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探訪記録 山形  44 : 置賜  2


佐藤リスト 位置番号 33 : 西置賜郡白鷹町十王・小四王  腰王神社    備考)北向き、石堂 
                 〈桑原リスト:西置賜郡白鷹町十王・小四王山

《探訪の準備》
*川崎は、「白鷹町十王の小四王山」と地名の情報をあげています。〈記事「置賜の古四王神社」に既述〉
 桑原リストは、これを受けたものでしょう。
*『白鷹町史 上巻』に、「十王にあるものは石堂で元の位置から移されて建ち、古くは『こしょう』の地名のところに在ったという。」とあります。〈記事「探訪記録  置賜 1」に既述〉
 『白鷹町史 下巻』の一覧表では、十王地区の神社の中に名称欄:小四王神社があり、位置欄:小四王、祭神・本尊の欄に越王との記載があります。
 『山形県地名録』には、「十王村」の地名中に「小四王(山、前、窪、南)」とあり「コショウ」のカナが振られています。地名はあっても、その場所がどこになるのかは分かりません。
 また、十王村にも「塩田(前、向、山)」がありました。
*「置賜の越王社」(『置賜文化 第十六号』所収)に、「十王の腰王社附近の、現に古峯神社を祭る金剛山も二重の空濠を廻らしたチャシ趾である。但しこゝの越王社は、この山麓の小字越王前から梢引込んで東南の沢合いに、心持東北面を向って、鎮座している小堂となっているが、後年この地に移されたものではないだろうか。」とあります。
 腰王社と越王社の2種の文字が記されています。
*『十王郷土誌』(十王郷土誌編纂委員会 昭36・1961)「第十一編宗教・第一章神社」に、「小四王神社」に「神社は現在殿子沢にある小さな石のお堂がそれであると云われている。」があります。
*『西置賜郡志 2輯 宗教篇』の山形県の「こしおう」神社の分布として十四カ所をあげた中には、「十王村十王 腰王神社」と記しています。

*こういった情報から事前に石堂の所在地を絞り込めないかと、いろいろインターネットで調べてみました。
 金剛山や三宝荒神社と古峯神社の参道入口はすぐに分かります。
 草木塔や米沢川の情報や白鷹農業振興地域整備計画に関する情報から、小四王地名のおよその場所は推定できたと思います。
 しかしながら「小字越王前から梢引込んで東南の沢合い」はどのあたりのことなのか分かりませんし、「殿子沢」の場所も分かりません。
 『山形県地名録』には「十王村」の地名中に、「トノコザ」のカナが付いて「殿子沢(東)」が確かにあります。

《探訪の記録》
*記事『置賜の古四王神社について』の《白鷹町のコシオウ神社探訪と所在地情報》の最後の文節で記述した白鷹町のE氏のメールに具体的な場所の情報はありませんでした。
 これまでの下調べによれば、金剛山の北側の麓の付近に字地名の小四王があると思います。
 北側の麓の西側の八掛方面〈八掛公民館がある〉から東に向う東西の道と金剛山の西側の麓の上野〈ワノ〉方面から金剛山の麓を通って北東方面の折居〈折居公民館がある〉に通じる道が交差していますが、その交差点の東側あたりが字小四王の範囲内になると思います。
 そして、交差点から東に続く道のそばに米沢川が流れています。
 この道を通って米沢川に注意を払って石祠を探してみるしかないと思います。
 「東南の沢合い」とありましたので、字小四王の場所と思えるところから東南側の米沢川付近に先ず行ってみようと思います。

*2020年7月24日
 白鷹町を高岡から南に行く順にまわって高玉に行こうと思っていましたので、高岡の次に十王を訪ねました。
 ナビの目印にした龍澤寺の横の道を通り三宝荒神社の参道入口のある交差点に至り、さらに東に進み米沢川にかかる橋〈小四王橋〉をこえて舗装はされていますが狭くカーブの多い山道〈林道 三ツ滝線〉をゆっくりのぼっていきながら川の方の状態に注意をはらいました。
 これはと思うような場所も見つけられずに、車をかえせるところで戻り、戻り道でもう一度探しました。
 道沿いに米沢川周辺を探すことはうまくいきませんでしたし、米沢川の小四王橋から下流の方は道から離れていきますので、情報がないと探せないと思います。
 地元の方にお聞きしてみるしかないかと、字小四王にある民家をお訪ねしてみましたが、お留守でした。
 そこから少し離れた別の民家をお訪ねすると、老夫婦がご在宅でしたが、コシオウ石祠はご存知ないとのことでした。
 交差点に出て折居の方に右折し、米沢川にかかる橋〈嫁取橋〉から川の様子を見てみましたが、上流側の両岸は木立と藪で行けそうもありませんでした。
 十王を離れる際に、三宝荒神社の参道入口付近にいらしたお孫さんを連れた方にもお聞きしてみましたが、情報はありませんでした。
 残念ながら探せませんでした。

