ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ

準備記録   岩手  2  遠野


探訪の基本情報
《桑原リスト ◎上閉伊郡土淵村(現遠野市)
  これは喜田禎吉「越の国及び越人の研究(下)」で伝聞・未調査とした所在地情報を受けたものでしょう。
  月光リストでは上閉伊郡綾織村(及川大渓「みちのくの庶民信仰」による)とあります。

《探訪の準備》
*2013年秋になりますが、「遠野 胡四王」でweb検索すると、『不思議空間「遠野」ー遠野物語をwebせよ!ー』のサイトが見つかりました。
 そのカテゴリー「安倍氏考」のなかに「安倍の血」という記事がありました。
 「安倍の血」のなかに「また綾織町の胡四王屋号の阿部家も、遠祖を安倍頼時の四男正任としている。写真は胡四王の地に埋められていて発見された、阿部家に伝わる秘仏である阿弥陀如来の仏像。胡四王といえば、綾織の阿部家は元々、小友は土室の胡四王という土地から移り住んだという。〈略〉」とあります。
 同サイトのカテゴリー「遠野不思議(神仏像)」の第九十九話「胡四王堂の秘仏(阿弥陀様)」にも「綾織の胡四王という屋号を持つ阿部家は、明治まで近在に聞こえた山伏であった。この家は以前、物見山の土室に抜ける峠にあったのを現在地に移したのである。」「この阿部家が、現在の綾織に移住したのは中世の頃であったという。」があります。
 「胡四王」に関する部分だけを引用させていただきましたので、記事内容にたいして申し訳なく思います。

*さらに,サイト『「遠野」なんだり・かんだり』のカテゴリー「愛宕」の「2012新里愛宕神社祭礼(2012-07-24)」記事に「この拝殿〈愛宕神社の拝殿〉は、綾織町の胡四王権現社殿であったものだと聞く(その胡四王は現在、同町の駒形神社に一緒に祀られている) 廃藩置県以降の町村制により、横田村から綾織村に編入になったことから、同じ村のこちらへ移設したのかもしれない」とありました。
 そして、側面から写した拝殿と本殿の写真があります。
 この拝殿が「綾織町の胡四王権現社殿であったもの」であれば、胡四王権現社はけっこう立派な社殿を持っていたようです。

 サイト『(遠野市社会科副読本WEB版)ふるさと遠野』の「第3章・2交通と文化」の「鎌倉仏教」の項目に「〔阿曽沼氏と寺社〕阿曽沼氏の時代に建てられた寺院は〈略〉。神社では、諏訪神社・加茂神社・神明神社(のちの伊勢両宮神社)・宮代八幡宮・日出神社・胡四王神社(のちの月山神社)などがある。」がありました。

 『玄松子の記録』サイトで「駒形神社」を見ると記事中に「社殿の中に『胡四王権現』という額がある。本殿前の幕には、駒形と月山の文字。月山の神(月譚之神)を相殿に祀っているようだ。」とあり、住所は「遠野市綾織町下綾織町第31地割37番地」とありました。

*土淵村〈現・町〉の情報を探してみても胡四王が出てきませんので、胡四王の所在地は土淵ではなく綾織としてよいと思います。

*2017年に入って、岩手探訪の実施のためにより詳しい情報の入手と確認を進めました。
 その中でやはりサイト『不思議空間「遠野」ー遠野物語をwebせよ!ー』のカテゴリー『「遠野物語捨遺考」1話〜』の「遠野物語拾遺4(天女の曼荼羅)」記事中に「綾織町の和野という地に、胡四王神社があった。この胡四王神社は安倍一族の末裔が祀っていたのだという。その胡四王神社は、やはり二日町の駒形神社に合祀されているのだが、その胡四王神社に奉納されていたという神仏像が、やはり光明寺に保管されている。もしかしてだが、光明寺の曼荼羅も、本来は胡四王神社に奉納されたものではなかったか?と考えている。画像の役行者像は、胡四王神社からやはり光明寺で保管されるようになったのだが、これは比較的新しい頃に、光明寺に運ばれたものだ。」「胡四王神社の胡四王とは一説に『越王』であり、越の国であった現在の新潟近辺の国であるというもの。しかし『(越)koshi』の実は『(星)hoshi』であって、胡四王が北向きの神社であるのも、北辰・北斗七星を信仰する星の神社であるとの説もある。」がありました。
 安倍氏との関連、北方神聖信仰との関連が見られるようです。

