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探訪記録 山形  50 : 置賜  8


佐藤リスト 位置番号39 : 西置賜郡飯豊町手の子   小四王神社      備考)石堂、現在東向き、お水様  
                〈桑原リスト:西置賜郡飯豊町手の子・古四王社

《探訪の準備》
*川崎「置賜郡の越王神」に、「西置賜郡手の子小四王社」。
 同じく川崎浩良の「古志族の検討」には、「長井市手ノ子 小四王社」とあります。
 月光善弘「古志(四)王神の信仰」の別表一の分布表に「長井市手ノ子 古四王神」とあります。
 これは、分布表を作成するにあたっての資料が川崎浩良については「古志族の検討」のみによっているためです。
 〈月光の当該論文と分布表については、記事「探訪記録にあたって」ー「所在地リストについて」ー「月光リスト」をご参照下さい。〉
*横山貞裕「古四王神社」(『磐船』所収)に、「飯豊町平ノ子 古四王社」とありますが、「北方を向く古四王神社」(『越佐歴史物語』所収 横山貞裕・横山秀樹共著)には「飯豊町手ノ子 古四王社 石堂 東面」とありますので、前者は誤植でしょう。
*「置賜の越王社」(『置賜文化 第十六号』所収)に、「手ノ子古四王社のあった処と見られるかと思わせる駅西のチャシ趾にある石堂も、或はお水神と呼ばれ、或は虚空蔵と称されているが今後研究を要する処である。」

*飯豊町は、昭和33年に飯豊村が南置賜郡中津川村を編入・町政施行して発足しており、その前身の飯豊村は昭和29年に西置賜郡豊原村・添川村・豊川村が合併して発足しています。
 その豊川村は、明治22年に手ノ子村・小白川村・高峰村・松原村によって発足しています。

《探訪の記録》
*2014年8月3日
 〈この時点では、佐藤禎宏『コシオウ信仰研究序説』(佐藤リスト)を入手いたしておりません。〉
 手ノ子に関する情報に目を通し、地図を検討して準備を進めておりました。
 米沢方面に出かけた行程の中で手ノ子を訪ねることができました。
 手ノ子駅の西側・駅裏側を探すために、駅に行って線路の向こう側を見てみましたが、手がかりはありません。
 駅の南側で国道113号から線路を越えて山際・線路際を通っている道、かつての越後米沢街道のようです、がありますので行ってみました。
 踏切の手前に車を駐めて、踏切を越えて山の際を歩いてみましたが、手がかりは見つけられませんでした。
 「置賜の越王社」の記述が、「あった処と見られるかと思わせる」というように、その記述が誠実さの表れであったとしても、あいまいであやふやなものでしたので、「駅西のチャシ趾」についての情報を重要視していませんでしたし、遺跡地図を見ていませんでしたので、駅西の遺跡とその範囲を承知していませんでした。

 八幡神社を訪ねました。
 杉並木の参道を進み、長い石段を登ると広場の先に木立を背後にして社殿がありました。
 お詣りさせていただき、周囲を歩き、写真を撮らせていただきました。
 石段を登って見えたのは拝殿で、その後方に幣殿があり、一段高く流造の本殿があります。
 境内の拝殿に向って左奥側に木造の小祠、石造の小祠、木造の小祠の三社が並んでいました。
 石造小祠に「皇大神社遷…」と題され「平成十三年…」〈…は判読不明〉の年号の記された横板がありました。
 13年前にこの場所に遷座されたのでしょうか。
 木造小祠の1社では、扉の中に石宮が祀られていました。
 三社の小祠に向って右手には、小さな石祠が三社祀られていました。
 一社は形がしっかりしていますが、二社は半ば崩れるような状態でした。東側を向いているようです。
 「北方を向く古四王神社」の情報に「飯豊町手ノ子 古四王社 石堂 東面」もありましたので、もしかすると探している石堂は遷されてこの石祠のなかにあるのでは、と思いました。
 横山は「石堂 東面」の情報をどのように得たのでしょうか。
 資料から得たのであれば、その資料名を示していただきたいし、実際に見ているのでしたら、石堂の特徴や場所を示していただければと思わずにいられません。

