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探訪記録 山形  45 : 置賜  3


佐藤リスト 位置番号 34 : 西置賜郡白鷹町荒砥  腰尾神社    備考)現在東向き、自然石棒  
                 〈桑原リスト:西置賜郡白鷹町小姓堂・腰王神(旧荒砥町)

《探訪の準備》
*川崎「置賜郡の越王神」に「同郡荒砥町小姓堂(腰尾神)」
*『白鷹町史 上巻』に「荒砥深山丘の南方畑の中に(旧道の傍)あるのは、腰尾神社と書かれた棟札があり木造で東面している。」
  『白鷹町史 下巻』の荒砥地区の神社の中に名称欄:古四王神社、位置欄:荒砥、石那田とあります。
*「置賜の越王社」(『置賜文化 第十六号』所収)に「荒砥字小姓堂にある腰尾神は、三尺四面の木造流れ造りの堂宇であるが、御本尊として陽神に模した自然石棒を祭ってある。これも今では東面している。」とあります。

*荒砥町は、明治22年に西置賜郡石那田村・馬場村・菖蒲村・下山村・佐野原村・大瀬村が合併して発足した荒砥村が、明治23年に荒砥町になり、昭和29年の合併で白鷹町になっています。
 『山形県地名録』では「荒砥町の石那田」項目中に「小姓堂」が見当たりません。同項目中に「深山」はあります。
 荒砥町の他の地域にも「小姓堂」は見当たりません。

*『山形県遺跡地図』(山形県ホームページ)に「荒砥城跡」「荒砥深山遺跡(集落跡ー弥生時代)」「石那田遺跡(集落跡ー縄文時代」がありました。
 八乙女八幡神社は荒砥城跡の範囲内にあるようです。
 深山神社は荒砥深山遺跡の範囲内にあるようです。
 石那田遺跡の場所にあるのは荒砥高校の体育館でしょうか。

*深山神社のある丘の南側の旧道を探してみようと思います。

《探訪の記録》
 町史に「荒砥深山丘」と記された深山神社の鎮座する丘は、地図によると標高225メートルで麓との標高差は30メートル程の山で、その中腹付近に深山神社が鎮座しているようです。
 深山神社には、山の北側の道路から行く道があるようです。
 深山神社から南の標高205メートル程の所まで東側から東西に道路が通じていて道路沿いに建物がが並んでいるようですが、この道路は旧道ではなさそうです。
 山の西側に道があり、等高線にそうように山の南にまわり川の近くまで通じている道があるようですので、この辺りで畑や旧道を探してみようと思っていました。

 E氏より「荒砥の腰尾神社は『足腰の弱った方がお詣りする』と良いと言われている。しらたか調剤薬局の所にある。」と教えていただきました。
 深山神社の山の南側と言うのが、まさか川〈貝生川カイショウガワ〉を越えた南側とは思いもしませんでした。
 E氏のメールがなければ、探そうとは思わない場所です。

*2020年7月24日
 白鷹町立病院の南にあるしらたか調剤薬局の構内へ道路から入ってすぐの右側の角に、数本の杉などの樹木に囲まれて木像の小祠が鎮座していました。
 社殿は東に向いているようです。
 社殿の手前に参道が造られ、参道の左右に庚申塔・青面金剛の碑や像などが安置されていました。
 社殿は、コンクリートの基壇の上に、流造風の赤茶色の金属板葺きの屋根で、身舎は赤系の塗色が施されていました。
 社殿の扉の前に石が一個置かれていました。
 穴あき石などは見当たりませんでした。
 さほど大きくはありませんが境内を持ち、守られている印象でした。

 左上: しらたか調剤薬局構内(神社側から写す)          右上: 腰尾神社
 左下: 社殿正面                              右下: 社殿背面から。右は調剤薬局建物


《探訪の整理》
*『荒砥町誌』(長岡規矩雄 荒砥町誌編纂委員会 非売品 昭29・1954)の「第十編・宗教ー第二章・仏教」の最後の項目「その他の祠堂」に、「以上記した外,素戔嗚尊を祀った八幡神社の末社津島神社、石那田上川原の毛谷明神、同じく石那田の小塩堂その他枚挙に暇ないほどある。毛谷明神については別項で詳しく述べたが、小塩堂は腰尾神社とも云い少彦名尊を祀ってある。最近小塩堂は越王神社で県下には十王村西根村外数カ所にあって、越王を祀った神社であると一大発見のように説く者があるが、最も多いのは秋田県で、中には立派な国幣社もあり、研究は充分行届いており、何等の疑問もないことを附言して置く。」の記述があります。
 昔の人のことですしあれこれ言ってもしかたありませんが、この言説は何なんでしょうか。
 また、何故「小塩堂」と表記しているのでしょう。

