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探訪記録 山形  46 : 置賜  5      


佐藤リスト 位置番号36 : 長井市川原沢・巨四王森  巨四王神社  備考)現在東向き、古四王神社の扁額、大蛇伝説
                 〈桑原リスト:長井市川原沢巨四王森・巨四王神社

《2021年8月 改定いたしました》
*『西根の歴史と伝承 第1集』(「西根の歴史と伝承」編集委員会、西根史談会 発行 昭54・1979)、『長井市史資料 第11号』(長井市史編さん委員会、長井市教育委員会 発行、平31・2019)、『長井市史 第四巻(風土・文化・民俗編)』(長井市史編纂委員会、長井市 発行 昭60・1985)を閲覧出来ました。
 それにより、公開済みの記事に補足・訂正・一部取消し・追記を行いました。補足・訂正その箇所には〈ヤマカッコ〉を付けました。


《探訪の準備》 
*川崎〈浩良〉は「置賜郡の越王神」〈『美人反別長』〉に、「同郡西根村川原沢巨四王社」を記載。
 西根村は、明治22年に草岡村・勧進代村・河原沢村・寺泉村の合併により発足し、昭和29年に他町村と合併で長井市となっています。
 西根村の川原沢地区は長井市の川原沢になっています。

*丸山茂も「越国と越王神社」(『山形縣文化史 第一巻』所収ー巻頭論文)で、「西根村河原澤(巨四王)」を記しています。
*『西置賜郡志 2輯 宗教篇』の山形県の「こしおう」神社の分布として十四カ所をあげた中に、「西根村河原沢 巨四王神社」と記しています。
*「置賜の越王社」(『置賜文化 第十六号』所収)に、西根河原沢字巨四王森にあるは、明らかに巨四王神社の扁額を揚げている大鳥居を前に、一間四面の本殿を後に、間口四間半の拝殿をもって、東面する堂々たる神社であるここも明治四十四年村社蛇附神社を初め、五社を今の合祀記念碑のあるもと巨四王社のあった処に、合併したものだが、この蛇附神社にも、越路と関連する大蛇伝説を伝え、杉の巨木の下に湧き出る清水に、五十余町歩の灌漑田地を持つ部落民は、奇しき恩恵を追慕している。」とあります。
 蛇附神社の「越路と関連する大蛇伝説」とは、なんでしょう。

*巨四王神社は、『平成の祭』に記載があります。
 それによると「神社名:巨四王神社〈振仮名こしおうじんじゃ〉、祭神:(主)大己貴命、建御名方命、大山祇神、鎮座地:長井市大字川原沢字巨四王森1357-1」とあります。
*『山形県神社誌』によると、神社名と鎮座地は『平成の祭』と同じですが、「祭神:大己貴神〈振仮名おおなもちのかみ〉 外五柱」とあり、「由緒:大正十二年に建てられた合祀記念碑があるが、それによると、明治四十四年に川原沢内の蛇附、巨四王、諏訪、熊野、皇大山、稲荷神社を合祀している。この中で、巨四王権現と蛇附明神の創建は古く、巨四王神社は文安二年五月創建と伝えるが由緒は詳かでない。神官は代々○○家、□□家〈伏字〉が勤めてきた。また、この年に境内を拡張して神殿、拝殿、神庫、社務所を建て、鳥居を建立し社道を開いた。合祀前の明治三年に村社となり、大正七年神饌幣白料供進神社に指定された。」とあります。
*山形県神社庁のウエブサイトにある山形県内の神社のデータベース「山形の神社」の「巨四王神社」によれば、大己貴神以外の「外五柱」は、倭姫命やまとひめのみこと、天御中主命あめのみなかぬしのみこと、建御名方命たけみなかたのみこと、櫛御氣野命くしみけぬのみこと、大山祇神おおやまつみのかみ、になるようです。
 合祀前のどの神社にどの神が祀られていたのでしょうか。
*長井市観光ポータルサイトで「獅子舞(川原沢 巨四王神社例祭)」を見ると、「大正12年に建立された合祀記念碑によると、明治44年に川原沢内の蛇附巨四王・諏訪・熊野・皇大山・稲荷各神社を合祀したと伝えている。この中で巨四王権現と蛇附明神の創建は古いとされている。また平成15年に境内を拡張し、社殿・拝殿・庫裏・社務所を建て鳥居を建立、社道を開いた。」とありました。
 山形県観光情報ポータル「やまがたへの旅」の「イベント・祭」にある「獅子舞(川原沢 巨四王神社例祭)」も同様の文面でした。
 これらの記事には、「蛇附巨四王」と記され、二社に区分されて記されていないのはどうしてでしょう。
 また、境内の拡張、社殿の建立等は、大正ではなく平成15年なのでしょうか。
 〈 長井市観光ポータルサイトの「境内を拡張し、社殿・拝殿・庫裏・社務所を建て鳥居を建立、社道を開いた」の文面は『山形県神社誌』の「境内を拡張して神殿、拝殿、神庫、社務所を建て、鳥居を建立し社道を開いた」と同じ事を指しているのだろうと思いますので、「平成15年」と言うことはないと思います。
 「大正」に境内の拡張、社殿の建立等が行われたと思ったのは、『置賜の越王社』に「合祀記念碑のあるもと巨四王社のあった処に、合併した」とありましたので、合祀した巨四王神社を境内拡張、社殿建立・等の折に移動して、その空地に合祀記念碑を建てたのではないかと思って、大正に境内の拡張、社殿の建立等が行われたと思った次第です。 〉

