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探訪記録 山形  43 : 置賜  1 


佐藤リスト 位置番号 32 : 西置賜郡白鷹町高岡  小四王堂    備考)社殿北向き、石堂
佐藤地名リスト位置番号62 : 西置賜郡白鷹町高岡  小四王原
         位置番号63 : 西置賜郡白鷹町鮎貝  小四王原

                           〈桑原リスト:西置賜郡白鷹町高岡・古四王神社、小塩田、小四王原
                                  :同郡  同町  高岡実淵山・小四王堂(旧鮎貝村)


〔リストの情報について〕
 探訪記録 置賜 1 の記事は、白鷹町高岡のコシオウ神社です。
*川崎『美人反別帳]』の「置賜郡の越王神」の記載に「同郡鮎貝村高岡実淵山小四王堂」「鮎貝の小四王原」「鮎貝高岡の小塩田」があり、「殊に鮎貝実淵山の頂上にある越王社は、今は本尊も無き石の小堂であるが、十余年前には相応の堂宇があり、其の峯つづきにはチャシを思わせる三重の空濠が囲らされ、その処の経塚と称する付近から縄文土器が豊富に出土し、先住民族の遺跡たるを裏書きしている。」があります。
 同書の記載に対して、佐藤リストでは「白鷹町高岡 小四王堂」、桑原リストでは「白鷹町高岡・古四王神社」としていると思います。
 また、佐藤リストには、「鮎貝村高岡実淵山小四王堂」に当たる記載はありません。
 桑原リストには、「白鷹町高岡・古四王神社」と「高岡実淵山・小四王堂」が記されておりますので、その両方をこの記事の始めに載せています。
 地名については、佐藤は「小四王原」を記し、桑原は「小塩田」と「小四王原」を記しています。

 探訪の準備は、こういったくいちがいについての検討から始まりました。

《探訪の準備》
*西置賜郡白鷹町は、昭和29(1954)年10月に荒砥町・鮎貝村・東根村・白鷹村・十王村・蚕桑村が合併して発足しています。
 合併前の鮎貝村は、明治22(1889)年4月に鮎貝村・高岡村・深山村・黒鴨村・栃窪村が合併して発足しています。
 「鮎貝村高岡」は、明治22年以前の旧高岡村の範囲を表し、明治22年以降昭和29年までの地名表示であり、白鷹町発足後は白鷹町高岡と表示される範囲を表すと思います。

*桑原リストに白鷹町高玉・高岡・十王などの所在地情報がありますので、先ず白鷹町とそれぞれの地区の場所の確認などの予備的調査を平成17(2005)年9月に行いました。
 その際にインターネットで「小四王原遺跡」を知り、そのおよその場所を「津島台浄水場」の場所としてネットの無料地図で確認しました。
 2005年当時はインターネットで様々な情報を知ることができるようになったことに驚いておりましたが、その後のネット環境のめざましい発展で居ながらに可能になったこととは比すべくもありません。

*平成25年(2013)5月から6月にかけて、探訪のための準備調査を始めました。
 実淵山を山名の辞典やカシミール3Dの山名検索などで探してみましたが見当たりませんでしたが、小実淵山や実淵川があることが分かりました。
 小実淵山の所在地は白鷹町黒鴨ですので、高岡地区にある山ではありません。 
 「山形県遺跡地図」(山形県ホームページ>教育・文化>文化・スポーツ>文化財>)で、「小四王原A遺跡」「高岡館跡」が確認できました。
 インターネットを使って情報を探していくと、「白鷹町」のホームページの「観光・史跡>音の缶詰」のコンテンツに「高岡地区の虫の声」があり、「最上川に流れ込む実淵川沿いに開けた高岡地区は、縄文時代の集落跡(小四王原遺跡)が発見されていることから見てもわかるように、水に恵まれた肥沃な土地である。」と記されていました。
 「小四王原」という地名の存在と津島台浄水場と復元住居があることが確認できました。
 「高岡館跡」があった標高280メートル程の山があり、その山には館山配水場があることもつかめました。

