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探訪記録   岩手  2  遠野


探訪の基本情報
《桑原リスト ◎上閉伊郡土淵村(現遠野市)
  これは喜田禎吉「越の国及び越人の研究(下)」で伝聞・未調査としている上閉伊郡土淵村の所在地情報によるものでしょう。
  月光リストでは上閉伊郡綾織村(及川大渓「みちのくの庶民信仰」による)とあります。

《探訪の準備》
*2013年秋になりますが、「遠野 胡四王」でweb検索すると、『不思議空間「遠野」ー遠野物語をwebせよ!ー』のサイトが見つかりました。〈 https://dostoev.exblog.jp/ 最終確認日:2025/12/28 〉
 そのカテゴリー「安倍氏考」のなかに「安倍の血」という記事がありました。
 「安倍の血」のなかに「また綾織町の胡四王屋号の阿部家も、遠祖を安倍頼時の四男正任としている。写真は胡四王の地に埋められていて発見された、阿部家に伝わる秘仏である阿弥陀如来の仏像。胡四王といえば、綾織の阿部家は元々、小友は土室の胡四王という土地から移り住んだという。〈略〉」とあります。
 同サイトのカテゴリー「遠野不思議(神仏像)」の第九十九話「胡四王堂の秘仏(阿弥陀様)」にも「綾織の胡四王という屋号を持つ阿部家は、明治まで近在に聞こえた山伏であった。この家は以前、物見山の土室に抜ける峠にあったのを現在地に移したのである。」「この阿部家が、現在の綾織に移住したのは中世の頃であったという」があります。
 「胡四王」に関する部分だけを引用させていただきましたので、記事内容にたいして申し訳なく思います。

*さらに、サイト『「遠野」なんだり・かんだり』〈 現『遠野なんだりかんだり』 https://fuefukidouji2025.hatenablog.com/ 最終確認日:2025/12/28 〉のカテゴリー「愛宕」の「2012新里愛宕神社祭礼(2012-07-24)」記事に「この拝殿〈愛宕神社の拝殿〉は、綾織町の胡四王権現社殿であったものだと聞く(その胡四王は現在、同町の駒形神社に一緒に祀られている) 廃藩置県以降の町村制により、横田村から綾織村に編入になったことから、同じ村のこちらへ移設したのかもしれない」とありました。
 そして、側面から写した拝殿と本殿の写真があります。
 この拝殿が「綾織町の胡四王権現社殿であったもの」であれば、胡四王権現社はけっこう立派な社殿を持っていたようです。

 〈 サイト『(遠野市社会科副読本WEB版)ふるさと遠野』の「第3章・2交通と文化」の「鎌倉仏教」の項目からの1行分の引用を、このサイトが現在確認できず、削除します。〉

 『玄松子の記録』サイトで「駒形神社」〈 https://genbu.net/data/mutu/komagata2_title.htm 〉を見ると、「社殿の中に『胡四王権現』という額がある。本殿前の幕には、駒形と月山の文字。月山の神(月譚之神)を相殿に祀っているようだ」とあり、住所は「遠野市綾織町下綾織町第31地割37番地」とありました。

土淵村〈現・町〉の情報を探してみても胡四王が出てきませんので、胡四王の所在地は土淵ではなく綾織としてよいと思います。

*2017年に入って、岩手探訪の実施のためにより詳しい情報の入手と確認を進めました。
 その中でやはりサイト『不思議空間「遠野」ー遠野物語をwebせよ!ー』〈 以下『不思議空間遠野』〉のカテゴリー『「遠野物語捨遺考」1話〜』の「遠野物語拾遺4(天女の曼荼羅)」記事中に「綾織町の和野という地に、胡四王神社があった。この胡四王神社は安倍一族の末裔が祀っていたのだという。その胡四王神社は、やはり二日町の駒形神社に合祀されているのだが、その胡四王神社に奉納されていたという神仏像が、やはり光明寺に保管されている。もしかしてだが、光明寺の曼荼羅も、本来は胡四王神社に奉納されたものではなかったか?と考えている。画像の役行者像は、胡四王神社からやはり光明寺で保管されるようになったのだが、これは比較的新しい頃に、光明寺に運ばれたものだ」「胡四王神社の胡四王とは一説に『越王』であり、越の国であった現在の新潟近辺の国であるというもの。しかし『(越)koshi』の実は『(星)hoshi』であって、胡四王が北向きの神社であるのも、北辰・北斗七星を信仰する星の神社であるとの説もある」がありました。
 安倍氏との関連、北方神聖信仰との関連が見られるようです。

 『「遠野」なんだり・かんだり』のカテゴリー「修験」に「慈聖院:綾織月山神社(2007-02-12)」の記事を見つけることができました。
 それによると「江戸時代の遠野における修験者の勢力争いは、本山派対熊野派ということを前回記したが、本山の大徳院に対して、熊野派の頭巾頭のひとり「慈聖院」が本拠地としたのが、綾織町下綾織(光明寺猿ケ石川向かい)。共同墓地隣接の杉林にその跡がある。この慈聖院は、安倍頼時の四男正任から発し、正任から21代過ぎて応永年間閉伊豊間根・石峠を領するに至るが、15世紀中頃に浪人し現在地で月山胡四王を守護する修験者となり慈聖坊円宥と称した。(俗名孫右衛門)」「9代目が慈聖院を称する前の6代目名性院の時代(寛永4年)に、八戸弥六郎直栄から7石8斗の寄進を受け、以後、大徳院に対抗する羽黒派の頭巾頭になるのだが、昭和26年に同じ綾織の駒形神社に月山・胡四王は合祀され、建物は下組町はずれの新里愛宕神社へ移された」とあります。

 サイト『「じぇんごたれ」遠野徒然草』〈 現『じぇんごたれ遠野徒然草 改』 最終確認日:2025/12/28
 https://jengotare723.hatenablog.com/entry/2008/11/05/192847_1 〉のカテゴリー「歴史・民俗」中の「上野右近廣吉(2008-11-05)」で「月山神社跡 綾織町和野」と題された写真があり、それは『「遠野」なんだり・かんだり』の「慈聖院:綾織月山神社」に載せられていた写真と同じ場所の写真で、記事には「市道上の集落墓地付近の山野を少し探訪すると月山神社跡に遭遇」とあります。
 写真のコンクリートブロックの祠とその横の「月山神社跡」の石碑の場所につながるヒントがありました。

*サイト『遺跡ウォーカー』で胡四王元遺跡や下綾織胡四王に所在する向遺跡などの存在を知ることができましたが、このサイトも、確認できなくなっています。
 サイト『遠野郷城館録』〈 https://www.tonotv.com/members/bisyamon/newpage16.htm 最終確認日:2025/12/28 〉で「(名称)古四王平/(別名)童子山/(所在地)下綾織33−138−14新田/(区分)屋敷/(標高)494/(比高)244/〈略〉」を見つけました。
 「古四王」表記があるので気になるのですが、この場所はどこになるのか分かりませんでした。

*明らかになった寺社や地名を調べました。
〇先ず、胡四王神社が合祀されている駒形神社。 
 『平成の祭』では、駒形神社  通称:お駒さんオコマサン 
            祭神:〔主〕保食神、月読之神
            鎮座地:遠野市綾織町下綾織町第31地割37番地
 『玄松子の記録』にあったように、月読之神を祀っています。
 ストリートビューで駒形神社が確認できました。

 岩手県神道青年会HPによると、駒形神社の由緒は「享保年中頃、南部馬育生者二、三相寄り堂宇を建立。馬頭観世音を祀りしと伝う。明治初年公式神社となる。昭和二十六年同村月山神社合祀す。社殿・境内を整備し祭典も盛大に執行さる」とありました。
 〈 駒形神社の頁 : https://ganshinsei.livedoor.blog/archives/13889193.html 〉

 見てきたサイト(『不思議空間遠野』)の記事中に「二日町の駒形神社」という記述がありましたが、現在の遠野の住所表示に二日町はないようですが、綾織町上綾織舘神にJR釜石線の岩手二日町駅があり、二日町簡易郵便局が光明寺の近くにあり、国道283号線の二日町(遠野)バス停は綾織町下綾織30地割にあります。
 これらの場所から南に、猿ケ石川を越え釜石自動車道を越えると駒形神社ですので、「二日町の駒形神社」というのはこの社のことでしょう。
 光明寺の場所も分かりました。所在地は遠野市綾織町上綾織24地割で、国道283号線の北側にあたります。 
 『平成の祭』によれば、駒形神社は遠野市上組町3番19号と附馬牛町上附馬牛第14地割にもあり、祭神:〔主〕保食神であり、上組町の社の通称はお蒼前で附馬牛町の社はおこまさんとあります。

〇次に、胡四王神社の社殿が移されたという新里愛宕神社。
 『平成の祭』では、愛宕神社 通称:新里の愛宕さんニイサトノアタゴサン
            祭神:〔主〕迦具土命
            鎮座地:遠野市綾織町新里第31地割61番地
            境内社:卯子酉神社〈うねどり神社 卯子酉様〉
 愛宕神社は、標高295m程の山の上にあり、下組町の西の端に参道の登り口があります。
 参道登り口との標高差は40〜50m程もあるのでしょうか。
 ストリートビューを見ると、県道238号線を、猿ケ石川を右手にして、下組町を西に進むと、愛宕橋にさしかかる手前で、県道左側に愛宕神社の神社標柱があり、参道階段の両脇に大きな杉の木があることが確認できました。
 『平成の祭』によれば、愛宕神社は綾織町上綾織第36地割12番地にもあり、こちらの祭神は軻遇突智命となっています。

〇かつて胡四王神社が鎮座した場所はどこでしょうか。
 胡四王神社は、「のちの月山神社」という記述があり、「綾織町の和野という地に、胡四王神社があった」「月山神社跡 綾織町和野」とあり、その月山神社跡の場所は「市道上の集落墓地付近の山野」であり、「慈聖院」の本拠地が「綾織町下綾織(光明寺猿ケ石川向かい)。共同墓地隣接の杉林にその跡がある」そうです。
 地図を見ると、駒形神社の西に1200メートル程の所に和野公民館があり、集落があります。
 和野公民館のある場所は、綾織町下綾織37地割になるようです。
 そのあたりを綾織町の和野というのでしょう。
 墓地と杉林を地図やグーグルマップの航空写真やで探してみますと、釜石自動車道の二郷山トンネルの部分の山の北側の麓あたりが、その場所ではないかと思います。

*2017年に記しておいた探訪の準備段階の記録をもとに、2020年4月からこの記事を書いているのですが、その記録の再確認・再検討の作業のなかで、新たに『岩手県遠野市公式ウエブサイト 遠野市』のなかの「文化財・遠野遺産」に「遠野遺産リスト」があり、そこに「月山神社(旧胡四王薬師堂)」と題する記事があることに気付きました。
 〈「遠野遺産リスト」= https://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,0,303,656,html 〉
 それによると「住所:綾織町下綾織36地割146番地1、説明:綾織にある神社の中で最古のものとされ、古くは胡四王薬師堂と呼ばれていた。本社の創建は正中2(1325)年、鱒沢守光が、羽州月山権現を勧進したのが始まりとされる。その後、修験者阿部一族の末裔と称する一族によって奉仕されてきた。八戸弥六郎直栄公が立ち寄った際の聞き間違いから明治維新以降、月山神社と名を改め村社となった。祭神は月読命。例祭日は、旧4月8日とされている」とありました。
 ネットの有料地図で住所検索をしたところ「146番地1」はありませんでしたが、「月山神社跡」の候補地として当たりを付けた場所であろうと思います。 
 「胡四王薬師堂」と呼ばれていたとのことですが、羽州月山権現を勧進したのが始まりとありますので、どこでどのようにして胡四王薬師になったのでしょうか。
 胡四王と薬師を結びつけることはここでもあったということなのでしょう。

