王寺」が正式の寺院の名称であれば、以降は四天王寺と呼ばれると思いますが、四王院とか四王寺という呼称が行なわれ四天王寺と呼ばれていないようですので、ここに記された「四天王寺」は、四天王法のための寺ということからとりあえず便宜的に記された「四天王寺」ということはないでしょうか。
 釈迦像を安置して寺院としての様相を整えていったのでしょうか、これ以降に「四王寺」という記載があらわれるように思えます。
 文献史料を見ると、四王院も用いられています。
 四天王を四王と表わすようです。

*四王寺と四王院の名称について、妄想すれば、天台宗では四王院と称し、真言宗では四王寺と称していたということはないでしょうか。
 観世音寺は空海との関係があり、また円珍や『扶桑略記』の編纂者とされる皇円も延暦寺の僧で、比叡山には四王院が建立されていたようです。
 ただ、延喜式・主税上諸国本稲条の美濃国に「延暦寺惣持院料四万束。同寺四王堂料四万束」とあります。
 「四天王施設」の呼称が四王院から四王寺に変わっていったように私には見えるのですが、天台宗の影響力が相対的に低下し、真言宗の影響力が増して行ったということでしょうか。
 現在、大野城の置かれていた山地を「四王寺山」と称しているのは、東寺による四王寺支配が相当期間続いた事によるのではないかと想像します。
 地名として「四王寺山」が定着していることを考慮すれば、太宰府の「四天王施設」は「四天王寺」ではなく「四王寺」と称するほうがよいのではないかと思います。
 九州国立博物館による『太宰府四王院』の資料集名は、太宰府四天王寺とするのを避ける意図があるのかも知れないと思います。

※『国史大系』本の『類聚三代格 巻第二』に「應奉造四天王寺■(土念〉像四躯事」とあることが、多くの研究者に大宰府の「四天王修法施設」を「四天王寺」と記させている一因ではないかと思います。
 『神道大系 古典編十 類聚三代格』により、「四天王■(土念〉像四躯」とすれば、四天王寺とする根拠が無くなるのではないかと思います。
 仮に、大野城の四天王修法施設の名称の文字史料が『日本後記-巻廿一』の弘仁二年〈811〉二月の記事の「於大宰府皷岑四天王寺。造釈迦佛像。」だけとすれば、寺院名称は四天王寺ということになり、寺院名に疑問をいだかれないでしょう。
 この仮の想定のようなことを、秋田城の付属寺院について考慮しなくてもよいのだろうかと思います。

◎その他の「四天王」情報について
§「三上2004」論文の項目「一 山形県川西町道伝遺跡出土木簡の再検討」で「【史料2】 道伝遺跡出土第二号木簡」について、平川南の分析〈平川南「山形県道伝遺跡の木簡」(『道伝遺跡発掘調査報告書』川西町教育委員会社会教育課 昭和59年3月)〉を取りあげて論じています。
 現在の住所では東置賜郡川西町の道伝遺跡は、『道伝遺跡発掘調査報告書』の「まとめ」に「本遺跡を古代の主要な地方官衙と位置づけられ、郡衙跡かそれに付随する遺跡と見ている」とされており、「山形県道伝遺跡の木簡」によれば、出土の二号木簡は短冊型で長512o幅34oで、全長を4等分した上部二ケ所の位置の上端から13pと26pのところに木クギが残存しているとのことです。
 平川南の釈文は「・四天王[  ]  観世音経一 精進経一百八 十一面陀一百
                合三百卅□〔部カ〕
                 多心経十六 涅槃経陀六十五 八名普密陀卅
         ・□〈裏面〉                         」です。
〈 ダウンロードサイト : 『全国文化財総覧 道伝遺跡発掘調査報告書』 〈https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/6306
 三上論文に、「平川氏によれば」として、木簡に書かれている経典名について「古代においてはよく使われていた経典であったという。そして、このような経典の列記の意味は、冒頭の『四天王』に関連すると考えられる。すなわちこの地の守護を祈願して実施された『四天王法』などの法会の際に読まれた経典を記録し、それを(柱あるいは壁などに)打ちつけたのであろう」とあります。
 また「山形県内では『四天王』と書かれた古代の文字資料がもう一点存在する。遊佐町の宮ノ下遺跡(古代では飽海郡)の調査では八〜九世紀の墨書土器が多数出土したが、この中に『四天王』と書かれた墨書土器が一点出土している」を記しています。
 こうしたことから、出羽国での四天王法の法会は秋田城付属四天王寺(四王寺)だけで行なわれたものではないという可能性があるのではないでしょうか。

§同論文の項目「二-W北陸道」に「鈴木景二氏は、金沢市の北東部にある『四王寺町』について、新羅の侵攻に備えて日本海側諸国が古代の四天王法と関係する地名であり、かつてここに古代の四天王像を祀っていた四天王寺が建てられていた可能性があると指摘している」、また「この『四王寺町』についてさらに興味深いのは、その立地である。この地は日本海や河北潟を見下ろせる尾根上に位置しており」、これが貞観九年の伯耆国等五国に命じた四天王修法道場の設置条件に一致していると鈴木氏は指摘しているそうですし、「もう一点興味深いのは、この周辺の観法寺町には、郡家神社が鎮座しており、この付近が『郡家』を思わせる行政の中心地であったらしいという点である。置賜郡家と想定される道伝遺跡などと同様、郡家に付属して四天王法が行なわれていた可能性も考えられる」と記しています。
 私としては、この町が「四王寺町」であることが気になります。
 四王寺町に「四王神社」があり、webサイト「金沢 寺社仏閣めぐり」で「四王神社」を見ると「由緒は、文明元年(1469年)に医王山寺の末寺として創建された四王寺が起源とされます。四王寺は、法光寺、不動寺、観法寺とともに、白山信仰の拠点でした。明治時代に神仏分離令により、四王寺は廃寺となり、その神体であった大日如来像は波自加彌神社に移されました。その後、明治6年(1873年)に村社として四王神社が創立され、同40年(1907年)に福畠平岡社と合併して水分神社と称えました。昭和24年(1949年)に制度改革により分祀されて四王神社となりました」とあります。〈 https://kanazawa-jisha.com/shio/ 〉
 四王寺町の名称は、この四王寺の存在に由来するのではないでしょうか。
 ここでも「四王寺」です。四天王寺ではありません。
 もしかしたら、文明元年に医王山寺の末寺として創建されたという四王寺は、後で見る伯耆国の現在の四王寺山と四王寺や長門国の現在の四王司山と四王司神社の例もありますので、もっと古い来歴を持っているのかもしれないと思います。

