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探訪記録 新潟  7   五泉市上戸倉(旧・村松町) − 古志王社


桑原リスト(7)中蒲原郡村松町上戸倉・古志王神社

《探訪の準備》
*木村宗文「村松の古志王社」による上戸倉(カミトグラ)に関する記述は「上戸倉の古志王社は長寿院の旧境内地の見晴らしの良い山腹に存在する。以前のものは第二次大戦中に焼失したといわれ、現在は小さな石の祠と堂が存在するにすぎない。向きは南向きである。堂の中には古峯神社のお札と万延元年の金毘羅権現の棟札がある。金毘羅権現は明治の豪農馬場家が祠っていたもので、後に古志王社に合祀されたものと伝えられている。『大宮神主家伝留書』には『社地山之内東西北五拾間余』『末社金毘羅近来之勧請』と記されているが、その広さは現在では想像できない。」とあります。これが上戸倉古志王社に関する全文です。
 この情報と地図を頼りに行ってみることにします。

《探訪の記録》
*2005年10月1日 村松町訪問。別所、下戸倉のあとで、奥まった上戸倉へ。
 上戸倉には集落の地図看板があり、鳥居マークに古峰神社と書かれた場所があるので向いました。
 植林されたものと思いますが杉林の山の麓に赤い鳥居を見つけたので、そこから登ってみました。
 道なりに進むと、瓦屋根の一間半四方程の御堂があり、奥の壁から出窓状に出された棚に古峰山と記された天狗面の扇形の板額が掛けてあり、御札を納める宮が二つあり一つには古峯神社の御札が納められているのが見えもう一つの中は見えなく、そして文字を判読できない棟札が立てかけてあります。
 御堂の裏手にひっそりと石祠と灯籠の残欠がありました。石祠には小さな厨子のようなものがあり扉が壊れていて中には何も入っていません。
 これなのだろうか。
 杉林で暗く見晴らしはありません。この林は植林だと思いますが、植林以前の山はどんな様子だったのだろうか。
 集落に戻って、道路から入っていって小高くなった所にある長寿院を訪ねました。
 ご住職にお話をお伺いすることができ、古志王社は長寿院の旧境内地にあった、長寿院は250年程前に焼失して移転した、というようなことをお聞きしました。
 もう一度古峰神社の在る山に戻り、旧長寿院の跡地を探せないかと登り道を探し、小さな沢の側から登ってみようとしたところ、蜂の羽音がしたので断念しました。

 左: 山裾の鳥居  中: 御堂ー古峯神社  右: 石祠

《探訪の整理》
 長寿院ご住職からの葉書の内容を先ず記します。
 長寿院様に私が杉の山の中で見たものが古志王社かどうか確認をさせていただきたく、木村「村松の古志王社」のコピーと撮った写真と地図を添えて手紙を出させていただき、もし違うようであればその場合にはぜひご連絡をいただきたい、とお願いをいたしましたところ、ご住職の金山様から平成18(2006)年2月に同封した返信用葉書でお返事をいただきました。
 それによると「何しろ昔のことになり、村人の語り継ぎを根拠にするしかないですが、寺は今から247年以前當寺14世の焼火です。その旧境内には祠があり、屋根ぶきであったとのことですが、寺と共にお堂も焼失し、裸の状態のままだった為、馬場家の鎮守の方に移転したとのことです。あなたの写真(石祠)の中には、20p程度の仏様が入っていたと伝えられています。「寺屋敷」という場所は、写真の杉林ではなく、低木地で今とは比べようのない見晴らしがよく、村内からは寺もお堂もとてもよく見えた所に位置していたとのこと。しかし、この祠のご神体が何者であったのか、…については村内の人々もよく知らなかったのではと思います。多分「水」の神様ではと今でも思っている人がいます。元来は現在の道からではなく、あの杉林の右より順々に石段で寺まで行くという通路でありました。」とのことです。
 ご住職の情報によれば、「(古志王社は)馬場家の鎮守の方に移転」とのことですし「『水』の神様」と思っている人がいるとのことですので、「金毘羅権現」と共に祀られたことの反映かもしれませんが、その場所は「以前のものは第二次大戦中に焼失」とのことですので、古峯神社で通っている今の御堂や石祠の場所が以前の場所かどうかは不明です。
 集落地図看板によれば馬場姓の家は上戸倉には何件もあり、古峯神社への山道の入口付近にも馬場家があります。「明治の豪農馬場家」を調べると何か分かるかもしれませんが…。
 古峯神社のある山は上戸倉集落の西側にあるので、古峯神社ヘの道より北に位置する石段のある旧道を探せば寺の旧境内が分かるのではないかと思います。
 探しに行くことなく今日にいたっております。

