ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ

探訪記録 山形  52 : 置賜  11


リスト外 : 東置賜郡川西町小松 大光院境内 巨四王堂 (小形仁兵工 置賜文化40号所収) 

《探訪の準備》
*2013年5月に山形県立図書館の文献目録検索を「神社」で行った中に「置賜山巨四王大権現について 小形仁兵工 置賜文化 40号 昭和41年」があり、同年7月に山形県立図書館で復刊版(昭和五十五年七月復刊 置賜史談会)を閲覧できました。
 以下引用させて頂きます。〈氏名の一部を伏字〉
 「(一)巨四王堂ありに気がついたのは」に、「金子□□家(神主)にあった二百余年前の記録『置賜霊山御縁起』の末尾に「半覆は地蔵菩薩の霊跡一山の操也、側に血の池あり、骨堂あり、三重の石の塔あり、閻魔堂あり十王十躰なり巨四王堂あり『一山の鎮守須弥の四天也云々』と巨四王堂の四字が記入されていたのに気がつきました。」
 「(二)巨四王所在調査」に、「大光院の関係者で青年団時代置賜山公園開発に努力、しばらく自治会長を勤めていた大竹○○さん(七十一才)」に2月にお話をうかがうことができ「巨四王堂とか巨四王神社とかはっきりしたことはわからぬが『こしお権現』に梨を供えてお詣りする。そしてお宮の中に長さ四寸か五寸に切られた藁があったが、それを戴いて来てかむと歯痛みがとまると、親につれられて御詣りに行ったことがある。あれは五つの時だった。そのお宮は観音様のわきの石宮で、その後も遊びに行くと当時はその石宮に梨があがっていたのを時々見たことがある」とありました。
 6月に石宮を訪れると「今まで十余年見たことのない赤い小旗が石宮の前に翻っている。近寄って見たら『巨四王大権現』と筆太に墨書。その下に小さく原田○○、昭和四十年十月五日と書かれてある。」
 原田氏にお伺いしたところ「何の記録も無く格別な言い伝えもない。私が施主でもなく、何月何日が祭日ときまったことも知らない。あの石宮は何時建ったか古くからあったもので、只私は小さい時から歯が痛むと巨四王大権現に梨を供えてお詣りするとなおると親から教えられ何度かお詣りに行った。今は七十四歳になったが、このように元気で長生きしたのも全く巨四王大権現のお陰であると感謝しています。それで御礼にと旗をあげたのです〈略〉巨四王と書いたのはあの石宮の中に石に巨四王と書かれているのを見たからで親から巨四王大権現と聞いていたので巨四王大権現と書きました。この旗がお役に立ったと云うことは私としてほんとうにうれしいことです。石宮の中に巨四王と書かれたものがありますが、小さい時見たより少し薄くなったように思います」とのことです。
 「(三)巨四王堂所在地と石宮」に、「巨四王堂は置賜山大光院本堂と置賜第十四番観音堂との中間にあり、土台に長さ三尺六寸位の切石三枚使用その上に一枚石で巾二尺六寸奥行三尺一寸厚さ八寸、その上に横二尺奥行一尺七寸高さ二尺一寸中をほり抜いたもの、その上に笠石横三尺二寸奥行三尺八寸屋根の最高部迄一尺九寸ある一枚石で、笠の前方三寸五分角の松の木で笠石の前方を支える柱が二本立っているが、風雪にさらされ中心僅か一寸程残っている全高さ四尺八寸位白っぽい石で作られたもので(権現作りか)笠石の風化の状態から伊達時代の立替えではないかとおもわれる。中に黒っぽい面の丸味を帯び流れ石のような長さ一尺二寸巾広いところ六寸位の細長い石に巨四王神と黒く書かれたのがある。社の字が消えて無くなったのか、元々無かったのかは不明であるが、巨四王神だけは今でも読める程度に保存されていることはありがたい。〈略〉祭神に西根の巨四王と同一の字を用いているところから、大巳貴命でないかと推定されるが、記録にも伝承にも目下の処不明であるが現在は観音堂と同じく東向になっている。〈略〉本尊の石に記された古い文字は明らかに巨四王神であり、古記録にある通り一山の鎮守として創立当時より巨四王神として祭られていた越人の氏神、越文化の表徴であったことが立証されると思う。〈略〉」
 「(四)巨四王堂創立の価値」 「(五)巨四王神の信仰」〈本文略〉
 文末に、「41・7・24朝 / 住所 小形仁兵工」とあります。

