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探訪記録 新潟  1   新発田市五十公野 − 古四王(高志王)神社


桑原リスト(1)新発田市五十公野・古四王神社、高志王山

《探訪の準備》
 五十公野と書いて“いじみの”と読ませます。
 先ず、目にすることができた文献から五十公野の古四王神社についての記述を文献の年代順に見てみます。
*『北蒲原郡案内』(北蒲原郡役所編纂 大2・1913)
 五十公野の項目中に「古四王社 古四王は越王にして大彦命を祭れるもの上杉景勝封を移差るるに際し米沢に分霊して遷座す亦古社なり。」とあります。
 上杉以下の記述はどこから出たものでしょうか。
*『五十公野史話』(相馬恒二・五十公野村役場 昭27・1952)
 「(補記:大毘古命の巡遊の)後世其の徳を慕って命を祀り古四王神社と称して、崇敬は永く衰えず、年々の祭礼は特別に殷賑を極めている。」
 また、異説として古の烽火台の趾との説を載せています。
 それは、天智天皇三年各地に烽火台を設け烽火台を守護するため四天王を祀った、そして聖武天皇の御代に再び烽火台を作らしめた、そこで先に四天王を祀った烽火台後趾を古四王と称した、ということです。この異説には四天王が出てきます。
 新発田藩『世臣譜』〈=『新発田市史資料・第二巻』〉の「葛西外記」の条から「〈略〉古四王堂尊像四体ありしが、五十公野城落ちし時、景勝三体を領地へ持行きしといふ」を引用し、古老の談として「古四王神社の御神体は毘沙門天であったが、明治初年神仏混淆が禁じられてから毘沙門天像は高昌寺に移され、祭神として大毘古命のみが祀られたのである」を記し、「往昔は四天王が安置されてあったのを上杉景勝が三体を持行きて毘沙門天のみ一体残ったのかも知れぬ。」と記しています。
*横山貞裕『磐舟』 〈『新潟県文化財調査報告書 第九 磐舟ー磐舟柵跡推定地調査報告書』 (新潟県教育委員会 昭37・1962) =「第二章第二節周辺古社寺の調査」。ここでは、この章節の論究を、横山『磐舟』と記します。〉
 「新発田市の古四王神社は、徳川時代は高昌寺、すなわち智山派養洞院の別当で明治以降、神社として現在の地に祭られたもので、明治以前の古四王堂の神体は、毘沙門天で現在も二尺余の本尊が高昌寺にある。」
 また、菅江真澄『高志栞』を引用しています。【⇒注:このことについては、後に記す追記をご覧下さい。】
*横山貞裕・横山秀樹 『越佐歴史物語』=項目「北方を向く古四王神社」(昭50・1975)
 ここで「高昌寺(古四王の発音のあて名〈ママ〉。)」と記しています。
*『しばたの伝説』(大沼倹爾 昭53・1978)
 古四王神社と五十公野の項目中にも、相馬「五十公野史話」にあるように「五十公野の人たちは、この大毘古命の撫育を徳とし、命が秋田に旅立った後、誰からともなく言いだして、命を神として祀ることにし、創建したのが、今に残る古四王神社といわれています。」と記しています。
*桑原正史 「古四王神社」(『新発田市史・上巻』昭55・1980)
 桑原は五十公野の古四王社について「秋田市寺内、福島県喜多方市の古四王社とともに、古くからその存在が知られる著名なものである。」と紹介して、横山『磐舟』・菅江真澄の著作・相馬『五十公野史話』・他を引用して五十公野の古四王社がどのように見られていたかを示しています。
 桑原が、横山『磐舟』・相馬『五十公野史話』から引用した部分の一部を、当方もこの記事で引用しています。
 桑原も「おそらく高昌寺という寺号も古四王に由来するものであろう。」としています。
 そして、各地の古四王社の状況及び「古四王」についての諸見解を取上げ、大山宏の論究を引用し評価し、古四王に北方を神聖視する信仰を、亀の神聖視や毘沙門天を祀ることもあげて、検討しています。
 これまでの「北方開拓神」「越の王」説などの定説的解釈の再検討を提起しています。
 古四王神社とは何かを検討する際の幾つかの論点を提示しており、古四王神社の研究が新しい段階を迎えると私には思えた論文です。
 『日本の神々・8北陸』(白水社 平12・2000)の「古四王神社」の項目は新発田市史の論究をまとめた概要のような形であり読みやすくなっています。
 桑原の古四王神社に関する論究及びその姿勢については、何度か取上げておりますので、記載に重複があると存じます。
*『図説にいがた歴史散歩ー新発田・北蒲原2』(新潟日報事業者出版部 昭60・1985)の項目「古四王神社」(高橋礼弥)にも、「口碑によると〈略〉大彦命がこの地に来て、住民達に農耕の技術を教えた。その徳をたたえて大彦命を祀ったのが古四王神社だと言われている」とのことが記されています。
 五十公野の祭礼市については「新発田城下町での芝居興行などは許可されなかったが、古四王社の祭礼中に限り、五十公野での興業が許された。」ことを記し、かつての別当の高昌寺が現在は廃寺になっていることを記して、「現在ではこれら往年の行事はなくなって、地区の鎮守様としての祭礼が期間を短縮して行なわれている。」と伝えています。
 『新発田市史・上巻ー第三編第二章新発田藩体制の確立』中に「五十公野の祭礼市」項目があり「古志王社の祭礼のとき開かれる縁日市で、元禄ごろは六月十二日から二十二日までの十一日間という長期間にわたった。近郷近在や新発田町からだけでなく、諸国の商人まで集まって大変なにぎわいであり、これを目当てに茶屋も建った。〈略〉近世後期になると五十公野市には多くの見せ物が出るようになり、一段のにぎわいがみられた。」とあります。
 古四王神社の祭礼は市が立ち大賑わいとのことで、この祭礼は有名であり庶民の楽しみであったのでしょう。

《探訪の記録》
 古四王神社には祭礼日に合せて訪れたいと、都合の付く時を待っていました。
 新発田市に住む何人かの人に聞いても、古四王神社の存在は知られていません。
 里山とはいえ山の中に鎮座していることや、現在の市民生活に関わりがないせいでしょうか。   
 神社に参る前に、高昌寺の痕跡を探しました。
 『新発田市史・下巻』(昭56・1981)の付録ー市内寺院一覧表に既に高昌寺はなく、住所などが分かりません。
 『市史・上巻ー第四編第六章農村の姿』にある五十公野耕地絵図・天明年間の図には高昌寺がありますので、位置関係が知れます。
 それによると、五十公野の集落はおおよそ英文字のTの形になっていて、Tの横棒の上のほうに里山が連なっていて〈山頂86m〜50m程〉、Tの縦棒の先の方向に進むと新発田の中心部になります。
 Tの縦棒の右側の下の方に高昌寺はありますので集落の外れになるのではないでしょうか。
 古四王神社は古四王と記されていて、Tの横棒の上にあたる山中にあり、Tの横棒をはさんで高昌寺と反対の場所にありますので、両者はずいぶん離れていると思います。
 なお、後述しますが、「高志栞」に出てくる山王社は、Tの横棒の右側の集落の端からさらに右に離れたところにあります。

