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新潟県の古四王神社
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探訪記録 新潟 5
桑原リスト(5)岩船郡朝日村早稲田・古四王神社
《探訪の準備》
早稲田の古四王神社について、横山『磐舟』では「早稲田の古四王社も合祀されて、旧社地は明瞭であるが、社殿の向きに関しては明らかでない。」とあり、『越佐歴史物語』には「早稲田の古四王は『こしよさま』と呼ばれ、いぼとりの神などに転化している。」とあります。合祀先の記載はありません。
『朝日村史』の「古四王社」では、「早稲田の古四王林にあった古四王社がある。古四王林からは縄文後期の夥しいい土器が発掘された。・・・『こしよさま』と呼ばれ、いぼとりの神に転化し、庄内地方では、耳の『きんか』の神にされて、・・・」とあります。
同書の「村々の生い立ち」項目の「早稲田」には古四王の情報は無く、「神社・仏閣」項目に「早稲田の白山神社」の記載がありますがそこに古四王についての情報はありません。
『昭和54年度 新潟県遺跡地図』に「遺跡名称:古四王林 種別:遺物包含地 所在地:朝日村早稲田字男1506 現況:桑畑 遺構・遺物:縄文土器(後)、石器(石斧、石匙)」とあり、地図によると早稲田集落の南西部の男川の左岸付近のようです。
『新潟県の地名』の早稲田及び古四王林遺跡記事にも古四王に関する記述はありません。
《探訪の記録》
*2005年9月3日 朝日村岩沢を訪ねた後早稲田にまわり、どのような場所か様子をながめました。
白山神社を訪ねると、入母屋造の拝殿(五間の四間くらいだろうか)、幣殿、流造の本殿があります。
境内の一角に湯殿山や金□羅冢(金毘羅塚)の石碑や石祠などが並んでいます。〈□は田に比、毘を分解して並べる〉
(ときに、偏と旁の位置を変えたりする異体字をみかけますが、なぜわざわざ金□羅冢のような文字にするのか意図がよく分かりません。)
古四王社の合祀を示すようなものは見当たりません。
左: 白山神社 右: 境内と石碑
その後、板屋越地区の多岐神社に参り、岩崩地区の奥三面歴史交流館へ足を延ばしました。
布部地区で熊野神社の鳥居の両脇に秋の祭礼だろうか奉納熊野神社の幟旗が揚げられていました。
しばらく行くと、また祭礼があるのか、奉祭礼川内神社の幟がある鳥居があったので行ってみると、村社鷲麻神社の標柱があり境内に紅白の幕を廻した踊りの櫓があり、祭りの準備の最中でした。
*2005年9月7日 岩沢の後、再訪して古四王林周辺を探ってみました。
国道7号線に平行する早稲田集落の道路を横切る男川を撮影しました。早稲田集落から男川を越えると板屋越集落になります。
早稲田集落から西の山に向かう道路から左方の古四王林方面を撮影しました。古四王林に近づけそうな農道があります。古四王林らしきところは杉林で桑畑のようには見えません。
*2005年10月10日 古四王神社の跡地を探しました。
民家の奥に古四王林遺跡方面に向かう細道を見つけましたが、民家の敷地に侵入することになるので、別方面からアプローチを試みました。
農道から古四王林の林に入りました。男川の流があります。石が置かれた所があります。
林から出て、地元の方にお話を聞こうと人を探しました。
幸運にも、お話をお聞きした方が、旧社地へ案内してくれるとのことで付いていきました。
この方は、水道施設付近に住む80歳というご老人で、昔古四王林に畠を二ヶ所持っていて、遺物がよく出たものだそうです。杉林は植林したものとのことです。田と田に段差が付いている現在の田圃も耕地整理をして平らな田になったものとのことでした。
旧社地は、民家の奥の細道を入った、民家の裏という感じで、古四王林の端で、微高地になっているようです。
ご老人の子供の頃には既に神社は無かったとのことで、神社があったのは150年くらいも前のことではないかとおっしゃっていました。
左上: 林の中の男川 右上: 民家奥の細道
左下: 旧社地付近 右下: 西に向う道から左方の旧社地方面を望む
《地図: マークは旧社地(候補地)》
《探訪の整理》
1人の方のお話ですので確認が必要ですが、民家後方の微高地で杉林と接する付近に、旧社地の候補地がありました。
