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探訪記録 新潟  6   五泉市別所(旧・村松町) − 古志王社(神明宮に合祀)


桑原リスト(6)中蒲原郡村松町別所・古志王神社

《探訪の準備》
*桑原正史『古四王神社の分布』に取上げられている梅田始の「民間信仰とその分布 村松の石仏、石塔を中心として」(『郷土村松 第6号』昭45・1970)を県立図書館でコピーしました。
 著者は「石仏、石神の信仰とはどのようなものだったのだろうか。」「その前に石仏、石神の信仰に大きな影響を与えてきた寺院、神社の一覧表を書いてみたいと思う。そしてこの表が村松の信仰分布の理解の一助にでもなればと思っている。」と443の寺社の一覧表を示しています。
 443の寺社は全部現地を確認したもので、廃絶したものの中に跡地を確認できないものが数カ所あったとのことです。
 この労作の中に、下戸倉の古志王堂と別所の神明宮合祀の古志王神社が記載されています。

*同じく桑原の著作に取上げられている木村宗文の「村松の古志王社」(『村松郷土誌 第2号』昭51・1976)に「古志王社は越の王を祀った神社であるという考え方である。だが古志王社を直ちにこの様に結論づけるには余りにも研究の蓄積がなさすぎる。また各地の古志王の民俗学的調査も不十分であり、仏教との関係も必ずしも明瞭ではない。こうした中で古志王社を越の王に短絡的に結びつけるのはきわめて危険な事ではないかと思われるのであるが、地域的にはほとんどないとされる阿賀野川以南の村松にも古志王社が存在するので、それについて若干紹介しておきたいと思う。」と言葉は強いけれどもまっとうな表明をされています。
 そして別所の古志王社について「〈下線は当方による〉現在神明宮に合祀されており、『古志王大権現』の額が神明宮の拝殿に掛けられている。合祀の時期は必ずしも明瞭ではないが、神明宮に明治八年五月十八日の棟札があるので、大体この頃と考えられる。神明宮に向って左手にわずかの空地が存在するが、以前はここに古志王社が建っていたものという。その規模については、安出の吉井神主家に伝わる『大宮神主家伝書留』(年代不詳)によって『社地立拾間横七間御除地』と知ることができる。祭神は大彦命といわれ、高さ約二四センチのそれらしき座像が存在する。位置は別所の部落を臨む山腹にあって、真北よりやや西向きに建っていたと思われる。」の記載があります。上戸倉と下戸倉に関する記載についてはそれぞれの探訪記録で触れます。
 木村宗文は『新潟県史・通史編1』(昭61・1986)の執筆担当部分の中の「第7章第2節」の「神宮寺と古四王社」の項目でも「古四王神社が古代に越の王をまつったものであるとはいいきれず、」と記しています。
 両著者が書名をあげている『中蒲原郡誌』の『中編』(中蒲原郡役所 大4・1915)の中の「村松町誌・第五編郷土史」の項目に「往昔大彦命が北陸を綏撫し給ひし時は此山道を辿りて會津に出でまししより今に古志王社が附近の村落に齋き祀らるる所以なれば本町の開発は極めて遼遠なりと謂ふものあり、云々」とあります。
 村松の社は「古志王社」の文字で記されています。

《探訪の記録》
*2005年10月1日 村松町訪問。
 国土地理院・2万5千分の1地形図には、別所に2ヶ所の鳥居マークがありますので、どちらかではないかと訪ねていきました。
 別所の集落内の道路を行くと、山にむかう石段があり、石段の上の鳥居に神明宮の額があがっているので、ここであろうと鳥居の先の石段をさらに登ると山の中腹の平坦になった場所の奥まったところに社殿がありました。
 拝殿には確かに「神明宮」の社額と文字が明確ではありませんが「古志王大権現」であろう社額があげられていましたので、この社で間違いないようです。
 拝殿後方の本殿は斜面にそってやや高くなっています。
 社殿に向って左側には空地も存在していて、神明宮規模の社殿が建てられる広さがあります。
 空地の端から山に続く小道があります。
 集落の方に他の神社についてお話を聞くと「稲荷神社で、神明宮からも行かれるが別のところから行った方が良い」とのことでした。
 神明宮の空地からの山道が稲荷神社に続く道なのだと思いますが、確認はしていません。
 神明宮の在る里山の北側に山上に続く道があり、山頂に赤い鳥居と素朴な社殿がありました。
 社殿は北面して、別所集落の北側の家並みを望むことができ、北側集落からも眺められます。
 神明宮に隣接する空地よりこちらの場所を古四王社と言われても違和感が無いと思いました。