*国立国会図書館デジタルコレクションで『上閉伊郡志』(岩手県教育會上閉伊郡部會 大正2年〈1913〉)の「第三章 町村」「第八章 社寺名蹟」から見てみます。
 「綾織村」の項目に「〈略〉本村の初闢は西部より端を開けり大字上綾織字山谷の山中に安倍屋敷の址と呼ぶ地あり相傳ふ安倍の族敗後修験に変装して来り住み後に子孫大字下綾織字胡四王の胡四王堂(今の月山神社)別当(鶴曜寺)となれりと大字下綾織字舘神にある谷地舘は建保年間阿曽沼親綱の封に就く時之が輔と為りて従へる一族宇夫方廣房(綾織村を食む)の孫廣光初めて築く所下綾織字和野に在る上野舘は阿曽沼氏の族上野廣吉の綾織村に分封せられて居る所弘治三年谷地舘に移る舘址に近く今尚ほ二日町河原町の地名を存す〈略〉初め字大久保に光明寺といへる古寺ありしが永禄の初年再興し後天正十二年谷地舘に近き川原町に移し大久保には慶長二年聞称寺を草創せらる又下綾織字向に在る駒形堂(今の駒形神社)は阿曽沼氏時代に馬神として崇敬せられしものと傳ふ〈略〉」とあります。
 「月山神社(村社)」の項目には「綾織村大字下綾織字胡四王に在り古るく胡四王堂の安置あり修験の手に(割書:安倍の族の裔と称し家に其の遺物と称するものを傳ふ)之を奉祀し来りしが寛永年間南部直栄移治の後所領村落巡見の途次此胡四王の叢祠を指し彼処に見ゆるは何なるかと問はる当時該地は槻の林なりしかば里俗槻山と呼び来れるより其の儘言上したるに槻山を月山と聞き取られ当家代々月山信仰の由緒あり前領八戸に於ても月山を勧請しぬれば此月山へも社領を附すべしとの下命あり是より月山権現を併祀せりといふ明治維新後月山神社と改む」とあります。
 ここからは、安倍氏とコシオウとの関連がうかがえるようです。
 しかし、ネットの検索では、遠野で安倍屋敷(跡)といえば土淵町土淵にある場所が検索結果一覧の上位に並びます。
 そうすると、安倍氏とコシオウとの関連がうかがえるというのは、遠野と安倍氏の関連がうかがえることがあってのことでしょうか。
 「大字上綾織字山谷の山中に安倍屋敷の址」というのは、土淵の安倍屋敷(跡)とは別のものでしょう。
 上綾織に安倍屋敷の址というところがあるのでしょうが、上綾織には山谷川があり山谷川牧場という場所もあるようですが、屋敷址がどこなのか分かりません
 上綾織の安倍屋敷の子孫が「大字下綾織字胡四王の胡四王堂(今の月山神社)別当(鶴曜寺)」になったと読めるのですが、「小友は土室の胡四王という土地から移り住んだ」という伝承とは、どのような関係にあるのでしょうか。

〇胡四王という土地は、どのあたりでしょうか。
 先ず、「小友は土室の胡四王という土地から移り住んだ」「この家は以前、物見山の土室に抜ける峠にあった」の情報から地図を調べますと、駒形神社の南東方向に遠野市小友町〈おともちょう〉があり、そこに土室〈つちむろ〉という地名もありました。
 土室に胡四王という地名があるの分かりませんし、「物見山の土室に抜ける峠」がどこかも分かりませんでした。

 また、「大字下綾織字胡四王の胡四王堂(今の月山神社)」や「月山神社(村社)」項目の「綾織村大字下綾織字胡四王に在り」からすると、月山神社跡の場所の字地名が胡四王であったようです。

*webサイト『遺跡ウオーカー』により「胡四王」で検索すると、遠野市に以下の情報がありました。
 「胡四王元遺跡 遠野市綾織町下綾織新田」「向遺跡 遠野市綾織町下綾織胡四王」
 〈 サイトが確認できませんので、URLを削除いたしました 〉
 ネットの有料地図によると、綾織町下綾織地域に新田という地名があります。
 新田自治集会所があり、そこは綾織町下綾織33地割になるようです。

*2020年4月にネット検索で「向U遺跡発掘調査報告書」(編集:岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 発行:平成22年2月)と「新田U遺跡発掘調査報告書」(編集:岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 発行:平成26年2月)を見つけました。
 遠野市と標題の遺跡名でネット検索ができ、『全国文化財総覧』サイトで当該遺跡の発掘調査報告書をダウンロードできます。
 〈 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16279 『全国文化財総覧』の「新田U遺跡発掘調査報告書」ダウンロードサイト 〉

 「新田U遺跡発掘調査報告書」に、新田U遺跡の所在地を「遠野市綾織町下綾織31地割147−1地内ほか」とあります。
 同報告書の項目「4 歴史的環境・過去の調査」に「周辺の遺跡」の地図と一覧表があります。
 その一覧表には、「新田U」遺跡の所在地に「綾織町下綾織字新田」とあり、「向U」遺跡の所在地は「綾織町下綾織字胡四王」とあり、「胡四王元屋敷」遺跡の所在地は「綾織町下綾織字新田」と記されていました。
 また、「周辺の遺跡」の地図によると、「向」遺跡は縄文時代の遺跡でその場所は「月山神社跡」の所在地の候補地とした場所にあたるようです。
 「向V」遺跡は駒形神社の北側の部分を遺跡範囲とし、「向U遺跡」はその西側に隣接しているように見ます。
 「胡四王元屋敷」遺跡の場所「綾織町下綾織字新田」は、「新田U遺跡」の範囲の北の部分になるようです。
 その場所は、別当の阿部家の屋敷があった場所でしょうか、胡四王神社が字胡四王の場所に祀られる以前の場所なのでしょうか。

 「胡四王」と付く場所が、それぞれの関係は分かりませんが、未確認の場所を含めて3箇所(下綾織字胡四王の胡四王堂・向U遺跡の下綾織字胡四王・胡四王元屋敷)出てきました。

 ともかく、胡四王神社のかつて鎮座していた場所の候補地が絞り込め、合祀先の神社も、社殿が移築された神社も分かりました。

 カシミール3D・解説本の地図 〈道路等が現在と異なります〉
 上図:駒形神社 光明寺 胡四王(月山)神社跡の候補地 胡四王元屋敷遺跡
 下図:駒形神社 新里愛宕神社 和野と土室に下線


《追記 2020−06》
*『御領分社堂』〈記事・岩手3及び岩手4の《追記》をご参照ください〉に記載がありました。
 「御領分社堂 一:遠野年行事 大徳院并支配 羽黒派」の「遠野」の項目に三十の社堂が記載されており、その中に「一 月山権現 一間半二間かやふき 別当 慈聖院 / 社領七石八斗八戸弥六郎寄附 / 古四王権現 三間四面八尺間かやふき」があり、また「御領分社堂 四:八戸弥六郎知行所社堂」の「遠野」の項目に三十二の社堂が記載されており、その中に「一 月山権現  羽黒派 慈聖院 /社領七石八斗八戸弥六郎寄附 / 胡四王権現 / 由緒不相知」がありました。
 古四王と胡四王の表記の違いがありました。
 古四王という認識もあったのではないかと思わせます。
 「御領分社堂 四:八戸弥六郎知行所社堂」の「綾織村」の項目もありますが、その中に「コシオウ」関連と思われる記載は見出せませんでした。
                                                      〈 2025−12−28 改訂 〉〈 2026−01−06 修正 〉

《探訪の記録》
*2025年10月8日(水)
 岩手県でコシオウ情報のある神社のなかで最初に訪ねるのが、遠野市綾織町下綾織に鎮座する駒形神社になりました。
 《探訪の準備》〈以下《準備》〉によって、「月山神社(旧胡四王薬師堂)」の合祀先の神社として駒形神社を探訪先としました。
 車だと自宅からは平泉町まででも、時々休憩を取ると、5時間くらいかかるので、初日は平泉で中尊寺・毛越寺と達谷窟毘沙門堂と奥州市水沢の胆沢城跡・鎮守府八幡宮をまわりました。
 翌日、奥州市埋蔵文化財調査センターを見学し、成島三熊野神社・毘沙門堂に立ち寄ってから、遠野市へ向いました。

 国道283号線で綾織に近づくと、右手の連なる樹木によって猿ケ石川の河畔の存在を知らされました。
 猿ケ石川は、おおむね西の方に流れて花巻市で北上川に合流する河川で、合流地点の東側に花巻の胡四王山があります。
 国道左手の光明寺の先の交差点を右折し札場橋(補修工事中でした)を渡って、釜石自動車道の下を横切るトンネルを越えれば駒形神社のはずと車を進めると、ストリートビューなどで見ていた鳥居と樹木がありました。
 道路は左にカーブして神社を右手に神社の横を通る狭い道になりました。
 その道を進むと、神社境内側はコンクリート壁になり、境内は高くなっています。
 境内地奥まで進んでいくと、左に進む道が主で、右に行く神社の背後に回る狭い道と、直進する私有地に向うような未舗装道の十字路になります。
 道路と周辺には車を駐車できるような所はなかったので、申し訳ないのですが、一の鳥居の石造台輪鳥居の柱の間に車を入れて駐車させてもらいました。

1,駒形神社
*カメラを持つなどの準備をして、参道に目をやると、二の鳥居の朱の両部鳥居の前の数段の石段の端に、白い大きな帽子をかぶった人か案山子の様なもの、がいるようです。
 一の鳥居を入ると、中央に数段の石段があり、左側に「遠野遺産/駒形神社」とある表示板があり、駒形神社の社号標が石組基壇に据えられていて、幟の支柱が左右にあります。
 石段をあがると大きな杉が二本左右に立ち、社額「社神形駒」のあがる二の鳥居の前にも数段の石段があります。
 その石段に近づくと石段に腰を下ろしている人がおられたのですが、何をしているのだろうか、お参りの帰りに休んでいるのだろうかなどと思いながらさらに近づいていくと、その方も立ちあがられました。
 立ち上がると、腰が前屈みのせいもあるのでしょうが、小さな老婦人で、杖を手にしておられました。
 挨拶をさせていただき、立ち止まってお参りに来たことを話すと、老婦人はこのあたりに熊が出た、先日糞を見た、神社入り口付近の木に熊の爪痕や背中をこすったような跡があるなどを、すべてが聞き取れたわけではありませんが、教えてくれて、気を付けたほうがいいと注意してくれました。
 熊が出るというのに何故そのような所に座っていたのか不思議でしたが、老婦人のお話をその他にもいろいろお聞きいたしました。
 このような周りが民家の所でも熊に注意が必要とは思わなかったので、持ってこなかった熊鈴と熊スプレーを車に取りにいってから、神社に向いました。
 二の鳥居の先にも参道の左右に杉が立ち、参道の先に社殿が見えますが、社殿は石段をのぼったさらに高い場所にあります。


 数段の石段と、十段弱の石段をあがると拝殿の前の平坦な境内地になります。
 石段をのぼった境内地の左側に、駒形神社の案内プレートを載せた石造物があり、石造手水鉢と角張った茶褐色の石があり金属板の屋根がかけられています。
*案内プレートには「駒形神社 もとは蒼前駒形明神をまつり、のちに男性器の形の石棒を御神体としています。若い女たちが田植の最中に眼鼻のないのっぺりした子供に赤い頭巾をかぶせて背負った旅人が通り、置いていったのがいまの御神体とされています。境内の竜石の話もあわせて、『遠野物語拾遺』第14話と第15話にのっています」とあります。 
 『玄松子の記録』には、更新停止後もいろいろ教えていただいていますが、その下綾織「駒形神社」の記事で「境内を探したが、この石だろうか。石の模様が、竜に見えなくもないのだが」と竜石かどうかわからなかったと記した石は、この石だろうと思います。


*拝殿は、向拝の柱が二間幅で、木鼻に注連縄があげられ、朱色の階段があり、鈴緒が下がり、階段中央の下段部に御賽銭箱があり、縁が廻っています。階段と縁には手摺りはありません。拝殿正面は二間幅で引戸(上部三分の二くらいがガラス)が四枚あります。正面の左右は一間の柱間二間でそれぞれに二枚ずつ同様のガラス張の引戸があり、拝殿の左右の側面の半分も同様のガラス戸で、開放的な拝殿になっています。
 拝殿入り口の上部に駒形神社の左からの横書きの社額があげられています。
 拝殿内を拝見させていただくと、『玄松子の記録』ー「駒形神社」のとおりに、拝殿から本殿への入口の梁の上に「現権王四胡」社額があげられており、左右の柱に色違い(金と緑?)のしゃちほこ(?)があげられています。
 弊殿部分に、小さめの畳状の敷物が一枚横に置かれ、御幣が立ててあり、小振りな神輿が置かれています。
 本殿前の紺地の幕は中央が絞られ赤い幕房が見えています。左右に「三つ巴紋」があり、右側に「駒形□」の文字、左側に「月山□」の文字があり、幕の左右の端に名前の記入があります。
 後で写真を確認してみましたが、駒形と月山に続く文字は不明で、幕上部に「奉納」とあり、幕右端に「□十三年九月九日」とありこれは平成十三年と思われます。左右の名前は、製材所・造園・工務店・建設などの業者名で左右に三社づつ記されています。
 『玄松子の記録』では「良く見ると、男根の彫物が供えられている」とありましたが、良く見ても分りませんでした。


