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準備記録   岩手  1  花巻


探訪の基本情報
《桑原リスト ◎稗貫郡矢沢村(現花巻市)   胡四王堂、胡四王山

*現在の状況
 『平成の祭』によると=神社名:胡四王神社(こしおおじんじゃ)  通称:胡四王さん
              〈読み仮名は「こしおう」ではなく「こしおお」とされている。〉
              祭神:〔主〕少彦名命、大己貴命すくなひこなのみこと おおなむちのみこと)
              鎮座地:花巻市矢沢第3地割160(矢沢3−160)

《探訪の準備》
*稗貫郡矢沢村は、明治22年に矢沢村・高松村・幸田村・東十二丁目村・高木村の一部が合併して発足してから、昭和29年に花巻町・湯本村・湯口村・矢沢村・太田村・宮野目村が合併して旧花巻市になるまでの間の呼称のようです。
 〈参考文献:市町村名変遷辞典  参考webサイト:『人そして川』カテゴリー「郷」ー「稗貫郡消滅ー近・現代の稗貫郡」〉
 現在の住所表示にも、矢沢の他に幸田・高松・高木・東十二丁目がありますので、胡四王神社は旧矢沢村に鎮座していたのでしょう。
 鎮座地を地図で確認してみますと、標高183mの胡四王山の山頂に鎮座していました。
 麓の標高は80m程ですので、標高差100m程の山のようです。
 胡四王山には山頂より東南方向の標高160m強の場所に宮沢賢治記念館などがありました。
 北側の麓の胡四王神社社務所からの道が参道でしょうが、国道456号線から胡四王山を西に登ると宮沢賢治記念館があり、そこからの道もあるようです。

 東北新幹線の新花巻駅の東西に胡四王1丁目・2丁目という地名があります。
 この地名はどうしてここにあるのでしょうか。ここには「地割」という表示がありませんから、新しくつけられた地名でしょうか。

*『平成の祭』に記されている胡四王神社の由緒によれば、「当神社は大同2年(807)坂上田村麿将軍東征の折、この地に宿営し、将兵の武運長久、無病息災を祈願して、自ら兜の中心に納めてあった薬師如来の小像を安置してこの地に創建された。稗貫氏時代には、医王山胡四王寺(天台宗)として末寺十八ケ寺を擁する全盛時代を成した。天文年間に火災に遭い一時衰微したが、南部藩に引き継がれてからは、八石一斗九升九合の社領を受け、祭礼には代参を遣わすなど、南部藩の祈願所として地域の信仰を集めて栄えた。文化15年(1804)別当杉山丹後藤原道春が神道祀官となってから、薬師如来を医薬の神・国土開発の神である「大己貴命」(おおなむちのみこと)「少彦名命」(すくなひこなのみこと)に代え、村名を冠して矢沢神社とした。明治六年郷社に列格す。町村合併で市制が施行された昭和29年、胡四王神社と社名を変更して今日に至る。〈略〉」とあります。

 インターネットに胡四王神社や胡四王山に関連する様々な情報があります。
 そのひとつのサイト『岩手県の町並みと歴史建築』で、「花巻市」の項目に「胡四王神社」が紹介されており、「胡四王神社(花巻市)概要」のなかに「〈略〉中世には稗貫郡一帯を支配した稗貫氏の庇護を受け寺院(胡四王寺:天台宗)として末寺18寺を擁し大きく発展しましたが、天文年間(1532〜1555)の火災により社殿が焼失し、天正18年(1590)、稗貫氏が豊臣秀吉による奥州仕置により改易されると庇護者を失い一時衰退します。近世になり盛岡藩支配になると藩主である南部氏の祈願所となり社領8石1斗9升9合の安堵や社宝の寄進、例祭には藩主の代参が参拝を行うなど再び社運が隆盛しています。古くから神仏習合していましたが、文化15年(1804)に別当だった杉道春が還俗し改めて神官となったことを受けて本地仏だった薬師如来を廃し、大巳貴命と少彦名命の分霊を勧請し矢沢神社に社号を改めました。〈略〉」とありました。
 『平成の祭』の由緒と合わせて読ませていただきました。

