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探訪記録   岩手  4  小鳥谷


探訪の基本情報
《桑原リスト ◎二戸郡一戸町小鳥谷(こずや)   胡四王堂(小正堂)

*現在の状況
 住所を調べると、二戸郡一戸町小鳥谷小性堂(こしょうどう)がありました。
 住所表示では「小性堂」ですが、国土地理院の2万5千分の1地形図には「小姓堂」の記載がありました。

《探訪の準備》
*webサイト『小鳥谷地区の歴史』に教示を受けることが多くありました。
 〈 https://sites.google.com/view/kozuyanorekishi2022/home 〉このリンクが不調であれば、標題で検索してみて下さい。
 『小鳥谷地区の歴史』の中の「小鳥谷地区の神社」記事では小鳥谷地区の神社に関する記録のまとめが年代・文献ごとに表にされ、各神社についての解説がなされています。
 同サイトの「地名の記録」も参考になります。

 このサイトを知ったのが2013年5月で、2017年に探訪準備段階の記録にその記事を引用させていただいておりました。
 探訪準備を記事にするにあたって、サイトをあらためて拝見させていただきますと各神社の解説記事の内容が2013年と2020年では異なるところがありましたので、現在の解説記事の「御小性神社」の部分から引用させていただき、そこに年代・文献ごとの表による補足を〔キッコウカッコ〕により加えてみたいと思います。〈改行は当方による〉
 「●御小性神社 小姓堂にある神社で、江戸時代の記録は小鳥谷郷社となった八幡神社よりも多く存在する。表のA7、B6,C1,K1,D1,E2,F1,L1,G5はすべて御小性神社を示している。
 藩の記録である御領分社堂〔宝暦十三年・1763〕は小沼明神とし、本地(本地仏・本来の仏)は薬師(如来)としている〔A7〕。享和二年(1802)の東案内記でも『小性薬師』と記載されている事から、ほぼ同じ内容と推定される安永四年(1775)の奥筋行程記も同様の記載があると推定される(地名辞典の引用文にこの部分が無いため確認できていない)。
 菅江真澄〔天明八年「岩手の山(委波底廼夜□)〈マ・摩の手の部分が幼の左側〉」〕は秀衡を祀っているとし〔C1:故将堂(いま小姓堂)〕、御小性神社内の石碑〔文政十年〕には『光枩大明神』(光松大明神)〔F1〕とある。ちなみに、伊能図(地図)には小姓堂(地名)の事を光松堂と記載している。
 北奥路程記〔幕末〕や東山志云〔享和元年〕では胡四王としている〔東山志云;小正堂の祠あり、胡四王にもつくり、村名にも呼ぶ、昔、京方より流罪の君達三十八人、下向の故迹の由にて、今に其墓あり。(大日本地名辞書より) D1:小正堂 ※「今に其墓あり」というのは、御小性神社の北の畑の脇にある宝篋印塔(一戸町文化財・小姓堂宝篋印塔)の事であると推定される。〕〔北奥路程記;D5:胡四王(小姓堂)『小姓堂 家七棟 入り口鳥居あり、胡四王なるべし』〕
 小鳥谷村郷土資料 大正14年(1925)によると、『往事ハ北面セル四間四面ノ堂宇アリテ二町ニ余ル参道両側ニ老杉…、今ヤ…二尺四面ノ小祠ヲ残シテ復昔日ノ面影ヲ留メズ』(花巻市博物館だより第19号平成20年10月コラムより)とあり、一戸町誌には次のような伝説が記載されている。『故なき罪にとわれ都を追放された、さるお方の小姓がこの地にたどり着き、病死。里人がその亡骸を葬り、お堂を立てて小姓堂と呼んで祀った。現在でも病気平癒の霊験あらたかな神様』御小性神社北側の畑の脇に小鳥谷地区で唯一現存する宝篋印塔があり、それが『さるお方の小姓』の墓という話もあるようだ。
 御小性神社について最も古い記録は、宝暦十三年(1763)に盛岡藩が作成した『御領分社堂』であるが、元禄四年(1691)にこの地を訪れた丸山可澄の『奥羽道記』に『後生堂村』という地名がある事から、御小性神社が元禄時代には存在していた可能性を示している。小姓堂の地名の由来がこの御小性神社である事を考慮すると、『後生堂村』の記録から元禄時代には既に神社の御堂が地名化していた事になり、小性神社の創建は中村の熊野神社と同様に、江戸時代より前(室町時代)に遡る可能性が考えられる。
 一戸町誌によると、御小性神社の分社が野中と穴久保にあるという。野中の大光神社と穴久保の御小性神社の事であると考えられる」とあります。
 さて、御小性神社について最も古い記録が、宝暦十三年の『御領分社堂』であるとすれば、A7の小沼明神はコショウミョウジンと読むということなのでしょう。
 また、光松大明神もコショウダイミョウジンなのでしょう。
 A7の記載内容は「A7:明神社 内堂 一尺五寸四面板葺、鞘堂弐間四面茅ふき 俗別当・寅之助。右は小姓堂ト申所小沼明神本地薬師ニ御座候由承伝候得共、由緒・縁起無御座、建立年月相知不申候」とあります。

 熊野神社についての解説記事に、「●熊野神社 天文七年(1538)の米良文書(米良氏は那智の御師)によると、奥州一戸の旦那衆の中に安倍丹後守という名前が記載されている。小鳥谷氏も安倍氏の一族と推定され、当地の熊野信仰は室町時代に遡る事が可能と考えられる。その盛んな熊野信仰の名残なのか、小鳥谷には熊野神社が中村・篠畑・穴久保の3箇所に現存する。〈略〉」があります。

 地名としては小姓堂で神社名は御小性神社とする区別があるようです。
 文字表記が定まらない状態が見受けられますが、コショウと呼ばれ続けてきたようです。文字に親しみのない人々によって祀られてきたのでしょうか。
 御堂名と地名が結びついているので、地名のあったところに御堂が祀られたということではないのでしょう。
 江戸時代も後期になると情報の流通が盛んになるためでしょうか、「胡四王」の表記が表われてきているようです。
 矢澤(花巻)の胡四王堂の存在があるのでしょうか。
 「御小性神社」という名称表示は、寒河江市谷沢の「御小姓神社」と類似性を感じます。
 〈「探訪記録 山形 村山2」に記事があります 〉

 コショウ明神の本地が薬師如来と宝暦の段階で言われています。
 安倍氏の関連も出てきています。

*2013年5月、webサイト『街道写真紀行』の「516 一戸町小鳥谷・小性堂」に「野中神社」次に「小性堂集落」次に「小性堂神社」と題された写真があります。「小性堂神社」写真に「小性堂集落外れの崖下にある小さな神社。」と記されていました。

 2017年に入って、岩手を訪ねようとあらためて資料に当たりました。
 『街道写真紀行』には「515 一戸町小鳥谷・野中」の記事に「野中大光神神社」と題された写真があり「赤い鳥居の額束には、『大光神』と書いてあった」とありました
 ストリートビューで、小性堂の集落の丁字路〈「ここは小性堂 奥州街道 一戸町」の標柱がある〉から北に進むと緩いカーブになりガードレールの先の道路右側の木立の中に小さな赤い鳥居が見えます。
 これが『街道写真紀行』で「小性堂神社」と題された写真の神社と思います。
 同じく『街道写真紀行』で「野中神社」と題された鳥居は、ストリートビューでは小性堂集落の南の野中へ向う急カーブの所にありました。
 ストリートビューで、「野中大光神神社」と穴久保の御小性神社と思われる神社を見ることができました。
 それぞれの場所は、国道4号線小鳥谷バイパスの「姉帯入口」交差点を北に160メートル程行った左側にあるのが「野中大光神神社」で、「姉帯入口」交差点を西に行き穴久保集会所の近くにあるのが御小性神社と思われます。

*2020年にネットの有料地図を見たところ、神社名が記されていました。
 それによると、小性堂集落の南のカーブの所の神社が「御小性神社」とされていました。
 野中の神社は「大光神」とあり、穴久保の社は「御小性神社」となっていました。
 ストリートビューの地図画面では、やはり小性堂集落の南のカーブの所が「小性堂神社」で、野中の社は「野中神社」とあり、穴久保には神社名の記載はありません。
 大正14年の小鳥谷村郷土資料に「参道両側ニ老杉…」とあり、北側の畑の脇に宝篋印塔がある神社が御小性神社ということになるのでしょう。

 知られている情報の限りでは、小鳥谷の御小性神社は太平洋側の一番北に鎮座するコシオウ社となります。
 また、小鳥谷に分社が二社あるとのことですので、地域での信仰が厚かったと思われます。

*国会図書館のデジタルコレクションで『南部叢書』等に当たることで「小鳥谷地区の神社」記事にあげる文献の幾つかを見ることができ、図書館や現地に出向かなくてもある程度のことが確認できてしまうことに驚いた次第です。

*「小鳥谷地区の神社」記事の「東山志云」の内容欄に『大日本地名辞書より』とありましたので、『大日本地名辞書』を見ますと、「小鳥谷」の項目に「〇東巡録云、〈略〉小鳥谷村に至りて小憩、扈從堂坂を登り、日陰坂に至る、〈略〉」とありました。
 デジタルコレクションの『東巡録』・「巻之二」に「小鳥谷村至リテ上里太蔵ノ許ニ 御小憩、扈從堂坂ヲ登リ日陰坂ニ至ル」とありました。
 「コショウ」に、『東巡録』だからこの文字を選択したのかもしれませんが、「扈從」の文字を当てることがあることと知り、福島県川俣町の「小徙王神社」の表記を思いました。
 ただ、国会図書館のデジタルコレクションで『明治天皇岩手乃行幸』の「第九章 二戸郡」を見ると「小鳥谷村ニ至リテ上里太蔵方ニ 憩ハセ給フ 少時ニシテ 御発輦堂坂ヲ登リ日陰坂ニ至ル」とあります。
 「輦堂坂」は「扈從堂坂」と同じ場所でしょうか。「輦堂坂」はレンドウ坂でしょうかコシドウ坂でしょうか。

*菅江真澄『岩手の山』(菅江真澄遊覧記2・東洋文庫68・平凡社・昭和41年初版ー昭和48年第八刷による)を見てみますと、当該部分は「小鳥谷コジヤ(二戸郡一戸町)という村で食事をし、昼寝をして、さらにあるいていくと故将堂コショウドウ(いま小姓堂と書く)というのがあった。よそにもある堂の名だが、ここでは秀衡をまつっているという」とあります。 
 『南部叢書・第六冊ー眞澄遊覧記』で「委波底廼夜□〈マ〉」を見てみますと「小鳥谷といふ村に、ものくひひるねしてくらは、故将堂といふあり。ことゝころにも聞へたれと、こゝには、秀衡を祀りたるとか」です。
 故将堂をよそにもある堂の名としています。どこにある堂の名なのでしょうか。
 (いま小姓堂と書く)というのは原文には無く、東洋文庫版での補注のようです。
 故将堂と記されていたのでしょうか、地元の方が示した表記でしょうか、菅江真澄が聞いた堂名にこの文字を当てたのでしょうか。
 秀衡を祀るというのは、地元の方の言ったことなのでしょうか。
 宮城県白石市斎川の古将堂〈田村神社〉が念頭にあって、よそにもある堂の名としたのでしょうか。

