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探訪記録 山形 49 : 置賜 7
佐藤リスト
位置番号
38
: 南陽市赤湯 小姓堂 備考)南面石堂
佐藤地名リスト
位置番号
66 : 南陽市長岡(赤湯町長岡) 小生堂コセイドウ
〈桑原リスト:東置賜郡赤湯町(現南陽市)・小姓堂
佐藤地名リスト
位置番号
65 : 南陽市坂井(旧沖郷村坂井) 小丁作コジョウサク
《探訪の準備》
*川崎「置賜郡の越王神」に、「東置賜郡赤湯町小姓堂」
*「置賜の越王社」(『置賜文化 第十六号』所収)に、「東置賜郡赤湯町小姓堂にも、小さな石宮が南面して建っているが、其の由来ははっきりしない。」
*『赤湯町史』(長井政太郎編著 赤湯町史編集委員会 昭43・1968)の「第四章地名・第二節小地名」の「長岡」の項目中に「小生堂コショウドウ」があり、「同・第三節小地名の由来」の「長岡」の記載に「小生堂は県内各地に見られる腰王堂又は古四王堂、越王堂の変わったものであろう、」があります。
*赤湯町長岡という表示は、明治22年の合併で当時の赤湯村・二色根村・椚塚村・長岡村・等により赤湯村が発足し、それが赤湯町になり、昭和42年に南陽市になっていくことによります。
*『山形県遺跡地図』に、「長岡山遺跡(集落跡。旧石器時代、縄文時代(中期)、古墳時代)」があり、その西側から南側にかけて「長岡館跡(城館跡)」があり、「長岡館跡」の範囲の南側の西側に「稲荷森古墳」があります。
「長岡館跡」には現在の赤湯小学校があるようです。
*平成30年10月〈2018〉に南陽市立図書館に行き、古い住宅地図を出していただき、長岡地域に小生堂と記されていた住宅地図をコピーさせていただきました。
小生堂の地名の所には赤湯園芸高等学校と記されており、校舎の西側には長岡堤とグランドがあります。
*南陽市坂井(旧沖郷村坂井)の小丁作コジョウサク地名については、『山形県地名録』の「沖郷村の坂井」項目中に「小丁作コウジョウヅクリ」が記載されていました。
現在の住所表示で南陽市坂井は確認できますが、小丁作の場所は分かりません。
いまのところ検討のしようがないと思います。
佐藤は何故この地名をリストに入れたのでしょうか。
《探訪の記録》
*2019年10月26日
上山市を訪ねたおりに赤湯を訪ねました。
前年に南陽市立図書館で資料調べをした際に、赤湯小学校とその周辺を見て回りましたが、石宮は確認出来ませんでした。
その折に、長岡堤が消えていることを知り、稲荷森古墳を見学しました。
今回はもう一度しっかり周辺を探すことと、前回に通っていない場所に行って探すことを目指しています。
前回通っていない場所を探すため、小学校東側の門の前の道の突き当りから未舗装の道に降りて南へ探して進みました。
未舗装路は途中から畑の中を通る小道になり、南に向う右側が赤湯小学校の敷地で高台になっています。
期待していたこの道沿いにも石宮はありませんでした。
長岡公民館の南を東西に通る舗装道路に出ましたので、小学校の南側に歩を進めると小学校の一段高い敷地に向う坂道がありました。
その坂道を少し上って見ると、奥の方に木立がありその前に石宮が見えました。
これかと思い石宮のある場所まで入らせてもらいました。
石宮は、屋根は流れ造り風で鬼瓦や懸魚の意匠も見られ、四角形の本体(身舎)正面に四角に開口された御本尊等を祀る場所(内陣)があり、台座の前方部分が一段低く作られていて左右に丸く穴がありますので向背柱が立っていたのでしょうか。
石宮の周囲に石が配され区画されています。
本体の開口部に石が複数見えますが、石のあることの経緯は分かりませんが、祀られているようには見えません。
石宮は、南南西を向き、大きさは目測ですが高さ110センチ程、台座の幅50センチ程です。
石宮のうしろに、板碑が二基と残欠かと思える二基があります。
石宮の背後に見えた木立の場所には、石組みがあり県立赤湯園芸高校に関する記念碑がありました。
左上: 坂道の奥に石宮
○