*喜田貞吉は『越の国及び越人の研究(下)』で「古四王社は又往々にして、本地薬師佛として崇敬せられて居る。陸中矢澤の胡四王社の如き其の著しいもので、同國徳田村なる同社も、もと北向き薬師と呼ばれて居た。」と記して、古四王と薬師の関連を提示していますが、その根拠にあげている矢澤の胡四王社がここになりますので、重要な探訪先になります。
 『探訪記録 庄内20 』に関連記事があります。

 胡四王神社の「由緒」「概要」を見た限りで思うことを先ず記します。
 薬師如来を祀ることを田村麻呂に結びつけていますが、大同二年の創建伝説はここだけのことではないので、どの程度の信憑性があるのでしょうか。
 医王山胡四王寺として栄えていた時期があったが、火災や庇護者の状況により衰微し、南部藩となって社領を受けたり祈願所になる処遇を受けるとありますが、南部藩の時も医王山胡四王寺と呼ばれていたということでしょうか。
 医王山という山号は薬師信仰によるものと思いますが、胡四王寺という寺号は薬師信仰による名称なのでしょうか。
 薬師如来を本尊とする寺が胡四王と呼ばれたので、胡四王という名称が薬師信仰と結び付けて想起されることになっていったのか。
 胡四王という名称が薬師信仰と結びついたものだったのか。
 薬師が先か、胡四王が先か。
 胡四王が先とすれば、胡四王のどこが、なにが薬師との結び付きであり、あるいは疾病への霊験なのでしょうか。
 文化15年に杉(山)道春が僧侶として祀ることを止めて神官として神を祀ることを断行したのだと思いますが、国学や復古神道と関係する行動なのでしょうか。 〈 補記 : この記述は誤りのようです。「還俗し改めて神官となった」とありましたので、寺があってその寺が別当と思い込んでいました。俗別当であった者が神道祠官に取立てられたようです。 《追記 2020−07》をご参照ください。〉

 その時〈文化15年〉に、大巳貴命と少彦名命の神を祭神として祀るということなので、医薬の神を祀ることになるのでしょうが、神社名は矢沢神社としたとあります。
 胡四王神社とはしなかったのですから、コシオウ神を祀ることはなかったし、大巳貴命と少彦名命をコシオウ神社の祭神として祀ることもなかった、というように読むことができそうに思います。
 胡四王という名前が、疾病への霊験と結び付いたものであれば、こうはならないのではないでしょうか。  
 矢沢神社と改称して、矢沢神社と呼ばれるようになったのでしょうか。

*国会図書館デジタルコレクションで『南部叢書』に当たってみますと、第五冊の『邦内郷村志』-「巻一」の「御領国社地有禄別当」の項目中に「〇〈マル〉三石二斗 花巻胡四王別当〈別当名の記入は無い〉」(32頁)の記載があり、同-「巻八」の「和賀稗貫二郡安俵縣」の矢澤村の項目中に「○  胡四王堂 別当云。表権現本地薬師也。本尊秘仏而不拝之。未知祭何神。或曰?薬師堂向北。総謂胡四王。然不知其所以。又秋田湊有胡四王堂。是又然。別当居山北麓。社領五石。〈返り点省略〉」(544頁)があります。 
 webサイト『イーハトーブ 岩手電子図書館』によると、『邦内郷村志』の年代は「明和〜寛政年間」とのことですが、『邦内郷村志』の「解題」によると「七・八巻は『和賀稗貫郷村志』(確證がないが松井道圓の著として傳えられる、享保の奥書がある)に多少の増減をして漢文に書き改められたものであらう。」とのことなので、巻八の「胡四王堂」記事は享保(1716〜1736)にさかのぼるかもしれません。
 享保であれ、明和〜寛政年間であったとしても、この時代には別当が差配する神仏習合の「胡四王堂」であったのでしょう。

