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探訪記録 新潟 8
五泉市下戸倉(旧・村松町) − 古志王堂
桑原リスト(8)中蒲原郡村松町下戸倉・古志王堂
《探訪の準備》
*木村宗文「村松の古志王社」による下戸倉に関する記述は「下戸倉のものも現在は熊野神社に合祀されているが、城山の下を通って城入川に沿って少し入った沢にあったといわれている。元禄二年の『寺社山伏堂宮神木開基年数改帳』には 一 越王大権現 安出村長門守守ル 承暦三巳未より元禄二年迄六百拾壱年 と記されている。現在その地には昭和四年十月再建と記された六十センチ程の小さな石の祠があり、その中に高さ二十九センチ程の武官と思われる人物の半身像が納められている。元来立像であったか座像であったかは分からないが、稚拙な感じのこの像はおそらく大彦命を形どったものではないかと思われる。向きは北よりやや西向きである。」とあります。
《探訪の記録》
*2005年10月1日 村松町訪問。別所のあと下戸倉へまわる。
集落の男性の方に“城山の下を通って城入川に沿って少し入った沢にあったという石祠”についてお聞きしたところ、「今でもある。道路付け替えで移転している。」とのことでした。
別の方からは「道路はもっとまんなかあたりを通っていたもので…、(石祠は以前は)沢のふちの近くにあった」とお聞きしました。
このことについて私は、道路は今は山に近い場所にあるが以前は山と川の間の中央付近にあったのだろうと受取りました。基盤整備事業で、道路を山側に移すことで田圃を広くとれるようにしたのではないかと思います。
石祠が「城入川に沿って少し入った沢」にあったとありますが、「少し」と言うのはどのくらいか「沢」とはどのような状態なのか分かりかねますし、国土地理院の地図上では城ノ入川〈地図の表記による〉に流れ込む沢は記されていません。基盤整備事業の中で沢がなくなったのかも知れませんが、集落の方が「沢のふちの近くにあった」と言うので、「沢」というのは城ノ入川の流れを指すと考え、「沢のふちの近く」というのが城ノ入川の淵になっている所のそばのことだろうと思いました。
城山を目指し、城山を北側から東側に回り込むように続く道を進むと、舗装工事をした道路とのT字路の近くに空地を設けて石の基壇に石祠が祀られてありました(写真:左)。石祠の中には木彫りの上半身の人形がありましたが、顔かたちも判然としない状態でした(写真:中)。
T字路側の橋から石祠が祀られてある場所を撮った写真を載せます。右下の赤
○
が石祠の場所です(写真:*右)。
老婦人が像について「オバゴドウ」というようなことを言っていたのですが、なんのことなのか分からないので記しておきます。
石祠からさらに城ノ入川を上流に行くと山が迫り対岸が山になる辺りになると、川に淵がありましたので、この近くに以前石祠があったのかもしれないと思いました。
昼になり一旦下戸倉を離れて、戻ってから熊野神社に行ってみましたが、古志王に関する情報は得られませんでした。
左: 石祠 中: 石祠と木像 *右: T字路の橋から道路脇空地の石祠を望む
*2007年7月15日 再訪。
石祠は、ほたるの里という小さなビオトープが設けられた近くの新たな場所に移されて祀られていました。
《地図 記号□石祠・新: 石祠の新しい場所、 ◎写真:*右・写真撮影位置、 △: 2005年10月の石祠位置
ピンのマーク:熊野社 地図:カシミール3Dの解説本の地図》
《 地図: マークは2005年10月に石祠があった場所。その右に川に向う道路が出来ている。川に架かる橋から*右:写真撮影。
道路が川から離れて作られている。石祠は城山の東から北西の集落に近い新しい場所に移された。 》
左: 道路脇のビオトープ 右: ビオトープの左側に祀られた石祠
《探訪の整理》
『村松町史 資料編 第4巻・近現代ーU町と村の姿』中の下戸倉村の地誌(明治15年9月)の「堂宇」項に「古志王堂ハ本堂ノ西ニ向ヒ東西弐間南北壱間三尺境内ハ除税反別弐畝六歩ニシテ木像古志王菩薩ヲ安置ス」とあります。
『村松町史ー資料編ー第4巻・近現代』の神社明細帳(抄)とネットの『新潟県神社寺院仏堂明細帳』からの情報によると、「下戸倉村字城ノ口(千五百七番 弐百拾坪)の無格社熊野社」は「祭神:伊弉冊(ママ)尊、由緒:創立年月不詳初メ字城ノ入川ノ沿岸ニ鎮座ノ処洪水ノ為破壊ニ付寛永元年当地ヘ移転ノ旨当村ノ産土神タリ、氏子戸数:弐拾八戸、等」が明治十六年八月の日付であり、用箋枠外に「大正五年十二月二十一日同字無格社天神社ヲ合併許可 大正十四年九月十一日合併終了ノ旨届出」とあり祭神項目に菅原道真の朱筆追加があります。
