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準備記録   岩手  4  小鳥谷


探訪の基本情報
《桑原リスト ◎二戸郡一戸町小鳥谷(こずや)   胡四王堂(小正堂)

*現在の状況
 住所を調べると、二戸郡一戸町小鳥谷小性堂(こしょうどう)がありました。
 住所表示では「小性堂」ですが、国土地理院の2万5千分の1地形図には「小姓堂」の記載がありました。

《探訪の準備》
*webサイト『小鳥谷地区の歴史』に教示を受けることが多くありました。
  https://sites.google.com/site/kozuyanorekishi/ 
 『小鳥谷地区の歴史』の中の「小鳥谷地区の神社」記事では小鳥谷地区の神社に関する記録のまとめが年代・文献ごとに表にされ、各神社につ
いての解説がなされています。
 同サイトの「地名の記録」も参考になります。

 このサイトを知ったのが2013年5月で、2017年に探訪準備段階の記録にその記事を引用させていただいておりました。
 探訪準備を記事にするにあたって、サイトをあらためて拝見させていただきますと各神社の解説記事の内容が2013年と2020年では異なるところがありましたので、現在の解説記事の「御小性神社」の部分から引用させていただき、そこに年代・文献ごとの表による補足を〔キッコウカッコ〕により加えてみたいと思います。〈改行は当方による〉
 「●御小性神社 小姓堂にある神社で、江戸時代の記録は小鳥谷郷社となった八幡神社よりも多く存在する。表のA7、B6,C1,K1,D1,E2,F1,L1,G5はすべて御小性神社を示している。
 藩の記録である御領分社堂〔宝暦十三年・1763〕は小沼明神とし、本地(本地仏・本来の仏)は薬師(如来)としている〔A7〕。享和二年(1802)の東案内記でも『小性薬師』と記載されている事から、ほぼ同じ内容と推定される安永四年(1775)の奥筋行程記も同様の記載があるとすいていされる(地名辞典の引用文にこの部分が無いため確認できていない)。
 菅江真澄〔天明八年「岩手の山(委波底廼夜□)〈マ・摩の手の部分が幼の左側〉」〕は秀衡を祀っているとし〔C1:故将堂(いま小姓堂)〕、御小性神社内の石碑〔文政十年〕には『光枩大明神』(光松大明神)〔F1〕とある。ちなみに、伊能図(地図)には小姓堂(地名)の事を光松堂と記載している。
 北奥路程記〔幕末〕や東山志云〔享和元年〕では胡四王としている〔東山志云;小正堂の祠あり、胡四王にもつくり、村名にも呼ぶ、昔、京方より流罪の君達三十八人、下向の故迹の由にて、今に其墓あり。(大日本地名辞書より) D1:小正堂 ※「今に其墓あり」というのは、御小性神社の北の畑の脇にある宝篋印塔(一戸町文化財・小姓堂宝篋印塔)の事であると推定される。〕〔北奥路程記;D5:胡四王(小姓堂)『小姓堂 家七棟 入り口鳥居あり、胡四王なるべし』〕
 小鳥谷村郷土資料 大正14年(1925)によると、『往事ハ北面セル四間四面ノ堂宇アリテ二町ニ余ル参道両側ニ老杉…、今ヤ…二尺四面ノ小祠ヲ残シテ復昔日ノ面影ヲ留メズ』(花巻市博物館だより第19号平成20年10月コラムより)とあり、一戸町誌には次のような伝説が記載されている。『故なき罪にとわれ都を追放された、さるお方の小姓がこの地にたどり着き、病死。里人がその亡骸を葬り、お堂を立てて小姓堂と呼んで祀った。現在でも病気平癒の霊験あらたかな神様』御小性神社北側の畑の脇に小鳥谷地区で唯一現存する宝篋印塔があり、それが『さるお方の小姓』の墓という話もあるようだ。
 御小性神社について最も古い記録は、宝暦十三年(1763)に盛岡藩が作成した『御領分社堂』であるが、元禄四年(1691)にこの地を訪れた丸山可澄の『奥羽道記』に『後生堂村』という地名がある事から、御小性神社が元禄時代には存在していた可能性を示している。小姓堂の地名の由来がこの御小性神社である事を考慮すると、『後生堂村』の記録から元禄時代には既に神社の御堂が地名化していた事になり、小性神社の創建は中村の熊野神社と同様に、江戸時代より前(室町時代)に遡る可能性が考えられる。
 一戸町誌によると、御小性神社の分社が野中と穴久保にあるという。野中の大光神社と穴久保の御小性神社の事であると考えられる。」とあります。
 さて、御小性神社について最も古い記録が、宝暦十三年の『御領分社堂』であるとすれば、A7の小沼明神はコショウミョウジンと読むということなのでしょう。
 また、光松大明神もコショウダイミョウジンなのでしょう。
 A7の記載内容は「A7:明神社 内堂 一尺五寸四面板葺、鞘堂弐間四面茅ふき 俗別当・寅之助。右は小姓堂ト申所小沼明神本地薬師ニ御座候由承伝候得共、由緒・縁起無御座、建立年月相知不申候。」とあります。

