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探訪記録 新潟  4


桑原リスト(4)岩船郡朝日村岩沢上屋敷・古四王神社 

《探訪の準備》
*『新潟県宗教法人名簿 昭和51年3月31日現在』では、記載はありません。
*横山『磐舟』『越佐歴史物語』に「布部の横山社家に伝わる明治十年十月の神社明細帳には、朝日村岩沢の古四王神社について祭神:大毘古命、祭日:六月十二日、氏子:無之、等」とあり「岩船の小野社家に伝わる神社明細帳によれば、所在地:朝日村岩沢上屋敷、祭神:大毘古命、由緒:創立年月不詳、社殿間数:本社=間口三間・奥行=二間三尺、境内坪数:百八十四坪、神官:江見左京、信徒:百十七人、合併:大正十四年六月十八日 両八幡神社に合併とある。社殿は北向と伝えている。」「古四王神は北向に建てられていた古地図が飯沼家に保存されているが、いまは合社されて社殿はなくなっている。」の情報があります。〈:=等は当方による〉
 「氏子:無之」と「信徒:百十七人」の違いが気になります。
*『朝日村史』第二章第三節の項目「古四王社」(執筆者=横山貞裕)で「古四王はあて字で、越王が正しく、それを巨四王、高志王、腰王、古志王、小姓、胡志王などと、さまざまに書いて、山形県や秋田県下まで、ひろまって居り、ことに山形県庄内の本楯附近の遊佐町附近には最も多く散在し、十五社が各地にまつられている。」と記し、「越王」について大胆に断定をしています。
 根拠はあるのでしょうか。
 本楯・遊佐町に関する情報はどのような性質のものでしょうか。
 また、「岩沢の古四王社はいま八幡宮に合祀された。…朝日村役場の地続きの地でやや西南方よりの地である。」の記載があります。
 同じく『朝日村史』の「※附 神社・仏閣」(横井弥惣治執筆)の「八幡宮 岩沢」の記述に「享禄・天文の頃当所の飯沼藤四郎が本庄繁長の家臣で、以前佐渡にいて常に応神天皇を崇敬し武軍〈ママ〉長久を祈願した。その後本庄氏が猿沢福立城主となるに及び、随従して岩沢村に住するに到り自家に奉斎した。その後神威を畏れて新に一社を建て祭祀した。仁徳天皇は斎藤・大場・高橋・菅原諸氏の産土神として崇敬するところであった。古来同一社殿内各座に奉斎したが、明治三年四月合殿、両八幡神社と改称した。…岩沢部落を開拓した最初の人は岩沢一族と飯沼一族であると伝えられている。…」「合祀 越王(古四王)神社…大正十四年六月十八日耕地整理によって八幡社に合社となった。」とあります。
*『新潟県の地名』の「岩沢村」項目中に「両八幡神社は本庄氏家臣の系譜を引くという飯沼氏が自邸で祀っていた応神天皇と、斎藤・大場・高橋・菅原姓の産土神として祀られていた仁徳天皇を明治三年合祀し一社としたもの。大正十四年上屋敷の越王(古四王)神社を合祀。同社は岩沢・飯沼姓の産土神とされ、合祀後も御神体は個人宅に祀られている。」とあります。

《探訪の記録》
*2005年9月3日 神林村松沢に続いて朝日村岩沢を訪ねました。
 両八幡神社と思える神社を訪ねます。社額等がありませんが間違いないものと思います。
 古四王社を合祀した事を示すものは見たりません。
 朝日村役場周辺を見てまわりましたが、旧社地を特定できません。

 左: 両八幡神社    右: 両八幡神社から朝日村役場方面を望む

*2005年9月7日 再訪。
 朝日村総合文化会館で職員の方に聞いたところ「役場付近は野村といった。体育館の所には墓があって、墓は移転した。」とのことでした。
 郵便局近くで老婦人に聞くと「こしょさま、覚えているが場所は分からない」とだいたいの方向を指さしてくれました。
 その方向に行って、別の老婦人に聞くと「こしょさまはその田圃の辺りにあった。ここらは畠だったのを田にした。上屋敷といった。」と明解でした。旧社地を見つけたといってよいと思います。
 朝日村総合文化会館(現・村上市総合文化会館)から道なりに南へ行き、保健センターを通り過ぎた先付近が、旧岩沢字上屋敷にあたるようです。