 秋田湊のコシオウについて「胡四王堂」としています。
 「巻一」に「 三石二斗」とありますが、この記載部分の二つ隣に「〇 三十石 花巻子安地蔵別当  松林寺」の記載もありますので、たとえ「五石」「八石一斗九升九合」でも、そう多いということではないと思います。

*『南部叢書』第一冊の『奥々風土記』は、『イーハトーブ 岩手電子図書館』によると「筆者 江刺恒久」で「盛岡藩15代藩主南部利剛の命によって藩内の風土記をまとめたもの」〈藩主代は記載のママ〉とのことですので、幕末のものになります。
 その「巻三 稗貫郡」の記事に「○ 胡四王神社 矢澤村にあり、少彦名神を齋奉れり。山陰左中将の苗、藤原為重か建立たりし神社なりとなん。」(64頁)とあります。
 「藤原為重」については、同じく「巻三」に「〇 春日神社 鍋倉村にあり。山陰左中将の子孫、藤原為重かいつき奉れるなりと云傳ふ。」があります。
 「山陰左中将」「藤原為重」は、稗貫氏の系図に関するお名前のようです。
 稗貫氏が建立した神社という伝承があるということなのでしょうか。

 「少彦名神を齋奉れり」は、神社創建に関わる伝承でしょうか、それとも『奥々風土記』編纂の時代のことなのでしょうか。
 矢沢神社と称した以降も、矢沢神社より胡四王神社で通っていたということでしょうか。
 なお、『平成の祭』によると、花巻市鍋倉字地神20に春日神社が鎮座しています。

*『南部叢書』第九冊の『吾妻むかし物語』は、その「解題」によれば「松井道圓の著であって、古い民譚や逸事などを蒐めたもの」で元禄の頃に書かれたようです。
 第五冊『邦内郷村志』の「七・八巻『和賀稗貫郷村志』(確證がないが松井道圓の著として傳えられる、享保の奥書がある)」とありますので、著者が同じ可能性があり、年代は『吾妻むかし物語』が古いことになります。
 『吾妻むかし物語』の「中之巻・第十一 新堀佐兵衛大力の事」に「稗貫郡胡四王山元は権現といひしが今は薬師とて古今崇敬相同じ、ある人のいわく胡四王といへるは薬師堂の北向に立たるをば胡四王と号す、秋田領矢橋ヤハセといへる所にも是有これもやくしどう北向に建たり其所以を知らず。」とあります。
 『邦内郷村志・巻八』から引用した漢文と似ていますが、その元になった記述でしょうか。
 「元は権現といひし」というのは、ただ「権現堂」とでも呼ばれていたのでしょうか、それは胡四王権現ということなのでしょうか。
 この時には、権現堂ではなく薬師堂とされているが、信仰されているのは変わらないということでしょうか。
 『邦内郷村志・巻八』では、胡四王権現の本地仏が薬師如来と記しているのではないかと思います。
 この両者の記述は、違うことを言っているように思えますが、言い回しが異なるだけなのでしょうか。
 『邦内郷村志・巻八』では、本尊は秘仏で何の神を祭っているのかは分からないとあるようですが、薬師如来の他に本尊があるのでしょうか、あるいは秘仏の本尊を薬師如来としているが実際のところは不明ということなのでしょうか。

 「稗貫郡胡四王山」という表し方は、山名を「胡四王山」と言っているのか、寺を指しているのか、どうなんでしょう。
 秋田領矢橋に関しては、現在の秋田市寺内に隣接して八橋地区があり、Wikipediaによれば「古くは『谷橋』『矢橋』とも表記された。」〈「八橋(秋田市)」ー項目「歴史」、『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。閲覧日2017年5月1日 URL:https://ja.wikipedia.org 〉とのことですので、この場所が秋田市八橋のことであれば、「秋田湊有胡四王堂」と同じものをさしているのではないでしょうか。
 秋田にもコシオウというものがあるという知識はあるのですが具体的には承知していないようで、秋田の胡四王と表記し薬師としています。