 熊野神社についての解説記事に、「●熊野神社 天文七年(1538)の米良文書(米良氏は那智の御師)によると、奥州一戸の旦那衆の中に安倍丹後守という名前が記載されている。小鳥谷氏も安倍氏の一族と推定され、当地の熊野信仰は室町時代に遡る事が可能と考えられる。その盛んな熊野信仰の名残なのか、小鳥谷には熊野神社が中村・篠畑・穴久保の3箇所に現存する。〈略〉」があります。

 地名としては小姓堂で神社名は御小性神社とする区別があるようです。
 文字表記が定まらない状態が見受けられますが、コショウと呼ばれ続けてきたようです。文字に親しみのない人々によって祀られてきたのでしょうか。
 御堂名と地名が結びついているので、地名のあったところに御堂が祀られたということではないのでしょう。
 江戸時代も後期になると情報の流通が盛んになるためでしょうか、「胡四王」の表記が表われてきているようです。
 矢澤(花巻)の胡四王堂の存在があるのでしょうか。
 「御小性神社」という名称表示は、寒河江市谷沢の「御小姓神社」と類似性を感じます。〈「探訪記録 山形 村山2」に記事があります。〉〉

 コショウ明神の本地が薬師如来と宝暦の段階で言われています。
 安倍氏の関連も出てきています。

*2013年5月、webサイト『街道写真紀行』の「516 一戸町小鳥谷・小性堂」に「野中神社」次に「小性堂集落」次に「小性堂神社」と題された写真があります。「小性堂神社」写真に「小性堂集落外れの崖下にある小さな神社。」と記されていました。

 2017年に入って、岩手を訪ねようとあらためて資料に当たりました。
 『街道写真紀行』には「515 一戸町小鳥谷・野中」の記事に「野中大光神神社」と題された写真があり「赤い鳥居の額束には、『大光神』と書いてあった。」とありました。 

 ストリートビューで、小性堂の集落の丁字路〈「ここは小性堂 奥州街道 一戸町」の標柱がある〉から北に進むと緩いカーブになりガードレールの先の道路右側の木立の中に小さな赤い鳥居が見えます。
 これが『街道写真紀行』で「小性堂神社」と題された写真の神社と思います。

 同じく『街道写真紀行』で「野中神社」と題された鳥居は、ストリートビューでは小性堂集落の南の野中へ向う急カーブの所にありました。

 ストリートビューで、「野中大光神神社」と穴久保の御小性神社と思われる神社を見ることができました。
 それぞれの場所は、国道4号線小鳥谷バイパスの「姉帯入口」交差点を北に160メートル程行った左側にあるのが「野中大光神神社」で、「姉帯入口」交差点を西に行き穴久保集会所の近くにあるのが御小性神社と思われます。

*2020年にネットの有料地図を見たところ、神社名が記されていました。
 それによると、小性堂集落の南のカーブの所の神社が「御小性神社」とされていました。
 野中の神社は「大光神」とあり、穴久保の社は「御小性神社」となっていました。
 ストリートビューの地図画面では、やはり小性堂集落の南のカーブの所が「小性堂神社」で、野中の社は「野中神社」とあり、穴久保には神社名の記載はありません。
 大正14年の小鳥谷村郷土資料に「参道両側ニ老杉…」とあり、北側の畑の脇に宝篋印塔がある神社が御小性神社ということになるのでしょう。