3.伯耆国・出雲国・長門国および出羽国の四天王修法について
 『日本三代実録 巻十四』清和天皇の貞観九年〈867〉五月二十六日条の記載を見ていきます。
 これについては、『訓読 日本三代実録』(武田祐吉/佐藤謙三 訳 臨川書店 昭和61年)〈 国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービス 〉によって見ると、「廿六日甲子、八幅の四天王像五鋪を造り、各一鋪を伯耆、出雲、石見、隠岐、長門等の国に下し、国司に下知しけらく、『彼の国地西の極に在りて、堺サカイ新羅に近く、警備の謀ハカリゴト他国に異なるべし。宜しく尊像に帰命し、謹誠にして法を修ズし、賊心を調伏し、災変を消却すべし。仍ヨりて須スベカラく地勢高敞にして賊境を瞼瞰する道場を點擇すべし。若し素より道場なくば、新たに善き地を擇び、仁祠を建立して尊像を安置き、国分寺及び部内クニノウチの練行精進の僧四口を請じ、各の像の前に最勝王経、四天王護国品に依りて、晝は経巻を転じ、夜は神咒を誦へ、春秋の二時には別コトに一七日イチシチニチ、清浄堅固にして法に依りて薫修すべし』と曰ひき。」とあります。
 「造八幅四天王像五鋪」というのは、四天王は彫刻像ではなく絵像で、八幅は絵の大きさで、仮に一幅を一尺とすれば2.4m程の画面でしょうか。それを五枚作成したということなのでしょうから、五箇所に配ることができるでしょうが、何故「伯耆、出雲、石見、隠岐、長門等の国」と「等」が記されているのでしょうか。
 国司に命じた内容は、九十三年前の宝亀五年の太政官符の内容を伯耆等五国に合うようにしたもので、四天王修法のあり方も目的も修法場所の要件も同じ内容と思います。
 四天王の安置場所は、条件に合った既存の「道場」から選ぶか、道場が無い場合は善い場所を選定して「仁祠」を建立することが求められ、修法僧四口は、国分寺の僧や部内の寺院から練行精進の僧を請じることが求められています。
 ここに記された「道場」と「仁祠」を寺院のこととすることも可能かも知れませんが、あえて「寺」とはせずに道場・仁祠としているのであれば、道場を修法の場所とし仁祠をこじんまりとした堂舎と受け取ることも可能ではないでしょうか。
 ここには、寺院の名称については記されていません。
 選ばれ請われた四人の僧は、国分寺や所属寺院を離れて、四天王を安置する「仁祠」とされる寺院の僧侶としてその寺院に常時居住することになるのでしょうか。あるいは、所属寺院から出張し、必要な期間はその「仁祠」とされる施設で過ごすのでしょうか。

§延喜式・主税上
 『延喜式 巻第二十六・主税上』に、[64条/伯耆四王寺][65条/出雲四王寺][66条/長門四王寺]があります。
 石見と隠岐の条文は見当りません。
 三箇国の記載内容を、『新訂増補 国史大系 第二十六巻』によって見ていきます。

○[64条/伯耆四王寺]
 「凡伯耆国四王寺修法料稲四千四百九十束三把。用當国正税充之。」
○[65条/出雲四王寺]
 「凡出雲国四王寺春秋修法。毎季七箇日供養并燈分料。四王四前。〔割書:一前一日供飯料稲四把。粥料稲八分。餅餉■マカリ〈食偏+勾〉料各稲三把。煎■〈食+勾〉料油一合八勺。雑菓子四升。燈油二合。〕僧四口。〔割書:一口一日供飯料稲四把。粥■〈U+9958〉料稲八分。塩一合二勺。芥子五勺。紫苔。大凝菜。醤。味醤。酢各一合。海藻。滑海藻各三両。大豆。小豆各五合。〕童子四人。〔割書:一人一日飯料稲二把。塩二勺。海藻三分。〕年料〔割書:除春秋修法日。常燈日別二合。通計長夜短夜。所行四王供飯粥。四僧供飯海藻。滑海藻。塩。酢。童子四人飯塩海藻等。准修法日供行之。〕以正税充行。若請用国分寺僧。除二季之外。供養本寺充之。
○[66条/長門四王寺]
 「凡長門国四王寺修法料。稲四千六百六十八束四把。〔割書:三百束四王燈油料。八百六十二束四把同四王供。并四僧童子四人食料。千七百八十二束僧四口二季法服料。千七百廿四束同僧布施料。〕以當国正税充之。

*これを見ると、三箇国の記載様式がそれぞれ異なっていますが、三箇国ともに四王寺とされ四王寺修法とされており、その修法は、出雲国に「春秋修法」とあり長門国にも「二季法服料」とありますので、春と秋のそれぞれ七日間の修法のこということが分かります。
 この四王寺修法は、四天王法又は四天王修法といわれるものと同じとしてよいと思います。
 三箇国がそろって四王寺と称していますが、修法施設の名称を定めるにあたって、太宰府の四天王修法施設が参考にされないというようなことはあり得るでしょうか。
 三箇国の四王寺という名称が太宰府の四天王修法施設の名称からとったものという可能性はないのでしょうか。
 先に見た、弘仁十一年〈820〉の「太宰府牒案」に「四王寺」とあるのが気になります。

○伯耆国は、四王寺修法料は稲四千四百九十束三把で、伯耆国の正税でまかなう旨の簡潔な記載で、内訳の記載はありません。
○長門国は、四王寺修法料稲四千六百六十八束四把で、その内訳は燈油料と四王への供えと四僧四童子の食料と四僧の春秋の法服料と四僧の布施ですので、燈油料と四天王と僧童子への供養と法服料と布施が手配されています。四天王を四王と記しています。
○出雲国について見ます。
 出雲国の記載は、伯耆・長門では「四王寺修法料」となっていたところを、四王寺春秋修法として毎季七箇日の供養と燈分料の内訳を示しているようです。
内訳は大変詳しいのですが、合計が記されていません。
 供養并燈分料として、ここでも四王とする四天王への供養と燈油および僧と童子の供養の内容が記されていますが、長門国にはあった僧の法服と布施は記されていません。
また、長門国にはなかった「年料」があり、春秋の修法日を除いた分の常燈料と僧童子の供養料として、常燈料が夜の長さをならして一日に二合で、四天王に供える飯粥と四僧に供する飯・海藻・塩・酢と四童子の飯・海藻等の料は修法日に準ずるとあるようです。
 これらの春秋の修法料と年料に出雲国の正税を充てるとしていますが、もし春秋の修法以外で国分寺の僧を請う場合の供養は四王寺の費用を充てることになるようです。

§伯耆国・出雲国・長門国の三国及び石見国・隠岐国の、延喜式・主税上「諸国本稲」条には四王寺修法料に関する記載はありません。
 出羽国では、寺院の財政措置の条には、伯耆国・出雲国・長門国のような形での四天王修法料の規定はありませんが、「諸国本稲」条の出羽国に「四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束」の記載があります。
 長門国では僧の法服に千七百八十二束と布施に千七百廿四束とあり合せて三千五百六束です。
 長門国では、この他に四天王への供えと僧等の食料で八百六十二束四把と四王燈油料に三百束とあり、その合計四千六百六十八束四把は、伯耆国の四王寺修法料の四千四百九十束三把と百七十八束程の違いです。
 出羽国の二千六百八十束は、長門国より約一千九百八十八束、伯耆国より約一千八百十束少ないことになります。
 出羽国には、四天王修法の僧の供養と法服料として二千六百八十束とありますが、布施が記されていません。
 これは、本来はあった「布施」の文字が抜け落ちたのか、供養ないしは法服料とあるなかに布施も含まれるのか、布施の手配が無いのか、分りかねます。
 出羽国の二千六百八十束に長門国の布施の千七百廿四束を加えると、四千四百四束になり、長門国や伯耆国の四王寺修法料と肩を並べる数字になります。
 出雲国の四王寺春秋修法料には、法服も布施も記されていませんでした。
 これらをどう考えるとよいのでしょう。
 出羽国の僧供養并法服料の二千六百八十束は、僧供養并法服料の一部の手配という可能性はどうでしょうか。
 出雲国では、僧の布施や法服が別の規定により手配されているという可能性はどうでしょうか。