 『「遠野」なんだり・かんだり』のカテゴリー「修験」に「慈聖院:綾織月山神社(2007-02-12)」の記事を見つけることができました。
 それによると「江戸時代の遠野における修験者の勢力争いは、本山派対熊野派ということを前回記したが、本山の大徳院に対して、熊野派の頭巾頭のひとり「慈聖院」が本拠地としたのが、綾織町下綾織(光明寺猿ケ石川向かい)。共同墓地隣接の杉林にその跡がある。この慈聖院は、安倍頼時の四男正任から発し、正任から21代過ぎて応永年間閉伊豊間根・石峠を領するに至るが、15世紀中頃に浪人し現在地で月山胡四王を守護する修験者となり慈聖坊円宥と称した。(俗名孫右衛門)」「9代目が慈聖院を称する前の6代目名性院の時代(寛永4年)に、八戸弥六郎直栄から7石8斗の寄進を受け、以後、大徳院に対抗する羽黒派の頭巾頭になるのだが、昭和26年に同じ綾織の駒形神社に月山・胡四王は合祀され、建物は下組町はずれの新里愛宕神社へ移された。」とあります。

 サイト『近世こもんじょ館』の「こもんじょ館」中の「南部家の雙鶴紋」に「遠野市綾織の阿部○○〈名を伏す〉家を訪ねた。阿部家は藩政時代において、『遠野通綾織村社領七石八斗月山 頭巾頭 月山鶴曜寺 慈聖院』(『羽黒山修験連名帳』)と見え、月山鶴曜寺の別当職を勤める修験の家であった。」がありました。

 サイト『「じぇんごたれ」遠野徒然草』のカテゴリー「歴史・民俗」中の「上野右近廣吉(2008-11-05)」で「月山神社跡 綾織町和野」と題された写真があり、それは『「遠野」なんだり・かんだり』の「慈聖院:綾織月山神社」に載せられていた写真と同じ場所の写真で、記事には「市道上の集落墓地付近の山野を少し探訪すると月山神社跡に遭遇」とあります。
 写真のコンクリートブロックの祠とその横の「月山神社跡」の石碑の場所につながるヒントがありました。

*サイト『遺跡ウォーカー』で胡四王元遺跡や下綾織胡四王に所在する向遺跡などの存在を知ることができました。
 これらに関しては、記事後半であらためて記します。
 サイト『遠野郷城館録』で「(名称)古四王平/(別名)童子山/(所在地)下綾織33−138−14新田/(区分)屋敷/(標高)494/(比高)244/〈略〉」を見つけました。
 「古四王」表記があるので気になるのですが、この場所はどこになるのか分かりませんでした。

*明らかになった寺社や地名を調べました。
〇先ず、胡四王神社が合祀されている駒形神社。 
 『平成の祭』では、駒形神社  通称:お駒さんオコマサン 
            祭神:〔主〕保食神、月読之神
            鎮座地:遠野市綾織町下綾織町第31地割37番地
 『玄松子の記録』にあったように、月読之神を祀っています。
 ストリートビューで駒形神社が確認できました。

 岩手県神道青年会HPによると、駒形神社の由緒は「享保年中頃、南部馬育生者二、三相寄り堂宇を建立。馬頭観世音を祀りしと伝う。明治初年公式神社となる。昭和二十六年同村月山神社合祀す。社殿・境内を整備し祭典も盛大に執行さる。」とありました。

 見てきたサイトの記事中に「二日町の駒形神社」という記述がありましたが、現在の遠野の住所表示に二日町はないようですが、綾織町上綾織舘神にJR釜石線の岩手二日町駅があり、二日町簡易郵便局が光明寺の近くにあり、国道283号線の二日町(遠野)バス停は綾織町下綾織30地割にあります。
 これらの場所から南に、猿ケ石川を越え釜石自動車道を越えると駒形神社ですので、「二日町の駒形神社」というのはこの社のことでしょう。
 光明寺の場所も分かりました。所在地は遠野市綾織町上綾織24地割で、国道283号線の北側にあたります。 
 『平成の祭』によれば、駒形神社は遠野市上組町3番19号と附馬牛町上附馬牛第14地割にもあり、祭神:〔主〕保食神であり、上組町の社の通称はお蒼前で附馬牛町の社はおこまさんとあります。

〇次に、胡四王神社の社殿が移されたという新里愛宕神社。
 『平成の祭』では、愛宕神社 通称:新里の愛宕さんニイサトノアタゴサン
            祭神:〔主〕迦具土命
            鎮座地:遠野市綾織町新里第31地割61番地
            境内社:卯子酉神社〈うねどり神社 卯子酉様〉
 愛宕神社は、標高295m程の山の上にあり、下組町の西の端に参道の登り口があります。
 参道登り口との標高差は40〜50m程もあるのでしょうか。
 ストリートビューを見ると、県道238号線を、猿ケ石川を右手にして、下組町を西に進むと、愛宕橋にさしかかる手前で、県道左側に愛宕神社の神社標柱があり、参道階段の両脇に大きな杉の木があることが確認できました。
 『平成の祭』によれば、愛宕神社は綾織町上綾織第36地割12番地にもあり、こちらの祭神は軻遇突智命となっています。