 知られている情報の限りでは、小鳥谷の御小性神社は太平洋側の一番北に鎮座するコシオウ社となります。
 また、小鳥谷に分社が二社あるとのことですので、地域での信仰が厚かったと思われます。

*国会図書館のデジタルコレクションで『南部叢書』等に当たることで「小鳥谷地区の神社」記事にあげる文献の幾つかを見ることができ、図書館や現地に出向かなくてもある程度のことが確認できてしまうことに驚いた次第です。

*「小鳥谷地区の神社」記事の「東山志云」の内容欄に『大日本地名辞書より』とありましたので、『大日本地名辞書』を見ますと、「小鳥谷」の項目に「〇東巡録云、〈略〉小鳥谷村に至りて小憩、扈從堂坂を登り、日陰坂に至る、〈略〉」とありました。
 デジタルコレクションの『東巡録』・「巻之二」に「小鳥谷村至リテ上里太蔵ノ許ニ 御小憩、扈從堂坂ヲ登リ日陰坂ニ至ル」とありました。
 「コショウ」に、『東巡録』だからこの文字を選択したのかもしれませんが、「扈從」の文字を当てることがあることと知り、福島県川俣町の「小徙王神社」の表記を思いました。
 ただ、国会図書館のデジタルコレクションで『明治天皇岩手乃行幸』の「第九章 二戸郡」を見ると「小鳥谷村ニ至リテ上里太蔵方ニ 憩ハセ給フ 少時ニシテ 御発輦堂坂ヲ登リ日陰坂ニ至ル」とあります。
 「輦堂坂」は「扈從堂坂」と同じ場所でしょうか。「輦堂坂」はレンドウ坂でしょうかコシドウ坂でしょうか。

*菅江真澄『岩手の山』(菅江真澄遊覧記2・東洋文庫68・平凡社・昭和41年初版ー昭和48年第八刷による)を見てみますと、当該部分は「小鳥谷コジヤ(二戸郡一戸町)という村で食事をし、昼寝をして、さらにあるいていくと故将堂コショウドウ(いま小姓堂と書く)というのがあった。よそにもある堂の名だが、ここでは秀衡をまつっているという。」とあります。
 『南部叢書・第六冊ー眞澄遊覧記』で「委波底廼夜□〈マ〉」を見てみますと「小鳥谷といふ村に、ものくひひるねしてくらは、故将堂といふあり。ことゝころにも聞へたれと、こゝには、秀衡を祀りたるとか。」です。
 故将堂をよそにもある堂の名としています。どこにある堂の名なのでしょうか。
 (いま小姓堂と書く)というのは原文には無く、東洋文庫版での補注のようです。
 故将堂と記されていたのでしょうか、地元の方が示した表記でしょうか、菅江真澄が聞いた堂名にこの文字を当てたのでしょうか。
 秀衡を祀るというのは、地元の方の言ったことなのでしょうか。
 宮城県白石市斎川の古将堂〈田村神社〉が念頭にあって、よそにもある堂の名としたのでしょうか。

 橘南谿の『東遊記・巻一』の「甲冑堂」に「俗に甲冑堂といふ。堂の書附には故将堂とあり。」とあります。
 東遊記は寛政七年(1795)に刊行されていますが、奥州への旅は天明5年から6年のこととあります。
 『岩手の山』が天明八年(1788)の日記とのことですので、その頃「故将堂」と書かれていたのでその表記がされているのではないでしょうか。

 『南部叢書・第三冊』で『平泉雑記』(相原友直 安永2年・1773)を見ますと「巻之二・十四 越王堂」に「越王堂刈田郡齊川村ニアリ二女ノ木像アリ、烏帽子ヲイタゝキ鎧ヲ着シ右ニ弓箭ヲ執リ左ニ刀ヲ提ゲタリ、田村麿・鈴鹿神女ナリト云うリ、又一説ニ佐藤庄司継信・同忠信ガ妻ノ像ナリト云〇一説古四王堂ト書リ、鐙毀坂ノ下ニアリ堂ニ木像二體アリイヅレモ烏帽子ニ鎧ヲ着テ壇上ニ腰ヲ掛、一體ハ弓矢ヲ持継信・忠信カ妻ト云、一説ニ賀茂次郎・新羅三郎ノ影像也、東夷此人ヲ畏ルゝ故ニ此の像ヲ立テ夷狄ヲ鎭伏セシムト、又驛夫ノ物語ニ此堂昔越河堂ト云ケルヲ何ノ頃ヨリカ古四王堂ト云ナラハスト古老ノ説アリト云」とあります。
 越王堂と題して、文中には古四王堂とあります。また、昔越河堂ト云ケルがあります。
 鐙摺坂があります。

