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所在地情報検討記録 新潟 14


及川大渓による所在地情報
蒲原郡高出村 五所神社 ⇒ 魚沼郡中島村 五社神社

《検討の準備》
*蒲原郡高出村 五所神社
 蒲原郡とありますので、蒲原郡が分割される前の地名ということになりますので、相当広範囲になります。
 蒲原郡の内で後の東蒲原郡になる会津藩領の区域内に高出村があります。
 高出村は、明治8年に日野川村、明治22年に東蒲原郡西川村、昭和29年に上川村、平成17年に阿賀町の一部になっていき、現住所では東蒲原郡阿賀町日野川高出になるようです。

 会津藩領なので、『新編會津風土記』を見てみます。
 「巻之百二・外篇越後国蒲原郡之五・上條組」によれば、上條組上十四箇村の中に高出村(タカイデ)があります。
 高出村は、家数十九軒で神社が二社と一寺院があります。
 その一社の「若宮八幡宮」は「村中にあり、いつの頃の勧請と云ことをしらず、鳥居あり、九島村齋藤丹後これを司る」とあり、もう一社の「御所神社」は「村北四十間にあり、鎮座の初を傳へず、元弘・建武(補:1331〜1336)の頃月見御所とて此村に来り、住せり、因て其霊を祭ると云、鳥居あり、村民の持なり」とあります。
 寺院は「嶺寒寺」で「村中にあり、高井山と号す、草水村観音寺の末山曹洞宗なり、〈略〉、其後元弘・建武の頃都人此地に来り住せしを、土人尊崇して月見御所と称せしとぞ、此時普学と云僧此に来り、彼人と力を勠せ破壊を補理す、旧は此より東五町計にありいつの頃にか地震して寺後の山崩れ、堂宇悉く頽轉す永正十一(1514)年此所に寺を建立し、明呑と云僧を中興とす、古き牌子三面あり、一は高一尺七寸六分幅二寸、大圓覚高倉院尊位としるし、年月支干を識さず、寺僧相伝て高倉宮以仁親王親の霊牌といふ、一は高一尺四寸幅二寸、月見院尊霊としるし、又年月姓氏なし、月見御所と云し人の位牌なるべしとぞ、〈略〉」とあります。
 『神社明細帳』では、「御所神社」は「東蒲原郡日野川村字荒田 祭神・月見院(朱線で消し以仁王と朱書き訂正) 由緒・高出部落十八戸の産土神なりしも明治五年三月豊川村村社広瀬神社に氏子変換 境内・丙千三百六十番 六拾八坪」、枠外追記に「若宮八幡神社へ合併社木伐採の件明治四十二年三月三十一日聞き届く」の記載があります。
 「若宮八幡神社」は「日野川村字高出 祭神・大鷦鷯命 由緒・不詳 境内・丙七百五十二番 八拾坪 信徒・拾八人」、枠外に「御所神社を合併」の追記があります。
 『東蒲原郡史蹟誌』により詳しい情報があります。
 『平成の祭』によれば、若宮八幡神社の鎮座地は東蒲原郡上川村大字日野川丙752番地とありますので番地数字は変わっていません。
 また、新潟県には御所神社の記載はありませんが、全国では御所の付く神社は20社あります。

 及川のあげた「蒲原郡高出村 五所神社」は「御所神社」のことではないかと思いますが、古四王社という要素が出てきません。

*魚沼郡中島村 五社神社
 こちらも明治12年に魚沼郡が北・中・南魚沼郡の行政区画になる前の地名になりますので、明治初期以前の資料からの所在地情報ということになります。
 会津藩領85箇村の中に中島村があります。
 魚沼郡の内の会津藩領・糸魚川藩領・幕府領の1町156村の部分が北魚沼郡として発足し、中島村は明治22年に合併により島町村になり、明治34年に藪神村に、昭和30年に広神村の一部になり、北魚沼郡広神村大字中島となります。
 その後は、平成16年に5町村が合併して魚沼市になります。
 現在の魚沼市中島がかつての魚沼郡中島村になります。

 所在地情報検討記録・新潟13の記事で、『平成の祭』によれば、五社・五社宮・五社神社は新潟県に合わせて20社あります、と記しましたが、その20社の中に「北魚沼郡広神村大字中島800番地1」に「五社」があり、「祭神(主)倉稲魂命・大己貴命・大宮姫命・保食命・太田命」とあります。五柱の神を祭って五社ではないのでしょうか。
 『新編會津風土記巻之百十七・外篇越後国魚沼郡之七・小出島組』によれば、小出島組三十九箇村の中に中島村(ナカシマ)があります。
 中島村は、北の上中島の家数二十三軒・南の下中島は家数三十軒の村で、二神社と一寺院があります。
 「稲荷神社」は、「下中島にあり、勧請の年月知ず、〈略〉」とあり、「五社神社」は「上中島にあり、勧請の時代を知らず、萬行寺司なり」とあります。
 「萬行寺」は、「上中島にあり、京師東本願寺末山浄土真宗なり、開山重進は加州小松の人なり、時の乱を避て父と共に本国を去り〈略〉慶長十七年(補:1612)当寺を開くと云、〈略〉」とあります。
 『神社明細帳』では、「北魚沼郡中島村字江添 無格社 五社 祭神:天児屋根命・太玉命・鈿女命・石凝姥命・玉屋命 由緒:創立年月不詳 境内:七百八十壱番 四拾四坪 信徒:八拾九人 等」の記載があり、枠外に「大正十四年四月十六日移転許可」とあり所在地に八〇〇ノ一の追記があります。
 祭神の違いはなにゆえでしょうか。

 この社にも、古四王の痕跡は見当たらないようです。

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