*拝殿前から右側へ行くと建物があり、外壁際に「駒形神社の由来/駒形神社 遠野遺産第100号」と題する案内看板が設置されていました。建物が何なのか使途を確認しませんでした。
 案内板の内容はざっと見ると遠野物語拾遺十四・十五と綾織郷土誌からの記述のようです。写真に収めて後で見る事にしました。
 拝殿の右側を奥の方に行くと、大正時代の「伊勢/両宮/金毘羅大神」石碑があり、さらに奥にやはり大正時代の「古峯山」石碑があります。
 切られた松の木が二本寝かされていて、その後に文字の分らない石碑と思われるものがあります。
 本殿が、拝殿よりも高い場所にあり、拝殿と本殿をつなぐ弊殿にあたる部分は、外壁がサイディングのようですので、弊殿は付け足されたか修復されたようです。
 拝殿の左側に行くと、松が切られていて、石組基壇の上に「馬魂碑」があり、昭和五年と見えます。
 本殿の裏側を廻ることはしませんでした。
*参道を戻ると、二の鳥居への石段の左右に「山神□〈尊?〉」と「庚申□〈塔?〉」石碑があることに気づきました。両碑ともに年号を確認しておりませんが、石の土台に据えられており、崩れた感じもないので、そう古いものではなさそうに思います。
 駒形神社の境内には、あちこちの古碑が寄せ集められているということは、ないようです。


 駒形神社の境内は、一の鳥居の所は鳥居の幅程ですが、奥に行くほど幅が広くなり、土地も高くなっています。馬の守護神を祀る小高い場所として鎮座地が選ばれたのではないでしょうか。
 さらに性神や竜石伝説が付け加えられてくるようですが、「月山神社(旧胡四王薬師堂)」を合祀するまでは、胡四王に関連するところではないわけです。

*また参道脇に「綾織町 観光名所地」の地図看板が設置されていて、「月山神社(旧胡四王薬師堂)」が載っていました。
 所在地を探していた「月山神社(旧胡四王薬師堂)」の場所が示されている案内地図があって、拍子抜けしたような感じです。
 この看板も神社に向うときは気付いていなかったので、石段に座る老婦人に気を取られて周りを見ていなかったようです。
 老婦人は、私達夫婦にわざわざご自宅から缶コーヒーと和菓子を持ってきてくれました。
 参道を入った所にある熊が傷つけた杉の木(下の写真・右)のことを教えてくれたり、いろいろとお話をしました。
 これから、「月山神社(旧胡四王薬師堂)」に行くこと話すと、気を付けるようにとのことでした。



2,月山神社跡
*いよいよ、遠野遺産リストで「月山神社(旧胡四王薬師堂)」とある跡地を訪ねます。
 《準備》の記事で、修験者の阿部家が奉祀していた胡四王権現・胡四王薬師堂があり、寛永年間以降月山権現を併祀した、明治維新後に月山神社と改め村社に列した、昭和26年駒形神社に合祀となる、というのが大まかな流れなのだろうと思っていました。
 ですが、遠野遺産リストの「月山神社(旧胡四王薬師堂)」記事の説明中に「本社の創建は正中2(1325)年、鱒沢守光が、羽州月山権現を勧進したのが始まりとされる。その後、修験者阿部一族によって奉祀されてきた」とあるので、そうであれば始まりは月山権現で、それを阿部氏が奉祀ということであれば、胡四王薬師はどうなったのだろうかという疑問もあります。

*駒形神社から札場橋の方に戻り、橋の手前で左折して進んで、左手に山が近づく道を行くと左手に家屋が現れてきて、その先で左側に杉の林が見え、右手の民家の先に家が見えなくなると、共同墓地に向う狭い道がありますが、行き過ぎて車を止めました。
 狭路を入ってくと、左側の道路横に駒形神社にもあった遠野遺産の表示板があり、その先の緩やかな右カーブの坂道の上に墓地が見えます。
 道路は狭く車を停めることはできそうもありませんので、そのまま墓地まで進み、墓地の手前のやや広くなったところで、いったん車を停め、外に出て周囲を確認してみました。

*阿部家墓碑
 墓地の山側に、墓碑(棹石)に阿部家之墓、上台石に横に胡四王とあるお墓がありました。
 胡四王を奉祀してきた修験であった阿部家のお墓のようです。
 大きな基壇の中央に墓碑、右に墓誌、左に五輪塔、左右に燈籠という立派なお墓ですが、このような形式のお墓は他にも見えましたので、特別に大きいというものでもないのかもしれません。
 月山神社跡の方向を見ると、杉林の中に小祠が見えました。


*月山神社跡
 熊のこともあるので、できるだけ車を近くに置きたいと思い狭路を戻り、遠野遺産表示板あたりで、道路左の草地に車を半分乗入れて停めて、熊対策をして神社跡に向いました。
 遠野遺産表示板は駒形神社のものと同じ形態で、「遠野遺産/第151号/TONO HERITAGE」と長方形の黒地に白文字で記し、黒文字で「月山神社(旧胡四王薬師堂)」とありその下に英語の記載がありました。
 この表示板が設置されていたことで、まさにここが月山神社跡と分りました。
 表示板の横からまっすぐ奥に神社跡の小祠があり、細い踏み跡のような筋がありました。
 小祠に近づいていくと、地面は杉葉と小枝に覆われてしまいます。


 神社跡地であると示すものは、コンクリートブロックを二個幅で七段積んで正面に縦にブロック一個半分の開口部を設け鉄板の屋根をかけた祠とその向って右手に石台座に据えられた「月山神社跡」の石碑が主なものです。
 他には、狐の白い陶像がある小石祠が石碑の台座に置かれ、明治の年号と「雷神塔」とある白っぽい石碑が倒れて石碑の台座にもたれているくらいでしょうか。
 ブロックの祠には、稲穂の〆の子の注連縄があげられ、鈴緒があり、開口部からは御幣が見え、内部に神殿が収められているようです。ブロックの祠は鞘堂でしょうか。
 「月山神社跡」石碑には、数行の漢文が刻まれていますが、写真に収めて後で見ることにして、早々と神社跡の杉林をあとにしました。
 神社跡に祠は北向きに建てられていました。


 神社跡の石碑と祠がある場所は、遠野遺産表示板からほぼ南まっすぐに進んだ所になり、表示板は南に向う狭路が墓地に向って右にカーブを始めた場所の左側の路外に設置されていますので、南に向う狭路を右にカーブせずにそのまま南に向えば神社跡石碑・祠の設置された場所になるのではないかと思いますし、カーブして墓地に向う狭路からもそうは離れていない場所となります。
 墓地に向う狭路の東側に広がる杉林の西の端のほうに神社跡石碑・祠があることになります。
 神社跡石碑・祠が、かつての月山神社(旧胡四王薬師堂)境内のどのような位置に置かれているのか分りませんが、かつての境内はそれなりの広さを持っていたと思います。
 杉林の、神社跡石碑・祠より東側の様子を見ておかなかったのが悔やまれます。
 神社跡地の杉林も植林によるものと思いますが、祠や碑の奥は土地が一段高くなっていて、整然とした杉林があり、ワイヤーを張った柵が設けられています。
 里側から奥の山への何物かの侵入を阻止しようとするのか、奥の山から里への侵入を阻むものなのか、分りません。

*綾織では、「胡四王元屋敷」遺跡の場所に行く事や光明寺を訪ねる事も考えていましたが、昼食を優先しました。

*愛宕神社
 昼食後、新里の愛宕神社に向い、神社側の公衆トイレのある駐車場に車を置いて、しっかり熊対策装備をして駐車場から愛宕神社の入口に向いました。
 ストリートビューや神社記事サイトで見ていた神社参道石段の両側に杉の木が立つ愛宕神社の入口の社号標の前に「遠野遺産/第144号/新里の愛宕神社」表示板がありました。
 愛宕神社の急で長い石段とその先の朱の鳥居を石段下から眺めていると、卯子酉神社への参道横の民家の方から壮年の男性がいらしたので、愛宕神社に行こうと思うこと熊の注意の必要性をお伺したところ、愛宕神社は下にもあるし御利益も一緒だから行かない方が良いと強くおっしゃるので、かつて胡四王権現社であったという拝殿を石段をのぼって見に行くのをやめました。
 ネットで見ていた新里愛宕神社に関する記事に拝殿の写真もありましたので、無理をしないことにしました。
 卯子酉神社に参り、下にある愛宕神社に参りました。

*遠野では、「とおの物語の館」と「遠野市立博物館」を訪ねましたが、どちらも修学旅行生が満ちていました。早々に施設をあとにして、今の時間ならば花巻で胡四王神社を訪ねられると思い、予定を変更して花巻に向いました。
 博物館まで行ったのに、遠野市立図書館で『綾織村郷土誌』他を閲覧してきませんでした。

《探訪の整理》
1,「駒形神社の由来/駒形神社 遠野遺産第100号」案内看板
※ 駒形神社境内に掲示したあった案内看板〈以下「駒形神社看板」〉の文面を見ます。

*本文に、「遠野物語拾遺 十四話、十五話に登場する神社。『保食神ウケモチノカミ、月読命ツキヨミノミコト』を祭神とし、石棒を神体とする。牛馬の病気に霊験あらたかな神社として信仰が篤く、例祭には多くの参拝者が訪れ、相撲が奉納されたという。 (遠野遺産ガイドブック)」とあります。
 webサイト『遠野遺産リスト』で「認定番号100:綾織駒形神社」を見ると「説明」欄に【遺産の概要】として案内看板に記された文面の元であろう「〈前略〉石棒を御神体とする」と「牛馬の病気〈後略〉」の間に「例祭日は9月9日(旧8月9日)。昭和26年(1951)集落の大火の際類焼したが、後昭和30年(1955)に再建、月山神社を合祀。由来は様々あり明らかでないが」の記載があります。
 また、遠野遺産リストには、「綾織駒形神社」の他に「認定番号154:中斉駒形神社」「認定番号116:沢田駒形神社と古峯山石碑」「認定番号56:荒川駒形神社」があり、「荒川駒形神社」は「遠野三大駒形神社のひとつ」とあります。
 遠野三大駒形神社とはどこなのでしょうか。
 綾織駒形神社が三大駒形神社であれば、その旨の記載があると思うので、入っていないのではないでしょうか。

*続く看板文面は、「遠野物語拾遺十四」として、「十四」の村の人が曳いてきたという龍石についての話〈内容・略〉をそのまま記したうえで、「郷土誌では、無尽和尚が気仙山から東禅寺へ向う途中にここまで運んできたものだと伝えている」を付け加えています。
 続いて、「遠野物語拾遺十五」として、「十五」の御神体の石神の話〈内容・略〉がそのまま記されています。

*一行空けて「下綾織向にある。古くからの言い伝えによると、元は深沢野(神成淵)にあったものらしい。社殿や境内が狭いので文治年間(1185〜1189)阿曽沼氏の時代に、今の向の土地に還したものと伝えられている。/御神体の石棒は長さ八十五糎 直径一三センチ 最も太いところ四十七センチ 細いところ二十九センチ/本殿の棟札に『享保二十年(1735)九月九日奉造立勝膳堂』/御神体の石棒は、猿ケ石川の御前淵(神成淵)の土中で発見されたものであると伝わる。/〈略〉昭和二十六年の和野の大火ですべて焼失し、昭和三十年(1955年)に胡四王社を合して再建された。 (綾織郷土誌)」とあります。
 「下綾織向にある」以降は、『綾織郷土誌』によるもののようです。
 合祀した神社を「胡四王社」と記しています。

