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探訪記録 山形  48 : 置賜  6


◎佐藤リスト 位置番号 37 : 長井市宮  越王神社     備考)現在地不明 
                   〈桑原リスト:長井市宮・腰王神社

◎佐藤リスト なし:
  桑原リスト : 長井市寺泉・五所神社

◎佐藤地名リスト位置番号64 : 長井市五十川  五星朗
◎リスト外  : 長井市勧進代、長井市五十川笹崎 

《探訪の準備》
*長井市に関連するコシオウ情報について、まとめて記したいと思います。

*川崎は「置賜郡の越王神」で長井市に関連する情報として、「同郡西根村寺泉五所神社、同郡長井町越王社」「西根村勧進代、長井村五十川笹崎に北向き観音」を記しています。
 長井町は明治22年に宮村と小出村とによって発足していますので、「長井町越王社」というのは佐藤リストで「長井市宮 越王神社」とされるものではないかと思います。
 丸山茂は長井町について腰王と表記しています。(置賜 1に既述)
 『西置賜郡志 2輯 宗教篇』では「西置賜郡長井町宮 腰王神社」とあります。

*「置賜の越王社」(『置賜文化 第十六号』所収)に、「長井市宮の越王社は、終に其の存在を確かめることが出来ない。」とあり、「西根寺泉小字明神廻御祭所というに、矢張り越王、其の他を祭神とすると伝えられる五所神社がある。一郷の産土神として尊信されているが、大正二年以後、五宮を合祀して、現在は南面する。〈略〉越王としての本義は、判然しないが、大己貴命、建御名方神を祭神とする処に、関連するものがあるかも知れない。」があり、「西根観音は如何なものであろうか、もと長井村東五十川の笹崎観音は、北向の木造小堂であるが、御本尊は、後年観音信仰につれて、越王に代わって祀られ、病気治療の信仰対象となったものと推察される。最近見つかった、玉庭の御丈五尺五寸の北向観音像も、これらの中に考えらるべきものと見られ、〈略〉」があります。

*長井市宮の「コシオウ社」は「其の存在を確かめることが出来ない」ということで、確かに準備段階の調査では所在の情報が見当たりません。 
 「其の存在を確かめることが出来ない」と言うのは、宮にコシオウ社が存在したという文献等はあるが、場所が分からなくなっているということなのでしょうか。
 そうであれば文献等の資料だけでも見たいと思います。
 場所の分からないものを探し出して訪ねる事は出来そうもありませんので、宮の地域を歩いてみることしかかなわないようです。
 フラワー長井線の長井駅を境に北側の地域が長井市の宮地区とのことで、小桜館(旧西置賜郡役所)や総宮神社も宮地区です。
 総宮神社については、文禄二年に長井郷の四十四カ村の神社を合祭したということですので、気になります。
 現在の住所表示では、小桜館は高野町で総宮神社は横町です。 
 現在の住所表示で長井市宮の範囲は野川の周囲と宮原地区と呼ばれる範囲のようです。

 白鷹町の四カ所のコシオウ神社の所在地は、準備段階調査では最上川及びその支流に近い場所にあるのではないかと想定しています。
 また、巨四王神社は川原沢という地名であり、鎮座地の南側に最上川の支流が流れています。
 野川の北側の長井市宮の場所が気になります。