と木立 右上: 石宮ー正面
左中: 石宮と背後の板碑 右中: 石宮ー斜め後方、右奥に坂道
左下: 石組みと記念碑 、
○
石宮 右下: 赤湯小学校
《探訪の整理》
*石宮は、現・赤湯小学校の周りのどこかでにあるのではないかと思っておりましたが、学校の敷地の中にありました。
市立赤湯小学校の住所表示は、南陽市長岡994となっています。
学校敷地の東の端に設けられた旧・赤湯園芸高校の様々な記念碑が建てられている記念施設の区画の南側に石宮と板碑の祀られた区画がありました。
この石宮は、もともとこの場所あったのでしょうか。
板碑とともにここに移されてのでしょうか。もし移されたとすれば、旧・赤湯園芸高校の記念施設との関係はどうなのでしょうか。どちらかが先なのか、同時なのか。
石宮があった場所周辺が小生堂になったのでしょうから、旧・赤湯園芸高校の敷地の地名が小生堂ですので、いずれにせよ石宮はこのあたりにあったのでしょうが。
*『長岡山遺跡/長岡山東遺跡 発掘調査報告書』〈/は改行〉(南陽市埋蔵文化財調査報告書第7集 山形県南陽市教育委員会 平25・2013)に巻頭写真1・長岡山遺跡 第4次調査時全景(北から)があります。
第4時調査は平成12年11月1日からで、小学校改築計画確定を受けての調査になります。
この巻頭写真1を見ると、旧・赤湯園芸高校の記念施設のある場所の木立が見えています。
旧・赤湯園芸高校の校舎は既に平成2〜3年度に解体されています。
この記念施設に、創立50周年〈昭和52年〉と創立60周年〈昭和62年〉の記念碑がありますので、旧・赤湯園芸高校が解体されても元のまま残されたようです。
旧・赤湯園芸高校は宮内高校と統合して、1991年4月〈平成3年〉に南陽高校〈南陽市宮内〉になっています。
同報告書の記述に「南陽市で最古とみられる遺跡が長岡山遺跡で、旧石器時代後期とみられるナイフ型石器が発見されている。さらに縄文時代草創期とみられるエンドスクレーパーも採集されている。」とあり、「昭和17年、昭和2年創立の赤湯実業公民学校が赤湯小学校敷地から長岡山に移転し、昭和23年に山形県立赤湯園芸高等学校となる。昭和17年の新校舎建築にあたり出土した多くの出土遺物が風也塾(現結城豊太郎記念館)に収蔵された。昭和23年の高校校舎建築の際の出土物も風也塾間借りの赤湯公民館に集められている。」や「長岡山丘陵は、@古墳等の築造による『古墳時代』の部分的改変 A館跡築造による『中世』の中規模改変 B昭和17年の赤湯実業公民学校校舎建築による大規模改変 C平成2年の赤湯園芸高校統廃合に伴う盛り土(整地)による全面的改変 と、大きく分けて4度の改変が行われている。これらの改変により遺跡の上部は削られてしまったため、残存しているのは丘陵の裾部分と窪地である。また、丘陵を削平する際に、平地を増やすために土を東西の斜面に押し出しており、そのため東西両端部は相当の盛土がなされている。」があります。
昭和17年の校舎建設以前の敷地はどんな状態だったのでしょうか。
「丘陵を削平する際に、平地を増やすために土を東西の斜面に押し出しており」というのは、いつの時代のことなのでしょうか。
分からないことはいろいろありますが、ともかくもコシオウの祠と思われる石宮が小生堂という字地名であった場所に現存していました。
石宮が小姓堂と表記されていたかは不明ですので、地名の表記を石宮の表記として小生堂コショウドウとしておきたいと思います。
南陽市立図書館でコピーした古い住宅地図に、長岡堤の南に小生堂が記され、その南のグランドの南側に金屋神という地名が記されていて、そのさらに南に稲荷森古墳があります。
『赤湯町史=第四章・第三節小地名の由来」の「長岡」の記載に「金屋神と呼ばれる地名が見られることは注目に価する。鍛冶屋があって金屋神を祭った土地であろう」があります。
コシオウと鍛冶の神の関係を論ずる方もいらっしゃいますので、記しておきます。
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