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探訪記録 新潟  3   村上市松沢(旧・神林村) − 古四王神社


桑原リスト(3)岩船郡神林村松沢・古四王神社(古四王堂)

《探訪の準備》
*『新潟県宗教法人名簿 昭和51年3月31日現在』では、岩船郡に「古四王神社 神林村松沢573の甲」とあります。
*横山貞裕『磐舟』〈「引用文献一覧」を参照下さい〉
 この資料については、桑原正史は「古四王神社の分布」で「新潟県のコシオオ神の分布をやや網羅的に示されたのは横山貞裕氏(『磐舟』)である。同論文には新発田市五十公野・東蒲原郡津川町・松沢村・朝日村岩沢・同村早稲田の五例が示されている。」と記しています。
 また、横山貞裕・横山秀樹共著の『越佐歴史物語』(昭50・1975)所収『北方を向く古四王神社』があります。
 これらによると、神林村松沢の古四王神社については「松沢村の古四王神社は、北蒲原郡乙村乙宝寺住職が松沢村と計り古四王山に仏堂を建てることになり、阿弥陀如来・薬師如来・文殊菩薩・普賢菩薩の四体を祀った。その後乙宝寺の末寺長松寺を開基するに至ったと伝えている。この松沢村の古四王社が、さらに岩沢村と早稲田の古四王社に分祀されるに至ったと言い伝えている。」「松沢の古四王社は今も立派な社殿で、五十公野のそれと同じく、社殿は北向に建てられている。規模は県内第一の大きさ…」とあります。
*『神林村誌』の「村内の神社・寺院」によれば「本村では、古くは延喜式に記された荒川・桃川・湊の三神社があり、…」とあります。そして「古四王神社」の項目には、「由緒:口碑の伝えるところによれば、貞観年中(859〜876)に創立され、当初は高志神社と称していた。中古、仏の四天王を祀ったことから、古四王権現と改称された。明治になって現在の社号である古四王神社に改めたのである。明治四十年六月二日神明社を合祀した。祭神:大毘古命 天照大神」とあります。ここで大毘古命があらわれてきます。〈:は当方による〉

《探訪の記録》
*2005年9月3日 県北の古四王神社を訪ねました。
 松沢集落の山沿いの道に面して数段の石段を上がると、杉の大木を両脇に古四王神社の社額を掲げた両部鳥居があり、鳥居への結び方が独特な立派な注連縄が揚げられています。その先は空地になっていてその奥から石段の参道が伸びていました。
 石段を登ると山道に変わりくねりながら暫く行くと標高60メートル程の頂に古四王神社は鎮座していました。
 山道を進む道の有様は五十公野の古四王神社の参道山道を思わせましたが、こちらの方が道のりが長いようです。
 社殿は拝殿・幣殿?・本殿からなり、北面していましたが、社殿の周囲が板で覆われていて詳しいことは分かりません。
 本殿の床下の柱に囲まれた中央部に卵形をした石(碑)が祀られるようにおかれていましたが、何がしるされているか分かりませんでした。

 左: 山麓の鳥居  中: 社殿  右: 本殿下の石碑

*2007年7月12日
 祭礼日に合わせて参拝しました。6月12日の月遅れの祭礼日なのででしょうか。
 拝殿にお集まりの方々から「(本殿下の石碑は)坂上田村麻呂の蝦夷平定の折に亡くなった者を供養したもの」「八百年からの歴史があり、戦いの神なので戦時中は参詣が多かった」というようなことをお伺しました。
 注連縄は、四年に1度作り替えるとのことでした。
 社殿は、五十公野の古四王神社より大きいようなので、「県内第一の大きさ」でしょう。
*2008年12月21日
 注連縄作りを見学させていただきたく訪れました。
 注連縄を外すところから、制作過程、新しい注連縄を掲揚するところまで拝見し、写真を添えた記録帳を作りました。注連縄についてはここでは記しません。
 注連縄製作場所になった集落の消防団の機械器具倉庫から川に向かうと川沿いの空き地に庚申塔等を並べてあるところがあり、そこに「真言宗智山派 古四王山長松寺跡」としるされた平成二十年建立の寺標石碑がありました。