*寺泉の五所神社は、『平成の祭』に「神社名:五所神社〈ごしょじんじゃ〉、通称:ごさいしょ、祭神:(主)大日靈貴命、月読命、金山彦命、建御名方命、鎮座地:長井市大字寺泉2303」とあります。
 『山形県神社誌』に「祭神:大日霊貴尊おおひるめむちのみこと、金山彦命かなやまひこのみこと、武御名方命たけみなかたのみこと、月讀命つきよみのみこと、別雷命わけいかづちのみこと、由緒:白鳳年中役小角朝日嶽を開闢し朝日山大権現と唱号した。天安年中文徳天皇の叡聴に達し叡感有って鎮護の霊場たる可しとの詔勅を賜った。天喜年中奥羽の兵乱に御山も衰微したが、寛治四年、源義家が当麻秀則に命じ、祭地を青木野に換え、朝日岳、岩上岳、小朝日、月ケ峯、三淵の五カ所の尊霊を遷座合祭したと伝えられている。それ以来、五所大明神と唱え、地名も五祭所と改め、一郷の産土神として信仰されてきた。明治五年に村社に列する。大正二年以後、山、三淵、八幡、大沢、熊野の五神社を合祀した。」とあります。
 五柱の神を祀って五所大明神で、その祀る場所を五祭所としたということのようです。
 修験道との関係が強くあった神社でしょうが、川崎が『美人反別帳』でコシオウが「後世修験者が祭事を行うに至って五所となまっている向きもある」というものにはあたらないと思います。
 五所神社は、巨四王神社の南方2300メートル程の所に位置しており、南に最上川の支流の野川の支流が流れています。

*長井市五十川〈イカガワ〉の五星朗に関しては、『山形県地名録』の「長井村の五十川」項目中に五星朗がありゴショウロウのフリガナが付いていました。
 佐藤は何故この地名をコシオウ地名所在地のリストに加えたのでしょうか。
 事前調査では、その地名の場所は分かりません。
 やみくもに探すわけには行かないと思います。

*川崎は、勧進代と五十川笹崎の北向き観音について観音堂が北向きであることでコシオウとの関連が見られるとしているようですが、いかがなものでしょうか。
 事前調査では、長井市勧進代に観音(堂)情報を見出せませんでした。
 「置賜の越王社」でも「西根観音は如何なるものであろうか」とあります。
 「置賜の越王社」にある「東五十川の笹崎観音」は、川崎の「五十川笹崎の北向き観音」と同じものと思います。

 長井市五十川の観音(堂)については、インターネット上に情報がありました。
 それらの情報によると、置賜三十三観音の第三十一番札所に五十川観音(生僧観音)があるそうです。
 観音堂の場所は、最上川の右岸の五十川に生僧〈ショウズ〉地区があり、国道287号線の東側の道(旧国道)の生僧地区あたりで東に入ります。 ネットの無料地図に場所が示されていました。
 現在に住所表示では五十川に生僧はありますが笹崎はありません。
 この場所が川崎の言う笹崎にあたるのでしょうか。観音堂の向きは分かりません。

 札所巡りをなさっている方のサイト〈「置賜三十三観音札所巡り」http://sekiya.name/kannon/okitama.htm 〉の情報〈2018/8/15閲覧〉に、五十川観音の旧国道沿いの駐車場のわきに小さなお堂があり、穴の開いた小さな自然石を吊してあった、そうです。
 穴あき石が吊されていたからと言って、コシオウ信仰と結びついているとは言えないと思いますが、気になるところです。

*「置賜の越王社」に、「玉庭の御丈五尺五寸〈約167cm〉の北向観音像」の記述がありますが、玉庭は東置賜郡川西町玉庭のことかもしれませんし、「玉庭」が長井市のことであれば「時庭」の誤りかも知れません。
 川西町玉庭に観音の情報を見出せません。 
 長井市時庭に時庭観音があるそうですが、観音堂の向きは南側のようです。