古志王や他の神社の合祀記事はありません。
『新潟県神社寺院仏堂明細帳』ネットで「下戸倉村字城ノ口(千二百十四番 六拾六坪)古志王堂」を見ると「本尊:木像古志王菩薩、由緒:創立不詳
従前官有地
(
朱線
取消)、堂間数:奥行弐間間口壱間三尺、
受持僧侶無之
(朱筆追記)、信徒人員六拾四人 明治十六年八月」とあります。用箋の一番右端に堂宇明細帳とあり朱線で消されています。
菩薩ですし社ではありません。上戸倉の旧長寿院境内の石祠の中にも仏様が納められていたとのことですし、民間信仰の古い形なのでしょうか。
『村松町史ー資料編第一巻』の「元禄二年(1689) 寺社・山伏・堂宇・神木開基年数改帳」によると、先ず寺院に関する宗派ごとの記載があり、それから「山伏」の項目の後に「社人」の項目がありその中に「下戸倉村・白山権現 上戸倉村・長寿院持 応永十癸未年… 」「同所・熊野権現 安出村・長門守持」の記載があります。
この記載からずっと後の方に「下戸倉村・越王大権現 安出村・長門守守ル 承暦(1079)三巳未年より元禄二年迄六百拾壱年」の記載があります。創立が平安時代にさかのぼることになっています。元禄の頃に、「こしおう」と発音されているもようで、越王としるされ大権現と続いています。
この「越王」の記載の幾つか後に「下戸倉村・白山権現 安出村出羽守守ル」とあり、また白山権現が出ています。別の社なのでしょうか。
『資料編第四巻』神社明細帳(抄)では「下戸倉村字城ノ口(千五百六番二 八拾三坪)の無格社白山神社」の「由緒:応永十癸未年創立」とあり、他の白山社は見当たりません。
『村松町史 上巻』の「古志王社」で執筆者木村宗文は「『中蒲原郡誌』は、下戸倉城ノ口の古志王堂の由緒として『創立年代不詳、往昔より大字上戸倉曹洞宗長寿院の寺内鎮守として大彦命を奉祀せるものにして世人の仏堂視するは誤れり』と記している。上戸倉の古志王社と混同した内容のように思われ」云々と記しています。
先の「下戸倉村・白山権現 上戸倉村・長寿院持 応永十癸未年… 」という記述もありますので、記しておきます。
さて、『平成の祭』では、「熊野社」は 「祭神:(主)伊弉冊尊(このように記されています)、鎮座地:村松町大字下戸倉1507番地」とあり数字が同じですので、明治16年の所在地と同じ所だと思います。熊野社の現住所は五泉市下戸倉1507です。
私が使用している有料のネット地図やグーグルマップでは現在の下戸倉の番地に1200番台が見当たらないので、古志王堂の明治の位置が分かりかねます。
ただ、探訪記録を記述している現在では、古志王堂の旧所在地は地図に*右:写真撮影地の◎印を付けた辺りかもしれないと思っています。
探訪時の国土地理院地図(カシミール3D解説本地図)と現在の地図を見比べると、城山東側から南に行く道が城ノ入川のそばの位置から山側に変わっていて、その道から城ノ入川を横切っていく道(*右:写真の道)は当時の地図には無く今の地図には記入されています。
城ノ入川のそばを通っていた道を付け替え、新たに山際になった道から川を横切る新しい道を付けた、その工事の関係で古志王石祠を移転したのでしょうし、*右:写真に写っている道路の左脇に伸びているU字溝が「沢」の痕跡かもしれませんので、この辺りにあったのではないかと思います。
そうすると「城入川に沿って少し入った」という位置関係とも合います。
しかし、熊野社もかつて城ノ入川のそばに鎮座していたとのことですが、何故川のそばに堂が置かれたのでしょうか。
上戸倉の古志王社を「『水』の神様と思っている人がいる」とのことと関係があるのでしょうか。
堂宇をともなって存在した古志王堂が何時何故に石祠になったのか、何時熊野社に合祀されることになったのかは確認できていません。合祀された後に石祠を残して祀っていたのかもしれませんが。
『神社明細帳』の熊野社に古志王合祀の追記が無いということは、合祀は戦後のことなのでしょうか。
ともかく、明治の頃は下戸倉村字城ノ口千二百十四番に存在した古志王堂は、その後熊野社に合祀され、旧地に石祠を残していたが、基盤整備(平成)にともない移転され、現在に至ると言うことのようです。
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