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探訪記録 山形  52 : 置賜  10


佐藤リスト 位置番号 41 : 米沢市古志田町古志田   古四王神     備考)広幡に小菅(越家)地名有
佐藤地名リスト位置番号67 : 米沢市遠山町(旧上長井村)    古志田入会フルシダイリアイ
 同        位置番号68 : 米沢市笹野町(旧上長井村)    古志田前フルシダマエ
他に
桑原リスト : 米沢市・小姓町

《探訪の準備》
*川崎「置賜郡の越王神」に、「米沢市の小菅の地名の起こりは、元は言葉のコシゲで越家に基づいたものと思われるが、此処の越家神社も無論古志王神である。上長井の古志田、〈略〉、何れも越族に因縁あるものであろう」と記しています。
*「置賜の越王社」(『置賜文化 第十六号』所収)にも「越人が居た処にコシの地名が起り得ると、類推されるのは当然で、上長井に古志田(もとコシダ古志田)広幡に小菅(もとコシケ越家)等の地名は、其の名残りと見てよいであろう。」とあります。
 越家神社の情報を探してみましたが、見出せませんでした。
 また、古志田・小菅の地名は見出せますが、コシオウ神社情報ではありませんし、コシオウとの関連もはっきりしたものではないと思いますので、探訪先としての優先度は低いと判断していました。

*月光善弘『古志(四)王神の信仰ー出羽国における古代神としてのー』の「古志(四)王社堂の関係写真」の中に「24 米沢市古志田フルシダの小四王社であろうと思われる。(鈴木○○〈伏字〉氏撮影)」と記された石造の祠と思われる写真と「25 古志田の小四王社前にある櫻神社(旧郷社)で約百五十年前頃、櫻谷よりこの地に移転した。(鈴木○○氏撮影)」の写真がありました。
 本文中に写真24・25の神社に関する言及はありませんが、別表の分布表には「米沢市古志田フルシダ 古四王神」とあります。

*『平成の祭』で米沢市の神社を検索しますと、古志田町に櫻神社が見出せ、広幡町上小菅には一宮神社がありました。
 櫻神社とその後ろにある小四王社と思われる祠の情報は無視できないと思いました。
 櫻神社の鎮座地は、米沢市古志田町字熊野前2865−1となっています。
 『平成の祭』によると広幡町の「一宮神社」の由緒に「和銅3年、国司大野安麿飽海郡小物忌神社をここに奉遷し」云々とあり、「越家神社も無論古志王神」との説とは結びつかないと思いますので、探訪先にはしませんでした。


《探訪の記録》
 どこに行けば見ることができるのかと探していた『西置賜郡志』が市立米沢図書館にあると蔵書検索で分かりましたので、米沢へ出かける準備をいたしました。
 その行程の中で、櫻神社・他に立ち寄ることにしました。
 〈この時点では、佐藤禎宏『コシオウ信仰研究序説』(佐藤リスト)を入手いたしておりません。〉

*2014年8月2日
 櫻神社に向うために、国道287号線から米沢市街に入って、県道245号線で古志田町に進みました。
 さらに県道から分かれて山側に入る中央線の無い道路を進んでいくと神社がありました。
 駐車場所が見当たらないので道路をそのまま進みますと、はからずも神社横から神社の後方へ出ることになりました。
 車を停めて見回してみると、神社の背後にあたる土地は少し高くなっていて、用水路があり、山に向う狭路がありました。
 神社は山の麓に位置して、山を背にして建っていることになります。
 神社のそばに戻って車を駐めて、神社の正面に立ちますと、左側に「郷社櫻神社」と刻まれた石の社号標があり、コンクリート舗装の参道が石の鳥居の間を通り社殿正面に続いています。
 方位磁石を参道に置いて方角を見ると、社殿は東側に向いています。
 社殿の前に石灯籠があり、社殿に向って右側に石碑や石宮が並んでいます。 
 境内の右側の木は桜のようです。左側に「さわり子安」の社額があげられた境内社があります。
 櫻神社の社殿は、拝殿・幣殿・本殿で構成されており、本殿の真後ろの位置に流造状の石造の小祠があります。
 石祠の胴部(本体、石室、身舎、宮の部分)に木製の扉があり閉じられています。
 この石祠が「小四王社であろうと思われる」と記されていた写真の神社でしょう。
 この小社の鎮座する位置は、本殿のさらに奥の場所で、奥の院とでも言えそうな位置付けがされているかのように思えました。
 本殿の真後ろで、境内社の置かれる場所ではないと思えます。

