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探訪記録 山形  51 : 置賜  9


佐藤リスト 位置番号40 : 西置賜郡小国町大滝・小四王前  古四王神社 
                   備考)北向き、古志王像、オコショウ様、疣とりの神、地蔵尊、仁王像、武甕槌命
                〈桑原リスト:小国町大滝・古四王神社、小四王前

《探訪の準備》
*川崎は『古志族の検討』に「小国町大滝 古四王社」を記し、「置賜郡の越王神」には「小国本村大滝の古四王前」の地名を記しています。
 また「南小国村足水中里のコシマイ等の地名は以前其所に越王神があった名残りと見るべく」も記しています。
*「置賜の越王社」(『置賜文化 第十六号』所収)に、「小国町大滝にある古四王神社は、字古四王前の小丘、灰坂山の相当年経た杉林の中に、北向に鎮座している。間口三間に二間半の拝殿に六尺に七尺の本殿を持つ堂々たる茅葺の寄棟造り、いまは祭神に武甕槌命、大巳貴命の両神が、武神として祭られてあると云うが、明かに、越王神社と見られる。元は現在の位置の梢下の方に、同じ北向きに建てられてあったが、大正十年、現在の処に移されたといわれる。秋田城内にあった古四王社に慣って、北方に点在する大滝部落を、守護するものとして部落民の信仰は厚い。」の記述があります。
*『古志王神社の研究』(小国高等学校郷土史研究班 昭36・1961)という謄写版刷りの冊子を2013年6月に庄内町立図書館で閲覧させていただきました。
 「古志王神社の研究」という表題の次に「小国高等学校郷土史研究班共同研究 長岡先生指導」と記され、八名の生徒さんの名前が記されています。
 冊子は、大きな四項目を設けて歴史的過程を述べたあとに「(4)小国町大滝古四王神社の実態」を最後の項目にしています。
 その最後の項目を引用すると、「小国町大滝部落にある古四王神社はその社殿は古志神社〈ママ〉の法式通りに北面しており御本体は西村山郡本郷村腰王神社及び南村山郡王沢〈「王沢」は挿入文字〉長谷堂の腰王神社と同様に古志民族の祖先である古志王の像を石に彫ったものである。現在神社に保存されておるものは高さ六寸(約十八センチ)の古志の立像を木に彫った一本彫の像と、石に彫った高さ一尺(約三十センチ)ほどの地蔵尊の座像がある。又寄木造りで高さ八寸(約二十四センチ)の仁王尊の像がある。木彫りの古志王の立像は胡服を着た古志王が両手を胸に合掌した姿であって南村山郡長谷堂・西村山郡所部の腰王権現の姿と同形のものと思われる。〈略〉古志王の御本体がなぜ地蔵と変り、仁王像が祭られ、古志王の御本体が脇仏のように側面に奉安されたのだろうか。平安末期に宗教界に起った本地垂迹説の思想が鎌倉末期には当地方へも伝わり、古志王神社として単独で信仰されることが不可能になり仏教と習合して信仰されたと思われる。〈略)」があります。
 御本体の記述での古志王の石像と木彫り古志王立像の文章のつながりに見る不可解がありますが、当時の実際の古四王神社の神像についての記載があると思います。
 この資料については後で触れたいと思います。

*『平成の祭』に「神社名:古四王神社、祭神:(主)武甕槌命、鎮座地:西置賜郡小国町大字大滝605−5」「例大祭 9月第1日曜 通称:イボコブ取神」とあります。
 ネットの有料地図では、小国町大滝の番地に600番台がなく、605−5はありませんでした。