 橘南谿の『東遊記・巻一』の「甲冑堂」に「俗に甲冑堂といふ。堂の書附には故将堂とあり」とあります。
 東遊記は寛政七年(1795)に刊行されていますが、奥州への旅は天明5年から6年のこととあります。
 『岩手の山』が天明八年(1788)の日記とのことですので、その頃「故将堂」と書かれていたのでその表記がされているのではないでしょうか。

 『南部叢書・第三冊』で『平泉雑記』(相原友直 安永2年・1773)を見ますと「巻之二・十四 越王堂」に「越王堂刈田郡齊川村ニアリ二女ノ木像アリ、烏帽子ヲイタゝキ鎧ヲ着シ右ニ弓箭ヲ執リ左ニ刀ヲ提ゲタリ、田村麿・鈴鹿神女ナリト云うリ、又一説ニ佐藤庄司継信・同忠信ガ妻ノ像ナリト云〇一説古四王堂ト書リ、鐙毀坂ノ下ニアリ堂ニ木像二體アリイヅレモ烏帽子ニ鎧ヲ着テ壇上ニ腰ヲ掛、一體ハ弓矢ヲ持継信・忠信カ妻ト云、一説ニ賀茂次郎・新羅三郎ノ影像也、東夷此人ヲ畏ルゝ故ニ此の像ヲ立テ夷狄ヲ鎭伏セシムト、又驛夫ノ物語ニ此堂昔越河堂ト云ケルヲ何ノ頃ヨリカ古四王堂ト云ナラハスト古老ノ説アリト云」とあります。
 越王堂と題して、文中には古四王堂とあります。また、昔越河堂ト云ケルがあります。
 鐙摺坂があります。

 『大日本地名辞書』の「陸前 刈田郡」に「越王堂コシワウ」を見ると「今、齊川村に在り、或は古将堂コシヤウにつくる。蓋、越君の祖、大彦命を祭る所にして、〈略〉 〇封内記云。古将堂。土人曰之越王堂、山上又有石宮。〈略〉」があります。

 どうなっているのでしょうか

 『岩手の山』の初めのほうにも「仙台にいき」と記してあるところがありますが、菅江真澄遊覧記2の解説の「仙台の旅」によると、天明六年の八月から九月に松島・多賀城・仙台の町まで出かけていますので、白石までは行っていなくても、故将堂のことを聞いていた可能性はあるのではないかと思います。
 『岩手の山』によると、花巻に泊まり翌日は石鳥谷の宿に泊まっていますが、矢沢の胡四王堂のことは出てきません。
 菅江真澄遊覧記1(東洋文庫54・平凡社・昭和40年初版ー昭和46年九版)に『けふのせば布』を見てみます。この日記は、天明五年の秋の旅で、石鳥谷や花巻のことも記されています。
 花巻の医者伊藤修宅に9月10日から泊まって27日に出立している模様ですが、稗貫郡矢沢のことも胡四王堂のことも出てきません。
 矢沢の胡四王堂のことを知っていれば、よそにもある堂の名は胡四王堂になったかも知れないと思います。

*また、「小鳥谷地区の神社」記事の解説に「花巻市博物館だより第19号平成20年10月コラムより」とありました。
 花巻の資料として、花巻市のホームページの花巻市博物館のページからPDFをコピーしておりました。
 コラムは、「古四王神社と菅江真澄」と題され「〈略〉江戸時代後期の国学者であり、紀行家でもある菅江真澄は、北陸から東北地方を旅行した際に古四王神社に注目している。菅江は、新潟県新発田市の古四王神社について『古四王は四天王ではなく、越王』とする考えを述べている。この菅江の見解が、明治時代から現代にも引き継がれ、古四王神社の由来の有力な説となっている。〈略・小鳥谷に関する記述〉胡四王神社に関心を持っていた菅江真澄が、小鳥谷の小姓堂に余り関心を示していないのは、当時すでに小祠を残すだけとなっていたからではないだろうか。〈略〉」とあります。
 はたしてそうでしょうか。
 「古四王は四天王ではなく、越王」の記述のもとにあるのは、『高志の栞』からのものと思われますが、この書は文政二年〈1819〉の是観上人の高志路の日記の引用で始まり、その日記の中で新発田市の地元の神官の話として「古四王にはあらず、越皇なり」があることで、それが菅江真澄の主張のように扱われるもとになったと思います。
 菅江真澄は、おそらく是観上人の日記に触発され、かつて新発田を訪れたことを思い返し、秋田にいたこともあって、古四王に対する認識をあらためていったのではないかと、個人的には考えています。
 天明の段階では故将堂(コショウドウ)をコシオウと関連付ける発想はなかったのではないでしょうか。
 菅江真澄の『高志の栞』については、「探訪記録 新潟1」をご覧いただければ幸いです。


 カシミール3D・解説本の地図    御小性神社ー候補地1  御小性神社ー候補地2  
 〈地図は小鳥谷バイパス開通以前〉  野中の大光神社  穴久保の御小性神社


《追記 2020−06》
*webサイト『小鳥谷地区の歴史』の「サイトのオーナー」様より、御小性神社の位置・等をご教示いただきました。
 それによりますと、カシミール3D・解説本の地図に記入した「御小性神社ー候補地1」が正解とのことです。
 また、Googlemapの小性堂神社の位置に、御小性神社の360度カメラ映像を張り付けているとのことで、神社の様子を見させていただきました。


《 追 記 》
《探訪の記録》
〇2025年10月10日(金)午前
*二戸郡一戸町小鳥谷に御小性神社を訪ねます。
 国道4号線・小鳥谷バイパスで、いわて銀河鉄道の小鳥谷駅の西側を通り過ぎて、姉帯入口の交差点を左折して、目指す神社ヘ向いたいと思います。
 姉帯入口交差点を左折すると、南に向いて大きくカーブしていて、目的地のある小姓堂方面へはカーブした先で右折して北へ向うことになるのですが、カーブして道なりに進んで集落内の狭い道路にはいってしまったことで、意図せず穴久保の御小性神社に行きあたりました。
 先に、こちらに鎮座する御小性神社にお参りいたしました。

※穴久保の御小性神社
*一戸町誌に「穴久保の御小性神社」とあることで、そのように認識しておりましたが、ネットの有料地図を見ると、神社は「野中」と「穴久保」の境界の道路より北にあって野中側に位置しています。
 ではありますが、こちらに鎮座する御小性神社を示す際には「穴久保の御小性神社」と記させていただきます。

*集落に入ったと思ったら道路脇に樹木に覆われたように神社が見えて、これはストリートビューで見ていた神社だと気付きました。
 予期していなかったので神社を通り過ぎて、穴久保集会所前の空地に車を置かせてもらって、神社を訪ねました。
 神社横の穴久保と野中の境界になる道路を鳥居の前まで来て、鳥居の写真を撮っていると老婦人が通りかかりましたので、神社を訪ねてきていることを申し上げ、神社の事をおたずねしたところ、神社をお守りされている家を教えていただきました。
*お守りされているお宅〈以下、守護家〉をお訪ねさせて頂いて、各地のコシオウ様を訪ね歩いていること、こちらの神社をお参りさせて頂きたい旨を申し上げますと、わざわざ扉を開けて頂きお参りをさせて頂きました。 
 きれいに整えられている社殿内を拝観をさせていただきますと、奥側は三区画になっていて、柱二本で区画された中央部のその奥が張出部で神殿が祀られ、手前には鈴緒がさげられています。
 中央部の彫刻のある梁の上に大きな「社神性小御」とある扁額があげられています。
 大きな扁額の他に社額が数種あって、現在の「御小性神社」と異なる「小姓堂神社」の縦額や横額の「小性堂」表記もありました。
 表記の違う社額を目の当たりにしました。
 神社についてお聞きしますと、文献などの資料は伝わっていないそうです。
 参拝を終えて、社殿の写真を撮らせて頂きました。
 社殿の向きはほぼ真東です。 
 社殿扉の上に、厚板に右から左に「御小性神社」と書かれた社額があげられています。
 社殿には、左右の向拝柱の前の木鼻に注連縄の端を巻いて注連縄があげられており、ビニールで保護された紙垂があります。
 正方形と思われる社殿の背面に御神体を祀る部分であろう張出し部がある社殿建物です。
 丁寧に維持管理されている社殿のようです。
 鳥居は、張り出した樹木の枝に遠慮して建てられているような感じで、柱の下部がコンクリートのロウソク基礎のような作りになっており、柱下部を補修したのかもしれません。
 額束に縦書きの「御小性神社」額があげられていました。
 鳥居は、社殿の建つ境内地よりいくらか低い場所に建てられていて、境内地への数段の石段が設けられています。
 これは、神社横の道路が神社の手前側から奥に向って幾分かのぼりになっているためと思います。
 守護家様のご親切が無ければ、老婦人が神社守護家を教えてくれなければ、拝観することはかなわなかったと思います。
 有り難いことです。

※小姓堂の御小性神社
*来た道を戻って、人家のある方の道を通って小姓堂集落に向います。
 少し行くと、右側に民家が見えて神社らしい赤い屋根が見え、さらに進むと道の右側の奥の方に神社の後側が見えました。大光神社かもしれないと思いましたが、先に進みます。
 道路が馬淵川に突き当り左に曲がると狭い道がさらに狭くなり、そこを行き右側の介護老人保健施設を過ぎると、大きく右へカーブしていよいよ小姓堂に向います。
 カーブした先は、上り坂になり、左側にコンクリートや石垣の壁があり山が迫っていて、奥まってきたように感じました。
 上り坂が左にカーブしていくと、カーブの右側に空地があり、その先に朱色の鳥居が現れました。
 鳥居の前まで行ってみて、小姓堂の御小性神社前に到着したことを確認して、車を空地に駐車して、神社ヘ向うために、熊対策の熊鈴や熊スプレーなどの準備をしました。

*鳥居は、のぼり坂のカーブの先の道路の脇に、道路と同じ高さの場所に、道路に対して斜めに建っています。
 鳥居には注連縄があげられ、ビニールで包まれた紙垂が四枚さげられています。
 鳥居をくぐった先は地面が下って低くなっていき、そこに幟立てが左右に立っています。
 参道は幟立ての先に続いている模様ですが、左右に二本の道があり、右側(⇒)は木立の中を下る道で、左側(→)は少しのぼる開けた道です。
 左側に行ってみると、道が左に曲がり、その先には一戸町誌に記載されていたものと思われる宝篋印塔があるようですので、こちらは神社へ続く道ではないようです。
 右側の下っていく薄暗く見通しの悪い道を行ってみるしかないようです。
*熊スプレーを手に持って、坂道を下っていきますと、二行横書の「私有地につき/立ち入り禁止」の看板があって、その手前に左にのぼっていく道があったので、左の道に進みのぼり道を行きました。
 のぼると道は左にカーブして、右手の高くなった場所に社殿が見えました。
 社殿と境内地は右手の高台にあり、進んできた道は境内地に正面から向う広くなった道に至りました。
 境内地に向うのぼり道の左側に「御小性神社」の案内板が設けられていました。
 これについては後記します。