 高峰観音を訪ねたあと手ノ子をあとにしました。

 左上: 八幡神社 鳥居、石段登り口                  右上: 拝殿
 左下: 境内の三社の小祠                         右下: 三社の石祠


*2014年9月14日 八幡神社の祭礼日に合わせて訪ねました。
 祭礼日であれば、話を聞ける人がいるのではないかと思った次第です。
 神社への到着時間が早かったようで、ほとんど人がいません。
 周辺の神社を見て回ろうと、荻の神社・松原の神社・落合の神社・等を訪ねました。
 それらの神社の境内には石祠や石碑類が祀られていました。各所から境内に遷されたのでしょうか。
 手ノ子の周辺には小さな神社が多くあるという印象を持ちました。

 八幡神社に戻りますと、人々が集まり始めていましたが、祭に関わる方々は忙しそうにされていますので誰彼と話を聞けるわけではありませんでしたし、お聞きした方で石堂のことやコシオウ社のことをご存じの方はいらっしゃいませんでした。
 お聞きした話のなかに境内にある小祠を祀っておられる方のことがありましたので、その方を訪ねさせていただきました。
 見ず知らずのものの急な訪問にもかかわらず親切にご対応いただきました。
 お話によれば、その方の家〈A家〉ともう一軒の二軒の家で神様を祀っていて、踏切を越え150メートル程上がったところに木造の社があったけれども、老朽化と雪で壊れるということがあって、八幡神社の境内に遷座したとのことでした。
 そのお話をお聞きして、旧越後米沢街道のほうへ行き踏切を越えたあたりを探してみました。
 犬の散歩中の方にお聞きしても、以前に小さな神社があったこともその場所もご存じではありませんでした。
 山の中に続く上り道かもしれないような場所はあるのですが、行ってみることはしませんでした。
 当てもなく山の中に入っていって遷座した小祠の場所を探してみる必要があるとは思いませんでした。

 もう一度八幡神社に戻り、祭礼の始まりから獅子が社殿から境内におりて境内を廻るところまで見学させていただき、夜まではいられないので、帰路につきました。
 長い獅子を初めて見ました。
 戻ってから、見聞きしたことを整理したり、神社祭礼関係者の方に問合せの手紙を出してみたりいたしましたが、手ノ子のコシオウ石堂を見つけることに進展はないままです。

 祭礼日の八幡神社

*2019年10月26日
 白鷹町への探訪の準備をしていて、「置賜の越王社」(高橋堅治)を読み直した時に「手ノ子古四王社のあった処と見られるかと思わせる駅西のチャシ趾にある石堂も、或はお水神と呼ばれ、或は虚空蔵と称されているが今後研究を要する処である。」の記述があらためて目に入りました。
 以前に読んだときは、神社探訪の経験も少なく、遺跡地図から探すこともしておりませんでしたし、確信の持てない書き方になっているので、探訪のための情報としてはあまり重要視しないでおりました。

*あらためて『山形県遺跡地図』にあたってみると、「手ノ子西館跡 城館跡 中世」があり、場所はまさに手ノ子駅の西側で、範囲の北側が駅の西にあたり、範囲の南側は駅の西南西で旧越後米沢街道の近くまでとなっているようです。
 範囲の西側は標高356メートルの山の頂上から東側の標高320メートル付近になり、東側はJR米坂線の近くまでとなり、標高300メートルより低い緩やかな斜面を中心に広がっているようです。
 手ノ子駅の北側で線路を越えて北に向う道路から分岐して南へ向かい駅裏附近から西に向う細い道が「手ノ子西館跡」の北側を通っているようです。
*『飯豊町史 上巻』(飯豊町史編纂委員会 昭61・1986)の「第四章」中の「六 遠藤氏(手ノ子郷)」に、「伊達家の家臣で手ノ子郷の地頭領主だった遠藤氏は、〈略〉。その館跡と伝えられる遺構が、飯豊町手ノ子の中心部、米坂線・手ノ子駅近くの高台(虚空蔵山)に残っている。〈略〉戦国時代の山城としてもってこいの場所だ。」があり、「手ノ子の『西館』と呼ばれており」とありました。
 同書の「表11 飯豊町の城館跡一覧」のno.13に「種別:山館、名称:西館、所在地:大字手ノ子・虚空蔵山、現況:畑、記事:空堀、土塁あり。〈略〉」がありました。