 神社境内にお孫さんといらしたご婦人に、櫻神社と奥の石祠の謂われをうかがってみましたら、ご婦人のご先祖の方が神社に関わっていらしたそうですが、ご自身はよく知らないので、米沢市城南の一宮神社に行って聞いてみるとよいと教えてくれました。
 よいひとに巡り会えました。

*一宮神社を訪ねました。社務所にお声がけさせていただきますと、宮司の方はお忙しく立ち働いていらしたのですが、桜神社にいらしたご婦人のお話により訪問させていただいたことと訪問の趣旨をお伝えいたしましたところ、わざわざ手をとめて対応をしてくださいました。
 お話をお伺いすることができましたし、「桜神社由緒」と題された印刷物も頂戴いたしました。
 お話によれば、一宮神社の宮司の橋様の御先祖は桜神社の宮司で、「そこに住んでいた。そこからここ一宮神社に来た」とのことでした。
 頂いた印刷物には桜神社の宮司として一宮神社の宮司橋様のお名前が記されています。印刷物に記された日付は平成二十一年七月となっています。
 桜神社にいらしたご婦人の御先祖も神職の方だったのでしょうかとお聞きいたしましたところ、そうではないというようなことを婉曲におっしゃっておいででした。
 私の勝手な想像ですが、婦人の御先祖は修験者のような方で、神職とは競合する関係であったのかもしれないと思いました。
 現在の桜神社は決して大きな神社とは思えませんでしたが、明治初期あたりまでは神職の住居があり修験者も関わりを持つような盛んな神社であったのかも知れません。
 お訪ねした一宮神社は、郷社一宮神社と刻まれた社号標が立ち、参道を入ると木製の鳥居があって、社殿になります。
 社号標の近くに設置された案内板によれば、「一の宮神社 / 祭神 大巳貴命 小彦名命 / この祭神は富貴と健康を司る神である。初めは陸奥国置賜郡長井荘谷地郷にあり、大明神として祀られたのが起りと伝えられる。和銅五年(七一二)頃、出羽一の宮大明神と崇敬され、宝永元年(一七〇四)正一位一の宮大明神となり、置賜郡の総鎮守として勅許された。明和年間(一七六四〜一七七一)米沢城を境として北の住民は白子神社、南の住民は一の宮神社の氏子となり、いまもなおその慣例が続いている。現在の社殿は明治二十一年の再建である。〈年中の主な祭典を略〉 米沢市 / 米沢観光協会」〈 / は改行〉とある行政側による案内板がありました。
 現在の一宮神社は、そのような歴史と謂われを持つ神社にしては、境内は大きくはありませんでした。

 左上: 桜神社入口                            右上: 灯籠・石祠・等と拝殿
 左下: 本殿と本殿の後方の石祠                    右下: 石祠            
 城南の一宮神社


*米沢市では、市立米沢図書館に行き、蔵書検索してきた資料等を拝見し、コピーをとらせていただきました。
 「24 米沢市古志田フルシダの小四王社であろうと思われる。(鈴木○○氏撮影)」の写真を月光善弘に提供した「鈴木○○」で市立米沢図書館の蔵書検索をしましたが鈴木氏の著作はありませんでした。

 「小姓町」の関係で、門東町に南部小学校を訪ねました。
 南部小学校の住所は、米沢市門東町1−2−31となっています。
 南部小学校の学校敷地は旧小姓町の区域にあたるようです。
 校門から敷地の奥に通ずる舗装道路があり、体育館の手前に車が駐まっている場所がありました。駐車車両の隣に車を置かせていただき、舗装道路を奥に行ってみました。
 平成六年建立の創立百二十周年の碑があり、校庭の端のほうに土俵もありました。校舎は三階建ての建物でした。