*『白鷹町史 上巻』に「第16図:古四王神社位置」と題された簡略な地図があり、そのなかに「小松」がしるされていました。

《探訪の記録》
*2014年8月2日
 米沢に向う前に川西町上小松の大光院に向かいました。
 大光院の山門のわきに「置賜古刹 新義真言宗 /  置霊山 大光院」と記された看板がありました。
 山門の横の舗装道路を進んで、広場になっている場所に車を駐めさせていただきました。
 門と塀があり、門は閉ざされており、その奥に大きな屋根が見えます。「諸堂案内図」があり、それによると中門でしょうか。
 川西町による「まちあるき歴史看板N 大光院」という案内版があり、「〈略〉松光山長岡寺大光院と号したのを開山とする真言宗の古刹。〈略〉小石を多く集めて一字ずつ経を書いて塚を築き、小塔婆を建てたので置霊(おいため)と言うようになり、この呼び方が一群の名として置賜と呼ばれるようになったとも言われる。〈略〉」とありました。
 中門の脇をまわる道がありますのでそちらから中に入らせていただきました。
 すぐに観音堂が目に入ります。鐘楼があり、本堂があります。
 本堂に進みますと、正面の玄関は大きな千鳥破風屋根がかかり、向拝柱に「新義真言宗 松光山 大光院」の山号額がありました。
 本堂前に工事業者さんの車が2台停まっており、境内に入ってすぐに観音堂がありましたので、本堂にはお声がけをいたしませんでした。
 観音堂の十段ほどの石段の両脇に赤いのぼり旗がたっていました。
 置賜三十三観音の第十四番札所とのことです。
 観音堂に向って右側には石塔・石碑・等がいくつも置かれています。
 そこに石宮がありました。
 屋根を支える二本の向拝柱のような木柱があり、石宮の本体胴部(身舎)の四角いくりぬきの中に黒っぽい楕円形の石が立っていました。
 この石宮が巨四王堂のようです。
 石の表面には文字は見えません。目をこらすと、何か書かれた跡のようにも思える少し黒っぽいところもあるようですが文字とは見えません。
 かつて神名が記され御神体でもあったろう楕円形の石の下部は別の複数の石で支えられて立っているようです。
 外から眺めた限りでは、それ以上のことは分かりませんでした。
 石の裏側はどうなっていたのでしょう。

 大光院の境内を奥のほうまで歩かせていただきました。
 広い境内は多少の高低差があり、そこに墓石がゆったりとした配置で広がっている墓地がありました。
 閻魔堂がありました。

 大光院を離れ、川西町立図書館・遅筆堂文庫・川西フレンドリープラザを訪ねました。

 左上: 大光院 山門                            右上: 大光院 中門前
 左下: 観音堂                                右下: 本堂 
 左上: 観音堂ー鐘楼ー本堂                         右上: 観音堂の階段の右側に石宮
 左下: 石宮 正面                               右下: 石宮 斜め横

《探訪の整理》
*川西町は、昭和30年に南置賜郡玉庭村、東置賜郡大塚村・犬川村・小松村・中郡村が合併して発足しています。
 明治22年に、上小松村・中小松村によって小松村が発足し、小松村・下小松村・高豆蒄村・黒川村によって犬川村が発足しています。
 現在の住所表示にも小松・上小松・中小松・下小松の地区がありますので、大光院は旧上小松村地区にあるということでしょう。

*大光院は歴史のある寺院のようですので、その境内に鎮座する巨四王堂と大光院との関わりはどのように生じたのか気になるところです。
 「二百余年前の記録『置賜霊山御縁起』の末尾」に記されていたという「巨四王堂あり『一山の鎮守須弥の四天也云々』」ということからすると、「巨四王堂」と表記されており、それが大光院の鎮守の四天王である、ということのようです。

 四天王を祀る巨四王堂。これは重要な例になるのではないでしょうか。
 そして巨四王堂内の御神体・御本尊の楕円の石に「巨四王神 」と記されていた事実。
 「巨四王」表記から長井市川原沢の巨四王神社と関連があるのではないでしょうか。
 また、「巨四王」という表記は「小四王」という表記があってのことではないかと想像しています。

 「流れ石」というのは川原石、いわゆる磧石ということかと思います。

*歯痛に霊験がある、藁をかむ、梨を供える、こういう民間信仰は他に例があるのでしょうか。

*短時間でしたが図書館で郷土資料関係の資料にあたってみましたが、「巨四王堂」に関する記述を見いだすことはできませんでした。

 小形仁兵工氏の「置賜山巨四王大権現について」の記載以上のことは、私には分かりません。
 この資料が無ければ、忘れられていたかも知れませんので、感謝にたえません。

 大光院の現在の住所表示は、東置賜郡川西町上小松2948です。

*『川西町史 下巻』の「民俗編・U川西の石碑・石仏と石塔」の「二石仏と石塔・2道祖神」に、「耳の神としての道祖神など」の項目があり「この地方の道六神にはよく穴のあいた石があげられている。」「何をあらわしたのかわからない石があって、そこに穴のあいた石が供えられてあった。〈略〉これは道陸神と呼ばれて耳の神としてまつられていたものである。この地方ではこのほか家型塔婆が道陸神として耳の神として信仰されているものがたくさんある。」の記述がありました。
 このあたりでは、耳の神は道祖神と習合し、コシオウと耳の神の習合は見られないのでしょう。
 耳の神ではなく、歯の神になったようです。


ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