 巨四王神社の鎮座する場所は、地図で知ることができました。
 鎮座地の現在の住所表示は、長井市川原沢1357−1で、字巨四王森は表示されておりませんでした。 

《探訪の記録》
*2020年7月24日
 五祭所の五所神社を訪ねてから、県道11号〈長井白鷹線〉で北へ、巨四王神社に向いました。
 目印にした「羽前西根郵便局」前の交差点で西側に折れて100メートル程進むとT字路交差点のところに「巨四王神社」の標柱が建っていました。
 そちらに曲がって進んで行くと「巨四王神社」の社額の揚げられた木造両部鳥居の前になります。
 車を付近の道路の広くなった所に置いて、神社に向いました。

*鳥居をこえて未舗装の参道を歩きますと、参道の左右に木の切株が並んでいます。杉並木だったのでしょうか。
 進んで行くと川〈北の沢川〉があり、橋のむこうに石段が続き、その手前に手水舎がありました。
 石段をのぼると平坦な境内で奥の正面に社殿が見えます。
 石段をあがった境内の右側には杉の並木があり参道を形づくり、左側には二段の石垣があり土が盛られた場所があります。
 そこには数段の石段がもうけられていて、石碑類があります。
 かつて社殿か何かが建てられていたのではないかと思いました。
 参道を進むと、左側の盛土の場所が終わる手前付近に石灯籠が左右に建ち、その先は境内が広く開かれています。
 盛土の端に根元のつながったように見える二本の大きな杉が立っています。
 その手前に数段の石段がもうけられていましたが、石段が斜めについているように感じ、石段の設けられ方に違和感がありました。

 広くなった境内の正面の拝殿に詣で、右側に進み振り返って幣殿〈?〉・本殿のようすを見て、また右を見ると、社務所があり、少しだけ高い所に忠魂碑と赤い小祠・石祠があります。
 東側に向いている拝殿の前に戻り、拝殿の左側に進むと、奥まって青い屋根の小祠があり、その奥には車がとめられそうな場所がありましたので、ここまで車でくることが出来るようです。
 古い注連縄が巻かれた杉があり、大事なものが納められているような建物があります。
 さらに左に、御札納めの設けられた標柱状の古峯神社の石柱や石碑等が立ち、その左に神明社風の小社殿が少し高い所に祀られていました。他に倉庫があります。
 広くなっている部分をひとまわりして、二本の大杉のそばの石段から盛土の場所にあがりました。
 こちらの石段からあがったところは、境内の入口付近の石垣の土盛り部分とは別に土を盛ったのかもしれないと思いました。

 この盛土の内部に簡単に踏み込むのをためらい回避する気持ちになり、のぼった石段からすぐにおりてしまいました。
 このようにして、巨四王神社から離れました。

*県道11号から、西根コミュニテイセンターの前を通り〈元の西根中学校だろうか?〉、西根小学校の横の道に入り、草岡中里付近を通ると「大明神桜」の案内板があり、そこを通り過ぎて古代の丘資料館に行きました。
 お土産に買った黒曜石は北海道産とのことでした。