 勧進代及び玉庭については、関連する資料が見出せれば、その時に訪ねることにしたいと思います。


《探訪の記録》
*長井市宮と長井市寺泉と長井市五十川の三つの場所を訪ねてみたいと思います。

◎長井市宮のコシオウ神社
 宮地区にあったのでしょうが、「其の存在を確かめることが出来ない」コシオウ神社のことで、総宮神社のことが気になっていました。
 総宮神社に関して調べてみようと国立国会図書館デジタルコレクションの図書館送信資料で、『長井市史 第二巻』の「第五章・第二節 近世の遍照寺と惣宮大明神」、「第六章・第二節・1 神仏分離」をパソコン画面で閲覧していくと、「六章・二節・1」中の「遍照寺の神仏分離」の項目のなかに「明治三年七月に、神仏混淆改め役人の検分を受けて、翌八月になると、惣宮大明神は遍照寺より分離独立ことを決定する。それまでは大明神社内の神仏分離であって、決して遍照寺より分立した訳ではなかった。惣宮大明神と馬頭観音堂の旧境内には、次頁『諸堂配置図』に見られるように、惣宮大明神(拝殿南北三間・東西七間、廊下二間、本殿二間・三間)・馬頭観音堂(三間四面)・地蔵堂(二間・三間)など、大小十六棟の堂舎が配置されている。」とあり、「第190図 大明神・馬頭観音堂旧境内諸堂配置図」がありました。
 それら堂舎の支配関係が、「1 大明神支配(別当別当坊・神主菅隠岐守・先達明王院)の堂舎  /〈堂舎略〉」と、「2 別当坊支配の堂舎 /〈略〉」「3普門坊支配の堂舎 / 馬頭観音堂・山神堂・名称不明・鐘楼・商宮」、「4 その他 /〈略〉」に分けて記されています。
 続いて、「この時別当坊・普門坊(馬頭観音堂は遍照寺境外仏堂として独立、昭和十七年に遍照寺に合併、同四十六年に再び普門坊として県知事の認承を受け分離)を含めた遍照寺六坊は、すべて廃寺となり本寺遍照寺に吸収合併された。そして、これら十六棟の堂舎についても、それぞれ名称が改められて、遍照寺・大明神両者の支配として区分されるにいたった。」の記述があります。
 普門坊支配の「名称不明」の堂舎は「薬師堂」に改められたそうですし、山神堂は十一面観音、商宮は虚空蔵堂に改められたそうです。
 そして、「2 遍照寺の支配となった堂舎 / 馬頭観音堂・春日堂・十一面観音堂・薬師堂・鐘楼・虚空蔵堂」と記されています。
 その名称が不明とされた堂舎が「薬師堂」ということにされた、ということにコシオウの関連はないのだろうか、宮のコシオウについての一縷のヒントはないだろうかと、気になります。
 図書館のパソコンでの閲覧時間の制限の30分がせまりましたので、「遍照寺の神仏分離」の部分をプリントしていただきました。

 置賜三十三観音の第十番札所の「宮の観音」は、この馬頭観音堂のことであり、「真言宗 豊山派 大悲山 普門坊」の寺になっているようです。
 総宮神社の隣に、「第190図」の「諸堂配置図」と同じ位置関係にあるようですので、「名称不詳」の「薬師堂」もあるかもしれないと思い、訪ねて見てみたいと思いました。

*2020年7月24日
 県道253号を東に、山形鉄道フラワー長井線のあやめ公園駅の南側を過ぎて、総宮神社の一の鳥居と参道の様子を拝見してから、遍照寺の正面に向う道に入り、墓地の横の道を進み、神社の正面の道に出ました。
 バイクがたくさんいて驚きましたが、参道の広くなったところに車を駐めて、神社に向いました。
 「ライダーの聖地」とあり、バイクの訳が分かりました。
 総宮神社拝殿に詣で、馬頭観音堂にお参りし、「薬師堂」の位置に行ってみました。
 馬頭観音堂と鐘楼の間に「薬師堂」は見当たりませんでした。
 「諸堂配置図」と現在の境内の様子には様々な違いがあるようです。

*宮のコシオウ神社については分からないままです。

 左上: 総宮神社 一の鳥居                      右上: 総宮神社・拝殿(中央)と馬頭観音堂(右)
 左下: 馬頭観音堂                            右下: 観音堂〜鐘楼


◎寺泉の五所神社
*2020年7月24日
 御祭所の五所神社を詣でました。
 神社は交差点に面して、開かれて見通しのいい神社で、「五祭所」の地名看板と「五所神社」の看板「五所神社と東性院」の案内看板が設置されています。
 「五所大明神」の社額の揚がった鳥居をはいると正面の拝殿まで空地が広がっています。
 右側には石碑・板碑・八幡神社他の小祠・等が並び、正面に五所神社の扁額の揚がる横幅のある拝殿があり、弊殿と玉垣に囲われた流造りの本殿が鎮座しています。
 本殿に向って左側の奥のほうに稲荷神社が祀られています。
 境内の広場に土俵がありました。

