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準備記録   岩手  3  徳田


探訪の基本情報
《桑原リスト ◎紫波郡矢巾町徳田   胡四王神社(北向薬師)

*現在の状況
 『平成の祭』によれば、神社名:徳田神社(とくたじんじゃ)
               祭神:〔主〕大巳貴命、少彦名命
               鎮座地:紫波郡矢巾町西徳田第6地割字五百刈田8
               現在の住所表示では、紫波郡矢巾町西徳田6−8、となるようです。
                             〈シワグンヤハバチョウニシトクタ〉

《探訪の準備》
*webサイト『岩手県神社庁ー神社検索ー岩手県神道青年会HP』で徳田神社が見れました。
       御祭神:大名牟遅命 少毘古那命
       鎮座地:紫波郡矢巾町西徳田6−8
       由緒: 由緒詳かでないが口碑によれば、陸奥守藤原秀衡がこの地に弥陀仏を祀り、その族俊衝・秀衡堂宇を建立したと伝えられるも、
       その後頽廃し、仏像もその所在を審らかにせず。後年に至り嘉永三年(1850)社殿改築に際し、屋根裏より三、四寸の銅仏を発見したという。
       数百年の間胡四王社と称したが、元和初年(1615)薬師社を合祀して薬師神社と改称し、明治2年(1869)天満宮を合祀し天満宮と称したが、
       大正13年地名を冠して徳田神  社に改めた。

 これによれば、薬師神社が合祀されたことで薬師神社となったもので、それまで長い間胡四王社とされていたようです。
 胡四王と薬師はもともとは別々のものであったようです。

*国立国会図書館デジタルコレクションで『紫波郡誌』(岩手縣教育會紫波郡部會 大正15年1月〈1926〉)の「第6章神社誌」の「徳田神社」を見ると、「徳田村大字西徳田五百刈田に鎮座の村社で、大穴牟遅之命・少彦名命を祭る。俚俗之れを木ノ輪薬師と称へ、元禄二年七月有志豊前等社殿を修造し、明治元年六月村社に据えられ、境内三百十五坪、本殿十六坪二合五勺、例祭日七月二十五日、同社は薬師神社と称えたが、大正十三年七月七日徳田神社に改称した。境内社は(1)道祖神社(2)法龍神社である。」とありました。

 胡四王への言及はありません。
 「木ノ輪」はキノワでしょうが、キノワを城柵の跡という意味で言っているのであれば、胡四王が城柵跡にあることの意味は何でしょうか。

*webサイト『矢巾町歴史民俗資料館』で「史跡徳丹城跡」を見ました。
 徳田神社は徳丹城跡の外郭南門の北側に立地していることになるようです。
 また、外郭西門の西側に矢巾町歴史民俗資料館があるようです。

*webサイト『いわての文化情報大辞典』の分野「歴史文化」の「いわての城・館」から「徳丹城」を見ると「地勢と遺構:北上川西岸の低位段丘上に位置し、正方形の一辺は約350メートルと胆沢城(約670メートル)、志波城(短辺約840メートル)と比べ小規模である。外郭は太さ30〜40センチの丸太によって囲まれ、70メートルおきに櫓が設けられていたと思われる。外郭の東西南北に門があり、南北の門は中央に、東西の門は北に寄っている。正面にあたる南門は徳田神社境内にあり、経45センチ以上の丸太を用いた八脚門で瓦葺きだった可能性が高い。城の中心部である内城は中央やや北寄りにあり、一辺は約80メートル。正殿は東西14,57メートル、南北5.91メートルの規模をもつ南向き東西棟であったと考えられる。現在は町立徳田小学校の南に隣接し、城跡を国道4号が縦断している。」とあり、5葉の写真が載せられており、「徳田神社」「神社境内の南門石碑」と題された写真がありました。