 左上: 神社標柱                            右上: 鳥居・巨四王神社の社額
 左下: 橋の奥に石段                          右下: 石段を登り終えたところ。奥に拝殿。

 左上: 石垣の土盛。石段と石碑等。                 右上: 拝殿
 左中: 境内ー拝殿に向って右側。                      右中: 境内ー左側。根元に注連縄の巻かれた杉。奥は空地。
 左下: 境内ーさらに左側。                        右下: 二本の大杉。石段。


《探訪の整理》
*2020年の春の探訪のために、スマートフォンでGPS軌跡記録を取れるようにし、小型のビデオカメラで行程の動画を残せるように、準備をしていました。
 歩いた場所と地図を付き合わせることが出来るようにしたい、写真ではなく動画でもれなく記録出来るようにしたい、と思ったのです。
 今回の白鷹・長井の探訪で、実際的には初めて使ってみることになりました。

*巨四王神社に向うに際して、鳥居からの道も長く、その先もうっそうとしていますので、GPS記録の開始と、ビデオカメラを帽子の横に付けてリモコンとの無線接続をして、念のための熊鈴・ラジオの準備などに気を取られて、巨四王神社に関する資料にもう一度目を通して確認することを怠ってしまいました。

*そのようなことからか、「置賜の越王社」の記載や「合祀記念碑」のことを失念しておりました。
 たとえ失念していたとしても、石垣に囲まれた土盛りの場所に行って、石碑に注目すれば、合祀記念碑を見落とすことは通常はないと思います。
 普通であれば、石碑があれば注意をし、写真に収めると思いますので、何故そばに寄れなかったのか不思議でなりません。
 ビデオを回していたせいか、写真も少なく、記録にもれがあり、情報の確認が出来ない場合があります。
 そのビデオ画像も情報確認のための記録という面では、まだ使えていない状態です。
 やはり、自分の目で見て確認して、メモを取り、そして写真で押さえておくという方が間違いないようです。
 もう一度行けということかと思います。

*『長井市史 第二巻(近世編)』(長井市史編纂委員会 昭57・1982)の「第六章・第二節・1 神仏分離」の中に「3 神仏混淆が改められなかった神社 / 川原沢村巨四王神社〜当社は明治四十四年に旧蛇附神社と合祀、社殿は旧蛇附神社の社殿を用いている。旧別当寺は両社共に村内の羽黒修験龍宮寺であった。龍宮寺林宥は明治三年九月に復飾して〇〇□□と改め両社の神主となった。現在の巨四王神社の本殿と神庫には、巨四王・蛇附両社及び龍宮寺に所蔵されていたと考えられる神像(女神像・男神像)と仏像(聖観音像・弁才天像・石造観音像・石造地蔵菩薩像その他)が残され、本殿廊下の両側には現在も仁王像の板絵があるなど、神仏分離がまったく実行されなかったことが歴然としている。〈次の記述略〉」があります。
*「同書・同章・同節・3 神社の統合」の中に「西根地区 西根には寺泉五所神社・川原沢蛇附神社・同巨四王神社・草岡津島神社・勧進代八幡神社・同稲荷神社の六社の村社があり、神社統合によって、五所神社・巨四王神社・津島神社・勧進代総宮神社の各地区一社となった。」「川原沢では、明治四十四年五月に、村社蛇附神社と無格社皇大神社・諏訪神社・山神社の五社を巨四王神社に統合し、現在地に移転した。そして、新神社の社殿は旧蛇附神社の社殿を利用して、旧巨四王神社の社殿は社務所に転用され、神社永続の基本財源として、金二百円・田一町一反四畝歩・山林二町四反一畝歩余を祭祀修造の資本にあてた。その後大正十二年四月、過去の神社合祀を記念するために、〇〇□□〈伏字〉の撰文となる記念碑を巨四王神社境内に造立した。長井市内では多くの神社が、明治から大正にかけて統合されているが、その記念碑が造立されたのは、巨四王神社の合祀記念碑が唯一の事例である。〈略〉」とあります。
 そして「第155表 西根地区の神社」で「〈大字〉川原沢」 の神社を見てみると「〈社名〉巨四王神社 /〈社格〉 村社 / 〈大正末年時の〉氏子数101戸、境内360坪 / 〈昭和十八年時の〉氏子数120戸、境内1500坪 / 〈小字〉巨四王森 / 〈備考〉明治四十四年五月に五社統合」とあり、蛇附神社は村社で〈小字〉大明神・〈備考〉明治四十四年五月廃社とあり、以下に皇大・熊野・諏訪・山神社の無格社が記され、〈備考〉明治四十四年五月廃社は皆同じで、〈小字〉は皇大が神明森、熊野がシタミで、諏訪と山には記載がありませんでした。
*『長井市史 第三巻(近現代編)」(昭57・1982)の「第二章・第四節 明治初年の村誌」の中の「河原沢村地理誌」 の神社の項目には「蛇附神社」の記載があるだけです。これは第二十四区川原沢村の副長名で置賜県御役所の壬申〈明治5年〉十月に提出された書上げのようです。
 「明治十年九月」の「村誌」の項目で「河原沢村」を見ると「社 村社 蛇附神社 本村ノ北 倭姫命ヲ安置ス 本村ノ北西ニ巨四王社アリ」の記載があります。