 左: 五所神社ー交差点角より撮影                  右: 五所神社ー入口から撮影

*『長井市史 第二巻』=「第五章・第一節・2 郷土の寺院と神社」の「郷土の神社」の項目に、明治四年書上げの「寺泉村神社書上帳」によって寺泉村に所在した神社の形態について述べられており、「寺泉村には、居屋敷内の屋敷神(家の鎮守)を含めて、二十七の神社が所在している。ただそのほとんどは本殿のみの小祠で、拝殿をもっていた神社は、五所大明神・大宮明神・大沢明神・八幡宮の四社に過ぎない。しかし、野川山三淵明神と熊野社の両社は、天保元年(一八三〇)に神祇伯白川家より正一位の神位を受けており、村内の神社の中では別格として取り扱われていたものと思われる。また一村中の造営と定められていたのは、五所大明神と大宮明神の両社だけで、残る二十五社はすべて宮守の自普請と定められていた。〈略〉寺泉村一村の鎮守は、村内唯一の村社と定められる五祭所の五所大明神で、本殿と拝殿の外に、御輿殿(九尺・二間)と嗽場(五尺・六尺)それに一丈三尺の鳥居があった。除地である神社の境内には、稲倉魂命を祭神とする稲荷大明神(三尺四面、慶応元年に白川家より神位を受く)と、武御名方命を祭神とする三淵大明神(三尺四面)の二つの末社が建てられている。当社の別当職は羽黒修験の東性院が代々継承してきたが、神仏分離に際し復飾して神主となり、村内二十六社の神主職も兼務することになった。」があります。

*境内に、市史には境内末社としては記されていない八幡神社があり、稲荷神社があり、八幡神社の隣に社名の分からなかった小祠がありましたので、その小祠が三淵大明神であったかもしれません。
*先に見たように「置賜の越王社」にも「越王としての本義は、判然しないが」とあります。
 なお、「置賜の越王社」には「御祭所」とありました。

 ここの「ゴショ」に、コシオウとの関連を考慮してみる必要があるとは思えません。


◎五十川観音〈イカガワ〉
 五十川観音の旧国道沿いの駐車場わきの小さなお堂に行ってみようと思います。
 五十川観音は、インターネットで検索すると、置賜三十三観音の第三十一番札所とのことで、真言宗 桜本山正寿院とされていますが、正寿院は最上川の左岸で県道259号の沿線にあり、五十川観音(生僧観音)は最上川右岸の国道287号の東を通る旧道から東に山のほうに入ったところにあるようです。
 この旧道沿いに五十川観音の参拝者向け駐車場があるものと思います。

*『山形県地名録』の「長井村」の「五十川」内に笹崎も生僧もありますので、インターネットで長井市五十川笹崎と同生僧を検索すると「国勢調査町丁・字等別データセット」の情報が見れました。
 それによると、生僧の地域は旧道を挟んだ住宅地で広くはない範囲で、笹崎は生僧の東から南にかけての山地の部分で範囲は生僧よりも数倍広いようです。
 そして、五十川観音堂は笹崎の範囲に建っています。
 そうすると、川崎の言う「長井村五十川笹崎に北向き観音」及び「置賜の越王社」の「東五十川の笹崎観音」は、この五十川観音(生僧観音)のようですが北向きなのかムンズリ観音と呼ばれるのかは、不明です。

