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探訪記録 新潟  9


桑原リスト(9)西蒲原郡巻町竹野町・越王(コシワー地名通称)

《探訪の準備》
*桑原正史は「古四王神社の分布」で「新潟県の分布について述べ」るなかで、「上原甲子郎氏『菖蒲塚古墳』(巻町双書三)によると、菖蒲塚古墳のある西蒲原郡巻町竹野町の金仙寺の裏山一帯を通称『コシワ』と呼び、従来『越王』の文字を当てて使っているという。コシオオ、コシオ、コショウではなく、コシワと言っているところが珍しいが、用字から見てコシオオの例に加えてよいであろうし、コシワは或いはコシオオの古音を伝えるものであるかも知れない。」と記しています。
 また、「古四王神社」(『新発田市史・上巻』)で、「古四王分布の南限にあたる新潟県には、五十公野のほかに、〈略〉、西蒲原郡巻町竹野町(越王こしわー地名)及び三条市付近に古四王社があると言われる。巻町や三条市付近の例は阿賀野川流域からやや離れているが、村松町の三例をふくめて大半はほぼ阿賀野川流域及びそれ以北に集中的に分布している。」と自身の「古四王神社の分布」にもとづいて述べています。
 桑原が「三条市付近に古四王社があると言われる」と記した根拠となる資料がなんなのか分かりかねます。

 『岩室村史』(岩室村史編纂委員会 昭49・1974)第二章の菖蒲塚古墳の項目中に「古志王社は阿賀野川以南にはまつられていない、という特色があると普通云われているが、横山旭三郎氏によれば、村松町、三条市などの阿賀野川以南にも認められるという(「県内さまざまな神」)。」と横山の著作を引用した記述があります。
 横山旭三郎の「県内さまざまな神」は、新潟日報(新聞)の昭和46年3月15日の文化欄に載った記事で、「つつが虫の神様」等と並んで「北の守り古志王神」として「阿賀野川の北に多いというが、〈略〉村松町別所、戸倉などにもあり、三条付近の腰輪などという神もその類と考えられる。云々」とあります。
 「三条付近の腰輪などという神」とは何でしょうか。「三条付近」というのは三条市内なのか三条市の近くなのか、承知しているのであれば「付近」ではなく別所のように地名を書けばよいし、「腰輪などという神」とは神の名が明確ではないのか腰輪のほかに神があるのか、いずれにせよ曖昧です。曖昧ならば記事にしなければいいのではないかと思います。
 三条付近にも「こしおう」ではなく「こしわ」があるのでしょうか。「こしわ」という情報があってもその場所を巻町と特定できず三条付近というあいまいな情報だったのでしょうか。
 三条市に隣接する市町村(合併以前)は、北から時計回りに、中之口村・白根市・加茂市・下田村・栄町・燕市です。巻町はさらにその外側で、日本海に面しています。
 桑原文献リストには、わざと間違えたわけではないでしょうが「横山旭一郎『県内さまざまな神』(1971、新潟日報3月25日付)」、「『岩室村史』第二章(1974,新潟県岩室村)」が載せられています。
 このリストがなければ、新聞記事である「県内さまざまな神」を見つけることはできなかった。
 この新聞記事に振り回されるのはごめんだとの思いがわきましたが、そうも言ってられないので記しておかざるを得ません。
 別の記事(新潟 5)で横山旭三郎『新潟県の道祖神をたずねて』という地道な調査研究をとりあげていますが、こちらの新聞記事は残念です。