*2014年9月にお話をうかがったA家の祀っていた、踏切の先から上ったところにあった神社というのは、この手ノ子西館跡にあったのだろうと、あらためて思いました。
 その手ノ子西館跡にコシオウ石堂があるかもしれません。
 2014年9月に見た踏切の先の上り道かも知れない場所は、道が明らかなわけではなく草が茂っていましたので、冬の前後とかの時期を選ばないと進めないと思われますので、行ける機会を待っていました。

 探訪の当日、赤湯の後で夕方が近づき雲行きも怪しくなってきたのですが、様子だけでも見ておこうと手ノ子に行きました。
 先ず、駅の北側の踏切を越えてから南に向う未舗装路を進み、西に方向をかえて進んでみましたが、手ノ子西館跡の方へ向かえる道を見出せませんでした。
 駅南の踏切の先へ行ってみますと、前回に上り道かも知れないと思った場所に踏み跡のようなものがあり、歩いて行けるようでしたので斜面を上がってみました。
 少し行くと道は方角をかえ、道はくぼみになり草にじゃまされなくなりますが、倒木があり、坂になったくぼみ道が水の流れでえぐられたりしていました。
 そこを進んでいくと平坦になり、そして夫婦杉のような印象的な二本杉がありました。
 その周辺に、倒壊した建物のトタン屋根のようなものが見えました。石材のようなものも見えます。
 もしかすると、倒壊建物は二棟で、トタン屋根の建物のほかに板葺きの建物も倒壊しているのかも知れません。
 ここにA家の神社があったのではないかと思います。
 ここまでに石堂は見当たりませんでした。
 さらに先へ歩を進めたところ、雨が当たり始めましたので、石堂を確認することが出来ないまま山を下りて、そのまま帰宅しました。

*A家の方に手紙で問い合わせをさせていただきましたところ、二本杉の付近に神社は二社あったとのことで、板葺きの建物がA家の祀る神社で、もう一社についてはご存知ないとのことでした。
 その山中に他に石堂があったかどうかは分からない、とのことでした。
 二本杉に至るまでに石堂があれば、A家の方は石堂を見ていると思いますので、そこまでには石堂はないということと思います。

 不明の一社はトタン屋根の社殿なので、石堂の可能性は小さいのではないかと思います。
 八幡神社の境内に、木造社殿の中に石宮が祀られている小祠がありましたが。
 二本杉の所は神社を祀るにいい場所なのでしょうから、そこに二社祀られていたのでしょう。
 また、この山のその場所に祀る理由があったのでしょうが、それは何だったのでしょうか。
 二本杉の付近に石堂が無いと、山中の道をさらに北側に行ってみるか、道を外れた場所とか山頂付近とかも探さなければならなくなりそうです。
 この山は、虚空蔵山と呼ばれているようですので、虚空蔵菩薩が祀られているか祀られていたのでしょうが、祀られている場所と状態が分かっているのであれば、虚空蔵菩薩の祠と他との区別が付くのでしょうが。
 また、現況は畑と記されていましたが、畑らしいところは見ていませんし、地図に畑のマークもありません。
 かつてはもっと山が利用され、生活とのつながりもあったのでしょうが。

 左上: 踏切の先に登り口                        右上: 道
 左中: 坂のくぼんだ道、倒木                      右中: 二本杉
 左下: 倒壊小祠のトタン屋根                      右下: 落ち葉に埋もれる板葺き屋根