*「深沢野(神成淵)」と「御前淵(神成淵)」がありますが、どちらも(神成淵)とあるのはどいうことでしょうか。
 「深沢野」は、《準備》で見た『新田U遺跡発掘調査報告書』の「周辺の遺跡」に「深沢野T・U・V」があり、所在地は「深沢野T」が「下綾織字深沢野古館」で「U・V」は「「下綾織字深沢野」です。「深沢野T」は「新田U遺跡」の西側で「向V遺跡」の東側です。「V」は新田沢の池(湖沼)のあたりで、「U」は新田沢を「V」から上流に行った所になります。
 そうすると、「深沢野」は新田沢沿いの地域のようです。
 webサイト『いわて遺跡地図』〈 https://maizobunkazai-web.pref.iwate.jp/ 〉で遺跡を検索〈検索は「地図」からもできます〉すると「深沢野T」は「下綾織31地割」とあり、地図によると遺跡範囲の東側が新田沢で「新田U遺跡」と接し、北側も西に向きを変えた新田沢に接しています。西に流れを変えた新田沢は猿ケ石川に合流しています。
 駒形神社が、現在地に遷座する以前は、深沢野でも猿ケ石川に近い場所にあれば、「深沢野(神成淵)」と「御前淵(神成淵)」が新田沢の猿ケ石川合流地点付近ということかもしれません。
 「新田U遺跡」からは、石棒も発掘されています。
 なお、国指定史跡の「綾織新田遺跡」は、遺跡名「新田U」遺跡の事だそうです。

*駒形神社の境内は小高い丘で、一の鳥居から本殿にむかってだんだん高くなっています。
 国土地理院地図を見ると、一の鳥居付近に標高255mの補助曲線があり、拝殿付近は260mの等高線を越えていますが265m以下ですので、境内の高い場所でも比高差10m以下の丘のようです。

2,月山神社跡石碑・碑文
※ 「月山神社跡」碑文〈以下「月山碑文」〉
 月山神社跡の石碑の文面を写真から読んでみると、判読の難しい文字が幾つかありました。

 
 月山神社跡
 社元上野丹波守祀薬師南部直榮移遠/
 野巡見領内召胡四王舘圓宥月山自先祖/
 信仰社依以社領七石八斗與正保三年/
 八月也享保四年八月著破壊舜興新築之/
 明治三年分神仏混淆祭月読命昭和二六/
 年同部落相遇大火駒形焼失及新築社/
 同時昭和二八年合祀當社矣 月村一撰
 〈正保三年(1646)、享保四年(1719)〉
 〈碑本文を横書きで表示。下線文字は推定。/は改行〉
 判読に迷う文字はありますが、およその意味は取れると思います。
 この碑は、この社の経緯を記した、昭和二十八年以降に建てられたものとなります。

 碑文によると、この社は元々は上野丹波守が薬師を祀ったもので、南部直榮が遠野に移り領内を巡見し、胡四王舘圓宥を召して、月山は先祖が信仰する社であることによって、社領七石八斗を与えたのが正保三年八月のことである、享保四年八月には著しい破壊状態の社をすぐさま新築した、明治三年神仏分離により月読命を祭神とした、昭和二十六年には部落が大火にあい駒形神社が焼失して、昭和二十八年に新築を認めたのと同時に月山神社も合祀となったのである、というように見ておきたいと思います。
 草創の事と正保三年・享保四年・明治三年・昭和二十六年・同二十八年の出来事が記されていて、草創には年号がなく、名前が記されているのは上野丹波守・南部直榮・胡四王舘圓宥です。

*月山神社跡については、遠野遺産リストで「認定番号151:月山神社(旧胡四王薬師堂)」があり、その遺産の概要の説明文は《準備》に記載しておりますが、あらためて見ておきます。
 説明文によると、「綾織にある神社の中で最古のものとされ、古くは胡四王薬師堂と呼ばれていた」とあり、創建について「本社の創建は正中2(1325)年、鱒沢守光が、羽州月山権現を勧進したのが始まりとされる」と記しています。続いて「その後、修験者阿部一族の末裔と称する一族によって奉仕されてきた」とあって「八戸弥六郎直栄公が立ち寄った際の聞き違いから明治維新以降、月山神社と名を改め村社となった」とあります。
 これによれば、鎌倉時代後期に月山権現として創建され、修験阿部氏が奉仕し、(月山権現なのに)どういうわけか胡四王薬師堂と呼ばれ、八戸弥六郎直栄公が何を聞き違えたか分らないが、何故かそれによって明治維新で月山権現を月山神社と改称した、としか読めないと思いますので、何を言っているのか分らない説明です。
*直栄公の聞き違い内容と直栄公の社領の付与は周知の事とする前提で、それがあって江戸期を通して月山権現が祀られて、明治維新を迎えたという記述なのでしょうか。
*一貫して、月山権現が祀られいるということになりますし、胡四王薬師堂の謂れは不明です。
 月山神社を旧胡四王薬師堂としていることまでは疑えないだろうと思いますので、胡四王薬師堂があったことと受け取っておきたいと思います。 
 遠野遺産の遺産の概要の説明文を示す場合に「遺産説明文」とします。

*「月山碑文」と月山神社の「遺産説明文」を見ると、いろいろ疑問が生じます。
 先ずは資料にあたっていきたいと思います。

3,遠野・綾織の資料
◇『上閉伊郡志 下閉伊郡志(全)』(名著出版、1972、国立国会図書館デジタルコレクション/送信サービス)〈『上閉伊郡志』(岩手県教育会上閉伊郡部会編 大正二年刊)・『下閉伊郡志』(岩手県教育会下閉伊郡部会編 大正十一年刊)の復刻版〉
 『上閉伊郡志』〈以下『郡志』〉ー「第三章 町村」の「綾織村」及び「第八章 社寺名蹟」の「綾織村」からの引用を《準備》に記しておりますので、そちらをご参照ください。
*「第三章」の「綾織村」は村の歴史的概要が記され、胡四王堂と別当、谷地舘・上野舘等の舘について、光明寺や駒形堂などについての記載があります。
 そこに、上綾織字山谷の安倍屋敷址という地に安倍の族が修験に変装して来住し、子孫が下綾織字胡四王の胡四王堂(今の月山神社)別当(鶴曜寺)となった、と読める記載があります。
 また、下綾織字向の駒形堂(今の駒形神社)は阿曽沼氏時代に馬神として崇敬されていたと伝わっている、の記載があります。
*「第八章 」の「綾織村」には、新里の「愛宕神社」「石上神社(村社)」に続いて「月山神社(村社)」、次に「駒形神社 綾織村大字下綾織なる小峠の麓に在り相傳ふ阿曾沼氏時代に馬神として蒼前駒形明神を祀れるものなりと後『リンガ』崇拝を伴ひ石棒を神體に擬せり牛馬の疾患あるに方り平癒を祈求する為来詣する者極めて多し」があり、「羽黒堂」「昭牛山光明寺(曹洞宗)」の記載があります。
 《準備》で引用した「月山神社(村社)」の記述は、古るく胡四王堂の安置があって、安倍の族の裔と称す修験が奉祀してきたが、寛永年間の南部氏移治後の所領巡見の際に、胡四王堂の叢祠について問い、その返答を月山が祀られていると聞き違え、この月山に社領が付されたことにより月山権現を併祀した、と読めると思います。

◇『岩手県町村誌(全)』〈以下『町村誌』〉(高橋嘉太郎著、名著出版、1979.12、国立国会図書館デジタルコレクション/送信サービス)〈 高橋嘉太郎『岩手県下之町村』(岩手毎日新聞社出版部、大正14年)の復刻版 〉で上閉伊郡「綾織村(大正十二年十月現在)」を見ます。
*項目「神社仏閣」に、「月山神社(村社) 大字下綾織字向にあり、社地八畝十一歩月読命を祭る、勧請年月不詳、祭日八月八日一説に天正年中〈1573〜1592〉鱒澤守光羽州月山権現を勧請したるものなりともいふ」、「駒形神社(無格社) 大字同字向にあり社地五畝〇一歩保食神を祭る、祭日八月九日」、「石上神社(村社)〈略〉」、「熊野神社(無格社)〈略〉」、「稲荷神社(無格社)〈略〉」、「愛宕神社(同)〈略〉」、「出羽神社(同)〈略〉」、「愛宕神社(同)大字新里字新瀧〈略〉」、「光明寺〈略〉」があります。
 社地の1畝を30坪とすると、月山神社の社地は約243坪で、駒形神社は約150坪となりますが、現在の駒形神社の境内地はそんなに小さくないと思います。
 駒形神社の境内を二等辺三角形と見て、神社の横を通る道路が一の鳥居から境内の端まででおよそ100m程、本殿側の底辺はおよそ50m程と思われますので、少なく見ても400坪以上はあるのではないかと思います。
 境内範囲と神社の社地は違うのかもしれませんが。

*同書の項目「名所舊蹟」中に、「上野   大字綾織字和野にあり、天文年中〈1532〜1555〉より弘治年間〈1555〜1558〉迄阿曽沼廣長の実弟上野丹波廣吉の居城たりしなり、廣吉弘治三年谷地館に移り住せしより漸次荒廃に帰せり」があります。
 他に、「胡四王畑   大字下綾織御料地内にあり昔慈聖院と称する修験者の住し所なるを遠野南部氏直榮公の命により月山別当となりし時他に移転せしによりその名のみ残れりと」、「胡四王   大字上綾織光明寺内にあり、天文年中の彫刻に係り木造の持国天王増長天王廣目天王多聞天王の像にして長さ各三尺の立像なり」があり、「龍神石   大字下綾織駒形神社境内にあり往昔無盡〈尽〉和尚気仙山より附馬牛東禅寺に運び行かんとして此處まで持来りしも其後遂に移さずして止む、石面自然に昇降龍の紋章あるを以て里人称して龍神石と傅ひたりと」などがあります。
 「胡四王畑」、光明寺にある「胡四王」の記載があり、「龍神石」は無尽和尚が運ぶとあります。
 また、月山神社の境内には大槻・大銀杏があるとのことです。

*項目「産業」中に、「家畜頭数 牛一三頭 馬七三二頭 豚一八頭 鶏八九二羽」がありました。

*ここでは、増澤守光の羽州月山権現の勧請が天正年中とされています。
 月山神社の記述中に胡四王の文字はありません。

◇『上閉伊郡綾織村郷土誌』〈以下『綾織郷土誌』・『郷土誌』〉(岩手県上閉伊郡綾織村教員會 昭和七年六月)〈岩手県立図書館・蔵書  神社部分の郵送複写サービス〉
 この謄写版印刷本の「第九章 宗教・社寺」は「一 自然崇拝 二 神社崇拝 三 神道 四 佛教 五 神社 六 寺院」となっていて、この「五 神社」の部分の郵送複写を依頼しました。
 収録神社は、「目次」に「石上神社(村社)・月山神社(同)・愛宕神社(無格社)・駒形神社(同)・愛宕神社(同)・羽黒堂・御日月祠・八幡」とあります。
 神社に関する記載は、『郡志』や『町村誌』に比べあれこれこまごまと記述していますが、謄写版の複写ということもあってか文字に不鮮明な所もあります。
 引用文の判読に誤りがある恐れがある文字に下線を付します。

*「月山神社(村社)」の記載内容を見ると、社地は「下綾織字胡四王」、「社号は往古胡四王薬師堂と言へり」とし、創立沿革に@「四道将軍の一人太〈ママ〉彦命の末孫安部氏の後胤、安部主計奥州に居住の時正中二乙丑年、鱒澤守光、羽州月山権現を勧請す」、A「修験者安部の族の裔と称し、家に其の櫃物笈及古書類を保存せる者の手に依りて之を奉祀し来りしが」、B「遠野阿曽沼氏没落後南部直榮領主となり寛永四丁卯年八戸弥太郎直榮公移治の砌、所領村落巡視の途次濱街道(現在日詰街道)を通過の際、今のお伊勢堂の処に休息し、此の胡四王の叢祠を指し彼の処に見ゆるは何なりやと問はる當時は該地は槻の林なりし故、里俗槻山と呼び来れるよりその儘言上に及びたるに、月山と聞き取られ、〈南部氏の月山信仰に関する記述・略〉此の月山にも社領を附すべしと下命せられ、社領として七石八斗寄附せられ」、C「明治維新以後月山神社と改め今村社なり〈略〉」とあります。
 この@〜Cの区切りは当方が付したもので、原文は区切り無く続いています。
 ここに「往古胡四王薬師堂」の記載があります。 
 月山神社の例祭日は「旧四月八日春期大祭」とあります。