 左: 並べられた石碑・等  右: 寺標石碑

《探訪の整理》
 古四王神社が現存し、祭礼や神楽や注連縄奉納など、集落の行事の中に息づいているようです。
 現住所は、村上市松沢573番地甲
  明治22年、松沢村他が合併し神納村発足。
        この時、平林村・塩谷村・神納村・東神納村・西神納村が成立。
  明治34年、神納村・東神納村が合併し神納村新設。平林村・塩谷村が合併し平林村になる。
  昭和30年、神納村・平林村・西神納村が合併し神林村が発足。
  平成20年、神林村・村上市・荒川町・朝日村・山北町が合併し村上市となる。

『平成の祭』: 古四王神社 通称ーおこしょさま  祭神:(主)菊理姫命
       7月12日ー例祭・通称ーおこしょさま  9月1日ー秋季大祭・通称ー秋かぐら

『神社明細帳』: 岩船郡松澤村字館野  無格社 古四王神社   祭神:大毘古命
     由緒:「神林村誌」とほぼ同じことが当初の文言の上に朱字で書き入れられています。
        当初の記述部分に「本村創立以前ヨリ地主ノ神トシテ存在候由…古老ノ口牌ニハ昔シ貞観年中同郡光兎神社創立之頃同時ヨリ諸人崇敬之事ニ申傳候」
        社殿間数:本社=間口二間・奥行一間三尺 拝殿=方三間 
             長床=間口三間・奥行一間三尺(長床の文字の下に幣殿と見える)
        境内坪数並地種:五百七十三番 千二十九坪 官有地第一種
        氏子戸数:四十八戸
        明治四十年に神明宮を合併の朱書。

『神社明細帳』:岩船郡松澤村字館野  無格社 神明社  祭神:天照皇大神 合殿:菊理比賣命
        社殿間数:本社=間口三間・奥行二間
        境内坪数並地種:五百七十三番 三十六坪 官有地第一種
        信徒人員:四十八人
        明治四十年に古四王神社ヘ合併の朱書。

 両神社の番地は五百七十三番で同じ、氏子戸数と信徒人員は四十八。
 明細帳では神明社の合殿に菊理比賣命が祀られているので、『平成の祭』で古四王神社の祭神が(主)菊理姫命となっているのは、なんらかの情報伝達の誤りではないでしょうか。祭神を天照皇大神としているのであれば、意図的なものだと思いますが。いずれにせよ、現在の祭神を確認する必要があるようです。

 『神社明細帳』で光兎神社を見ますと「祭神:月夜見命 由緒:…貞観三年四月八日創立…女川郷ノ産土神ニテ従前光兎権現ト称…明治二年改称云々」とあります。

 また、長松寺を『新潟県神社寺院仏堂明細帳』で見てみると、
      岩船郡松澤村字屋敷添
      岩船郡岩船町最明寺末 新義真言宗智山派 長松寺  
      本尊:十一面観世音
      由緒:不詳
      堂宇間数:本堂=間口六間半・奥行四間半
      境内坪数並地種:七百十四番 弐百七拾三坪 官有地第四種
      檀徒人員:弐拾三人
 とありますので、創立年月情報はありません。神社信徒の半分以下の檀徒になります。

 集落に伝わる「貞観」とか「坂上田村麻呂」とか「(古四王)八百年の歴史」とかいろいろありますが、「八百年」というのは色部氏の歴史年代と合うようです。
 色部氏に関しては、平林に保呂羽神社があり、山形との関連もあるかもしれません。
 『神林村誌』の「村内の舘・城郭跡」の項目に「平林城跡 桃川城跡 桃川館跡 宿田城跡 飯岡城跡 南大平城跡 小岩内城跡 松沢館跡」があり、松沢館跡は「大字松沢字館野付近一帯は、松沢館跡と伝えられているが、耕地整理や道路拡張等により、現在では遺構を確認することはできない。ただ古四王神社境内の鳥居付近から東南側に添って遺構の一部ではないかと思われる跡が見受けられる。」とあります。
 また『神林村誌』の「中世の石造遺物」で神林村内で確認される板碑の一覧表に「松沢古四王神社に所在」として「薬師三尊」の種子刻と「両界不二大日」が記されていました。
 本殿下のものは「薬師三尊」の川原石の板碑でしょうか。運んだのか今の場所に在ったのか、どうなのでしょうか。