*2005年9月30日
 昭和51年3月現在の『新潟県宗教法人名簿』には、高昌寺がまだ載っており住所は五十公野1584になっています。この住所番地は、現在はJA北越後の五十公野支店になっており、そこはTの横棒の右の側になりますので、天明年間の高昌寺の位置とは異なるようです。
 JA附近からT字の横棒にあたる街路を見て歩き、菜園で作業中のご老人(男)に、高昌寺の話しを聞くことができました。
 それによると「コショウサマのお寺は、郵便局の辺りにあった。廃寺になった。五十公野児童公園がその跡地ということになろう。公園の隅、白蓮寺の近くに石碑等がまとめてある。」とのことでした。高昌寺の可能性を思っていた場所であったので、名簿の番地の問題はありますが、場所としては納得できると思います。
 高昌寺に隣接していたと思われる白蓮寺の同名簿の住所は五十公野辰の尾1856となっていて、現住所は五十公野1856です。このように、名簿の五十公野の寺院の番地にはほぼその寺院が存在していますので、高昌寺の法人登録住所とはなんなのでしょうか。

*2006年7月15日
 古四王神社の山上の社殿前の二の鳥居の注連縄を作っている下町の方にお聞したところによると「高昌寺は、住職が亡くなり、奥さんが頑張っていたが、奥さんが亡くなると、すぐ寺を壊した。檀家は少ないがいた。」とのことでした。
 古四王神社の注連縄は他では余り類を見ない両端に大きく輪を巻く形のもので、近隣には同様の形状の注連縄が20社以上にありますが、その元になったものではないかと思います。
 注連縄は、現在は2年ごとに取り替え、山裾の一の鳥居と合わせて2ヶ所を四組〈上町、下町、杉原、小路・橋本 とお聞きしました〉が交代で作っているとのことです。

 廃寺になった高昌寺の毘沙門天像については、『新発田郷土誌・第25号』(平8・1996)の「しばたところどころ」(鈴木昭)で「無量山安楽寺は、真言宗智山派に属する由緒正しい名刹で〈略〉また古四王神社の旧御神体であった毘沙門天像も、寺宝として安置されています。」とあります。
 さて、『新潟県神社寺院仏堂明細帳』で高昌寺を見てみると「北蒲原郡五十公野村小路、同郡新発田本村宝積院末、新義真言宗智山派 高昌寺」とあり、「本尊:虚空蔵大菩薩、由緒:〈略〉当院寺号代々養洞院と称し来たり候処万治二年度即ち高昌寺と改正す」、本堂、庫裏があり、境内三百三拾六坪で「境内仏堂壱宇、本尊:毘沙門天王、由緒:〈略〉万治二年度旧新発田藩主溝口宣直深く信仰あって田方五反歩米弐石六斗五升付与之処去る明治年度返上す 毘沙門堂間口壱間三尺奥行壱間三尺」「檀徒:拾七人」とあります。
 三代藩主宣直候は毘沙門天を信仰し、万治二年(1659)に別当の養洞院に田五反他を付与した。寺号の改変が宣直候の行為と全く関係の無いこととするより、その事があって高昌寺に改めたとするほうが自然かと思います。そうであればコショウサマの寺で高昌寺としたのかもしれません。
 『新潟県神社寺院仏堂明細帳』によると、安楽寺も新発田本村宝積院末、新義真言宗智山派ですので、高昌寺の毘沙門天像もこの縁で移されたのかも知れません。また、明細帳の記述が明瞭ではないので読み間違いがあるかもしれませんが、安楽寺には二代藩主宣勝候より「田方五反歩寺領ス此ノ御米五石五斗西ノ坊安養院安楽寺エ付与」と読めるようです。

*2006年7月15日
 古四王神社の祭礼日、注連縄の奉納を拝見させていただき、普段は扉が閉じられている拝殿にあがらせていただきました。
 完成した注連縄(写真左上)を担いで、山麓の一の鳥居をくぐり(写真右上)、山道を登り、社殿前の二の鳥居に注連縄をあげます(写真左下)。
 一の鳥居には縦書きの「古四王」の社額があげられています。
 神社の標高は60メートル強、山麓からの標高差50メートル弱でしょうか。
 拝殿の入口には古びた右横書きの「王四古」額(写真右下)が掲げてありました。
 拝殿内には、古四王、志王の両方の表記が見られ、古四王権現社地の絵図(宝暦十二年・1762のように見えるが不明)があり社殿が北向であることが表されています。
 社殿の落慶時(明治三十年頃か)と思われるが写真が二葉飾られています。
 拝殿の奥の本殿との扉の上には金文字右横書き「王四古」の額があげられて、三ケ村氏子中の提灯、笹系の神紋(七五三根笹?)の提灯が提げられています(写真下)。



