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探訪記録 山形 46 : 置賜 4
佐藤リスト
位置番号
35 : 西置賜郡白鷹町高玉 腰王神社 備考)実淵山頂上、石、
日本武尊、現在南向き、盗人除けの神
〈桑原リスト:西置賜郡白鷹町高玉・越王神社(旧蚕桑コグワ村)
《探訪の準備》
*川崎「置賜郡の越王神」に、「同郡蚕桑村高玉腰王社」
*『白鷹町史 上巻』に、「大字高玉権現堂にあるのは、越王と書かれておりかつては盗人神と呼ばれ、木造で東面している(元は北面していたという)。」
『白鷹町史 下巻』の蚕桑地区の神社の中に、名称欄:越王神社、位置欄:東高玉、権現堂、祭神・本尊欄:日本武尊とあります。
*「置賜の越王社」(『置賜文化 第十六号』所収)に、「蚕桑高玉の腰王社は、日本武尊を祭神とする異例なものであるが〈略〉」とあります。
*『蚕桑の郷土誌』(蚕桑の郷土誌編纂後援会 昭48・1973)「第二章」中の「東高玉にある腰王神社」の項目に、「東高玉小字権現堂という所、今日の東高玉公民館の裏手に小さな保久羅堂がある。これを腰王権現と言う。〈略〉」があり、社殿の写真が載せられています。
*佐藤リストの備考にある「実淵山頂上、石」は、川崎浩良の高岡についての記述を誤ってここに記したものと思います。
*白鷹町の町域に所在情報のある4社の「コシオウ神社」に関しては、『平成の祭』『山形県神社誌』に記載がありません。
*蚕桑村は、明治22年に西置賜郡田尻村・高玉村・山口村が合併して発足しています。
『山形県地名録』では、「蚕桑村の高玉」項目中に「権現堂」がありました。
同項目中には、他に稲荷堂・観音堂・妻神堂・十二堂・地蔵堂・白山堂・明神堂・薬師堂・雷神堂が見られました。
*地図を調べていると「東高玉公民館」「権現堂公民館」が見つかりました。
*『白鷹町史 上巻』の、「大字横田尻中町西に、寛政十二年の水帳によると『こしょう原』の名があり、これも古四王神社にかかわりがあると思われる。」の記述があります。
「大字横田尻中町西」は、明治22年の合併で蚕桑村の一部になった旧西置賜郡田尻村とされた地域になりますので、この蚕桑地域を扱っている記事中に記します。
現在の住所表示の横田尻に、中町西も中町も見当たりません。
『山形県遺跡地図』に、「中町西遺跡」(集落跡、縄文時代、平安時代)がありました。
遺跡の場所は、「東横田尻歴史館」(横田尻1432-1)や「金沢寺」の西側にあたります。
中町西はこの附近になるのでしょう。
また、「芳賀忠徳碑」が、東横田尻歴史館の西の道路脇にあるそうです。ツツガムシ病の治療をした江戸時代の医師とのことです。
荒砥の毛谷明神もツツガムシ病に霊験のある神とのことでした。
「こしょう原」のことは分かりません。
文献資料等でもう少し詳しいことが分かれば、訪ねる的も絞れるでしょうが、現状では中田西のあたりを通過する以上のことはできそうもありませんので、訪問は機会を待ちたいと思います。
《探訪の記録》
『蚕桑の郷土誌』の発行年の昭和48年より前の「東高玉公民館」と現在の地図の「東高玉公民館」が同じ場所かどうかインターネット等による事前調査では分からなかったので、とりあえず現在の「東高玉公民館」の付近から探してみるほかないかと思っていました。
*E氏より「高玉の越王神社は権現様と呼んでおり、盗人神とも言う。道路が新しく切れたため、枝道になった所に祀ってある。字名に『権現堂』がある。」と教えていただきました。
地図を見ると、蚕桑駅の北東にある県道9号と県道254号の交差点が通常とは異なっていることに気付きました。
東西方向に通じている県道254号が、交差点の西側で、そのまま直進して交差点に向うのではなく、いったん北に曲がって南に折れて「ヘ」の字になってから県道9号と交差しています。県道254号は、交差点の西側で三角の山を描くようになっています。
県道254号が北に曲がる所には、そのまま交差点に向う道がありますが、交差点の手前で行き止まりになっているようです。
昭和49年頃の空中写真を見ると、現在の交差点西側の三角形を形づくる道はなく、現在の行き止まりの道が県道9号になる道につながってT字路を構成しており、県道254号になる東側の道とは直結していません。
県道254号になる東側の道は、県道9号になる道と交差点を構成し、そこに北側からの道がさらに交差し、変形十字路になっています。
この十字路のすぐ南に西側からのT字路があり、複雑な交通の流れになっています。
これをひとつの十字路にする道路改修が行われ、旧道路が枝道になったものと思われます。
ここにコシオウの社があるのではないかと思います。
