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置賜の古四王神社について


《置賜の古四王神社の情報について》
*置賜の古四王神社の探訪記録も、基本的に《佐藤リスト》の番号に従って記載していきたいと思います。
 探訪記録の多くの記事で川崎浩良の『美人反別帳』の「置賜郡の越王神」に記載の情報と向き合うことになります。
 そこで、先ずここに「置賜郡の越王神」に記載された情報を示しておきたいと思います。

*川崎『美人反別帳』「置賜郡の越王神」の項目に「〈略〉古志王神は新発田より阿賀川渓谷を遡って会津に入り耶麻郡慶徳村に栄えた社を留め、又一方新発田より北進して出羽に発展している。〈略)会津に入ったものは、北進して桧原越えをして置賜郡の西山際に地歩を占めているが、これを南から遺趾を挙げれば、今日判明するものだけで、(旧町村名)」として「西置賜郡手の子小四王社、同郡蚕桑村高玉腰王社、同郡西根村川原沢巨四王社、同郡西根村寺泉五所神社、同郡長井町越王社、同郡荒砥町小姓堂(腰尾神)、同郡鮎貝村高岡実淵山小四王堂、東置賜郡赤湯町小姓堂」の八カ所の情報を記して、「何れも北向きに立ち長い伝統を物語っている。」と記しています。
 さらに、「置賜郡の越族遺跡は以上の神社が残るのみならず、古来の地名にも多く見られる。」として「小国本村大滝の古四王前や南小国村足水中里のコシマイ等の地名は以前其所に越王神があった名残りと見るべく、米沢市の小菅の地名の起こりは、元は言葉のコシゲで越家に基づいたものと思われるが、此処の越家神社も無論古志王神である。上長井の古志田、鮎貝の小四王原、白鷹町十王の小四王山、東根村畔藤の越田、鮎貝高岡の小塩田等は、何れも越族に因縁あるものであろう。」と幾種類かの地名をあげています。
 川崎のあげた「上長井の古志田」以下の地名は、「何れも越族に因縁あるものであろう」と「越族」と関連するとしているもので、直接の「コシオウ神社」の所在地情報ではないので基本的には探訪記録の記事の項目とはいたしません。

 川崎は「古四王遺跡地西根村勧進代、長井村五十川笹崎に北向き観音、或いはムンズリ観音と言う祠がある。〈略〉前記勧進代・五十川等の観音堂が北向きであるのは、古来北向きであった古四王堂を引き継ぎ、其の当時信仰に盛況を見た観音に合流した結果と見られる。」とも記しています。
 川崎『古志族の検討』には、置賜地域に上記の他に「小国町大滝 古四王社」が記されています。

 置賜郡のコシオウ情報は、川崎の取り上げたものばかりではありませんが、それらの情報については探訪記録の該当する記事中に記したいと思います。

 また、川崎は「古志王神」の伝播の経路を記述しています。
 〔「古志王神は新発田より阿賀川渓谷を遡って会津に入り」「又一方新発田より北進して出羽に発展」「会津に入ったものは、北進して桧原越えをして置賜郡の西山際に地歩を占めている」〕とあります。
 これは、川崎の同書の「古志王神の残っているのは何と言っても本家本元の越後で、信濃川の中流に位する古志郡沃野の古志王神を筆頭に、北蒲原郡新発田東郊五十公野の古志王神である…」の記述から導かれる経路ということでしょう。
 こういった記述の背景にどのような資料がありどのような検討や考察や省略があったのか分かりませんが、記述がかなり断定的だと思います。

 越後古志郡のコシオウ社やコシオウの伝播経路を論文中に記している方は川崎ひとりにとどまってはいません。
 探訪記録ー新潟10に関連記事があります。
 探訪記録の記事中には、伝播経路を自明のことのように扱うことは慎みたいと思います。

