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福島県の古四王神社について          


 桑原リスト(昭51・1976)によれば、福島県の古四王所在地はわずかに3ヶ所です。 
  ・田村郡三春町真照寺境内 
  ・河沼郡野澤村 古四王原
  ・耶麻郡慶徳村宮在家
 これは、大山新リスト(昭9・1934)そのままということです。

 日本三社の一つといわれる喜多方の古四王神社がある福島県にほかに古四王神社は存在しないのだろうかと不思議に思っていました。
 新潟県東蒲原郡津川町の古四王神社(社名表記・高志王神社)の資料を探していたとき、津川は旧会津藩領なので『新編会津風土記』(大日本地誌体系・新編會津風土記 雄山閣版 昭和7年〜)を見てみることにしました。
 津川町の他にも会津藩領内にいくつかの古四王神社の存在が記されていましたので、それらについて調べていくところから福島県の古四王神社の探訪が始まりました。
 新編会津風土記からの福島県域の古四王神社情報は以下の表の8ヶ所(区分イ〜チ)です。
  桑原リストの河沼郡野澤村と耶麻郡慶徳村宮在家が含まれています。
  他に、耶麻郡都澤村に越王山号の寺院があります。
  越後国蒲原郡津川町の腰王神社は除きます。


第二冊 区分
巻之二七 會津郡之三 原組(十一箇村) 西田面村 腰王神社
巻之三一 會津郡之六 橋爪組(十三箇村付録一箇村) 柏原村 伊勢宮 相殿に腰王神
巻之三三 會津郡之七 青木組(中九箇村) 湯本村 腰王神社
(巻之五十 耶麻郡之三 川東組(上十三箇村) 都澤村 正福寺ー真言宗越王山と号す)
第三冊
巻之五五 耶麻郡之五 〈旧字〉塩川組(下十四箇村) 深澤村 熊野宮 相殿に腰王神
巻之六六 耶麻郡之十二 慶徳組(上十二箇村) 宮在家村 腰王神社
巻之七二 大沼郡之二 橋爪組(十四箇村) 福永村 藤巻神社 相殿に腰王神
第四冊


巻之八七 河沼郡之二 代田組(下二十三箇村) 槻橋村 鬼渡神社 相殿に腰王神
巻之九四 河沼郡之七 野澤組(上二十箇村) 野澤本町 諏訪神社 相殿に腰王神
(第五冊


(巻之百一 外篇 越後国蒲原郡之四 津川町 腰王神社
リ )

*新編会津風土記の第一冊の巻之十一から二四の若松之一から若松之十の府城・郭内・郭外・町分には、目を通した限りでは腰王神社の記載は見られませんでした。

『新編会津風土記』について
*編者花見朔巳による巻頭の例言(昭和七年二月)に
 「一 本書は旧會津藩主保科正之が寛文年間山崎闇斎等に命じて撰ばしめた會津風土記を、更に藩主容衆の時大に増訂したるもので、江戸時代撰輯の地誌類中にありては、白眉を以ておされるものである。」とあります。
*新編會津風土記凡例から抜粋するところによれば、
 「一 此書は享和三年〈1803〉に命を受けて編集する所にて先祖正之寛文〈1661〜1673〉中に撰へる風土記を基として闕〈欠け〉たる者を補い畧〈略〉せる者を詳に」と会津風土記を増訂したもので、
 「一 寛文中正之神社志神社総録を撰述し闔邦〈全邦〉の正祀を再興し来歴なき叢祠を毀ち又境地の宜しからさるは清潔の地に移し数祠を一社に集めて相殿の神としその地の租税を免除し旧趾はことごとく闢〈ひらき〉て新田とし租入を収て一署を設け神社修造の料に充つされは 寺院修験村民主持する社の外は皆府の修造なり」
 「一 寺社堂宇の境内に其間数歩数を挙さる者は或は山中或は巌上にて界域を定め難き者なり其平地にある者は人家宅地にある者と知るへし」
 「一 修験は神社堂宇の別当なれは各条に見はし来歴ある者は寺院の目中に附す其別当ならすして神社堂宇を守れる者は其事を註す修験某院司なりと云の類是なり」
 「一 凡書中一里と云者は三十六町なり一町は六十間一間は六尺三寸なり」、等のことが記されています。

