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探訪記録 福島 13・14    川俣市 − 小徙王神社(稲荷神社・境内社)


川俣町の古四王神社
 川俣町の古四王神社については、平成25年5月に及川大渓『みちのくの庶民信仰』(昭48・1973)を入手して、その「古四王神」の論説であげられている所在地情報を検討していく中で分かってきました。
 及川は、「古四王社の鎮座地として古記に見え、ないし現存するものは次の通りである。」として福島県に関しては岩代国として9ヶ所あげ、さらに古四王の異なる表記の多いことや訛りと考えられるものもある旨を記して追加として岩代国で7社をあげています。
 前者の9社は、會津郡ー湯本村 西田面村 柏原村(伊勢宮内)
        河沼郡ー槻橋村(鬼渡社内) 野沢村(諏訪社内)
        耶麻郡ー慶徳村宮在家 深沢村(熊野社内) 
        伊達郡ー秋山村 松沢村中田、です。
 追加の7社は、耶麻郡ー太郎丸村 御所神社
        同郡 ー一戸村 五社権現  同郡ー綾金村 同
        同郡 ー宮在家村 腰王神社
        安達郡ー笹原 胡処明神  秋山ー小□王〈□内は、草冠に徙・シ〉
        二本松 五社神、です。

 前者の會津郡・河沼郡・耶麻郡の7ヶ所の所在地は、新編會津風土記に記載のある「腰王」の8ヶ所のうち大沼郡・福永村の藤巻神社の相殿の腰王神を除いた7ヶ所に一致しています。
 追加の7社のうちの宮在家村・腰王神社については新編會津風土記からの引用を載せています。
 ですが、前者の耶麻郡ー慶徳村宮在家に関しても、前者の他6社に関しても、新編會津風土記に触れていませんし引用もありません。
 耶麻郡ー慶徳村宮在家と同郡ー宮在家村は同じ所在地ですから、情報の重複ですがそれに気付いていません。所在地情報に対してどのような検証を加えているのか疑問です。
 前者の7社は新編會津風土記からの情報ではなく、所在地情報の出所が示されていませんが、別の情報源によるものなのでしょう。

 安達郡ー秋山ー小□王は安達郡に秋山地名が見当たらないので、前者の伊達郡ー秋山村との重複と思われます。
 伊達郡ー秋山村及び松沢村中田について見ていきます。
 伊達郡ー秋山村と松沢村中田について検討を加えていくと「古四王」が所在しているようです。
 鎮座地情報はこれだけの内容です。
 明治9年の統合で鶴田村と松沢村が合併し鶴沢村になる。
 明治10年、元秋山村と上秋山村が合併し秋山村になる。
 明治22年の町村制が施行され、羽田村と秋山村が合併し福田村になり、鶴沢村と東西の福沢村と小神村が合併し富田村になる。
 川俣村は単独で川俣町になる。
 昭和30年に、川俣町・飯坂村・大小の綱木村・福田村・富田村・小島村及び安達郡山木屋村が合併して、改めて川俣町が発足する。
 現在の住所表示では、伊達郡川俣町秋山(続いて字地名)、伊達郡川俣町鶴沢(続く字地名中に中田あり)となると思います。

 明治9年以降は松沢村が公式には無くなり、明治22年以降は秋山村も無いので、昭和48年当時の「みちのくの庶民信仰」の読者はこれを見て鎮座地を思い浮かべられるのでしょうか。
 著者にとってもどうだったのでしょうか。


 『平成の祭』で川俣町の神社を見ていくと、川俣町大字秋山字稲荷沢11に稲荷神社があります。

 『平成の祭』: 稲荷神社 〔主〕稲倉魂命、大田命、大己貴命、大宮姫命  通称 稲荷様
        境内社ー 愛宕神社 〔主〕軻遇突智命 
             小■王神社〔主〕稲倉魂命、稚産霊命 〈■は表示されていない文字〉
             麓山神社 〔主〕麓山祇命

 福島にあるとされる「小徙王神社」がここに祀られていることを見つけることができた。
 「小徙王神社」表記は、基本的にはこの文字を用いたいと思います。

 「松沢村中田」ですが、『平成の祭』では鶴沢地内に伊豆神社と楯和気神社がありますが「古四王」は見当たりません。
 いろいろ当たってみても分かりません。
 地図を見ると、鶴沢の中田の付近に住宅以外の小さな建物の表示がありますので、ここにヒントがあるかも知れません。