《探訪の整理》 
 桑原リストでは「新発田市五十公野・古四王神社、高志王山」とありますが、『新潟県神社寺院仏堂明細帳』では神社名が「志王神社」で所在地は五十公野村字「古四王山」とありますので、リストは反対になってしまったようです。
 同明細帳の由緒に「創立年月日不詳 五十公野村丙旧上町下町小路村ノ産土神」「境内坪数:四千六百八拾壹番 参百四拾坪」とあり、神官は「北蒲原郡五十公野村を朱線で抹消し朱文字で当村日枝神社社掌日下部威益」「氏子百九拾弐戸」とあります。山王社の神職に神社をお願いしたのでしょうか。
 また、明治16年に古四王山にある「四王神社」として届出たのを明治30年に「志王神社」に社号訂正の許可を受けています。
 社殿が明治27年に5月に焼失し再建されています。拝殿に明治29年8月の社殿造営寄付額がありますので、現在の社殿はこの時再建されたものでしょう。〈補記:現在の社殿は、明治時代の再建の建物ではない可能性があるようです。本記事末に補足いたしました。〉
 この再建の際に社名を嘉字に変更する申請がなされたのではないでしょうか。
 これはコシオウのコシをコシノクニとして好字を選んだということではないでしょうか。
 あるいは、明治の明細帳の神社調べの折りには、神仏分離があり、神社明細帳の書式に応じた神社として書き表すことが意識されたはずですし、お伺いと指導もあったのではないかと思いますので、古四王のままではない社号を選択したのかもしれません。
 大毘古命を祭神として、コシノクニが意識されていたのでしょうが、四王になってしまったのかもしれません。それを志王に正したのではないでしょうか。
 現在の拝殿内には古四王と志王の両方の表記が見られますが、志王の表記は明治30年に社号を改めてからのものかと思います。
 2008年6月に拝見する機会を得た「五十公野山古絵図(江戸期・制作年代不明)」及び「五十公野名所図(弘化年間以降に制作?・林勝鱗・藩お抱え絵師?)」での表示は古四王になっています。
 江戸期までは古四王と表わされていたものと考えるのが自然ではないかと思います。
 鳥居及び拝殿入口と拝殿内の「古四王」社額が、志王の表記は作られたものであることを表わしていると思います。
 法人社としての公的な表記は志王神社のままだと思います。
 『平成の祭』では、神社名 : 高志王神社、通称: 古四王様とあります。
          祭神 : 大彦命
          所在地 : 新発田市五十公野4686番地
 この、五十公野4686番地は、『新発田市史・下巻ー付録・市内神社一覧表』の高志王神社の所在地住所になっていますし、『新潟県宗教法人名簿 平成7年3月31日現在』の高志王神社の所在地住所になっています。
 ですが、地図ソフト(いつもnavi pc)及びGoogleマップでは、五十公野4686は五十公野保育園裏の神明神社を指します。
 五十公野保育園は古四王神社の山麓の鳥居の向かい側で近くにあります。
 この神明神社は、『市史・下巻』『宗教法人名簿』『平成の祭』では「神明宮」で五十公野4687になっており、高志王神社と1番地ちがいます。1番地ちがっても、隣にあるとは限りませんが。
 『神社明細帳』では「五十公野村字神明山」の「神明宮社」で「天文十五年〈1546〉創立」「境内坪数 四千六百八拾七番 九拾三坪」とありますから、4687番がそのまま所在地番地になったようです。この社殿は西向きで、社殿に向う現在の道に対して不自然な位置関係に思えます。
 高志王神社の神社明細帳の「境内坪数」欄では4681番〈四千六百八拾壹番 参百四拾坪〉になっていましたが、所在地番地には用いられずに4686番地に変えられています。何故4686番地とされたのでしょうか。
 その4686番地が、現在では高志王神社を指し示さないのはなぜなのでしょうか。
 地図ソフト(いつもnavi pc)及びGoogleマップでは、神明宮の所在地の五十公4687は表示できません。
 住宅地図の地籍版を見ると、五十公野保育園付近に地籍番地「4687」の表示があります。
 地図ソフトで五十公野4681番地を検索すると、神社とは無関係の別の施設の場所を示しました。
 山頂の高志王神社にはあてはまる番地が無いようです。
 新発田市では昭和39〜41年にかけて町名区画整理及び住居表示制度を実施したそうですので、この時に高昌寺の住所とか高志王神社の住所の問題が起こったのかもしれません。

 現在の志王神社の社殿は鳥居と参道の階段に向いていて、その方向が北方向になりますが、「五十公野名所図」の古四王社は赤系の入母屋屋根の社殿で正面が鳥居と参道階段方面ではなく西方向を向いているように見えます。山頂の神社を俯瞰の絵にしていますので、写実的な位置取りではないのかも知れませんし、「五十公野山古絵図」のほうは、絵図の表現によるものかも知れませんが、山上の社に続く参道も山上の鳥居及び鳥居に正面を向けた社殿も画かれています。
 社殿が西方向であれば五十公野の集落に向いていることになります。集落からは、今は木が茂って見えませんが、以前は社殿が見えていたという話を聞いたことがあります。
 社殿が北を向く古四王権現社地の絵図とは異なりますが、麓の集落から神社が見えるときには正面が見えることを考慮することはあり得るのではないかと思いますので、もしかすると社殿が北向きではなかった時代があったのかも知れません。

《地図は、五十公野の集落、 写真は案内板》

 


 さて、菅江真澄「高志栞」についてです。
 菅江真澄の「高志栞」の最初の項目部分、つまり「笹原寺の是観上人ノ高志路ノ日記ニ曰ク」から「誠に、高志皇にや侍らんか。」までの、菅江真澄全集第11巻では18行にあたる部分が、古四王神社に関する「高志栞」からの引用対象部分となっておりますので、地の文で菅江真澄『高志栞』と二重かぎ括弧で表記した場合は、その狭い範囲の意味で述べています。

 横山『磐舟』の「高志栞」からの引用は「越後国神原郡五十公野に古四王宮あり、其里の伝へに」から始まり「大彦命をもて高志国を鎮護しめ給ひしゆえに、此命を斎き古四ノ王とはまをす。全く此の神は古四王には非ず越王にておはしましき。」を記して「俚人の語れり」までを引用しています。
 『越佐歴史物語』でも、「『高志栞』の中で次のようにのべている。」と記したあとに「真澄も柴田の里四五日ありて〈略〉誠に高志皇にて侍らんか」の『高志栞』の最終文節から引用して、改行し「五十公野の条には」と記して、続いて引用文「越後国蒲原郡五十公野に古四王宮あり。その里の伝へに、」から始めて「俚人の語れり」までを引用しています。
 このように記されていれば、引用文「越後国神原郡五十公野に古四王宮あり。その里の伝へに、」から始めて「俚人の語れり」までは、『高志栞』からの引用というように理解することになると思います。
 そして、「(補記:菅江真澄は)はっきり、古四王は越王であることを喝破している。」と断じています。

 桑原「古四王神社」=『新発田市史』中の引用は「その里の伝えには、〈略〉、大彦命をもって、高志国を鎮護(おさめ)しめ給ひしゆえに、この尊(みこと)をまつりて古四王とはま申をす。全く、この神は古四王にはあらず、越王にておはしましき。」から「俚人の語れり」までになります。
 続いて、桑原本人の文で「菅江真澄の、古四王は四天王ではなく、『越の王』だとする見解は、明治以降も引きつがれ、現在の定説的な解釈となっている。」と記し、「古四王=越王説」の出所にしています。

追記1 : 横山『磐舟』では、「越後国神原郡五十公野に古四王宮あり、其里の伝へに」から始まり「俚人の語れり」までを引用したあとに続けて「『高志栞』に徳川時代越後を旅して北に向った菅江真澄翁は、柴田の里に四、五日滞在して、新発田中輔など三、四人いざなひて五十公野の社に参拝したことを記している。」と記述されています。
 つまり、実際の記述は、《〈略〉俚人の語れり」と「高志栞」に徳川時代越後を旅して北に向った菅江真澄は、〈略〉五十公野の社に参拝したことを記している。」》と、《二重山括弧》の中のように引用文に続いて説明文になっています。
 これは、引用文「越後国神原郡五十公野に古四王宮あり、其里の伝へに」から始まり「俚人の語れり」までは『高志栞』からの引用であるということを表していると思います。

 桑原の『新発田市史』中の引用は、「彼〈菅江真澄〉は五十公野の古四王社について次のように述べている。」と記してから「その里の伝えには、〈略〉、大彦命をもって」に始まり「俚人の語れり」までを引用文として示しており、「高志栞」からの引用とは記してありませんが、私は 横山『磐舟』と同様の内容であるため、『高志栞』からの引用と思ってしまいました。】

