所在地情報検討記録 新潟 13
藤原相之助・及川大渓による所在地情報
中蒲原郡蒲原 五社明神
《検討の準備》
中蒲原郡の蒲原とは、現在の住所ではどこになるのでしょうか。
中蒲原郡とありますので、明治12年以降の住所となるので、そこにある蒲原は現・五泉市となっていく大蒲原村か、沼垂町になって新潟市になり新潟市中央区となっていく蒲原村かであろうと思います。
五泉市の上大蒲原及び下大蒲原にはそれらしい神社は無いようです。
現在の新潟市中央区蒲原町にはそれらしい神社は見当たりませんが、近くの新潟市中央区長嶺町には蒲原神社が鎮座しています。
「蒲原」をもう少し詳しく見ていくと、蒲原という地域は信濃川に浸食されて元禄三年(1690)に現在地である長嶺新田の一部に移転して、明治22年に沼垂町・蒲原村・長嶺新田・流作場新田が合併して沼垂町になり、沼垂町は大正3年に新潟市に編入され、昭和43年に蒲原の地の一部から蒲原町・長嶺町・等が分立したとのことです。
蒲原神社が長嶺町にあってもおかしくはないことになります。
蒲原神社を『神社明細帳』で見てみると、「中蒲原郡蒲原村字居村 五社神社 祭神五座」とありますので、所在地情報の五社明神はこの社のことかと思います。
『明細帳』は、朱筆の書き込みが多く判読が難しいのですが、「祭神:火牟須比之命・加具津智之命・水波迺女命・久々迺智命・金山比子命」とあり、由緒の欄で朱筆訂正を含めて読み取れる部分に「延喜式神名帳記載ノ蒲原神社或は青海神社タル旨口碑ニ傳フ往昔源頼朝ヨリ饗米料トシテ高二百石付与〈略〉洪水ノ為川欠ニ付当地ヘ移転〈略〉」とあります。
『平成の祭』及び「蒲原神社由緒略記」によれば、蒲原神社はの祭神は〔主〕埴山姫命(土)・水波迺女命(水)・久久迺智命(木)・金山彦之命(金)・迦具土之命(火)・椎根津彦命(御祖神)、〔配〕〈略〉とあり、鎮座地は新潟市(中央区)長嶺町3−18で、由緒には「平安の昔、椎根津彦命の後裔が越後国蒲原郡に封ぜられ、蒲原の津(港)に土着して、蒲原郷の総鎮守を創設し郊外の金鉢山に鎮座した。日本海の青い海を眺望する影勝の地に位していたので青海神社と言い「延喜式」に青海神社二座と記載されている。式内社が本社の前身であった。」としています。
その後の経緯として、南北朝の時代の争いに巻込まれ廃滅処分され神官も追放された。その後神官たちは中国伝来の五行の五神(補:火水木金土)を祀り「五社宮」と称して辛うじて生き残ったと推察される。戦国時代末期に新発田重家により復興する。江戸時代初期に大川の川欠等の災害により蒲原村も金鉢山も流失し、五社宮は避難困窮の末、元禄三年(1690)藩主(補:新発田藩)の救助により新生の蒲原村に再度復活して明治に至り、正式社名を五社神社にあらためる。昭和58年に里人の呼び習わしから正式に蒲原神社と改称。とあります。
蒲原の津(延喜式において越後国の国津)から、その地域が蒲原と呼ばれたのではないでしょうか。
蒲原の村や沼垂町が移転をしても、「蒲原」や「沼垂」を変えることはなかったようです。
その他に、鎌倉時代の畠山六郎重宗(六郎様)と御託宣などの経緯があり、現在でも蒲原祭りの賑わいで著名な蒲原神社になっていったようです。
これらの経緯からは、古四王に関する要素はうかがえません。
新発田市五十公野の古四王神社の存在によって、新発田重家による復興にさいして何らかの関わりが生ずる可能性はなくはないでしょうが、古四王の痕跡は見当たらないようです。
また、「古四王社には亀を神聖視する信仰があったのではないか」と桑原「古四王神社」にありますが、蒲原神社の神紋は「亀甲に五の字」が用いられておりますが、これは御祖神の椎根津彦命が「亀の甲羅の上に乗っていた」ということによるものと思われます。
何を以て古四王の所在地情報に載せられたのでしょうか。
古四王は、例としてあげれば、古将・小姓・五社・五所・等にも変化しているという記述があるので、「五社」神社ということで、所在地情報にあげられたのでしょうか。
『平成の祭』によれば、五社・五社宮・五社神社は新潟県に合わせて20社あります。