探訪記録 新潟 11 新潟市北区笠柳(旧・豊栄市) - 古志王神社(神明社に合祀)
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《探訪の準備》
*豊栄市笠柳 古志王神社(祭神:大彦命)
資料: 豊栄市史・通史篇-第2編-第5章=信仰と文化 (平10・1998)
『豊栄市史・通史篇』により、豊栄市笠柳地内に大彦命を祭神とする古志王神社の存在を知りました。
同書に古志王神社を取上げて論じた記載は無いのですが、「表46 豊栄市域の神社と村落」の表に古志王神社が記されていました。
同書によると、近世末に市域全体の45か村で神社数は112社にのぼり26の祭神が勧請されているとのことで、古志王神社は1社のみで祭神を大彦命とするのもこの1社だけです。
所在地の笠柳は明治10年に笠柳に変わる前は佐々木上新田という新田村でその成立は元文2年(1737)とのことです。《文末に訂正補足》
笠柳にある神明社の勧請時期も元文2年とのことですので、古志王社の創立は不明ですが同時期を遡らないのではないでしょうか。
このくらい新しい勧請であれば、その経緯も分かるのではないかと思いますが、豊栄市笠柳に古志王神社があることが知られていなかったこともあり、資料が残っているかどうか。
《探訪の記録》
豊栄市笠柳〈2005年3月ー新潟市に編入合併。現・新潟市北区笠柳〉に古志王神社は見当たりません。
『神社明細帳』によると「北蒲原郡笠柳村字笠柳 古志王社 祭神:大彦命 由緒:創立年月不詳 当村ノ内二十九戸ノ産土神ナリ 社殿:本社間口五尺奥行三尺・拝殿方弐間、鳥居・石夜燈 境内:八百十七番 百弐拾坪 明治十六年七月」とあり合併合祀の追記はありません。
笠柳の神明社は『神社明細帳』で「神明社 祭神:天照皇大神 由緒:元文二丁己年鎮座同年八月宮殿創立 当村ノ内五十九戸ノ産土神タリ 社殿:本社間口一間三尺奥行五尺 長床方一間 拝殿間口二間奥行一間三尺 鳥居・石夜燈 境内:六百八十七番 百八拾坪 明治十六年七月」とあり合併合祀の追記はありません。
『平成の祭』で豊栄市の神社を見てみると、古志王社は見当たらず、笠柳の神明社の祭神に天照大神、大彦神とあります。神明社の住所は笠柳958番地になっています。
古志王神社は神明社に合祀されたと考えていいのではないかと思います。
番地が明治時代と変わっていますので、番地から旧古志王神社の跡地を推定することができません。
2009年1月に『豊栄市史』を見てから、笠柳の神明社を少なくとも2度訪れているのですが、古四王の手掛かりが得られていませんので、今回あらためて訪ねました。
*2017年7月22日 笠柳の神明社を訪ねました。
境内入口からまっすぐ拝殿に向って鳥居があり一対の石灯籠があります(写真左)。拝殿には笠柳神明社の社額があげられています(写真右)。境内に古峯神社碑があり、形の違うもう二対の石灯籠が置かれています(写真下)。合祀された神社のものと思われます。
神明社の隣の寺に来られた婦人に話を聞くことができました。それによると、子供の頃に、神明社には二つの神社が合祀されて三つの神社が合わさったものとのことで、一つの社は庵寺のそばにあって跡地が残っているし、もう一つの社は聖籠町に近い笠柳の端のほうで新発田川の近くにあったとのことでした。婦人の子供の頃というと、50年くらい前のことでしょうか。
庵寺を探すと、神明社からあまり離れていないところにそれらしい場所があったので、近くにいらした婦人にお聞きすると、庵寺の向こうの小高いところに神社があったとのことでしたが、実際には知らないし神社名も分からないとのことでした。
言われた場所あたりには、草だらけの空き地があり、二段の石垣で敷地の境を築いてありました。
もう一つの場所を探して、この辺りかと思うところで畑仕事中の老婦人にお聞きすると、集落の道路から家並みの後の方に入った高台にあり、広場になっているとのことでした。
そこへ行くと、草が刈られていて若干の遊具がありましたが、神社跡を示す物はありませんでした。その場所からは眼下に新発田川が見えました。
庵寺の側の空き地もですが、砂丘の高台に神社をお祀りしたのだと思います。
神社跡近くでもう一人のご婦人にお聞きしたところ、神社があったのは嫁に来る前の話で、お祭りには店も出たそうですが、神社名は分からないし、その頃を知る人はもういなさそうとのことでした。
今回の訪問では、情報を持っている方に次々にお話が聞けて、ありがたかった。
《探訪の整理》
『明細帳』で笠柳の寺を探してみますと、「笠柳村字笠柳 真宗西本願寺流 一音寺 由緒: 不詳但し明治十一年七月西蒲原郡東裏村より移転 境内: 六百八十八番 二百六拾六坪 等」とあり、神明社と一番地違いで、現在地も隣接しています。
また、「笠柳村字笠柳 北蒲原郡五十公野村来迎寺末 慈眼庵 由緒: 元明六丙午年八月創立開基北蒲原郡笠柳村桜井増次郎にして開山は覚門和尚其後明治十二年六月現今境内へ移転再興 境内: 八百十六番 百七十五坪 等」とあります(写真左)。
古志王社と番地が一番違いですから、この庵寺背後の高台の空き地が旧・古志王社の跡地かと思います(写真右)。
もう一ヶ所の神社跡地については、『明細帳』に次の社を見つけました。それは、「北蒲原郡佐々木村字古笠柳 神明宮社 由緒: 〈朱書〉貞亮二年当村開創の際創立正徳五年九月天保元年五月度々再建当村の内十三戸の産土なり 境内: 三千二百二十七番 弐百六拾弐坪 等」とありますので、これなのではないでしょうか。
地図を見ますと、その神社跡地の場所だけが聖籠町藤寄の行政界に入りこんで笠柳になっています。
国土地理院の地図では、笠柳には笠柳神明社の場所とこの場所に鳥居のマークがついていますので、この社の跡を古志王社跡と間違う可能性がありました。
この他には、古志王神社に関する新たな資料などは確認できていません。
笠柳は新田村ですので、開発者や移住者がいたと思いますので、そのなかに古志王神社を勧請した方がいたのかも知れません。
創立の時から「古志王」と表記しているのであれば、勧請元も古志王でしょうから、村松町別所も勧請元の可能性があると思います。
創立の時に「古四王」であれば、新発田市五十公野が最も近い古四王社です。
どうだったのでしょうか。
《 訂正・補足 》
『豊栄市史 通史編』に「享保十九(1734)年開村の笠柳村は元文二(1737)年に神明社を建てている。(第2編第5章第2節)」がありました。
明治10年6月に、佐々木新田は藤寄村に、佐々木上新田は笠柳村に、佐々木下新田は横井村になっています。
『新潟県の地名』(平凡社)を見ると「豊栄市」ー「佐々木上新田」の項目に「新新発田川左岸にあり、北東対岸は佐々木新田(現北蒲原郡聖籠町)、南西は佐々木下新田。近世初期は島見前潟の湛水地で、享保十五年(1730)の阿賀野川松ヶ崎本流化にともなって開発されたと思われる。」とありました。