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所在地情報検討記録 新潟 12−2   糸魚川市平-大神社 に 川詰-古須王社を合祀


佐藤リスト=「コシオウ信仰研究序説」(佐藤禎宏 昭61・1986)

*新潟県の古四王神社の探訪は、基本的に桑原正史の所在地リストによって導かれています。
 桑原のリスト以外の情報として、佐藤貞宏は新潟県について「三条市上保内・古四王社」と「西頚城郡能生町川詰・古四王神社」という2個所の所在地情報をあげています。
 〈記事「新潟県の古四王神社について」をご参照下さい。〉

 その2個所についての記事を、「所在地情報検討記録・新潟12」として2017年10月10日に公開しました。
 2018年8月9日文字訂正と追記をおこないました。
 記事作成の時点では、旧能生町川詰を訪ねていませんでしたが、2020年9月に旧能生町を訪ね、現地を見て思うこともあり、旧能生町川詰の古四王神社についてのかつての記事を再検討し、探訪後の記事を追加したいと思います。
 そこで、記事「所在地情報検討記録・新潟12」を、「所在地情報検討記録・新潟12ー1」と「所在地情報検討記録・新潟12ー2」の2つの記事に分けて、「三条市上保内・古四王社」の既存の記事部分を「新潟12ー1」として、「新潟12ー2」で「西頚城郡能生町川詰・古四王神社」を取り上げたいと思います。
 既存の「新潟12」中の「西頚城郡能生町川詰・古四王神社」部分の記事をそのまま以下に記載します。地図は省略しました。
 その記事に対する現段階での追加及び誤字の訂正以外の訂正などを、〈追加2020/10: 〉〈訂正2020/10: 〉などのようにして示します。

*次の行から、2017年10月に公開し、2018年8月に追加と訂正をした記事です。
 次に、西頚城郡能生町川詰の古四王神社です。
 『平成の祭』データによれば、西頚城郡能生町川詰には羽黒社があるだけです。能生町地区内にも古四王神社は記されていません。
 『神社明細帳』に当たってみますと、西頚城郡川詰村字コスワウ〈カナ表記〉に八坂刀売命を祭神にした「古須王社」があります。
 由緒の朱書き〈追加2020/10:当初の明細帳に記されていた由緒の前半部分に朱筆で由緒が記された紙が貼られています。〉に「当村ノ内三戸ノ産土神タリ〈略〉古須権現ト称〈来タル処?〉明治二年九月改称」とあり、間口二間奥行二間三尺の社殿と鳥居があり、境内は二千五十五番百七十六坪、祠掌欄には日光寺村白山神社の社掌朝日里彦が記され、氏子六拾四戸が朱線で消され三戸に訂正されており、大字平村社の「大神社」に明治四十年十二月に合併の朱の書入れが欄外にあります。〈追加2020/10:朱の書入れは「大字平村社大神社ヘ合併ノ件、四十年十二月二十日許可ニ付消滅ス」〉
 川詰村字上ノ山には諏訪神社があり祭神健御名方命、配祀八坂刀売命で、由緒によれば古須王社と同じく「〈朱書〉当村ノ内三戸ノ産土神タリ」で「能生川隔絶ナルヲ以社殿現今之地字上ノ山移転シ建直ス」とのことです。社殿と鳥居と石燈籠があり、境内は五百二十二番二百三十壱坪で、祠掌欄には日光寺村白山神社の社掌朝日里彦が記され、氏子六拾四戸が朱線で消され三戸に訂正されており、明治四十年四月に廃止の許可が欄外に朱で追記されています。
 平村の「大神社」は式内社の論社で、『神社明細帳』によれば祭神は高皇産霊尊・大己貴尊・小彦名尊・大彦命で、合祀された古須王社及び神明社と白山神社の祭神(八坂刀売命・天照皇大神・豊受姫神・伊邪那美尊・菊理姫命)を追記しています。また、合殿に天満宮と春日神社があります。
 〈追記2020/10:大己貴尊・小彦名尊の尊を命にする朱書きがあります。合併前の白山神社の祭神は伊邪那美尊・菊理姫命・大己貴命とあります。〉
 『平成の祭』では、祭神欄の〔主〕は高皇産霊尊・大己貴命・小彦名命の三柱で、古須王社・神明社・白山神社の祭神の伊邪那美命・豊受姫神・菊理姫命・天照大神・八坂刀売命は〔合〕に記され、この〔合〕の最後に大彦命が記されています。天満宮と春日神社の祭神は〔配〕に記されています。
 『神社明細帳』の追記や訂正の入る前の「大神社」の届出には、どう見ても祭神として大彦命を含めた四柱の神が記載されていると見えます。
 これが『平成の祭』の記載では、大彦命は主祭神から外されています。いかなる事情・理由があったのでしょう。

 西頚城郡川詰村の諏訪神社(江戸時代までは諏訪大明神)と古須権現の関係はどうだったのでしょうか。
 現存する川詰の羽黒社は、『明細帳』では祭神稲倉魂命ですが、明治二年改称までは羽黒権現で、境内四百四十二番二百八十五坪、祠掌欄は日光寺村白山神社社掌朝日里彦で、氏子六拾四戸が朱線で消され当村五十九戸の産土神タリとあります。
 羽黒社そして古須王社と諏訪神社の氏子は当初届出は六拾四戸と記されていますから、その内の59戸は羽黒社の氏子で残りの5戸が古須王社と諏訪神社の氏子の主体になるのではないでしょうか。
 羽黒社及び古須王社と諏訪神社の祠掌は何故距離の離れた日光寺の白山神社だったのでしょうか。
 この川詰村字コスワウの「古須王社」は、「古四王」なのでしょうか。
 現在の住所では、西頚城郡川詰村は能生町川詰から糸魚川市川詰になっています。
 川詰442には羽黒社がありますので、番地は変更がないと思われます。
 地図で見ると川詰2055〈古須王社の番地〉には川詰公民館があります。
 川詰公民館の道路向に、出雲大社越王講社社務所と越王神社があるようです。
 この社がどのようなものか、出雲大社教と関係があるのか、分かりかねますが、この場所で越王神社とするのですから、「コスワウ」は越王という認識があるのではないでしょうか。