 私の読んだ「高志栞」は『菅江真澄全集・第十一巻』(編集=内田武志・宮本常一 未来社刊 1980年12月・昭55)です。
 それでは、表題は「高志栞こしのおほきみまた万元紀行」で、最初の項目は、笹原寺の是観上人の高志路の日記を引用したもので、「文政二年〈1819〉卯ノ卯月十二日、蒲原ノ郡本明へと心さし、朝まだきに立いて、黒川を渡り中条のうまやをすぎ、五十公野(振仮名:イジミノ)のすくにいたる。此里に古四王ノ宮あり、わか秋田の寺内村にも古四王の宮あり、其外に聞きおよばぬ神にしませば、そのゆゑよしをも尋ね聞かばやと」、山王ノ社がある「三王村」の「日下部大和といふ神主」を尋ねて「古四王と申はいずれ神をか祭り奉るやととひ侍れは」、「日下部大和ノ曰ク、〈略〉大彦ノ尊を、越ノ国ををさめしめ給ひしゆゑ、このみことを祭りて古四ノ王(コシノオオキミ)とは申奉る也。また、古四王(コシワウ)にはあらず、越皇(コシワウ)なり。されど今は真言宗の寺にてものすゆゑ、さは申侍らで唯四天王を祭るとのみ申せば、世こぞりてしかおもへりと語りぬ。〈略:この後は五十公野の地名についての記述〉」とあり、この項目の最後の三行に「真澄(オノシ)も柴田ノ里に四五日(ヨカイカ)ありて、新発田ノ忠輔なと三四人(ミタリヨタリ)いさなひて五十公(イジミ)野の社にまゐりて、ひねもすありて皈たり。囲碁のけちさすまにいくさよせきて、最上源五郎におとされし城迹あり。此あたりの人はもはら五十公(イジミネ)といえり。誠に、高志皇(コシノオオキミ)にや侍らんか。」と菅江真澄本人の文があります。
 横山・桑原が引用している部分は、是観上人の日記の文章であり、山王社の神主日下部大和の発言した内容になります。
 一般の里人が語った内容ではなく、神官である日下部大和が述べていることで、大彦命が越の国をおさめられたので、大彦命を祭って「こしのおおきみ=古四王」と申し奉るが、その表記は「古四王=こしおう」ではなく「越皇=こしおう」なのだが、今は真言宗の寺持ちになっているので、そういうことは言われずに単に四天王を祭るというだけです。世の中の人は皆そのように思っていると(日下部大和は)語ったと読めるのではないでしょうか。
 大彦命を「越のおおきみ」として祭っているので、古四王ではなく「越皇」なのですというのが日下部の言い分のように思いますが、それは「古四王は越王だ」という主張とは少し違うのではないかと思います。
 大館市立栗盛記念図書館所蔵の「高志栞」のデジタル画像を見ても、表記は「越王」ではなく「越皇」でありコシワウの振仮名があり、古四ノ王にはコシノオオキミの振仮名があります。
 菅江真澄全集の「高志栞」はこの本によっているので、そうあって当然なのでしょうが。

 笹原寺の是観上人とは、「筆の山口」の「衣のたま」(『菅江真澄全集・第十一巻』)によれば、出羽久保田笹原の本誓寺十三世で、越後国蒲原郡弥彦荘小吉村の塚本山伊豆円明寺の円証上人の末男子で、母は出羽久保田の寺の娘、という人です。
 故郷への旅だったのではないかと思いますが、黒川・中条・五十公野と三国街道(中通り)を通ってきて向っていた「本明」は不明ですが、三国街道(中通り)から少し外れていますが、笹神村〈現・阿賀野市〉に本明という集落があります。〈『三国街道(中通り)』(新潟県歴史の道調査報告書・第八集 新潟県教育委員会 平7・19959)〉
 『三国街道(中通り)』の最初の章の記述に「一般にいう三国街道とは、〈略〉三国峠を越えて越後に入り、〈略〉長岡まで下り、寺泊へ出る道である。〈略〉では、長岡から先の道は、どのような名称となるであろうか。結論からいうと、三国街道・北国街道・会津街道というような統一的な名称はなかった。新発田藩の場合、長岡で三国街道と分岐し〈略〉新発田城下へと続く道も慣習的に三国街道と呼んでいた。村上藩では、さらに中条・黒川・平林を通って村上城下にいたる道も三国街道と呼んでいた[新潟県史通史編三]。また、新発田藩では、中通りまたは山通りとよぶこともあった。」とありますので、是観上人の通った黒川・中条・五十公野の道を「三国街道(中通り)」と記しました。

 「高志栞」に出てきた山王社の神主の日下部大和は、『新発田市史』の宗教の章中の社家組織の項目に藩の役職の社家触頭が領内総鎮守の諏訪神社でその下に四家・三家あり、文化九年(1812)の四家の筆頭が外城村日下部大和とあり、明治初年の筆頭佐々木(宮内)次席日下部(五十公野外城)とありますので、格式のある神主の家柄と思われます。
 さて、菅江真澄が新発田に滞在していたのは、信州から越後に入って出羽を目指していた天明四年〈1784〉のことと思いますので、文政年間からは三十数年前になります。
 だから、五十公野の社に連れだって詣でた人の名前もわざとかも知れませんが新発田ノ忠輔などと曖昧で、詣でた社は古四王社でなかったかもしれません。
 ですが、思えば本当に(古四王は)こしのおおきみ=高志皇だなと(是観上人のおかげで)思い至ったことを最後に述べているように思えます。
 最上源五郎あたりの記述は分かりかねます。

 「高志栞」は、文字通り「高志」に関する「栞」ですから、まとまった地誌でも紀行でもなく、高志についての関心事の目印ないし手引きとしてあれこれ記しておいたもののように思います。
 古四王は大彦命をこしのおおきみとして祭る社であり古四王と伝わってきているがこれは越(高志)皇のこと、とする見解は少なくとも江戸時代の神道家には存在しているので、菅江真澄が書き残そうと残すまいと、何らかの形で現代に伝えられて来たと思います。

 谷川健一『白鳥伝説=第二章異族の神・ヤマトの神』の「弥彦神と古四王神の関連説」の項で、「高昌寺と毘沙門天」に関する「磐舟ー磐舟柵跡推定地調査報告書」からの記述のあとで『高志栞』に述べているとして記載してある引用文にも「全く此の神は古四王には非らず。越王にておはしましき。」とあります。
 横山・桑原・谷川氏の読まれた『高志栞』のテキストは何だったのでしょうか。
 全集第十一巻の「高志栞」ではないようです。

【追記2 : 谷川は、横山・桑原と同内容の「引用文」を記して、「と「高志栞」に述べている。」と数行前に記しています。このことには横山『磐舟』の影響があるのではないでしょうか?。
 井上悦夫『新潟県の歴史』でも、同様の「引用文」の後に(「高志栞」)と記されています。
 記事・新潟4 岩船郡朝日村岩沢上屋敷・古四王神社に関連記事があります。】