*2020年7月24日
 国道287号森バイパスを北に向い森観音堂付近を過ぎて旧道に入ると2分もかからないくらいに「五十川観音堂」と記された看板があり、そこが駐車場でした。
 旧道から観音堂に向う東に続く狭い道路に駐車場の南の辺が接していて、その手前の旧道側に「當國三拾一番観世音霊場」の標柱が立ち、駐車場の南の辺の中程に道路に面して流造の小社殿があり、奥に方形造の御堂があり、石碑があります。
 小社殿の正面にまわると、向拝柱の左右に穴あき石が下げられていました。
 右側は数が多く10個以上が針金やビニール紐などで下げられています。
 社殿は扉が開いており、中には棟札が一枚あるだけのようですが、穴あき石が隅の方にあるようです。
 穴あき石は、社殿の階段にも土台の上にも土台の枠の中にも基壇の上にも置かれています。
 こんなにたくさんの穴あき石が奉納されているとは思いませんでした。
 社殿は南西方面に向いています。
 神社名などを記したものは見受けられませんでした。
 穴あき石があるからといって、耳の病に霊験のあるコシオウ信仰に関する社であると言うことはできないと思います。
 方形造の御堂は地蔵堂のようでした。

 左: 五十川観音堂の駐車場と観音堂への道。         右: 穴あき石の奉納された小社殿、右は地蔵堂。

 観音堂へ向います。
 東方面に向う道を歩き、30段程の石段をのぼると石を並べた土留めが設けられた緩い坂道になり、のぼると左側に赤茶色の外壁で中央に両引戸のある建物がありました。
 屋根と外壁の間に隙間があり簡易な倉庫のようにも見えるのですが、建物には注連縄がありますので、覆い屋なのでしょうか。
 引戸の上部が格子になっていましたので、中を見てみました。
 すると、梁から千羽鶴が二束下がっていて、三本綯の中央部が太い注連縄を中央部で分割したようなもの二本が太い方を下にして下がっていました。
 この半分にされた注連縄のような物は何なのでしょうか。
 たまたまそうなっていただけなのでしょうか、そのようにする謂れがあるのでしょうか。

 ふたたび坂道を進むと石段になり、その先に境内が開け、左側の奥まったところに石垣の上に御堂が建っていました。
 御堂は、参道に対して左側にあり、参道側から御堂の正面が望めますので、ここにある御堂が北を向いていることはあり得ません。
 御堂に向うと、尻尾の青いトカゲが何匹も走ります。
 お詣りをさせていただき、正面付近を見る限りでは穴あき石などはありません。
 境内の御堂と反対側の方にある小祠や石祠の付近にも穴あき石などはありませんでした。
 五十川観音堂を離れました。

 五十川観音堂は、堂々たる御堂であり、「置賜の越王社」の「北向の木造小堂」ではありません。
 笹崎観音と言われる北向きの木造小堂がどこかにあるのでしょうか。

 左: 途中にある建物ー中に半分になった注連縄が下がる。   右: 五十川観音堂

*『五十川地区誌』(編者・新野豊松 資料蒐集・致芳地区郷土史会五十川支部 発行者・五十川地区誌刊行会 昭62・1987)の「桜本山正寿院」「屋敷神他」の項目、及び『長井村郷土誌』(資料蒐集・長井村郷土史座談会 編集・新野豊松 発行所・長井村郷土誌刊行会 昭29・1954)の「宗教と神社仏閣」の項目を山形県立図書館で見てみましたが、穴あき石の奉納された駐車場の小社殿についての記載を見出せませんでした。
 また、笹崎観音〈北向き観音、木造小堂〉に結び付くような記載も見出せませんでした。
 『五十川地区誌』の「屋敷神他」の項目中の「生僧の観音堂」の記事に「観音堂入口」と題された写真があり木造小祠と古峯神社の石柱などが写っています。
 この小祠は、現在の駐車場の小祠とは違うようですし、今回の観音堂訪問では見ていないと思います。
 いろいろ変わったりしているのでしょうか。
 先ずは、駐車場の小社殿に関する資料を探したいと思います。


*三つの場所を訪ねてみましたが、宮の「コシオウ社」と五十川の穴あき石の奉納された小祠については、資料での確認もできず分からないままですので、このままでは終われないと思っています。
 現時点では、探訪の途中経過の記録になります。

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