 『能生町史・上巻』(能生町史編さん委員会 昭61・1986)の「神話時代」の節に「伝説こすわう様」の項があり「『西頸城郡郷土誌稿第二輯』に『こすわう様』がある。」として以下{引用部分は中カッコ内に記します}を引用し記載しています。
{「こすわう様 能生谷村字川詰の川内小学校の裏に、古四王神社趾〈ママ〉といふ石碑がある。元此所をこすわうの森といひ、惣右衛門の祀る宮があったが、字平の大神社に合祀してしまった。この「こすわう様」には次のやうな話が伝へられてゐる。 四道将軍大彦命が、字桂から此所を通り、名立村字丸田に向はれた。この時字東谷内との境に賊が居て判いた。賊は「岩鼻」という岩屋に住んでゐた。中には今も「鬼のまないた」といふ五十畳敷位の広い所や、「鬼の足跡」、「鬼の井戸」といふのがある。命は計を以って賊をおびき出し、挟撃ちにしてしまった。今此の地を「神構地(カミガクチ)」と言ふ。命は戦勝を祝し、剣一振を鎮めて、古四王神社(越尾・越王・古須王等とも書いた)を造り、土民大倉惣右衛門に祀らせた。命の御滞在は一箇月程で、九月二十九日に御出立されたので、この日を祭日とした。大倉家は其の後小倉と改正した。中頃六部の為にこの剣を奪われてしまひ、合祀の時は「大彦命」と木札に書したものだけであった。尚、此所から百メートル許の所に、「腹薬」といふ小流がある。大彦命が旅人の腹痛を、この水と薬草とで癒したからついた名だといふ。」(話者 小倉熊次郎、採録者 小林正保)}
 古四王神社旧趾と彫られた石碑の写真と「(注)現在碑の位置は川詰公民館前の県道東谷内溝尾線の南側にある。」が載せられています。
 以上全文引用しました。
 さらに「伝説こすわう様」の項は以下のように続いています。全文引用します。
 「この縁起は明治四十二年大神社へ移した「古四王社」に関するものである。大彦命、沼奈川長者征伐のことは『越佐史料巻一』、『越後頸城郡誌稿(二十一古城跡・古戦場考)』の項に次のようにある。」
 {(引用文)能生谷村(能生町大字平)森本天神追神社ニアル縁起ニ曰、崇神天皇ノ御宇、大彦命〈( 割書 )-少字二行書で挿入されている〉(四道将軍一人ナリ)ノ当国下降ノ時、沼奈川長者ナルモノアリ、天皇ノ御教ニ随ハズシテ、大ニ蜂起シテ大彦命ト戦、官軍馳向、攻伐ヲ恐レテ住地鉾ケ岳ニ入ル、大彦命追来テ難儀アリ、〈( 割書 )〉 (雪ノ降ルニ合テ、難儀スルト云説アリ、)大ニ驚テ天神ヲ斎祀シ、終ニ沼奈川長者ヲ亡ス、故ニ鉾ケ岳ヲ追沢岳ト云、}『郡誌稿』では多少記載内容が異なっている。」とあって「伝説こすわう様」の項が終わります。
 さて、『能生町史』では、川詰公民館の近くに「古四王神社旧趾」の石碑があり、「こすわう様」の伝説があることを教えてくれていますが、旧仮名遣いをあらためれば「こすわう様」は「こすおう様」と発音しているのだろうと思います。「し」と「す」の訛りがあれば、こすおう様はコシオウ様になるのでしょうから、古須王(古須権現)を古四王と結びつけるのは、御所・五社や古志田を古四王に結びつけようとするよりも、よほど可能性があると思います。
 この「古四王神社旧趾」の石碑は、旧趾とあるので古須王社が合祀された明治四十年以降(能生谷村は明治34年から昭和29年まで存在)に建てられたものでしょう。越尾・越王・古須王・古志王・高志王ではなく古四王神社と彫っているのですから、古四王神社と大彦命の情報を得ていて、「古四王」としたのでないかと思われます。江戸時代から「古四王」と表記していたのではないだろうと思います。
 伝説によれば、大彦命が自ら戦勝記念に古四王(越尾・越王・古須王・等)神社を造り、里人に祀りを託したということで、大彦命を祀って里人が古四王社を造ったという話ではないことがこの伝説の成立ちに興味を覚えさせます。
 大彦命が古四王神社を造ったというように記してあるので、私はそこになにかしら違和感があり古四王神社ありきの様な印象を受けてしまうのではないかと思います。
 神社合祀の時に、〈誰が何時何のために書いたかは不明ながら〉「大彦命」の木札があったというのは本当なのかもしれませんが、明治16年の『神社明細帳』では古須王社の祭神は大彦命ではなく八坂刀売命です。
 『町史』は、この伝説を「この縁起は明治四十二〈ママ〉年大神社へ移した「古四王社」に関するものである」としていますが、そのように言い切っていいのでしょうか。
 〈訂正2020/10:『町史』が、この縁起を「古四王社」に関するものである。と記しているのは、『越後頸城郡誌稿』や『越佐史料巻一』に記載のある「森本天神追神社ニアル縁起」と区別して、「古四王社」の縁起をそのまま記載するということで、「古四王社」の縁起としてお墨付きを与える為ではないと、読みかたを改めたいと思います。「が、そのように言い切っていいのでしょうか。」を削除したいと思います。〉
 また、大彦命の沼奈川長者征伐のことを『越佐史料』を引用していますが、その「能生谷村(能生町大字平)森本天神追神社ニアル縁起ニ曰」という「森本天神追神社」は『神社明細帳』の大神社の由緒に「古額面ニ天神追神社ト記ス」とあるように、まさしく大神社のことであり、大神社の縁起に大彦命が記されているが故に大神社の祭神四柱の一柱が大彦命なのではないでしょうか。
 『神社明細帳』を見る限りは、古須王社を合祀したから大神社の祭神に大彦命が加わったのではなく、大神社には祭神として大彦命が祀られていたと思います。

 『能生町史・下巻』(昭61・1986)の「神社」の項の「(四)能生町の神社」として「西頸城郡役所に『神社明細帳』が備え付けられていた。明治十六年七月、各神社より届け出られた記録を、大正二年三月にまとめられ記載されたもので、その後大正年間に変更の分については一部修正してある。この明細帳を基として前項未記の四二社について、現況に合わせ一部修正記録して次に記載した。」とあります。
 よって、記載されている神社情報は、明治十六年の届出情報そのものではなく、明治三十九年の勅令で神社合祀が進められて、明治が終わり大正二年にまとめられた情報に基づいたものになります。
 その中で、大神社を見てみると、
 「大神社 所在地 平字森本1345番地
  祭神  高皇産霊尊  大己貴命  小彦名命
  合殿 天満宮  菅原道真朝臣 吉祥女
     春日社  武甕槌命 経主命 天兒屋根命 廣波多姫命
  配祀 古須王社 大彦命
     白山社  菊理姫命 大己貴命 伊邪那美命
     神明社  田心姫命 市杵嶋姫命 湍津姫命
 創立、大同三年三月と伝える。神代古跡で、崇神天皇の御宇、大彦命、命を受けて沼川長者と戦いし時勧請、大同三年に神社建立されたという。合殿天満宮は〈略〉。合殿春日社は〈略〉。明治四十年十二月二十日大字川詰、古須王社を、同四十一年三月二十八日大字平、白山社・神明社を合併許可される。〈略〉」とあります。
 大彦命が沼川長者と戦った時に勧請されて、大同三年に神社は建立されたが、大彦命を祀るのは古須王社というわけですね。さすがに古四王社とはしていませんが。(大彦命が沼川長者と戦った時に勧請されたのは実は古須王社、あるいは大彦命が沼川長者と戦った時に勧請された社の一つに古須王社がある、のでしょうか。)〈追記2020/10:ここでの混乱はそのままにしておきます。〉
 『能生町史』の大神社の祭神では、『神社明細帳』の届出時には大神社の祭神とされていた大彦命が、合祀された古須王社の祭神とされ、古須王社の祭神であった八坂刀売命は見当たらなくなっています。また、合祀された神明社の祭神(天照大神・豊受姫神)も変わっているように思います。
 なにか、意図的なものを感じます。
 それがあるため、かえって古須王社は古四王社とすることにためらわれます。
 『平成の祭』での大神社の祭神は、先に記したように豊受姫神・天照大神・八坂刀売命も記載されています。
 〈追加2020/10:『能生町史・下巻』の「神社」の項の記載の基になっているのは、西頸城郡役所の備え付けられていた『神社明細帳』で、この明細帳は「大正二年三月にまとめられ記載されたもの」とのことですから、謂わば本編の『神社明細帳』の写しとか控えというものと思います。
 その西頸城郡役所の所謂『神社明細帳』に加えられた修正が『能生町史・下巻』の「神社」の項に記載されたと思います。
 私が引用する『神社明細帳』は、新潟県立文書館が所蔵し閲覧に供しているもののことです。〉 