*境内地に向う道の右側の、境内地に入った所に立つ樹木の根元に四角形の壊れた手水鉢のようなものと自然石の碑のようなものがあり、その奥に社殿が見えます。境内地に向う道からは、正面よりもやや右によった奥に社殿があるようです。
 境内地は周囲が樹木に囲まれていて、曇り空のためもあるのでしょうが、薄暗い印象です。
 境内地の左側に石碑や屋根のかかった石碑や小祠などが見え、境内に入ると右側にも石碑や自然石の碑とおもわれるものが木々の間や根元にありました。
 境内地は丸く高台になっているようです。
 社殿に参拝し、社殿の扉の上部にあげられている横書きの社額を確認しました。この社額は、穴久保の御小性神社の社殿にあげられていた社額に似ていると思います。
 社殿の向う方位がほぼ真北であることを確認して、ぐるりと写真を撮って、引き上げました。
 ようやく岩手に来ることができて、熊対策をしつつ、実際に御小性神社の前に立つことができたことで、目標達成の気持ちになったようで、そそくさと帰ってしまい、小姓堂集落を訪ねなかったのが悔やまれます。

*宝篋印塔
 鳥居の所まで戻って、今度は左側ののぼり道に進み、宝篋印塔と思われる場所に向いました。
 畑のような場所の奥の方の一画に宝篋印塔が安置されているようですので、畑の中を行かせてもらって近づきました。
 宝篋印塔の脇の標柱に「一戸町指定有形文化財 小姓堂宝篋印塔」とありました。 

*大光神社
 小姓堂を離れ、来た道を戻って大光神社かもしれないと思った神社を訪ねました。
 民家の前の庭の奥に、神社の後側が見えていますので、先ず民家を訪ねましたがお留守でしたので、神社の正面に向いました。
 鳥居には、こちらも他の御小性神社と同じようにビニールで保護された紙垂をさげた注連縄があり、「大光神」の額があがっていましたので、大光神社で間違いないようです。
 鳥居の先の社殿は、鳥居の方に正面が面しておらず、鳥居から見て左側に正面を向けています。
 社殿には社額はあがっていませんでした。
 社殿の正面は、東南東を向いています。
 この神社が何故「大光神」と称しているのか。御小性神社の分社とされる根拠はなんなのか、知りたいと思うのですが、境内が民家と地続きになっていますので、民家の方がお守りされているのかもしれませんが、お話を聞けませんでした。
 この神社について情報を持っていません。 
 「大光神」表記と小姓堂の御小性神社の石碑の「光枩大明神」は、何か関係があるのでしょうか。 
 大光神社はグーグルマップでは「野中神社」とあり、ストリートビューでは国道4号線から見えていましたが、4号線の脇に草の茂った空地があり、空地と神社との間に側溝もあって、現在では4号線側から鳥居の正面に向う道は無いのですが、国道4号・小鳥谷バイパスができる前は鳥居の先に道があったのではないでしょうか。 

*御所野遺跡
 一戸町立図書館へ向う途中に、御所野遺跡に立ち寄りました。
 駐車場から、御所野公園へ向うための「きききのつりはし」は、「御所野縄文公園」A4三折りパンフレットに「駐車場と公園を結ぶ屋根付きの歩道橋。縄文の世界へと導く『タイムトンネル』でもあります」の案内がありますが、縄文公園に向う気持ちにさせる効果があると思います。
 橋の下は、小さな川がながれていて平坦部のある谷地形になっていて、水利ばかりではなく縄文の村を守る働きもある谷なのかもしれないと思わせます。
 御所野縄文博物館も展示に意匠を凝らしたものと思います。
 縄文の村の復元施設は、当時とは様相が違うのでしょうし、木が切られているのかもしれませんが、ひろびろとなだらかな丘陵で、気持ちのいい空間がありました。
 時間があまり取れず、東ムラを歩いただけで、中央ムラや西ムラまで足を伸ばさずにいたことが残念ですが、御所野遺跡を訪ねて良かったと思います。

*一戸町立図書館
 事前に蔵書検索をしておいた「小鳥谷郷土資料」「小鳥谷地区歴史資料集平成31年1月版」などを閲覧しました。
◇「小鳥谷郷土資料」は、手書きの文書のコピーをファイルしたもので、表紙に「小鳥谷村郷土資料(小鳥谷村誌)」とありますが、「小鳥谷村誌」の蔵書は無いとのことでした。
 国会図書館・岩手県立図書館などにも無いようです。
 同資料の「史蹟と傳説」の「小姓堂址」部分をコピーさせてもらいました。
 「史蹟と傳説」の記載の最後に「大正十四年二月 於小鳥谷小学校 鈴木」とありました。
◇「小鳥谷地区歴史資料集平成31年1月版」は、「はじめに」に「小鳥谷地区の主に江戸時代とその前後の時代についての歴史を調べ、インターネットの『小鳥谷地区の歴史』(URL略)で紹介しています。今回は、平成31年1月現在の記載内容を元に、印刷用としてPDFファイルを作成してみました」とあり、インターネットに公開のサイトの記事が元になっているものと分りました。
 当記事の《探訪の準備》の記述もこのサイトに依拠していると言っても過言ではありません。
 ウェブサイト「小鳥谷地区の歴史」のURLは変更(2022年)になっている模様で、当記事の「小鳥谷地区の歴史」へのリンクも変更いたしております。
 また、「小鳥谷地区の歴史」のYouTubeチャンネルも開設されている模様です。
◇『一戸町の遺跡(W)ー平成5年度町内遺跡詳細分布調査報告書−』(一戸町文化財調査報告書 第35集 岩手県二戸郡一戸町 一戸町教育委員会 平成6年3月)から、「小姓堂遺跡・同U遺跡・同V遺跡・同W遺跡・穴久保遺跡・野中遺跡』部分のコピーを取らせてもらいました。
 同書の「小鳥谷地区遺跡位置図」を見ると、小性堂神社の鎮座地は小姓堂遺跡・U・V・Wの範囲に含まれていないようです。


《探訪の整理》
※『一戸町誌 上』(一戸町誌編纂委員会、一戸町、1982)〈以下『町誌上』〉
 「第二編・第二章古代・第二節爾薩体征討」の項目「開拓期の奥北」に「毘沙門天は、県下に広く分布している。一方、古四王神社は、県下に当社のほか三社しかなく、県北では、小鳥谷の小姓堂神社だけである。この信仰は、秋田から入ったといわれ、かなり古い時代の信仰と思われる。〈中略〉越国から伝えられた日本海文化の所産であろう。後に、毘沙門天信仰とともに、開拓期の北方の守護神として、信仰が普及したものと思われる」を記しています。
 〈「県下に当社のほか三社しかなく、県北では、小鳥谷の小姓堂神社だけ」とありますが、「当社」の記述より前に当社についての記載がありません〉
 これは、岩手県の古四王神社についての定説的記述であろうと思われます。
 古四王神社の分布のなかでの岩手県という位置づけと、信仰のかたちを「開拓期の北方の守護神」としているようです。
 昭和57年の町誌で「小姓堂神社」とあります。

※住所表記について
*先ず、住所の「コショウドウ」の表記について検討しておきたいと思います。
 本記事の最初の方に「*現在の状況/住所を調べると、二戸郡一戸町小鳥谷小性堂(こしょうどう)がありました」と記していますが、これはネットの有料地図(いつもNAVI PC)の住所検索によるものです。
 この地図には、2020年に見た時には小性堂集落の南に御小性神社の表示がありましたが、2025年10月段階では神社名は記されていませんでした。穴久保と野中では神社名の表記があります。
 Googleの地図では、ストリートビューや名前の記されている場所の写真などで、探訪の事前準備が大変に助かっていますが、地名は「小性堂」で神社名は「御小姓神社」と表記されています。
 地図情報によって記事を記述する際は、地図の表記を使っていて、それ以外では地名表示は「小姓堂」と記してきたつもりですが、混乱は免れないと思います。
 国土地理院の地図では「小姓堂」とあったことは既に記していますが、ネットで調べると『国勢調査町丁・字等別境界データセット』〔クレジット:『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)「令和2年国勢調査町丁・字等別境界データ」(e-Stat)を加工 doi:10.20676/00000450 〕では「岩手県一戸町小鳥谷字小姓堂」とありました。
 『一戸町の遺跡(W)』に「小姓堂遺跡」とありました。
 また、ネットで「小姓堂」「穴久保」「野中」姓を検索するとそれぞれの姓が存在しましたが、「小性堂」姓は見当りませんでした。

*本記事での表記
 これらを踏まえて、私は住所表示としては「小姓堂」を用いたいと思います。
 神社名の表記は、神社に社額があげられていれば、その表記に従いたいと思います。
 よって、小鳥谷小姓堂の御小性神社となり、小鳥谷「穴久保」の御小性神社となります。

※《探訪の準備》についての補足
*本記事の《探訪の準備》〈以下《準備》〉の以下の記述部分について補足をしたいと思います。
 その記述部分は「小鳥谷村郷土史料 大正14年(1925)によると、『往事ハ北面セル四間四面ノ堂宇アリテ二町ニ余ル参道両側ミ老杉・・、今ヤ・・二尺四面ノ小祠を残シテ復昔ノ面影ヲ留メズ』(花巻市博物館だより第19号平成20年10月コラムより)とあり」の部分と、それに続く「一戸町誌には次のような伝説が記載されている。『故なき罪にとわれ都を追放された、さるお方の小姓がこの地にたどり着き、病死。里人がその亡骸を葬り、お堂を立てて小姓堂と呼んで祀った。現在でも病気平癒の霊験あらたかな神様』〈略〉」の部分です。

@先ず、御小性神社についての情報の『往事ハ北面セル〜面影ヲ留メズ』を見ていきます。
 当該の花巻市博物館だよりのコラムは「古四王神社と菅江真澄」と題するもので、菅江真澄の小鳥谷の「故将堂」についての記述を受けた形で「小姓堂」についての記載があり、文面は「この『小姓堂』は、別の資料によると『往事ハ北面セル・・・・留メズ』とある。(大正14年小鳥谷村郷土資料)」となっているものです。
 これを『小鳥谷地区の歴史』は「小鳥谷村郷土史料 大正14年(1925)によると、『往事ハ北面セル・〈略〉・・』(花巻市博物館だより〈略〉コラムより)」として、資料名を先に記して引用コラム名をあとにして記述したものです。

*「小鳥谷村郷土資料(小鳥谷村誌)」
 その「小鳥谷村郷土史料 大正14年による」というのは、一戸町立図書館で閲覧・複写した「小鳥谷村郷土資料(小鳥谷村誌)」中の「史蹟と傳説」の「小姓堂址」部分のことになると思います。
 同書の「小姓堂址」を引用いたします。
 〈カタカナをひらがなに、一部の旧字を新字に変え、文の区切りと思われる所を空けています〉
 「小姓堂址は小鳥谷村字小姓堂にあり 北行する旧国道より東南に右折して高丘あり 即ち古の小姓堂址なり 往事は北面せる四間四面の堂宇ありて 二町に余る参道の両側に老杉蓊鬱として森厳神秘の霊場たりしと言ひ傳ふ〈段落・改行〉
 明治維新に際して社殿毀つに委せて顧みず 剰え明治二十五年の頃鉄道敷設に際し境内の一角を掘り割ること十数丈 而して伐採せられたる参道の老木数十幹 今や荊棘の間に二尺四面の小祠を残して復昔日の面影を留めず〈段落・改行〉
〈略1:高貴の方の落胤で容姿も常人と異なる流罪の御小姓に関する口碑についての記述があり〉
 郷人議して此地に〈死した御小姓を〉葬り一基の碑を建て更に南側の高丘に堂宇を建立す  碑石今尚畑の一隅にあれども一字の識別すべきものなし  堂宇廃絶に帰せしより別堂の奥座敷に仮りの御姿(木版に神の像を彫刻せるもの)を鎮座して日夕礼拝するに腹痛治医の霊験著しきものありといふ  岩手青森に至る諸人の参詣今も絶えず一年を通じて一千人を降ることなしといふ〈段落・改行〉
〈略2:年代を知ることができるものが無い事など〉〈段落・改行〉
〈略3:秋田の胡四王堂に関してなど〉」とありました。