*棟札が記載されていて、「正保三年〈1646〉/九月廿八日」とあるものは「奉造立月山権現堂大檀那直榮公武運長久」とあり「願主宇夫方清左衛門」「別当 明性院」とあります。
 同じく「延寶四年〈1676〉」のものは「奉建立月山堂大檀那義長公御武運長久」で「別当 明性院」です。
 続いて簡略に七棟札の年月と領主と別当が 記されていて、順に「寛文八年〈1668〉九月廿九日 義長 明性院」「享保四年〈1719〉八月八日 ー 慈聖院」「宝暦三年〈1753〉四月八日 義顔公 観道」「明和三年〈1766〉ー ー ー」「寛政七年〈1795〉四月八日 怡顔 慈聖院恪堂」「文政六年〈1823〉十月八日 ー (慈聖院)勝道」「文久三年〈1863〉九月二十日 済賢 (慈聖院)恪道」とあります。「ー」は原文は空白です。

*続いて「胡四王畑」について記されていて「大字下綾織新田にあり、足利義教公関東の公方持氏を攻めし時、諸将を鎌倉へ差向はしめたり、安倍重任、南部庄司義政殿の御手に属し、戦功を奨み、感状を賜はれり、南部殿御皈(帰)陣の折從供して、奥州南部に下り、閉伊郡豊間根村を賜はり、代々其地に住居したりしが、其の後裔たる慈聖院と称する修験者が現在の胡四王畑といふ所に移り住めるを、後領主直榮公の命により、月山別当となり月山鶴曜寺に住めり、胡四王畑は屋敷址なり」とあります。

*最後に、阿部○○○氏所蔵の系図により、次のように記されています。
 系図に「重任ー房安ー房任ー房政ー円宥(孫右エ門)ー大然院内ー大隠院舜(大五郎)ー正覚院宥榮ー光学院宥ー明性院宥慶ー長傳院秀興ー覚院秀慶ー慈聖院舜興ー観道宥興ー恪道ー勝道ー湛道ー源太ー宮治」とあります。〈亮:原文は口がハシゴ U+20159〉

*なお、神社項目の最初に記されている「石上神社(村社)」の「石上山の来歴」中に「安倍宗任の妻『おない』の方は『おいし』『おろし』『おはつ』の三人の娘を引き連れて即ち今の上閉伊郡の山中に隠」れたこととその後の事績について記していますが、「別傳説」として坂上田村麻呂が「立烏帽子姫と夫婦になりて一男一女を産めり」とし、その男児「田村義道」の「其末は安倍氏にして、当時の安倍氏の奥羽地方にあるは其末葉なりといふ」を記しています。

*「駒形神社」については、現社地の住所を記さずに「元深澤野にありしが、社殿並に境内地狭小なる故を以て、文治年間、領主阿曽沼氏の時代今の地に遷斎せしものなりと言い傅ふ」を記し、「庶民の崇敬厚く生産畜産の隆昌を祈願し霊顕の著しき由縁を以て遠近崇敬益々盛なり」があり、「傳説 本殿遷座の際御神体とせる石棒より異様なる光輝を顕はしたりといふ」が記され、「石棒は、長さ八十五糎、直径一三糎、最も太き処まはり四十七糎、細き部分二十九糎」とあります。
 また、「生産の業を守護し給へる御神徳を感謝し、大正十二年七月神殿の左側に神馬舎を建設したり、畜産家の信仰篤し」、「祭日 旧八月九日、氏子一〇〇〈百〉、祭典には近村よりの参拝者多く相撲を奉納し、優勝旗争奪戦盛なり」とあります。
 棟札が記され、享保二十年九月九日のものには「大檀那八戸弥六郎源義顔公」「奉建立駒形明神堂三間四面一宇」「社司 覚十郎」「社司 沖右エ門 栄福」とあるようです。
 続いて「文化 甲子七月二十日」とあり、「安政四丁巳四月廿八日 源濟賢 湛道」があります。
 その後に、社殿内に文政十二年の二日町菅原氏奉納の「百草生葉摺の額」があることが記されています。
 最後に「無尽和尚、附馬牛村東禅寺にありし頃、気仙山より此の寺に運び行かんとして」云々という龍神石の謂れが記されています。

*これらの記述から「駒形神社看板」にあった「郷土誌」「(綾織郷土誌)」は、この『上閉伊郡綾織村郷土誌』のことと思われます。
 享保二十年九月九日の棟札は、「駒形神社看板」の「奉造立勝膳堂」とは見えませんので、あるいは同日付けの別の棟札があるのかも知れません。

*「目次」には記されていない「七、八幡神社」と「九、疱瘡神」が収録されていて、「七、八幡神社」は「□〈身+鳥:U +9D62〉崎〈ミサザキ〉字大久保」にあって、の安永四年棟札に「神主 清右エ門」「願主 社司 橋氏 仁兵エ伸政」があって、「万延元年九月の絵馬一枚あり  勧進者 慈聖院観道」が記されていました。〈註:□〈身+鳥〉崎を 以下、みさ崎と表示 〉
 「目次」にあった「八、舘八幡宮」は「谷地舘の北部」にあって、嘉永四年棟札には「遷宮師 慈聖院」がありました。
 「九、疱瘡神」は「砂子澤中澤」にあって、「此神社にリンガが崇拝を伴ひ、木又は石のもの数個殿内にあり」がありました。

◇『遠野市史』第一巻〈以下『市史一』〉(遠野市史編修委員会、万葉堂書店、1974、国立国会図書館デジタルコレクション/送信サービス)の「第三編 中世」ー「第二章 阿曽沼氏時代第二」-「一、2、阿曽沼初期の社寺」中に「中世のころ(初期と考えられる。)には、すでに綾織、新里、鱒沢が成立していたものと思う。このころに胡四王社(のち月山神社)、大久保に光明寺(旧光明寺)、鱒沢の善行院が創建され、またみさ崎館(西門館)、鱒沢の高館も建武のころ(1334〜1337)には築かれてあったし、室町・戦国時代にはいり、上鱒沢の鱒沢館、新里の西風館も築かれた 」がありました。
 ここでは「胡四王社」が「(のち月山神社)」とあります。

◇『遠野市史』第四巻〈以下『市史四』〉(同、同、1977.3、同)ー「第七編 文化ー第一章 宗教ー二 神社」から下綾織の月山神社と駒形神社を見てみます。
*「月山神社」の記載は、これまで引用した資料を総合したような記述で、「綾織町下綾織字向の胡四王に鎮座」「例祭日は旧四月八日」、勧請年月は不明だが「古くから同地に胡四王堂が安置されており、安倍氏の一族の子孫といわれる修験の手によって祭られたもの、ともいう」とあり「胡四王堂」とありますが、一説にとして「天正年間(1573〜1591)鱒沢守光が」羽州月山権現を勧請したものとも記しています。
 その後で、「寛永年間(1624〜1643)南部直栄移治ののち領内巡見の途、胡四王山を指し、あれは何かと問われた。当時この山はツキ(槻)の林だったので、俗に槻山と呼んでいたのをそのまま言上したら、槻山を月山と聞きとられ、南部家は八戸在住当時から、月山信仰には由緒があったので、社領をつけることになった。その後月山権現をあわせ祭った、という」を記しています。 
 槻山を月山と聞き違えても、ツキヤマはガッサンのことと変換して受け取る事が必要になりますが、この伝承はそのあたりをどう考えているのでしょうか。
 取って付けたような由緒話に思えてなりません。
 記載の最後に「明治維新後、月山神社に改めたが、昭和三十年(1955)八月近くの駒形神社に併祀した」とあります。

*「駒形神社」の記載は「綾織町下綾織字向に鎮座」「阿曽沼氏時代に馬神として蒼前駒形明神を祭り、のちリンガ崇拝を伴い、石棒を神体にしている」「昭和二十六年四月十日、部落の大火の際類焼したが、浄財を集めて三十年再建した」とあります。
*「附馬牛町上附馬牛字荒川」鎮座の「駒形神社」の記載に「“荒川のお駒さま”」と呼ばれ、とありますので「遠野遺産 認定番号56:荒川駒形神社」はこの神社かと思います。
 記載中に「阿曽沼氏時代にウマの神として、蒼前駒形明神を祭ったのがはじまり」とあり、無尽和尚と白馬に乗った早池峰の神霊の伝説が記されています。また「内陣に、石で造られた男性器が蔵されている」があります。
 「附馬牛町内に駒形神社は、このほか大出の早池峰神社境内にも、小出にも、桑原にも、荒屋にも、和野にもある」として、いくつかの伝説を記しています。
 同書の「神社」項目に記載されている駒形神社はあと一社あり、遠野町上組町鎮座の「駒形神社」が記載されています。

4,資料間の記載内容の異同について
@月山神社(旧胡四王薬師堂)の所在地名
*資料によって、下綾織字胡四王(『郡誌』・『綾織郷土誌』)、下綾織字向(『町村誌』)、下綾織字向の胡四王(『市史』)とあります。『郡誌』では駒形堂を下綾織字向と記しています。
 現在の住所表示は「下綾織〇〇地割」なので、かつての字界地図でもないと、字胡四王があったのか、字向の範囲はどこなのかなども分らない状態です。

*ウエブサイト『Geoshapeリポジトリー地理形状データ共有サイト|ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)』〈https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ 〉の「現在地名/2.農業集落境界データセット」で「向[0320802020]〈岩手県03,岩手県遠野市208,旧市町村名ー綾織村02,農業集落名ー向020〉を見てみますと、訪ねた「月山神社跡」は「向」と境界を接している「和野」の側にあるように思えます。
 なお、「現在地名/2.農業集落境界データセット」では「胡四王」は見出せません。

 しかし、『新田U遺跡発掘調査報告書』〈《準備》参照〉の「周辺の遺跡」表に「向U遺跡」の所在地「綾織町下綾織字胡四王」とあり、「向V遺跡」は「綾織町下綾織字向」となっています。 
 向V遺跡の範囲はおよそ札場橋から駒形神社へまっすぐむかう道の両側で、下綾織第31地割のとなると思います。
 向Vの西側に向U遺跡の範囲があり、下綾織第31地割と35地割の境の道路の西側となります。  
 『向U遺跡発掘調査報告書』は、所在地を「綾織町下綾織第35地割123ほか」としています。

 「2.農業集落境界データセット」の「向」の範囲は「和野」に接していますので、このデータセットでは「胡四王」は「向」に含まれてしまいます。
 かつては「字胡四王」があったが、「字向」に統合され、現在は31地割と35地割になったのではないかと思いますが、どうなのでしょうか。

*この記事では、住所が地割となる以前の月山神社の所在地は、市史のように「下綾織字向の胡四王」としておきたいと思います。
 「地割」というのは藩政時代の細かな地域区分のようですが、なにか味気なさを感じます。

A駒形神社への合祀の年月
*「月山碑文」に昭和二十八年とあり、岩手県神道青年会HPなどに昭和二十六年〈探訪の準備・参照〉とあり、「綾織駒形神社」の「遺産説明文」中には、昭和二十六年に集落の大火で類焼し「昭和30年に再建、月山神社を合祀」とあり、『市史1』に昭和三十年八月に「駒形神社に併祀した」とあります。
 合祀がなったのは、昭和三十年ということでしょう。
 大火で焼失したのが昭和二十六年で、再建がなった駒形神社に月山神社を実際に合祀したのが昭和三十年でしょうから、石碑の昭和二十八年というのは月山神社を合祀する形で駒形神社を再建することが決められたということではないでしょうか。

*旧無格社の駒形神社が焼失し、旧村社の月山神社は現在の新里愛宕神社の拝殿になっているという立派な社殿を持っていたのですから、月山神社に駒形神社が合祀されてもおかしくはないと思います。
 そうならずに、逆になったのは、駒形神社は遠野地域に多数祀られており、遠野の風土に根を下ろした信仰で、集落や生業との結び付きが強く、崇敬者も参拝者も多く、月山神社よりも立地条件が良いというようなことがあったのではないかと思います。
 資料がないので想像でしかありませんが、月山神社の維持が困難になっていたことで合祀されたのかもしれないとも思いますし、集落で月山神社と駒形神社の両方の維持は難しいとなったのかもしれないとも思います。
 月山神社の境内は整理され、社殿は有償・無償や条件は不明ですが移築となり、大槻や大銀杏は再建合祀の駒形神社の財源として切られて売られたのでしょうか。