〇かつて胡四王神社が鎮座した場所はどこでしょうか。
 胡四王神社は、「のちの月山神社」という記述があり、「綾織町の和野という地に、胡四王神社があった。」「月山神社跡 綾織町和野」とあり、その月山神社跡の場所は「市道上の集落墓地付近の山野」であり、「慈聖院」の本拠地が「綾織町下綾織(光明寺猿ケ石川向かい)。共同墓地隣接の杉林にその跡がある。」そうです。
 地図を見ると、駒形神社の西に1200メートル程の所に和野公民館があり、集落があります。
 和野公民館のある場所は、綾織町下綾織37地割になるようです。
 そのあたりを綾織町の和野というのでしょう。
 墓地と杉林を地図やグーグルマップの航空写真やで探してみますと、釜石自動車道の二郷山トンネルの部分の山の北側の麓あたりが、その場所
ではないかと思います。

*2017年に記しておいた探訪の準備段階の記録をもとに、2020年4月からこの記事を書いているのですが、その記録の再確認・再検討の作業のなかで、新たに『岩手県遠野市公式ウエブサイト 遠野市』のなかの「文化財・遠野遺産」に「遠野遺産リスト」があり、そこに「月山神社(旧胡四王薬師堂)」と題する記事があることに気付きました。
 それによると「住所:綾織町下綾織36地割146番地1、説明:綾織にある神社の中で最古のものとされ、古くは胡四王薬師堂と呼ばれていた。本社の創建は正中2(1325)年、鱒沢守光が、羽州月山権現を勧進したのが始まりとされる。その後、修験者阿部一族の末裔と称する一族によって奉仕されてきた。八戸弥六郎直栄公が立ち寄った際の聞き間違いから明治維新以降、月山神社と名を改め村社となった。祭神は月読命。例祭日は、旧4月8日とされている。」とありました。
 ネットの有料地図で住所検索をしたところ「146番地1」はありませんでしたが、「月山神社跡」の候補地として当たりを付けた場所であろうと思います。
 「胡四王薬師堂」と呼ばれていたとのことですが、羽州月山権現を勧進したのが始まりとありますので、どこでどのようにして胡四王薬師になったのでしょうか。
 胡四王と薬師を結びつけることはここでもあったということなのでしょう。

*国立国会図書館デジタルコレクションで『上閉伊郡志』(岩手県教育會上閉伊郡部會 大正2年〈1913〉)の「第三章 町村」「第八章 社寺名蹟」から見てみます。
 「綾織村」の項目に「〈略〉本村の初闢は西部より端を開けり大字上綾織字山谷の山中に安倍屋敷の址と呼ぶ地あり相傳ふ安倍の族敗後修験に変装して来り住み後に子孫大字下綾織字胡四王の胡四王堂(今の月山神社)別当(鶴曜寺)となれりと大字下綾織字舘神にある谷地舘は建保年間阿曽沼親綱の封に就く時之が輔と為りて従へる一族字夫方廣房(綾織村を食む)の孫廣光初めて築く所下綾織字和野に在る上野舘は阿曽沼氏の族上野廣吉の綾織村に分封せられて居る所弘治三年谷地舘に移る舘址に近く今尚ほ二日町河原町の地名を存す〈略〉初め字大久保に光明寺といへる古寺ありしが永禄の初年再興し後天正十二年谷地舘に近き川原町に移し大久保には慶長二年聞称寺を草創せらる又下綾織字向に在る駒形堂(今の駒形神社)は阿曽沼氏時代に馬神として崇敬せられしものと傳ふ〈略〉」とあります。
 「月山神社(村社)」の項目には「綾織村大字下綾織字胡四王に在り古るく胡四王堂の安置あり修験の手に(割書:安倍の族の裔と称し家に其の遺物と称するものを傳ふ)之を奉祀し来りしが寛永年間南部直栄移治の後所領村落巡見の途次此胡四王の叢祠を指し彼処に見ゆるは何なるかと問はる当時該地は槻の林なりしかば里俗槻山と呼び来れるより其の儘言上したるに槻山を月山と聞き取られ当家代々月山信仰の由緒あり前領八戸に於ても月山を勧請しぬれば此月山へも社領を附すべしとの下命あり是より月山権現を併祀せりといふ明治維新後月山神社と改む」とあります。
 ここからは、安倍氏とコシオウとの関連がうかがえるようです。
 しかし、ネットの検索では、遠野で安倍屋敷(跡)といえば土淵町土淵にある場所が検索結果一覧の上位に並びます。
 そうすると、安倍氏とコシオウとの関連がうかがえるというのは、遠野と安倍氏の関連がうかがえることがあってのことでしょうか。
 「大字上綾織字山谷の山中に安倍屋敷の址」というのは、土淵の安倍屋敷(跡)とは別のものでしょう。
 上綾織に安倍屋敷の址というところがあるのでしょうが、上綾織には山谷川があり山谷川牧場という場所もあるようですが、屋敷址がどこなのか分かりません
 上綾織の安倍屋敷の子孫が「大字下綾織字胡四王の胡四王堂(今の月山神社)別当(鶴曜寺)」になったと読めるのですが、「小友は土室の胡四王という土地から移り住んだ」という伝承とは、どのような関係にあるのでしょうか。