*伯耆国・出雲国・長門国等に四天王修法を命じたのが貞観九年ですので、もし出羽国での四天王修法が弘仁式以降に新たに命じられたのであれば、延喜式・主税の寺院に対する財政措置の規定に出羽国の四天王修法料についても記載されたかも知れないと思います。
 そのような記載が無いのは、出羽国の四天王修法の目的が伯耆国・出雲国・長門国等の四天王修法の目的と違うことによるのかも知れませんが、出羽国の四天王修法が相当早い段階から行なわれていて、太宰府の四天王修法料のように、その段階から修法費用の規定がなされていたという可能性はないでしょうか。

*太宰府の四天王修法料については、太政官符に規定があり、延喜式には記載がありません。
 太政官符によって太宰府に四天王修法と実施要項と「供養布施並用庫物及正税」の指示があり、その「供養布施」は僧の法服と布施の記述を受けたものなので、春秋の四天王修法についての僧侶等の法服・布施・食事を含んでいると思います。

*出羽国の四天王修法料に関しては、延喜式-主税上「諸国本稲」条に「四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束」の記載がありますが、四天王修法の実施には僧供養と法服料の手当の他にも僧等の布施の料や四天王の燈油料や供養料なども必要になると思います。
 出羽国の「僧供養」は僧の食事だけでなく布施を含んだものかもしれないと思いますが、そうであっても、四天王の燈油料や供養料は必要になると思いますが、それに関する記載が見当りません。
 四天王修法が行なわれていて、四天王への供養や燈油料などの記載が無いことは、修法料負担についての「諸国本稲」条出羽国項の規定とは別の規定があって、四天王への供養や燈油料などを財政的にも担っている寺院が存在する、すなわち四天王を安置し四天王修法を実施し得る寺院の存在があるゆえであろうかと思います。
 そのような寺院は、秋田城の付属寺院の四天王寺(四王寺)ということになるのだろうと思います。
 秋田城の付属寺院の四天王寺(四王寺)が、四天王修法を実施するための寺院と言うべきものであれば、寺院創建の段階から四天王修法料についての規定が設けられていて、四天王の供養料や僧の供養と布施と法服料は、「諸国本稲」条出羽国項に記される修法僧の法服や供養の料も含めて、本来的には四天王寺(四王寺)ないしは秋田城に関する出羽国の正税による費用でまかなえるように措置されていなければならないのではないかと思います。

*吉祥悔過などの重要な法会については、布施・法服や供養料の規定と正税を充てた記載がありましたので、出羽国の四天王修法についての僧供養と法服料の規定もそれらに準じたものなのかも知れないと思います。
 「諸国本稲」条出羽国項に「四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束」の記載があることについては、出羽国の四天王修法が国家の定める特別の法会へと位置付けられたことにより、四天王修法料の一部を雑稲としたものとは考えられないでしょうか。
 また、「五大尊常燈佛供料五千三百束」も、国家の定める特別の法会に関わる記載ではないかと思います。

*延喜式・主税・諸国本稲条・出羽国の「四天王修法僧供養并法服料二千六百八十束」の記載を、大山宏が直截的に秋田城付属寺院の四天王寺の存在と結び付けているように感じ、はたしてそれでいいのだろうかと思ったところから、延喜式の「四天王修法僧供養并法服料」記載に関して調べて見ました。
 ここまで見てくる中で、「四天王修法僧供養并法服料」の記載を秋田城の付属寺院の四天王寺(四王寺)の存在と関係付けるのは、結果的には妥当であったと思います。

◎出羽国での大元帥法の修法について
 『市史7』-161「元慶二年(878)六月二十八日壬辰/僧を出羽国に派遣し降賊のための祈祷をおこなわせる。(日本三代実録 巻三十三)」−「詔遣大元帥法阿闍梨伝灯大法師位寵寿於出羽国、卒七僧修降賊法。/詔して大元帥法阿闍梨・伝灯大法師位寵寿を出羽国に遣わし、七僧を率いて降賊の法を修めしむ。/解説/真言宗で敵を降伏させる利益があるとされる大元帥の秘法を行なわせるために、寵寿(生没年不詳)を出羽に向わせた。寵寿は山城国宇治郡の法淋寺の僧である」があります。
 「元慶の乱」と称される出羽国の夷俘の反乱が起こり、秋田城や周辺が焼き払われ、国側の軍隊が太刀打できず、援兵の逃亡もあるというような状況に対して、大元帥法の修法によって降賊を祈祷したものでしょうか。

*『密教大事典 縮刷版』(密教辞典編纂会 縮刷版第十一刷・2013年2月)によれば、「タイゲンスイホウ 太元帥法」は「→太元帥御修法」とあり、項目「太元帥御修法」には「太は又大に作る。毎年正月八日より一七日間宮中(後世は醍醐理性院)に於て、太元帥明王を本尊とし、阿咤薄具元帥大将上佛陀羅尼経修行儀軌(括弧内・略)・阿咤婆拘鬼神大将上佛陀羅尼神咒経・阿咤婆拘鬼神大将上佛陀羅尼経等を所依として、寶壽無窮・鎮護国家の為に修する最大秘法にして、宮中真言院後七日御修法に準ぜらるゝ大法なり。〈略〉」とあります。
 この「宮中(後世は醍醐理性院)に於て」というのは、宮中の真言院で行なわれたということでしょう。
 同項目中に、「【伝来】太元帥法を我国に請來せしは山城小栗栖法淋寺の常曉なり。〈略〉」、「承和十三年〈846〉五月一日、毎年正月王宮裏に於て十五僧を請じ、真言院御修法の例に準じて修せんことを上奏せしも裁可なし。仁寿元年〈851〉十二月廿九日再び上奏し、官符に依りて真言院後七日御修法に準じて毎年正月永く宮中に於て修すべき國典と定められ、同月三十日法淋寺を以て永く修法院とすべき旨定めらる。〈略〉」、「此の恒例の外に、齊衡三年〈856〉常曉宣旨を蒙り神泉苑に於て祈雨の為に此法を修して霊験あり、貞観十二年〈870〉海賊の難あり、十三年正月御修法中寵寿祈祷して難を伏す。天慶三年泰舜将門の逆乱に此法を行じて霊験あり、修法中獨股杵折れたりといふ」があり、法淋寺並び寵寿が記されています。
 真言宗の側があれこれ働きかけて、獲得したもののようです。
 元慶二年の出羽国での大元帥法については記載がありませんが、出羽国に出向いて大元帥法を修するというのは、非常に特別の事になると思いますので、それだけ元慶の乱の状況に危機感をいだいたということと思います。
 同項目には、【伝来】に続いて、【本尊】・【印契】・【道場荘厳】・【修法】の小見出しの記述があり、それらによると大元帥法の道場と修法が並大抵のことではないと思いますので、出羽国で大元帥法の修法がどのようにして可能になったのでしょうか。
 この時には、まだ国分寺は機能していたのだろうと思いますので、国分寺で実施されたということでしょうか。
 なお、真言院については、玄蕃寮[2条/御修法]に「凡真言法。毎年正月。起八日。至十四日一七箇日。於真言院修之。」があり、『延喜式 中』の頭注「真言法」に「天皇の護持と鎮護国家を祈願して、真言宗の僧侶が執り行う修法」とあり、補注に「後七日御修法という。正月七日までの節会の後に行なわれるのでこの名称がある」とあります。
 頭注「真言院」に「内裏の西南にあった、後七日御修法を勤修する同条」とあります。