 北面する薬師堂のことを胡四王と称すとのことで、コシオウの社・堂は北に向いているということが背景にあるようですし、コシオウと北向薬師との関連を示している資料になります。
 しかしながら、何故そうなのかは分からないので、なぜ「胡四王」なのか「胡四王」の称号はどこから生じたのかはここからは分かりません。

*『神社名鑑』(神社本庁・昭和38)の「胡四王神社」の項目中に〔「祭神 大己貴命 少彦名命」 「例祭 五月八日」 「宝物 持国天、多聞天像」 「由緒沿革 胡四王山頂に鎮座し、大同二年坂上田村麿東征の砌り大己貴命、少彦名命二尊を奉斎し己少山と称して社殿建立」〕の記述があります。
 大同二年坂上田村麿がでてきていますが、大己貴命・少彦名命が記され薬師如来がでてきません。
 持国天と多聞天の二天はどのように扱われていたのでしょうか。
 己少山の文字は二柱の神名の一文字ずつを取ったものでしょうか。そのようなことは非礼ではないのでしょうか。
 己少山はコショウザンと読むのでしょうか。
 胡四王山は「こしおうざん」とカナが振られているのを見ます。
 己少山がコショウザンであれば、コショウザンがコシオウザン胡四王山になったのでしょうか。
 胡四王山は「こしょうざん」と呼ばれることはあるのでしょうか。

 矢沢神社になってからのことが気になります。
 明治時代には、矢沢神社として郷社になっているのでしょうから、胡四王神社ではないわけです。
 信仰のありようはどのようであったのでしょうか。
 江戸期を通して胡四王(堂)と呼ばれていて鎮座地が胡四王山であれば、昭和29年に胡四王神社と社名変更したことは頷けます。

 矢澤の胡四王は知られた社であったのでしょう。
 岩手の他の社の表記が胡四王とされているのは、ここの社のあったためかも知れないと想像してしまいます。

 いろいろと分からないことだらけです。

 カシミール3D 解説本の地図: 上図 胡四王神社
                     下図  胡四王神社 花巻駅・JR東北本線    1/50,000図


《追記 2020−07》
*『花巻市史 第二巻』(花巻市教育委員会 編 国書刊行会 昭56・1981)を国立国会図書館デジタルコレクションの図書館送信資料で閲覧できました。
 その「神社編」に「二二、胡四王神社(矢沢神社)」の記載があり、その「本殿」の項目に「一間半四面、東和町下小田山の小原喜代治が彫刻、大正元年(1912)に完成したものである。拝殿は慶応三年(1867)に竣工、二間に三間で花巻の名棟梁といわれた二代目高橋勘次郎の作である。〈略〉」があり、「由緒」の項目に「伝えによると延暦年間(八世紀末)坂上田村麿が蝦夷平定に下向のとき、武運祈願のために自分の兜の中心に納めていた薬師如来を安置したのが起源であるといわれている。稗貫氏時代非常に栄えたが、天文年中(十六世紀半)の火災で一時衰微した。南部氏時代になってからは、代々その崇敬をうけ社領を賜り格式の高い神社であった。文化十五年(1818)別当が神道祠官に取立てられてから本尊を薬師如来から医薬の神の大巳貴命 少名彦名命にかえて今日に至っている。」とあり、このあとに文字サイズの小さい二行が「古文書が数通所蔵されており史料に掲載した。それらの中に、この神社の由緒についても記されているが、それを整理して前書のようにまとめた。詳細に知りたい方は史料を参照していただきたい。」記されています。

*『花巻市史 第二巻』の「指定以外の文化財」に「矢沢神社薬師堂」があり「矢沢の胡四王山上に建っているこの御堂は花巻の名棟梁といわれた高橋勘次郎が、慶応元年(1865)に作ったものである。用材は主として欅を用い、間口三間奥行二間入母屋流れ造りの茅葺き屋根で、扇■〈垂木〉を二重にしてあって、全体に荘重味がある。屋根の軒が深く形を特に注意してつくったものであるためと思われる。〈略〉」とあります。
 そうすると、慶応元年に薬師堂、慶応三年に神社の拝殿を作ったということになり、神社拝殿と大正元年に出来た神社本殿とは別に薬師堂があるということになるようです。