 南部小学校

 上杉神社、上杉博物館、白子神社、等を巡りました。
 古志田関連などの調べておいたいろいろな場所には行けずじまいになりました。


《探訪の整理》
 桜神社とその裏手の石祠の写真を月光善弘に提供した鈴木氏は、何によって石祠を古志田の小四王社であろうと考えたのでしょう。
*『上長井郷土史』(上長井郷土史編纂委員会 平6・1994)の「第七章寺院仏閣・石碑等・三,桜神社」の記述を見ます。
 「三,桜神社」の節は、「(一)神社由緒書から ア,明治三十九年六月三十日現在の郷村社調から イ,御本体は秘中の秘 (二)神社財産について (三)例祭日について (四)桜神社奉納額(絵馬)から (五)皇大神社の并祀ヘイシ (六)氏子総代氏名 」の項目で構成されています。 
 項目「(一)神社由緒書から」の本文に、「名称が特徴的であるが、伝承では信濃国桜郷にあったものを上杉氏が国替えの時に遷座したので、桜神社を称するという。米沢に移封した時には遠山境の石塚に堂宇を建立し祀ったが、のち古志田村桜谷沢の内、宮ノ平に遷座したものという。寛文三年に字熊野前に社地替えとなり、更に元文四年になって大在家の地に二宮源兵衛が移転再建したものと伝えられる。村中鎮護の神で、『正一位一の宮子易五社大明神』と称され、尊敬され参拝されたものである。〈略〉明治五年二月には村社となり、明治十二年七月、郷社に加えられた。」
 「ア,明治三十九年六月三十日現在の郷村社調から」の本文に、「山形県羽前国南置賜郡上長井村大字古志田熊野前鎮座 / 郷社桜神社 / 一,社地 官有地 坪数弐百拾四坪 / 一,社格 郷社 / 一,祭神 五社 / 稲倉魂命、豊宇気毘姫命、大巳貴命、大宮姫命、保食命、/ 右神社の儀は、〈以下、(一)神社由緒書からの本文とほぼ同内容につき、略〉/ 旧藩主上杉家より月々御参拝被為在たる神社に御座候也、/ 明治三十九年八月 / 南置賜郡上長井村大字古志田 桜神社 / 社掌 高橋□□〈伏字〉」
 「イ,御本体は秘中の秘」の本文「〈略〉祭神は稲倉魂命、豊宇気毘姫命、大巳貴命、大宮姫命、保食命であるが御神体が秘されているので信仰の中心が不明である。木造の地蔵尊像が安置されていて、曾ては神仏習合の時代もあったことが推測されるが、詳細は今後の研究に待ちたい。なお、地蔵尊には金剛宝地蔵の称号が付されているので、餓鬼道にさまよう人々を救済する地蔵尊であるので、江戸中期以来の凶作時に村人の生活の安泰を願って奉納されたものと推測される。また、一ノ宮の名称が谷地村の『一宮神社』とどう関連するのかも疑問である。」
 「(二)神社財産について」以下は、略。
 城南の一宮神社で頂いた「桜神社由緒」もほぼここに引用した『上長井郷土史』の内容とくいちがいがないので、引用をいたしておりません。