*「小姓堂址」の記述によれば、御小姓の亡骸を葬って宝篋印塔を建て、高丘に堂宇を建立というのですから、高丘の堂宇は御小姓を祀るが故に「小姓堂」と称するとするものですが、「コショウ堂」があったことで貴種遊離譚的な高貴な御小姓を祀るとした付会を生んだものと思われます。
 その「小姓堂」が、二尺四面の小祠を残していても「堂宇廃絶」となっていることで、「小姓堂址」と題したのでしょうか。 
*この文面にある「北行する旧国道より東南に右折して高丘あり」からすると、小姓堂の堂宇のあった高丘が旧国道を北に向って東南に右折するとあるということは、旧国道は高丘の西側を通っていなければなりません。
 高丘が現在の御小性神社の場所であるとすると、大正時代に旧国道となっている道が小鳥谷のどこを通っていたかの資料が無く分らないのですが、大正時代の旧国道は馬淵川の左岸を通る道で、私が小姓堂に向う際に通った老人介護施設を右に見る道路ということになるのかもしれません。
 この推測は、明治天皇が明治九年に岩手に御幸の際に二戸郡小鳥谷村から扈従堂坂(又は輦堂坂)を登って日陰坂に至ったとあり、小姓堂集落を通る道の集落の北に「明治天皇御野立所之碑(日影坂)」があることからすると、あたっているのかもしれません。
 『町誌上』の項目「明治天皇の東北御巡幸」に「御小休所より御馬車に召されて御発輦。二十数町ほどして小姓堂の坂を登られた。日影坂の老松が道を覆う路傍に玉座を設け、御野立された」とあり、『東巡録』から「扈従堂坂ヲ登リ日陰坂ニ至ル〈略〉」を引用し「扈従堂」に「こじゅうどう」のふりがながあります。
 また、このあたりの道路は「嶮路」であったようです。
*鉄道敷設工事で境内の一部が掘り割られたというのは、鉄道線路を通すために行なわれた事なのでしょうから、境内地は今より東側に広がっていたということになるのでしょう。
 参道の老木数十幹が伐採されたとありますが、参道が掘り割られた場所を通っていなくても、支障のある樹木が切られる事はあり得ると思います。ましてや堂宇廃絶ですので、参道とみなされないでしょう。
*引用を省略した〈略3〉のところに「小姓堂は表参道の位置より見て 往事の堂宇の北面せるを推定すべく」とありますので、私がこの度通った道ではない表参道があったわけで、それは現在の境内地の北側に境内地に正面から向う道が広くなっているところがありましたが、その道がかつては北側へ続いていて表参道になっていたのかもしれないと思います。
 参道は、1町を100メートルとすれば、200メートル以上ということになり、掘り割られた十数丈は1丈3メートルとすれば40メートル程でしょうか。
 ネットの有料地図で、御小性神社社殿から北に向って計測すると、小姓堂集落中程の西に向う道があるT字路交差点まで約230メートルです。
*「小姓堂址」には、「堂宇廃絶に帰せしより別堂の奥座敷に仮りの御姿(略)を鎮座」「諸人の参詣今も絶えず」と、気になる記述があります。
 「堂宇廃絶」とは明治維新後の「社殿毀つに委せて顧みず」の状態にあったことで堂宇廃絶となったのか、堂宇廃絶になったことで「社殿毀つに委せて顧みず」となったのか、どうなのでしょうか。「堂宇廃絶」は、明治初期の神社政策と関係があるのでしょうか。
 諸人の参詣今も絶えずというのは別堂への参詣ということでしょうが、別堂とはどこにあるのでしょうか。
 また、現在の社殿は何時建てられたのでしょうか、現社殿が建てられた際に別堂と木版に神像を彫刻した仮の御姿はどうなったのでしょうか。
 疑問が増えます。
 この疑問は、穴久保の御小性神社に相当に古そうな社額があったことから、穴久保の神社は何時勧請されたのか、小鳥谷の神社が二尺四面の小祠だった時に穴久保の神社はどのようであったのかという疑問にもなります。

A次に、『一戸町誌』に記載の次のような伝説の『故なき罪にとわれ〜お堂を立てて小姓堂と呼んで祀った。〜霊験あらたかな神様』を見ます。
 ここでは明確に小姓を祀る御堂で「小姓堂」と称したことが記されていますが、2020年7月に国立国会図書館デジタルコレクションの『一戸町誌・上下』を、当時は図書館送信資料という形での閲覧でしたので、図書館の端末で30分の時間制限の中で閲覧し必要と思われる箇所の複写依頼をしたのですが、複写資料には伝説という『二重かぎ括弧』内の記述に相当する部分はありませんでした。
 今回の探訪のあと、国立国会図書館デジタルコレクション・個人送信サービスであらためて『一戸町誌・上下』をゆっくり見ていきました。
 この次のような伝説という『二重かぎ括弧』内の記述は、『一戸町誌(下巻)』〈以下『町誌下』〉(一戸町誌編纂委員会、一戸町、1986)の「第八編 民俗-第二章・第三節 伝説と民話、昔話」中の「小姓堂の伝説」の記載内容を要約した記述と分りました。
 「小姓堂の伝説」では、里人と小姓とのやり取りを会話として記しており、小姓が死の間際に里人に感謝し病苦に悩む人々を助けてあげるので亡骸を葬ってくれるように頼んだというように記されていて、文末に「(『小鳥谷村誌』)」とあります。
 この伝説は、一戸町立図書館で閲覧の「小鳥谷村郷土資料(小鳥谷村誌)」の「小姓堂址」とは異なった文面になります。
 「小鳥谷村郷土資料(小鳥谷村誌)」の「小姓堂址」は、『町誌上』の「第二編 歴史-第二章・第三節・2 伝説」の「小姓堂神社」が「小姓堂神社について、『鳥海村誌』に次のように記してある」として記載する伝説とほぼ同じものに思えます。
 『鳥海村誌』が小鳥谷村の「小姓堂神社」伝説を取上げているのかもしれませんが、少し違和感を覚えます。
 『小鳥谷村誌』も『鳥海村誌』も資料の所在が分らず、確認できません。 
 いずれにせよ「小姓堂」は宗教施設そのものの名称ということになり、それがまた集落名でもあることがうかがい知れます。

※探訪の準備段階からの変化について
 岩手に関する資料を見始めてから岩手を訪ねるまで時間がかかったので、当時の写真と現在を比べて見ることができ、外観の変化を知ることができます。
 2013年に見ていたサイト『街道写真紀行』ー「旧奥州街道515及び516」が、現在も当時の写真のまま閲覧できます。〈URL  http://hitosh.web.fc2.com/15osyudo31/515nonaka.html 〉
 「旧奥州街道515」の「一戸町小鳥谷・野中〜小姓堂」に「野中一里塚」跡の写真があります。この写真の撮影日は不明ですが、屋根がある馬頭観世音碑と一里塚の案内看板があり木が二本ありますが、現在では木はありません。
 「野中大光神神社」写真では、社殿と鳥居は現在と変わらないようですが、横に写っている大きな木は現在はありませんでした。Googleストリートビューで過去の日付けを見ると、2018年6月には既になくなっています。
 「旧奥州街道516」に「野中神社」とあるのは、正しくは小姓堂の御小性神社の鳥居ですが、こちらでは現在は鳥居の下にコンクリートが打たれていて、鳥居脇の木が無いことが分ります。
 Googleストリートビューで日付けを遡って見ると、畑地の境の石積の横にコンクリートで囲った花壇が作られていて、鳥居も若干位置を変えているようです。鳥居自身を新たにしたのかどうかは判断が付きませんが、屋根と控柱の頂部が変わっています。幟立て(向って左)近くの木もありません。鳥居の近くにある、四本足で支える屋根付きの箱状の物を駐車した空地の方に移動しています。
 目に付く変化でも、この十数年くらいの間にこれだけ違ってきています.

1:穴久保の御小性神社
*『町誌上』の項目「小姓堂神社」の記述の後の「(註)」に「奇異なことに、野中と穴久保に小姓堂神社がそれぞれ建てられている。由来は伝わっていないが、おそらく分社であろう」と野中と穴久保の神社についての、『一戸町誌・上下』中で唯一の記述があります。

*穴久保の御小性神社の守護家様に、訪問後に御礼とお問合せのご連絡をさせて頂きました。
 ご教示頂いた内容を私の受取り方で記させていただくと、守護家が御先祖から、旅人の小姓が腹の病で自宅で看病したが亡くなった事、御小姓を祀る御宮を守ってこられた事などを聞いたおられるそうです。
 守護家は、小姓堂地区に350年間程居住して、現在地に住して400年程になるそうですから、およそ750年程前〈14世紀前半の鎌倉時代末期から南北朝時代ころ〉から小姓堂に居住し、400年程前〈17世紀前半の江戸時代初期ころ〉に、親族に御宮を託して、現在地に移転したとのことです。これは水田を求めての事ではないかと推測されているそうです。
 移転後、御小姓を祀る御宮を建立(何時の事かは不明とのことです)して、今日に至り、穴久保の御小性神社の守護をなさっているとのことです。
 現在では、腹痛快癒の御利益ばかりでなく、子宝・安産祈願などに若い人が参拝に訪れているそうです。
 地名の小姓堂と御小性神社の神社名は、区別して使用されているそうです。
 いろいろご存知であったろう女性が亡くなっているとのことです。
 私も、自身の先祖や少し前の集落の出来事などについて、分る人がいる内に聞いておかなかったことを悔やんでおりますが、普通のこと当たり前と思えることは記録されない事が多いので、あとの者は分らなくなってしまいます。
*穴久保の御小性神社の社殿内に「小姓堂神社」額があったことからも、「小姓堂」を神社名とした時代があったか、神社名を「小姓堂」と了解する人達がいたことになると思います。
 「小姓」と「小性」は、たんに別表記で、神社名に別字を当てることがままあるので、表記の違いに歴とした理由は無いのかもしれな いとも思います。
 社殿内には、「小性堂」額もあり「御小性神社」の古そうな大きな扁額があげられておりましたので、かなり前の時代から神社表記を「御小性神社」としていたのかもしれません。

2:小姓堂の御小性神社について
※社殿までの経路
*道路脇の鳥居の先から、右側の下っていく道を進んで神社に行きましたが、その道にわだちのような左右の跡がありましたので、軽トラックで鳥居の横から入る行き来があるのかも知れません。
 スマホ版「スーパー地形」で、小姓堂の御小性神社への行き来をGPSで「トラック(軌跡)の記録」を取っておりますので、スマホ画面のスクリーンショットを載せます。
*背景の地図で、「御小性神社 鳥居マーク」のあるところは、GoogleMapが
「御小性神社」と表示している位置になります。

*実際に神社が鎮座する場所は、画面下部の丸い等高線の内側にあります。
*境内は丸く高くなった場所であることが、等高線から分ります。
 境内のすぐ東側に鉄道線路があります。
*記録された軌跡でおよその標高を見ると、鳥居の所で196m、下り道の分
岐の所が低く180m、社殿前は191mですので、鳥居から16m下って
11mのぼって社殿です。

