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探訪記録 新潟  2   阿賀町(旧・津川町) − 古四王(高志王)神社


桑原リスト(2)東蒲原郡津川町・古四王神社、古四王平、古四王下 

《探訪の準備》
 津川の古四王神社に関する記述を文献から見てみます。
*『神社名鑑』(神社本庁・昭和38)の新潟県には「コシオウ」社は1社のみ記されて「高志王神社 旧郷社 東蒲原郡津川町古四王、 祭神 大毘古命 配祀 級長都彦命 級長都姫命 例祭六月十二日、 由緒沿革 もと古四王神社と称したが、明治三年現社号に改め同年郷社に列した。」とあります。〈読点は当方による〉
*『図説・東蒲原郡史 阿賀の里(上)』(東蒲原郡史編さん委員会 昭53・1978)=「古代ー4小川荘」の「古四王神社と玉泉寺」の項目に「津川の古四王神社は初め上川村西山にあったとのことで、日光寺とも関係がありそうである。中世に至り正治元年〈1199〉芦名氏が津川玉泉寺に命じて別当とした。貞治二年〈1363〉津川町古四王平に移された。…昭和26年には神明社へ移され」、「古志王遺跡 津川町古四王下にある。阿賀野川の支流姥堂川に東面する丘陵とその斜面に遺物が発見され、…この遺跡は、国道49号線のバイパスの路線が中央を通り、二つに分断されることになっている。」
*『新潟県の地名 日本歴史地名体系第15巻』(平凡社 昭61・1986)ー「東蒲原郡ー津川町」の項目に「町南にある腰王神社は古四王・高志王・越王とも書き、旧郷社であったが、昭和26年(1951)町北部の神明神社に遷され、北方開拓の神であることを示す北向きの特徴を失った。…古志王遺跡は阿賀野川支流の姥堂川沿いの丘陵にあり、縄文時代中・後期の土器を出土。」
*『新潟県宗教法人名簿 昭和51年3月31日現在』を見ると「高志王神社 東蒲原郡津川町古四王1489」とあり、住所情報が出ています。
 なお、神明神社は津川町伊勢宮3718、住吉神社は津川3399です。
*『昭和54年度 新潟県遺跡地図』(新潟県教育委員会)
 新潟40津川の図表で31番ー古志王遺跡・津川町津川字古志王下1293他
*『大日本地名辞書』―「越後・東蒲原郡」に「古四王神社」の項目があり「古四王神社(コシワウのふりがな)津川町の鎮守なり。盖大彦命を祭る、高志道を平定したまへる神徳を傳へて、越王と云へり。舊記に腰王に作り」
*『新編會津風土記・巻之百一 外篇越後国蒲原郡之四 津川町』
 神社の項目より抜粋
 ○住吉神社 略
 ○腰王神社 境内東西一町南北五十四間免除地 町南七町小山の上にあり鎮座の年代をしらず、玉泉寺之れを司る。〔相殿一座〕風神 津川町より移せり。
 ○伊勢宮 境内東西七間南北九間半免除地 町中にあり、鎮座の年代詳ならず、鳥居・拝殿あり、修験胎蔵院是を司る。
 寺院の項目の抜粋
 ○新善光寺 略
 ○玉泉寺 境内東西三十一間南北四十九間免除地 新善光寺の西にあり、寶珠山と号す、高野山遍照光院の末寺真言宗なり、開基の年月詳ならず、貞治年中西村の界より此に移りしと云、
 ○寶蔵院 略

 これらの資料で、おおよその経緯とおよその場所が分かったので訪ねて探してみることにします。

《探訪の記録》
*2005年9月17日
 西会津町野沢と東蒲原郡津川町(2005年4月1日に津川町・鹿瀬町・上川村・三川村の合併により阿賀町発足)を訪ねました。
 合祀先の神明神社を訪ねましたが、古四王社の合祀を示すものは見当たりません。
 旧別当の玉泉寺を訪ねると、お寺の方(若住職?)に古四王社についてお伺いすることができ「漢字で表わされた文字を知るまではコショウとしていた。文字を知りコシオウなんだと思った。」というようなことをお聞きし、古四王神社旧社地のおよその場所を教えていただきました。
 高速・津川インター近くで畑作業中の方に「コショウサマは…」と問うと「古四王神社は団地内にある」と教えてくれました。
 旧社地と思える場所は石積みで敷地が一段高く、杉木立に覆われていました。
 北東を向いた石祠があり、中に高志王宮としるされたお札が納められていました。
 隣接する公園の端にこの住宅地を造成した上ノ山土地区画整理組合の平成十年建立の記念碑があり、この地の変貌を語っています。