*「一ノ宮の名称が谷地村の『一宮神社』とどう関連するのかも疑問」とありましたので、資料にあたりました。
 同じ資料の『上長井郷土史』=「第七章・七,その他」の項目に「 ア,谷地大明神」がありましたので見てみますと、興味深い記述がありました。〈以下の引用中の「 / 」は改行〉
 「 ア,谷地大明神」に、「旧谷地村、現林泉寺二丁目に元谷地大明神の社祠跡が残存している。古記録から祭祀の経過について述べる。 / @米沢事跡考から / 谷地の地は上永井谷地村の北に有り、一宮と云う、一社一座小彦名命、別当神宮寺、寛永元年三月叙正一位、祭礼〈略〉、小祠あり、破壊の時の後寛永十五年、郷人新たに祠を立て祭る、寛文十一年、林泉寺の北の辺に小祠を移す、相伝ふ谷地大明神は上古よりの鎮座にして此郡の一宮也、神体蔵王権現を祝す故、谷地村小児匍匐するに右の足を屈す、権現の相なり、寛文の頃より士庶の産神を分つ、城の二郭北は白子大明神を産神とし、以南は当社を称す、/ A米沢地名選より / 〈略〉/ 寛永十一年三月、叙正一位出羽国置賜郡永居庄、正一位一宮大明神、進官奉成置賜郡総鎮守、別当真言宗延命寺神宮寺(法音寺末)養仁房宗英、氏子総代、山田清右衛門正秀、一社人寺嶋権頭、 / B考察 / 以上から考察するに、先ず旧谷地村には谷地大明神が祀られていた。祭神は小彦名命であり、本尊は蔵王権現である。ということから山岳宗教としての羽山権現の影響が考えられる。上杉氏が米沢に入部の時、侍組安田氏が一宮神社を奉載して福田町の屋敷内に祀った事実から、南町検断山田清右衛門が肝煎となり、中条清資・須田義当等を動かして安田屋敷に勧請した経緯が推測される。神社史を見ると、正安一年に、成島及び一宮神社の社殿建立(県神社史)とし、上杉氏入部以前からの神社であることを記して、次いで寛永元年に正一位一宮大明神となる、寛永十五年祠を建て祭祀す、と次第に神格を上げる様子が記してある。但し、米沢城下絵図、寛永十七年の往古御城下絵図、承応二年の御城下絵図には記載がない。記録は寛文十一年に林泉寺の北に祠を遷す、とあって、それを受けたように天和一年頃の御城下絵図には谷地明神が載っている。 / 〈略〉/ 明治五年に白子神社と共に郷社となった。C参考史料 / 〈略〉/ 四,現在地に移転 /  明治二十年四月二十七日、付近より失火し社殿類焼し、翌二十一年一月二十七日、元東馬口労町の現社地に遷宮す、五,現在の社殿 / 明治三十五年九月暴風雨のため社殿倒壊す、同三九年に再建して今日に及ぶ、六,指定郷社となる / 昭和三年十一月七日、神餞幣帛料供進の神社に指定さる、」

 「疑問」の直接答える内容ではありませんでしたが、城南の一宮神社は谷地大明神だったということのようです。
 一宮神社の所在地は、『平成の祭』によれば、米沢市城南2−3−38(本馬口労町363)となっています。
 一宮神社の祭神に大巳貴命が祀られているのは、蔵王権現を本尊としていたためでしょうか。
 また、「成島及び一宮神社の社殿建立(県神社史)」とある「成島」は成島八幡神社でしょうか。

 『平成の祭』で広幡町上小菅の「一宮神社」を調べた時に、米沢市の神社の一覧の中に城南の一宮神社もあったわけですが、コシオウ関連情報にはありませんでしたので、その時は調べませんでした。

 一宮という神社が、そう遠くない所に複数存在するのは、どうなっているのでしょうか。 

 *『上長井郷土史』=「第七章・八,神社仏閣・小祠・石碑等一覧」を見てみます。
 「第七章・八(二)古志田地区」に、「@ 桜神社 (大在家)」があり、神社境内の碑等のなかに切石御堂の「裏神様 裏神様と伝承される神であるが、祀られているのは地蔵尊で、内部に明治三十年十二月奉斎八将神の祭札あり」がありました。
  「B 熊野神社 (熊ノ前) ダム西幹線の隧道入口辺、元射撃場の南にあり、石塔の鳥居の西側に切石御堂が鞘堂で覆われ、安置されている、〈略〉」が記され、熊ノ前には観音塔も記されています。
 「G 神明水道記念碑 (熊の前) 神明林の出口に水道整備を記念して昭和三十五年九月に建立された」もありました。
 「第七章・八(三)赤坂地区」に、「A きんか薬師 (赤坂) 耳の薬師様で、穴空き石を供え祈願する、歴史は古いが詳細は不明である」

 きんか薬師は「第七章・八(一)遠山地区」の項目 I(八幡前)に切石御堂の「きんか薬師 耳の病気を直す神として信心され、穴あき石が奉納される、元来は塞の神か」もありました。

 これを見ると、現在の桜神社の鎮座地の字地名は「大在家」で、「熊ノ前」という地名の場所もあって熊野神社も祀られているので、桜神社の鎮座地住所が熊野前になっているのはどういうことなのでしょうか。熊ノ前の範囲に大在家があるのでしょうか。
 熊ノ前などの実際の場所がどこになるのかは不明です。