B鱒沢守光の月山勧請について
*月山神社「遺産説明文」は、「本社の創建」を「正中2年」に「鱒沢守光が、羽州月山権現を勧進したのが始まりとされる」としています。
 これは、『町村誌』・『市史四』が鱒沢守光羽州月山権現勧請を「天正年中」として「一説」としていることからすれば、かなり断定的な記述です。
 また、「勧請」とせず「勧進」としているのは、何故なのでしょうか。
 「月山碑文」には鱒沢守光の名は無く、『郡誌』にもありません。

*『綾織郷土誌』は、安倍氏を大彦命の末孫とし、その後胤の「安部主計」が「奥州に居住の時正中二乙丑年、鱒澤守光、羽州月山権現を勧請す」として「修験者安部の族の裔」と称する者の「手に依りて之を奉祀し来たり」と記しています。
 「安倍」ではなく「安部」と表記しています。
 「安部主計」が誰なのか分りませんし、鎌倉時代後期・後醍醐天皇在位中の正中二年(1325)に奥州に居住とあって、「安部主計」との関係も不明な「鱒澤守光」が「羽州月山権現を勧請」とあって、それを奉仕してきた者という「修験者安部の族の裔」が「安部主計」の子孫なのかどうか、何故「鱒澤守光」勧請の月山権現を奉祀するのかも分らないのですが、遠野の綾織とは別の所で月山権現が勧請されたとしか読めないと思います。
 ただ、安部の族の裔が「奉祀し来たりしが、遠野阿曽沼氏没落後〈略〉」というように遠野の事柄に直につながった記述になっているので、「奥州に居住」の奥州には遠野も含まれ、遠野に居住のことであるとしても、あまりに文章がおかしいと思いますし、「正中2年」と「鱒沢守光」が記されていることに違和感があります。

 正中2年に鱒沢氏と記されていれば、遠野の人は、なにかの間違いと思うのが普通なのではないかと思います。
 だからこそ、『町村誌』・『市史四』は「一説」として「天正年中鱒澤守光羽州月山権現を勧請」と勧請年月を修正して「一説」として記載しているのだと思います。

*月山神社の由緒及び社領付与は、南部直榮の遠野移封以後の領内巡見での、槻山と月山の聞き間違いと八戸南部家の月山信仰によるものと、一見それらしく説明めいた事が記されています。
 このようなもっともらしい理由が付けられているのは、月山権現に社領が与えられる理由が分らないことからであろうかと思いましたが、鱒沢守光羽州月山権現勧請を合せて考えると別の想定もできるのではないかと思います。
 南部直榮公の聞き間違いによる社領付与では、それ以前に月山神社は存在していなく、存在しない月山神社に誤解によって社領を与えた事になります。
 月山神社の存在を明示しないで、社領を付与するために聞き間違い話が作られたのではないでしょうか。
 南部氏の遠野支配以前の、鱒沢守光羽の州月山権現勧請が消されているとすれば、鱒沢氏の月山勧請を表に出さないために、聞き間違いによる社領付与話が作られたのかもしれないと思います。

*『市史一』ー「第三編ー第三章ー二 阿曽沼、鱒沢両氏の抗争」他を見てみると、鱒沢氏は阿曽沼光綱の次男守綱が鱒沢村・小友村の半分を得て鱒沢村上町館に住居して鱒沢氏を称したとことから始まるようです。
 阿曽沼光綱の代には宝徳二年〈1450〉の葛西氏との争いがあったとのことですので、この年代が鱒沢氏の始まりの年代を推測する要素になると思います。
 そうすると、正中二年に鱒沢氏ということあり得ないのではないでしょうか。

 鱒沢氏は広勝の代となり、広勝は慶長五年〈1600〉に阿曽沼広長から横田城を乗っ取り、阿曽沼氏を没落に追い込んでいく政変を起こし、遠野が南部に併合される事態を遠野側で主導した一人となるようです。
 鱒沢広勝は、慶長六年の阿曽沼広長の遠野奪還戦の平田坂合戦で討死し、継いだ子の広恒が知行三千石の加増を受けたとあります。
 その鱒沢広恒は南部利直〈盛岡藩初代藩主〉に謀反の疑いで切腹を命じられ鱒沢氏は取潰されたということなので、鱒沢守光は鱒沢守綱から広勝の間の人物でしょうから、天正年間の1573〜92年に羽州月山権現を勧進とすれば、あり得る事と思います。
 しかし、勧請年月の「正中二乙丑年」に意図があるとすれば、天正年間には乙丑年が無く、永禄八年(1565)が乙丑なので、勧請年月は永禄八乙丑年かもしれないと思います。

*『市史一』ー「三 中世」ー「第一章」中の「鱒沢氏系図」に「守綱ー守国(室斯波氏)ー守光(修理、二子あり。長子広勝。次子村広、天正末死。)ー広勝(二子あり。長子広純早世。次子広光。)ー広光(忠右衛門、室桜庭安房娘。)ー千代松」とありますので、ここに記された守光がその人ということでしょう。
 このようなことから、月山権現を鱒沢氏の勧請とするのが憚られたのでしょうか。

*鱒沢氏勧請を表に出さずに、遠野南部氏が新たな領内への支配政策の一環として社領を付与し、領内経営の安定化をはかったとすれば、月山権現が鱒沢守光の勧請ということも社領付与につながったのかもしれないと思います。

*『市史二』(同、同、1975.11、同)ー「第四編ー第二章 直義時代ー五」によれば「遠野南部弥六郎直義〈南部直榮〉が、当時八戸領主であった第二十一代の清心尼の養子になり〈略〉第二十二代を相続したのは、既述のとおり元和六年(1620年)十二月であるが、遠野に移封を命ぜられて遠野領主になり、その統治に当たったのは寛永四年(1627年)三月から、その死亡した延宝三年(1675年)正月までの、実に四十八年の長期間であった。/しかし、それは公的な表面の事実で、実際は〈略〉遠野南部家の謀反を恐れた藩主利直が、直義を政務を指導する、という名目のもとに、実際は人質としてその手許に置き、その政務の相手をさせた。それで、直義は遠野領主はただ名目だけで、その生涯のほとんどを盛岡城か三戸城で送った。それに、直義は当時南部藩第一の英材と称され、南部藩政に欠くべからざる重臣で、しかも重直の代には、盛岡城の城代家老に任じられて南部藩政務の中心になったので、覚えつつも実際に遠野統治に当たることのできない情況になっていた。それで、遠野の実際政事は最初の頃は、隠居ながらも家臣たちから絶大な敬慕と信頼とを抱かれていた清心尼がもっぱらその中心になり、清心尼が没した正保年間以後は、直義の嫡子の義長が、父に代わって統治の実際に当たった、といわれているが、この時代は遠野の最も安定した時代とされ、その政治は長く遠野の前例、模範になった。/清心尼の政治は、いかにも女性政治家らしい行き届いた施策が多く、その影響は実に現代にまで及んでいる」と記しています。

*『綾織郷土誌』は、鱒沢守光による羽州月山権現勧請が消されていることを、直接記述することができなかったのか、気付かせるために年月の誤りの勧請を記しておいたのでしょうか。
 その事で、『町村誌』・『市史四』の「一説」があるようにも思えます。

*鱒沢守光が羽州月山権現勧請したとして、どこに祀ったのでしょうか。
 胡四王薬師堂を奉祀する修験阿部家に月山権現の奉祀も託したのか。
 阿部家とは別の者に者よって月山権現が奉祀されていて、鱒沢氏取潰しで守護者を失っていたものを、遠野南部氏による月山権現の復興に近いことが行なわれ、その際に胡四王薬師堂を祀る修験阿部家に月山権現の奉祀を託したのか。

*「月山碑文」では、社領を与えられたのは正保三年とあります。
 南部直榮の遠野移封は寛永四年〈1627〉とのことですので、それから19年後になります。
 『綾織郷土誌』に記された「正保三年/九月廿八日」の棟札は「奉造立月山権現堂大檀那直榮公武運長久」とあり「願主 宇夫方清左衛門」「別当 明性院」とあります。
 正保三年は月山権現堂造立の年となるようです。  
 「宇夫方清左衛門」という人物が「角鼻堰」を開いた立役者であれば、ブログ『不思議空間「遠野」−「遠野物語」をwebせよ!−』〈以下『不思議空間遠野』〉ー「遠野物語拾遺195(角鼻堰)」に、「〈阿曽沼氏の〉家臣である宇夫方広久の子である清左衛門広道が寛永の初めに遠野の南部氏に仕えて下郷代官となり、綾織に住み着いたと。その当時の綾織は開墾が進まず角鼻に堰を設けたのは、正保年間の事であったそうな」がありました。
 「明性院」は、正保三年と寛文八年と延宝四年の棟札に記されていて、系図に「明性院宥慶」があります。明性院は少なくとも30年に渡って記されています。
 「月山碑文」の、南部直栄の遠野巡見時に「召胡四王舘圓宥」があり、巡見は寛永四年以降の事になると思いますが、「圓宥」が系図の「円宥(孫右エ門)」であれば、寛永四年以降の「円宥(孫右エ門)」と19年後の正保三年の「明性院宥慶」との間に四名もの記載があります。

C阿部氏について
*『綾織郷土誌』の「胡四王畑」によれば、足利義教が鎌倉公方持氏の討伐を命じた永享の乱〈永享10年・1438〉の折に南部義政のもとで武功があった安部重任とあって、その安部重任が南部義政の帰陣の折に配下として奥州南部に従って閉伊郡豊間根村を賜って代々居住した、とあります。
 この「安部重任」については不明です。
 阿部氏については、《準備》で記したブログ『「遠野」なんだり・かんだり』〈現在は『遠野なんだりかんだり』〉〈以下『なんだりかんだり』〉の「慈聖院:綾織月山神社」(2007ー02-12 |修験)記事に、安倍正任から21代後応永年間〈1394〜1428〉閉伊豊間根・石峠を領する、とあって『郷土誌』と年代の違いがあります。「安部重任」は「安倍正任」の裔ということでしょうか。

*同記事では、慈聖院を9代目、明性院を6代目としていますので、『郷土誌』の系図と合わせると慈聖坊円宥(孫右エ門)が初代となります。
 同記事は、「15世紀中頃に浪人し現在地で月山胡四王を守護する修験者となり慈聖坊円宥と称した。(俗名孫右衛門)」とあり、別の段落で「6代目明性院の時代」に「八戸弥六郎直栄から7石8斗の寄進を受け」としています。
 初代から「月山胡四王を守護」していることになり、17世紀の寛永四年以降に明性院が社領寄進を受けたとなります。
 「神社碑文」には、「胡四王舘圓宥」があり、同人が南部直栄の巡見の折に「召」されたとありますので、また混乱します。

*同ブログの「狼と慈聖院」(2019ー09ー01)にも、阿部家の来歴に関する同様の記載があります。
 同記事には「考証は出来ていませんが、豊間根にも慈聖院にも安倍氏はつながるようです」があります。
 同ブログ「2019 綾織駒形神社例祭・遠野まつり祭典事務所開き」(2019ー09ー09)に、「先日お邪魔した胡四王堂元別当慈聖院縁のお宅へ行き、権現様を拝見しました」がありましたので、ブログ作者「笛吹」氏は慈聖院に関する資料をご覧になれる方だと思います。
 慈聖院に関する情報の多くを同ブログから教えて頂いています。

*遠野の修験阿部家の認識は、遠野移住以前は閉伊郡豊間根(現・下閉伊郡山田町豊間根)を領していた家系、いうことであろうと思います。
 『郷土誌』では、室町時代の安部重任を閉伊豊間根安部家の祖としているようです。

*平安時代の安倍重任に関しては、遠野市土淵町土淵8地割のカッパ淵の近くに「安倍(阿部)屋敷跡」という所があり、遠野市の案内看板に「安倍氏の一族(貞任の弟・北浦六郎重任)が屋敷を構えたと伝えられている」が、ネット検索で出てきます。
 安倍重任(北浦六郎重任)は、安倍頼時の六男で、前九年合戦後の康平六年〈1063〉に安倍貞人等と獄門になったということです。