*荒砥の社を訪ねた後に、『十王郷土誌』にあった「殿子沢」に関する情報があればと思い、白鷹町の図書館を訪ね、図書館の方にお世話になり資料を探しましたが、短時間では見つけられませんでした。
 資料探しに際して、探している資料と経緯をお話させていただき、E氏にお世話になったこと、十王で訪ねた民家が留守だったこと、その民家はインターネットで十王の小四王を調べていたときに草木塔の関連サイトに記載されていたA家で、そのサイトにA家の字小四王のついた住所があったので字小四王の場所がはじめて確認できた、というようなことをお話しいたしました。〈A家はイニシャルではありません〉

 十王への最初の探訪はこのようなことでした。

《探訪その後》
*2020年7月25日
 白鷹町立図書館にいらした地域おこし協力隊のM氏が、わざわざA家を訪ねてくださり、「殿子沢に下ろしていた神社を、元の位置である杉林に戻した」というお話を聞いてくださり、A家の奥様にご案内いただき、山のほうに数十メートル上がった杉林の中にある石祠に藪を漕いでたどり着いて、写真を撮ってくださいました。
 さらに、E氏に連絡していただいて当方のメールアドレスを教えてもらい、これらの情報と小四王石祠の写真と資料を添えたメールを送っていただきました。
 思いもかけないことで、感謝しきれません。

*2020年7月26日
 M氏とE氏に御礼・ご報告のメールを出させていただきました。
 E氏より、十王のA家より連絡があった旨などが記されたメールをいただきました。

*M氏のメールにあった資料を図書館の相互貸借によってお借りしました。
 『十王巡り』(地域振興十王生年会議 平9・1997)に「小四王神社 こしょうじんじゃ 九町内 〇〇□□氏屋敷内〈伏字〉」の項目があり「〈略〉当地のものは小四王にあったものを、ある時期に殿子沢に移したが、現在は石の小堂で〇〇□□氏屋敷にある。」とありました。
 口絵に「小四王神社」の写真があり、石祠の身舎に正方形に彫り込まれた内陣のような部分があり御札が納められている様子が見て取れます。〈石祠の各部名称が分かりません〉

 小四王石祠が「殿子沢」から遷座していたとは知らず、「殿子沢」の場所を確認できる資料を探そうとしたことは結果的に誤りで、十王に関する資料にあたっていれば、もしかすると小四王石祠の情報を得られたかもしれませんが、探せずに帰ることになったことでかえって詳しい情報をお知らせいただくことになり、何が幸いするか分かりません。有り難いことだと思います。

 白鷹町さん有り難うございますという思いです。

*A家様宛に御礼の手紙を出させていただき、さらにはM氏からの情報によって生じた疑問に関連した問い合わせまでさせていただきました。
 有り難いことに、A家の奥様よりお返事を頂戴いたしました。
 さらにもう一度問い合わせさせていただき、もう一度お返事を頂戴いたしました。
 最初のお手紙に「先日は、遠い所からおいでいただいたのに留守にしてすみませんでした。」とあって、私の自己都合にもかかわらず、本当に有り難く思います。

 奥様からお教えいただいたことにそって記します。
 神社名は、地名が小四王であり、「小四王神社」と表記なされています。
 神社は西の方角を向いているそうです。
 この神社がいつから祀られているかは不明とのことです。
 昔、山を開こんするため、あった神社を 殿子沢の杉林の中に運んだ そうです。
 つめたい湧水が出る水源地の脇におさまっていたとのことです。
 奥様は、若い頃よく殿子沢に山菜とりに出かけていて、湧水でのどをうるおし、いくたび神社に手を合せておられたそうです。
 平成3年に友達と荒砥の占い師に行った時に、「神様が元の場所に帰りたいと言っている」と言われ、義父様が〈殿子沢の鎮座地の〉山主に事情を話して承諾をえて、ご主人様と土ぞりで降ろし現在の地に平成3年〈1991〉8月17日に安置されたとのことです。
 その場所は、畑の上の1カ所で、地名は荒神下になるとのことです。
 十王の祭礼の時(5月3・4日)赤飯等お供えしていたそうです。
 今は草取りなどの手入れも思うに任せないそうです。
 殿子沢の湧水は昔十王地区の水道水として使用されていたとのことです。