 平成25年7月に山形県立図書館で『白鷹町史』他の資料をコピーしてくることができました。
*『白鷹町史 上巻=第三章・第三節・二.古四王神社』(白鷹町史編纂委員会 昭52・1977)に「〈略〉当町には他地区と比べてその数が多く、四カ所知られている。大字高玉権現堂にあるのは、越王と書かれておりかつては盗人神と呼ばれ、木造で東面している(元は北面していたという)。大字高岡小四王原の小高い丘にあるのは、石堂で北面している(元は木造であったという)。荒砥深山丘の南方畑の中に(旧道の傍)あるのは、腰尾神社と書かれた棟札があり木造で東面している。十王にあるものは石堂で元の位置から移されて建ち、古くは「こしょう」の地名のところに在ったという。もう一カ所、大字横田尻中町西に、寛政十二年の水帳によると「こしょう原」の名があり、これも古四王神社にかかわりがあると思われる。〈太字は原文では傍点〉〈執筆者は金田章氏のようです〉」の記載があり、「高岡小四王神社」と記されている石堂の写真があります。
 『白鷹町史 下巻』(白鷹町史編纂委員会 昭52・1977)の付録に「白鷹町の神社・寺院・仏閣一覧」があり、その中に「蚕桑地区の東高玉・権現堂に越王神社、鮎貝地区の高岡に小四王神社、荒砥地区の荒砥・石那田に古四王神社、十王地区の小四王に小四王神社」が載せられています。
 神社名の表記が様々です。
*『置賜文化 第十六号』(置賜史談会 昭32・1957)所収の「置賜の越王社」(高橋堅治)に「鮎貝高岡の小四王堂は権現造りと見られる小さな石堂であるが、まさしく北向きである。御本尊は何もない。附近の小丘は明らかにチャシ趾である。」とあり、「高岡小四王堂」と記された写真があります。
〈この文献は、2013年5月に山形県立図書館の文献目録検索を「神社」で行った中に「置賜の越王社 高橋堅治 置賜文化 16号 昭和33年」として確認しました。〉
*丸山茂は「越国と越王神社」(『山形縣文化史 第一巻』所収ー巻頭論文)で「置賜地方では西根村河原澤(巨四王)、長井町、鮎貝村(共に腰王)、蚕桑村高玉(越王)の四カ所に分布」と記しており、鮎貝村について腰王としています。
*『西置賜郡誌 2輯 宗教篇』の山形県の「こしおう」神社の分布として十四カ所をあげた中には「鮎貝村高岡 古四王神社」と記しています。

*高岡のコシオウ神社の場所は、川崎の記す「鮎貝実淵山の頂上にある越王社、其の峯つづきにはチャシを思わせる三重の空濠」からすると、実淵山という山名を考慮から外せば、館山配水場のある「高岡館跡」の山が候補地になるのではないでしょうか。
 しかし、『白鷹町史』によれば、小四王原の小高い丘にあって石堂で北面しているとのことです。小四王原という地名の場所に石堂があるわけです。
 また、「置賜の越王社」によれば、北向きの石堂のある「附近の小丘は明らかにチャシ趾である」とのことです。
 両書に小さな丘の記載があり、同じ石堂と見られる写真も添えられていました。
 小四王原という地名の場所が石堂の所在地の第一候補になりそうです。 

 館山配水場の山の標高は約280メートルで、麓との標高差は90メートル程ですが、小高い丘とは言えないでしょう。 
 ネットの有料地図を見ますと、津島台浄水場の西南西側300メートル弱のあたりに等高線に囲われた場所があるようですので若干の盛上がりがあるようですが、小高い丘と言えるようなものでしょうか。
 高岡地区にコシオウ社が二社在ったとか、山の上から遷座したというようなことがあったのでしょうか。

 川崎浩良(明治8年〜昭和38年)の郷土史家としての年代を昭和7年(56歳頃)からとしても、情報の入手も情報の検証も簡単ではない時代であり、執筆時の時代背景もある著作物であることを忘れないようにしたいと思っておりますが、川崎が「殊に鮎貝実淵山の頂上にある越王社は」云々と具体的に記述しているので、気になります。
 津島台浄水場周辺の現地調査、館山配水場周辺・他の調査、確認したい事柄、いろいろ出てきました。