*長井市史以外の資料を見ていないのですが、ここに引用した各記述からすれば、明治の前期に川原沢村の村社は蛇附神社で倭姫命を祭神とし、村の北の字大明神に鎮座しており、村の北西には巨四王社があるが、村人にとって村の神社としてふさわしいのは蛇附神社と思われていた、ということではないでしょうか。
また、合併前の巨四王神社の祭神は、大己貴神ということになるのでしょう。
〈『長井市史資料 第11号』に、「川原沢村村誌 明治十年九月書上」が記載されていました。それによると「村社二座」で、「社」の項目の記載内容は「村社 蛇附神社 本村ノ北ニアリ、祭日七月十七日・九月十五日  倭姫ノ命ヲ安置ス 本村ノ北西ニ巨四王社アリ」と記されていました。
 蛇附神社も巨四王社も村社ですが、村誌の記述に扱いの違いが表われていると言うのは言い過ぎでしょうか。〉

*昭和十八年発行の『山形県神社誌』で「村社 巨四王神社」を見ると,鎮座地は「西根村大字河原澤巨四王森」、祭神は「大己貴命 倭姫命 天御中主命 建御名方命 櫛御氣野命 大山祇神」、由緒には「創建年代詳ならず、明治三年九月村社に列す。同四十四年村社蛇附神社及無格社皇大・熊野・諏訪・山の五神社を合併す。大正七年十二月二十日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。」とあり、社殿〈略〉、境内は一五〇〇坪、氏子一二〇戸 、とありました。
 巨四王神社は明治三年に村社に列したことになっていますが、何故か明治五年の書上げにも明治十年の村誌にも反映されていません。
 〈明治十年の村誌には反映されていましたので、訂正いたします。〉

 蛇附神社と巨四王神社の合祀があり、他の無格社四社の合祀もなされたのでしょうが、明治の神社行政の指導があったのでしょうか、蛇附神社よりも巨四王神社が村社としてふさわしいとされたのでしょうか。
 この戦前の『神社誌』の合祀神社名と平成十二年の『山形県神社誌』の合祀神社名の「皇大山、稲荷神社」が異なっています。
 稲荷神社ではないかと思える赤い小祠が現在の境内にありますので、稲荷神社が合祀されたということはあるのかもしれませんが、合祀は明治四十四年のことなのでしょうか。

 『長井市史 第二巻』中に「巨四王神社に統合し、現在地に移転」とありました。
〈 「現在地に移転」とだけ記されて、「もと巨四王神社のあった処に、合併」ということを知らなければ、以下のような想像もあり得ると思います。
 想像部分を取消したいと思います。取消す部分の文字サイズを小さくして【スミツキカッコ】を付けました。
 【この「現在地」は、蛇附神社でも巨四王神社の鎮座地のどちらでもないまったく新しい場所に移転したということでしょうか。
 「新神社の社殿は旧蛇附神社の社殿を利用」ということと合せて考えれば、その場合は、まったく新しく境内地を作り上げてそこに蛇附神社の社殿を移築し巨四王神社の社殿とし、もと巨四王神社の社殿も移築して社務所としたということになると思います。
 そのように巨四王神社の鎮座地がまったく新しい場所に移転したとするよりは、巨四王神社を蛇附神社の場所に移転させ、蛇附神社の社殿を新たに巨四王神社としたというように受取るほうが無理がなく自然と思います。
 ただ、蛇附神社の場所に巨四王神社を移したとなると、蛇附神社の場所の小字地名は「大明神」であり「巨四王森」ではないことになります。
 小字地名の変更が行われたとか、拡張された境内の現在の社殿の場所の小字地名が「巨四王森」で合祀記念碑のところは「大明神」ということもあるかもしれませんが。】 〉