 なお、スマホのコンパスでは高度190mでした。
*標高表示のある十の位置は、宝篋印塔の場所です。
*軌跡上のカメラマークは軌跡の記録中に写真を撮った場所です。
 上部の左は、駐車場所から鳥居へ向うところで、下は社殿前で、上の右は
宝篋印塔の所です。撮った写真を載せます。

 軌跡の線と地図に若干のずれがあると思います。
*地図では丸い等高線の斜め左下に横長の建物があるようです。下り道を私
有地看板の先に行けば、建物がある(あった)のかもしれません。


※境内について
 ゆっくり時間をとる気持ちの余裕がなかった(遠野市綾織の駒形神社以来の熊の心配)ので、社殿の後にも回っていませんので、記載する事が無いありさまです。
 境内の石碑などで判読できるものについて記しておきます。
*《準備》のところで、『小鳥谷地区の歴史』中の「小鳥谷地区の神社」の「御小性神社」からの引用で「御小性神社内の石碑〔文政十年〕には『光枩大明神』(光松大明神)とある」を記しています。
 このことは、同「小鳥谷地区の神社」の年表中に「文政十年(1827)/御小性神社内の石碑/『熊野大権現・金比羅大権現・光枩大明神』」とより詳しく記されています。
 この石碑は、境内の社殿の右側にありました。
・碑面を加工し上部に山形の部分を残して、そこに金を丸で囲った文字があります。
・碑面は、右から「□文政十年/熊野大権現/〈一文字上から始めて、文字も大きい〉金毘羅大権現/光枩大明神/□七月十日」、左側面に「同 清二/万之丈」と読めるようです〈□判読不明ですが、干支の丁亥でしょうか〉。石碑の右側面にも名前があったのでしょうが、写真がありませんから気付いていなかったのでしょう。
・金毘羅大権現を中心とする石碑があることは、馬淵川の存在から頷けます。そこに熊野大権現と並んで光枩大明神があることは、光枩信仰も有力なものであった証左かもしれません。
・壊れた手水鉢には、「奉納/文政六年」と月日と奉納者が彫られているようです。
 手水鉢の左側には木の根元の自然石に「山神明神」とあり、鉢の右側のでこぼこした石にも何か文字があるようですが確認していませんでした。
 境内の左側の手前から奥に向って見ていくと、木の根元のおにぎり形の自然石に「霊光地蔵尊」とあり、自然石があり、石碑状の物を光背のようにして石板の上に小石柱が立っているものがあり、屋根のかかった所には「駒形山/馬の横姿」碑と「馬頭観音/文政七年」碑があり、木造の何を祀るか不明の小祠があって、金勢様でしょうか木製の陽根が三本あり、その前に不明の石像のようなものがあり、石祠があり、社殿になります。
 社殿の右側には、木の根元の自然石に「丸淵龍神」があり、「金毘羅大権現・他」の碑があります。他にも不明な石が複数あります。
 文政年号が三箇所で読取れるように思いますので、文政年間に何か信仰上の画期のようなものがあったのでしょうか。
 様々な信仰対象物が集まっているようですが、何を契機としてこのようになったのでしょうか。

※御小性神社の案内板
*案内板の標題の「御小性神社」と案内文中の「御小性神社」の「御小性」部分は元の文字を「御小性」に変えたようです。
 所在地と堂宇名の「小性堂」部分は「性」の文字だけが変えられています。
 そこからすると、元は小姓堂神社と小姓堂だったのではないでしょうか。
 この案内板では堂宇名も所在地名も「小性堂」とされていますが、人としての「小姓」はそのままです。
 地名も堂宇名も小性堂とし、神社名は御小性神社と表記することとしたものと思いますが、何時どのような理由で、そうすることにしたのでしょうか。
 この案内板に、平成二十年三月二十五日の日付けと一戸町教育委員会とありますので、その日付けが設置日として、それ以降に文字表記の変更を行なったか、あるいは設置の際に表記が問題にされ、看板の作り直しでは無く文字部分の修正を行なった可能性もあると思います。
 設置の際に修正されたのであれば、設置日以前に表記文字の問題が生じていたことになります。
 また、町の教育委員会の看板の修正ですので、一戸町として対応する問題であった事になります。

*案内文の内容は、所在地を「尻引坂を登った馬淵川を見下ろす高台」とあり、大巻秀詮著『邦内郷村志』から「小性堂二間四方 従往古不伝為何神乎 里人伝云古社也」を引き解説し、小姓の亡骸を弔ってお堂を建てて小性堂と呼んでまつったという地元の伝説の事を記し、漆戸茂樹著『北奥路程記』から「胡四王なるべし」を引いています。
 現社殿は、三間に二間半で、毎月七日と旧暦一月十五日が祭日で、病気平癒に霊験あらたかな神様として参詣されている事が記されています。
*坂の名称が「尻引坂」とあります。
 一戸町のホームページ中の「町指定文化財」の「小性堂宝筐〈ママ〉印塔」の説明文にも「尻引坂」とありますので、坂の名称はこちらが正しいのでしょう。
*『北奥路程記』に関しては《準備》に「小鳥谷地区の神社」からの引用中に「小姓堂 家七軒 入り口鳥居あり、胡四王なるべし」を記してて、その折りに出典を確認していました。 
*webサイト「小鳥谷地区の神社」の年表に「文献/邦内郷村志」からの記載中に「小沼堂 二間四方 従在古不伝為何神乎。 里人云伝古社也」があります。
 『邦内郷村志』は、花巻の胡四王神社に関する部分のコピーはありましたが、「小鳥谷地区の神社」で引用されている部分のコピーがありませんので、あらためて見てみました。
 国立国会図書館デジタルコレクション・送信サービスで『南部叢書』第5冊(歴史図書社、1971)の『邦内郷村志』-「巻四」-「二戸郡福岡縣ー小鳥谷村」を見ましたが「小沼堂 」の記載が見当りませんでした。
 岩手県立図書館のデジタルギャラリー「イーハトーブ岩手電子図書館『邦内郷村志』」で「小鳥谷村」を閲覧しましたがこちらでも見当らず、国立公文書館デジタルアーカイブの『御邦内郷村志4』のほうでも見当りませんでした。
 これらとは別の写本があるのでしょうが、当方では確認できません。
 案内板では、「小沼堂 」ではなく「小性堂」とあり、その「性」は変更されたものですが、元は「小沼堂」であったか「小姓堂」であったか分りません。

*江戸時代中期の『御領分社堂 五』-「福岡通御代官所」-「小鳥谷村」の中では「明神社 内堂 壱尺五寸四面板葺/鞘堂 弐間四面茅ふき/俗別当 寅之助」とされる社殿を持ち「右ハ小沼堂と申所小沼明神本地薬師ニ御座候由承伝候得共、由緒・縁起無御座、建立年月相知不申候」と説明も記されています。
 由緒も縁起も無く創建年代も分らないが、本地薬師の明神と伝承されていることから、江戸時代中期までには、コショウドウと称する疾病に霊験ありとして信仰されていた御宮があったことがうかがえると思います。
 『御領分社堂』では、地名も社名も「小沼堂」としていますが、小沼の表記はどこから来たのでしょう。
 この頃は、コショウドウに小姓堂の表記はされていなかったのでしょうか。
 文政十年の金毘羅大権現石碑の光枩明神の明神は、『御領分社堂』に記されているように明神とする認識があってのことではないかと思います。
 なお、小鳥谷村には明神社があと二社並んで記されていて、一社は「社地斗有之 俗別当 弥兵衛」で、もう一社は「三尺四面板葺〈原文-莚の下に耳〉 俗別当 与助」とあり、気になります。
 また、同書「沼宮内通御代官所」-「荒木田村」に「小正八幡宮」があることが気になります。

*幕末の成立と思われる『北奥路程記』では、「小姓堂」となり「胡四王なるべし」の見解も現れています。
 各地のコショウと発音されている宮や堂が、コシオウの音韻変化と捉えられコシオウ神社と見られていることからすれば、この地のコショウもそのように考えるのが普通なのだろうと思います。
 コショウはコシオウではないとすれば、ではコショウとは何だろうかの設問に対する見解は容易に見出せる訳ではないのが現状です。

明治維新後の御小性神社
◇「矢澤、小鳥谷、綾織に於ける胡四王」(伊能嘉矩 「『史蹟名勝天然紀念物調査報告』大正十一年調査 岩手県史蹟名勝天然紀念物調査会」)を見ると、「名称/小鳥谷胡四王 所在地/二戸郡小鳥谷村(現在廃□〈ヒ:U+572E〉)」「明治初年廃社となり現在其遺址を存するのみ古来腹部の病患を治癒するの効験著るしきを以て知られ其祈願に際り小豆を食ふことを絶つの民間信仰行はれき」「廃社に属せし小鳥谷胡四王の遺址には其由緒を明記せる立標を行はしめ史蹟の湮滅を防止するの必要あるを認む」とあります。
 ここに「明治初年廃社となり」があり、「堂宇廃絶」「社殿毀つ」とあって明瞭ではなかった「廃社」が記されていました。
 明治初期の神社政策で「廃社」とされたのではないでしょうか。
*大正十一年の上記の調査報告と大正十四年二月と記されていた「史蹟と傳説」(「小鳥谷村郷土資料(小鳥谷村誌)」)中の「小姓堂址」で、明治維新後に「小姓堂は」廃社とされたが、二尺四面の小祠を残していたのですから、廃社を受入れすべてを消し去ってしまったということではないことがうかがえます。
*明治維新後の二尺四面の小祠は、『御領分社堂 五』の明神社の内堂一尺五寸四面と大きさが異なってはいますが、鞘堂だけを取り壊して、廃社の命に従った措置をしたことにして、祠の存続をはかったのでしょうか。
 廃社ということは、合祀もされなかったと思いますが、小姓を祀り腹痛に御利益ということで神を祀る神社とはされなかったのでしょうか。
 神社存続の請願をするために、社名を御小性神社と変えた可能性もあるのかも知れないと想像します。
*御小性神社の境内に小祠・石祠・神社碑・等が多くある現状を見ると、廃社になった神社の様相とは思えません。
 合祀されて旧神社・社地が無くなる場合でも、境内の小祠・等をそのままにしてはおかないのではないかと思います。
 路傍の石碑・等が整理されても、合祀先の神社境内地に集められることが多いのではないかと思います。廃社の境内地に集められることはないと思います。
 あるいは、石碑・等は撤去が求められて、やむなく廃社の境内地に移したのでしょうか。
 御小性神社境内の小祠・石祠・神社碑・等が、江戸時代から今のように存在していたのであれば、廃社となってもなお二尺四面の小祠を維持しようとしたことで、境内もそのまま残されたのでしょうか。
 御小姓神社に何がおこっていたのか知るよしはないものでしょうか。

※岩手県の神社整理
*明治時代の初期に、現在の岩手県の領域の地域で神社整理がどのように行なわれたのでしょうか。
 明治維新後の二戸郡の領域(行政区画二戸郡の成立時の領域)の管轄は変転として分かりにくいのですが、明治2年11月から明治4年11月までは江刺県の管轄であったと思います。
 それから一時青森県に含まれることになり、明治9年5月に岩手県に編入となります。