 『糸魚川市史 1―第五編・3古/久比岐』(昭51・1976)の「古四王神社」の項に「能生町/川詰(かわずめ)―延喜/古道だが、ここにも古四王社の古跡が、ただ一つみとめられるが、その来歴などはよくわからない。」とあります。
 『同書―第六編・2延喜/古道』の「名立駅」項に「ついで、能生川を中流の川詰あたりで渡り、花立峠を越えて名立谷へ出る。〈略〉」とあります。
 『新潟県の地名』の西頚城郡能生町の「川詰村」項目に「能生川中流右岸に東から川詰川が注ぎ、集落はこの両岸にある。東は谷内村、南は須川村に接する。〈略〉口碑によれば、大彦命が能生谷から名立谷(現名立町)に向かった時、川詰の鬼のマナイタという岩の急斜面で賊に苦しめられたが、ついに打破って神構地(カミガクチ)に進んだ。神構地はもとの川内小学校の対岸の地であるという。大彦命を祀った古四王神社が川詰にあったが、森本の大神社(オオミワノヤシロ)に合併した。川詰薬師は俗にツンボ様〈ママ〉と称し、土地の人に信仰が厚い。当地の姓は10姓だが、最も古いのは小倉氏で、大彦命創建の越尾(古四王)神社の神主家であるという(能生谷村誌)。」と、能生谷村誌による記述があります。
 「能生谷村誌」は新潟県立図書館にあるようで、情報に「斎藤秀平/編 能生谷村役場1954(昭29)」とありますが、見ていません。昭和29年は能生谷村が、能生町・他と合併し能生町が新設され、消滅した年です。
 『糸魚川市史 1―第六編・4延喜式内/社U』の「大神社/棟札」項に「次に『越後名寄』・『越後野志』の説では、沼川荘森本村にあり、としている。後世の『平村誌/明治十四年』は、大字/平字/森本にあり、延喜式内/社とする。『能生谷村誌/斎藤秀平(昭和二九年)』は、考証つまびらかならず、でとりあげていない。だが、〈略〉」とありますので、上記の「大彦命創建の越尾(古四王)神社」というのには根拠を見出していたのでしょう。
 〈しかし、市史の / 斜線の使い方がよく分かりません。〉
 〈追加2020/10:『能生谷村誌』を見ていない段階で「根拠を見出していたのでしょう」と記すべきではありませんでした。『越後名寄』を『越佐叢書 第十五巻 越後名寄(T)』で閲覧出来ました。その「巻之三 神社」の記載は「大神(オホワ)神社 祭神 三輪明神」とあり、鎮座地などの記載はありませんでした。〉

《地図 マークは、川詰公民館 》〈地図を省略しました〉

 西頚城郡能生町川詰〈現・糸魚川市川詰〉の古四王神社という所在地情報に対して、私が言えることは、江戸時代は王は付いていない古須権現と呼ばれていたとされる「古須王社」という神社が明治四十年まであった、その社は大神社に合祀されているということです。
 〈追加2020/10:古須権現と呼ばれていたのであれば、明治二年の改称で古須にわざわざ王を追加して古須王社とするのはおかしいのではないだろうか。改称して古須王社になったことからすれば、改称以前は古須王権現と呼ばれていた可能性が大きいのではないだろうか。〉
 〈追加2020/10:古須王社の合祀に関して、明治四十年十二月合併許可と明治四十二年大神社へ移した、の二つの日付が記されていました。〉
 現在の大神社(だいじんじゃ)の住所地は糸魚川市平1345です。
 耳の神と思える川詰薬師が気になります。

*以上は、2017年10月に公開し、2018年8月に訂正と追記をした記事です。
 この公開済みの部分は、探訪した神社の記事では《探訪の準備》にあたる部分になると思います。

 これ以降の記事は、2020年9月20日に川詰・他を探訪した後の記事になります。

《探訪の記録》
*川詰の古四王神社の所在地情報から調べていくと、いろいろと首をかしげたくようなところもあり、古四王神社を探しに行く訪問先の優先順位が高いとは思えませんでした。
 しかし、所在地情報もあり記事にもしていますので、いつまでも放っておく訳にもいきませんし、見方を変える必要があるかもしれませんので、置賜の記事に目処が付いたので、訪ねてみました。

○2020年9月20日
*県道246号から県道485号に入って、川詰を訪ねました。
 集落に入ると畑作業中のご婦人がいらっしゃいましたので、場所の分からない「川詰薬師」のことを聞いてみました。
 すぐに場所を教えていただきました。
 そこは県道485号をもう少し進んだところにある、一般の家屋のような建物で、入口に注連縄が揚げられていました。
 車を駐め訪ねようとしましたら、そこの関係者という方に声をかけられましたので、「ツンボ様」のことをお伺いいたしますと、ここではないというようなことをおっしゃり、「つんぼり様」という耳の神様がこの県道を先に行くと祀ってあるが詳しいことは知らないというようなことをお話しいただきました。
 そのようなことで、薬師様をお参りすることもなくそこを離れ、県道を先に進み川詰公民館を目指しました。

*『能生町史・上巻』の『西頸城郡郷土誌稿第二輯』を引用した記事中の「能生谷村字川詰の川内小学校の裏に、古四王神社趾という石碑がある。」の記載、及び「(注)現在碑の位置は川詰公民館前の県道東谷内溝尾線の南側にある。」を頼りに、神社趾を探しに川詰公民館をめざしました。
 川内小学校は、昭和37年〈1962〉に南能生小学校に統合し閉校となって、その跡は川詰公民館となっているようです。
 川詰公民館に到着し、構内に駐車しました。公民館の前や横に空き地があります。
 建物の裏側やまわりの空き地を探しましたが、石碑はありません。
 公民館脇の田圃で稲刈り中のご老人に、この辺りに古四王神社旧趾の石碑がありませんか、ご存知ないですか、とお聞きしましたが、お耳が遠いのかもしれませんが、コシオウということにはピンとこないようでしたが、石碑なら道の向かい側の少し高い場所にあると教えてくれました。
 公民館前の県道485号の向かい側の、公民館側から見て右側に石垣が積まれて高くなっていて、その上に「古四王神社旧趾」の石碑がありました。
 県道485号は公民館に向って緩い登りの坂道になっていて、公民館の手前で県道から右に入る横道がありT字路をなしています。
 その県道側と横道側の道路角部分に石垣が積まれています。坂道のため公民館の付近の道路の高さより神社旧跡の石碑の前の道路が低くなっており、その高低差が石垣の積まれた高さになると思います。
 石垣の横道側に碑の正面が向いていますが、石碑の場所は目の高さより高く、碑は木や草で隠され、ちょっと見ただけでは石碑のあることは分かりません。近づいても、碑文の全体を一度に見ることはできませんでした。
 石碑は、大きく立派な物で、強い思いがあっての建立だろうと想像できます。
 碑の建っている石垣の上に登ることはできかねましたので、碑の大きさを数字で示すことはできません。
 碑の正面の向く方角は西側になります。
 確かに、石碑の場所は公民館前の県道より南の側になります。
 「川内小学校の裏に」という記述もありますので、県道485号と石碑の正面側の横道は、石碑が建てられた頃には無かったか車の通るような道ではなくて、その後に開かれたか拡幅された道なのではないかと思いますが、どうなのでしょう。

 左上: 県道485号。左の建物が川詰公民館         右上: 石垣の上に石碑(
 左下: 石碑の文面                       右下: 石碑を横道側から撮影