*また、川崎のあげている「鮎貝高岡の小塩田」の地名ですが、『山形県地名録』の「鮎貝村の高岡」の項目には見当たりませんが「塩田」「小四王原」「舘山」はありました。
 「鮎貝村の鮎貝」項目中に「小四王原」、「鮎貝村の黒鴨」項目中に「小実淵、大実淵」がありました。
 「荒砥町の馬場」項目中に「塩ノ田」、「十王村」中に「小四王(山、前、窪、南)」「塩田(前、向、山)」があり、「白鷹村の滝野」項目中に「塩ノ畑」がありました。
 川崎は『美人反別帳』の「村山盆地の越王神」の項目で「〈略〉宮宿町に小塩山あり、本郷村顔良に小塩下(腰王下)〈略〉東村山郡中山町長崎に小塩代、豊田に小塩、柳沢に小塩山〈略〉」などの地名をあげて、「小塩」の地名を「越族」「越文化」のうかがわれる地名のひとつとして取り上げています。
 川崎がコシオウ関連地名として扱っていると小塩の地名は、村山地域に見られることも特徴的と思いますが、置賜地域では「小塩田」の一カ所を「越族に因縁あるものであろう」として、コシオウ関連地名として取り上げています。
 しかし、「小塩田」地名はあるのでしょうか。
 『山形県地名録』では「小塩田」はなく「塩田」があり、白鷹町の町域内に「塩ノ田」「塩田(前、向、山)」「塩ノ畑」があることからすると、コシオウ関連とされる「小塩」の地名はないと考えてもよいのではないでしょうか。
 現在の地名表示に白鷹町高岡塩田があり、津島台浄水場から北に1キロメートル程の最上川右岸側に位置しています。

*鮎貝に小四王原の地名がありました。
 鮎貝と高岡に小四王原の地名があるということでしょう。
 ネットの有料地図によると、津島台浄水場から西南西側300メートル弱あたりに等高線に囲われた場所があるようですが、その場所は高岡に属していますがその場所を南西側を除いて周囲を囲むように鮎貝の飛び地になっています。
 津島台浄水場のあたりが小四王原という地名の場所であれば、小四王原の範囲は高岡と鮎貝にまたがっているのではないでしょうか。
 そのことで高岡と鮎貝に小四王原の地名があるのではないでしょうか。
 そう考えるとよいのではないかと思います。

 また、川崎は「置賜郡の越王神」の中で「東根村畔藤の越田、〈略〉等は、何れも越族に因縁あるものであろう。」と記しています。
 白鷹町域の地名ですので、ここで記しておきます。
 東根村は、明治22年に西置賜郡畔藤村・広野村・淺立村が合併して発足しています。
 『山形県地名録』の「東根村の畔藤クロフジ」の項目中に「越田(中道西、川原)」があります。
 この「越田」地名については、川崎は「置賜郡の越王神」の中で「上長井の古志田」を「越族に因縁あるもの」としたことによって「越田」をも取り上げる事としたのだろうと思います。
 越田の場所を調べていると、「白鷹町畔藤 越田」でネット検索を行ったところ三角点に関するホームページ内に越田にある三角点の記事がありました。
 その越田の三角点の場所は、地図上の計測では白鷹町荒砥乙の愛宕山の三角点よりほぼ西に直線距離で2100メートル程の最上川右岸の田圃の西側を通る堤防道附近にあたります。
 荒砥甲の白鷹町立病院からは地図上の計測で西南西に1280メートル程になります。
 越田の場所を調べてみても、そこに行って何かを見いだす事を期待できそうもありませんので、探訪の対象とはいたしません。
 「越田」の地名の由来がどのようなものかは分かりませんが、「越」の付く地名の例を白鷹町の町域内にもいくつも拾うことができました。
 「東根村の畔藤」項目中には「細越」があり、「東根村の広野」項目中には「鳥越」があります。
 「白鷹村の中山」項目中に「越口、越道」があり、「鮎貝村の黒鴨」項目中に「越戸」、「鮎貝村の栃窪」に「越戸坂」、「鮎貝村の深山」に「越戸」、「蚕桑村の山口」に「越場」がありました。