《探訪の記録》
*2014年8月3日
〈この時点では、佐藤禎宏『コシオウ信仰研究序説』(佐藤リスト)を入手いたしておりません。〉
 米沢方面へ出かけた行程の中で小国町大滝地区を訪ねることができました。
 明治22年に、小国本村オグニモトムラが小国町村・小国小坂町村・岩井沢村、大滝村・等々により発足し、同時に南小国村・北小国村・津川村も発足しています。
 この小国本村が昭和17年に小国町となり、さらに昭和29年に南小国村・北小国村と合併して新たに小国町になり、昭和35年に津川村を編入しています。
 大滝地区は旧大滝村ということでしょう。
 大滝の古四王神社は法人社ですので地図に記されていると思い、国土地理院の地図で大滝地区の鳥居のマークを確認して、所在地の候補地にしておりました。
 ネットの情報を探すと、杉木立を背にした大滝の古四王神社の鳥居や灯籠等の写真がありました。
 国道113号線で小国町から飯豊町方面に向かい、右折して県道8号線に入って1、5キロメートル程で大滝地域になります。
 大滝地区を進み、県道8号線から右折して県道15号線線に入ります。
 ほどなく橋があり、橋の先に少し広くなった場所があったので、じゃまにならないように車を駐めさせていただきました。
 地図の鳥居マークは、橋の架かっていた川(大滝川)の南側の山にしるされており、橋の南側のたもとから川沿いに未舗装の道がありましたので、そこを行ってみました。
 未舗装路の先、左側の山の麓に、写真で見ていた古四王神社の鳥居が見えました。
 幟旗の支柱があり、石灯籠があり、鳥居があります。
 向って左側に古四王神社と刻まれた社号標があり、古い笠石のような屋根がありました。
 鳥居の背後に大きな杉の木が門のように立ち、その先に石段が続いています。
 石段を曲がり曲がりして上っていくと社殿が見え、上りきって古四王神社に着きました。
 お詣りをして、社殿の周囲をまわってみました。
 社殿の正面以外の三方の壁面はトタンが張られていました。社殿の背後は山があります。
 社殿の方角は調べませんでした。
 境内の前側のほうに杉の木が切られたような部分があり、そこから下の家屋が見えました。 
 山を下りて、下から見上げますと、山の斜面の杉の木の無いところを通して社殿が見えました。

 左上: 山の麓の鳥居                          右上: 旗支柱、灯籠、鳥居、標柱
 左中: 標柱                                 右中: 石段と社殿
 左下: 社殿                                右下: 下から見た山


《探訪の整理》
*2014年8月2日に市立米沢図書館で小国関連の資料もコピー出来ました。
 『小国町史』(小国町史編集委員会 昭41・1966)は、小国町の図書館ではコピーができず、2013年7月に行った山形県立図書館では当該書籍の状態がよくなかったのでコピーを申し込まないことにしましたので、米沢でようやくコピーできました。
 記事「置賜の古四王神社」に『小国町史』を取り上げています。
 この書の「第二編・第二章・一古四王神社と古志族」の書出しから9行目まで引用すると、「大滝部落の南にあたる小高い丘に、杉に囲まれた祠がある。これが通称『オコショウ様』とよばれる古四王神社である。境内はさほど広くはないが、そこに立てば部落はもちろん、はるか小国町の中心街も見渡されるちょう望のよい場所である。〈3行〉
 建物は拝殿が間口三間に奥行二間、それに本堂が一坪ぐらいで両者の間は格子戸で境されている。社殿は古志王神社の法式どおり北面しており、ご本体は西村山郡本郷村腰王神社および南村山郡玉沢村長谷堂の腰王神社と同様に、古志族の祖先である古志王の像である。現在安置されてあるものは、高さ約十八センチの古志王の立像を木に彫った一本彫りの像と、石彫りの高さ約三十センチの地蔵尊の座像がある。また寄木造りで、高さ約二四センチの仁王尊の像がある。〈4行〉
 木彫り古四王の立像は、ミノ帽子をかぶり胡服を着た古四王が両手を胸に合掌した桧の一本造りで、長谷堂や所部腰王神社の本尊と同形のものと思われる(長岡高文)という。〈2行〉」とあります。
 以下地蔵尊と仁王尊についての記載があり、「もともと古四王神社は越ノ道公(こしのみちのきみ)、すなわち越ノ王を祭ったのが越王神社である。」を記し、進入経路に関して述べ、巨石文化に触れてから、「大滝のオコショウ様は疣(いぼ)を除く神様として尊信され、例祭日は八月一日(現九月一日)である。古四王神社の神体は越王であることにはまちがいないが、その他に地蔵様も祭られ、さらに仁王尊も祭られ、それが古四王の脇侍のようになっている。そしていろいろな現世利益がさずかることとなっているが、これは平安末期に宗教界に起った本地垂迹説の思想が、鎌倉末期にはこの地方にも伝わり、古志王神社として単独で信仰されることより他の仏教と習合して時代の要求や、信仰に合致するものに変わってきたものと考えられる。」とあります。
 同書「第四編・第四章宗教・一神社(五)古四王神社」の記述中に「古四王神社は古志族の公(きみ)を祭ったものである。」「古志王の名称もいろいろと表されている。すなわち小四王・古四王・越王・腰王・〈略〉。御本体は古志族の祖先である古四王の像を石に彫ったものである。現在神社に保存されている仏像は次の三体である。(口絵参照)」として、箇条書きで「一、木像  古四王の立像(一本彫り) 二、石像  地蔵尊の座像 三、木像  仁王尊の立像(寄木造り)〈高さの記載を省略)」とあります。 