 『新潟県の地名』で「古四王神社」項目に「社伝によれば、貞観年中大毘古命すなわち大彦命を祖とする阿部氏の子孫が松沢の地を開き、征夷・北方拓殖の守護神である古四王神を祀ったものとされる。松沢に阿部姓が多い。のち乙宝寺住職が松沢村とはかり、阿弥陀如来・薬師如来・文殊菩薩・普賢菩薩を合祀したという。」との記述があります。
 また、同書「松沢村」項目に「安永十年(1781)の村明細帳に…家数五十二(内百姓三十)」「真言宗智山派長松寺は、永禄七年(1564)の色部氏段銭日記写しに『三百文内百文かかり 長松寺』とみえる。」の記述があります。

 いくつか引用をいたしましたが、裏付けの資料を見ていません。課題を残す次第です。
 村上藩・他に関する資料に目を通すことも課題と思います。


《追記 2019年10月》
*「長松寺」の元檀徒総代のS氏より様々なお話しをお伺いいたしました。
 新しく知り得た事柄について追記します。

*松沢集落に平成20年建立の「真言宗智山派 古四王山長松寺跡」の石碑がありますが、長松寺は平成19年3月に村上市岩船(旧岩船郡岩船町)の真言宗智山派 瀬崎山法持院最明寺に合併となりました。
 この合併までの檀徒総代がS氏です。
 松沢の長松寺は、かつては古四王神社の別当であり、長松寺には合併にいたるまで古四王大権現が祀られていたそうです。
 長松寺に祀られていた古四王大権現は、四体の木像が納められた宮殿(宮形)で、本堂の須弥壇に向って左側に聖天様を前立として安置されていたそうです。

 長松寺の御本尊・諸仏・古四王大権現・六地蔵・等が最明寺に遷されたとのことです。
 最明寺では、古四王大権現の宮殿は本堂入口の山号扁額のうえに棚が作られてそこに安置されているとのことです。

*最明寺を訪ね、古四王大権現の宮殿を拝してきました。
 写真を載せます。


 宮殿に「古四王大権現」の額があります。この額は長松寺に祀られていた時から宮殿にあげられておりましたが、元の額の文字は消えかかっていたそうです。
 S氏が新たに用紙に文字を書いて、元の額はそのままに、元の額に用紙を納めたものとのことです。
 宮殿の上に見えているのは、長松寺の山号額「山王四古」〈古四王山〉とのことです。

*古四王大権現の四体の木像について、横山の『磐舟』『越佐歴史物語』の記載にある「阿弥陀如来・薬師如来・文殊菩薩・普賢菩薩」の四体を祀っているのでしょうかとS氏にお伺いいたしましたところ、「普賢菩薩ではなく毘沙門天を祀っている。」とのことでした。

 公開済みのホームページ記事では、『磐舟』(昭37)の横山貞裕の執筆部分と横山貞裕・横山秀樹『越佐歴史物語』(昭50)の両方ともに記載されている「松沢村の古四王神社は、北蒲原郡乙村乙宝寺住職が松沢村と計り古四王山に仏堂を建てることになり、阿弥陀如来・薬師如来・文殊菩薩・普賢菩薩の四体を祀った。〈略〉言い伝えている。」を、取上げています。
 しかし、S氏によれば普賢菩薩ではなく毘沙門天ということです。

 あらためて、横山の両書をあたってみると、『磐舟』の横山執筆部分の1頁目の終りから次頁〈86〜87頁〉にかけて「古四王神社の祭神に、大毘古命の外に、武神の武甕鎚神、或は征夷の上に非常な功績を建てた阿倍比羅夫、或は坂上田村麻呂、又は日本武尊などを配することもあり得たわけである。同様のことが仏教の四天王にも言われることで、本来の四天王は持国・広目・増長・多聞の四天王であるべきに、毘沙門・文殊・薬師・釈迦の如き四仏を祭ることもあり得たわけで、松沢の古四王神社の祭神にこの四つを祀っているなどは中世の混淆に基いたものであろう。あくまで、古四王は、高志王、越王で、それは守護神の性格を有し、四道将軍の一人として、北陸道に派遣された大彦命を祀ったのが、その始源の姿であったことであろう。」という部分がありました。
 古四王神社の祭神について、全体的な様相を記しているかと思うと「松沢」が出てきて、次には早々と結論が述べられています。
 そして続く88頁に「松沢村の古四王神社は、…阿弥陀如来・薬師如来・文殊菩薩・普賢菩薩の四体を祀った…言い伝えている」が記されています。
 同一文中に異なる記述が混在しており、それについての説明はありません。
 仏堂に祀った四仏として伝承されている事と神社の実際の祭神の四仏は異なるということでしょうか。
 普賢菩薩と毘沙門天の違いだけでなく、阿弥陀如来も釈迦如来になっています。
 変わったのでしょうか。
 あるいは、横山の記載の誤りでしょうか。
 公開済みの記事では、このことを取上げ、疑問を呈しておくことができていませんでした。
 古四王神社の所在の確認とその参考文献について記録していますが、祭神についての追求を主要な目的にはしていませんでしたが、うかつでした。