社殿が在ったのかいつまで在ったのか不明です。
『神社明細帳』に早稲田の古四王社を見つけることが出来ませんでしたし、他の神社に合祀の記録を探しても見当たりません。
そこからすると、江戸期には合祀されたのではないかと思いますが、合祀先は不明です。〈2行追記及び修正〉
『平成の祭』では、早稲田集落には白山神社のデータのみがあります。
それによると、 鎮座地: 岩船郡朝日村大字早稲田1329番地ノ子
現在の住所は、村上市早稲田1329番地子〈村上市との合併は平成20年・2008〉
祭神: (主)菊理媛神 (配)天照大御神、須佐男命、大山祇命、八十禍津日神、大物主命、倉稲魂命
由緒: 〈抜粋〉弘仁14年(823)、加賀国白山比盗_社より招祭し、白山比淘蜷_を奉斎したことにはじまる。これより文禄迄の間知られず、文禄2(1593)年9月再建。享保3年(1718)7月再建。
『神社明細帳』を見ると、かつて早稲田には白山神社が二社ありました。一社の所在地は字クネノ内、境内坪数項目に二百五十番とあり、一社は字屋敷添道下で四百四十二番とあります。共に弘仁十四年創立で、一社は早稲田村内四十三戸の産土神で、一社は早稲田村内四十七戸の産土神、共に明治十五年村社に列すとあります。
明治三十九年に両白山神社が合併し、所在地を早稲田字屋敷添道上第一三二九番社有地へ移転し、合併跡地の立木を伐採することが届けられています。
その後、明治四十年に字□木(コマイキ?)の山神社(大山祇命 信徒九十一人)を合祀。〈□は、木偏に品〉
番地に子を加え、官有地を民有地と訂正(大正八年?)、大正九年に字屋敷添道上の神明社(天照皇大神 信徒九十一人)の合併許可。
白山神社の祭神に、大山祇命と天照皇大神が加えられています。須佐男命、八十禍津日神、大物主命、倉稲魂命の記述は見えず、古四王に関する記述も見えません。
氏子は訂正され、九十戸と見えます。
また、大正九年に合併された神明社の『神社明細帳』を見ると、境内坪数の項目に千三百三拾番と見え、白山神社の移転先と一番違いですが、早稲田の番地は続き番号ではなく番地で場所を推定できず、白山神社の隣接地とは限りません。
小字地名の場所が分からなくなっているので、それぞれの旧社地も分からない状態です。
旧社地と思える所はありますが、『磐船』以前に文献をさかのぼれず、存在は不明と言うしかないと思います。
村上藩・等の資料になにか関連の記述があるか確認した方がよいようです。
『村上市史・通史編2=十章・五節―民間信仰』(平11・1990)の項目「道の神と境の神」の「きんかさま」の記述を引用します。
「このほか、道の神のなかに文字も像も刻まれていない、まったく自然石だけの石神がある。分布は、村上市から朝日村、山北町、神林村におよんでおり、村々ではそれを『きんかさま』と呼んでいる。理由は、キンカ(難聴)をなおす神と信じられていたからであるが、その自然石の多くは卵形や円柱形の黒石で、それに一筋の白い鉢巻きがある。〈略〉古くから、峠は神の支配する場所と考えられ、そこを通行する者は峠の神に幣帛を奉らねばならなかった。この行為が手向けで、峠の語源とされる。〈略〉すでに述べたように、市内の年紀を刻む道神のすべては江戸時代中後期からのものであるが、刻字のないキンカ様や三面のドウロクジンは、道神の古い形を伝えていると言えよう。〈略〉」という見解が示されています。
『新潟県の道祖神をたずねて』(横山旭三郎 野島出版 昭55・1980)=「第一章六新潟県の道祖神呼び名別区分」に「道祖神信仰は県下全部落に見られる。〈略〉分布地帯をどう分類するか(について)、本県は呼び名が地方により大体きまっているので、呼び名別に区分してみた。〈略〉」として、きんか様地帯・さいの神地帯・どうらく神地帯・其他の地帯に区分をしています。
道祖神をきんかさまと言うことは地域的広がりを持っておこなわれているようです。
「古四王」がいぼとりの神やきんかの神とされる場合が見受けられることがどのような意味を持つのか分かりかねますが、道祖神とキンカ様についての資料を記して、後の課題としたいと思います。
なお、早稲田には桑畑があり、使用されなくなった桑畑の活用が課題になっているようです。
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