《地図でマークした場所付近からの写真を載せておきます》
 

 道路の右側の田圃のあたりが旧・上屋敷かと思われます。奥の建物は保健センター。

《探訪の整理》
 少ない聞き込みですが、「こしょさま」と呼ばれていたようです。

 『朝日村史』では「第五章・第九節 耕地整理」の冒頭部分に「耕地整理は大正八年から大正十二年に亘って、四年の歳月をかけて行われた。その受益部落は関口・黒田・中原・岩沢の四部落およそ二百七十町に亘る耕地に施工せられた。村空前の大事業であり、地域の総力の結集であった。」と記録しております。
 まさにこの耕地整理で、旧社地も地均しをされ、水田の一部になり、合祀されていくことになったのでしょう。
 職員さんにお話をうかがった朝日村総合文化会館宛てに、御婦人に聞いた旧上屋敷と思える場所の地図・写真を添えて、このことに関する情報をお持ちでないか等の問合せの手紙を出させていただきましたが、なしのつぶてでした。
 その後は旧社地の確認作業をしていません。

 『磐舟』の「岩船の小野社家に伝わる神社明細帳」の記載内容は『(新潟県)神社(寺院仏堂)明細帳〈明治十六年〉』の「古四王神社」の朱筆の入った内容とほぼ同じですが、『神社明細帳』の記載では、「神官」「岩船郡布部村横山貞蔭」と記され、そこを朱線で消して「当時欠員」の朱書きがあります。「信徒人員 百拾七人」は小野社家明細帳と同じで、横山社家の明治十年の明細帳の「氏子 無之」から変更されています。
 『神社明細帳』での「両八幡神社」の記述は、「大正十四年六月十八日同村同大字宮上屋敷古四王神社合併許可」の書入れがあり、所在地は「岩澤村字宮添(訂正前)」、「祭神:応神天皇・仁徳天皇」に「大毘古命」が加えられています。「境内坪数:百四十九坪」で、「第三千二百九十一番」が朱線で消されています。神官は横山貞蔭で朱線で消され当時欠員の朱筆があります。氏子は百拾七戸で、信徒総代は両八幡神社と古四王神社は同一の三人です。
 この二つの神社に共通の記載は提出用文書の体裁を整えようとしたことによるものではないかと思います。
 古四王神社には、いわゆる氏子はおらず〈「無之」〉、ごく少数の家がお祀りしていたのかも知れないと思います。それで「合祀後も御神体は個人宅に祀られている。」のかもと思ったりします。
 個人宅がどちらであるかは調べずにおります。

 『平成の祭』: 両八幡神社 祭神 (主)応神天皇 仁徳天皇 〈これ以外の記載無し〉
             鎮座地 岩船郡朝日村大字岩沢3291番地
             現住所は、村上市岩沢3291番地。
 よって、岩沢上屋敷の古四王神社は耕地整理によって旧社地を失い、両八幡神社ー村上市岩沢3291に合祀されたとなるようです。