 『大日本地名辞書』の「陸前 刈田郡」に「越王堂コシワウ」を見ると「今、齊川村に在り、或は古将堂コシヤウにつくる。蓋、越君の祖、大彦命を祭る所にして、〈略〉 〇封内記云。古将堂。土人曰之越王堂、山上又有石宮。〈略〉」があります。

 どうなっているのでしょうか

 『岩手の山』の初めのほうにも「仙台にいき」と記してあるところがありますが、菅江真澄遊覧記2の解説の「仙台の旅」によると、天明六年の八月から九月に松島・多賀城・仙台の町まで出かけていますので、白石までは行っていなくても、故将堂のことを聞いていた可能性はあるのではないかと思います。
 『岩手の山』によると、花巻に泊まり翌日は石鳥谷の宿に泊まっていますが、矢沢の胡四王堂のことは出てきません。
 菅江真澄遊覧記1(東洋文庫54・平凡社・昭和40年初版ー昭和46年九版)に『けふのせば布』を見てみます。この日記は、天明五年の秋の旅で、石鳥谷や花巻のことも記されています。
 花巻の医者伊藤修宅に9月10日から泊まって27日に出立している模様ですが、稗貫郡矢沢のことも胡四王堂のことも出てきません。
 矢沢の胡四王堂のことを知っていれば、よそにもある堂の名は胡四王堂になったかも知れないと思います。

*また、「小鳥谷地区の神社」記事の解説に「花巻市博物館だより第19号平成20年10月コラムより」とありました。
 花巻の資料として、花巻市のホームページの花巻市博物館のページからPDFをコピーしておりました。
 コラムは、「古四王神社と菅江真澄」と題され「〈略〉江戸時代後期の国学者であり、紀行家でもある菅江真澄は、北陸から東北地方を旅行した際に古四王神社に注目している。菅江は、新潟県新発田市の古四王神社について『古四王は四天王ではなく、越王』とする考えを述べている。この菅江の見解が、明治時代から現代にも引き継がれ、古四王神社の由来の有力な説となっている。〈略・小鳥谷に関する記述〉胡四王神社に関心を持っていた菅江真澄が、小鳥谷の小姓堂に余り関心を示していないのは、当時すでに小祠を残すだけとなっていたからではないだろうか。〈略〉」とあります。
 はたしてそうでしょうか。
 「古四王は四天王ではなく、越王」の記述のもとにあるのは、『高志の栞』からのものと思われますが、この書は文政二年〈1819〉の是観上人の高志路の日記の引用で始まり、その日記の中で新発田市の地元の神官の話として「古四王にはあらず、越皇なり」があることで、それが菅江真澄の主張のように扱われるもとになったと思います。
 菅江真澄は、おそらく是観上人の日記に触発され、かつて新発田を訪れたことを思い返し、秋田にいたこともあって、古四王に対する認識をあらためていったのではないかと、個人的には考えています。
 天明の段階では故将堂(コショウドウ)をコシオウと関連付ける発想はなかったのではないでしょうか。
 菅江真澄の『高志の栞』については、「探訪記録 新潟1」をご覧いただければ幸いです。


 カシミール3D・解説本の地図      御小性神社ー候補地1  御小性神社ー候補地2  
 〈地図は小鳥谷バイパス開通以前〉 野中の大光神社  穴久保の御小性神社


《追記 2020−06》
*webサイト『小鳥谷地区の歴史』の「サイトのオーナー」様より、御小性神社の位置・等をご教示いただきました。
 それによりますと、カシミール3D・解説本の地図に記入した「御小性神社ー候補地1」が正解とのことです。
 また、Googlemapの小性堂神社の位置に、御小性神社の360度カメラ映像を張り付けているとのことで、神社の様子を見させていただきました。


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