*「北方を向く古四王神社」(『越佐歴史物語』横山貞裕・秀樹)で「越後蒲原平野の中央、巻町に菖蒲塚という大和朝廷に仕えた古志深江の国造の墓と思われる前方後円墳がある。このあたりにはまた、越王の字名がある。この地を基点として、阿賀北から、山形県、秋田県にわたって、たくさんのこしおう社がある。」としています。また、「越王の信仰は、征夷とともに北上して、出羽、秋田方面に非常に繁昌し、ほったのさく越後谷など越後を人の姓にしている人々も柵戸の民として移住したのである。現在も払田柵内に住んでいる。」、「村松から津川に古四王社がまつられているのは、この阿賀野川沿に越の文化が会津地方に入ったことを証明する。」という記述があります。地名呼称「越王(こしわ)」を残す菖蒲塚古墳周辺の巻町のこの地が越王神社の基点である、としています。

《探訪の記録》
*2005年10月15日 旧・巻町から三条市・旧・下田村方面へ。
 巻町は2005年10月10日に新潟市に編入合併で新潟市西蒲区の一部になりました。
 先ずは菖蒲塚古墳に行くしかありません。
 菖蒲塚古墳は、日本海に接するように連なる弥彦山塊の北に位置する角田山の東麓に発達している竹野町丘陵の東南端の一支丘上にあり、巻町市街地からは西に離れた竹野町にあります。
 巻町や竹野町丘陵周辺の原始・古代からの歴史については知らないことばかりですので、それについて何かを記することはできかねますが、この地が古い歴史の刻まれた所であり、「コシオウ」と越の国の古い歴史との関連を考えている方々の重要な場所ですので、避けて通れない所ではあります。
 古墳周辺に着いて、二人連れの老婦人に古墳のことや「コシワ」についてお聞きしたところ「子供の頃からコシワと言っている。コシワは柿団地のところ、小さな範囲。」とのことでした。
 古墳へは古墳の北側から古墳の西側に回り込む道路が付いていて、西側道路を進むと菖蒲塚古墳への矢印看板があり、そこから歩いて行きました。
 古墳に隣接して「国指定史跡 菖蒲塚古墳」の案内看板が設置されていて、「全長53メートルの前方後円墳。同形の古墳としては新潟県内最大規模をもち、日本海側沿岸部での北限にもあたります。4世紀後半の造営と推定され、角田山麓では山谷古墳(全長38メートルの前方後円墳)に続く首長墓とみられます。〈略〉西1キロたらずに位置する南赤坂遺跡から、北方系集団の移住を示す4世紀代の土器が1993年に発見されました。当時の蒲原地方は、北に開かれた情報・物資の交換基地をなした可能性が高く、ヤマト勢力最前線の首長が担った重要な役割を推測させます。指定年月日・昭和5年4月26日 所在地・西蒲原郡巻町大字竹野町 管理者・巻町教育委員会」とあります。
 思ったより小さい印象で、古墳と言われなければ気に留めないかもしれません。古墳の前方部の中程のくびれのところが以前は通路になっていたというのも、古墳に対する近隣の方の認識のあり方を示しているのではないでしょうか。通路になっていたところは盛土して復元されたそうですが、案内看板の横のところは柵も途切れて門柱のようなものが立ち土が露出していて、まだ通路のようでした(写真)。 古墳の近くまで墓石があります。
 古墳西側の道路を150メートル程戻ると「菖蒲塚緑地環境保全地域」の看板があり、その絵図に古墳西側道路の西側に「柿団地」が記されていました。(写真)
 この柿団地あたりが「コシワ」ということかと思われます。
 また、西側道路脇には、地蔵尊・他(歯地蔵)が祀られていました。
 確かに道路から柿の木が果樹園のように植えられて続いているのが見えます。
 街中には、「越王柿」と書いて「コシワ柿」と読む、柿のブランド名の看板があります。
 他にも、越王(こしわ)の名称を広げようという様子がうかがえます。
 菖蒲山金仙寺を訪ね、日枝神社を訪ねて、巻町郷土資料館へ向いました。
 資料館でお伺いしてみますと「コシワについて、古四王との関係や神社がないかとか、聞きに来る人が幾人もいる。」とのことで、困惑気味のようでした。
 資料館には後日古墳近くの「歯地蔵」についての資料を送っていただきました。
 「隠岐国無腮(むさい)地蔵」の資料です。
 耳の神様とかであれば、古四王との関連をうかがわせるかと思ったのですが。