*遠野移住の修験阿部家は、遠野に伝わるこちらの安倍家とは別系統の家系伝承を伝えていることになります。

D遠野での阿部家
 遠野・綾織での修験者の家系を阿部家と記し、その阿部家の系譜に関する場合は阿部氏と記したいと思います。
*『郡誌』では、《準備》に記したように、上綾織字山谷の安倍屋敷址という地があり、「相傅ふ安倍の族敗戦後修験に変装して来り住み」があります。これは遠野の修験阿部家の家系認識とは異なるようです。
 『郷土誌』では、遠野の修験阿部家は、閉伊豊間根を賜った安部重任の後裔とされ、「胡四王畑」に移り住み、南部直栄公の命によって月山別当となり月山鶴曜寺に住したとあるので、豊間根から「胡四王畑」に移住し、月山鶴曜寺に住む前までそこに住んでいたと受け取れます。
 『町村誌』の「胡四王畑」は下綾織御料地内にあって、昔慈聖院という修験者の住し所で、南部直栄公の命で月山別当になり移転とありますので、『郷土誌』と同様の移転経緯のようです。
 《準備》で触れた、ブログ『不思議空間遠野』では、綾織の阿部家は遠祖を安倍正任とし、屋号は「胡四王」で、「元々、小友は土室の胡四王という土地から移り住んだ」「以前、物見山の土室に抜ける峠にあった」「現在の綾織に移住したのは中世の頃」とされているようです。
 また昭和時代の事としてイタコの託宣「胡四王平には、この家の先祖が大事にしていた仏像が埋まっている」により「阿弥陀様」を掘り出したそうです。
 こちらのブログも、阿部家の祖を安倍正任としています。

*また、「神社碑文」の「胡四王舘圓宥」から、阿部家が「舘」を持ち、名乗りに「舘」を用い「胡四王舘」と称していたようです。

*「胡四王畑」「土室の胡四王」「胡四王平」「胡四王舘」が出てきています。
 さらに、《準備》で見た「古四王平」という屋敷跡(『遠野郷城館録』)や「胡四王元屋敷遺跡」があります。

*「胡四王畑」がある「下綾織御料地」の「御料地」とは「御料林」の場所のことでしょうか。
 「林野庁ホームページ」〈 https://www.rinya.maff.go.jp/ 〉ー『遠野地域の山の利用の歴史など』の中に「綾織地区の御料林面積」として「新里御料地ー86.19ha、上綾織御料地ー1,179.96ha、下綾織御料地ー164.23ha、みさ崎御料地ー701.95ha」がありました。
 御料地の場所は分りません。

*現在の住所表示では、遠野市小友町土室があります。
 土室の集落があり、篠神社があります。遠野遺産リストに『認定番号94:篠神社と桜』とあり、住所は小友町49地割121番地です。
 綾織町新里地内から南に行く山に向う道があり、新田山と物見山の間の土室峠を越えて土室に至り、南下せずに集落に入って西に向い、川口から鷹鳥屋・十三坊に至って北に向うと小友峠を経て二郷大明神付近を通過して行くと下綾織向に至り、札場橋に至ります。
 ちなみに、土室に向わずに南下を続けると上郷町来内で県道238号線に合流しますし、鷹鳥屋・十三坊から西に向うと小友町16地割の先で国道107号線に至ります。
 Googleマップの航空写真で土室周辺を見ると、伐採後のような山肌が出て渦巻き状の道が見える場所があり、そのような場所は他にもあることが見て取れます。
 地図を見ると、土室峠あたりは下綾織に隣接しているように思えますので、下綾織御料地内の「胡四王畑」というのは、土室峠あたりの土地という可能性があるのではないかと思います。
 『遠野郷城館録』の「古四王平」が「下綾織33−138−14新田」とあり、下綾織33地割は土室集落へ通じる道路が通り小友町に接しているところまでが領域になりますし、「農業集落境界データセット」で綾織村「新田」を見ると、その範囲は土室集落へ通じる道路を含み土室峠付近に至り新田山山頂まで届いていますので、土室峠付近に「古四王平」がある可能性はあるように思います。

*「土室の胡四王」も「胡四王畑」「胡四王平」「古四王平」も土室峠付近と想定して良いように思います。
 阿部家は土室峠付近に居住していたのではないかと思います。

*『郡志』『市史四』からは、古くから胡四王堂が安置され、修験阿部家が奉祀していたところ、南部直栄移封後の月山権現への社領付与の折りに別当を命じられた、と受け取れると思います。
 あるいは、修験阿部家が奉祀していた胡四王堂が古くから安置され、と言い替えても良いかと思います。
 『町村誌』『郷土誌』のように、南部直栄移封後の月山権現への社領付与の折りに、土室峠付近に居住する阿部家が別当を命じられて移転させられたというよりは、綾織地域に拠点を置く修験阿部家があったので、別当を命じられたとするほうが、流れが自然に思えますので、土室峠周辺から下綾織付近に拠点を移し、そのあと月山別当となったと想定したいと思います。 

*「胡四王元屋敷」遺跡の所在地は「下綾織字新田」で、「新田U遺跡」(所在地「下綾織31地割147−1他」)の北側になり、猿ケ石川に近い場所です。
 下綾織地区の「胡四王元屋敷」と「胡四王舘」との関係は不明で、「胡四王舘」と称する屋敷がどこなのかも分りませんし、「胡四王元屋敷」が阿部家の屋敷かどうか分りませんが、気になります。

E遠野の修験と慈聖院
◇『遠野郷八幡宮 創建八百年誌』〈以下『八幡宮誌』〉( 遠野郷八幡宮創建八百年誌編集委員会 昭和62.7 )
 〈 PDFをダウンロード : file:///D:/MYBOX/Downloads/遠野郷八幡宮創建八百年誌-1.pdf 〉)
 同書の「遠野郷八幡宮由来」の「由緒二」に南部直榮が転封し「領内巡見ノ際社領拾石ヲ附セラル」「直榮更ニ社地ヲ驚岡山ニトシ寛文三年〈1663〉遷宮」がありましたので、月山権現に七石八斗の社領は多いように思います。
 また、先に見た『綾織郷土誌』に慈聖院は「月山別当となり月山鶴曜寺住めり」とありますので、月山鶴曜寺が月山権現を祀り、その別当を修験の慈聖院が勤めていたと思います。
 月山神社が駒形神社に合祀されて、社殿が新里の愛宕神社の拝殿に移築されたということですが、ブログ『なんだりかんだり』の「2012 新里愛宕神社例祭(2012-07-24)」やサイト『くぐる鳥居は鬼ばかり』ー「新里愛宕神社(遠野市)」の愛宕神社の拝殿の写真を見ると神社の拝殿らしくないようにも思えますので、何時の時代の建物か不明です、寺院建物であったのかもしれないと思います。

*『八幡宮誌』ー「第二 八幡別当の八百年」中に「中世の山伏は、家の背後の山をこの行法の場にした。上鱒沢の善行院は笠通山、綾織の慈聖院が二郷山、青笹の連珠院が六角牛山を行場としていた」、「山伏は地頭などにも重く用いられた。〈略〉慈聖院の祖大五郎は、上野右近の奥方の医師として出入りし、後に不義をしたいうことで、こもにくるまれて川に投げ込まれた。今も大五郎淵として地名に残っている」があります。
 山伏の位と社領については、「八幡別当は、羽黒山伏の象徴といった存在だった。領主一族の葬儀に参加できた山伏は、各時代を通じて増減はあるが、本山派十名、羽黒派四十名のうち四名だけであった。〈改行〉
  葬礼烈作(列座)
   大徳院(本山派)/良厳院(羽黒派)/善行院(羽黒派)/慈聖院(羽黒派)/(善行院文書)」とあって、「大徳院は、遠野本山派の年行事職(地区の山伏の統括者)で、羽黒山伏も大徳院の支配下にあった。大徳院の首座は当然である。善行院と慈聖院は羽黒派山伏の頭襟頭でこの派の山伏の代表世話人であった。ところが、次席の八幡別当は無役の一羽黒山伏である。八幡別当の席次の高さは異様である。この理由は、中世の前地頭阿曽沼氏以来の八幡宮の歴史の古さにあるとしか考えられない。良厳院の系図には、『遠野横田村本宮八幡(宮代の元八幡)、若宮八幡(現在の驚岡山下の八幡、加茂、諏訪四社別当良厳院』とある。このうち徳川中期に加茂の別当職は、大徳院に横領されてしまうが、城の左右、前面に配置した阿曽沼氏ゆかりの神社を独占していた」とあります。
 項をあらため、「江戸時代の御支配帳には、次のように記録されている。/一、十石 八幡別当(良厳院)/一、六斗五升 賀茂別当(大徳院)/一、三石六斗 善行院/一、七石 日山別当(慈聖院)/一、三石 志和稲荷別当(満蔵院)/一、三石 山谷観音別当/〈以下、六箇所・略〉/(妙泉寺文書)」とあります。〈註:日山別当(慈聖院)は、月山別当の誤りでしょうか?〉
 慈聖院の石高は、やはり多いので、何らかの理由があるのでしょうが、不明です。

 旦那場については、「この札を配ってあるく縄ばりを本山派は霞(かすみ)、羽黒派の山伏は旦那場(だなば)といったが、これが八幡別当にはなかった。八幡別当より禄高の少ない善行院、慈聖院は旦那場も広く、田、畑、山林、馬も十頭以上持ち、大百姓として経済力は豊かであった。入峰回数の多いものにしか与えられない越家(おっか)の身分などが両家から出ているのは、この基板があったからだ」があり、「本山派山伏の年行事大徳院は、本山派、羽黒派を支配し、役銭の徴集権をもっていた。六石五斗〈註:先の「御支配帳」に記載の石高に「六斗五升」とあるので、それを誤りと見ているのでしょう〉という表高だが、実収入は五十石以上あったろう」とあります。
 また、慈聖院には『慈聖院文書』があること、『齋部(いんべ)秘伝神楽本紀』という和綴冊子があるとのことです。
 教えてもらうことが多くあり、長く引用しましたが、江戸以前の慈聖院に関しては「慈聖院の祖大五郎は、上野右近の奥方の医師として出入りし云々」があるくらいです。
 慈聖院の祖大五郎が、『郷土誌』系図の「大隠院舜亮(大五郎)」であれば、「円宥(孫右エ門)」から二代後の三代目となり、慈聖院の先祖にあたります。
 三代目も上野右近の同時代人ということになりそうです。
 大五郎淵については、「遠野 大五郎淵」で検索すると、ブログ『不思議空間』に『遠野不思議 第三百九話「大五郎淵」(2007-02-25)』があって「1541年、安倍大五郎清延が忠義の為に、この淵に身を投じて自害したというが、別の説には阿曽沼に反して怒りを買い、スノコ巻にされて淵に投げられたと云う。それから大五郎淵と呼ばれるが、真意の程は定かではない」があり、異なる内容が記されていました。

*《準備》で見たように『御領分社堂一』の「遠野年行事/大徳院并支配/羽黒派」に「一 月山権現 一間半二間かやふき 別当 慈聖院/社領七石八斗八戸弥六郎寄附/一 古四王権現 三間四面八尺間かやふき」がありました。「古四王」の表記です。
 古四王権現のほうが月山権現より大きい社殿を持つようです。鶴曜寺の記載がありません。
 「一 古四王権現」のほうには別当名が記されていませんが、これは「一 月山権現」に同じ別当ということの記載方法と思われます。
 「大徳院并支配」の項目中に、「一 観音堂 三間四面かやふき 別当 善行院/一 神明社 一尺四方板ふき」があり、また「一 本宮八幡社 一間ニ七尺板ふき 別当 良厳院/一 若宮八幡社 二間ニ三間かやふき/但し寛文二年本宮より勧請、社領拾石八戸弥六郎寄附/諏訪明神 二間四方かやふき」があります。
 大徳院は、最初に記され「一 遠野権現 二間四面萱ふき 別当 大徳院/一 賀茂明神 五尺四方板ふき/縁起御座候、社領六斗五升八戸弥六郎寄附/一  稲荷大明神 一間半四面板ふき/一 松尾明神 一間半四面かやふき/一 三日月堂 二尺四方板ふき」があります。「社領六斗五升」とあります。

