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所在地情報検討記録 新潟 12−1   


佐藤リスト=「コシオウ信仰研究序説」(佐藤禎宏 昭61・1986)

 佐藤は新潟県の古四王神社については、既出の8社(岩船郡朝日村早稲田・同朝日村岩沢・同神林村松沢・新発田市五十公野・東蒲原郡津川町・中蒲原郡村松町別所・同村松町下戸倉・同村松町上戸倉)に、次の2社を加えた計10ヶ所を記載しています。
 *三条市上保内 :古四王社
 *西頚城郡能生町川詰 :古四王神社
 三条と西頚城の情報の出所はどこなのだろうか。
 佐藤のあげている文献リストのすべてに眼を通せたわけではありませんが、かなりのところを見ていると思うのですが、上記の2社を古四王所在地として記載している資料が分かりかねますので、どのような経緯・根拠で所在地としているのか分かりません。
 所在地とした資料に基づいた検討が出来ない状態です。

※変更報告 : 2020年12月
 佐藤リストの三条市上保内と能生町川詰のコシオウ所在地情報について、記事「所在地情報検討記録 新潟 12」として一つの記事で二箇所の所在地情報を取上げる形で、2017年10月に公開いたしておりました。
 2020年9月に能生町川詰を訪ねたことで、能生町川詰に関する記事内容に追加が必要になり記事量が増えたこともあり、二箇所の所在地情報を二つの記事に分けることといたしました。
 三条市上保内についての記事を「所在地情報検討記録 新潟 12−1」とし、能生町川詰についての記事を「所在地情報検討記録 新潟 12−2」としたいと思います。

 かつての「新潟 12」の三条市上保内の古四王社についての記事部分を残し能生町川詰の部分をはずしたこの記事を「新潟 12−1」としました。
 次の行からが本文です。

 *さて、三条市上保内に古四王社は見当たりません。
 『平成の祭』データの三条市67社(上保内2社)に見当たりません。
 『三条市史・資料編第五巻ー近現代一』の三条の神社と寺院の章に見当たりません。
 『同・資料編第八巻ー民俗』信仰の章の神社の節にも見当たりません。
 念のため、『神社明細帳』にネット検索であたってみましたが、やはり見当たりません。

 三条市上保内に式内社と言われる「小布勢神社」があります。
 『神社明細帳』によれば、神社名の表記は「小布施神社」で、旧村社小布施神社の鎮座地は南蒲原郡上保内村字布施で、祭神は大比古命、誉田別尊ですが、明治四十二年に神明社と十二社を合併し天照皇大神、大山祇命が追記されています。由緒に「延喜式神名帳ニ記載有之社ト口碑ニ申傳ヘ今ニ鎮座ノ地方布施谷ト称シ候」とあります。
 『越後野志-巻九・神社』(小田島允武撰著 越後野志刊行会 昭11・1936)で小布勢神社を見ると「祭神(改行)姓氏録云、布施朝臣大彦命之後也、新撰姓氏録曰、布勢朝臣阿倍朝臣道祖(改行)倭名抄云、小伏(改行)小伏郷上保内ノ伏谷村ニ在、今所祭神八幡大神、」とあり、『越佐叢書・第六巻』(昭49・1974)収録の「神名帳考證」(度会延経著)に「小布勢神社 倭名抄云、小伏、右足伏雷。姓氏録云、布施朝臣、大彦命之後也。」とありますので、「大比古命」は大彦命(大毘古命)で、布施(勢)氏が大彦命を始祖として祀っているようです。
 『越佐の神社ー式内社六十三』(花ケ前盛明 平14・2002)には、より詳しい情報及び解説があるなかに、「旧社地は現在地より東南方向約1、5キロ山へ入ったところである。そこは「御布勢神社」と称しており、今日も神廟、社殿、神官木戸家、別当真楽寺の跡が残っている。天正二年(1574)、信託によって現在地に遷座したと伝えている。」「誉田別命については、『温故之栞』に源義家が奥州征伐の折りに参拝し、まつったものと記してある。」「江戸時代以降、八幡宮とも称されてきた。」等も記されてあります。

 小布勢神社が大彦命を祭神とすることで、この社を古四王社としたのでしょうか。
 大彦命を祭神とする古四王神社が見受けられますが、大彦命を祀れば古四王神社というわけではないのは言うまでもないと思います。
 小布勢神社の鎮座地住所は、三条市上保内丙1288。神社名の読みは、『平成の祭』では「こぶせじんじゃ」。

 今のところ、上保内の古四王神社については、分かりません。

*2005年10月15日
 小布勢神社を訪ねています。

左: 神社前の狭い道路から写す      中: 鳥居・小布勢神社の社標       右: 社殿

  


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