*このような特別の鎮護国家、降賊の修法が必要とされたことが、出羽国に延喜式・主税上-「諸国本稲」条において五大尊常燈佛供料と四天王修法僧供養并法服料の二つが規定されることにつながっているのではないだろうかと思います。

◎伯耆国・出雲国・長門国の四王寺
§伯耆国の四王寺は、鳥取県倉吉市にある国府跡や国分寺跡の北側に位置する四王寺山(標高約172m)の山頂付近に存在したと思われ、現在も四王寺という御堂があるそうです。
 ネットでさらに情報にあたってみますと、「社公民館報/第409号/2017.2/やしろ」に、大谷自治公民館は四王寺の環境整備(歩道整備や間伐、寺の維持管理)と春夏の例祭(通称:シホッツァン)を執り行なってきたこと、夏の例祭には子ども神輿や屋台が出て、大変にぎやかなものとのこと、大谷側からの参道は車でも上がれるとのことが記されていました。
 〈  https://www.city.kurayoshi.lg.jp/secure/5240/yashiro2017021.pdf 〉
 また、鳥取県の公文書館のサイトの「公文書館の活動ー活動日誌」の2012年3月2日/倉吉市大谷で四王寺の祭りを調査及び2012年7月18日/倉吉市大谷で四王寺祭の追加調査(民俗部会)を実施の両記事で、四王寺の春と夏の祭りと堂内の様子が紹介されています。
 〈  https://www.pref.tottori.lg.jp/item/661899.htm 〉  〈 https://www.pref.tottori.lg.jp/item/744973.htm 〉

*現在の四王寺と四王寺山に関しては、「YAMAP」サイトの「借金アップさんの四王寺山の活動記録」という「2024.09.08(日)」の記事等の山登り関連のサイトが参考になりました。
 「YAMAP」の当該記事中に、四王寺の基壇への石段の横にある「伯耆国 四王寺の由来」という案内板の写真があり、その由来文の中に「貞観九年(867)山陰沿岸の監視と防備のため、伯耆・隠岐・出雲・石見・長門の五か国へ、絵像『四天王』各一鋪を与え、それを安置する堂を建立して修法を行うよう命じた。(三代実録)/日本海を見下ろせるこの山頂に四王寺を建てて監視し、国庁との連絡をとったり、山麓の国分寺から僧侶を登らせて修法を行ったりした敵(ママ)地であったであろう。/時代とともに本来の意義を失い、民間信仰へと移り変わる。かつては、木造四天王像に家内安全・五穀豊穣・商売繁盛を祈願し、大変な賑わいであった。/昭和五年(1930)の火災で像もろとも焼失したが、堂は再建されて今日に至る。〈略〉/平成二十九年二月吉日 四王寺護持会・大谷自治公民館」とあり、「焼失前四天王像」写真がありました。
 現在の四王寺は昭和五年の火災から再建された建物になるようです。
〈註:「YAMAP」の記事は、何回か閲覧すると会員登録が求められるようです。
 案内板「伯耆国 四王寺の由来」は、サイト「松江人の日帰り登山」ー「四王寺山へ 2023−05-16」他で閲覧可能です。)
 〈  https://blog.goo.ne.jp/sd104-ok10/e/e35958c8ee35e550385ab4d53244f135 

*『倉吉市内遺跡分布調査報告書[』(倉吉市文化財調査報告書 第80集 倉吉市教育委員会 平成6年度)を見ます。
 〈  リンク先のURLが長く・省略。『標題』で検索可。 〉
 ここに「3.大谷地区(四王寺跡)」があり「調査地点 倉吉市大谷字一ノ谷、大谷山/調査期間 平成5年9月2日〜平成5年9月24日/調査契機 山村広場施設工事に伴う埋蔵文化財予備調査/調査方法 トレンチによる発掘調査/調査面積 69.8m2」とあり、「調査概要」によれば「お堂周辺にトレンチを3本設定」した調査であり「現在のお堂が建っている基壇は、四王寺建立当初のものである可能性が高い。〈略〉お堂周辺の平坦地一体に四王寺跡に伴う幾つかの施設などが存在すると考えられる」がありました。
 調査地点に大谷山とあり、四王寺山とは記されていません。
 これ以降に、四王寺跡に関する詳しい発掘調査は行なわれていない模様で、古代四王寺の伽藍配置や規模については不明のようです。
 古代の伯耆国の四王寺は、国府及び国分二寺の背後の北側の山の山頂にあって、まさに「地勢高敞瞼瞰賊境」の地であり、国分寺から遠くない場所に設けられています。
 国分寺跡から四王寺跡までは直線距離で2キロメートル程ありますが、現在は大谷側から四王寺までは比較的に緩やかな道で40分程で着くようですが、古代はどうだったのでしょうか。
 古代の四王寺の跡地に現在も四王寺というお堂があり、古代からの歴史のつながりが感じられます。

§出雲国の四王寺跡は、松江市山代町にある茶臼山の南側の麓に位置しているとのことです。
 茶臼山は、「出雲国府跡」から見て北西にある標高約171mの独立した山で、『出雲国風土記』では四つの神奈備山の一つである「神名樋野」と称されているそうですから、神聖な山とされていた模様です。
 奇しくも、標高が倉吉の四王寺山とほぼ同じです。
 島根県のHPで「いにしえの島根ー第5巻『出雲国風土記』を歩くー『出雲国風土記』地図ーかんなび」で四つの神奈備山は「すべて宍道湖を取り囲むようにそびえ、とくに湖面から美しい姿を見せています」とあります。
 〈 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/inishie/5kan.data/5-18.pdf 〉
 茶臼山の南側を東西に通る県道247号(八重垣神社竹矢線)沿いの茶臼山側には、西側で国道432号(旧道)と交差(大庭十字路)した付近に「出雲国山代郷正倉跡」があり、247号を東へ500m程進んで山代東集落センターの付近に「四王寺跡」があり、さらに東に500m程行くと「真名井神社」があります。247号は茶臼山の山裾に沿うようにやや北側にカーブして続き、そこをさらに行くと「真名井神社」から1500m程で「出雲国分寺跡」があります。
 「四王寺跡」は「出雲国府跡」から西北西に直線距離で1200m程にあり、「出雲国分寺跡」は「出雲国府跡」から北北東に直線距離1300m程にあり、「四王寺跡」から道なりに東北東におよそ2000m程に「出雲国分寺跡」があります。「出雲国分寺跡」から西側に茶臼山があります。