*2020年の9月に、『うきたむ考古 第二十号』(うきたむ考古の会 平28・2016)所収の「アイヌ語で解く飯豊町の古代」(清野春樹)を目にしました。
 その「二、手ノ子」の項目に、『いいで史話 第23号』(飯豊史話会 平7・1995)所収の「源居寺(手ノ子)開基壇頭について」(高橋運作)からの引用文が記されていました。
 『いいで史話 第23号』の当該記事には当たっておりませんが、その引用文のところをそのままここに記させていただきます。
 引用文は、「手ノ子城(館)は、現手ノ子駅西方高台(俗称お神明山)よりデルター形に突出した見晴らしのよい岬にあった。この遺跡も、明治に至り山が削られ小学校が建ち、更に昭和初期に至り、真っ二つに割られて米坂線が通った。残された猫の額程の遺跡も、戦中戦後食糧増産の名のもとに丸裸にされ、豆、大根畑に変わり果てた。高台(伊達四十八館の一つ)よりは、白川流域の南北数里を眺め、又越後街道の要所としても重要であったろう。(略)」、になります。
 この記述は、『飯豊町史 上巻』の手ノ子の「西館」のことでよいのだろうと思いますが、「真っ二つに割られて米坂線が通った。残された猫の額程の遺跡」とかの記述は、もともとの遺跡の範囲やもともとの山地の範囲などはどうなっていたのだろうかと、あらたな疑問が生じています。
 ただ、畑に変わったことの経緯を知ることができました。
 「俗称お神明山」という「虚空蔵山」とは異なる呼び方については、A家が山中に祀っていた神社は「お神明様」とのことでしたので、それとの関係が気になります。
*カシミール3Dの「空中写真+スーパー地形」で昭和49年頃の空中写真を見てみると、確かに『山形県遺跡地図』の「手ノ子西館跡 403−060」の範囲は一部に木立を残しているようですがほとんどの部分が畑地のように見えます。
 また、「手ノ子西館跡」の更に西側の標高の高い部分も切り開かれているように見えますし、この山地の北側にある谷地をこえた山地、つまり手ノ子駅の西北西に広がる山地、も大きく切り開かれているように見えます。
 このような山地の開拓状態を見ると、A家の祀っていた山中の祠や隣接する他の祠が何時の時代に祀られたのかということが気になります。
 山中のどこかににコシオウ石堂がかつてあったとしても、大きな範囲での開拓が行われた場合に、はたしてそのままの状態であるのだろうかと思います。

*2020年の秋も深くなっていき、山に向うならばこれからの時期になると思いますが、人の気配のない手入れのされていない山の中に入っていくことは、各地での熊の出没情報もあり、私にとってはあまり気の進まないことです。
 もう一度山に入って、もし石堂を見つけたとしても、「置賜の越王社」の記述にあるように、その石堂がコシオウ社かどうかは分からないわけです。
 山の中の調査は、何時になるか分かりませんので、ここまでで記事にしておきたいと思います。


《 追記 》*手ノ子駅西の山再訪
《探訪の記録と整理》
*2021年年5月15日
 上山市上生居を訪ねた後に、手ノ子駅西側の山に行ってみることにしました。
 車の駐車場所をさがし、支度を調え、虚空蔵山(お神明山)に向いました。
 先ず、これから向う山の鉄路脇からの様子を見ておきました。
 斜面にコンクリ−ト土留が設けられており、線路面との高低差がうかがわれます。
 道路から山への入口をはいって小さなU字溝をこえていくらも行かないうちに、笹藪の間に道がありましたので、そこへ登ってみました。
 その道は、前回登っていった場所よりも手前にある道で、前回は道に気付きませんでした。
 登っていくと、枯れた茅に覆われた平坦な広場のような場所がありました。
 平坦地を歩いてみると、耕運機がうち捨てられていたりもしましたので、この場所あたりが以前は畑だったという場所なのかと思います。
 周囲に木立はありますが、ある程度の広さのある平坦な場所がありました。
 茅は、倒れて枯れていますので、もしかすると人の手が入って刈られたのかもしれませんが、雪によるものかもしれません。
 右左に行ってみたり、平坦地から前回登った道に行けないかと、前回の道のあると思う方向へ行ってみましたが、樹木に阻まれ行けそうもないので来た道に戻りました。
 道路からの道に戻ってからさらに奥に行ってコンクリートの土留めのような物の先から前回登った道に進みました。
 道と周辺の状況は、春のせいか木立の繁茂も草も多くなっていて、荒れが進んだように感じられました。
 手入れされた様子は無く、誰も入ってきていないのではないかと思えました。
 二本杉のところに至り、あらためて周囲を見てみますと、板葺屋根と鉄板葺屋根があり、石材がいくつか存在しています。
 板葺の祠を祀っていたA家の方は、二社あったとおっしゃっておいででしたが、もしかすると二社の他に石祠があったのかもしれないというような思いも浮かんできました。
 二本杉から道らしいところをたどってさらに進み、前回の到達点よりさらに歩を伸ばし、杉が三本程集まって立っている場所を二ヶ所越えて進みましたが、その先で道らしい場所は倒れかけた木々に阻まれさらに進むのはかなり大変なことが見て取れました。
 この先にもし石祠があっても、石祠を見つけたということ以上では無く、コシオウ社とすることはできないと思いますので、無理をしてこれ以上先に行っても仕方が無いだろうと、進むことを止めました。