◇岸昌一編『御領分社堂(南部領宗教関係資料1)』(岩田書院 平13)の「序にかえて」に「各巻の構成は/第一巻 修験持社堂 六八三社/第二巻 寺院・社人持社堂 三七五社/三巻・四巻・五巻 地域に分割した俗別当持社寺 一三二六社」とあり、「第四巻の地域 大迫通 遠野通」とあります。
 また、『御領分社堂』は「特定の年代(宝暦十三年(一七六三))を区切りとする資料である」とありました。
 『御領分社堂二』では、「閉伊郡 綾織」として「一 白山大権現 一尺五寸四面板ふき 光明寺持/由緒・年代共ニ不相知」が記されていました。
 『御領分社堂四』の「八戸弥六郎知行所社堂」項目は「綾織村 一  権現 俗別当 彦兵衛」から始まり、綾織村で稲荷社が二十五社、葉山権現・熊野権現三社・愛宕権現・宝量権現・出羽通権現・日沢権現・白山権現、観音堂二社・大日堂・阿弥陀堂・文殊堂、八幡社四社・神明社二社・熊野社・一王子社・山神社・荒神社・庚申社・八王子社・水神社、駒形明神二社、弁才天二社、瀧明神、瀧不動、等が記されていて、みな俗別当です。
 綾織の駒形明神の一社に続いて記されている弁才天の一社には、「弁才天 俗別当 伊兵衛/旧号神成御前」とありました。弁才天ですし、神成淵と関係があるのではないでしょうか。
 綾織村に続いて鱒沢村が記され、小友村、細越村・他が記載されています。
 小友村に「一 観音堂 俗別当 正左衛門/社領三石八戸弥六郎寄附」があり、細越村に「一 日出明神 俗別当 四郎兵衛/社領三石八戸弥六郎寄附」があり、俗別当の奉祀社への社領付与が記されているのはこの二社です。
 また、小友村には「一 篠権現 俗別当 助十郎/旧号疱瘡神」続けて「同村 一 薬師堂 同 三之助」がありました。
 「薬師」は小友村の俗別当の祀るこの一社しか見受けられませんでしたし、修験の奉祀する中でも「薬師」と記されたものは見受けませんでした。
 『御領分社堂四』の「遠野」項目を見ますと、「一 月山権現 羽黒派 慈聖院/社領七石八斗八戸弥六郎寄附/一 胡四王権現/由緒不相知」とあり、「胡四王」の表記で社殿の大きさは記されていません。
 また、「一 観音堂 羽黒派 善行院/由緒不相知/一 神明社/右同」、「本宮八幡社 〈空白〉  良厳院/右同〈由緒不相知〉/一若宮八幡社/寛文二年本宮より勧請、社領拾石八戸弥六郎寄附/一 諏訪明神/由緒・縁起不相知」とあり、「一 熊野権現 本山派年行事 大徳院/一 賀茂明神/社領六斗五升八戸弥六郎寄附/一 稲荷大明神/一 松尾明神/一 三日月堂/右五社由緒不相知」とあり、『御領分社堂一』とほぼ同じ内容ですが、大徳院で遠野権現ではなく熊野権現になっています。社領は「六斗五升」と同じですが、他の社領と単位の桁が違いますが、これでよいのでしょうか。

F阿部家と胡四王
*阿部家が綾織に居住する以前に住した土地に関連して「胡四王」が見えているということは、綾織の胡四王薬師を奉祀する以前から胡四王を祀っていた修験者だったという可能性があるのかもしれません。
 ただ、慈聖院は田畑山林など多く所有していたそうですので、阿部家が土室周辺から綾織に移ったとしても土室の土地を手放す必要がないならば、自家の土地として維持していたでしょう。
 綾織で阿部家が胡四王薬師を祀るようになり、阿部家が胡四王を屋号とすることで、土室の土地が阿部家の土地として胡四王平とか胡四王畑と称されたということはあり得ることと思います。

 そうなると、「神社碑文」から綾織の胡四王薬師堂の始まりは上野広吉と関係づけて想定することができるにしても、阿部氏・阿部家が胡四王を祀ったのが、土室に移住以前からか、土室移住後か、綾織移住後か、不明です。
 阿部氏と胡四王とが関連を持つ例として記録する事例かと思います。あるいは、自らをコシオウと同一視する例として。

*『町村誌』に、光明寺内にある天文年中の彫刻という三尺程の木像四天王立像を「胡四王」と記していました。四天王像は胡四王の像と受け取れると思います。
 そうであれば、その四天王像は、元から光明寺に安置されていた仏像ではなく、胡四王薬師堂で祀っていた四天王像ではないかと思います。明治の神仏分離で光明寺に移されたのでしょうか。
 綾織の胡四王薬師堂と四天王が結びつく事になります。

◇「胡四王神社考 =稗貫郡矢澤村=」(小原無学 所収『奥羽史談』第2巻 第2号 昭和26年5月10日発行)〈国立国会図書館蔵書:奥羽史談ー復刻版 複写〉の「四、胡四王に関する諸説の研究」中に「上閉伊郡綾織村胡四王神社にも行って調査をしたが、やはり本尊は薬師如来で四天王と不動尊を祀って居り、山の名は月山、坂の名は薬師坂と云い、今は祭神は月読命である。そしてお堂は北向きである」があります
 月山神社ではなく胡四王神社と記しています。
 まさに駒形神社ヘの合祀前の姿を伝えてくれています。
 そこには、四天王が祀られていたそうです。この四天王像は光明寺の四天王像とは別の像なのだろうと考えるのが普通かと思いますが、もしかすると四天王像は胡四王薬師堂から光明寺に移され再び胡四王薬師堂に戻されたという可能性はないでしょうか。
 昭和の駒形神社との合祀によって、薬師如来・四天王・不動尊はどうなったのでしょうか。

*同書「二、矢沢村胡四王社の祭神」中に「薬師如来と持國多門の二天を祀ったことが明らかである。現在社務所内に寶物として秘蔵されてある佛像を見るに、持國多門の外にもう一つの天王像がある。増長天か廣目天かであろう。三像何れも高さ二尺二三寸で彩色を施されたものである」があり、同書項目「四」中に「矢澤村胡四王社を実地に調査したが、前の祭神の所で記した様に、現在四天王の中三天王あり、其他に朽頽した佛像の中にも四天王の恰好した佛像があるのを認めた。是は最初に祀った四天王の一が残ったのであるとも思われるから四天王説に合うのである」があります。
 綾織の胡四王薬師堂と花巻の胡四王神社とに、胡四王権現、本地薬師、四天王、北向きと共通する要素があるように思います。

G上野広吉
*「神社碑文」の最初に、「社元上野丹波守祀薬師」と草創と創建者名と薬師が記されています。
 このことも他の資料に見えないようですが、月山神社側の認識としてあるものなのでしょう。
 《準備》でブログ『「じぇんごたれ」遠野徒然草』ー「上野右近廣吉」の記事に触れていますが、その記事中に月山神社跡の石碑に彫られた文字に上野丹波とあることを示して「上野丹波、すなわち上野広吉に関わりある地であることはたしかなようです」がありました。〈現在、このブログは『じぇんごたれ遠野徒然草 改』となっています〉
*上野広吉も阿曽沼広長追い落しの主要人物の一人とされています。
 『市史一』ー「第三編ー第三章ー一・1 上野広吉の身分」は「阿曽沼氏時代において、遠野最大の事件といえば、それは阿曽沼氏没落の政変事件である。すなわち、慶長五年(1600年)遠野阿曽沼氏第十三代の広長が、盛岡藩主南部利直の後援する一族の鱒沢左馬之助広勝、上野右近広吉、平清水平右衛門駿河の三人のために横田城を追われ、ひいては、後日遠野領を南部領に併合させた最大の政変事件である」から書き出されています。この項は、広吉が広長の弟であるか叔父であるかも扱っていて、慶長五年当時に広長は三十歳前後で広吉は五十歳前後と想像されるとあります。
 同書・同編ー「第四章ー二 阿曽沼事件の論功行賞」に、南部利直が上野「丹波を右近と改名させ」たとあり、「上野右近は、従来綾織谷地館で二百石を領していたのだが、これを遠野城〈横田城〉に住居することを許すとともに、その知行を十倍の二千石に加増し、南部譜代の大身同様の待遇を与えた」とあります。
 元和年中〈1615〜1619〉に上野右近が没すると、跡継ぎの男子がないことから知行二千石を取上げられ、上野家は一次絶家となったとのことです。
 先に見た『町村誌』ー「綾織村」ー「上野館」には「廣吉が廣長の弟」とありますが、廣吉が上野館にあった年代を天文年中から弘治三年とし、その後に「谷地館 大字上綾織字舘神にあり」に移ったとあります。
 そうすると上野広吉は、天文年中からでも弘治・永禄・元亀・天正・文禄・慶長・元和年中までの六十年もの間上野家の主であったことになります。
 『市史四』ー「第七編ー第一章ー三 寺院」の「昭牛山光明寺」に永禄三年〈1560〉に「大久保(括弧内・略)に光明寺という廃寺と古仏(同・略)の像があるのを聞き、丹波広吉の帰依により寺跡に小庵を建て、永禄十二年師の文誉を招いて開山し、光明寺とした。天正十二年(1584年)第二世禅山 □〈コウ;摩の手が香〉吉の代に丹波の要請で、大久保から現在地に移し」とあります。
 永禄三年は上野館から谷地館に移ったあとになります。
 ネットの有料地図で住所を探すと、綾織町上綾織舘神は岩手二日町駅の周辺のようですし、綾織町みさ崎に近い国道396号線付近に下綾織の大久保・下大久保があるようです。

*石碑の「上野丹波守祀薬師」が行なわれたとすれば、上野広吉が上野館に居住していた天文から弘治三年までの間のことではないかと思います。そうすると、早くても1532年を遡らないと言えそうです。
 薬師を祀ったのが月山神社(旧胡四王薬師堂)の草創であれば、戦国時代の草創となり、『市史一』の「阿曽沼初期の社寺」の記述とは合わないように思います。
 「上野丹波守祀薬師」というのは、上野広吉が薬師を勧請して祀ったということでしょうから、その祭祀を修験者の阿部氏が担うことになったのが、下綾織の月山神社跡地での祭祀の始まりということでしょうか。
 阿部家が胡四王権現を祀る修験者として活動していたことで、上野広吉から薬師の祭祀を託されたのでしょうか。
 その事から、薬師と胡四王が習合していったのでしょうか。
 あるいは、阿部家の祀る胡四王権現は薬師を本地とする習合がなされていたのでしょうか。
 または、勧請の薬師は、そもそも、胡四王権現・本地薬師如来として胡四王権現と習合した形で、上野広吉によって勧請され、その薬師の祭祀を修験阿部家が託され、阿部家は胡四王を称するようになったのでしょうか。

H胡四王薬師堂と花巻の医王山胡四王寺 
 これまでの記事では資史料の無い想定を多く記していますが、さらに想定を重ねれば、綾織に胡四王薬師堂が置かれたのが上野広吉の上野館時代であれば、花巻の医王山胡四王寺と関係があるのではないかと思うのが自然ではないでしょうか。
 まったく無関係に成立したとは思えません。
 胡四王権現と本地薬師如来という信仰形態も四天王を祀るのも似ているのではないかと思います。
 医王山胡四王寺の胡四王権現・本地薬師如来の信仰があって、綾織の胡四王薬師堂が祀られた可能性は大きいと思います。 
 阿部家は何らかの形で上野広吉と縁があったか、あるいは上野広吉に本地薬師如来の胡四王権現の勧請を勧めて受入れられたか、それによって土室峠から綾織に移って、胡四王薬師堂を奉祀し、胡四王を屋号とする修験阿部家となった。
 その後、鱒沢守光の月山勧請があり、南部直栄移封後に月山権現に大きな社領を付して阿部家に別当を命じたことで、修験阿部家は遠野の羽黒派修験の頭襟頭の一人になった、のではないかと想定します。
 阿部家に別当を命じた背景に、上野広吉勧請の薬師を奉祀する修験ということがあったのでしょうか。

 また、『八幡宮誌』によれば「上鱒沢の善行院」について「鱒沢左馬之助広勝の御用山伏だったろう」としていて、慈聖院と並んで「羽黒派の頭襟頭」で「三石六斗」の石高とあります。
 上野広吉に縁があったろう慈聖院と鱒沢広勝に縁のありそうな善行院が、共に優遇されているようにも思えますが、南部直栄移封後の領地経営に関する処置だったのでしょうか。

I他 
*「神社碑文」の享保四年の「著破壊舜興新築之」は、他の資料に見えず、何故に破壊となり新築になったのか不明です。

 不明なことばかりですし、駒形神社に関する事などで触れていない事もありますが、ここまでにしておきたいと思います。
                                          《 2026−01−06 》

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