《探訪の記録》
*記事『置賜の古四王神社について』のなかの《白鷹町のコシオウ神社探訪と所在地情報》で記した白鷹町のE氏のメールに「津島台浄水場から行った牧草地にある。」の情報がありました。
 所在地として推定していた「津島台浄水場の西南西側300メートル弱あたりの等高線に囲われた場所」で間違いないようです。

*2020年7月24日
 県道9号・164号線に「津島台浄水場・小四王原遺跡」看板がありましたので、看板の矢印の方向に進み、浄水場のフェンスを左にして浄水場の角を左折し浄水場入口前に到着しました。道路の端に車を駐車し、準備をして、歩き始めました。
 左折した浄水場の敷地の角の所に、「小四王原神社」と題された立て札(駒札)があり「実淵川から取水し、町水道として浄水場が建設された。その時、縄文時代の土器や、住居跡が発掘され、小四王遺跡として復元された。ちかくに小四王神社が北向きに立つ。昔、越後から入ってきた古志王族の守護神と伝えられている。 鮎貝地区まちづくり協議会」の文面が記されていました。
 浄水場構内に「小四王原遺跡復元住居」の看板があり、復元住居一棟が建てられていました。
 浄水場の敷地角から西側方面に未舗装の道が緩いカーブを描いて続いていて、手前には石仏がまとまって安置されています。
 その道を行った先には木立が見えます。道の左側の木立までの平坦な所にはトウモロコシが一面に植えられており、奥に鉄塔が見えます。
 道を進み分かれ道をこえて木立に至ると、木立は道に対して縦列に並び幅はなくすぐに木立が終わり、小山が現れました。
 木立を過ぎたところに立て札がありましたが、ツタ類に隠され、文字も薄くなっていて、文面は判読出来ないところがありますが、「小四王原神社」と題されたものでした。
 小山と思ったほど「小高い丘」から想定していたよりも大きな盛り上がりで高さもあります。
 斜面は一面に草に覆われ、頂上には木があり、木の根元は草むらになっていて見えませんし、石祠も見えません。
 小山の下を通る道をさらに進むと分かれ道があり、左に進めばまた木立となります。
 木立と木立の間が小山になっているようです。
 ここに石祠がなければ他にある場所はないと思います。
 次の木立まで行かずに分かれ道のあたりから小山にのぼってみました。
 斜面一面の草は、膝を越える高さがある細長いイネ科の植物のようですが、枯れたように茶色になっていて、小さな実・種が服に大量に着いてきます。所々に緑のススキの株があります。
 頂上に近づくと、樹木と草むらの中に石祠と石碑があることが分かりました。
 石祠の左側面から近づいたようで、ぐるりと後から前にまわっていくと、枝を横に伸ばした樹木二本は桜のようで石祠の後方にあり、正面側には枕木材の柱が二本立ち、柱より奥の右側に横向きに石碑が立ち、正面の奥に大振りの屋根の石祠がありました。
 雑草が生い茂り近づきがたいので、写真に納めて、小山を降りました。

 左上: 浄水場と立て札。左は復元住居。             右上: 石仏群。左は未舗装路、その奥に木立。
 左下: 小山。草の斜面と頂上の木。                右下: 小山の中腹。枯草とススキの株、頂上の木。背後に木立。

 左上: 頂上。石祠の後方から写す。                 右上: 石祠。
 左下: 帰路。未舗装路の奥に浄水場。右はトウモロコシ畑。  右下: 館山配水場の山。黒滝神社(菖蒲42)付近から望む。

 地図: マーク位置が小山。


《探訪の整理》
*草の種が、ズボンのポケットから長靴の中まで入り込んでいました。草が枯れていて、種はゴマ粒のような大きさで、種や草の姿形を見ていても、それによって名前が分かる程の知識はないのですが、E氏の「牧草地」とあったことからすると牧草の一種かもしれません。トウモロコシも飼料用かもしれません。
 夏の時期の探訪は、草が目的地への接近を阻む恐れがありますが、小山の頂上までは行けましたが、枕木の柱の中に踏み込めませんでした。
 右側の石碑に彫られていた文字は、一字目「太」のほかは写真でも読めませんでした。