◇『岩手県史 第7巻 近代編2』(昭和37年)で「第七章 江刺県治」を見ますと、江刺県は「明治二年八月をもって設置のことが布告され」「明治四年十一月の廃止まで、およそ三年にわたる県治」です。
 同章「第三節 所轄の郷村」の項目「管轄区域の変遷」に陸奥国二戸郡七十三ケ村の内六十一ケ村が江刺県の所管に移されたことが記されています。残りの十二カ村は斗南藩となっています。
 六十一ケ村に小鳥谷が含まれ、後の一戸町の領域の村も含まれているようです。
 同章「第六節 社寺の整理」に「江刺県では明治三年春より各村の神社を書上げさせ、それによって存廃統合をやっている」「新政府の方針としては、一村一社の方針であったので、その意向のもとに整理が進められた」とあり、さらに「新政府の方針によって、管内諸社を整理し、一村一社の鎮守社を存置したが、明治四年七月に郷社定則が布告されたので、それにもとづいて郷村社を指定した」「管内に十数社の郷社が出現したと推定されるが、明記したものがない」とあります。
 二戸郡の神社も江刺県のもとではこのような渦中に置かれたのでしょう。
 郷社についてさえ「明記したものがない」のですから、廃止社の記録はおって知れるでしょう。
 同書の「盛岡藩治」の項目「神社点検・月山塔など撤去」に「明治三年六月、盛岡藩では、神社の点検をやると共に、各神社の棟札・御神体・旧記を調査している」「各神社を点検するのに、地主や別当立会して、御神体・棟札・書類を検分し、存否を決定したことが知られる」があり、「この藩の神祇職の回村の際、月山・湯殿山・百万遍などの供養石塔の撤去を指令している」があります。
 また「盛岡県治」の項目「社寺整理続行」に「神社整理によって、某神社は某社に合祀され、旧境内地は一般屋敷地に変化してゆくのもこの頃であり」があり、項目「郷社・村社の決定」に「明治四年十月二十三日、県では郷社・村社を決定し、区ごとの氏神社としたこと、そのため祠官・祠掌の神官を任命したことを管内に布告した。毎区氏神社は、社寺留帳に記帳してあったという。神社の営繕費・祭典費・その他すべてその村が負担とあるが、神官についての給与は明記してない」とありました。
 同書には「水沢県治」にも神社行政に関する記述がありますが、省略します。

◇『岩手県史 第10巻 近代編5』(昭和四十年)〈以下『県史10』〉の「第十章・一 社寺・第二節 新管五郡の神社趨勢」に、岩手県の明治九年十二月現在の神社数が「県社が二社、郷社三十一社、村社四百八十四社、無格社七百五社、境内末社と称するもの八百四十四社、合計して二千六十六社を算へるに至った」とあります。
 そして「二戸郡に於ける社寺の整理は、既に江刺県時代に於て一応調査が行なわれ、夫々整理の運びとなっていたが、明治四年十一月江刺県が廃さるゝに及び、社寺の整理も一時中断された形であった。然るに二戸郡は同十一月青森県に編入、同五年春旧県より事務は青森県に引継がるゝに及び、右社寺の整理は青森県に於て再び実施され明治七年末迄には全部整理統合は行なわれている。青森県に於ては〈中略〉毎小区毎に郷社一ケ社としたので二戸郡に於ては七社が郷社の指定を見ている。村社は一村一社の原則に準じて指定したが郡内の社数は明確でない。其他廃社に至らざる由緒ある神社若干を雑社として存置し、百九十九ケ所の神社を廃社となした。このように二戸郡に於ては、実に徹底した整理を行なっている。行政区としては、二戸郡は第十大区に指定され、七小区に区分されている。記録は不備で明確でないが、一村内でも村社は一社とは限らなかったものであろう」の記載があり、「青森県第十大区二戸郡郷村社表(明治七年頃)」〈以下「青森県二戸郡郷村社表」又は「郷村社表」〉の表が載せられています。
 表には、一小区から七小区の郷社・村社と雑社が記されています。雑社は三小区に二社・四小区に三社・七小区に一社が記されているのみです。
 四小区には高善寺村・楢山村・岩清水村・西法寺村・一戸村・岩館村の神社が記されていて、五小区には小鳥谷村・田野村・姉帯村・女鹿村・冬部村の神社が記されています。田野村・冬部村は現一戸町には含まれません。
 一小区は金田一村、二小区は上斗米村・米沢村・石切所村、三小区は福岡村・似鳥村・堀野村・福田村・鳥越村・坂本村、六小区は浄法寺村・瘻村・御山村、七小区は荒屋村・浅沢村・田山村です。
 現在の一戸町の領域は、四小区と五小区の田野村・冬部村を除いた部分と三小区の鳥越村でしょうか。
 なお、二戸郡及び一戸町の領域の村落などの近世以降の沿革は、「二戸郡」『ウィキペディア フリー百科事典日本語版( https://ja.wikipedia.org/ )(最終確認日:2025/12/19 15:10) 』を参照しています。
 一戸町の領域の神社を見ると、四小区には郷社:八坂神社(高善寺村)、村社:子守神社(楢山村)・松林山神社(高善寺村)・稲荷神社(岩清水村)・八幡神社(一戸村)・鳥海稲荷神社(西法寺村)・天照御祖神社(一戸村)、雑社:稲荷神社(岩館村)・稲荷神社(一戸村)・子守神社(一戸村)が記されています。 
 五小区は、郷社:八幡神社(小鳥谷村)、村社:日吉神社(姉帯村)・秋葉神社(女鹿村)・稲荷神社(田野村)・熊野神社(冬部村)が記されています。
 鳥越村の神社は、村社の鳥越神社です。
 小鳥谷村では、小繋村・平糠村・宇別村・中山村を含めても、八幡神社の一社だけが存続を認められた神社ということのようです。
 現一戸町地域では、明治七年頃に郷社が二社と村社が九社と雑社が三社の合せて十四社の存続が認められたということのようです。
 小友村や小繋村・平糠村・等には村社の記載が無いので、村社の定められなかった村もあるということになるのでしょう。
 ですが、高善寺村には郷社と村社があり、一戸村には村社が二社と雑社が二社ありますし、一小区の金田一村は郷社と村社二社があり、三小区の福岡村は郷社と村社四社と雑社一社があります。
 二戸郡全体では、「青森県第十大区二戸郡郷村社表(明治七年頃)」に、郷社七社・村社二十六社・雑社六社の三十九社で、廃社百九十九社を合わせると二百三十八社となります。
 二戸郡全体で神社が二百三十八社しかなかったのでしょうか。

*整理されて残った神社の資料は、このような形でめにすることが出来ましたが、廃社となった百九十九の神社についての資料は、どうしたのでしょうか。
 この資料は、「記録は不備で明確でない」とありますが、二戸郡の明治初期の神社整理の残された資料ということになるのでしょう。
 同書の「第十章 一 社寺」全体を見ても、明治初期の神社整理によって地域の神社数がどのようになったかを示す記述も表も、二戸郡のもの以外にはありませんので、二戸郡が青森県から岩手県に移管になったことで、この神社整理結果を示す資料が残ったのかもしれないと思います。

*国立国会図書館の実験的なサービスを提供するサイトの「NDLラボ」の「次世代デジタルライブラリー」に『岩手縣神社事務提要』(岩手縣神職會編 昭和十四年発行)がありました。
 その本の「附録 岩手縣神社一覧」〈以下「附録神社」〉があり、二戸郡を見ると、二戸郡全体では県社1社・郷社6社・村社17社・無格社8社の計32社ですので、「青森県二戸郡郷村社表」と比べると村社が9社減で雑社を無格社とすると2社増で、計7社の減小です。
 縣社は福岡町に鎮座、郷社は金田一村・斗米村・一戸町・小鳥谷村・浄法寺村・荒澤村にあり、村社は金田一村3社・石切所村2社・田部村2社・御返地村2社で斗米村・爾薩体村・浪打村・姉帯村・鳥海村・浄法寺村・荒澤村・田山村に各1社となり、無格社は福岡町2社・爾薩体村2社と金田一村・斗米村・荒澤村・田山村に各1社です。
 町村別では、福岡町3社・金田一村5社・斗米村3社・浄法寺村2社・荒澤村3社・石切所村2社・田部村2社・御返地村2社・爾薩体村3社・田山村2社で、一戸町・小鳥谷村は郷社1社で浪打村・姉帯村・鳥海村は村社1社だけです。

*「青森県二戸郡郷村社表」と「附録神社」の神社を照合してみると、三小区の村社3社(天照御祖神社・八幡神社・鳥越神社)と四小区の村社4社(子守神社・松林山神社・稲荷神社・天照御祖神社)と雑社3社(稲荷神社・稲荷神社・子守神社)と五小区の村社1社(秋葉神社)と六小区の村社2社(七波あるいは泉稲荷神社・月山神社)の合せて村社10社と雑社3社の合計13社が「附録神社」には見出せないと思います(合祀があったかもしれません)。
 そして「附録神社」には「郷村社表」には無かったと思われる(神社名称変更や移転があったかどうか不明)神社が、村社月山神社(金田一村釜澤)と無格社の法呂稲荷神社(金田一村野々上)・琴比羅神社(爾薩体村仁左平)・大宮神社(斗米村下斗米)・秋葉神社(福岡町字上平)・稲荷神社(田山村字作平)の6社が記されています。
 なお、浄法寺村と荒沢村の村社「天照御祖神社」は、「附録神社」では「神明社」とされているようです。
 また、「附録神社」で浄法寺村の村社稲庭稲荷神社に対応する神社は、「郷村社表」の浄法寺村の村社七波稲荷神社か明治8年に浄法寺村に合併となる杉沢村(瘻村)の村社泉稲荷神社のどちらかではないかと思います。
*現在の一戸町の領域では、郷社2社(八坂神社・八幡神社)と村社は八幡宮(浪打村一戸字小井田)・鳥海稲荷神社(鳥海村西法寺)・日吉神社(姉帯村)の3社の計5社がありますが、村社の子守神社・松林山神社・稲荷神社・天照御祖神社・秋葉神社・鳥越神社の6社と雑社3社の計9社が見出せなくなっています。
 小鳥谷村の八幡神社はそのままです。
 私には、神社の変遷を辿れませんが、「郷村社表」以降にも村の合併や明治22年の町村制の施行による新たな町村の成立もあり、神社存続や昇格の運動もあったでしょうし、村社のみなおしも行なわれたのではないかと思います。
 さらには、明治後期からの神社合祀令もあり、明治初期の神社整理をくぐり抜けた神社でも規模の大きくない神社は合祀されて社殿・境内地を失っていったのではないでしょうか。