 あるいは、「合併記念碑」が現在ある場所に村の北西にある巨四王神社がもとからあったとすると、村の北の「大明神」にあった蛇附神社の場所は、今の県道11号線〈長井白鷹線〉の周辺ということになるのではないかと思います。
 現在の川原沢地域の北に草岡地域があり、明治22年までは草岡村と河原沢村の異なる村になると思いますが、草岡の「大明神桜」という巨樹が、県道11号線の西で西根コミュニテイセンターの北にあります。
 この桜の名称に大明神とあるのが、少し気になります。
 大蛇伝説や杉の巨木と湧く清水とそれらの場所も気になります。
 もし蛇附神社が移転しているのであれば、村社蛇附神社の跡というような伝えが残っていてもいいのではないでしょうか。
 また、昭和十八年までには、境内の面積が4倍強に拡大していますが、これからすると「境内を拡張して神殿、拝殿、神庫、社務所を建て、鳥居を建立し社道を開いた」のは「平成15年」ということはないと思います。
 現在の本殿の前の広い空間は、境内の拡張によるものなのだろうと思います。
 現在の社額の揚げられた両部鳥居とそこから川の先まで続く道もこの時に出来たものではないでしょうか。

 思いつきを重ねることになりますが、「置賜の越王社」の記載等を考慮すれば、合併後の巨四王神社は、北の沢川の先の石段をのぼって左側の石垣に囲われた土盛りの場所、〈 取消:【もともと蛇附神社であった場所】 〉にあったのではないでしょうか。
 そこが拡張前の境内の中心であったのでしょう。
 蛇附神社と一緒に巨四王神社が祀られたのですから、蛇附巨四王神社と呼ばれることもあったのではないでしょうか。

 この石垣の土盛りの場所に合併記念碑が建てられているのだろうと思いますが、その場所に建てることが出来るのは境内を拡張して社殿・拝殿などを建てた後の、巨四王神社を石垣の土盛りの場所から移した後になると思います。
 大正十二年に合併記念碑が現在地とは違う場所にいったん建てられたのかもしれませんが。
 合祀記念碑は、巨四王神社ということになったけれども蛇附神社への思いがあっての記念碑であろうと思いますので、現在の場所はもっともふさわしい場所と思います。
 記念碑を見てはいませんし、思いこみに過ぎないかもしれませんが、再訪するまではこのまま記しておきたいと思います。

《 追記:2021年8月 》
*『西根の歴史と伝承 第1集』の「巨四王神社」から引用します。
 蛇附神社については、「蛇附神社は蛇附大明神或は雀明神といわれ、現在の地区公民館の西、字大明神に鎮座していた。」、「この社の棟札が数枚残っているが、その中で一番古いのは元禄十二年(1699年)のものだ。」「縁起は縁起として、実際の社殿創建はこの時ではなかろうか。」「蛇附大明神の宮社が元禄十二年に建てられたのは間違いないであろう。想村中とあるので、個人の屋敷神などではなく、川原沢村の氏神として祀ったものだ。」、「明治二十四年には拝殿を新しく建て替えている。これが合祀のとき移築され、巨四王神社の拝殿として現存する建物である。神社には、大杉といわれていた杉の大木があって、目どおりの径六尺もあり、枝が一反歩近くにも拡がっていた。この大杉は合祀の際伐採売却された」などが記されていました。
 雀明神については、「蛇附大明神は、一名雀明神とも呼ばれていた。この神社の祈祷を受ければ、稲穂に雀がつかないとあって・・」が記されていました。
 巨四王神社については、「現存する最古の棟札は正徳四年(1714年)のものである。」「この棟札には『再興』とあるので、お巨四王さまが、どのような形でかはわからないにしても、以前から祀られていたのだとは推察出来る。」「他の古四王神社などの例を見れば、北面して建てられているのが通例だというが、この場合は東面していたようだ。階段も東側につくられて現存しているし、後から変えられたという痕跡も見えない。この階段は現在の参道の大階段ではなく、境内に上って左手の、合祀記念碑が建てられている高みの場所への小さな階段だ。合祀前の参道は東南から登って来るようになっていたから、参拝に都合よく、しかも神社の東側に散在した人里をいつも見ておわすようにと、当時の村人たちがかんがえたものであろうか。」、「合祀のとき、古い堂宇は社務所として建て替えられたが、これでみると社務所の建物は文化十四年の建築物ということになるのであろうか。」、「寛政四年(1792年)には大権現の神位を貰って、巨四王大権現となった。神道の一派吉田神道の宗源宣旨といわれる神階授与の証が現存しており、一村中で昇進祝賀の祭典を行ったときの棟札も保存されている。」などが記されていました。