《探訪記録》
 福島県立図書館で目を通す資料の候補を蔵書検索で探すなどの事前準備をして、伊達郡誌関連、村史・町史関連、神社関連資料、川俣史談などをリストアップしました。 『神社明細帳』が図書館等の施設では閲覧できないのが残念です。
*追記=2024年6月18日 : 現在は福島県立図書館で福島県の神社明細帳が閲覧可能になっています。図書館職員さんのお話によると、神社明細帳が数年前に図書館に移管されたことで、閲覧できるようになったもようです。
 秋山村字稲荷沢鎮座の村社稲荷神社の明細を閲覧しました。 境内末社として春日神社の1社のみが記されていました。
 愛宕神社と麓山神社は秋山村の別の字地名の鎮座地で記されていましたが、小徙王神社は見出せませんでした。
 明細の提出年月は明治十一年十月とありました。

*2015年6月20〜21日(平27)探訪
 福島県立図書館で、リストアップしてきた本を次々に見て「古四王」の情報がありそうかチェックし、関係ありそうな部分のコピーをさせてもらいました。
 川俣町秋山稲荷沢に稲荷神社を訪ねました。

 道路脇に旗竿が設置され、石段があり少し登ると神社標と鳥居があり、稲荷神社と確認できました。
 鳥居をくぐり坂道を進み、石段を登ると少し土地がひらけて横長の建物〈下記「古里の神々」によると御供殿(長床)〉があり、さらに石段を登ると狛狐と社殿があります。
 社殿の右側に神社名碑等が並びその奥に岩山があり、何と言えばいいのか当たり前のものではないような雰囲気を感じます。

 社殿の左側には小さな神殿〈御神輿ではないと思う〉を納めた建物と漆喰壁の倉庫状建物があります。 
 いろいろ祀られているこの境内のどこに小徙王神社が祀られているか分かりません。
 神社の麓に人家があるのですが、尋ねられる人がいません。

 左上:  道路から参道へ  右上: 稲荷神社拝殿  左下: 拝殿右側のようす  右下: 拝殿左側のようす


 続いて、鶴沢の中田地区に行き、地図で住宅以外の建物が表示されていた場所を訪ねました。
 「松沢中田 延命地蔵尊」と記された額があげられた現代建築の地蔵堂がありました。
 堂内に恵比寿・大黒天・毘沙門尊・等も祀られていますが、小徙王神社の祭神が不明なので、「コシ王」と関係があるかどうか分かりません。
 地蔵堂側の道路脇に幟旗竿が設置されていて、「奉納 楯和気神社 南洞氏子一同」の銘板がありました。
 「南洞」というのがなんなのか分かりませんが、松沢中田地区にある幟旗竿に楯和気神社と記されているので、合祀先の可能性もあるのではないかと楯和気神社を訪ねました。
 楯和気神社にも幾つかの境内社及び神社碑がありますが、「古四王」情報は分かりません。
 次に、伊豆神社を訪ね、さらに薬師堂を訪ねましたが、これらでも情報は見当たりませんでした。

 上: 道路脇の幟旗竿、奥に地蔵堂  地蔵堂額  中: 楯和気神社  下: 伊豆神社

 川俣町を後にして南相馬・相馬に向かいました。
 翌日、小高区村上へ。海岸付近で復旧工事が始まっていて、モニタリングポストが設置され、ダンプカーと重機が入っています。
 貴布根神社拝殿であった材木も片付けられ、少しずつ変化が見られます。
 古四王神社に奉納された方々のお名前が記されていて、この方々の何人の方が…、と思わずにいられません。