 また、横山は『磐舟』で「菅江真澄集に記載されている秋田城寺内高清水岡の古四王堂の記事は左の如くである。」として、「雪の道奥雪の出羽路」から2ケ所、「霞むつきほし」から1ヶ所、「梅の花湯の記」2ヶ所、「房住山昔物語」1ヶ所の引用をしています。
 これは『秋田叢書別集 菅江真澄集』の第三及び第二(「房住山昔物語」)からの引用と思われます。
 横山『越佐歴史物語』でも高清水の古四王社についての引用があり、「霞むつきほし」からの引用は無く、他の3誌は同じ所が、引用文の記載順と句読点の打ち方が異なりますが、引用されています。
 「房住山昔物語」は、大館市立図書館の解説によれば「かつて修験寺院として栄えた房住山〈略〉にまつわる二つの古書の書写本である。〈略〉」とのことですので、菅江真澄自身の文章ではないようです。
 「霞むつきほし」の「古四王の堂にまうづ」の古四王堂は寺内ではなく檜山〈能代〉です。
 引用されたこれら「高志栞」以前に記された文章の「古四王」についてどこにも「古四王は越王」というような言及がありません。
 このことが、菅江真澄は是観上人の高志路の日記を見るまで「古四王は越皇」だとは思っていなかったのではないかと思わせます。
 寺内の古四王社を「越王」と言うことにはばかられるものがあったのかもしれませんが。
 『平成の祭』で秋田市寺内の古四王神社を見ると、「由緒」の中に「三代實録に出羽国正六位上高泉神並從五位下とあるは当社のことなりと。真澄遊覧記に云へり」とあります。
 「真澄遊覧記」とあるだけで、菅江真澄の云ったという記載がある書誌名が具体的に分からないので、まだどのような文脈で述べられたのかを実見できておりませんが、ここからも古四王神社についての認識に「越王」はなかったのではないかと思えます。
 「梅の花湯の記」からの引用2ヶ所は、一方が「この岡に高志王の神霊の宮造り」とあり、もう一方は「又古四王の神垣に入」と表記が異なっていて、「高志王」表記が気になります。
 『秋田叢書別集 菅江真澄集ー第三』には、「梅の花湯の記」の自筆写真版が載せられており、立派な文字で「高志王」と書かれておりました。また、その解題によれば、「梅の花湯の記」は文化九年〈1812〉とのことですので、「高志栞」以前のものです。「高志栞」以降に書き直しとか清書装幀とかされたということはないのでしょうか。
 寺内の「古四王神社」が「高志王」と表記していたことはないと思いますので、どういうことなのでしょうか。
 「高志王」の前後を引用すると「はた延暦の世には、阪上宿禰田村麿〈ママ〉のうし蝦夷むけ給ひなんのいのりして、この岡に高志王の神霊(かみ)の宮造りしてあかめたまふに」とあります。この部分は、「梅の花湯の記」の前段にあります。「又古四王の神垣に入」の部分は、後段にあります。
 坂上田村麻呂が祀った神を言うときに「高志王」と記し、神社を言うときに「古四王」としているように思えますが、田村麻呂が祀ったことが「高志王」にすることに結びつくのでしょうか。
 「筆の山口」(『菅江真澄全集・第11巻』)の文政五年〈1822〉正月十八日の記事に「けふは人麿のおほみ神祭る日とて、是観上人とともに土崎へ行とて、笹原寺を出て、〈略〉かくて寺裏(ウチ)になりて、古四王ノみやしろのみまへにぬかつきて、〈改行〉〈和歌〉ひろ前の雪のしらゆふそのまゝに手酬(タムク)るこしのおほきみのみや〈改行〉〈略〉」の記載があります。「寺裏」は「雪の道奥雪の出羽路」からの引用部分では「寺内」と書かれています。書誌の題名の文字表記も面白いですし、文字を変えて表記する傾向があるのでしょうか。
 この書誌は年代的に「高志栞」以降のものになりますので、「誠に、高志皇(コシノオオキミ)にや侍らんか」という認識がありますので、和歌に詠まれた「こしのおほきみのみや」は「高志皇」の宮ということになると思います。
 「笹ノ屋日記」(『菅江真澄全集・第10巻』)の笹ノ屋春ノ日記の八日〈文政六年正月八日〉に「けふなむ古四王ノ宮のとしみなれば、夜経(ヨベ)より人さはにみやごもりして、今朝よりまた、まうづる人もいといと多し。おのれ去年の正月(ムツキ)によみて奉りし歌あり、ふたゝびこゝにのす。〈改行〉ひろ前(マヘ)の雪のしらゆふそのまゝに手向る高志のおほきみの宮」と明瞭に記されています。
 「高志栞」以降の書誌には「古四王」は「こしのおほきみ」という言及が出てきています。
 なお、この和歌の歌碑が古四王神社境内に平成十年に建立されたそうです。
 『全集・第10巻』ー「水ノ面景」に「古四王」が何カ所も出てきていますが、ここでは「高志のおほきみの宮」をにおわせるような記載は見受けられません。同全集の「解題」によれば、この書誌は「文化八年〈1811〉夏以後の著書」であることを文化十年の著作の序文に載せているそうですので、「高志栞」以前の作品になります。
 同「解題」のなかに、「(補記:現在知られている《みずのおもかげ》)これとは別に同じ表題の《みずのおもかげ》が存在したようにわたくしは考えている。とあり、「水ノ面景」の書き損じに「高志王神社」の記事が少なくとも二通りある。〈略〉その文体は文化九年の日記形式とは異なっている。」とのことですので、『全集・12巻』の「裏書・貼紙資料」を見てみます。
 その一、《混雑当座右日記鈔》裏 ○水ノ面景 ○高志王神社条(コシノオホキミノカミノミマキ) 〈略〉亀が岡に古四王宮あり。古ハ四天王寺とて大寺もありて〈略〉。
 その二、《混雑当座右日記鈔》裏 ○水ノ面景 ○高志王神条(コシノオホキミノミマキ) 〈略〉亀岡に古四王宮あり古ハ四天王寺とて大寺もありて〈略〉
 記されている内容は、四天王寺にまつわることが主であり、「高志のおほきみの宮」に関する言及は見受けられませんが、「高志王神」と明確に記し、社名としては「古四王」と記して居るように思えます。
 『全集・第12巻』の「未発見本・未完成本解題ー三五・水のおもかげ 下」によれば、「《混雑当座右日記鈔》の裏書きに残されている二つの草稿は文政五(1822)年ごろの記載であろう。」とありますので、「高志栞」以降の記述になります。
 同「解題」に「真澄に自由な執筆をさまたげたのであり」とあります。書けないことも多かったのでしょう。

 また、『菅江真澄遊覧記4』(内田武志・宮本常一編訳 昭42初版・昭50第7刷〈1975〉東洋文庫99 平凡社)で「霞むつきほし」からの引用文の部分を見ると、表題が「かすむ月星」とあり引用部は「野をへて、霊亀山の峰にでて、茂る木立のなかにある古四王の堂に詣でる〈以下略〉」と現代文訳になっています。「古四王の堂」に「注」があり「能代市檜山の現檜山神社に合祀されている古四王は、従来、越王と書かれていた。開基は坂上田村麿といわれ、檜山城主安東愛季が再興した。『亀井』という眼病にきく霊泉水を有するのも、秋田寺内の古四王社と同様である。正行寺を別当として霊亀山と号した。〈略〉」とあります。
 「従来、越王と書かれていた」というのはいつの時代からなのかは分かりませんが、秋田寺内の古四王社を思うとき能代の古四王の堂を思い浮かべただろうと思います。