*『あらと百物語』荒砥町生誕百年記念誌(荒砥?乱舞実行委員会 平3・1991)に「腰尾神社」(丸山正志)の項目があり、「お深山住宅に入る近くの廻り屋橋から南の方へ新しい農免農道ができたが、この道路を二百メートル位南へ行ったところの右手に、数本の杉の木が建っている。通称こしょう原と呼ばれるこの場所に、木造の小さな祠が建っている。腰尾神社である。祠堂は平成元年施主の〇〇□□〈伏字〉さんの手で土台も立派にされ、お堂は朱色に塗られて美しくなった。明治二十六年の棟札には『少名彦名尊奉再建腰尾神社』と記されている。祠堂が建っていたところは旧道傍にあって、いくつかの庚申碑も建っている。〇〇家では今も四月二十八日にお祭りをしているという。腰の病にきく神とされているようで、米沢の方からもお詣りにくる人があるという。/〈段落〉 ここの神社は腰尾と書いているが、一般に越王神社とよばれ、〈略〉」の記述があります。
 「腰尾神社」と題された写真が載せられています。

*現在の地図で見ると、深山神社の山の南側に東西に通じる道路があります。その道路は、町立病院の東側から貝生川を越えて荒砥高校方面に向う道の貝生川に架かる橋から北に30メートル程の所から西に延びて深山神社の南にあたる位置の手前まで続いています。
 この道路沿いに建物が並んでいるようです。ここが住宅地で「お深山住宅」ということでしょう。
 この貝生川に架かる橋が、ストリートビューで見ると「平成8年3月完成」の「めぐりやばし」〈「 」欄干の銘板の表示による〉です。
 現在は、「めぐりやばし」から南に続く道は、国道287号の西側を並行して、町立病院の東側を通りしらたか調剤薬局の東側を通っています。
*昭和49年頃の国土地理院の空中写真を見ると、現在地に白鷹町立病院も国道287号もまだなく、耕地が広がっているようです。
 当時の「めぐりやばし」から南西方面に、くねった道が続いているのが見て取れます。
 昭和49年と最新の空中写真を見比べると、現在の腰尾神社の位置と思われる場所には昭和49年の空中写真でも木立のような緑色と影があります。
 ここが当時の腰尾神社だとすると、道路の東側になりますので、道路を南に行けば左手です。
 当時の道は旧道ということでしょうか。
 また、地図上での計測によれば、現在の腰尾神社は「めぐりやばし」南端から直線距離で230メートル程の所に鎮座しています。
 その位置関係からしても、昭和49年の空中写真の木立と思える場所が腰尾神社と思えますが、そうすると腰尾神社が東を向いていると、腰尾神社の後ろ側を旧道が通っていることになります。
 昭和49年の空中写真では、旧道から腰尾神社の前を通る道路が分岐しているようにも見えますが、断定できるほどの鮮明さがありません。
 「数本の杉の木」ということからしても、現在の腰尾神社は少なくとも昭和49年以降に移動はしていないと思います。
 腰尾神社を動かすことなく、新たに建物や道路が作られたのではないかと思います。
 『あらと百物語』の「腰尾神社」の写真は、白鷹町立病院や調剤薬局の建設前の写真になりますが、現在の腰尾神社と杉の木や石碑が同じに見えます。
 なお、『山形県地名録』で「荒砥町」を見てみますと、「通称こしょう原と呼ばれる」とあった「こしょう原」地名も「小塩(堂)」地名も見当たりませんでした。

*町誌と百物語の両書で、腰尾神社の名称と少彦名尊を祀っているということは共通しています。
 腰尾表記の神社名は、令和2年7月以前に探訪したコシオウ社では出会っていません。
 ここ荒砥だけにある名称になる可能性があると思います。
 コシオウからかコショウからか、変化してコシオになって、腰尾の文字が当てられていったのか。
 そう遠くない所に小四王もあるし腰王もあるなかでの腰尾です。
 少なくとも腰王と表記し穴あき石を奉納する信仰のありようは伝わってこなかったようです。
 少彦名尊を祀ることと病に霊験ということが結び付くように思えます。
 腰の病に霊験から腰尾表記になったのか、腰尾の表記があって腰の病の霊験になったのか。
 言われている霊験や信仰のありようが、後付けのものであっても、不思議はないと思います。
 明治二十六年の棟札以前の文字資料があればよいのですが。
 呼称としては、コショウ堂とされていたのでしょうか。

*腰尾神社は少彦名尊を祀り、しらたか調剤薬局の構内に鎮座しています。
 しらたか調剤薬局の所在地は、白鷹町荒砥甲624−2です。


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