 なお、横山貞裕が『朝日村史』中に「(補記:古四王は)山形県庄内の本楯附近の遊佐町附近には最も多く散在し、十五社が各地にまつられている。」と記していますが、『磐舟』『越佐歴史物語』では飽海郡に3社(遊佐町1社、八幡町2社)のみ記しています。
 これは『磐舟』では「山形県下における古四王社の分布は、西置賜郡志によれば次の十四社である。」と出典を示して記載した中の飽海郡の3社になります。この14社の外に4社の情報を載せています。『越佐歴史物語』では18社の表が載せられています。
 『朝日村史』の発行は昭和55年(1980)ですので、池田宗機「越王(古四王)信仰について」(=『方寸 第5号』酒田古文書同好会)が昭和49年(1974)ですので、これを読んでいるのかも知れません。
 池田宗機は「越王(古四王)信仰について」で「飽海地方の古四王神社」として遊佐町に8社、八幡町に3社、酒田市に合併の東平田村と中平田村に各1社の計13社の所在地情報を記載し、さらに飛島の情報を記し、飽海地方には以上の外に古四王神と推定されているのが、もう二、三あるようである云々と記しています。
 山形県のことについては、山形県の探訪記録に中で触れていきたいと思います。
 また、横山貞裕が『朝日村史』で「古四王はあて字で、越王が正しく」と大胆に断定していると記しましたので、井上悦夫『新潟県の歴史』(県史シリーズ15 昭45・1970)での記述を取り上げておきたいと思います。
 この著作の「原始・古代ー5仏神の世界ー越王神」の項目で「阿賀野川から北の方には、山形・秋田にいたるまで、他の地方にはみられない越王神社というものがある。これは昔、蝦夷の地に進出してきた機内王権のもとでの、たくましい開発事業の神様であった。越王神には、いろいろな漢字があてられる。高志王・古四王・巨四王・越王・小姓・小子王など、いろいろである。しかしいずれも祭神は大毘古命、〈略〉高清水岡の古四王堂〈略〉今もりっぱな社殿が北向にたてられている。北向きといえば、新発田の古四王社も北向きで、北方開拓の神の姿をはっきりしめしている。〈略〉菅江真澄が、〈略〉五十公野古四王社に参詣し、その祭神を越王と見抜いて次のように書きのこした。『全くこの神は古四王には非ず。越王にておはしましき。〈略〉』越王神は、まさに阿賀北から出羽に拓殖が進むにつれて設置された宮である。それは多くの越後の人が移動し、屯田村をつくった成果をしめすものであった。横山貞裕氏によれば、今日でも秋田県仙北郡の払田柵趾には、越後谷を姓とする人たちが住みついている。〈略〉」とかなり踏み込んだ記述をしています。
 井上悦夫『新潟県の歴史』は、影響力も小さくはないと思います。
 井上が「高志栞」から引用している『全くこの神は古四王には非ず。越王にておはしましき。』の部分は、『菅江真澄全集・第11巻』の「高志栞」では「また、古四王にはあらず、越皇なり。」であり、『全くこの神は』というような記述はありません。
 横山・桑原と井上の引用テキストは同じようですので、そのテキストが気になります。
 谷川健一が『白鳥伝説=異族の神・ヤマトの神』で引用している「高志栞」も「全く此の神は古四王には非らず。越王にておはしましき。」とありますので、同じテキストのようです。
 記事「新潟 1:新発田市五十公野」のなかで、横山と桑原の「高志栞」から引用文と『全集・第11巻』の「高志栞」の文面を並べておきましたので、ご参照下さい。
 【追記: 「新潟1-新発田市五十公野」に「このことに関連した追記をいたしました。】

 古四王を越王とするのは、確かに井上氏・横山氏らが述べ始めたことではありませんし、少なくとも江戸期にはそういった類いの見解はあったわけで、定説化されてもいるようですが、古四王に関するデータが少ないなかで研究者としては結論を急ぎすぎているように思います。あるいは、データが少ないが故に断定できたのかも知れませんが。
 祭神もさまざまですし、社殿の向きも北とは限りませんし、北向きが北方開拓を示す事になるとは言い切れないでしょうし、福島や岩手にも古四王社の存在があります。
 さて、「あて字」というからにはあて字である訳の説明が欲しいと思います。
 なぜ「古四王」と記して、「越」の文字で記されないのか。「高志(王)」でもコシノクニを表わす事になるのではないかと思いますが、この「高志」では駄目で「越」でなければならないのでしょうか。「古志(王)」だとコシノクニではなく古志郡を表わすことになるのでしょうか。
 確かに、神社名の表示では異字体や異なる漢字を用いている例が見受けられますし、音の変化をともない複数の社名になっている例もあります。神社名が音として伝わっていく中で、その表記を変え、さらに表記が読みを変えるということは、あることだと思いますが、あて字だと言って済ましておいて良いのでしょうか。
 なぜ「古四王」なのか、四天王との習合とすればなぜ四天王と習合するのか、北方信仰との関係とすればそれは征夷なのか、いろいろあると思うのですが。 

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