 左: 神明神社    中: 旧社地    右: 石祠


 《地図 古四王神社・旧社地ー上ノ山18  及び  神明神社》
  
  

《探訪の整理》
 津川訪問によって、神明神社に合祀される前の元の社地の場所が分かりました。
 以前は「津川町古四王1489」とされていた所は、津川町が阿賀町になり住宅地が造成されて新たに上ノ山という地名になって、「東蒲原郡阿賀町上ノ山18」と表示される場所になっていました。
 上ノ山土地区画整理組合の記念碑の碑文(上ノ山17)に「当地は、眼下に市街地と正面に秀峰麒麟山を仰ぎ見る古四王・古四王平・羽黒林・姥坂上・新田尻の一部を含み畑と山林からなる河岸段丘の景勝の地であった。」とあるとおりの、市街地を見下ろす高台で人里からは離れた場所に鎮座していたのでしょう。

 『阿賀路 第二輯』(東蒲原郡公民館連絡協議会 郷土史編纂委員会 昭和32年6月)の「日光寺雑考と会津五薬師説について」(嘉堂照夫)の中で「貞治元年(1362)津川町が、古四王権現・住吉大明神・玉泉寺・新善光寺等と共に西方及南方の高地から、□〈木に乏〉之木谷地と称する低地(今の津川町)に移転したと伝称され、種々の文献に現れていることを見ても明らかである。」〈略〉「〈補記:古四王神社は〉一般には貞治二年に玉泉寺の僧□〈示に右〉尊が、願主奥田民部少輔盛隆・青木兵庫介通俊の協力を得て、西山〈旧・上川村西山ー現・阿賀町払川か〉より津川町古四王平に移したといわれているので、玉泉寺が別当になったのは、貞治二年以后の方が正しいと思はれる。〈略〉」とあり、その他いろいろと興味深い記述がありますが、津川町そのものの移転にともなって移すべき寺社も移され、そのなかで住吉大明神・新善光寺は町中に移され、古四王権現は町から隔たった高台に移されたようです。
 これは「古四王」がいかなる存在であったかにつながることではないでしょうか。
 その場所が選んで定められたのでしょうから、ふさわしい理由があるはずです。
 そこが縄文時代の遺跡(遺物包含地)であることは、たまたまなのでしょうか。

 合祀先の神明神社の住所「津川町伊勢宮3718」は、住所が変わって阿賀町津川○○○になったと思うのですが、どう変わったのかなぜか判然としません。
 パソコン用地図ソフト(いつもnavi pc)やGoogle Mapで、津川3718で検索しても神明神社を指し示しません。
 Google Mapで「神明神社」をクリックすると「津川1718」の住所が出るのですが、「津川1718」で地図検索すると「神明神社」を指し示しませんので、住所にミスがあるのではないでしょうか。
 神社の住所は住所表示の変更があっても変更の対象にされないままになることがあるのでしょうか。
 なお、玉泉寺の現在の住所は東蒲原郡阿賀町津川(寺ノ前)3245で、『新潟県神社寺院仏堂明細帳』の「境内」記載の三千二百四十五番がそのまま住所番地になっています。そして、その番地でPC地図で検索をするとまさしくそこに存在しています。

 『平成の祭』には高志王神社も神明神社も元の社地の住所で収録されていました。
 『平成の祭』: 高志王神社(こしおうじんじゃ) 祭神 (主)大毘古命
        鎮座地 東蒲原郡津川町大字津川古四王1489番地