 現在の鎮座地の地名は荒神下とのことで、金剛山に三宝荒神社が鎮座していることと関連する地名でしょうか。小四王山ではないようです。
 『山形県地名録』の「十王村」の地名中に「荒神(下)」がありました。
 国土地理院の空中写真で、昭和49年頃の写真と新しい写真を見比べてみてみると、かつては金剛山の北西側の麓付近は耕地が段をなして開かれていたことが頷けます。
 A家から南側の山の麓にも棚状に耕地があるようです。

*A家の奥様にお教えいただいたことや『十王巡り』の記載やM氏・E氏のメールなどから、小四王の石祠は現在は山の畑の所をのぼった場所に鎮座しており、そこには個人の屋敷を通って行く事になりますし、藪になると案内がなければ行けないようです。
 十王のコシオウ様は「小四王」と表記されコショウと発音され、字地名に小四王があり、白鷹町十王(字小四王)地内の個人の屋敷からのぼった畑の上に石祠が西向きに鎮座しています。

 皆様のご親切により、十王の小四王石祠の鎮座地の場所が十分なほどに絞り込めましたし、石祠の写真もいただきました。 
 石祠に詣でるには個人の屋敷にお邪魔することになりますので、ご迷惑をおかけいたさぬよう、情報の出し方に注意が必要ですし、勝手に屋敷や畑に踏み込むことは避けねばならないと思います。
 E氏の最初のメールで十王の所在地情報だけが具体的ではなかったのは、こういう問題があったためと思い至りました。

 殿子沢に遷座したのが何時の頃か・何故殿子沢が選ばれたのか・など、分からないままですし、小四王神社を自らは訪ねてはおりませんが、それ以上のことがあったと思いますので、探訪記録の記事は、ここまでで良いかと思います。

 いつか、訪れることが出来たときは、その事柄を追加記載したいと思います。

 カシミール3D・解説本の地図(1/25,000)に幾つかの書入れをしたものと、M氏による石祠の写真を載せます。

 *←→ 矢印:この辺りを探してみました。 *↑交差点八掛から東への道と上野から折居の道の交差点。 
 *三宝荒神社。  *↑参道入口三宝荒神社の参道入口。
 *八掛・上野・折居に赤枠  *塩田に下線を記入。



《 追記 》
*2022年4月30日(土) 
 十王の小四王石祠については、いろいろな方にお世話になり石祠写真や鎮座に関する情報も得ることができました。
 石祠についていろいろお教えいただいたA家の奥様にお会いしてお礼を申し上げたい、石祠とその場所を自分で見たい、との思いがありました。
 昨年の春は、A家様に連絡させて頂きましたが、結局、訪問を自粛いたしました。
 この春はお伺いできそうな状況なので、天気予報から30日に出かけることでA家様にご了承いただきました。

 長井市で、A家の奥様に電話で到着予定時間をお伝えしましたところ、ご自宅前の道路端に出ていただいておりました。
 初対面の挨拶をさせていただき、すぐに長靴に履き替えるなどして小四王石祠へ向いました。
 A家の庭の端から裏山に登り始め数度ジグザグに折り返しながら登る道は、草はまだ歩くに支障はありませんが、コゴミと思えるものはシダになっていて、フキは葉になって群生し、ところどころにカタクリが咲いていました。
 左側から斜めに登って右側に行って、右側から左側に斜めに上がっていく、また十数メートル右に登った先に枯れた茅に覆われた上下二段になった平坦地が見えました。そこは山を開墾した畑地で以前はタバコの栽培をしていたところだそうです。
 また十数メートル左に登り山の上の方を見ると、枯れ茅が左右に続いている先に山桜が小ぶりの花を咲かせていました。
 桜の木の根元の少し先に石祠があるそうです。
 前日の夜に雪が降ったという天気も回復し、見下ろす向かいの里山の若葉の緑も柔らかく、気持ちのいい美しいところですが、山桜の枝は雪で幹から裂けていてその上の枝も前の年の雪で折れたそうですし、猪や熊もあらわれることがあるそうです。