 左上: 神明宮の参道石段  右上: 参道と神明宮拝殿  左下: 横の空地からの拝殿・本殿  右下: 稲荷神社

*2007年7月15日 再訪。 
 神明宮の祭礼日がわかれば、その日に訪ねて拝殿内を確認できると思ったのですが、地元の方によれば「青年団もなくなり、祭りもないと同様で、正月・春の仕事始めに(社殿の扉を)開けて集まるくらい」とのことでした。
 拝殿の社額は、やはり明瞭ではないのですが、古四王大権現ではないようですので、古志王大権現なのであろうと思います。

《探訪の整理》
 『村松町史 資料編 第5巻・民俗』(村松町史編纂委員会 昭54・1979)の「W 別所の生活と伝承 八、信仰と俗信」によると、〔〈下線は当方〉「現在、別所の鎮守様は神明神社であるが、もとは古志王様、若宮様、お諏訪様の上・中・下、稲荷様、カナグラ(寒倉)様の七社を、それぞれの組の鎮守として祀っていた。明治十四年にそれらを合祀したので、各社の古い祭りのようすは明らかでない。ただし合祀ののちも、旧社に供物を上げる程度のことを続けているところもあり、また稲荷様は元の地に戻して祀っている。」〈略〉「別所には虚空蔵様を祀っている。柳津の虚空蔵様と兄弟であるという伝承もあり、その二体が別れた所というので別所という地名となったという地名伝説となっている。」(柳津の虚空蔵尊のほうにそのような伝説はあるのだろうか?)
 神明神社の項目に「…明治初年ごろに合社の令が下されたが、徹底されなかったので、明治三十年ごろ再び出された。しかしここ別所では、明治初年のときに徹底された。見聞にまわってきたのは加茂の役人で、小池道弘である。この人は明治六年ごろから役人をしていて、よい人だったという。〈略〉稲荷様は神明神社の上の方にあった。古志王様は、現在の神明神社の社殿のすこし左側にあって、その場所は今では広場になっている。」とあります。
 古志王神社の項目に「…古志王神社には、昔から新津・加茂方面からも詣る人がいた。昔は蒲原郡と沼垂郡とで神社仏閣が四百五十くらいあった。これを管轄していた役人が、この古志王様がその中でも一番有名であるといったという。古志王神社は、日本武尊が東北征伐のおりに家来であった、大彦命を祀ったものといわれる。勝負の神様らしい。また、たたりの神様ともいわれている。〈略〉また、古志王様はいたいかゆいところを治してくれる神様で、手を合せて来ると治る。礼詣りもする。」とあります。〕
 「管轄…役人」とは、明治の神社行政、神社明細帳に係わる役人なのでしょうか。そうであれば、コシオウに思い入れが強そうな印象です。加茂の役人小池氏でしょうか。

 また、「屋敷神」の項目の中で「〇〇□□宅〈名を伏す〉の金華(キンカ)様は耳の神様である。穴のあいた石に紐を通して下げておくと、耳の遠いのが治る。お礼の供えものは、つぎ布である。四月十四日がお祭りで、安出の◇◇さん〈名を伏すー太夫様〉が幣束をとりかえる。災いの神といい、災難をのぞく。遠くからも人がお参りに来る。」とあります。
 古四王神社を耳の神として祀り、腕に穴を開けて紐でつるすようすは各地でみられることであるので、「屋敷神」の「金華様」部分を引用しました。
 なお、『同書』の「T 伝承の生活―文化伝承一信仰」中の「屋敷神」の項目で千原集落の屋敷神を取上げ、その中にも「キンカサマ 耳の神様で穴のあいた石を持ってお参りに行くと良いと言われている」の記述があります。