*川詰の集落の入口に近い場所にある「羽黒神社」を訪ねました。
 県道485(東谷内溝尾線)を能生川に架かる橋(羽黒橋)をこえていくと左手に杉林があり、神社はそこにああるのですが、参道の入口は県道を先に進み(農免農道 須川下倉線との)十字路の手前まで行くとありました。
 羽黒神社は、拝殿の向拝虹梁から竹を×にして入口を塞ぐようにしてありました。

 左: 羽黒神社の参道入口                 右: 羽黒神社


*糸魚川市平1345(旧・西頸城郡能生町大字平字森本1345)に、「大神社」を訪ねました。
 『平成の祭』の神社名の振仮名は「だいじんじゃ」。
 『式内社調査報告 第十七巻 越中国・越後国・佐渡国』(式内社研究会編纂 皇學館大學出版部 昭60・1985)によれば、式内社の大神社には振仮名は「オオムハノ」「オホノ」が振られていますが、論社の能生町の大神社の社名には「ダイジンジャ」と振られていました。
 『新潟県の地名』では大神社に「おおみわのやしろ」と振られていました。

 県道246号と斜めに接続する脇道を少し入ったところに大神社の社号標柱が建っていました。
 標柱のところから細い道が石段まで続いていて、石段の中程に鳥居が見えました。(写真)
 車を駐める場所を探してから、歩いて神社へ向いました。
 石段をのぼり鳥居のところまで来ると、その先にも石段があります。
 鳥居までの石段は桁があり石の角も直角でしっかり加工した石材でできていましたが、先に続く石段は左右の桁がなく石も丸味を帯びていて、素朴で古くからのもののようです。(写真)
 先に続く石段の左横の場所に稲荷と思われる石祠が三社祀られていました。(写真)
 その奥の草に覆われた斜面にも石祠があるようです。
 先に続く素朴な石段をのぼると、芝生の平らな土地になり、その正面の奥は一段高い場所になり、むかって右側の平地には社務所件住宅と思われる建物があります。
 奥の高台に社殿があるようです。
 平地の奥に四段の石段があり(写真)、のぼると左右の二方向からさらに高台に向う石段があります。(写真)
 高台の拝殿の前に立ちますと、古い社殿ではありませんので、建て替えられているようです。
 拝殿の横に、赤茶のトタンの戸で周囲が覆われた、背の高い束石を基礎にした建物があります。
 社殿の横から後の方にまわってみますと、背後に山が続いていました。尾根が岬のようになっている端のほうに神社が立地していることになります。
 あちこちに石祠や燈籠があります。

 『新潟県の地名』の「大神社」の項目の記述の中に「社殿わきの舞台で里神楽が舞われ、一段下の土俵場では草相撲が行われる。」とありますので、拝殿横の建物は舞台(神楽殿)で芝生の平らな土地は土俵場の場所であったのでしょう。
 また、同書・同項目中では「祭神は高皇産霊尊・大国主命・少彦名命・大彦命。縁起によれば、崇神天皇の折、久比岐国造美保古命が鎮守としたのが始まりと伝える。四道将軍の一人がこの地で沼川長者を征伐、長者は矛ケ嶽(鉾ケ岳)に逃げたので、大己貴命・小彦名命・高皇産霊神に祈願し、この地を平定したという。」とあります。
 お詣りをして戻りました。

 大神社 標柱から拝殿まで


◇私の勝手な想像ですが、実際に「古四王神社旧趾」の石碑を目にしたことで、「古四王神社旧趾」石碑の建立者は、小倉家が祀る神は大彦命を祭神とするコシオウ社であるという思いがあり、あるいはその思いに至り、あるいはコシオウ社であるという家伝があったため、『神社明細帳』で八坂刀売命を祭神とする「古須王社」とされたまま合祀されてしまうことは、看過しがたいことだったのかもしれません。
 合祀後の旧社地に建つ「古四王神社旧趾」の立派な石碑は、主張する意志によるもののように思います。
 コシオウ社であるという家伝までは無くても、大彦命の事蹟と神社建立に関する「伝承」と社殿の「木札」があれば、その事から大彦命と神社について調べれば、小倉家の祀る社は「古四王神社」であるとの思いに至ることは、あり得る事と思います。
 石碑の建立の年代は明確には分かりませんが、少なくとも昭和12年以前〈『西頸城郡郷土誌稿第二輯』の刊行が昭和12年〉になります。
 昭和の初期には、古四王神社についての論文があれこれと出されていますが、その時代に新潟県では「古四王神社」に関する情報がどの程度得られたのでしょうか。 
 新潟県では、「古四王神社」と意図して表記した、かなり早い段階での例になるのではないでしょうか。
 『能生町史・下巻』では「大神社」の配祀「古須王社」の祭神が八坂刀売命ではなく「大彦命」に変わっていることを既に記事にいたしておりますが、このような変更が行われているのですから、変更に結び付くなんらかの働きかけがなされたのではないでしょうか。
 それを行いうるのは、石碑の建立者以外にはないのではないでしょうか。
 このような事が思い浮かびました。

◇川詰の訪問で、『神社明細帳』で「古須王社」の祭神が八坂刀売命と知ったときに覚えた違和感に立ち返って、あらためて川詰の神社について思いをめぐらせることになり、いろいろ想像してみました。
*『神社明細帳』で「古須王社」の鎮座地は「川詰村字コスワウ」になっています。
 地名が仮名書きされているのですから、地名は漢字表記されていなかったのでしょう。
 そうすれば、「古須王社」の古須王に振仮名をすれば旧仮名遣いではコスワウでしょうから、地名と一緒の社名になり、地名に漢字表記がないのであれば、社名の「古須王」は当て字なのかもしれません。
 振仮名「コスワウ」を発音で表せば「コスオウ」となるのではないかと思います。
*『能生町史・上巻』に、「大彦命」にまつわる伝承が載せられていますし、「合祀の時は『大彦命』と木札に書したものだけであった」の記載があります。
 神社明細帳の作成の時に、祭神は大彦命とすることができたならば、事態は違ったものになっていたかもしれません。
 神社明細帳に「大彦命」にまつわる伝承が反映していないのはどうしてなのか。
 「大彦命」の木札は神社調べとか神社明細帳の書き上げの時には分からなかったのだろうか。
 合祀にあたって、初めて社殿内を検めて木札の存在が分かったのだろうか。
 そんなことがあり得るだろうか。 
 どうもこのあたりが、疑問です。

*祭神が八坂刀売命と知ったときの違和感は、意外な祭神であり、なぜ八坂刀売命なのだろうかという思いであり、さらにはコシオウ神社の祭神として今まで見た事が無く、コシオウ神社が古四王であれば女神を祭神とすることはあり得ないのではということになるかと思います。
 古須王社の祭神は正しく八坂刀売命なのでしょうか、祭神の八坂刀売命は何らかの誤りである場合がありえるでしょうか。
 『神社明細帳』が古須王社の祭神を正しく記載しているとすれば、その場合でも古須王社は古四王神社であり大彦命を祀ると言い得るでしょうか。
 ○○権現の呼称の○○は、その場所や謂れなどから取られるかもしれませんので、呼称で祭神が分からなくても不自然ではないのでしょうが、呼称のコスオウとは何によるのでしょうか。
 この社を祀る惣右衛門家の出自に関わること以外になにか八坂刀売命を祭神とする訳があるでしょうか。
 川詰には諏訪(大明神)神社もあります。
 惣右衛門家の出自に関する伝承は郷土誌などには記されていないようです。