*出雲の「四王寺跡」は、島根県のHPから「出雲の古代寺院」ー「山代郷南新造院(四王寺跡)」へたどると、
 〈 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/izumo_fuudo/iseki/kodaijiin/kawato.html 〉
 その記事に「山代郷の新造院は意宇平野の北にそびえる茶臼山を挟んで、南北にあります。南側に位置する四王寺(しわじ)跡は、意宇郡家からの里程からみて、『出雲臣弟山』が造った新造院と考えられます。山代郷の新造院は2つありますので、便宜上、四王寺(しわじ)跡を『南新造院』と呼んでいます。/保存のため一部発掘調査がおこなわれましたが、中心部は民家のため未調査です。発掘の結果、東西23m、南北16mの基壇が発見されています。出土品は瓦のほか、仏像の髪の毛にあたる部分(螺髪-らほつ)が出土しました。/山代郷南新造院の創立者『出雲臣弟山(いずものおみおとやま)』は、出雲国風土記には『飯石郡少領(しょうりょう)』という肩書で登場します。『少領』とは郡の2番目の地位にあたる、地方の有力豪族です。『弟山』は風土記が作られた13年後(西暦746年)には『出雲国造』に任命され、出雲地方の豪族のトップに立ちました」と紹介されています。

*この新造院跡が四王寺跡とあることについて、『風土記の丘地内遺跡発掘調査報告]ー島根県松江市山代町所在・山代郷南新造院(四王寺)跡−〈以下、「報告]」〉』(平成6年3月 島根県教育委員会)等によってみます。
 〈 リンク先のURLが長く・省略。『標題』で検索可。 以下の『風土記の丘地内遺跡発掘調査報告NO.』も同様。 〉
 「報告]」の「1.はじめに」に「山代郷南新造院跡はかつて四王寺跡と呼んでいた遺跡の一部で、昭和59年度の第1次と、〈略〉、昭和62年度の第2次の二度、発掘調査が実施されている。その後、平成3年に発掘調査地点の土地を宅地造成のために売却するという話が持ち上がり、遺跡保護のために急遽島根県で土地を買い上げることになり、平成5年4月6日付けで県指定文化財(史跡)に指定し、平成6年度に買上げを実施することになった。今回の発掘調査は、史跡整備に先だって指定地内の未調査部分の内容を把握し、整備のための基礎資料とするためのものであり、遺跡名も指定名勝の『山代郷南新造院跡』を用いることにした。〈略〉」と、発掘調査の経緯を記しています。
 四王寺跡と呼んでいた遺跡呼称を、県指定文化財(史跡)としての指定名称にすることになった模様で、そのため「報告]」の副題を「山代郷南新造院(四王寺)跡」としたのでしょう。
 ちなみに、昭和59年度の第1次発掘調査の報告書は『風土記の丘地内遺跡発掘調査報告Wー島根県松江市山代町所在・四王寺跡−〈以下、「報告W」〉」(昭和60年3月 島根県教育委員会)と、四王寺跡と表記されていました。
 この「報告W」の「例言」に「四王寺跡(島根県遺跡番号4−182)」には「しわじ跡」とふりがながあります。 
 「報告W」の「1.はじめに」に「この地域は字『師し(四)王わ寺じ』という地名のあることや、古瓦が採集されることから、古代寺院跡の存在したところとして早くから注目されていたところである。すなわち、天和3年(1683)に著わされた『出雲風土記抄』から昭和56年『修訂出雲国風土記参究』に至るまで多くの研究者は四王寺跡が『出雲国風土記』所載の山代郷内の新造院の一つにあたると推定している。また小字名が『師(四)王寺』であることから『三代実録』貞観9年(867)にみえる『四天王像』を置いた寺であることも指摘されている。ところが、これらはいずれも『出雲国風土記』に記載された方向・里程のほか小字名、採集された古瓦などをもとに推定されていたもので、これまでのところ具体的な調査等はほとんど実施されていなかった。〈以下略〉」とあるように、昭和59年度の発掘調査は、四王寺跡と想定されていた遺跡に関する最初の本格的な発掘調査になります。
 字地名の「しわじ」は「師王寺」と表記するようですので、表記と読みからは「しおうじ=四王寺」と結びつきにくいと思いますが、「王=わう」からきたものかも知れないとも思います。
 さて、「報告]」の「5.まとめ」から抜粋し引用しますと「これまでの調査で、当遺跡が『出雲国風土記』記載の飯石郡少領出雲臣弟山が建立した『新造院』で、貞観9(867)年の下知に即応して『四天王像安置の寺』の代用寺とされた可能性がますます強くなったことがほぼ明らかになったが、寺域や伽藍配置については十分明らかになっていない。第Z調査区西側の、第二次調査で東西23m、南北16mという大きさが確認された方形基壇には、基壇上面に礎石の根石と思われる礫群が存在することから、5間×4間程度の礎石建物が存在していたことが推定される。基壇の年代は、その製作年代が8世紀中頃以降と推定される四王寺U類軒平瓦が北東隅の石積下から発見されたことにより、その瓦の製作年代の時期を遡らないことが判っている。今回の調査でも残念ながら、古代寺院に直接関係する遺構は確認できなかったが、〈略〉」、「〈発掘された瓦の検討を記して〉、それぞれ異なった瓦を葺いた建物が存在し、しかも廃絶された時期が異なっていたことを示唆するもので、今ある基壇よりも古い段階の礎石建物が基壇の北側、すなわち、現在の○○氏宅の石垣から母屋の下あたりにあったことになる。言い替えれば、まず、8世紀前半代に軒丸瓦T類、軒平瓦0類を使って今ある基壇の北側に新造院が創建され、8世紀中頃以降に今の基壇に軒丸瓦U類、軒平瓦U類を使って新しい礎石建物が建立されたということになろう。そしてこの新造院の拡大整備の契機となったのは、第一次調査の報告で指摘したように、出雲臣弟山の出雲国造就任であった可能性が強い。なお、8世紀中頃以降にどの程度の伽藍が存在していたかは現在の状況ではさだかでないが、〈略〉」、「次に、創建期の礎石建物の廃絶時期であるが、〈略〉、よって、9世紀終り頃までには廃絶したと考えられるが、文頭でも紹介したように、9世紀後半には貞観9(867)年の下知に即応して『四天王安置の寺』として代用されたと考えられるから、いわゆる四王寺と拡大新造院との関係が改めて問題となる。しかし、10世紀頃の土器類の存在や師王寺、寺の前などの字名の残存からその存在は否定しがたいが、方形基壇の礎石建物の廃絶時期が不明であることや9世紀後半代以降の瓦や建物跡が確認されていないことなどから、四王寺段階の様子は以前不明のままといってよい。〈略〉」がありました。
 四王寺跡については、謎のままで分かっていない状態のようです。
 「報告]」では、貞観九年の五月の国司への下知に対して、出雲国では「即応して『四天王安置の寺』として代用されたと考えられる」とありますが、「新造院」は「八幅四天王像」を安置すべき場所の「仍須點擇地勢高敞瞼瞰賊境之道場。若素无道場。新擇善地。建立仁祠。安置尊像。」という条件に合致しません。
 例えば、茶臼山の山頂付近に適当な道場があれば、そこを安置先とすることができると思いますし、適当な道場が無ければ新たに建立すれば、国府や国分寺の付近で宍道湖や中海が見渡せる高所に「四王寺」を設けることができます。
 出雲国造の建てた新造院を「四王寺」の代用としたとありますが、既にある寺院を代用とするのは国分寺にも見られたことですので、あり得ない事ではないのでしょうが、何故におこなわれたのでしょうか。
 茶臼山が「神名樋野」であるゆえに「四王寺」を置くことが憚られた、あるいは国府周辺に日本海まで見渡せる適した山が無かった、などというようなことで、新造院で「八幅四天王像」安置と修法を行なったのでしょうか。
 延喜式-主税上の[65条/出雲四王寺]に「年料」が計上されていますが、これは寺院の修法日以外の維持費用のように思えますので、新造院を「四王寺」に代用したが故に必要とされた経費なのでしょうか。