 石祠は桜の後ろ側にあって、そばに杉がありますが、植林によるものと思われる整然とした杉林はもう少し高い所から始まっています。
 畑地を登りきった一番上の場所に石祠が鎮座しているようです。
 石祠の屋根は茶色になり苔もあり年月を感じさせますが、本体〈胴部・塔であれば塔身部。先の文では身舎、内陣のような部分と記述〉の部分はきれいで正面の開口部は四角で中に木札が納められています。
 木札の文字は読み取れませんので、写真におさめて判読してみることとしました。

 帰宅後にパソコン上で写真を拡大したり露出やコントラストなどを変えたりしてみました。
 山形の木札に三行記されているようですが、右の小さい文字は判読不明ですが年号でしょうか、左下部に記されている文字も判読が難しいのですが「法主」とあるようですがその下は石祠の開口部より下になって写っていませんでした。
 中央の大きな文字は、最初は梵字キリーク続いて奉遷小四王大権現、その下は二行書きで右行は家運とあるようですが以下は写ってなく左行は諸とあるようですが以下不明です。
 現在地に遷座した折の木札なのではないでしょうか。

 石祠の脇に土人形のような布袋様のようなものが二体埋まっています。
 石祠をこの場所に遷座した時のものではなく、誰かがしたことのようです。
 屋根が大きいと感じたので、計ってみたところ、屋根の前後の差し渡しは65p程で、石祠の高さは屋根の端の鬼瓦状の上まで側面から75p程でした。
 思いもよらないことでしたが、小四王石祠の右手にもうひとつ石祠がありました。
 こちらは稲荷の石祠とのことです。この石祠の正面の向きは小四王石祠の向きとは90度近い違いがあります。
 本体の開口部にはなにもありませんでした。
 稲荷祠は、小四王石祠をこの場所に遷す以前からここに鎮座していたそうです。

 奥様にお伺したところでは、殿子沢というのは現在の鎮座地からさらに奥に山を登ったところで、今は道もおぼつかなく行けないとのことでした。
 殿子沢の場所は確認できていません。
 殿子沢の高みから現在の鎮座地に土そりを用いて下に降ろしてきたということです。
 現在の鎮座地には以前から稲荷祠があったとのことですが、その稲荷祠も山の開墾によって畑の上の現在地に祀られたのではないかと、確認は取れないのですが思います。
 そして、稲荷祠の祀られている場所であることも小四王祠が今の場所に遷された理由のひとつなのではないかと思います。


 左上: 開墾した畑地(元タバコ畑)                     右上: 山桜(
 左下: 眺望                                   右下: 石祠と山桜(枝折れ)

 左上: 小四王石祠と稲荷石祠(右)                    右上: 木札
 左下: A家の庭                                 右下: A家の草木塔                  


 小四王祠の向きですが、斜面に麓に向って安置されていると思いましたので、北に向いていると思いました。
 稲荷祠は斜面に対して横に安置されていて、東に向いていると思いました。
 現地では、奥様からは西向きと聞いていたことをすっかり忘れていて、祠の向きをコンパスで確認することをしないでおりました。
 自分の目で見たいと思って来て出会えたことで満足してしまって、調査という意識がなかったようです。
 社殿の方角については、今までもコンパスを当てないこともままあって、社殿の向きにあまりこだわっていないところがあります。
 こだわっていなくても、調べておくことには意味があると思いますが、徹底できていません。
 山中の祠とかにたどり着くと探し出すという大きな目的を達したことに安堵したり、落ち着いて時間を掛けてあれこれと調査することが難しい場面もあって、方角だけではなく様々な調べ残しをしてきました。
 写真情報に頼りがちとなっている調査について反省するところ大です。
 しかしながら、また課題を残したことで、まだ続きが残っているというつながりが消えないような気持ちにもなっております。

 また、お世話になったM氏にはお目にかかれませんでしたが、元気にご活躍のご様子です。
 E氏にはお目にかかって御礼を申し上げることができましたし、お話をすることができ、ご本も頂戴いたしました。
 お話の中で、越族との関連を気に掛けておられるようでした。
 
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