 「W 別所の生活と伝承」は、「一、二の集落を十分に調べ、町史民俗編の見本になるようなものを、作って欲しい」という依頼によって、井之口章次氏等のグループの調査(昭和51年)によって編まれた別所の民俗誌です。
 記事「所在地リストについて」の「月光リスト」で「国学院大学民俗学研究会による新潟県の1ヶ所」と記したものは、月光は資料名を「国学院大学民俗学研究会編『別所の生活・古四王神社』」としていますが、その元資料は「W 別所の生活と伝承」のことと思われます。

 『村松町史 資料編 第4巻・近現代』(村松町史編纂委員会 昭52・1977)「U町と村の姿」中に別所村と下戸倉村の地誌が載っていて、明治十年十一月の「地誌―別所村」の「社」の項目に「〈下線当方〉雑社越志王本村ノ中央字犬茂山ニアリテ正殿ハ西ニ向ヒ東西四尺南北壱間拝殿東西弐間南北三間…祭神五座勧請年月ハ不詳ト雖モ正殿ニハ大彦命建御名方命豊受皇大神大鷦鷯命ヲ勧請ス従前ハ四座本村ノ西南に勧請アリシヲ明治六年本社江合祀遷座セシヲ以テ爾後祭神五座トス」とあります。
 ここでは、「越志王」記述です。何故「越志」と記したのでしょうか。下戸倉の地誌の「堂宇」の項目には「古志王堂」と記されています。
 これは、越志王社は明治六年に別所村の西南に鎮座していた四座を合祀して祭神が五座になり、正殿に大彦命建御名方命豊受皇大神大鷦鷯命を祀っているということなのだろうか。 
 大彦命が古志王で御名方命は諏訪神社、豊受皇大神は神明神社、大鷦鷯命(おおさざきのみこと)は若宮神社とすれば、五座ではなく四座です。諏訪社が二座合祀されたようです。
 当方で下線を引いていた部分の、合祀の年に関して、明治八年頃明治十四年明治六年の情報が出てきています。
 越志王社は村の中央の犬茂山に鎮座し西向きであるということであるならば、現在の神明神社の位置状況に合致しています。

 『村松町史ー資料編ー第4巻・近現代』の「X村松の神社と寺院」に神社明細帳(抄)を載せています。この町史資料編を図書館での複写で入手した2005年9月には『新潟県神社寺院仏堂明細帳』をインターネットで見ることはできませんでしたが、現在では可能なので「新潟県立文書館・HP―新潟県神社寺院仏堂明細帳検索」からの情報により補足して読んでみたいと思います。
 先ず「無格社 古志王社」に関する記述。
 鎮座地情報:別所村字上、千八十番、六十三坪。 祭神:大彦命。 社殿:本社間口壱間四尺奥行壱間壱尺五寸、拝殿間口三間奥行二間。 信徒:六十三人。 新潟縣管下とある用箋の枠外に「同大字無格社神明宮ヘ合併ノ件明治四十五年二月二十九日聞届ク」とあります。
 「無格社 神明宮」に関しては、
 鎮座地情報:別所村字上、千七十九番、八十七坪、 祭神:豊受皇大神、合祀:大鷦鷯命・建御名方命二座・高倉下命、大山祇命、 社殿:本社・幣殿・拝殿・階檀・鳥居鳥居、 氏子:六十三戸、境外所有地:四筆。 用箋枠外に「同大字無格社古志王神社ヲ合併ノ件明治四十五年二月二十九日聞届ク」とあり、祭神に大彦命が追加されています。
 由緒に、「創立年月不詳(従前別地ニ鎮座ノ処朱筆追記を朱線取消)明治六年十月村社(下線部朱線取消)当郡上野村八幡社(朱筆追記)へ合祀」「跡地還禄士族へ御払下相成同十三年二月十四日許可ヲ得テ復旧シ当地ニ移転再興ス」の文節が同十三年二月十四日と復旧を除いて下線部が朱線で取消され、朱筆で文言が追加され「同十三年二月十四日当地へ移転復旧願聞届」と訂正されています。
 枠外に「所在地番及境内坪数訂正明治四十五年二月二十九日聞届ク」とあり「千七十九番子、百八拾七坪」に変更されています。
 『神社明細帳』で上野村八幡宮を見ると神明宮合祀についての記述はありません。
 神明宮は、明治六年に上野村八幡宮に合祀され、社殿跡地は旧士族に払下げられた。
 7年後に「当地に移転復旧」というのは、旧社地(社殿跡地)に戻ったのか別の場所(古志王神社隣地)に移ったのか、いまひとつ明瞭ではありません。
 神明宮と古志王社の神社明細帳の日付は明治十八年二月ですので、神明宮の記述は八幡宮への合祀と移転復旧後の状況でなされている訳ですので、鎮座地情報や祭神情報は移転復旧してそれにともない諸変更がなされて、その状況を反映したものと考えていいと思います。
 素直に資料を読むと以下のようになるのではないでしょうか。
 明治六年に神明宮は別所村の旧社地から上野村八幡宮に合祀となり、古志王社には建御名方命二座・豊受皇大神・大鷦鷯命の四座が合祀された。
 明治十三年に神明宮が別所村の鎮守として戻されて、古志王社の隣地に再建された。
 あるいは、神明宮にあるという明治八年の棟札を考慮すると、この頃新しい社殿を古志王社の隣に建設したことで、鎮守として祀るのは古志王社ではなく神明宮のほうが良いということになり神明宮を戻すことにしたのかもしれません。
 明治十四年にかつて古志王社に合祀された社や村の他の社を改めて神明宮へ合祀した。
 明治十八年、神社明細帳を提出した。
 明治四十五年に、おそらく古志王社の社殿を壊すことになり、神明宮への合祀を正式に届け出て、神明宮の地番坪数を変更した。このようなことではないでしょうか。
 別所の集落は、神明宮と稲荷社のある里山(犬茂山?)の西側と北側に人家があり、かつて古志王社は古志王大権現として里山の中央付近の中腹に西側の集落を望んで鎮座していたのでしょう。