§茶臼山の山頂付近に中世の山城が築かれたとのことです。
 『風土記の丘地内遺跡発掘調査報告Z ー茶臼山城跡・市場遺跡・内堀石塔群−』(1990.3 島根県教育委員会)の「V茶臼山城跡発掘調査」-
「6.まとめ」によれば、「今回、調査面積は極めて限られたものであったが、成果があったと思われる幾つかの点について簡単にまとめると、次のようである。/@遺構は必ずしも明確に把えることができなかったが、発掘調査をしてみて、主郭部の平坦面は茶臼山を構成する玄武岩の岩山を削平して形成されたものであることがわかった。茶臼山城跡は、数は多くはないものの、曲輪と考えられる数段の削平地と大規模な堀切遺構などを有しており、岩山の加工を考えれば、全体としては相当規模の普請ではなかったろうか。/〈AB略〉」がありました。
 茶臼山の頂きに古代の施設があったというような伝承があるような情報も見当らないようですが、岩山の加工が相当規模であれば山頂付近に古代の施設があったとしても、痕跡の残存は望めないでしょう。
 なお、省略した「まとめのA」に「茶臼山城は少なくとも15・16世紀代には機能・存続していたであろうことがうかがえる」がありました。
 また、同報告書の「V-1.茶臼山城跡の遺構の概要」中に「第3郭は、〈主郭部の西側に位置する〉第2郭の西側から南側にかけて鍵の手状にめぐる加工段である。この曲輪は茶臼山の西尾根からの登り道と南斜面からの登り口とがここに集まる点で重要な位置を占めているものと思われる〈略〉」があり、「〈第3郭の〉西側端に西尾根に下る道がある。〈略〉この東端に通称七曲がりと呼ぶ茶臼山南斜面を何回か屈折しながら上がってくる道がある。〈略〉」として、二本の道を記しています。
 現在の茶臼山には、登山道が北口〈後山池(八幡溜池)方面から〉と西口〈山代方墳方面から〉と南口の三方面があるそうです。
 西口は、山代方墳方面から茶臼山を先ずは南南東方向へ等高線を縦方向に登り標高100m程の尾根に出て、尾根道の曲がりにそって山頂から西にのびる尾根道を登るルートのようです。
 南口は「山代郷南新造院(四王寺)跡」の近くにあり、遺跡西側で247号から北へ入る舗装道路を行くと登山口の小さな看板が電柱に付けられている模様です〈 Googleストリートビュー 〉。
 山頂のほぼ南側の山裾から、等高線を縦方向に登っていく登山道のようですが、ネットにあたってみると、もっともなだらかな登山道で枕木階段等が整備され30分あれば山頂に到着するという情報もありました。
 県道247号側からは南口だけしかないようです。

*出雲国の四王寺については、明らかになっていることはあまり無い状態と思われます。
 延喜式[65条/出雲四王寺]に「四王寺」とありながら、「四王寺」という地名でさえ残っていなく「師王寺=しわじ」であったり、「四王寺」信仰の後継と思われるような寺や堂なども見受けられないようです。
 国府や国分寺から遠くない場所に、貞観九年の国司への下知にある四天王修法道場を設ける場所としてもよいような山が在りながら、その山に道場を設けたという伝承も無いのは、何故なのでしょうか。
 延喜式[65条]に細々と費目を並べているので、四天王修法を実行しているのは確かなのでしょうが。

§長門国の四王寺は、どうでしょうか。
 長門国の国府は、現在の山口県下関市の長府地区にあたるようです。
 本州の最西端部で関門海峡で北九州に向かい合っている半島状の地形の先端部分に下関市の中心部があり、その中心部から北東に10km程〈下関駅〜長府駅〉の周防灘に面して長府地区があります。
 長門国の国府は、長府地区の「忌宮神社」鎮座地(長府宮の内町)辺りとされているようですが、史跡として確定してはいないようです。
 国分寺跡は、忌宮神社の北西側に直線距離で300m弱の現在は住宅地となっている場所にあったとされているようです。
 これらがある古代長門国の中枢地区と思われる場所は、周防灘に面した東側の平坦地に市街域があり、それを取り囲むように三方が山地になっています。
 長門国の国府があった長府地区は、かつては長府藩五万石の城下町でもあり、現在の人口は3万人弱となっています。

*長門国の四王寺は、国府から眺めて北側に連なる山塊にある四王司山に置かれていたとのことです。
 国府から北を眺めて、ほぼ北に標高317mの権現山があり、その10度西側に標高392mの四王司山が大きく見え、その西の奥のほうに標高361mの勝山があり、そこから西に20度ほどに標高288mの青山が見えるようです。〈 カシミール3Dのカシバードで忌宮神社から北側の山岳展望風景を見る 〉
 四王司山・勝山・青山を勝山3山と言うとのことです。
 国府の周りでは、四王司山が一番立派な山に見えると思います。
 四王司山からの展望は、長府市街はもとより、周防灘が見渡せるばかりではなく、響灘も見通すことができるようです。〈 カシミール3Dの「見通し」機能を使って、四王司山頂と響灘の任意の地点間の見通しを確認 〉
 忌宮神社から四王司山頂までの直線距離は、およそ3.5kmです。
 インターネットの登山情報によれば、勝山御殿跡(勝山御殿登山口)から四王司山山頂までのコースでは、およそ50分程とのことです。長府駅付近の長府松小田地区方面からの「松小田コース」の場合は、石槌神社石鳥居(長府松小田登山口)から四王司山頂までおよそ60分程とのことです。石槌神社の鎮座地の住所は松小田です。
 勝山御殿跡も石槌神社石鳥居も市街地からは離れている山裾付近にあり、国府跡から勝山御殿まではグーグルマップの徒歩経路では徒歩53分で、同じく石槌神社石鳥居までは46分となりましたので、国府跡から四王司山頂までは2時間ほどを要するようです。
 四王司山の南麓に入り込むように、長府四王司町・長府新四王司町という地区があります。住宅地が開発されたのではないかと思います。