 その桜神社の境内の本殿の背後に鎮座している石祠は、裏神様と伝承されているそうですので、まさに桜神社の裏にある神様で裏神様なのでしょうから、桜神社が現在地に遷座してきてからの呼称ではないかと思いますが、桜神社と一緒に遷座してきたという可能性はあるでしょうか。
 裏神様の鎮座する位置は境内の摂社末社の祀られる位置とは思えませんので、桜神社の遷座の後に祀られたとは思えません。
 桜神社に「木造の地蔵尊像が安置され」、裏神様に「祀られているのは地蔵尊」とあるのは、それぞれ別に祀られていた神社ということではないだろうか。      
 裏神様は、もともとこの地に鎮座していた神様ではないのでしょうか。
 しかしながら、裏神様についての記述は引用したわずかに二行のみで、信仰のもともとの姿は分かりません。
 裏神様をなにゆえに小四王社であろうとしたのでしょうか。そのような形跡はあるのでしょうか。
 不明としか言い様がないと思います。

 薬師様を祀る、きんかに霊験があり穴あき石を奉納する信仰があるようです。この地ではコシオウとの習合は見受けられないようです。

*いくつか出てきた地名を見てみます。
 現在の古志田町から見ると、北に遠山町があり、東に林泉寺、南に笹野町で、笹野町の南に笹野本町、東は笹野・他、というようなおおよその位置関係があります。
 『山形県地名録』の「上長井村の古志田」の項目に「(上)大在家(前)、熊野前(下山)、神明下山、古志田、宮ノ平」等がありましたが、桜谷沢や石塚は見当たりませんでした。
 「上長井村の遠山」の項目に「古志田八会ヤカイ」はありましたが、石塚や「古志田入会」は見当たりませんでした。八会と入会のどちらかが誤っているのでしょうか。
 「上長井村の笹野」の項目に「古志田前」がありました。
 「古志田八会(入会)」「古志田前」は、古志田に隣接する遠山と笹野にある地名ですので、「古志」関連地名があちこちにあるということではなく、古志田から生じた地名という理解でいいのではないでしょうか。

*『上長井郷土史』の「第一章 旧上長井村の概況」の「三,大字毎の伝承」に遠山村・古志田村・笹野村が記されていますので、古志田村について見てみますと「南置賜郡史稿には『振鬣フルシダト書セリ』とあり、『古老の伝説に、安倍貞任の乗馬逃げてこの平野を走る時、鬣タテガミを振りたるよりこの名あり。のち古志田と改む』と地名の由来を述べた。〈略〉また、古志族と結びつけることにも史料がない。」とあります。
 フルシダの古志が、元はコシだったとしても、それで何が証されるのでしょうか。
 仮定として設定するのは許されるにしても、仮定なら仮定の扱い方があるように思います。

*『広幡村誌』(島貫良松 編 広幡村 昭6・1931 和綴謄写版)の「宗教 神社 仏閣」の「神社」の部を見ますと、先ず郷社八幡神社について7頁にわたり記されており、次いで村社一ノ宮神社について9行記されており、続く神明社と稲荷神社と雷神社は2行記されています。
 郷社八幡神社は成島八幡神社のことと思います。
 「村社一ノ宮神社」の記載に、「『米沢事蹟考』ニ小管大明神(管ノ字菅ノ誤ナルベシ)『一名越家社』小物忌神一座小菅社ハ上長井宮城郡小菅村ニアリ今は虚空蔵ノ祠ト云フ別当千手院又出羽ノ国置賜郡越家ノ社ハ出羽国飽海郡ニ物忌神社ノ勧請ナリ和銅年中小物忌社ヲ越家村ニ移シ祭ル一ノ宮ヲ小物忌神ト申ス。〈略〉明治五年四月村社ニ列セラレ明治十二年九月郷社トナル。神主寺嶋氏」とあります。

 一宮神社のほうが、いわば軽い扱いのようです。
 どうやらこの一宮神社が、川崎の言う越家神社のようですから、川崎によれば古志王神ということになります。
 神社の由緒伝承などをどこまで承知していて、どのような見解をもって、古志王神と記したのでしょうか。


 米沢の小姓町については、探訪記録村山17に記しました。

 こういった古四王関連と主張される情報を検討していくことは無駄なことにも思えますが、こういった類の情報をつぶしていくことも意味があるのかもしれません。

 山形県に関する《佐藤リスト》(佐藤リスト・佐藤地名リスト)は、ここまでとなります。
 《佐藤リスト》の探訪、完了です。
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