*『岩手県神道青年会HP』にある徳田神社の由緒によれば、堂宇の建立について、藤原秀衡の「その族俊衝・秀衡〈ママ〉堂宇を建立したと伝えられる」とあります。
 徳丹城が営まれた時代と神社の建立とされる時代とは、ずいぶん隔たりがありますが、建立とされる時代に徳丹城はどのようであったのでしょうか。
 神社は、徳丹城の南門の内側付近に鎮座しているようですが、創建の時代がいつであったにせよ、その場所は意図せずたまたまそうなったとは考えにくいのではないかと思います。
 徳田という地名と徳丹城という名称の間になんの関係もないということはないと思います。
 単に、昔の一種の施設の跡であることが知られているだけで、利用されていない場所であったので、社殿を建てたということが、ありうるでしょうか。
 建立にあたってその位置が意識されていたとすると、どのような思いだったのでしょうか。
 徳丹城跡に、どのような神社を建立しようと思ったのでしょうか。 

*神社の所在地は、すぐに分かりますが、神社創建及びそれ以降の経緯とか分からないことだらけです。


*所在地に関する文献
 喜田貞吉:「越の国及び越人の研究(上・中・下)」
     〔東北文化研究 第一巻/第4号・5号・6号 昭3年12月〜4年3月 掲載〕
     *大山宏の(大正14年12月の魁新聞)所在地リスト22ヶ所をあげたうえで、喜田が調査したものとして以下の2社をあげている。  
      三春町真照寺内古四王堂、紫波郡徳田村胡四王神社(徳田神社に合祀)
      伝聞・未調査の上閉伊郡土淵村 
 大山宏 :秋田郷土叢誌(昭和9年刊行)収録の「古四王神社の源流を尋ねて」には29ヶ所の所在地が記載されており、陸中国紫波郡徳田村 胡四王(北向薬師)とある。
 他に、川崎浩良、及川大渓、丸山茂にも所在を記した論文がある。

 カシミール3D・解説本の地図  徳田神社  矢巾町歴史民俗資料館     〈現在の地図と道路状況等が異なります〉


《追記 2020−06》
*webサイト『小鳥谷地区の歴史』の「サイトのオーナー」様より、小鳥谷の御小性神社に関する情報、及び徳田神社についての情報、他の情報もご教示いただきました。感謝にたえません。
 『岩手県の地名 日本歴史地名大系3ー平凡社』の「西徳田」の記事をご紹介いただきました。
 この記事の中に「古くは胡四王社とも称されたといい、『御領分社堂』にみえる光照権現と薬師如来を合祀したものとされる。」があり、『御領分社堂』の当該部分をご紹介いただきました。
 そして「光照権現の『光照(こうしょう)』は一戸町小鳥谷の御小性神社境内にある石碑に刻まれた光枩大明神の『光枩(こうしょう)』と発音が一致しています。徳田神社の古四王神は、一戸町の場合と同様に「こしおう」ではなく、「こしょう」に近い発音で口伝され、後から『光照』と当て字したのではないかと考えられます。」のご指摘をいただきました。

*見ることができないでいた『御領分社堂 南部領宗教関係資料1』(岸昌一編 岩田書店 平13・2001)を古本で入手できましたので、確認させていただきました。
 「光照」や「小沼」〈小鳥谷の小沼堂・小沼明神〉が「コシオウ」と関連するのであれば、『御領分社堂』の「御領分社堂 一:宮古御代官所・摂待村」の「小沼明神社」は、どうなのでしょうか。
 「御領分社堂 五:沼宮内通御代官所・荒木田村」の「小正八幡宮」、「「御領分社堂 五:田名部通御代官所・目名村」の「こせう堂」は下北半島ですが、どうなのでしょうか。
 『南部叢書』の「索引」で各村名の記載部分〈『奥々風土記』『邦内郷村志』〉を見てみましたが、神社関連の情報は見出せませんでした。
 また、この三社の神社名は「検索」の項目にありませんでした。


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