*『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁 昭63)〈以下「名鑑」〉で、「二戸支部」を見ます。
 ここに記載の神社は、神社本庁傘下の宗教法人社ということになります。
 二戸支部には、二戸市と二戸郡浄法寺町(平成18年二戸市と合併)と二戸郡安代町(昭和31年荒沢村・田山村の合併、平成14年岩手郡に所属変更)と二戸郡一戸町の神社が記載されています。
 二戸市が16社、浄法寺町2社、安代町5社、一戸町5社の計28社ですので、「附録神社」より4社少なくなっています。
 一戸町の5社は変わらずです。
*小鳥谷の「八幡神社」を見ると、「鎮座地 一戸町小鳥谷字上里四五番地」「由緒 創建年代は詳らかでないが、この地方の古社であって、明治六年七月、郷社に列せられている。今の社殿は大正二年に建てられたものである」で、合祀についての記載はありません。
 いずれにしろ、小鳥谷村では八幡神社の一社しか残っていないのですから、小鳥谷村で合祀された神社はこの八幡神社に合祀するしかないと思うのですが、どうなのでしょうか。
 合祀もされず、すべての神社が廃社の扱いになったのでしょうか。
 神社明細帳調製以前の段階で、合祀や廃社になった神社の記録を探し出すことは困難と思いますので、明治維新で神社の記録の多くの部分が散逸したのではないかと思います。
*同書の二戸郡に記載される神社の中では、二戸市金田一の「八坂神社」に「〈明治〉七年神明宮並び八幡宮を合祀」の記載があり、境内神社に「駒形神社、秋葉神社 、法呂稲荷神社、稲荷神社、白山神社、天満宮、猿田彦神社、金勢道別社、生目八幡神社」が記されています。
 明治七年に合祀した神社は「郷村社表」に記載がありませんので、同表作成以前の合祀のようです。
 境内神社の「秋葉神社」は「郷村社表」に記載があります。「法呂稲荷神社」は「 郷村社表」に記載が無く、「附録神社」に無格社として記載がある法呂稲荷神社が境内社にされたものと思います。他の境内神社の来歴は分りません。 
 浄法寺町の「神明社」に「明治四十二年に月山神社、七波稲荷神社を合祀」があり、「 郷村社表」に「七波稲荷神社」(浄法寺村)も「月山神社」(御山村)もありました。
 この合祀は、明治後期からの神社合祀令によるものでしょう。
 そうすると「附録神社」の浄法寺村の村社稲庭稲荷神社は瘻村の村社泉稲荷神社のように思われますが、どうなのでしょうか。
 二戸市福岡の旧県社の「呑香稲荷神社」は、「 郷村社表」の「郷社 呑香神社」(福岡村)が県社に昇格したものと思います。
 その境内神社「泥土煮神社、相殿神社、大作神社」の記載がありますが、これらの来歴も分りません。
 「名鑑」では、この他に合祀や境内神社の記載はありません。
 また、二戸市石切所の「八幡宮」に「昭和六年三月村社に昇格」があり、二戸市福岡字上平の「愛宕神社」に「明治維新の際一時廃社となり、明治八年複社」が記されていました。
 廃された神社の存続運動があって、認められた例と思います。
 この「明治八年複社」の「愛宕神社」が「 郷村社表」の「雑社 愛宕神社」(福岡村)であれば、「 郷村社表」は明治八年中のものとなりそうです。
 そして、同表の同雑社の「日吉神社(坂本村)」の坂本村は明治八年に白鳥村に合併で、先に見た杉沢村(瘻村)も明治八年の合併ですので、「 郷村社表」の明治八年中成立を後押しするようです。しかしながら、『ウィキ』の「二戸郡」に明治初年に出ル町村に合併とある岩清水村の村社稲荷神社が四小区に記載されています。二戸郡の管轄変遷のなかで、「 郷村社表」の村の情報に誤りが生じているのかも知れません。
*「名鑑」で少なくなった4社は、金田一村の八坂神社の境内神社になった秋葉神社と法呂稲荷神社と昭和30年に岩手郡葛巻町と合併した田部村の村社の熊野神社(田野村)・稲荷神社(冬部村)となるとおもいます。
 その後、二戸郡安代町は八幡平市になり、浄法寺町は二戸市になり、二戸郡は一戸町のみとなり、一戸町の法人の神社は、高善寺の「八坂神社」・小鳥谷の「八幡神社」・西法寺の「鳥海稲荷神社」・小井田の「八幡宮」・姉帯の「日吉神社」の五社のみです。

*『町誌 下』ー「第三章・第二節神社」を見ます。
 項目一の「八坂神社」に「明治四十二年には村社神明宮、松林神社を合祀」と、項目三「鳥海稲荷神社」に「大正年間に、鳥海村女鹿の秋葉神社、磐清水稲荷神社を合祀」の明治後期からの合祀が記されていました。
 八坂神社に合祀の神社は、「郷村社表」の「天照御祖神社(一戸村)」と「松林山神社(高善寺村)」ではないでしょうか。
 鳥海稲荷神社に合祀されたのは「秋葉神社(女鹿村)」と「稲荷神社(岩清水村)」ではないでしょうか。
 「鳥越神社」は「第三節 仏教」項目九「鳥越山観音堂(観音堂・岩屋寺)」に「神仏分離令によって、明治四年七月、鳥越神社と改め、猿田彦を祀った。明治六年に村社となったが、後に祭神を八幡社に遷し、合祀した」とあります。この八幡社は小鳥谷の八幡神社なのでしょうか。
 小井田の「八幡宮」は、「名鑑」では通称「小井田八幡」とありますが、『町誌 下』に項目二「小枝八幡宮」があって、本文に「小井田八幡宮は、越田八幡宮とも書く」とあります。小井田の「八幡宮」と「小井田八幡」と「小枝八幡宮」は同じ神社のことでしょう。
 項目五が小鳥谷の「八幡神社」で、項目六が姉帯の「日吉神社」です。
 そうすると、項目一・二・三・五・六が法人の五社です。 
 項目四「神明社」は「一戸字北舘にある」とあり、歴史のある神社のようですが、私には不明な神社です。
 項目七「小滝稲荷社」は一戸町一戸字小滝にあり、鳥居に「小滝社」の社額が掲があり、社殿に「小滝山三社」とあるそうです。
 項目八は「薬師神社」で一戸町月舘字金葛に所在し、堂内に「薬師如来、阿弥陀如来、観音菩薩の三躰の仏像が安置されている」とのことですから、神社とありますが、この状態で明治の神仏分離を通り抜けられるはずがないと思いますので、神社とされている経緯が不明です。
*ここまで見てきて、一戸町の領域で「郷村社表」に記載があってその後が不明な神社は、村社子守神社(楢山村)と雑社の稲荷神社(岩館村)・稲荷神社(一戸村)・子守神社(一戸村)になると思います。

*webサイト『小鳥谷地区の歴史』ー「6. 寺社ー6.1 小鳥谷地区の神社」をあらためて見ます。
 「小鳥谷地区の神社に関する記録」をまとめた「表(年代/文献/内容)」のあとに、八幡神社(字上里45)・御小性神社・熊野神社・稲荷神社・観音堂・雷電神社・御滝大明神・天魔山神社の解説記事があります。
 八幡神社は旧郷社の八幡神社で、記事に「明治ごろまでは若宮八幡神社として崇敬されたが、明治6年(1873)7月、村内神社の合祀により八幡神社と改称、郷社に列したという」「相殿・熊野宮とあるので、合祀した一つは熊野宮であると考えられる。『慶長中の勧請の由』〈「表」明治九年/新撰陸奥国誌/八幡宮〉とあるので、中村の熊野神社の事であろうか?」があります。
 やはり、この八幡宮に村内の神社を合祀したもようですが、どの神社が合祀されたのかは明確ではないようです。
 熊野神社の解説記事は、《準備》に小鳥谷と安倍氏の関連に注目して引用いたしていました。
 解説記事に「小鳥谷には熊野神社が中村・篠畑・穴久保の3箇所に現存する」とあり、中村の熊野神社の創建は室町時代まで遡ると推定され、篠畑の社は宝永七年(1710)の建立とされ、穴久保の社は延宝5年(1677)に建立されたというそうです。
 ネットの有料地図で、中村と篠畑に熊野神社が確認できます。
 稲荷神社については、稲荷地区に「享保十四年(1729)三月建立の稲荷神社があったという」「この稲荷神社は、稲荷地区の地名の起源とも考えられる」が、現在は稲荷神社は見当らないそうです。「稲荷神社は、勧請の方法が容易な申請方式となったため、江戸時代、全国に多くの稲荷神社が建てられた。現在の小鳥谷地区には、駒木、篠畑などに稲荷神社がある」とのことです。
 観音堂は、「小鳥谷小学校の北側にある観音堂」とのことです。
 Googleマップで確認できます。
 小鳥谷小学校は、令和7年3月をもって閉校とり147年の歴史に幕を下ろしたそうです。
 雷電神社は、「女鹿口に雷電神社がある」とのことです。
 ネットの有料地図で確認できます。
 御滝大明神と天魔山神社には、現存の情報が記されていません。

*Gogleで「一戸町 神社」で検索をすると、結果に多くの神社が表示されます。
 その中から法人社5社と鳥居や社殿・祠等の神社施設が見当らないものや名称不明のものや観音堂・等を除くと22社の神社が所在地と写真付きで見いだす事が出来ました。
 その中の「小滝神社」(一戸町小滝)が、『町誌下』の項目七「小滝稲荷社」と思います。
 項目四「神明社」と項目八は「薬師神社」はみあたりませんので、Gogle検索にもれている神社がまだあると思います。 
 稲荷神社は法人社を除いて6社ありますが、駒木と篠畑の稲荷神社に該当する神社があるのかどうかは、私には分りませんでした。
 子守神社は一戸町岩舘子守に1社ありました。
 駒形神社が4社と蒼前神社が1社あります。
 Gogleでは、小鳥谷には八幡神社と御小性神社2社と大光神社の他に、熊野神社2社(小鳥谷と小鳥谷中村)・雷電神社(女鹿口)・観音堂が確認できました。
 これらの神社のすべてが、創建年代を江戸期まで遡ることができるとは限りませんが、かなりの神社は明治以降の神社政策の過程を通り抜けてきている神社ではないかと思います。
 お守りしてきた方々があったればこそです。

※神社数の推移を見てみます 
 一橋大学・経済研究所のデータベースに「人文学・社会科学データインフラストラクチャー構築推進事業」の「公的統計テキストデータベース」で『日本統計年鑑・帝国統計年鑑』を閲覧してみます。
 ネット検索で「日本統計年鑑・帝国統計年鑑」でアクセスできます。