      : 神明神社  祭神 (主)天照皇大御神 豊受大神
        鎮座地 東蒲原郡津川町大字津川伊勢ノ宮3718番地

 『神社明細帳』の記載内容(抜粋)
  志王神社
   東蒲原郡津川町字古四王 村社(朱で村を郷の訂正有り)
   *祭神 大毘古命  *合殿 級長都彦命 級長都姫命
   *由緒(朱線で文字を消され、朱筆で訂正が有り、判読が難しい) 
     津川町鎮守四社の一にして字古四王に鎮座す 腰王社と称し 
     (朱字)明治三年当社号に改む
   *社殿間数 本社方三尺 拝殿方三尺  鳥居…
   *境内坪敷并地種 千四百八十九番 三百二十坪(朱訂正有り)
   *境内神社一社  広瀬神社 旧神号羽黒神社 明治三年当社号に改む
            祭神 和加宇賀之賣命  本社石祠方二尺
    枠外に「社殿大正三年七月□焼失」の記載あり。
  大正の焼失の後どうしたのでしょうか。神明神社に合祀は昭和26年です。
  「境内」の1489番がそのまま法人登録においても住所番地になっているようです。
  また、上ノ山土地区画整理組合の記念碑にある「羽黒林」の地名は羽黒神社によることがうかがえます。
  「級長都彦命」は、級長津彦命〈しなつひこのみこと〉のことと思われ、風の神で、級長津彦命・級長津姫命のように男女の神として祀られることが多いようです。『新編會津風土記』にある風神でしょうか。

 神明神社
   東蒲原郡津川町字伊勢宮 村社 
   *祭神 天照皇大御神 豊受大神  *合殿 少彦名命
   *由緒(朱線で文字を消され、朱筆で訂正が有り、判読が難しい) 
     建歴の度社殿造営し津川町土産神となす両皇大神宮と称し開墾地?木谷地(今云う津川町に)移し追年字本陣場へ遷座す
     (朱字)明治三年当社号に改む
   *社殿間数
   *境内坪敷并地種 三千七百十八番  二百二十二坪
   *境内神社六社
  こちらも、「境内」の3718番がそのまま法人登録においても住所番地になっているようです。

 記事『「古四王」表記について』の重複になりますが、東蒲原郡津川町の志王神社も(新発田市五十公野の社と同じく)「志王」表記ですが、『神社明細帳』の該当部分によるとこちらの所在地表記も津川町字古四王です。明細帳の由緒によると「字古四王ニ鎮座ス腰王社ト称シ」「志王神社ト改称ス(明治三年)」とあります。
 コシを志とする以上はコシはコシノクニのこととしていることでしょう。
 地名は古四王表記であり、腰王社と称したのは会津藩領であった事と無縁ではないでしょう。
 『神社辞典』(新装普及版・東京堂出版・1997)に津川の高志王神社が載っており「もと腰王権現・古四王神社と称したが、明治三年に現社名に改めた。」と記されています。
 社名表記に変遷があり、現社名表記は明治以降のものに過ぎません。

 津川と津川古四王社に関する資料では、ここであげた『阿賀路 第二輯』等の他に『阿賀路 第三輯』所収の『津川姿見』、『東蒲原郡史蹟誌』(寺田徳明 昭和3年)等にはざっと目を通すことができましたが、会津関連の資料に触れる機会がないままでもあり、資料の読込みは今後の課題になります。 
 『東蒲原郡史蹟誌=第二編津川町』―「古志王神社」の項目からの引用を以下に記しておきます。
 「古志王神社 本社は大彦命を祭る古西山の在り其建設詳かならずと雖も口碑に傳称する所によれば大彦命本郡を通過するに當り西山に至る後人其徳を慕ひ命の休息せる趾に祠を建てて之を祭ると云う(一説に大同二年僧空海の草創する所にして四天王を祭るとあるも然らず大彦命は古志君の祖なるを以て古志王として祭れるなり)〈略〉其後正治元年芦名氏津川町玉泉寺に命じて別当たらしむ弘法大師本地垂跡の説を建てて後廣目搨キ持國多聞四天王を併せ祭り古四天王又は腰王権現と称したり降りて貞治二年僧□〈示に右〉尊檀王奥田民部盛髏ツ木兵庫通俊(一に光利に作る)と共に之を今の地津川町字古四王平に移し祀る本社は市街を北に距る数町丘陵の上に在り〈略〉後ち祝融の為めに神社と共に烏有に帰したりと云ひ古書古器物等今存するものなし毎年六月十三日を以て例祭を行ふ明治六年村社に列せられ同十九年郷社に昇格したるも現在に在りては奉仕するもの多からず〈略〉神威も亦世と共に浮沈するを免かれざるか」とあります。
 記事の内容そのものには踏み込めませんが、神社名を「古志王」とされていますが、所在地の地名は「古四王平」です。
 この記事は、火災に遭って神社器物焼失した後で、神明社に合祀される前の信仰状況を教えてくれます。

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