 『神社明細帳』の古須王社の祭神が何らかの誤りであった場合、どのようなことが考えられるでしょうか。 
 江戸時代は、「古須王権現」あるいは「古須権現」と称したにしろ、「権現」であったので、維新後の神社を取り巻く状況の変化によって、神社調べなどが行われるなかで、古須王社に改称となり祭神が改められた可能性はどうでしょうか。
 「神体」が古須王権現であったとすれば、何らかの神名の祭神に変えることがおこったのかもしれません。
 そうであっても、何故、八坂刀売命が祭神なのでしょう。
 神社調べや神社明細帳の書上げにこの社を祀る惣右衛門家の者は関わっていないのか。
 惣右衛門家の者がこの社のことを分からなくなっていたのか。
 この社を祀る当事者ではない者が神社調べや神社明細帳の書上げに応じて行ったことなのか。 
 祭神を問われても答えようがなかったのかもしれませんが、祭神不明とはなっていません。
 突飛なことですが、諏訪神社の配祀の八坂刀売命を借りて祭神にしたというようなことはないだろうか。
 このような想像が浮かんだのですが、知らず知らずに祭神が八坂刀売命であることを否定的に考えていましたが、祭神が改められたということはあり得るのではないかとの思いがあります。


《探訪の整理》
 『能生町史』に示されていた資料、及び『能生谷村誌』にあたってみました。

*『新潟県西頸城郡郷土誌稿第二輯 口碑傳説篇 第二冊』(西頸城教育会 昭12・1937)の「八、社と寺の話」に「こすわう様(能生谷村字川詰)」があり、記載内容は既に記した『能生町史・上巻』の引用の通りでした。
*『新潟県西頸城郡郷土誌稿第一輯 口碑傳説篇 第一冊』(西頸城教育会 昭11・1936)に「つんぼ様(能生谷村字川詰)」の記事がありました。
 それによると「能生谷村大字川詰から四、五町奥に、岩鼻、鬼の俎、すばりなどといふ奇岩の所がある。其の處の岩山の上に「つんぼ様」又は「つんぼ薬師」とよばれる祠がある。耳守の薬師だといふので中中信仰が厚く、木の椀や平たい石に、穴をあけ縄を通したものがうづ高く上げてある。 / 又そこは、東谷内から川詰へ通じる細道で、地名を「さいのかみ」といって、道祖神などもあり休み場もある。昔、萱場の彦五郎が、乗馬のまゝ通ったら、神の怒にふれて、二度まで落馬したといふ。 / この「つんぼ様」は、もと東谷内下村の堂の下(ハバ)にあった。それを川詰の彦さ(傍点)が、自分の近くへと思ひ、耕作の帰りに負つて、さいのかみの休み場で休んだ。が、それっきり重くなつて動かすことが出来ず、こゝに祀ったのだといふ。」と記載されていました。〈引用文中の「 / 」は改行です。下線と(〇〇)は、下線部に対するフリガナ・傍点です。文末に伝承者の名前はありませんでした。〉

#『能生谷村誌』(編輯者 新潟県教育委員 斎藤秀平 発行者 西頸城郡能生谷村 昭29・1954)を見てみます。
 その「序」によれば、村誌発刊の相談が既に久しい以前におこり、本村教育関係者が中心となった資料の蒐集に数年間の労を積み、一応のまとまりを見るに至ったので、衆議によりこの編輯と内容の整備を当時の本県郷土博物館長である斎藤秀平氏に原稿を依託し、脱稿を待って上梓としていた。
 第二次世界大戦の状況下で刊行の運びに至らず数年の間を費やし、敗戦をむかえた。
 戦後の推移のなかで、村誌刊行が再び取り上げられ機運も熟し、発刊を見るに至った。とのことです。
 昭和29年は、能生谷村が合併により新しい能生町の一部になった年ですので、能生谷村の合併・消滅に合せて作られた村誌なのかと思っておりましたが、そういうものではなかったようです。

*村誌「第五章 各部落の開拓」の項目「川詰」に、〔「当字内の姓は十姓にして、〈略〉最も古いと認められるものは小倉氏、続いて平塚氏である。」「大彦命、此の地を平定せる時、現在の川内校の敷地に越尾(古四王)神社を建て土民惣右衛門に姓を賜はり大倉惣右衛門と称せしめ、同社の神主としたが、大倉が小倉に訛ったとは云れてゐる。(「川内資料川詰之部〈川詰之部は割書〉」)とあります。
 「川内資料」について、新潟県立図書館のレファレンスのお手を煩わせましたが、どのような資料なのか分かりませんでした。
 学校名を「川内」としていますので、地域を表す言い方なのでしょうか。川詰と東谷内、とか?。
 いずれにせよ「川内資料」は村誌のために蒐集された資料の分類名称ではないかと思いますが、こういった資料蒐集の調査の時にこの神社の話が記録されたことは間違いないでしょう。
 「越尾」とされているので、コシオと発音するのでしょう。
 「コシオウ」についての、この表記の例は、この神社がコシオウ研究者に知られてこなかったこともあり、知られていないと思います。

*「第六章 旧蹟、口碑、伝説」中の「川詰地方の口碑、伝説」の「(一)鬼の椰机岩と腹薬の伝説」に「崇神天皇の御代、四道将軍として大老命〈ママ〉が北陸道に派遣せられ、土賊、山賊を御征討になられた。中にも鬼の椰机岩〈マナイタ〉(割書・秋葉山の裏手といふ、山賊の要塞で、水成岩の傾斜面が長く露出したものだと伝へられてゐる。)の山賊は勢仲々盛であったが、遂に御討滅遊ばされて、神構地〈カミカグチ〉に進まれた。その時、丁度一人の旅人が病に罹って苦んでゐたので、命は薬草を与え、腹薬の水で服用させた処、忽ち病が治癒した。そこで、その後、此の水を腹薬〈ハラグスリ〉と呼ぶに至った。之が今の土壁の土の細谷川で、神構地は今の川内校の対岸の地であるといふ。」とあります。
 ここには神社を建てたという話がありません。
 『能生町史・上巻』に引用されている「こすわう様」は「小倉熊次郎」が語った話を採録したものとのことで、この話では大彦命が賊を討った戦勝を祝して古四王神社を造って大倉惣右衛門に祀らせたと、一連の事としています。
 「こすわう様」の記述は川内小学校の裏に古四王神社趾という石碑があることから始まっています。
 神社名表記を古四王とする碑があるのですから、「こすわう様」の話では命が造った神社を古四王神社と表記し、越尾・越王・古須王等とも書いたとしてこれらの表記を古四王に結びつけています。
 この村誌の伝説では、旅人の病を治したのは薬草で、水は服用するために飲んだもののようです。
 それを「こすわう様」の記述のように「この水と薬草で癒やした」とすると、水を強調し、その水を腹薬と呼べば水の効能が際立つように思われます。
 「土壁の土の細谷川」は、土壁の細谷川ということでよいと思いますが、どこなのかは分かりません。
 腹薬の水は、川の水ということでしょうか。
 「こすわう様」の記述では、「腹薬」は「小流」となっていましたで、これを読んだときには、腹薬の水は川と呼べるような流れとは思っていませんでした。川水では腹の薬になるように思えませんので、水が湧いたところから流れ出ているようなものをイメージしていました。
*「川詰地方の口碑、伝説」の「(二)川詰薬師」に「俗に『ツンボ様』と称してゐる。今から四、五百年以前に祀ったものと伝え、聾に御利益があるといふので、土人の信仰が厚い。元、谷内の惣兵衛の下も方の丸山の峯に安置してあったのを、川詰の利兵衛(割書・一に川詰の彦三ともいふ、)といふ者が盗み出したが今の祭所に到ると、奇妙にも体の自由を失って了った。そこで、遂にその処へ祭祀したのだと云ふ。(「川詰、東谷郷土誌」)」とあります。
 出典の資料名が示されています。
 『新潟県西頸城郡郷土誌稿第一輯 口碑傳説篇 第一冊』の「つんぼ様」と物語の構成要素は基本的には同様と思いますが、細部に違いと、脚色が見られます。
 「川詰地方の口碑、伝説」には、この(一)(二)が記されています。