〇その中の一番古いデータの、明治15年(1882)刊行の「統計年鑑」で「第五 神社及神官国別 明治十三年」を見ると、国別は陸奥・陸中・陸前・岩代・磐城・羽後・羽前・などの国別になっています。
 陸奥国を見ると「国幣小社一、府縣社六、郷社六二、村社七二九、無格社七二、合計八八〇」で、
 陸中国は「国幣小社一、府縣社一、郷社二六、村社四三九、無格社八八五、合計一三五二」で、
 陸前国「国幣中社二、府縣社七、郷社二三、村社五七一、無格社八三〇、合計一四三三」です。
 羽後は「国幣中社一、府縣社一〇、郷社五五、村社六九九、無格社四一五一、合計四九一六」で、
 羽前は「国幣中社一、国幣小社二、府縣社一五、郷社九六、村社八三九、無格社一七七四、合計二七二七」です。
 磐城は「国幣中社一、府縣社二、郷社四一、村社六〇三、無格社二二三四、合計一九一四」、
 岩代は「国幣中社一、府縣社五、郷社五〇、村社六四〇、無格社一二三〇、合計二八九三」です。
 越後は「国幣中社一、府縣社六、郷社八、村社二三四、無格社六四六五、合計六七一四」です。
*陸奥国の無格社が極端に少なく、陸奥国では容赦ないほど廃社にして無格社で残すことも少なかったのではないでしょうか。
 それが、二戸町の無格社の少なさ、ひいては法人の神社の少なさの一因ではないかと思います。 
 無格社を見ると、羽後国は無格社が極めて多く存在していて、越後は郷社も村社も多くはありませんが無格社が飛び抜けて多くあり、武蔵国の七二一三に次ぐ数です。武蔵国は村社も二六八六で一番多くあります。
*同年鑑の「第四 全国神社」で官幣国幣社を除く府縣社以下を見ると、明治十年は「府縣社二五七・ 郷社三〇三〇・村社五〇六九九」です。明治十一年を省略します。
 明治十二年は「府縣社三三七・ 郷社三一二〇・村社五二九七八・無格社一二〇二八六」と無格社が統計に現れています。
 明治十三年は「府縣社三六七・ 郷社三二七五・村社五二七八九・無格社一三〇一四七」で村社以外は増えています。
〇次に明治十六年の「第二統計年鑑」の「第百七十一 神社及神官国別 明治十四年」では、
 陸奥「国幣小社一、府縣社八、郷社六三、村社七三七、無格社七二、合計八九一、境内無格社八二」、
 陸中「国幣小社一、府縣社二、郷社二六、村社四三九、無格社八八三、合計一三五一、境内無格社四五一」と、境内無格社が記されています。
〇明治十八年の「第四統計年鑑」の「第百五十 神社及神官国別 明治十六年十二月三十一日」(何故か「第百五十」です?)では、  陸奥「国幣社以上一、府縣社以下八八四、合計八八五、境内無格社八五」、
 陸中「国幣社以上一、府縣社以下一三五一、合計一三五二、境内無格社四五一」と府縣社以下とひとくくりになっています。
〇明治二十三年(1890)刊行の「日本帝国第九統計年鑑」の「第二百四十七〈ママ〉 神社神官及祠官等地方別 明治二十一年十二月三十一日調」から、地方「本州北区」に「新潟・福島・宮城・山形・秋田・岩手・青森」となっています。
 岩手県は「国幣社以上一、府県社以下四九二、合計四九三、境外無格社七二九」とあります。
 岩手県は、七県中で合計の数が一番少なく、境外無格社の数では六番目です。
 青森県が「国幣社以上一、府県社以下七七七、合計七七八、境外無格社六〇」とあって境外無格社が圧倒的に少なく、
 宮城県は「国幣社以上二、府県社以下九四九、合計九五一、境外無格社一七四〇」で岩手県の倍以上の数ですが、さらに
 福島県は「国幣社以上四、府県社以下一二一五、合計一二一九、境外無格社三三四三」です。
 岩手県と青森県の神社数の少なさには驚きます。
 もともと神社が少なかったのか、明治初期の神社整理で整理されてしまった神社が多いのか、その両方なのか。
 秋田県は「国幣社以上一、府県社以下七二一、合計七二二、境外無格社三九九三」で境外無格社が多く残されています。
 山形県も「国幣社以上四、府県社以下一〇六七、合計一〇七一、境外無格社二二一七」です。
 新潟県は「国幣社以上二、府県社以下六三四、合計六三六、境外無格社七八一〇」で、府縣社以下は岩手と秋田の間くらいですが、無格社は秋田の倍近くもあります。
 それぞれの県下に元からあった神社数も違うのでしょうが、比べると驚きます。驚きの先の検討は後日の課題にします。

〇『県史10』の「第十章・一 社寺・第九節 県内神社趨勢」に、岩手県の「県内神社数累年表」が掲載されていて、それについて「次表は明治二十一年より、大正十三年までの県内神社数を、隔年として集計したものである。但しこの表には既述の表中にあった境内無格社は含まれていない。大正期の統計には境外無格社のみの集計となり、境内無格社はない。/県内の神社の整理は明治末年略完了し、随って数の上ではこの後大きな増減がみられなくなる。変わって大正五年以降年々郷社が県社に昇格し、県社の数が増している。これらは曾て郡社候補の神社であり、その地方にあって古来より崇敬されていたものであった。/大正時代は我国に社会主義思想が盛んとなり、これに対抗する思想対策として、神社行政の強化があったから、岩手県における県社の昇格も比較的多数認められる趨勢にあった」とあります。
 「表」の項目は、「年次/国幣小社/県社/郷社/村社/無格社/計/備考」で、国の統計で府縣社以下となっていた部分の内訳が分ります。
 「年次」は、明治二一・二六・三三・四一・大正元・五・七・九・一一・一三です。
 「表」から年次を抜粋して記します。
 その前に明治九年十二月の神社数を再録しておきますと、
 「県社二社、郷社三十一社、村社四百八十四社、無格社七百五社、境内末社と称するもの八百四十四社、合計して二千六十六」です。
  年次    国幣小社  県社    郷社     村社     無格社     計
 明治9年         2社    31社    484社   705社    1222社
 明治21年   1社   2社    34社    458社   735社    1230社 
 明治33年   1社   2社    34社    452社   733社    1222社
 明治41年   1社   2社    34社    440社   681社    1158社
 大正元年    1社   2社    34社    436社   545社    1018社
 大正5年    1社   3社    33社    437社   529社    1003社
 大正13年   1社   9社    30社    441社   509社     990社

 明治後期の神社合祀が始まる前の明治33年と収束する大正5年を比べると、村社が20社程減り無格社は200社以上の減少になっています。
 なお、岩手県の「表」の「年次・明治二一」の神社数は、明治二十三年刊行の「日本帝国第九統計年鑑」から神社数が県別になり、「明治二十一年十二月三十一日調」ですので、この統計数次と対応するものと思いますが、先にこの統計で見た岩手県の神社数は国幣社以上1・府縣社以下492・境外無格社729の合計は1222で、神社数に若干の相違があります。
 県の明治33の年次の神社数は、明治35年(1902)刊行の「日本帝国第二十一統計年鑑」の「明治三十三年十二月三十一日」付けの神社数に対応するものであろうと思いますが、国の統計の岩手県は「府縣社以下四九三、境外無格社七六〇」ですので、合致しません。また明治33年刊行の「日本帝国第十九統計年鑑」とも、明治34年の「日本帝国第二十統計年鑑」とも相違しています。
 集計の締めの日時が異なるのか、県独自の統計なのか、どうなのでしょうか。

〇明治四十年(1907)の「日本帝国第二十六統計年鑑」で、明治三十九年の神社合祀令以前の神社数を見ておきます。東北六県と新潟県を見ていましたが、以降は対象を絞ります。
 「第七五表 神社及神職地方別 明治三十八年十二月三十一日」で、
 岩手「国幣社以上1、府縣社以下492,合計493,境外無格社698」〈明治38年刊行より横組でアラビア数字〉です。
 青森「国幣社以上1、府縣社以下775,合計776,境外無格社64」、
 秋田「国幣社以上1、府縣社以下731,合計732,境外無格社4066」、
 山形「国幣社以上5、府縣社以下1056,合計1061,境外無格社2145」です。
*同年鑑「第七二表 神社及神職 (十二月三十一日)」に明治三十三年から三十八年までの全国の神社数表があります。
 府縣社以下を見ると、
 明治三十三年「府縣社538,郷社3319,村社54045,合計58071,境外無格社138287」、総計196358。
 明治三十八年「府縣社571,郷社3476,村社52467,合計56685,境外無格社135681」、総計192366。
〇明治四十五年(1912)「日本帝国第三十一統計年鑑」を見ます。(この年度から昭和十五年の年鑑まで、一般公開されています)
 「349. 道府縣神社及神職 明治四十三年十二月三十一日」で、
 岩手「国幣社以上1、府縣社以下480,合計481,境外無格社587」、
 青森「国幣社以上1、府縣社以下757,合計758,境外無格社54」、
 秋田「国幣社以上1、府縣社以下687,合計688,境外無格社1561」、
 山形「国幣社以上5、府縣社以下980,合計985,境外無格社1662」となり、秋田の境外無格社が激減しており、山形は境外無格社が483社減で、岩手でも境外無格社は111社減っていますが、元々少ない青森でも減っています。
*全国の神社数は、明治四十三年で「府縣社583,郷社3449,村社47081,合計51284,境外無格社85850」で総計137134です。
 村社が減り、境外無格社は激減です。
〇大正三年(1914)の「日本帝国第三十三統計年鑑」で、「神社及神職」の統計は「明治四十五年大正元年十二月三十一日」付けとなり、この年鑑から、青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県が東北区とされています。
〇大正十五年(1926)の第45回「日本帝国統計年鑑」の「414,神社及神官神職」で、
 岩手県「国幣社以上1、府縣社以下479,無格社513」、
 青森県「国幣社以上1、府縣社以下758,無格社49」、
 秋田県「国幣社以上1、府縣社以下613,無格社709」、
 山形県「国幣社以上5、府縣社以下967,無格社1344」です。
 岩手県では無格社に74社の減がありますが、秋田県では府縣社以下にも74社の減があり無格社では852社の減がありますが、山形県は無格社は328社の減です。大正時代にも合祀される神社が多くあったようです。
 統計数次を見るのはここまでにします。

*明治から大正時代の神社政策の中で、よく小姓堂の御小性神社も穴久保の御小性神社も存在し続けてきたと感慨深いものがあります。
 明治初期に廃社の扱いを受けて、それ以降はある意味政府の神社行政のらち外にいることで、守護者と集落とでよく守られてきたのかもしれません。

※備考 
*明治維新後に小祠となった御小性神社の「別堂」については、まったくの推測ですが、境内地の高台から北側に少し下がったやや開けた場所がありましたので、そのあたりにもし籠堂のような信者向施設があればそこが別堂の候補になるのではないかとか、神社の鳥居前を通る道路沿いに駐車した空地がありますが、そこに信者向施設があった可能性はないだろうかなどと思ったりもいたしておりますが、資料がありません。
 小鳥谷の御小性神社に関しては、様々な点で分からない事が多いままです。

*小鳥谷の安部(安倍)氏に関しては、《準備》でも若干触れていますが、遠野市綾織の胡四王薬師堂の別当家にも安部氏の末裔説がありますので、小鳥谷の安部(安倍)氏についての情報を、webサイト『小鳥谷地区の歴史』から引用させて頂きます。
 同サイトの項目「2.小鳥谷地区の年表ー2.1 年表1(1600年以前)」に「西暦:1500前後/元号:明応〜文亀?/出来事:南部信義家臣に『小鳥谷安部三郎』(聞老遺事)/参考・解説・私設:南部信義(第21代当主)が京都からの帰途、新潟港まで迎えに来た家臣の中に『小鳥谷安部三郎』という名があるという〈略〉「聞老遺事は幕末に作成された文書であるが、内容が事実であれば、『小鳥谷』という地名は、西暦1400年代後半から1500年初めまで遡れる事になる」があり、「西暦:1538/元号:天文七年/出来事:米良文書の那智郡実報院檀那交名に、一戸の檀那の1人として『安部丹後守』の名が記載(岩手県姓氏歴史人物大辞典・角川書店)/参考・解説・私設:〈前略〉安部丹後守という名があり、小鳥谷安部三郎と同じ一族であると推定される。つまり、一戸・浄法寺地域を治める複数の武将の中に安部(安倍)を名乗る一族が住み、小鳥谷は安部(安倍)氏の領地であったと考えられる」があり、項目「3. 領地・領主ー3.1 領主様」に「(1)九戸の乱以前」に「小鳥谷氏」について記載されています。 

 この記事はここまでとしておきます。(2025年12月26日)

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