 また、「合祀記念碑」の碑文が漢文体を読み下し文にして収録されており、それによると明治四十四年五月六日に各社を巨四王神社に合祀することを認められたことで、「是に於て、氏子相争いて力を致し、神境を拡張して神殿・拝殿・神庫・社務所を経営し、鳥居を建て社道を開き」「同年十一月二十三日を以て遷宮式を挙ぐ。」とありますので、境内拡張、社殿建立・等が行われたのは明治四十四年ということになります。
 旧巨四王神社の建っていた場所から社殿が社務所として移築され、その空いていた場所に後日合祀記念碑が建てられたということでしょう。

 「蛇附神社のかじかと蛇」と題する個人名の記された記事があり、そこに「蛇附神社のうがい場には清流が流れ、大きなかじかが沢山いた。罰があたるからとってはいけないと教えられていたから、私達の小さい頃、神社はすでに合祀されてそこにはなくなっていたが、かじかはまだ沢山いたものだ。そのかじかは片目だといわれていた。川原沢のかじかは片目で、人間は片方の目が小さいのだと昔の人は教えられていたそうだ。神社の西、大清水は神社の奥の院といわれており、清水の湧き出ている傍に、地上四尺ぐらいのところから二股に分かれた杉の大木があった。丁度のぼって腰をかけるに恰好で、そこから下の清水をじっと見つめていると、蛇ジャの姿が現れてくると云われていた。」とありました。

 同書の「羽黒派修験の諸寺」の項目に「川原沢 竜宮寺」があり、その記述に「還俗して琢磨と改め、境内にあった蛇附神社並に巨四王神社の祠掌となった。」、「現在の地区公民館のところに竜宮寺があったが、現在はその跡かたもなくなり、直系子孫は故郷を離れて、傍系の○○□氏が蛇附神社跡に居を構えている。尚、竜宮寺は寺泉の東性院の傘下に属した修験寺であった。」がありました。

 また、『長井市史 第四巻』の「第五章・第一節 長井市内の小字名と字寄せ図」があり、「旧西根村字寄せ図 道路図」がありましたので、字地の巨四王森・大明神・大清水のおよその場所と範囲を知ることが出来ました。

 これらの記述に、疑問に思っていたことの多くが記されていましたが、「巨四王」と表記する経緯は不明です。
 「現在の地区公民館の西、字大明神に鎮座」とありますが、地区公民館は今は無いようです。
 現在の西根コミュニテイセンターは、元学校のような建物で、住所も草岡322となっています。
 「旧西根村字寄せ図 道路図」によると、字大明神は二区画あって、一部接続しています。二区画の字地名の大明神は、それぞれ川原沢と草岡の字地になるのではないかと思います。
 現在のJAおきたま西根支店あたりが、川原沢の字大明神のあたりではないかと思います。
 地図や航空写真からは、かじかのいた清流は探せません。
《追記ー以上》

*鳥居の社額は「巨四王神社」で、「置賜の越王社」の通りです。佐藤リストの備考の「古四王神社の扁額」の「古」表記は誤りと思います。
 鳥居に縦書きの額でしたので、額に変更があるのかもしれません。

*「巨四王」の文字表記をして「こしおう」と発音するのは、この川原沢の神社と東置賜郡川西町の大光院境内の「巨四王堂」の他にはないのではないかと思います。
 「小四王」と表記する例は見受けられまますので、それを承知していて「小」を「巨」に変えたのではないかという想像がわいてきます。