*「第七章 神社」の「二、村社」の「ロ、大神社」の「三、祭神」「五、由緒」「十一、相殿」「十二、配祀」等の項目を引用します。
 「三、祭神」には「高皇産霊尊、大国主命、少彦名命、大彦名命」とあります。
 『神社明細帳』では「高皇産霊尊・大己貴尊〈命〉・小彦名尊〈命〉・大彦命」となっていましたので、大国主命は大己貴尊の言換えであり、大彦名命は大彦命の誤記ではないかと思います。
 「五、由緒」に「社伝、口碑等に拠れば、崇神天皇の御宇に、此地に沼川の悪者を大彦命が退治せられた際、天神三神を封じ給ふたといふ。是を封塚と号してゐる。又、南方に林がある。大彦命が此所迄沼川を追ひ給ふたので地名を追沢谷と号し、沼川を追入り給ふた山を追沢嶽、〈割書・略〉沼川退治の地を追神嶽〈割書・略〉と号した。又、山の流れを追沢川と称し、天神の森の前の此川流を追神の淵と号し、此の川の末を追川、其の下流を能生川と称したといふ。そして、追神の淵に古歌を伝えてゐる。〈古歌〉追沢の河の流の清け水は をふかの淵に神通ひけり
 後、大同三年三月、封塚の北に社殿を建立し、勧請したといふ。従って、古来社号に追の字を用ひ、古棟札にも追と大の両字を混用してゐる。
 〈三枚の棟札の記載・略〉
 なほ、当社を延喜式内社とする説があるが、考証詳かでない。〈この一文には傍点が打たれている〉」とあります。
 「十一、相殿」には「天満宮 〈割書 祭神菅原道真、吉祥女、神真は木刻の座像で丈五寸、天歴九年十一月卯日に勧請す。又、相殿に合祀する春日四柱武甕槌命、経津主命、天津児屋根命、広波多比売命等は文明九年十一月卯日に勧請す。(「平村誌」)〉」とあります。
 出典なのでしょう、郷土誌名が示されています。
 ここに記された祭神は、『神社明細帳』『平成の祭』での祭神と同じです。
 「十二、配祀」には古四王社と神明社と白山社が記されていて、先ず「古四王社 〈割書 祭神大彦命、又越尾に作る。大彦命の命にの〈ママ〉り、土民惣右エ門が大倉(後小倉に改む)依〈ママ〉姓を賜って祀ったものだといふ。現在の川内尋常小学校の敷地にあったもので、明治四十二年に配祀したものである。(「川詰東谷郷土誌」)〉」とあります。
 古四王社についても、郷土誌名が示されています。「越尾に作る」とはありますが、古須王の表記には触れていません。
 川詰の古須王社は大彦命が造ったとのことですから、自分で自分を神として祀ることはないでしょうから、祭神は大彦命ではなかったのではないかと思います。
 大彦命が造った神社を惣右エ門に祀らせるにあたって大倉という姓を下賜したとのことですが、大倉の姓はなにゆえなのでしょうか。
 大倉が小倉になったという伝承のあるのは、何らかの意図があるのではないでしょうか。 
 大彦命に縁の社として、大彦命を祭神として祀るようになったのかもしれませんが、そうであれば大彦命を偲んで祀るというような伝承があってもいいのではないかと思います。
 続いて「神明社〈割書 祭神田心姫命、満津姫命、市杵島姫命、所在地は大沢五一六番地、創立由来は弘仁十一年〈820年〉飛騨工が建立したもので、伊勢御師徳田太夫が太神宮御神木を納めた宮だと云ふ。其後永禄七年〈1564年〉社地御蔵地となる。配祀したのは明治四十一年三月廿八日である。(「神社由緒明細帖」)〉」、「白山社〈割書 祭神菊理姫命、大己貴命、伊邪那美命、所在地は西山一六七○番地、〈創立由来以下を略〉。配祀は明治四十一年三月廿八日である。(「同上」)〉」とあります。
 行を改めて「(「中能生郷土誌」「西頸城郡誌」)」と記されています。
 神明社と白山社の配祀は明治四十一年三月廿八日となっており、この日付は『神社明細帳』に朱の書き入れで合併許可日とされている日付けと同じです。
 神明社と白山社の所在地は大神社と同じ旧・平村で、共に「神社由緒明細帖」というものに記載があるようです。
 古四王社の配祀は明治四十二年と記されていますが、『神社明細帳』の朱の書き入れで合併許可日とされているのは明治四十年十二月二十日です。
 記載の誤りなのか、なにかあったのか、どうなのでしょうか。
 古四王社(古須王)は旧・平村ではありませんし、祭神や由緒の出典に「神社由緒明細帖」とは記されてません。
 古須王社は、所在地の同じ旧・川詰村の羽黒社に合併せず、旧・平村の大神社に合併となっているのには、大彦命に関する伝承が要因となったのでしょうか。
 また、大沢の神明社の祭神は、『神社明細帳』では「天照大神 豊受姫神」とされていますし、『平成の祭』でも天照大神と豊受姫神が記されています。
 大沢では宗像三女神を祀って神明社としていたのでしょうか。
 神明社の創立由来の中に「伊勢御師徳田太夫が太神宮御神木を納めた宮」とありますので、宗像三女神を祀るというのであれば、それについての由来が記される必要があると思います。
 もし、正しく宗像三女神が祭神であったとすれば、『神社明細帳』の書上げに際しては地元の伝承を無視して「神明社」にふさわしい祭神に変更されて記載されたと言うことでしょうか。
 そうであれば、古須王社でも地元の伝承を無視して祭神が変更された可能性が出てくると思います。
 しかし、古須王社の祭神に大彦命がふさわしくなく、八坂刀売命がふさわしいとするというようなことがあるでしょうか。
 『能生町史・下巻』の「神社」の項に記されていた大神社の「合殿」と「配祀」の祭神は、この『能生谷村誌』に記されている祭神と同じです。
 『能生町史・下巻』の「神社」の項に記されていた大神社の「祭神」は「高皇産霊尊、大己貴命、少彦名命」とされていましたので、『能生谷村誌』とは異なっています。
 『式内社調査報告 第十七巻』の能生町平字森本「大神社」の「祭神」は「高皇霊尊・少彦名尊・大己貴尊・大彦命・美保古命」となっていて、こちらには大彦命が入っています。
 「ロ、大神社」の記載の終りに「文献」としていくつかの資料が載せられており、その中に大神社の祭神が記された「大神社文書」というのがありましたので、PDFにして示します。