*さて、「史料」を見てみますと、「四、矢沢胡四王神社文書」の項目に年月の入ったまとまった文書は宝暦九年十一月(1759)と天明三年四月(1783)と寛政十年八月(1798)と慶応二年五月(1866)の四種が載っています。
 宝暦の文書は「(表ニ書上掴〈旧字〉トアリ)/  覚  /  安俵通御代官所矢沢村 / 一、胡四王堂 三間四面 萱葺  別当 喜内 / 草創大同二年三月 本尊薬師如来 秘仏 / 恵信御作 持国天 一躰木仏 / 運慶御作 多聞天 一躰木仏 / 一、高三石弐計(斗カ)壱合  社領  /  右者御証文所持罷在候 / 右之通御座候間書上仕候但シ小破ニ御座候 / 宝暦九年十一月 /   矢沢村肝入 喜内 / 七重助 / 箱石清左エ門 様 / 田鎖内蔵丞 様 」とあります。
 天明の文書は「乍恐以書付奉願上候事」から始まり、寛政の文書は「乍恐以書付奉願上事」から始まる文書で、矢沢村胡四王別当と矢沢村肝入の連盟で、藩に援助を願う文書のようです。
 両文書の別当は、ともに「瀬五右エ門」となっています。
 慶応の文書は、表紙に題名・年月・氏名の「胡四王大権現社由来并ニ御免状写由緒書上帳」・「慶応二年」「寅ノ五月」・「瘤R丹後」と記されている文書です。

*『御領分社堂』〈記事・岩手3及び岩手4の《追記》をご参照ください〉の「御領分社堂 三:安表高木通御代官所・矢沢村」に「胡四王堂」の記載がありました。
 これは、宝暦の「覚」とある文書に対応するもののようです。
 「御領分社堂 三:安表高木通御代官所・矢沢村」に「一 胡四王堂 三間四面 萱■〈葺?〉 俗別当 喜内 / 一 本尊薬師如来 秘仏 / 一 持国天一躰  恵信御作 木佛 / 一 多聞天一躰  運慶作 木佛 / 棟札写左之通 / 稗貫郡矢沢村郷薬師堂棟冊 / 一〈棟札写の文・略〉 / 高三石弐斗壱号  社領 / 右は御証文所持仕候、御堂当寺大破御座候 」 〈一は漢数字イチ。/ は改行。箇条書〉

 別当の喜内は、俗別当のようです。
 「覚」とは、小破と大破の違いがあります。
 棟札写の文面には、由緒と経緯が記されていて、この部分は「覚」には記されていません。
 胡四王堂についての文面を棟札写の部分を含めてPDFにしてみました。

 PDF。 PDF-yazawamunafuda.pdf  〉

 この文面の記された棟札の年代は分からないのでしょうか。
 天明の文書中に「正徳四年建替之節」云々という記述があるのが気になります。

*慶応の文書は、その最後のほうを引用すると「先祖瘤R右京■〈ヨリ〉代々胡四王大権現別当罷有候処祖父丹後利敬様御代神職被仰付候以来吉田家御門人ニ罷成私迄三代神職罷有候 / 丹 後  四十歳 〈家族の記載・略〉 / 右之通神社由来并ニ御免状写由緒書上仕候以上 / 慶応二年五月 稗貫郡矢沢村胡四王大権現祠官 瘤R丹後 印 / 下斗米 石見守 様 / 右は下斗米石見守殿御達シ御沙汰ニ付書上仕候」とあります。
 「矢沢神社」という社名にしたとありましたが、書上の署名には「胡四王大権現祠官 瘤R丹後」と記してありました。

*いろいろと分かりませんが、十八寺院を擁して栄えていたが、薬師堂を残すのみとなったが、それを守り存続させてきた関係者の歴史があり、そこに胡四王堂とされてきた歴史も区別できない形であるようです。
 胡四王堂として残ってきたことの貴重さを思います。

 胡四王山の遺跡と神社創建の伝説は関連するのでしょうか。


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