*2020年7月24日
荒砥で白鷹町立図書館に立ち寄ってから、鮎貝八幡宮にまわり、県道9号で高玉権現堂に向いました。
交差点から右折し左折し、方角の感覚を失いましたが、行き止まりの道はそれとわかりましたので、そこに車を進めて行きますと道路の右側に社殿の後ろ側が見え、周囲には石碑類がありました。
社殿は木造の流れ造り状の小祠で、身舎と向拝を支える六本の柱が長方形の土台枠の木材に接合されており、四個の角形の石材が基礎として土台の四隅を支えています。
社殿の扉の前は、「奉納」「願主 〇〇□□〈伏字〉」と記された幕に覆われています。
社殿の方角は、道路の向っている方向で、東側になります。
*いったんその場所を離れたのですが、車が外に出ている民家がありましたので、お訪ねしてみました。
ご在宅のご主人様がご対応下さり、コシオウ神社で間違いがないことが確認できました。
そして、道路改修の折に祠を今の場所に移動させることになったこと、父親がそこにおくことを承知したこと、以前は北向きだったということをお聞かせいただきました。
たまたまそのような謂れを持つお宅をお訪ねできましたが、マスクをしてお訪ねしていますので、それ以上のお話をうかがうことを望むことは出来ませんでした。
コシオウ神社
*カシミール3Dの解説本の地図に書入れ
左:
●
コシオウ神社。
Λ
への字の道路。
県道
右: 権現堂
□
と 瑞龍院
○
《探訪の整理》
*『白鷹町史』に「越王と書かれており」とありますので、「越王」の表記があるのだろうと思いますが、「置賜の越王社」に「蚕桑高玉の腰王社」とあり、『蚕桑の郷土誌』に「腰王権現と言う」とあります。
私では、今のところ表記と経緯を調べることが出来ません。
「日本武尊を祭神とする」経緯も不明です。
*『あらと百物語』の「腰尾神社」のなかに「高玉権現堂にある越王神社は盗人神といわれ、昔はこの辺りから高玉瑞龍院の勢力範囲であり、ここに入るとつかまらないという信仰があった。」の記述がありました。
「高玉瑞龍院」は、権現堂の交差点から北西の方へ直線距離で2キロメートル程の所にある稲荷山瑞龍院という名刹のことかと思います。
なお、佐藤リストの備考に「盗人除けの神」とありましたが、どうなのでしょう。
*「権現堂」の字地名は、「腰王権現」の所在によるものなのでしょうか。
*空中写真で道路改修前と後の写真を見比べても、以前の社殿の鎮座地は特定できません。
《 追記 》
*2021年7月4日に、長井市立図書館で『羽前国西置賜郡神社明細』が閲覧出来ました。
この神社明細は、元の神社明細帳から西置賜郡部分を筆写して作成した比較的新しい資料のように見受けられました。
元の資料を閲覧出来るものであれば、閲覧させていただきたいと思いますが、元の資料についての情報を知りません。
この神社明細に「蚕桑村大字玉字権現堂壹番 / 無格社 越王神社 / 一. 祭神 日本武之命 / 一. 由緒 創立原□不詳ナリト□伝説ニ拠レハ寛政五年四月九日大破ニ付信徒ノモノ再建スト云フ」の記載がありました。〈 □表記不可。旧字を改めています。〉
玉のコシオウ社は「越王」と表記されていることの資料と思います。
私も越王表記としたいと思います。
*2022年4月30日
高玉の越王神社に立ち寄りました。
令和4年元旦の日付けの入った新しい幕が祠正面に付けられていました。
《 追記 》
『蚕桑の郷土誌』を、図書館相互貸借を通じて借りて、あらためて読むことができました。
同書の歴史編の明治時代の部分に「高玉邑鑑」が記載されていました。この資料は、瑞龍院蔵の「明治二乙巳年六月」のものとのことです。
邑鑑の寺社の記述中に「一、越王堂、四尺の壱間社地幅六間、長さ拾二村地、別当大宝院、村修復」が記されていました。
明治八年の「高玉村村誌」では、社は村社の稲荷社が2社記されているのみです。
「大宝院」については、信教編の郷土の寺院部分の一番最後に記載があり「位置 東高玉鹿島の地 / 宗派 天台宗(三井園城寺の末派」とあり由緒も記されていますが、現在は廃寺となっているとのことです。
郷土の伝説の中に「盗人神の名のおこり」があり「東高玉権現堂は、越王権現を祀る小祠のある所でこれにちなんで出来た地名だが、明治以前此の地区は一帯深い林で西高玉地区まで続いていたそうだ。当時盗みや他、罪を犯して其の筋より追跡される者は、此の地区に逃げ込み行方をくらました。ここに入れば捕えられずに済んだというから犯人にはありがたい場所であった。これによって権現堂の小祠を「ぬす人神」というようになった。」とありました。
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