 『古志王神社の研究』と『小国町史』の記述はよく似ていて、同じ事が書かれていると言ってもよいと思える部分があります。
 『小国町史』の「あとがき」に「編集と研究にあたっては」として「山形大 長井政太郎」をはじめとして幾人かのお名前が記されており、その中に「元小国高校 長岡高文」がありますので、高校生を指導した長岡先生は長岡高文氏と思われます。

 『小国町史』によれば、古志族の祖先の古志王を祭る神社であるから神社名称は「古志王神社」と表記するという執筆者の観点が表明されていると思います。
 個別の大滝の神社名については実際に表記されている「古四王神社」と記し、所部や長谷堂の神社も個別神社の実際に用いられている「腰王神社」の表記に従ったのでしょう。
 古志王神社の祭る「御本体」の基本は、所部や長谷堂の古志王像のように、古志王の像を石に彫ったものと認識していたようです。

 大滝の古四王神社に現在保存されている古志王像は木像の立像であると、わざわざ「現在保存」「現在安置」と記すのも、そのあたりに思いがあるのでしょうか。
 木彫立像は「胡服を着た古四王が両手を胸に合掌した」像であって、ミノ帽子をかぶっていて、「長谷堂や所部腰王神社の本尊と同形のものと思われる」とあります。
 胡服やミノ帽子とあっても、残念ながら私にはイメージがわきません。
 所部腰王神社の像は、「御姿妙」な石像のようです〈「探訪記録 村山 3」〉が、写真資料等を見たことがありません。
 長谷堂の像は、写真に収めさせていただき「探訪記録 村山 9」に記事と像のお顔を見せない写真を載せています。
 その記事では「両手を衣の中で中国風?に前で組んでいるようにも見えます」と記しています。
 長谷堂の像は頭部に修復のあとがあるように見えましたが、その状態では帽子は無い丸い頭に見えました。
 衣のように見えた服は、胡服というものなのでしょうか。
 「探訪記録 庄内 19」に記した立川町三ケ沢の「こしおさま」の像のお姿と長谷堂の像は類似性があるように思えます。
 素朴な立ち姿の地蔵様のような石仏のようにお見受けいたしました。

 自らの確信する「古志王神社」論の立場から、それに当てはめて諸事に対する見解を示すというのは、なにも『小国町史』から引用した記述に限ったことではなく、既に多く見てきたところですが、思い込みが強くなにかしら危うさを感じてしまいます。
 思考の柔軟さや、現場を見る素直さのようなものが阻害されないでしょうか。