 山崎闇斎と会津藩の社寺統制・神仏分離の関連がうかがわれる例言・凡例によって、会津藩では寛文年間(1661〜1673)に神社の整理統合を行っていることが分かります。
 神社の項目の記載要領を知ることができます。

 新編會津風土記のこれらの所在地の現住所や関連資料を調べていくなかで、インターネットのおかげでいろいろな情報がひきだされてきて、西白河郡大信村(現白河市)の胡四王神社、南相馬市小高の古四王神社、等の他の古四王の所在情報が見つかってきました。
 南相馬市小高に古四王神社があるとすると、最も太平洋側の古四王社になるでしょう。
 それらの情報を調べることで、また別の情報が出てきます。
 行って、実見してみたいとの思いが強くなりました。

 及川大渓『みちのくの庶民信仰」(昭48・1973)を古本で平成25年5月(2013)に入手し、同書の「古四王神」論を読むことができました。
 及川は「古四王神」の記述のなかで「古四王社の鎮座地として古記に見え、ないし現存するものは次の通りである。」として、福島県に関しては岩代国として9ヶ所をあげ、さらに古四王に異なる表記の多いことや訛りと考えられるものもある旨を記して追加として岩代国で7ヶ所をあげています。
 この所在地情報については、重複もみうけられるようなので、別の機会に取上げたいと思います。
 及川の著作については、桑原文献リスト(昭53・1978)に載っていますし、桑原の他の著作で論及もされていますが、所在地に関する桑原リスト(昭51・1976)には及川の取り上げた所在地情報が反映されておりませんので、リスト作成の段階では目にしていなかったのかもしれません。

 及川の著作の所在地情報を早く知っていたら、新編會津風土記で會津藩領内の古四王社に当たってみることをしなかったかもしれないので、桑原リストに及川の所在地情報がなかったことは私にとってはかえって良かったかもしれません。

 『喜多方史跡めぐり』(歴春ブックレット 平5・1993)という小冊子(平24ー12・2012入手)の古四王神社の項目に「会津における古四王神社として喜多方・会津若松市東山町・同湊町・塩川町竹屋などが知られる。このほか、北会津村柏原の伊勢宮・塩川深沢の熊野宮・本郷町深巻神社・河東町槻橋の鬼渡神社・西会津町の諏訪神社には相殿に古四王神社が祀られていて」とあります。 
 調べてみると、塩川町竹屋以外は新編會津風土記と重なります。

 さて、福島県の古四王神社を探訪する中で、高橋富雄『古代語の東北学』(歴史春秋出版 平8・1996)を知りました。
 福島県立博物館10周年記念出版・金曜講座10周年記念と帯に記されたこの本の第一部福島県の巻(その一)の第一講が「伊佐須美神社と古四王神社」です。
 この論考は、今までの古四王論とは大きく異なった独自のもので、私には要約することはできかねますが、「古四王の原点は、(秋田城の古四王神社ではなく)、むしろ五十公野・喜多方、なかんずく喜多方におくべきでないかとおもい、その際、全く新しく気多宮とのかかわりを考えるべきことを、提唱するのです。これがわが東北学の新説なのです。」と述べられております。
 この論究の中で、「『新発田市史』などによりますと」とその見解を取り上げていて、五十公野古四王神社についての説を述べられておりますので、桑原の仕事と関係がないわけではないので、ここに記した次第です。
 高橋富雄の著作だからと言うわけではありませんが、この新説は忘れないでおこうと思います。

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