*現在の四王司山の山頂付近には、四王司神社・毘沙門堂跡・四王司山城跡があるようです。
 四王司山城に関する簡潔にまとまった資料として、「下関城郭サミット」HPの「カテゴリー:2020」にある「四王司山城ー城郭情報」PDFがダウンロードできます。勝山三山の勝山にも青山にも中世山城跡があるようです。
 〈 https://shimo-jo.com/category/2020/ 〉

*四王司神社に関する情報は、「山口県神社庁」HPには詳細がありませんでしたので、サイト「八百万の神」−「山口県下関市-四王司神社」を見てみますと「祭神:保食神 大地主神 毘沙門天」「座地:下関市松小田131」と社殿・由緒看板・他の写真がありました。
 〈 https://yaokami.jp/1350086/ 〉
 由緒看板は「四王司神社由緒沿革」と題され、本文を抜粋引用すると「仲哀天皇二年熊襲平定のため行宮を穴門豊浦に定められ豊浦宮(現在忌宮神社の鎮座地)と称す。 此の皇居の守護神として標高参百九拾貳米の当四王司山頂に保食神 大地主神を鎮斉されたのが初まりで神功皇后三韓親征の出陣には戦勝の大祈願が執行された由緒正しい神社で当時社名は四王司山祠と称された」「清和天皇貞観九年五月夷敵降伏国土安穏を祈願し給い勅誼により全国五個所(略)に毘沙門天の尊像を奉安された。長門の国に於ては此の四王司山祠に合祀されて一般に四王司毘沙門天祠と云われ、〈略〉」「斯くて明治の初め神仏分離の制度に依り四王司神社と改称された。〈略〉」「正月初寅祭には〈略〉参拝者夥しく午前零時の合図に依る拝殿前の参個の鈴の緒を奪い合う情景は云語に絶した凄じさである。〈略〉」とあります。
 どうやら、「八幅四天王像」を安置して四天王法を修する道場の設置ということが抜け落ちて、豊浦宮の時から四王司山祠であり、貞観九年に毘沙門天が合祀されたということになっているようです。四王司毘沙門天祠と言われていた時代に作られた由緒のようです。
 その四王司毘沙門天祠は明治に四王司神社に変わったそうですので、毘沙門天を祀る事はできなくなったのではないかと思いますが、どうしたのでしょうか。

*四王司山の松小田からの登山口には「びしゃもん道」の道しるべ石柱があり、登山道を進んでいくと「遙拝所経由 登山道」案内板があり、四王司神社遙拝所(毘沙門堂)があるようです。
 〈 HP「中国地方の登山紀行 法師崎のやまある記ー「四王司山 松小田コース・長府権現山へ周回」−「2015年12月29日の四王司山松小田コース・長府権現山周回登山を見る」による。 〉
 〈 https://houshizaki.sakura.ne.jp/sioujiyama2015.htm 〉
 グーグルマップで「四王司神社遙拝所(毘沙門堂)」を見て、写真を見ると社殿には「長府毘沙門天」額があげられています。 
 四王司神社は、まさに四王司毘沙門天祠として信仰されていたようです。
 現在の四王司山頂の毘沙門堂跡は、平成七年三月に火災で焼失した毘沙門堂の跡ということなのでしょうが、焼失までは山頂に毘沙門堂があったわけですから、明治以降には四王司神社と毘沙門堂が山頂にあったということではないかと思います。
 サイト「四王司 毘沙門天」(連絡先:宝鏡山 来福寺)の「由緒」の「四王司毘沙門天 略歴」に「平成7年3月に火災により本殿が焼失し、御本尊を四王司毘沙門天守護職を預かる下関市勝山井田来福寺の境内の本殿を再建し、現在に至ります」があり、「四王司毘沙門天由緒」に「元和年間毛利宰相秀元公国家鎮護家運長久の祈念をされ大願成就しました。来福寺三庭和尚に五石余の御供料を下附され 別当職を仰せつけられます。爾来代々の住職修法勤行して今日に至ります」とありました。
 〈 https://raifuku.sakura.ne.jp/yuisho.html 〉 
 「トライアングル」という「地元情報誌が山口県を深掘していくウエブマガジン」のサイトの記事「【下関】開運招福・商売繁盛を願って『初寅まいり』へ(2023年1月2日)」に「四王司神社の初寅」の案内中に「四王司山ゆかりの『宝鏡山 来福寺』でも初寅まいりができます。」とあり「宝鏡山 来福寺」の案内に「かつて四王司山山頂で神社とともに初寅を行なっていましたが、火災により現在の場所に移転。車で行けるので、登山が難しい方はぜひこちらへ」がありました。
 〈 https://tryangle.yamaguchi.jp/tryangle/shimonoseki-hatsutora 〉
 また、「真言宗 福仙寺」HP〈 https://www.88fukusenji.jp/ 〉の「お知らせ」中の「43)長府:四王司山の本当のご本尊“毘沙門天像”と〈以下略〉」記事に、〔引用:明治の神仏分離までは、長門二宮「忌宮」別当。『神宮寺』は四王司山「毘沙門さま」まで祭祀管轄でした。故に、神宮寺は明治初期、神仏分離の嵐のなか当山と合併したので、明治以前の“毘沙門天像”は福仙寺に在ります〕がありました。
 〈 https://www.88fukusenji.jp/c_news/col3.cgi?mode=dsp&no=45&num= 〉

 よく分かりませんが、山頂の四王司神社は明治以降に神社になったもので、それ以前は毘沙門天を祀る御堂があったようです。
 山の名前は、四王司山であり、四王寺とは表記は異なりますが、貞観九年の国司への下知による八幅四天王像を安置して、延喜式-主税上[66条/長門四王寺]に「長門国四王寺修法料」とある四王寺に由来する山名なのだろうと思います。
 四王寺は廃れて寺の存在が忘れられも、毘沙門天信仰が残ることでシオウジの名が残り、山の名前として四王司と表記されていったのでしょうか。
 ネット上では、四王司山城跡についての発掘調査報告書などが見当らず、四王司山の四王寺跡がどのようであったか分かりませんが、長門国の四王寺が四王司山以外に存在したという伝承などもないようですので、四王司山に四王寺が置かれたというのは、動かないのではないかと思います。

 伯耆・出雲・長門の四王寺に関連する情報がないか、ネット検索を通じて調べてみましたが、四王寺があったであろう場所の現在の様子がいくらか知ることができたにとどまりました。