 あれこれと書きましたが、これは菅江真澄を「古四王は越王」とする説の大元のように扱うことに違和感があるためです。

 小泉蒼軒『新発田図志料』(新発田古文書解読研究会・解読 平19・2007)下巻の「五十公野町」の節中の神祠仏堂の項目に「古四王宮 山上に在 別当真言・高昌寺持(改行)正徳四甲午〈1714〉五月朔日より十日の内五十公野古四王開帳、浄念寺建替普請(改行)相傅て云う、大治四年〈1129〉六月十二日白光院毘沙門天古四王に奉る、此年堂建立、御祈願所也(改行)毘沙門天 太治四年〈大治?〉/古四王〈二行書〉、持国天 正中元年〈1324〉高田城中/開山立置、増長天 貞治六年〈1367北朝〉村松/城主塚村山上建立、広目天 天文和二年〈天文二なら1533〉信州/高山に建立」とあります。
 こういう資料が読めるのも、新発田古文書解読研究会の活動のおかげで、大変ありがたいことです。
 ちなみに、「山王権現 神主 日下部大和 延宝二甲寅〈1674〉五十公野山王宮御造立 御判田 六反七十弐歩  五十公野山王」
 「快津山昌寺 元禄十丁丑〈1697〉の書上に開基相しれず慶長八癸卯〈1603〉現住圓楡より今に三世 真言宗にて宝積院支配 御判田五反歩 万治二年〈1659〉五月二十一日 寒光公御料/貞享五辰〈1688〉五月佳に日 悠山公御判 古四王堂領 養洞院  相伝て云、大仁年中建立(本邦に大仁の年号は無い)」とあります。
 また「街談」の節に「元永元戊戌年(1118)、今の井地峯は越後国加治町、井地峯御下向有り、京都(改行)後光明院様御三男 白光院様七ケ年に御同所、天治元年(1124)御死去なり(改行)白山権現様奉る  光村廟向ひなり  山王持分なり(改行)〈略〉」
 「太治四己酉〈大治?1129〉年 白光院様御供山陽院様御死去に付、山王権現奉る(改行)〈略〉」
 「保安三壬寅〈1122〉年 白光院様京都より菅相丞御作、天神御持参御安置、天神(改行)山 天神堂御建立有、〈略〉」
 「太治四年(1129)六月十二日 白光院、毘沙門天古四王にたてまつる、此年堂建立、御祈願(改行)所也、此所天神山境に〆(して) 地蔵堂、右方金毘羅、高昌寺、天神、万海」の記載があります。
 これを読み解くことは私には困難ですが、古四王社には四天王のうち毘沙門天のみが祀られていたのかも知れないと思います。
 上杉景勝が毘沙門天を残して三像を持って行ったというのは、おかしいのではないかと思います。何故、毘沙門天を残すのか。むしろ、持って行くなら毘沙門天ではないでしょうか。
 新発田・五十公野の人達が、景勝や兼続を好ましく思えなくて、そうした話になったのかも知れませんが。
 また、「金毘羅、高昌寺、天神、万海」と並べて記されており、「万海」は現在下町公会堂に使われている万海寺のことかと思いますので、ここは古四王社の山麓の一の鳥居の近くでもありますので、かつて高昌寺はこの辺りにあって、そこから白蓮寺の近くに移ったのかも知れません。
 ここで、高志王神社の住所の五十公野4686が現在の地図ソフトでは五十公野保育園裏の神明神社を指すことが思い浮かびます。五十公野保育園は下町公会堂とも近いので、かつて昌寺はこの五十公野4686にあったのかもしれない、その由縁があって高志王神社の住所が五十公野4686になっているのかもしれないという想像です。
 あるいはここに記された「高昌寺」は龍昌寺の誤りなのかもしれません。

 さて、白光院様の話は、一種の貴種流離譚かと思いますが、似た話は「高志栞」にも日下部大和の言ったこととして「五条ノ道兼卿、越後国へさすらへ給ひて、この里の竜昌寺という寺におはしまして、〈略〉かの卿終焉に臨み給ひて、我レ身まからばなきたまを白山ノ神と斎(マツ)れ、〈略〉」とあって、白山神も出てきています。
 天神山龍昌寺〈五十公野4691番地〉には、禅宗龍昌寺縁起の祈念碑があって「開基 大江佐兵衛尉源朝臣満兼」が応永二年〈1395・室町初期〉に一宇堂を建立天神堂と号した、応永九年満兼公卒、云々とあることを、Web「新潟県北部の史跡巡り」に教えてもらいました。
 さて、『小泉蒼軒日録 上・下巻』(編集・石川新一郎、発行者・新津市 平6・1994)によれば「幕末期、越佐の地誌を研究して貴重な記録を残した小泉蒼軒は」寛政九年〈1797〉に生まれ明治六年〈1873〉に77歳で没したとのことです。
 『下巻』目次の明治四年に「新発田田中光盛より蒲原式内社につき教示方書状並びに蒼軒の意見」があり、そこに「古四王社ハ琴風と申俳人の記行に越王として大彦命と有之分正しと可有之歟、羽州久保田古四王ハ阿部比羅夫建立のよし申伝たりと承る、先相違ハ有之間敷哉」先年己れ古四王ハ越の王、祭神は阿部比羅夫ならんかと桂氏に話すれハ、祭神ハ大彦命ならんといえる説有未決」とあります。
 琴風が誰のことかは分かりませんが、蒼軒は「古四王は越王」ではないかとしているようです。

 平成28年11月になって『ふるさと五十公野』(郷土の友 平成26年3月)を知り、読むことができました。
 同書で、昌寺の所在地が「五十公野辰の尾」と知ることができ、先に記した法人登録の住所の問題にめどが付いたと思います。
 養洞院から昌寺への改号が明治2年とされていますが、これは疑問に思います。
 私が言うことではないのですが、文献をしっかり読込まれてまとめられており、関連事項への目配りも良く、五十公野を知る上で欠かせない一冊だと思います。