 左: 菖蒲塚古墳・案内板  右: 古墳西側の道路−右に古墳への入口  下: 看板ー左の端に柿団地


 巻町を離れ、中之口村打越へ行き「宇智古志神社」・澤将監の館を巡り、燕市に入って道路沿いの松橋神社・草薙神社に立寄り、三条市上保内の「小布施神社」(式内社・旧村社、祭神:大比古命・他)へ、南蒲原郡下田村飯田の「五十嵐神社(伊加良志)」(式内社・旧県社、祭神:五十日帯日子命・他)、下田郷資料館、下田村北五百川「八木神社」(式内社・旧村社)を訪ねました。
 西蒲原郡中之口村は平成の大合併で2005年3月に新潟市西蒲区に、南蒲原郡下田村は2005年5月に同郡栄町と三条市と合併し新たに三条市になりました。
 八木鼻を眺め諸橋轍次記念館を訪れて、山越えの道で中蒲原郡村松町にまわってみました。
 西蒲原から燕市・三条市を経て南蒲原へ、そして中蒲原にいたる行程です。
 三条市とその付近の一部を巡ってみました。

《探訪の整理》
 [古四王神社 探訪記録]というこのHPの趣旨から言えば、巻町竹野町辺りに古四王神社はありません、あるいは見いだされていない、と言うしかありません。
 地域名称の「こしわ(越王)」についても、その謂われはよく分かりません。

 『巻町史 資料編6 民俗』ー「ムラのはじめ」ー「竹野町」の中で「菖蒲塚附近を『こしわ』といい、越王の字を宛てている。秋田県あたりにある高四王神社とは関係ないらしい。」との記述があります。
 また、「ムラのはじめ」の村の中に「古志田」があり、気になるところですが、「こしでん」と読むようで、説明文は「古新田がもとの名であろう。漆山の枝郷で…」とあり、越(古志)との関連は記されていません。
 さて、秋田県のコシオウ神社は「古四王」神社と書き、高四王と書く例を知りません。
 ただ、新発田市五十公野の志王神社が、神社明細帳の記載によれば当所は四王神社で明治30年に志王神社に改められているという例はあります。また、コシオウの用字に「高四」という字を当てている例があると記している論文もあります。
 しかしながら、「秋田県あたり」と記し、コシオウ神社をわざわざ高四王と記述するのは、少し調べれば普通であれば古四王と書くと思いますので、何らかの意図があるか、調べないで書いたかではないでしょうか。
 これでは横山の新聞記事と五十歩百歩で、「関係ないらしい」の信頼性は損なわれると思います。

 『巻町史 通史編 下』の「巻町字名一覧表」の竹野町に「菖蒲」はあるが「越王」は記されていません。
 『巻町史 資料編1 考古』の「越王(こしわ)遺跡」の所在地は「巻町大字竹野町字南馬坂」になっています。
 『新潟県遺跡地図』では、越王遺跡は「竹野町字越王2720他」となっていて、地図上の場所も『町史資料編』の地図のものとは異なっているように見えます。
 調べてみる必要がありそうです。
 桑原が引用している『菖蒲塚古墳』(上原甲子郎・巻町双書三)の巻頭の「はじめに」で「菖蒲塚古墳は、この地方に住んでおられる方なら知らない方は無い位に有名なのですが、それがひどく間違った伝承をされているのです。これは、菖蒲塚古墳にまつわる話が複雑で理解しにくいことによるからなのです。」として順を追って古墳に関しての分析をすすめ、「まとめ」に「本古墳は裏日本における古式の前方後円墳の北限例ではなかろうか。□竜鏡(だりゅうきょう)出土の古墳としてもその北限例であろう。当地方は『国造本紀』にみえる高志深江国の一部であり、菖蒲塚古墳はそれと無関係ではなかろう。実年代は五世紀と考えられる。」と記述なされています。〈だ竜鏡の□は、口を横に二つ並べ、その下に田を書いて横棒を引く(単の旧字の縦棒が無い)、その下に鼈の下の部分を書きます〉
 素人が思うことですが、分かりやすさを考慮した小冊子ながら、抑制のきいた立派な論文だと思います。
 「ひどく間違った伝承」というのは、“源三位頼政が治承4年(1180)の戦いに敗れ自害し、遺臣等がこの地に落ちのびたが、側室菖蒲御前の死にあって作られたのがこの墓で菖蒲塚”というものであれば、古墳の被葬者に関する伝承はかき消されたことになります。
 そのようななかで、地名通称「越王=こしわ」があることが、どのような経緯をもって伝わってきたのか気にかかります。
 越王を旧仮名遣いでふりがなをすれば「こしわう」になることと関係ないのだろうかなどということが浮かんだりもします。
 越王を「こしのきみ」「こしのおおきみ」と読んだ場合はこしわにはならないでしょう。