§『延喜式 巻第二十六・主税上』に石見国と隠岐国の四王寺修法料は見当りません。
 石見国の四王寺に関連する[探訪記録以外の記事ー外編 1=島根県の「大亀山末四王寺」情報について]という記事を作成しておりますので、石見国の四王寺が国府周辺にあったとしたらどんなところが候補になるか見てみたいと思います。
 石見国府のあった場所に関しては、『石見国府跡推定地 調査報告T』(昭和53年3月 島根県教育委員会)を見ます。
 〈 『全国文化財総覧』 ダウンロードページ : https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13738 〉
 この「T 調査にいたった経緯」に「石見国府は、和名抄によれば、当時の那賀郡にあったという。その位置については、地名、地形、伝承及び国府に関係する他の遺跡との位置等をもとにして、大正時代以来種々の考察がなされている。当初邇摩郡仁摩町に所在し後浜田市下府町に移ったという説もあるがいずれにしても浜田市のかつての伊甘郷に存在したという点では諸説は一致している。その伊甘郷は、下府川の形成した沖積地で、川口に近い下府町から上府町にかけて広い沃野が展開しており、一国の首府の所在する場所としては格好の所である。しかしその具体的な位置については各説相違している。〈略〉。国府の位置については、多くの場合瓦、土器などの出土が手がかりになって調査が進められるが、石見国府の場合現在のところその情報が全くない。まだ国府跡(国庁跡)に直接関係すると考えられる地名等も検出されていない。〈略〉」とあります。
 同報告書「X結語」に、この時の調査区の「浜田市下府町横路地区の水田部分」には「石見国府跡は存在しないとの判断されるにいたった」とのことです。
 この報告書は『石見国府跡推定地 調査報告T』とあるように、初めての報告書のためか、同書の「U 位置と環境」の中に「奈良時代になると、国の史跡に指定されている石見国分寺跡、下府廃寺、県指定の石見国分尼寺跡、石見国分寺瓦窯跡など、寺院関係の遺跡が多い。国分寺跡は、国分町の日本海に近い丘陵上に位置し、国分寺の東側約350mには国分尼寺跡が、また西側100mには国分寺瓦窯跡がそれぞれ存在する。国分寺、尼寺は、発掘調査が行われていないため、寺域、伽藍配置など不明な点が多く実態はあきらかにされていない。ただ、国分寺は、現在の金蔵寺の本堂、庫裏あたりが、金堂、講堂にあたると考えられており、金堂の東南側には塔跡と思われる土壇と礎石が残っている。国分寺瓦窯跡は、昭和41年に調査が行われ、燃焼室と焼成室からなる平窯であることがわかった。出土した瓦から国分寺創建時に近い年代のものと考えられている。下府廃寺は、下府町佐古の畑地にある。ここも調査が行われていないため、寺域、伽藍配置とも不明であるが、塔跡が残っている。〈略〉」があり、国分寺などについての情報も記されていますし、「V 石見国府跡についての研究と文献」として、大正時代以降の考察の要旨がまとめてあり、助かります。
 『石見国府跡推定地 調査報告U』(昭和54年3月 島根県教育委員会)は、「伊甘神社脇遺跡」での発掘調査報告書になります。
 〈 『全国文化財総覧』 ダウンロードページ : https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13600 〉
 同書「Wまとめ」の「(1)伊甘神社脇遺跡の性格」中に「この地は従来から国府跡と推定されてきた。しかし検出された柱穴群の様相と周囲を山にかこまれた近辺の地理的条件を考えれば、この地を国府跡とする説は一応否定されるべきであろう。しかし、反面においては官寺である石見国分寺跡と同類の瓦が出土している事実から、この地に国庁と何らかの関係があった公的な建築物が奈良時代には存在していたとも考えられる。〈略〉」としていて、国府跡は依然として不明です。
 「Wまとめ」の「(2)石見国府設置場所の問題」として、どのような場所に国府設置場所を求めるべきかを検討しています。
 「Wまとめ」の「(3)今後の展望」で「今回の調査でも伊甘神社脇遺跡は国庁ではないとの結論に至った。〈略〉。となれば、別の地に国府を置いたと考えざるを得ない。上府町三宅地区については次にかかげる点が興味深い。〈略〉。こうした事実から、三宅遺跡を含む三宅集落一帯は国庁の設置された可能性が強いといえよう」としています。
 この三宅地区の上府遺跡の発掘調査について『石見国府跡推定地 調査報告V』(昭和55年3月 島根県教育委員会)として公表されています。
 〈 『全国文化財総覧』 ダウンロードページ : https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14297 〉
 上府遺跡は、『調査報告U』で「三宅集落遺跡」〈図12〉としたものを改めたとのことです。
 この調査では、「民家密集地であるため空間地を選んで調査■〈土偏+広:壙?〉を設けた」とのことです。
 「X本年度の成果−上府遺跡についてー」で「本稿でいう三宅地区とは、上府町地内の推定山陰道・長門路より東の部分を指しており行政区画上のものではないことを予め断っておく。前述のように、石見国庁は三宅地区に置かれた可能性が強いとして、調査を開始したのである。発掘調査の結果、石見国庁が置かれたとするに充分な資料を得るにいたらなかったが、若干の遺構を検出したのも前述のとおりである。〈略〉」とありますので、国府の確認はできていないとなります。
 この項目は続いて上府遺跡と三宅地区について、地形上の特質・周辺の遺跡・検出遺構についての記述があり、さらに「Y石見国府への道」「Z伊甘郷における地名について」の項目を叙述して「[今後の展望」に「これまで、3次にわたる石見国府跡推定地の調査を実施してきたのであるが、国府の中心をなす国庁の所在地をつきとめることができなかった。しかし、石見国府は先学の研究から伊甘郷のどこかに置かれていたことは疑いようのないことであり、また諸々の条件が下府川流域の一画に置かれていたことを俊示しているように思えてならない。そこで今後どのような観点に立って調査研究すべきか、若干の問題点をあげてみよう」として「1.歴史的背景・2.国府設置にあたっての条件・3.国庁跡推定地について」として記述しています。
 「3.国庁跡推定地について」で、「(イ)上府遺跡」について「未調査の部分もかなりあり、今後さらに検討を要する。」としていますし、(イ)から(ヘ)の6ケ所の国庁所在地の候補地をあげて「今後とも各方面からの基礎的調査研究を続け、一刻も早く石見国府の実態を明らかにして、その保護活用をはかる必要がある」としています。
 このあとの国府・国庁に関する調査報告書をネット上では探せませんでしたので、その後の経緯は分かりませんが、現在も国府跡が確認されてはいないようです。

*石見国分寺跡は史跡指定もされていますので、国分寺跡を基準にして、その周辺に四王寺が置かれる条件に合う場所があるかどうか見てみたいと思います。
 地図を見ると、浜田市の浜田エリアの中心街は、浜田市役所があり、最寄り駅がJR浜田駅となるあたりと思いますが、国分寺跡があるとされる金蔵寺は浜田市国分町にあり、浜田市役所からは北東に6km程のところになります。
 国分町の南に浜田市下府町が位置し、国分町の東南側から下府町にかけての東側に浜田市上府町があります。
 下府川沿いの三宅地区から下流側のJR下府駅までの間の平坦地に国府があったとすると、国府の北側にある山地が国分寺との間にありますので、山道が作られていたかも知れませんが、山地の西側の伊甘神社の方に出て海側の平坦地部分をまわって行く道があれば往来が楽かと思います。
 国分寺跡あたりは、平坦地とは言えないようですが、唐鐘のあたりから海側に下府川右岸まで平坦地があるようです。
 このあたりで、「地勢高敞瞼瞰賊境」の地を見出すとすると、日本海に近いのである程度の高台であれば条件にかなうと言えそうですが、地図上での判断では下府川より北にこれはという印象的な山が見当りません。あえて言えば、笹山城跡の山でしょうか。
 石見国の四王寺は、あるとすれば、どこにあったのでしょうか。

 様々なことが不明のまま、本記事を終えます。

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