 さて、置賜郡には会津から桧原越えに北進して伝わったとあり、その会津には新発田から阿賀川渓谷を遡って伝わったとあります。
 この経路は、旧街道の越後の新発田と会津若松を結ぶ「越後街道(会津街道)」と会津若松と米沢を結ぶ「(会津)米沢街道」と呼ばれる街道が当てはまるように思います。
 旧街道に当てはめれば、置賜地方と越後を直接結ぶ「越後米沢街道」があり、置賜側からは川西町小松〜飯豊町手ノ子〜小国町を通って新潟県関川村に通じさらに新発田にいくことができますが、「古志王神」の伝播経路としては記されていません。
 分かりかねますが、あるいは「古志王神」伝播の年代に比して街道の成り立ち年代が新しいというような判断があったのでしょうか。
 街道としての整備が進む以前には人の往来がないというようなことはないと思いますので、越後と置賜との往来はあったのではないでしょうか。
 また、当然のことですが街道は一方通行ではありません。

 『小国町史』(小国町 昭41・1966)「第二編上杉以前の小国・第二章-東北の開発と小国」の「一.古四王神社と古志族」に、「もともと古四王神社は越ノ道公、すなわち越ノ王を祭ったのが越王神社である。」とし、「越王神社の分布をみると」と分布傾向を述べて「その分布から、その進入経路を考えると、一つは阿賀野川に沿って会津盆地に、他は越後より荒川渓谷に沿って小国にはいり、大滝に古四王神社を残し、さらに宇津峠を越えて置賜盆地にはいって、長井・西根・高玉・鮎貝にそれぞれ越王神社を残し、そこからさらに長谷堂を通って山形方面に達し、他はさらに最上川を下って所部を通って北上する進路が考えられる。わが小国町に古四王神社の存在することは、古代においてすでに荒川沿いの通路は越文化の通路であり、また古志族の後退に伴う大和民族の進入路と考えられ、日本海方面と内陸地方を結ぶ重要な通路であることを物語っている。」の記述があります。
 月光善弘『古志(四)王神の信仰ー出羽国における古代神としてのー』も「古志(四)王社の分布とその進入経路」の項目を設けています。そこでは「〈古四王神社の〉分布状態から進入経路をたどって見ると」として『小国町史』の「古四王神社」の項目から古四王神社の分布から想像される進入経路の記述を引用して、それに依拠する形で「これらの進入経路をまとめてみると」として、一: 越後〜庄内〜秋田の経路(日本海岸通り)ー(イ)、二:荒川〜小国〜長井盆地〜村山盆地の経路(内陸通り)ー(ロの@)、長井盆地〜五百川渓谷(最上川沿い)ー(ロのA)、三:阿賀川〜会津盆地の経路(東北への経路)ー(ハ)〈一、二、三は箇条書。二は長井盆地から村山盆地と五百川渓谷の二つに分かれて記されている。地名をつなぐ〜は原文では→〉を記して、「右の想定を裏づけるかのように〈略〉」と続けています。
 月光の引用した『小国町史』の「古四王神社」の項目は、『小国町史』の「第四編-明治以後の小国・第四章-宗教」の「一. 神社 (五)古四王神社」で、分布傾向の記載に続けて「この分布から次のことが想像される。古志族はその主護神古志王神社とともに、一つは越後国から庄内にはいり、〈地名・略〉北上して秋田にはいった。他の一つは荒川にそって上り小国を経て、〈地名・略〉長井盆地から村山盆地へ、もう一つは五百川渓谷を通って〈地名・略〉村山盆地の中央に進出した。阿賀川をさかのぼって会津盆地に進入したこともうかがわれる。」の記述があります。
 『小国町史』は、旧「越後米沢街道」沿いの経路を考慮しないことはできなかったようです。
 また、さすがに進入経路について『小国町史』は「想像」、月光は「想定」と記しておりますが、経路は一方通行です。