 菅江真澄「布伝能麻迩万珥珥(筆のまにまに)ー第三巻のあやめづか」の項目の全文が「越後ノ国三条ノ郷に近くあやめ塚といふあり。いかなるよしにてしかあやめ塚とはいふかと問へば、そこなる人のいらへに、いにしへ菖蒲前と^野草太と両人都より此処に落来て埴生の栖居して老て二人ながら身まかれりといひ伝ふ。また草太の壟(ツカ)もありとしいへばさだかならず。今此あたりの丁女(オトメ)のうたふ手鞠唄に、 向フの山で光るはなんだ、露かお星か蛍のむしか今来たお千代まがかんざしか とうたふ也。あやめの前近隣(チカトナリ)の人の娘におちよまといふになう愛(メデ)て朝ごとに髪結ひベに白粉のけはひして黄金の笄をとらせたりといふものがたりをせり。」とあり、伝承を伝えています。この話は、三条で聞いたもののようです。

 さて、中之口村打越の「宇智古志神社」ですが、社名の古志が気になって訪ねました。
 『改訂 中之口村誌』(西蒲原郡中之口村 昭62・1987)「第七章第二節・神社」の宇智古志神社の項目によれば、「由緒:慶長15年(1610)頃、諏訪神社として打越村の産土神として奉斎創立された。明治初期に境内社の神明社を合祀して宇智古志神社と改称。諏訪社は由緒は不詳であるが、大庄屋になられた沢将監が、信州の諏訪大社から奉体され、お祠りされたものとものといわれる。」とあります。
 また、『同村誌』によれば1600年代に近隣に神社が数社創立されています。
 明治5年に打越村の村社、明治34年に打越村が道上村と合併し道上村になり道上村の村社。
 澤将監の館のパンフレットによると「本来は甲斐の国で武田信玄の家臣として仕えていた。慶長17年(1612)に現地に来住。低湿地のため水の被害をたびたび受けていたこの地の開墾に力をつくした。元和2年(1616)に村庄屋に、慶安2年(1649)大庄屋に任命。」とあり食い違いがあります。
 打越村の鎮守というところから打越の文字を宇智古志と表示したもので、元は諏訪社と神明社の合殿であり、古志に特段の意味は無いようです。
 打越村については、村誌の地名由来の考察に「打越も船越も、人か物が越していくところであり、湿地の川や沼と結びついている。」「会津地方に同名の『打越』があり、天明の飢饉のあと、藩の政策で当時の打越村とその周辺から移住して開いた部落である。」とあり、「越」を越の国に結びつける見解はありません。
 福島県耶麻郡猪苗代町千代田打越がその地であるようです。

 「三条付近云々」ということがあるので、中之口村の打越について記すことになりました。
 三条市上保内「小布施神社」他については、あらためて触れる機会があると思います。

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