 町史資料編の別所村の地誌の始めに別所の謂われの一説を記載しています。
 大略は、大野東人が二箇の尊像とともに蝦夷の反乱から逃れて当地に至った。尊像を蝦夷征討の祈誓なりと小堂宇を結び郷民等共に信心怠りないところ鎮圧軍の派遣となり、当地を発して副将軍高橋安麻呂の先鋒に進み鎮撫に功あって旧職に復し、尊像を迎えようとしたところ、郷民等が悲願して壱箇の尊像を当地に安置した。これゆえ別所と号す。ということで、この尊像が虚空蔵堂の本尊ということです。 
 蝦夷征討という伝説と古志王社の存在との関係はあるのでしょうか。
 江戸時代の村松藩が元禄二年と寛延三年に行なった寺社調べを『村松町史 資料編第一巻・第三巻』に載せていますが、上戸倉と下戸倉については記載があるのですが別所の古志王社の記載が見当たりません。どういうことなのでしょうか。
 「W 別所の生活と伝承 七、別所の一年」の年中行事一覧の中に「十一月三十日 もと古志王様の講(古志王ごもり)」とあります。既に行なわれなくなった行事になっています。

 中蒲原郡村松町は平成18年(2006)1月に五泉市と合併して新たな五泉市となりその南部を占めています。五泉市は阿賀野川本流からは南になりますが、阿賀野川の流域に属しています。
 旧村松町別所及び下戸倉・上戸倉は、能代川と滝谷川(能代川支流)の間に位置していて、能代川は阿賀野川と信濃川を結ぶ小阿賀野川に合流しており、信濃川水系になります。

 別所の古志王神社の現在は、平成の市町村合併で住所が五泉市別所1079子になった神明宮に合祀されています。
 『平成の祭』: 神明宮 祭神: [主]豊受大神、大鷦鷯命、建御名方命、高倉下命、大山祇命、大彦命
           鎮座地: 中蒲原郡村松町大字別所1079番地子
 社殿内部を拝見してはいませんので、24センチ程の座像などは確認していません。

 別所の古志王神社に関しては、越志王表記はありましたが「古四王」表記を見ていませんし「高志王」でもありませんので、越を古志と記して古志の王ということなのでしょうか。

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