 旧街道について、定まったもののように扱うことは問題があると思いますが、「カッコ」に入れて記させていただきました。 
「新発田より北進して出羽に発展」に対しては、旧街道を当てはめて「カッコ」に入れて記すのも難しいようです。
『新潟県歴史の道調査報告書 第八集 三国街道(中通り)』の最初の章の記述に「一般にいう三国街道とは、〈略〉三国峠を越えて越後に入り、〈略〉長岡まで下り、寺泊へ出る道である。〈略〉では、長岡から先の道は、どのような名称となるであろうか。結論からいうと、三国街道・北国街道・会津街道というような統一的な名称はなかった。新発田藩の場合、長岡で三国街道と分岐し〈略〉新発田城下へと続く道も慣習的に三国街道と呼んでいた。村上藩では、さらに中条・黒川・平林を通って村上城下にいたる道も三国街道と呼んでいた[新潟県史通史編三]。また、新発田藩では、中通りまたは山通りとよぶこともあった。」とあります。
 『新潟県歴史の道調査報告書 第十集 浜通り/出羽街道〈/で二行〉』の「浜通り」についての最初の章に「本稿では新潟町から村上城下までの海沿いの道をとりあげた。沿道の多くを支配していた新発田藩では、内陸部の道を一般に山通りや中通りとよび、海岸部の道を浜通りとよんだ。〈略〉他に、北国街道・北陸道・庄内道・奥州街道・浜街道などとよばれることもあったという[新潟市史通史編一]」とあり、「出羽街道」についての最初の章には「出羽街道とは、〈略〉村上城下から…山中を通って国境を越え、出羽国の鶴岡城下に至る道である。〈略〉これ以外にも、村上城下から海沿いを通って鼠ヶ関経由で鶴岡へ向かう道もあった。この道は、一般に浜通りと呼ばれた。〈略〉海沿いの道も出羽に向かう道であることを勘案すれば、出羽街道と称しても間違いではないであろう。〈略〉ただし、新潟町から村上城下に延びる浜通りと区別するため、ここでは山沿いの道を単に『出羽街道』、海沿いの道を『出羽街道浜通り』ときすこととする。」とあります。
 これらからすると、名称はともかく往来はあったわけですし、新潟県北部の村上から鶴岡を結ぶ経路としては旧「出羽街道」をイメージとして当てはめてみたいと思います。
 「北進して出羽に発展」の出羽の範囲はどこを想定して記述しているのか、あいまいに思えます。

*川崎の示した情報の中には、小四王・腰王・巨四王・五所・越王・小姓の社名・堂名の表記があり、地名にも幾種類かの表記をあげています。
 庄内地域では「古四王」表記がほとんどでした。
 村山地域では「腰王」表記が多くありましたが、「小四王」「越王」も見受けられ、「小塩・小子王・御小姓」といくつもの表記がされた社もありました。
 地名では「小塩」地名がありました。
 置賜地域には、古四王・腰王・小四王・巨四王・越王・小姓等と表記の種類が多くあるようです。

 この表記の多様性は探訪のうえでも気になるところです。

 コシオウの表記の多様性は、祀る側の認識のありようを反映すると思います。
 置賜地域は、山形県の南部の内陸にあり、西側は新潟県下越地方に接し、南側は福島県会津地方に接し、東側は福島県北部と宮城県南部に接し、北は村山地域と接しています。
 異なる複数の地域と接している位置関係が、コシオウ表記の多様性に関係があるのでしょうか。


《白鷹町のコシオウ神社探訪と所在地情報》
*置賜地域の古四王神社の探訪は、2014年8月に小国・手ノ子・川西・米沢を訪ねています。

 佐藤禎宏の『コシオウ信仰研究序説』《佐藤リスト》によって、山形県の探訪記録の記事を《佐藤リスト》の番号順に作成したいと思いましたので、置賜地域で未探訪の場所を早いうちに訪ねたいと思っていたのですが、なかなか機会に恵まれませんでした。

*2020年の春、白鷹町と長井市を訪ねる準備を整えていたのですが、気軽に県境を越えて出かけ、地元の方にお聞きしながらコシオウ神社を探すということが、簡単ではない状況になっていきました。
 新発田郷土研究会の役員で図書館長もなさったS氏から、白鷹町については「白鷹町史談会」の会長・顧問を歴任なさったE氏に連絡を取ってみたらどうかとのご教示をいただいておりました。
 3月29日になって、E氏に手紙を出させていただきました。
 白鷹町で探す予定の場所を文献資料等から推定していましたので、その4個所のコシオウ神社の所在地の候補地をしるした地図を同封して、添削をお願い申し上げました。
 所在地が分かれば、場所を探すために地元の方にお聞きしなくてもよくなると思ったためです。
 翌3月30日に、E氏から四つのコシオウ神社に関して早速メールを頂戴いたしました。
 簡潔に記された情報ですが、三個所の所在地について場所を絞り込むことが出来ました。
 それぞれの場所の探訪記録で記していきます。

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