 『村松町史 資料編第四巻』の「中蒲原郡寺院明細帳(抄)」と『新潟県神社寺院仏堂明細帳』web検索で長寿院を見てみると「上戸倉村字砥ノ入(千三百五十八番 八百三拾壱坪) 曹洞宗大源派 村松上町安養寺末 長寿院」とあり由緒の項目には用箋に貼紙して「明應(応)六年(1497)創立、開山ハ本寺二世蘭翁タリ、享和元年(1801)十二月堂宇焼失文化元年(1804)再建従前除税現今官有地」とあります。貼紙の下の届出時の由緒内容は不明です。
 古志王社の置かれた年代と寺の創立年の関係も分かりません。
 また、『明細帳』による享和の焼失は205年前(2006年当時)となり、247年前は宝暦年間になるので、焼失は1回ではないのかもしれません。
 『村松町史 資料編第三巻 近世U』の「寺社書上」に寛延三年(1750)の寺社調べがあり、それによると長寿院の創立は永正拾六年(1519)とあり、本寺開山太源派村松安養寺三代蘭翁和尚、当年迄十四世とあります。
 『村松町史 資料編第一巻』の「元禄二年(1689) 寺社・山伏・堂宇・神木開基年数改帳」で「開山安養寺三代蘭翁 永正拾六年」とあります。
 明治の修正がある明細帳では、三代が二世になって開山年が22年早くなっています。
 長寿院14世時の焼失とすると、寛延三年の当時が14世とありますので、この調べ書き以降火災に遭ったということになり、寛延から宝暦と続くので247年前の火災という情報は誤りではないように思えます。
 また、この書上げに長寿院の「寺内鎮守 小子王」と記されています。
 「こしおう」と発音されていたのは間違いないようです。
 村松地区で「古志王」以外の江戸時代の表記にであいました。
 『神社明細帳』では、上戸倉に古志王社も金比羅神社も古峯神社も見当たりません。〈1行追記〉

 上戸倉の古峯神社の住所及び隣接の古志王社と思われる石祠の住所は不明です。その山の名前も不明です。
 調べる課題が多くあります。
 長寿院の現住所は、五泉市上戸倉1358です。

《 地図: 古峯神社 道路をはさんで東側に長寿院 》  カシミール3D 解説本の地図に図形記入


 また、「明治の豪農馬場家」については、『村松町史 下巻』の「表56 村松郷における地価4千円以上の所有者」(表は明治21年から昭和4年まで)に上戸倉の馬場氏も載っていますが、『資料編第四巻』の「昭和8年地主別所有地賃貸価格調査(村松町地内関係抜粋)(抄)」に馬場氏の名はありませんし「村松郷地主同盟会名簿」(昭和4年)にもありません。そういうことから木村氏はわざわざ「明治の豪農」とされたのではないでしょうか。

 さて、「緑豊かな山々と清流に包まれた村松町」と紹介されていた村松町は新津丘陵の東側で山地に入り込んだ新潟の平野部分の奥まった場所にあります。
 阿賀野川が五泉市の馬下より新潟平野に出ることになりますが、阿賀野川の南側の支流早出川や能代川(小阿賀野川に合流)の扇状地を含めて、山地に入り込んだこの平野部分が形成されているように思えます。
 上戸倉は村松町市街地の南にさらに奥まった、能代川が山地から出た場所の山間の集落で、下戸倉のさらに奥にあります。
 また、『新潟地名新考〈下〉』(小林存 平成16(2004):縣内地名新考(昭和25)改題)「戸倉と戸石」の項目は「岩をクラということは地形名の条で話した。戸倉という地名が境界(戸)である石塚の所在地であったことは、『地名の研究』の説と相表裏して絶対に疑いはない。」として「上戸倉・下戸倉」は「地形もまた合う。」と記している、そういう場所になると思います。

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