追記3 : 菅江真澄『高志栞』に関連して
大山宏『古四王神社の源流を尋ねて …祭神紛々聚訟の如き…』(『秋田郷土叢話』(昭九・1934)所収)に以下の記述があります。長くなりますが引用します。〈旧字は現行漢字になおした場合があります。旧仮名遣いはそのままにしています。〉
 それは、「一,はしがき」に続く、「二,所伝の祭神」の項目で「古来伝ふる所の祭神は諸君の説く所区々で、管見に触れたものを左に列記して見よう。」として「宝暦年中に成った、進藤重記の出羽国風土略記には、甕速日・□速日・経津主・武甕槌命(ミカノハヤヒ・ヒノハヤヒ・フツヌシ・タケミカツチノミコト)となっている。〈略〉近藤政家の郡邑記にも此の四神を挙げて、外に一社を神秘としてゐる。〈略〉また由利郡象潟町鎮座古四王神社の、安政二年平田鉄胤の撰文に係る碑には、祭神を風土略記と同じく四神としてゐる。〈□速日ヒノハヤヒの□は、火偏に漢の右側に似た文字、火偏の11画、音読みゼン・他。ユニコード:U+71AF、UTF-8:E786AF〉
 大彦命とする説は、雪能伊傳波遅(ユキノイデハチ)、植田村古四王宮の条に、越後国蒲原郡五十公野(カンバラゴオリイキミノ)古四王宮に関するその里の傳をあげて、大彦命であるのに、今は真言宗の寺で奉祀してゐるので、四天王としている。川田剛の明治十四年随鑾紀程には〈略〉この祭神を最も巧妙に按排したのは、小野崎通亮氏の齶田浦一名古四王神社考である。荒井太四郎氏の出羽国風土記は全く此の説に拠ったものである。〈略〉鶴ケ岡の人照井名柄の古四王考も、吉田東伍の大日本地名辞書も、藤岡継平の四王寺と異敵掃壌の関係も、越君の祖神大彦命としている。〈略〉
 次に以上の諸説と全く見地を異にしたものに遷らう。菅江真澄の花の真寒水には秋田城下久保田の城町は元和寛永のころ寺内村よりうつり来て、一町の人みな古四王を本居神(ウブスナガミ)として、朝夕釈薬毘文(シャクヤクビモン)をとなへて、正月の精齋も寺内七日の忌宮ごもりにひとしかりしが、いまは世におしうつりて三日三夜の齋みぞせりけるとあって、釈迦・薬師・毘沙門・文殊の四仏体としてゐる。
 また同人の雪能伊傳波遅、門田のさなへには、永禄元年の秋、植田小鼓の城主、大石誉九郎藤原定景〈略・補足:水瀬川の辺りの福島という村が河岸崩頽にあい、祀られていた古四王社も頽廃し神像もまろび出るありさまのところ、小鷹狩りの城主が木像を見つけて〉是は古四王権現の、そが一柱にこそおはしまさめとて〈略・補足:城に持ち帰り守護し〉小鼓ケ城の辰巳の隅なる処に堂をつくり安置まつりしは、いまの多聞天王の尊形これといえり。此の毘沙門天は四天王の其一柱ながら、茲に古四王とまをし奉りて日々繁栄参詣道もさりあへず賑ひたりしを云々とあれば、これは古四王は四天王であるが、ここには毘沙門天の一体をも古四王と申したといふのであるがこの四天王説は荒井の風土記にも僧徒の説として揚げてある。尚越後にも、出羽の庄内にも四天王説があった。越後のは既に述べて置いた。」と記して「二,所伝の祭神」を終えて「三,コシワウの言語学的観察」に進みます。
 大山論文は、古四王神社に関する必読の基本的な論文ですので、始めて読んだのは桑原の著作を読んで間もない頃になります。進藤重記も菅江真澄も小野崎通亮も分からない状態でしたから、読み流してしまいました。その後も、何度か読み返しているのですが、古四王の祭神について四神説・大彦命説・四天王説を取上げて経緯を示している程度の受け止め方であったように思います。
 この記事の記述にあたって、菅江真澄の「高志栞」とその前後の古四王神認識のあり方について検討していた後に大山論文のこの引用部分を読むと、「雪能伊傳波遅、植田村古四王宮の条に、越後国蒲原郡五十公野古四王宮に関するその里の傳をあげて、大彦命であるのに、今は真言宗の寺で奉祀してゐるので、四天王としている。」の五十公野古四王宮に関する記述は、まさしく『高志栞』の記述に出てきていることに気が付きました。
 『高志栞』との関係を確かめようと思い、国立国会図書館デジタルコレクションで『秋田叢書第六巻』(昭5・1930)の「雪出羽道・平鹿郡・九巻」の「本郷−植田村 門田のさなえ」を見ると「古四王宮」の項目があり、古四王宮はむかし水瀬川の辺りの福島という村の小高き地に鎮座していたが、水のために河岸崩頽にあい、古四王社も頽廃し、神像もまろび出て、破堂となったころに「永禄元年の秋、植田小鼓の城主、大石誉九郎藤原定景〈略〉此の毘沙門天は四天王の其一柱ながら、茲に古四王とまをし奉りて…賑ひたりしを云々」に関する記載があり、古四王が植田村に祀られるその後の経緯が記されて「また、古四王社は、雄勝郡益内(ヤクナイ)荘中村ノ枝郷下樺山村ノ古四王社、…。仙北郡小貴高畑村の古四王宮、秋田郡寺内高C水の古四王宮、山本郡寺内杉C水の古四王宮、なほ其他にも聞こえたり。」と古四王社が他にも在ることを記して「そもそも聖徳太子建立ありし護世四王寺、法隆寺四十八院の外にもいといと多し。」と記した後に「また越後国蒲原郡五十公野に古四王宮あり。其里の傅へには、〈略〉大彦尊をもて高志国を鎮護しめ給ひしゆえに、此尊を齋りて古四王とはまをす。またく此神は古四王にはあらず、越皇にておはしき。されど今は真言宗の寺にものし侍れば、さは申さふらはで、唯四天王を祭るとのみ申せば、恐事ながら、大彦尊の御勲功も世にしたがひてかくろひはてぬるこそ、ほゐにも侍らね、と俚人の語れり。」が記され、続いて高清水岡の古四王宮のたどった変化を述べ、植田の古四王の追加説明や聖徳太子と護世四天王寺のことや清水のある共通点などが記されています。
 『菅江真澄全集・第六巻・地誌U=雪の出羽路 平鹿郡』(未来社 昭51・1976)の当該個所にあたってみました。食い違いは見受けられません。〈秋田叢書では雪出羽道と記され、全集では雪の出羽路と記されています。〉
 平鹿郡の九巻の「本郷 植田村 門田のさなえ」の章節が、大山の取上げた「雪能伊傳波遅、植田村古四王宮の条」であり「雪能伊傳波遅、門田のさなえ」でもあって、植田村の「古四王宮」の項目の記事中に植田の毘沙門天の一体を古四王と申す件と五十公野古四王宮の件が記されています。
 大山は、秋田叢書並びに菅江真澄全集にあるような形で、植田村の章節をひとまとまりのものとして読んだのでしょうか。「雪能伊傳波遅、植田村古四王宮の条」と「雪能伊傳波遅、門田のさなへ」を別物としているようにも思えるのです。
 菅江真澄は、調べて見聞きした事柄を書き記していると思いますので、植田村の毘沙門天一体を古四王と申すことも、大彦命であるのに寺が奉祀して四天王としていることも、花の真寒水に古四王を本居神として朝夕釈薬毘文をとなへることも、みな記しているのだと思います。
 〈寺内の古四王宮に関して「釈薬毘文をとなへ」四仏を祭ることは小野崎通亮の『古四王神社考』にもありますので、菅江真澄が特別の事を記しているわけではないと思います。⇒小野崎通亮の『古四王神社考』を引合いに出すのはふさわしくないと思いますので、この2行を削除します。2021/12/27〉
 それはさておき著作「雪の出羽路 平鹿郡」は、未来社の全集第六巻の案内案内文によれば佐竹藩の正式の藩命を受けて着手した本格的な地誌編集の最初のものとのことで、文政七年八月(1824)から文政九年四月にかけて調査巡村し執筆されたもののようです。
 菅江真澄の「高志栞」の最初の項目は、是観上人の文政二年の高志路の旅日記を引用して記述したものですので、「高志栞」は執筆年は不明とのことですが文政二年以降の著作になります。
 「雪の出羽路 平鹿郡」は文政七年以降ですから、文政二年の旅日記に記されていた事柄が「雪の出羽路 平鹿郡」に載せられていても、不思議はないわけです。
 ここでも、菅江真澄が「古四王はこしのおおきみ」と記するのは、文政二年以降と言えると思います。
 藩命による地誌に、越後の事とはいえ「此神は古四王にはあらず、越皇にておはしき」を書き入れたことは、大変なことなのではないでしょうか。
 さて、「高志栞」の最初の項目は、是観上人が五十公野古四王宮について山王社の神主の日下部大和から聞いた古四王宮の祭神についての話に基づいた記述で「日下部大和ノ曰ク、〈略〉大彦ノ尊を、越ノ国ををさめしめ給ひしゆゑ、このみことを祭りて古四ノ王(コシノオオキミ)とは申奉る也。また、古四王にはあらず、越皇なり。されど今は真言宗の寺にてものすゆゑ、さは申侍らで唯四天王を祭るとのみ申せば、世こぞりてしかおもへりと語りぬ。」とありますので、『秋田叢書第六巻』から引用した「五十公野古四王宮」に関する記述と文言は異なっていますが同様の内容ですので、是観上人の高志路の旅日記に記された神主日下部大和の話が元になっていることは間違いがないと思います。
 ただ、「高志栞」には具体的に「日下部大和ノ曰ク」とあって「其里の傅」というような発言者の曖昧な記述ではありません。