《探訪の整理》
 川俣町地方史研究会の『川俣史談ー第9号(’82.7)』掲載の佐藤春雄「秋山村の伝承」に「高橋清左エ門盛尚 秋山村分郷時代(小従様を建てる) 元禄11年〈1698〉」があります。
 「小従様」に王が無く「従」字になっています。コショウサマと読むのでしょうか。
 この伝承が、この地への「小従様」の勧請と建立の記録であれば、勧請年が分かる例となりますが、勧請年が分からないほど古いものではないことにもなります。この地へ「小従様」を迎えた経緯の記録があればよいのですが。
 『川俣史談ー第12号(’85.8)』掲載の大堀俊雄「川俣地方の伊豆神社信仰とそのルーツ」中に川俣地方に在る神社をあげた中に「古四王神社(小□王神社)」があります。〈□=草冠に行人偏に走〉
 「小□王神社」を「古四王神社」と認識しておられるということなのでしょう。
 この論文から川俣町に関する資料についての教示を受けました。
 『川俣町史ー第2巻』(昭51・1976)に「村明細帳 宝暦五年〈1755〉九月会津藩預秋山村明細帳」が載っており、「一、小□王堂〈本文(コピー)中は草冠に従のように見える〉弐間四面壱ヶ所 村中鉾仕御座候此土地粂之助 卯右衛門 伊兵衛三人之山ニ御座候、村中貰請堂相建申候、御領私領入会除地ニ御座候、祭礼定日無之候」とあり、続いて「一、春日宮 弐間四面 飯坂長門守配下 大和守 是は以前正覚寺中に建置く候処致零落、村中正覚寺と申合御窺申上御指図ヲ請、大和守地内ニ引移九月十九日祭礼ニ御座候」行が改まって「鎮守〈小さな文字で表示〉」行を改め「一、稲荷宮 壱間半弐間 同断 同人是 四月十八日祭礼ニ御座候」とあり、神社についてはこの三社の記載になります。
 『川俣町史資料ー第5集』(昭42・1967)の「安政二年〈1855〉秋山村明細書上帳」に「当村小□王堂〈□=草冠に從と記されている〉」とあり説明文はほぼ宝暦の明細帳に同じです。他に稲荷堂と春日宮の記載があります。
 『伊達郡村誌ー第三巻』(昭55年・1980)に岩代国伊達郡秋山村及び鶴沢村の明治以降の村誌があります。
 秋山村の「社」項目には、「村社稲荷神社 稲荷澤の山腰に鎮座す。〈略〉」「小社麓山神社」及び「小社愛宕神社」についての記載のみです。
 鶴澤村の「社」項目には、「村社伊豆神社〈略〉」「村社楯和気神社〈略〉」及び「摂社稲荷神社」と「小社伊豆神社」についての記載のみです。
 福島県伊達郡神社総代会の編集発行になる『旧伊達郡神社銘鑑・古里の神々』(平2・1990)による川俣町秋山の稲荷神社の記事には四柱の御祭神、摂社ー愛宕神社・麓山神社等は記されていますが小徙王神社は触れられていません。
 川俣町のその他の神社の5項目の表(神社名;御祭神;鎮座地・祭礼日;記事)があり、秋山地区では「愛宕神社;軻遇槌命;秋山字槻木三四・祭礼日四月十四日;〔記事項目〕享保二年〈1717〉三月建立、郷土の護り神と伝えられ、小□王様と称す。〈草冠に從〉」と「麓山神社;麓山祇命;秋山字横道山二五ノ二・祭礼日十月十九日;稲荷神社の奥の院として祀る。末社としての麓山社である。」という記載があります。
 これによれば、愛宕神社のことを小□王様〈草冠に從〉と称していたことになります。
 『平成の祭』では、稲荷神社の境内社は、愛宕神社・小□王神社・麓山神社の三社とされていますので、愛宕神社を小□王様〈草冠に從〉と称したというのは合祀などがあったのかもしれませんし混同かもしれません。いずれにせよ、このような記述もあります。
 『川俣町史資料ー第19集』(平5・1993)の神社明細(明治十一年十月日付)で「秋山村之部」を見ると「秋山村字稲荷沢の村社稲荷神社、境内末社春日神社」「字鈴ノ入の稲荷神社」「字槻木の愛宕神社」「字上井戸上の麓山神社」他が記載されていますが小徙王神社に関する記述はありません。
 神社明細「愛宕神社」中に「〈社殿〉造営 当村士族 橋直記外百四十二名持」とあり、「信者総代橋直記」とあります。
 これは、「高橋清左エ門盛尚 秋山村分郷時代(小従様を建てる)元禄11年〈1698〉」と関係があるのでしょうか。
 この神社明細は『神社明細帳』そのものではなく、資料化するために清書されたもののようですので、記されていること以外には原本への訂正や朱書きとかの有無も分かりません。
 なぜ神社明細に小徙王神社の記述がないのでしょうか。
 小□王様〈草冠に從〉は愛宕神社だからでしょうか。
 『川俣町史資料ー第20集』(平6・1994)の神社明細で「鶴澤村之部」を見ると「伊豆神社」「楯和気神社と境内末社」他が記載されていますが小徙王神社に関する記述はありません。
 『川俣町史資料ー第23集』(平8・1996)の「鶴沢村地誌」に小徙王神社に関する記述は見当たりません。