<<大神社文書PDF daizinnzyabunnsyo.pdf >> 

 「天神」として三柱の神が記されています。
 大彦命が斎祀したという天神のことではないかと思います。
 この資料には大彦命が見えません。
 大彦命が祀ったのであれば、祭神が大彦命を含まない三柱であるのは当然といえると思います。
 明治の『神社明細帳』には大彦命が祭神として記されています。
 これがあって、『式内社調査報告 第十七巻』等に大彦命が記されているのではないかと思います。 
 いつからか、大彦命が祭神として祀られるようになったのでしょうか。
 天神を祀った大彦命を合せて祀るようになったのでしょうか。
 「五、由緒」にある「天神三神を封じ給ふた」の、神を「封じ給ふ」というのはどういうことなのでしょうか。
 PDFの「辨相公、姫太神」は資料記載のままです。「辨相公」は菅相公・菅原道真で、ヒメ神は広波多比売命のことかと思います。広波多比売命については分かりません。
 「斎主命」は経津主命を言換えたのかと思います。
 「美保古尊」は、「式内社調査報告」の「祭神」項に宮司家の祖先とのこととありました。
 また、「式内社調査報告」の「由緒」の最後に「明治時代になって古四王社、神明社、白山社が合祀された。」と記されています。
 郷土誌や関係者への聞き取り等による情報によって記述したものと思います。
 古四王神社の特徴のひとつとされる分布の範囲について言われている事柄を承知していれば、「古四王社」と書くことが簡単にできるでしょうか。

#『能生町史・上巻』で「大彦命、沼奈川長者征伐のこと」の引用文の出典としてあげられている『越佐史料巻一』と『越後頸城郡誌稿』を見てみます。
 『越佐史料巻一』にある記載は『越後頸城郡誌稿』が出典ですので、『越後頸城郡誌稿』を見たいと思い図書館検索したところ、『訂正 越後頸城郡誌稿』(越後国頸城郡誌稿刊行会編 豊島書房版 昭44・1969)が閲覧出来ましたので、これを見ます。
*この豊島書房版では、「古城跡・古戦場」は第十四章、第二十四巻となっています。
 この章では、地域ごとの古城・古戦場についての記載があり、そのあとの章の最後に「当郡古戦場考」が置かれ、そこに「当郡古戦場ヲ按ルニ、神代ニ〈略〉。此他神社仏閣ノ縁起或ハ口碑ニ伝ル所多ト雖トモ、多ク附会説ニシテ、取ルニ足ル拠所ナシト雖トモ、又疑ハ疑トシテ記シテ、後世ニ伝テ真ヲ知ルノ端トスルモ、又往々古昔ヲ知ルノ一助ニ付、其縁起或ハ口碑ノ存スル処ヲ、此ニ集録スレハ、先能生谷平村森本天神・追神社ニアル縁起ニ曰、崇神天皇御宇、大彦命〈割書・略〉当国下降ノ時、沼奈川長者ナルモノアリ。天皇ノ御教ニ随ハスシテ、大ニ蜂起シテ大彦命ト戦フ、官軍馳向攻伐ヲ恐レテ、住地矛ケ嶽ニ入ル。大彦命追来テ難儀アリ〈割書・略〉。大ニ驚キ天神ヲ斎祀シ、終ニ沼奈川長者ヲ亡ス。故ニ矛嶽ヲ追沢嶽ト云々。〈略〉」とありました。
 このような文脈で記されているものですが、森本天神・追神社の縁起として伝わっていたわけです。
 古須王社の縁起・口碑に関する記載はありません。

*『訂正 越後頸城郡誌稿』の「第十二章 神社」の「附録」に「能生谷 神社」の項目がありました。
 「附録」の小凡例に「此附録ハ天保年間調成スル所ノ残冊ニテ、当郡挙テ全カラス、又神社ノミニアラス、寺院・堂塔モ合セ記スルハ、元取調書ノ儘記載スルヲ以テナリ。〈略〉」とあります。
 「能生谷 神社」の中に川詰村の社が「諏方大明神社〈御除高 反別 境内の記載・略〉当村社人吉田殿七五三下 宮川和泉支配」「羽黒権現宮〈御除高 反別 境内の記載・略〉村中支配」「古須王権現宮〈御除高 反別 境内の記載・略〉当村百姓惣右エ門支配」と記されていました。
 これは『神社明細帳』にあった「諏訪神社」「羽黒社」「古須王社」にあたると思います。
 古須王社については、古須王権現宮と記されていますので、古須権現と称したのではなく古須王権現と呼ばれていたことで間違いないでしょう。古須王の文字で記載されていますので、『神社明細帳』の書き上げにあたってコスワウの発音に文字を当てて記したものではないと分かります。
 『神社明細帳』では「古須権現と称」とありましたので、明細帳の記載事項の信頼性が揺らぎ、神社調べが当事者にきちんと行われたのか疑念を抱かせます。

 平村には「天神宮〈御除高 反別 境内の記載・略〉当社社人吉田殿七五三下 佐藤石見支配」「白山権現宮 無高 境内壱畝廿四歩 右同人支配」「大日堂 境内三畝九歩 同人支配」「毘沙門堂 無高 境内十五歩 同人支配」「神明宮 間数無之 御検知ノ節竿先ニテ御見捨 」が記されていました。
 この「天神宮」が、『能生谷村誌』の記載と比べてみて「大神社」のことと思います。
 残念ながら、この資料には祭神は記されていません。

*『越後国頸城郡能生町御検地水帳 第2集』(能生町町史編さん委員会 昭58・1983)で、天和三年〈1683年〉の川詰村の検地水帳の写しを見ることが出来ました。
 その最後に記された「右之外除地」に「高弐石三斗九升四合 諏訪大明神領 社人 山城」「高四斗四合 羽黒権現領」「高七斗四合 古須王権現領」「高壱石弐斗七升 薬師領 別当 道智」「高弐斗六升四合 地蔵領 別当 道智」が記されていました。
 諏訪大明神領の「此反別」は下田が弐反六畝拾八歩・屋敷が壱反六畝歩で境内但有宮建とあり、古須王権現領の「此反別」は上畑の壱反壱畝弐拾弐歩・屋敷は六反四畝歩で境内但有宮建とありました。
 検地水帳の記載は、田畑の場所を示すと思われる字地名が記され、田畑の区別と位付け、間数、面積、所有者が順に記されているようです。
 惣右衛門名で、上田1個所、中田1個所、下田3個所、下々田1個所、上畑5個所、下畑5個所、山畑14個所、上角地に屋敷1個所が記されています。
 山城の名前では、下田4個所、下々田1個所、上畑2個所、中畑1個所、下畑3個所、山畑6個所、出口に屋敷1個所が記されています。
 字地名に「上角地(上角ち)」があり、「前角地」「うらかくち(うら角地)」「満中角地(まん中角地)」「うしろ角地」もあります。この各角地には田は無く、畑29個所、山畑5個所、屋敷3個所が記されています。
 この上角地はかみかくちで、「神構地」のことかと思います。

*『越後国頸城郡能生町御検地水帳 第5集』(能生町町史編さん委員会 昭59・1984)で、天和三年〈1683年〉の平村の検地水帳を見ることが出来ました。
 平村の最後に記された「右之外除地」に「高五石五斗九升 天神領 社人 大部」とありました。