 左上: 線路脇の斜面                           右上: 笹藪の間の道
 左下: 奥に平坦地が開ける                       右下: 枯れ茅の平坦地                   


 左上: 土留の先から前回登った道に進む              右上: 前回の写真(左中)と同じ場所
 左下: 二本杉                                右下: 倒れた木々が道を塞ぐ 


*戻ってから、スマホ版のカシミール3D「スーパー地形」での「トラック(軌跡)の記録」を見てみました。
 先に行った平坦地は、東西に舌状に伸びる山裾の標高280メートルの等高線に囲まれた部分になるようです。
 地理院地図でこの場所にあたるであろうところには点線で囲われてV字のような畑の地図記号が記されていました。
 私の行程軌跡の基本的な方向は南から北に向けて進んでいます。
 平坦地への登り口から行程の北端までは、直線距離でわずか110メートル程のようです。

*次に向った前回と同じ道は、私は南から北西方角に向けて進んでいるのではないかと思っていましたが、軌跡を見ると実際は西北西に向っていましたので、予想外の結果でした。
 軌跡が290メートルの等高線を越えて少し西に進んだところに軌跡線が集まってコブのようになっている所は二本杉で倒壊した祠がある場所と思います。
 そこから少し進行方向が変わり、西に向っています。その先の方には標高356メートルの山頂があります。
 この行程の登り口から二本杉までは直線距離でおよそ140メートルくらいで、二本杉から行程の西端まではおよそ70メートルくらいで、そこから山頂まではおよそ280メートルくらいです。
 歩いた道は木々に囲まれ、所々で木が倒れかかっていましたが、地理院の地図ではこの行程付近に畑の地図記号は無く、南側に針葉樹林の地図記号があり、北側には荒地の地図記号があります。
 カシミール3Dにより昭和49年頃の空中写真を見ると、畑記号のある平坦地の西側に南北に黒っぽい線があります。カシミール3Dのスーパー地形で見ると少し高い所が3ヶ所連なっていて、その西側が低くなっているように見えますので、土塁や堀の趾かもしれません。
 二本杉を境にして、二本杉の北西側は山が切り開かれているように見えますし、二本杉から西へ進む軌跡は切り開かれたところと木々が残るところの境にそっているように見えます。
 傾斜のある場所には木が残されているようです。
 空中写真では、二本杉から西に行った行程の中間付近に二個の長方形の白く写る物が見えます。建物でしょうか。今回の行程中にはこれにあたるような物を見ていません。
 いろいろ変化があったのでしょう。

*スマホ版カシミール3D「スーパー地形」の「トラック(軌跡)」のスクリーンショットを載せます。


 石祠を発見できないでいるのは残念ですが、今回をもって虚空蔵山(お神明山)の調査を終了します。
 歩いて見た場所は虚空蔵山(お神明山)のほんの一部で、遺跡番号「403−060手ノ子西館跡」の南側の部分にあたる範囲だけでしょうが、山になれていない者にとっては、これ以上実地の調査のしようが無いと思います。