〇胡四王という土地は、どのあたりでしょうか。
 先ず、「小友は土室の胡四王という土地から移り住んだ」「この家は以前、物見山の土室に抜ける峠にあった」の情報から地図を調べますと、駒形神社の南東方向に遠野市小友町〈おともちょう〉があり、そこに土室〈つちむろ〉という地名もありました。
 土室に胡四王という地名があるの分かりませんし、「物見山の土室に抜ける峠」がどこかも分かりませんでした。

 また、「大字下綾織字胡四王の胡四王堂(今の月山神社)」や「月山神社(村社)」項目の「綾織村大字下綾織字胡四王に在り」からすると、月山神社跡の場所の字地名が胡四王であったようです。

*webサイト『遺跡ウオーカー』により「胡四王」で検索すると、遠野市に以下の情報があります。
 「胡四王元遺跡 遠野市綾織町下綾織新田  http://www.isekiwalker.com/iseki/88444/ 
 「向遺跡 遠野市綾織町下綾織胡四王  http://www.isekiwalker.com/iseki/88450/ 」
 ネットの有料地図によると、綾織町下綾織地域に新田という地名があります。
 新田自治集会所があり、そこは綾織町下綾織33地割になるようです。

*2020年4月にネット検索で「向U遺跡発掘調査報告書」(編集:岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 発行:平成22年2月)と「新田U遺跡発掘調査報告書」(編集:岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 発行:平成26年2月)を見つけました。
 その「周辺の遺跡」の地図と一覧表によると、「向遺跡」は縄文時代の遺跡でその場所は「月山神社跡」の所在地の候補地とした場所にあたるようです。
 「向V遺跡」ほ駒形神社の北側の部分を遺跡範囲とし、「向U遺跡」はその西側に隣接しているように見ます。
 「周辺の遺跡」に「胡四王元屋敷」遺跡があり、その場所は「綾織町下綾織字新田」となっておりました。そして、「新田U遺跡」の範囲の北の部分になるようです。
 「綾織新田遺跡」は縄文時代前期前半の集落跡で、国指定史跡となっているとのことです。
 「胡四王元屋敷」遺跡と「胡四王元遺跡」は、名前は違う表記になっていますが、私には同じ場所にあるように思えます。
 その場所は、胡四王(月山)神社が字胡四王の場所に祀られる以前の場所なのでしょうか。別当の阿部家の屋敷があった場所でしょうか。

 「胡四王」と付く場所が、それぞれの関係は分かりませんが、未確認の場所を含めて3箇所出てきました。

 ともかく、胡四王神社のかつて鎮座していた場所の候補地が絞り込め、合祀先の神社も、社殿が移築された神社も分かりました。

 カシミール3D・解説本の地図  上図:駒形神社 光明寺 胡四王(月山)神社跡の候補地 胡四王元屋敷遺跡
 〈道路等が現在と異なります〉   下図:駒形神社 新里愛宕神社 和野と土室に下線


《追記 2020−06》
*『御領分社堂』〈記事・岩手3及び岩手4の《追記》をご参照ください〉に記載がありました。
 「御領分社堂 一:遠野年行事 大徳院并支配 羽黒派」の「遠野」の項目に三十の社堂が記載されており、その中に「一 月山権現 一間半二間かやふき 別当 慈聖院 / 社領七石八斗八戸弥六郎寄附 / 古四王権現 三間四面八尺間かやふき」があり、また「御領分社堂 四:八戸弥六郎知行所社堂」の「遠野」の項目に三十二の社堂が記載されており、その中に「一 月山権現  羽黒派 慈聖院 /社領七石八斗八戸弥六郎寄附 /胡四王権現 / 由緒不相知」がありました。
 古四王と胡四王の表記の違いがありました。
 古四王という認識もあったのではないかと思わせます。
 「御領分社堂 四:八戸弥六郎知行所社堂」の「綾織村」の項目もありますが、その中に「コシオウ」関連と思われる記載は見出せませんでした。

 
ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