 横山『磐舟』中の引用は「五十公野に古四王宮あり。其里の伝へに〈略〉大彦命をもて高志国を鎮護しめ給ひしゆえに、此命を斎き古四ノ王とはまをす。全く此の神は古四王には非らず越王にておはしましき。されど今は真言宗の寺にものし侍れば、さは申さふらはて唯四天王を祭るとのみ申せば、恐き事ながら大彦尊の御勲功も世に随ひて隠ろひ果てぬるこそほかにも侍らぬと俚人の語れり」とあります。
 私はこの引用文を横山が『高志栞』から引用したのものと受けとめていたわけで、菅江真澄全集の「高志栞」と横山の引用文の違いが気になっていました。
 秋田県立図書館のレファレンスサービスに昭和30年代に「高志栞」がテキスト化されていたか、印刷物として読むことが出来たかなどを問合せさせていただいたりもしました。そのようなテキスト・印刷物は見つけられませんでした。
 この引用文は、菅江真澄全集の「高志栞」ではなく、「雪の出羽路 平鹿郡ー植田村」の五十公野古四王宮の記述と言い回しまでそっくりです。ですが「雪の出羽路 平鹿郡ー植田村」は「此神は古四王にはあらず、越皇にておはしき」と「高志栞」と同様に「越皇」になっていて、横山及び桑原が記す「越王」ではありません。

 横山・桑原・他が引用した「五十公野古四王宮」の記述は、「雪の出羽路 平鹿郡ー植田村」のものと思われます。
 「雪の出羽路 平鹿郡ー植田村」の五十公野古四王宮の記述を、それと知らず『高志栞』と思っていたのでしょうか、取り違えたのでしょうか。
 何故、『高志栞』という文献名が取り上げられたのか、このあたりが釈然としない思いです。
 文献の確認はどのようになされたのでしょう。
 「植田村」の五十公野古四王宮の記述には、「此神は古四王にはあらず、越皇にておはしき」と言ったのは神主の日下部大和であること、及びその事を是観上人による高志路の旅日記から引用して記していることの情報が無いわけですので、横山や桑原・他が「此神は古四王にはあらず、越皇にておはしき」という記述を菅江真澄の見解と受取るのも頷けなくはないと言わざるをえないのでしょうか。】

【追記4: 『高志栞』について 2020−06追記
 平成30年秋〈2018〉に、桑原正史氏が新発田歴史図書館に寄贈された古四王研究関連資料を拝見する機会がありました。
 資料の中に、諸方の研究者と交わした封書・葉書がありました。
 その中に、横山貞裕からの昭和52年1月〈1977〉消印と同3月消印の2枚の葉書がありました。
 文面を見ますと、桑原正史からの『高志栞』の所在についての問合せがあったことに対する返事と思われます。
 1月の葉書は、〈『高志栞』をどこで見たのだったか〉国会図書館か秋田図書館か、忘れた、というような内容。
 3月の葉書は、『高志栞』は国会図書館の菅江真澄未刊文献集の中の著作年月不詳の部にあり、という連絡で、図書の分類番号が記されていました。
 その分類番号で、現在の国会図書館の蔵書検索をすると、『菅江真澄未刊文献集 一』(内田武志編著 日本常民文化研究 第六五 日本常民文化研究所刊 昭28・1953)が表示されました。
 横山の示した情報がこの本のことであったら、その目次に「年次不明の著書」・・・九四頁、の項目があります。
 横山の告げた「著作年月不詳の部」というのが、ここのことであれば、そこに「高志栞」は紹介されていますが、わずか6行のみです。
 この本の他の部分にも、『高志栞』の全集18行にあたる記載は見受けられません。
 『菅江真澄未刊文献集 二』(内田武志編著 財団法人 日本常民文化研究 第六七 日本常民文化研究所刊 昭29・1954)のほうには、「菅江真澄年譜考」の部に「良寛上人」「越後の旅」の項目があり、「高志栞」に関連する記述がありますが、『高志栞』の全集18行にあたる記載は見受けられません。
 桑原正史は、なんとかして文献「高志栞」の内容を直接確認しようとしたのでしょうが、古四王関連の著作の時代には、それはかなわなかったようです。古四王神社研究にとって、本当に残念なことでした。
 桑原が、横山に問合せをしているのですから、桑原も横山は『高志栞』から引用していると考えていたと思います。
 ですが、「高志栞」を確認していなかったので、引用文に「高志栞」からの引用と記さなかったのでしょう。
 横山が取り上げた『高志栞』は、谷川や井上に影響していったようです。
 横山は、全集18行分の『高志栞』の全体を読んではいないと思います。
 この追記4は、迷った末に、あえて記すことにしました。

〈補足: 小林存「古四王神社から嫁いぶしへ」(所収『高志路 第1巻 第7号』 昭10・1935)に「二度三度火災後の假堂だという玩弄物のやうな祠」という記載があるので、昭和10年に火災後の假堂であったということであれば、現在の社殿はこのあとに再建されたということになります。地元の方にお聞きしましたが、現在の社殿が何時建てられたか確認できていません。〉

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