*昭和32年・1957年の「置賜の越王社」では「駅西のチャシ趾にある石堂」とありますので、2021年から64年前には石堂があったのでしょう。
 どこにあったのでしょうか、その後はどうなっているのでしょうか。
 佐藤禎宏は『コシオウ信仰研究序説』で、神(社)名・所在地・備考を「小四王神社・手の子・石堂、現在東向き、お水様」と記しています。
 その記述の資料は何だったのでしょうか。

 資料と出会えるとよいのですが。

《追記・補足》
*2021−07−24(土)
 飯豊町町民総合センター図書室で、『いいで史話』を昭和40年(1965)の第1号から最新刊までと『歴史と考古』(歴史と考古編集委員会 いいで歴史考古の会)の1号〜10号(平15〜24・2004〜2013)にざっと目を通しました。
 手ノ子のコシオウにつながるヒントがないか、目次から関連のありそうな記事を見てみましたが、その限りでは直接に取り扱っている記事はありませんでした。
 昭和40年から50年以上にわたるなかで、誰も記事にすることはなかったわけです。
 関心の持たれるものではない、ということでしょうか。
 なお、『いいで史話 第23号』(平7年3月)については、2020年10月に山形県立図書館から地元図書館から「相互貸借」でお借りして拝見しました。

 『いいで史話 第五号』(昭42ー10)の「手ノ子城主と伊達の忠臣 遠藤山城守藤原基信の関係」(安部隆吉)の中に「遠藤四良左衛門が舘を構えた伝えられる場所は、手ノ子駅の直ぐ西にあたる通称虚空蔵山という所で、百米たらずの丘であるが、神明山からデルター形に突出た見晴らしのよい岬にあった。この遺跡も明治に至り、山の末端が削られ、小学校が建ち、更に昭和になって真二つわられて米坂線が通った。残された猫額大の遺跡も、戦時中食糧増産の名のもとに、丸裸にされ、豆畑や大根畑に変り果てた。現在は舘の面影は殆んどうかがうべきもないが、唯西側の神明山との堺に当時の堀の跡が叢となって残っているほか、飲料水としたらしい清水が今も尽きぬ思い出を滾々と湧き出しているだけである。」の記述がありました。
 私は、駅の西側の山のことを「虚空蔵山」と言うと思っていて、『いいで史話 第23号』で「俗称お神明山」という記述があったので、虚空蔵山を俗称として「お神明山」とも言うのだと思い、この記事で虚空蔵山(お神明山)と表記しました。
 第五号の記事によって、虚空蔵山と神明山が別の場所を指していることが分かりました。
 虚空蔵山は先の探訪で最初に行った平坦地の部分で堀跡より東側の部分のことで、神明山は虚空蔵山の西側で2019年と先の探訪の後半で行った倒壊したお神明様の祠のある山地部分のことを言うということのようです。
 この虚空蔵山の部分は神明山から突き出た岬状の部分で、ここに「置賜の越王社」で「チャシ趾」と記されていた「西館」の跡がある場所なのでしょう。
 ここに清水が湧き出ているとのことですから、チャシ趾にある石堂を「或いはお水様と呼ばれ、或いは虚空蔵と称されている」ということなのでしょう。
 石堂がまだあるのであれば、探す場所は畑跡の平坦地とその周囲ということになるのだろうと遅まきながら分かりました。
 石堂があっても、お水様は虚空蔵様かわかりませんが。

 『山形県中世城館遺跡調査報告書 第1集 置賜地域』(山形県教育委員会編 平7・1995)の「手ノ子西館略測図」を見ると、図で「虎口」と記された所に向う道が曲がりながら東から西に伸びています。
 この道が気になりますが、「いいで史話」・「飯豊史話会誌 第46号」の「平成29年度飯豊町の文化財事業報告」の「手ノ子西館の発掘調査」によると安全な通路を確保できなかったために現地説明会を開催しなかったとありますので、簡単には行けそうもありません。

 今後に希望があるとすれば、未読の『置賜文化』や考古学の方から遺跡の調査報告書や『うきたむ考古』を閲覧する機会があれば、なにか進展があるかも知れません。


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