 何の根拠も見出せませんが。

《 追記 》
*2022年4月30日(土)
 『西根の歴史と伝承 第1集』等によって、前回の訪問で見逃した「合祀記念碑」は旧巨四王神社のあった場所に建てられていることや旧蛇附神社のあったと推定される場所を教えられましたので、確認したいと思い再訪しました。

 今回は、車で巨四王神社境内地を回り込んで社殿の裏の方から境内に向いました。
 前回の訪問時には何故か入っていくのを避けてしまった少し高くなっている場所にいって、合祀記念碑を見たいと思います。
 巨四王神社の拝殿前でお参りし、参道の石段を登った所まで行ってから境内の奥に向って左側の土盛りされ少し高く作られた場所に向いました。
 数段の石段を登った先に合祀記念碑と思える大きな石碑が見えます。
 石段の手前の左側に菱形状の石碑があり明治十四年の年号があり、中央に三文字彫られているのですが一二文字目は不明で最後は「山」のようです。もしかすると「黄金山」でしょうか。
 石碑の左に庚申塔があり、石碑の後ろには古い切株があります。
 石段を登った左側に梵字アーンクと八日塔の文字の石碑とその左に判読できない上部が山形の四角の石柱があり、右側に安政の年号のある大宮両社の石碑があります。
 これらの信仰の碑は、旧巨四王神社が合祀により新社殿に遷った後の旧境内地に安置されたのではなく、合祀前の旧巨四王神社が鎮座していた時代から存在したものなのでしょう。
 合祀記念碑は、石段の正面少し奥に石垣三段の基壇の上に正面から見るとやや菱形の石碑とその基礎石が据えられています。
 石碑の上部に右から左に読む「合祀記念碑」の凝った書体の文字があります。
 碑文は漢文で、一行目は「合祀記念碑  伊佐早謙撰」、続いて本文13行、「大正十二年四月   土肥博書」とあります。
 碑文の読み下し文は『西根の歴史と伝承 第1集』」に掲載されていますが、碑文を写真にして、ゆっくり判読を試みたいと思います。碑文をPDFにして、後で載せます。旧字を改めたりしています。私の判読ですので、誤りがあるのではないかと思います。
 碑の後ろには、古い切株があり杉の木があり、その先にはすこし空間があって右側に石段があり境内との行き来ができます。
 土盛り地の最後に、下部でつながっている三本の杉の大木があり、その前に「金剛山」と読むのでしょうか石碑があります。
 この印象的な大杉は社殿の方から見ると二本に見えたのですが、三本の杉でした。

 このような数段の石段が設けられた境内の平地よりやや高い場所は、本殿の左右にもあって、右側の高みには忠魂碑と稲荷社かと思われる赤い鳥居と小祠と石祠が祀られ、左側の高みには神明社のような小祠があります。
 『西根の歴史と伝承 第1集』に「合祀記念碑を見れば、稲荷神社も合祀したように受けとれるが、稲荷神社は合祀しないで、蛇附神社の境内にあったものを新しい境内へただ移転したものであろう。いま稲荷社の傍らに石造りの小さいお堂が置かれてあるが、これは神明森への登り口、現在○○□□氏が家を建てている丁度後にあった稲荷社だったという。」とあります。
 また、合祀になった皇大神社・熊野神社・諏訪神社・山神社の旧社地などの情報も記されています。
 この記述からすれば、忠魂碑のそばの赤い小祠と石祠はともに稲荷社と思います。

 合祀記念碑のある土盛り地に現在は社殿はありませんが、かつては社殿のあった場所なのは確実と思います。
 各社の合祀にあたって、その場所を残して境内地を拡張し社殿を配置し安置し鳥居を建て参道を新たに整備して、遷宮式を挙げたことになるかと思います。