 さらに資料を求めて福島県立図書館のレファレンスサービスを煩わせて『川俣町史資料―第3集』(昭40・1965)所収の『小手風土記』(天明8・1784)及び『福島県史料集成・第一輯』(昭27・1952)中の『信達一統志』(志田正徳―天保12・1841)から関連個所のコピーを送ってもらいました。
 『小手風土記』の松沢村の記事中に「一、小□王権現〈草冠に從〉 中田」と一行記されています。
 同書の秋山村の記事中には「一、小□王大権現〈草冠に行人偏に走〉 御坂階 並杉数株有 御堂三間四面 長床弐間梁ニ五間 祭礼三月十四日 鐘撞堂 鐘の銘ニ曰 奉寄進小□王大権現〈草冠に行人偏に走〉明和〈1772。和は偏と旁が逆に記されている〉九年壬辰九月吉祥日 奥州伊達郡小手秋山村庵主清覚常休」とあります。
 『信達一統志』の巻之二・小手荘の内の松澤邨の記事中に「小□王権現〈草冠に行人偏に走〉 中田と云ふ所に鎮座ます、何れの神を祭れるか詳ならず、後の人考ふべし」とあり、巻之四・小手荘秋山邨 公邑の記事中に「小□王権現〈草冠に行人偏に走〉 御坂階並杉あり、堂三間四面、三月十四日祭禮なり釣鐘あり、銘曰奉寄進小□大権現〈草冠に行人偏に走〉明和九年壬辰九月吉祥日奥州伊達郡小手秋山菴主清覚常休と記せり」とあり、文字の違い等がありますが小手風土記とほとんど同じ内容です。

 秋山村には、資料によって内容が異なりますが、江戸期には「小徙王」は権現として社殿をともなって確かに在ったことは間違いないと思われます。
 松沢村中田にも「小徙王権現」が在ったことが小手風土記には残されています。

 先に記したように、川俣町史資料の神社明細には「小徙王」は触れられてもいませんが、権現社であった、あるいは聞き慣れない社でもあったために、廃されたのでしょうか。
 『平成の祭』によれば、秋山稲荷沢の稲荷神社の境内社の一つとして「小徙王神社」が祀られ、旧暦3月14日に近い日曜日に祭礼も執り行われているようですので、神社明細帳には載せずに祀っていたということでしょうか。
 小徙王神社の祭神は、稲倉魂命・稚産霊命ということですので、小徙王を「古四王」としてよいのかどうかという問題も生じそうです。

 記述の文字が「小□王〈草冠に行人偏に走〉」「小□王〈草冠に從〉」「小徙王」など幾つかありました。
 コシオウと発音するならば「小□王〈草冠に從〉(コショウオウ)」は違うことになると思いますが、コショウサマと呼ばれていたのであればこの文字の選択もあり得るのかもしれません。
 資料で使用されている文字を優先して表記していますが、繰り返しになりますが当方で表記する場合は「小徙王」としておきました。

 「小徙王」は、かつて秋山村に勧請され、松沢村中田にも祀られていたのは事実でしょう。
 明治の世を経る中で秋山の「小徙王」は稲荷神社の境内社になったのでしょうが、松沢村中田の社はどうなったか分かりません。
 川俣町地内には、かつて2社の「小徙王」が在ったとして、福島13・14としました。 

 現状は、伊達郡川俣町秋山稲荷沢地内のの稲荷神社の境内社として「小徙王神社」が存在しています。
 伊達郡川俣町鶴沢中田地内の「小徙王神社」の存在は不明です。
 「小徙王」を「古四王」に結び付ける事には慎重であろうと思います。
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