 『古志王神社の研究』には「古志王の御本体がなぜ地蔵と変り、仁王像が祭られ、古志王の御本体が脇仏のように側面に奉安されたのだろうか」と疑問が呈されています。
 この記述は、高校生が古四王神社に祀られる像を実際に見て記しているのではないでしょうか。そのときに、中央の位置に一番大きい地蔵尊が置かれ、あたかも古四王神社の主祭神のようであり、古志王像は脇に置かれていたのではないでしょうか。
 しかし、『小国町史』には「古四王神社の神体は越王であることにはまちがいないが、その他に地蔵様も祭られ、さらに仁王尊も祭られ、それが古四王の脇侍のようになっている」とありますので、中心は古四王立像のようです。
 「古志王の御本体がなぜ地蔵と変り」の記述は高校生の情報の混乱によるもので、混乱は御本体は古志王の石像と述べて木彫り古志王立像の記述につなげる不可解な文章に表われていると思いますが、高校生は実際には古四王神社に祀られる像を見ることはないまま得た情報によって記述して、そのことによって起った誤りなのでしょうか。

 他の資料を見てみます。
*『小国の信仰』(小国町誌編集委員会 平6・1994)の「第2章神社・石仏等・第1節皇祖・武神信仰」に「古志王神社」の項目があり、この節の最後の12番目に記されています。
 「古志王神社」の項目は、先ず古志族について記してから「古四王神社 大滝」としての既に見たような記述などがあり、その最後に「現在は『大滝のオコショウサマ』といい、疣を除く神様として知られ、また子供の風邪などにも霊験があるので、厚い尊信を集めている。」があります。
*『小国の交通』(小国町誌編集委員会 平8・1996)の「第一章・第二節・三 古四王神社北進の道」があり、その項目は「1 古志族 2 越国の王化 3 古四王神の道 4 大滝の古四王神社」に分けられています。
 「4 大滝の古四王神社」の記載の中から引用しますと「御神体は古志王をかたどった高さ十八センチの檜の一本造りで、ミノ帽子をかぶり、胡服をつけ、両手を合掌している姿である。長谷堂や所部のものと同形と思われる。神社の来由その他の言い伝えはない。今では『オコシヨウサマ』と呼ばれ、疣を除く神として知られ、霊験あらたかである。
 新潟県朝日村早稲田の『オコシヨサマ』も疣とりの神に転化している。古四王神は古い神であるから、その後神仏習合の時代を経て、いろいろな神に変化したもようである。〈略〉
 当社にはほかに地蔵尊と神将〈高さ略〉の二体が祭られている。地蔵〈高さ等略〉信仰は江戸時代に入ると、ごく身近な現世利益神として子育て地蔵(各地にあり)を始め腹帯地蔵(安産)片目地蔵(眼病)疣とり地蔵(箱ノ口)とげ抜き地蔵などが現れた(小国町誌「小国の信仰」参照)が、当社の地蔵が、子育、疣とりに霊験があったため、おのずと地蔵の御利益を古四王神が代表することになったものであろう。」とあります。
 古四王神社と疣とりが結びついたのは地蔵信仰の御利益によるものであろうとしています。
 そうであれば、地蔵尊を中央にして祀ることもあり得るのかもしれません。
 「疣とり地蔵(箱ノ口)」の(箱ノ口)は、小国町綱木箱口の疣取地蔵菩薩のことでしょうか。

 想像ですが、オコショウサマと呼ばれ、何の神様か判然としない状態あるいは祭神の規定などを問題視しない状態のなかで祈願の場として意識される社があり、そこに人々の願いに応えて地蔵が祀られ仁王が祀られ、地蔵の霊験が祈願の場としてのオコショウサマの霊験になり、その信仰が残った。
 その後、「古四王神社」のことが知られ、オコショウサマは古四王神社と表記され古四王神社と名のり、それにふさわしい祭神を祀る神社として新しい時代を迎えてきたのではないだろうか。
 オコショウサマと呼ばれ疣とりなどに霊験のある社とされた頃は、祭神が武甕槌命だとされていたのだろうか。