*神林村誌に「当初は高志神社と称していた。中古、仏の四天王を祀ったことから、古四王権現と改称された。」とありますので、読者は祀ったのは持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)と受取るのではないでしょうか。
 そうすると、伝承の四仏との関係はどうなのでしょうか。
 また、高志神社という社名の謂われは何なのでしょうか、また祭神は何だったのでしょうか。

*あらためてS氏にお伺いいたしました。
 長松寺の合併のための整理をしていた時に、古四王大権現の縁起を記した巻物が出てきたそうです。
 初めて見るもので、巻物があることは知らなかったそうです。
 虫食いの多い巻物で、漢文調の文面だそうです。

 巻物には、毘沙門天についての記述に重きを置いて持国天・増長天・広目天・毘沙門天の四天王について、お寺の立場から記載されているそうです。
 そして、阿弥陀如来・薬師如来・文殊菩薩・毘沙門天を本地仏として祀っている事が記載されているそうです。
 S氏からお伺いした四体の木造になります。

 S氏のお考えでは、明治時代の長松寺の住職が残した巻物ではないかとのことです。
 神仏分離の世となって、古四王大権現の別当としての記録を残しておきたかったのではないかと、お考えのようです。

 またS氏は、横山の記した「松沢の古四王神社の祭神」の「毘沙門・文殊・薬師・釈迦」について、時代で本地仏が変わるということもあり一概に誤りとは言えないのではないかとの事でした。

*大山宏『古四王神社の源流を尋ねて …祭神紛々聚訟の如き…』の、古四王神社の祭神についての「二,所伝の祭神」の項目のなかで「宝暦年中に成った、進藤重記の出羽国風土略記には、甕速日・□速日・経津主・武甕槌命(ミカノハヤヒ・ヒノハヤヒ・フツヌシ・タケミカツチノミコト)となっている。」を取上げ、これらの「諸説と全く見地を異にしたもの」として「菅江真澄の花の真寒水には」として「一町の人みな古四王を本居神(ウブスナガミ)として、朝夕釈薬毘文(シャクヤクビモン)をとなへ」とあって、古四王の祭神を「釈迦・薬師・毘沙門・文殊の四仏体としてゐる。」を記しています。
 〈□速日ヒノハヤヒの□は、火偏に漢の右側に似た文字、火偏の11画、音読みゼン・他。ユニコード:U+71AF、UTF-8:E786AF〉
 〈「探訪記録 新潟 1 五十公野」の「追記3」をご参照いただければ幸いです。〉
 菅江真澄が「釈薬毘文」と記した秋田市寺内の古四王神社の祭神「釈迦・薬師・毘沙門・文殊」と横山が松沢の祭神とした「毘沙門・文殊・薬師・釈迦」が同じ四仏となっています。

 神社の祭神は一筋縄ではいかないようです。

*松沢の古四王神社の御神体について、S氏にお聞きしたところ、思いがけないお話しをうかがいました。
 何者かが神社の什物や御神体に乱暴を働いたということがあったそうです。廃仏毀釈の影響とかではないとのことです。
 長松寺の四体の木像を手本にして新たに像をこしらえ、神社に祀り、盛大なお祭りを挙行されたそうです。
 新たな像を祀りお祭りを催したのは、終戦後のことだそうです。

 神社の御神体は、長松寺の古四王大権現と同じということになります。 
 御神体は、奥の院に祀られており、神主さんしか開けることができないので、どのような形で祀られているかは、ご存じないそうです。 

 なお、本殿下の板碑は薬師三尊で薬師如来と日光菩薩と月光菩薩の種子とのことでした。

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