*小山の中央部の頂上に石祠が鎮座していて、柱が左右に二本立てられ、そこから入って右に石碑、中央奥に石祠、その後方の左右に二本の桜が枝を広げている、という構成と思われます。
 石祠は、大きく厚く存在感のある屋根、庇の大きな入母屋造りで千鳥破風があり前面に突き出す唐破風のある屋根が年月を経た風情であり、出羽三山神社合祭殿の厚い茅葺の屋根のような印象を受けました。
 屋根の下の堂部分は、正面は格子戸状に作られていますが、内部に御神体や御札を納められるようになっているのかどうか分かりません。
 石材の色が、屋根の古色に比して白くきれいに思えます。
 石祠の向く方角は、磁石を当てていませんが、北の方角を向いているようです。

 この小山の大きさは、東側の木立を過ぎた立て札の所から道を進み分かれ道になる所、つまり小山にのぼった場所まで、地図上の計測でおよそ70メートルでした。
 高さは、感覚ですが10メートルはないが数メートルはあるというところでしょうか。
 最上川の河岸段丘の段丘上にあるようです。

 この石祠の神社は、立て札には「小四王原神社」とありましたが、白鷹町史の通り「小四王神社」と表記させていただきたいと思います。
 鎮座地は、白鷹町高岡、小四王原A遺跡範囲内になります。
 神社の詳細は、もっかのところ不明です。


《 追記 》
*2022年4月30日
 草に邪魔されない時に見てみたいと思って、再訪しました。

 前回と同様に浄水場の入口前の道路の端に車を駐めて、「小四王原神社」の立札を眺め、文面にある「越後から入ってきた古志王族の守護神と伝えられている。鮎貝地区まちづくり協議会」を見て、長井市のE氏も上山市のA氏もコシオウ神社と越族との関連を言われていたと、戦前に古四王研究者のなかで論じられた越族説・等の根深さを感慨深く思いました。

 以前、トウモロコシが植えられていた畑には、まだ作物の姿はありませんでした。
 石祠の鎮座する小山の手前の畑地と小山を隔てるように立ち並ぶ木立の端に立てられていた立札は朽ちて倒れていました。
 小山の下から石祠がはっきり見えます。
 まっすぐ登って石祠の前に進みますと、左手の桜は花が終わっていますが右手の八重桜は花をつけていました。
 石祠の下には、角の丸い石が基壇を造るように置かれています。
 この石は、かつて社殿が木造であった時の基礎石かもしれないと思います。
 大きな屋根は、なんと言えばよいのか軒が高く妻の大きな入母屋の正面に千鳥破風があり唐破風を前に出した形で、重厚さが感じられました。
 石祠の胴部にあたる本体部分の正面は、格子のある二枚扉のように作られていますが扉は開きません。開かない扉の奥に空間が彫られています。
 外から見た限りでは、内部には何も無いようです。
 どのように作ったのでしょうか。側面から彫り込んだようには見えませんので、上から作ったのでしょうか。
 屋根の右前が少し欠けていますが、屋根の横幅は80センチ程でしょうか。
 本体の横幅は40センチ程で、基礎の正面の幅は65センチ程あるようです。
 基礎の下から屋根の高い所までは、およそ1メートル20センチ程ありそうです。

 前回は文字の見えなかった石祠の手前右側にある石碑には、太神宮と彫り込まれていて、弘化四年とありました。
 文字のある面は、丸い形の石を半分に割った面のようで、茶色になっていました。
 石祠が北を向いているのですから、この石碑は東向きということになります。

 石祠の後ろ側から小山を下りると畑地になっていて、畑地の向こうには杉木立が連なっていて、その先は最上川のようです。
 石祠は北を向いているので、ここでの位置関係としては川を背にして祀られていることになろうかと思います。

 左上: 小山の下から石祠が見える()                 石祠を周囲から撮影
 右下: 石祠の背後の様子ー畑地 杉木立


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