 『西根の歴史と伝承 第1集』の「巨四王神社合祀余談」と題する「個人名(談)」の記事に〔「村社蛇附神社・同巨四王神社と他の区内の小社が合祀された。社地を何処にするか、これはほぼ川原沢の中央にあって、神社境内として環境もよく、境内拡張にも難しくなかった現在地に定めることに、恐らく異議を唱えるものはいなかったであろう。だが、神社名をどうするか、これはすんなりとは行かなかったに違いない。蛇附神社(括弧内・略)も巨四王神社(略)も同格の村社ではあったが、蛇附神社の方が社殿もはるかに立派であり、境内も広く、財産も多かったようだ。それまでお巨四王さまは、現在の境内の中でも一段高みになっている、合祀記念碑の建っている場所に東に向って建っていた。本殿、拝殿の区別もない簡単な建物だった。蛇附神社の方は社殿もはるかに新しく立派だったから、移築してそのまま新社殿の神殿、拝殿とした。同時にお巨四王さまの社殿も移築して、これは社務所として使用されることになった。」「合祀に際して、境内は寄進地・個人からの買収地・区所有地等を合わせ拡張整備されたが、人足は区内各戸から応分の無料奉仕を受け、費用は蛇附神社境内の杉木売却代を以て支弁したという。蛇附神社境内の杉はすばらしいものだったから、費用一切を支弁した残金で、田一町歩余を買って、神社の維持費用にあてることにしたと□□◇◇翁は書き残している。このように社殿もそのまま蛇附神社のものが移されたのだから、神社名についてもいろいろ意見もあったことだろうと思われる。ただ蛇附神社という神社名は他にきいたことがない。神社らしい名でないということで巨四王神社と称することになったのだ、と岳父◇◇○○は語っていたものである。」〕とあります。 
 このほかにもいろいろのことが載っています。
 この記事はこの本のお陰です。
 なお、「お巨四王さま」に振仮名はありませんが、おこしょうさまと呼ばれていたのではないでしょうか。

 左上: 旧巨四王神社社地の合祀記念碑現社殿)       右上: 石段左の石碑
 左中: 石段から合祀記念碑                         右中: 合祀記念碑
 左下: 碑より後ろ(石碑 現社殿)                   右下: 土盛り地の最後部            

 合祀記念碑文PDF: sekihi.pdf 


 境内を離れ、旧蛇附神社があったのではないかと思える現在のJAおきたま西根支店あたり、川原沢の字大明神のあたりと思える場所に向います。
 細い道を入って100メートルも行くと、道の右側に石碑がありましたので、車を降りました。
 周囲を見回しますと、あっけなく「蛇附神社・竜宮寺跡と神保琢磨碑」と題する看板がありました。
 看板の記載は「神保氏の住宅の場所に蛇附大明神の神殿があり、その東に隣接して、導師別当をつとめていた羽黒派修験神保氏の竜宮寺があった。明治初年の神仏分離によって、神保林宥は還俗して琢磨と名を改めて神官となり、蛇附・巨四王両社の祠掌となった。蛇附明神は神亀三年(西暦七二六年)の創建と言い伝えられ、俗に雀明神とも呼ばれて雀除けの神として参詣者が多かった。明治四四年に巨四王神社に合祀されたが、現在の巨四王神社の社殿はここからそのまま移築したものである。竜宮寺住職は幕末の頃、代々寺子屋の師匠をしていたので、高橋泥舟の書による琢磨の碑が宅地内に、また五十Mほど離れた古墓地に筆子たちによる二基の酬恩碑が残されている。」とありました。
 これによるとこの辺りに旧蛇附神社が鎮座していたとのことです。
 石碑は「高橋泥舟の書による琢磨の碑」で、「古墓地」は来た道の先に見える桜の木のある場所のようです。
 この道を「古墓地」を越えてさらに奥に行くと大清水という場所になるのではないかと思います。
 この看板が無ければ、神社跡を思わせる遺構などが見受けられず、旧蛇附神社の神社跡とは分らないと思います。

 左上: 看板                                 右上: 石碑(古墓地)
 左下: 古墓地を望む                            右下: 古墓地


*記事中で〇□等で伏せたことの幾つかが無意味になりますが、合祀記念碑の碑文及び旧蛇附神社跡の看板の文面をそのまま載せました。

*『長井市史 第四巻・風土/文化/民俗編ー民俗編第三章第四節の5呪法・呪術』の項目中に「巨四王権現様に初豆をあげると豆のでたのが治る」がありました。
 他に「イボが出た時はお薬師様にお詣りするとよい、イボが出た時は阿弥陀如来にお詣りするとよい、泉の道陸神様に穴あき石をおさめてお詣りすると耳の病気が治る」などが記されていました。

 
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