*『中能生郷土誌 上・下』(豊田蘭治・編 大正11・1922)を見ることが出来ました。
 この謄写版印刷の本の「序言」によると、能生谷村教育会の事業として能生谷村誌の編纂計画は以前から有ながら進展しなかったが、大正九年度村からの補助金を得て、能生谷村を七つの小学校通学区域に分けてそれぞれの地域の資料を蒐集し教育会に提出することとなった。中能生区域の資料集めに着手して満一ケ年で兎に角村教育委員会に報告する事が出来た。その貴重な資料を何らかの方法で保管したいと考え、中能生郷土誌を編纂するに至った、ということのようです。
 下巻の「第一章 大字」の「大字平」の記述の中に「白山権現 祭神 白山姫神 一座 西平座」があり、由緒が記され文末に(大神社記録)とあります。
 この社は大神社に合併となった白山神社のことですので、『神社明細帳』では白山権現が白山神社になり祭神も白山神社にふさわしい伊邪那美尊・菊理姫命・大己貴命になっています。
 同書の「第二章 神社」の「第一 大神社」には様々な資料が引用されていますが、(明治十四年五月編平村誌)を出典とする引用中に「祭神は高皇産霊命・大国主命・少彦名命・大彦命」とあり、(明治五壬申年柏崎県庁へ届出書類時の大神社弊頭神主佐藤膳司ー平文書)とある引用中に「祭神 大彦命・高皇産霊命・大己貴命・小彦名命」とあります。
 また、「神社由緒明細帳」と題された明治四十二年六月の社掌佐藤博尊名の書上げ中に「祭神 大己貴命・高皇産霊命・小彦名命・美保古命」とされ、配祀 古四王社 祭神 大彦命 、配祀 神明社 祭神 思姫命 湍津姫命 市杵嶋姫命、配祀 白山社 祭神 菊理姫命 大己貴命 伊邪那美命」とありました。

 明治5年の大神社による届出書類に、祭神として大彦命が入っていて、これが『神社明細帳』の祭神が大彦命を含めた四柱になっているもとなのではないかと思います。
 それが、配祀三社の合併後となるであろう明治四十二年の書上げでは、大彦命は配祀の古四王社の祭神に変わっていることが分かります。
 こういう資料に触れると、あるいは、専門家である大神社の側が川詰の古須王社を古四王社と考えたという可能性があるのではないかという思いが生じてきます。
 小倉家側への照会などが行われ、その事から「古四王神社旧趾」の石碑建立につながったということもあり得るのではないかと思うしだいです。
 古須王社が古四王社で祭神が大彦命と記されるようになったのは、小倉家側の働きかけがあったのではないかと想像いたしましたが、明治の神社政策の渦中にあった大神社側の気付きが小倉家の伝承と結び付いたことによるのではないかと思い直しています。

 この「神社由緒明細帳」が、『能生谷村誌』の「第七章 神社」の「十二、配祀」の項目に記されていた神明社と白山社の記載の出典の「神社由緒明細帖」のことではないかと思います。

 同書・同章の「第三 神明」にもいろいろの資料から記載されています。
 (明治十四年平村誌)と出典記載のある「神明社」と題された5行の文中に〔「社殿西北向石製(拝殿造込石祠東西五尺南北四尺ト訂正シテ有ル)」「境内東西九間南北五間面積一畝十五歩祭神天照太神大同三年九月十一日勧請ス例祭日四月三日十月三日」〕とあり、(大神社記録)と出典記載のある「神明 」と題された 記載中に〔「祭神 田心姫 湍津姫 市杵嶋姫 三座 大沢座」「社石祠 東向 東西二尺二寸南北一尺二寸」「御社地 東西八間余南北六間余」〕とあり、(明治五年壬申年二月届出平文書)とある「神明宮」の記載中に〔「但石祠 二尺四寸一尺二寸 当村中支配」「祭神 豊宇気姫神 勧請年月不詳」「祭日九月三日 社地但八間 六間半」〕とあります。
 どうなっているのでしょうか。

◇川詰の当該神社は、『神社明細帳』に「古須王社」と記され、江戸期の資料にも「古須王権現宮」と記されているようですので、文字表記は「古須王」であり発音は「コスオウ」であったろうと思います。
 古四王と古須王とでは、発音にシとスの違いがありますので、文字表記もその点で違っていますが、似通っていると言えると思います。
 神社を祀る家に、大彦命の事蹟と神社建立及び賜姓と奉祀についての伝承があるばかりではなく、大神社のこととされる森本天神追神社の縁起にも大彦命の事蹟が伝わっています。
 古須王社と大神社の間の直線距離はおよそ4キロメートル強というところでしょうか。
 こういったことからすれば、「古須王社」はコシオウ神社である可能性があるように思います。
 「古須王社」は大神社に合祀され、「古須王社」の趾には「古四王神社旧趾」石碑が建立されています。
 「古四王神社」という認識のおよんでいる範囲はどこまでのものであったか分かりませんが、すくなくとも建立者は、「古須王社」とはせずに「古四王神社」としたわけです。

 神社を祀る家の伝承を『西頸城郡郷土誌稿第二輯』『能生谷村誌』が記載しており、それらの記載を『能生町史』『新潟県の地名』も引用しています。
 『中能生郷土誌』で大神社による明治初期と後期の資料を見ることが出来ました。
 『能生谷村誌』では、大神社に配祀の古四王社とあり祭神は大彦命です。
 『能生町史』では、大神社に配祀の古須王社とし祭神は大彦命です。
 『式内社調査報告 第十七巻』では、古四王社とされていました。

 古四王関連の諸論文中のコシオウ神社や地名の所在地情報には、佐藤論文以外には、新潟県の上越地域での古四王神社の所在地情報は報告されてこなかったと思います。 
 地元の郷土誌などに古四王神社の情報が記載されていても、古四王関連の諸論文の所在地情報に反映されていないことがあります。
 私も、諸論文に所在地情報がないコシオウ神社をいくつか郷土誌などで見つけて訪ねています。

 もしこの地に古四王神社があれば、新潟県の古四王神社の分布範囲に一石を投じることになります。
 周辺地域に他にコシオウ神社と思われるような神社がなかったか注意を払う必要が出てくるのではないかと思います。
 そこにコシオウ神社かもしれないような神社の情報が出てくれば、川詰の神社がコシオウ神社であることの傍証となると思います。

 私見ですが、神社名の文字表記はその神社の固有の表記を用いる方が良いと思いますので、江戸時代にも使われていたと思われる「古須王」を用いることがよいのではないかと思います。

*インターネットで「能生 川詰 つんぼり様」で検索した候補に示された「2015_haru-natsu.pdf-権現のさと 糸魚川市上南地区」〈 http://nou-jyounan.com/img/pdf/2015_haru-natsu.pdf 〉を見てみますと、「上南ええとこマップ 2015年春・夏号」という案内チラシの画像があり、その2枚目に「〜上南の言いつたえ〜 体にまつわるものを集めました。」という記事がありました。
 そこに「つんぼり様」「はらぐすり」「歯の仏様」の短い案内文と場所を示す地図がありました。
 「つんぼり様」については、「川詰の奥の大きな岩上に祠と石棒が祀られています。祠は耳を治す神の祠で、石棒は男根を表しています。現在は沢向こうにあり春か夏でないと近くまでいけません。」とありました。
 「はらぐすり」については、「川詰地区にある越王神社にはらぐすりの流れがあります。花立峠の鬼を退治したという大彦命が、ここに滞在中腹痛に苦しむ旅人に野草をとり清水でもんであたえたところたちどころに治りました。現在も清水として、利用しています。」とありました。
 「つんぼり様」の案内文に、穴あき石や椀のことは記されていません。
 「はらぐすり」は、越王神社にあり、清水として利用されているそうです。
 この案内文では、大彦命は「花立峠の鬼を退治した」となっていましたが、『能生町史・上巻』に引用された伝説では大彦命は岩屋に住む「賊」を挟み撃ちにして勝利したとありました。ただ、「賊」の住んでいたという場所に「鬼のまないた」「鬼の足跡」「鬼の井戸」というものがあると記されていますので、「鬼」にまつわる別の伝承があったのでしょうか。
 「はらぐすり」については、web上の「新潟県[夏休みローカル線の旅]上南地区(糸魚川)・・」というサイトに短い情報がありました。〈「越王神社 はらぐすり」で検索。
 https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000003682 〉


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