 古四王神社を研究する方のなかで、古志国の古志王神社とか越王を祀るとか征夷の神だとかの思想的ともいえそうな「論」が生まれ、その「論」によって個別の神社の位置づけなどの説明がされていく事になったようにも思えます。
 その位置づけ以外の可能性を排除してしまわないだろうか。

*『小国の文化財』(小国町誌編集委員会 平11・1993)「第4章・第2節・三神像・3古四王神(大滝)」から像の説明部分を引用します。
 「本尊、胡服姿の古四王像、木像 像高 12センチ
     両手を胸に合掌の姿で鎌倉期の一刀彫といわれる。
     所部(山寄)腰王権現のものと同形と思われる。
 その右側、地蔵尊石造、像高 30センチ
     右手法輪 左手ー宝珠
 左側  仁王尊 石造   
     仁王尊は仏法、伽藍の守護神である。
 このように神仏三尊が安置されていることは、平安末期、宗教界に起った本地垂迹説の思想によって仏教と習合し、民衆の現世利益と結びついて一層信仰を深めたことであろう。
 当社は通称『大滝のオコショウサマ』とよばれ、疣の神(地蔵の功徳)として広く知られている。」
 また、「古四王神社本尊(大滝)」と題された写真があります。
 この写真は、『小国町史』の口絵の写真と同じもののようです。
 三尊の中央は古四王像となります。
 像に向って左に地蔵尊、向って右に仁王尊で、古四王像の小ささが印象的な写真です。
 写真ではよく分からないのですが、古四王像は言われてみれば帽子のようなかぶり物が頭部にあり、上着と袴のように上下の分かれた服を着ているようでもあります。
 この服を胡服というのでしょうか。
 既に記したように、長谷堂の腰王像には帽子は無く衣のような服ですので、どうみても大滝の古四王像と同形のものとは思えません。
 どうして同形のものと思われるという記述がされているのでしょうか。
 長谷堂の腰王像は入れ替わっているのでしょうか。

 写真では細部が分からないのですが、私には地蔵尊の膝が米俵のようにも見えたりもしますので、仁王尊が毘沙門天である可能性はないかと思ったりもします。
 大滝の古四王神社の疣とりの霊験は、オコショウサマの元々の信仰内容ではなく、地蔵尊の信仰からきたものというのはどうやら事実のようです。

*『山形県神社誌』では、「古四王神社 鎮座地:西置賜郡小国町大字大滝六○五、祭神:武甕槌命 大比古命 大巳貴命 小彦名命、由緒:創立不詳、当社は、越後から陸奥への通路にあたり、大和王権の侵入や古代古志族を知る上で貴重な神社である。明治二十九年火災に罹り同年九月再建。武勇、コブ・イボ取りの神として崇敬される。」とあります。
 武甕槌命の他に大比古命が祀られているのは古四王神社らしく思いますが、他に二柱の合わせて四柱の神が祀られていたことは、以外でした。
 明治時代の神社調べ等の資料はどうなっているのでしょうか。

〈『小国町史』の「南村山郡玉沢村長谷堂」と『古志王神社の研究』の「南村山郡王沢長谷堂」は南村山郡本沢村長谷堂の誤りではないでしょうか。〉

*『山形県地名録』の「小国本村の大滝」の項目中に「古四王前コショウマエ」があります。また、「灰坂(山)」もあります。
 他に「堂上前道上、半兵衛前(山)」と前のつく地名があり、「道六神山、八幡林」と信仰に関わる可能性がある地名がありました。
 また、「南小国村の足水中里」の項目中に「越前」がありましたが、「越王神があった名残り」とするのは、どうでしょうか。
 こうなると、論証無用の話になるのでは。

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