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探訪記録 福島 12     相馬


*相馬市の古四王神社
 2012年11月の南相馬市小高区村上の古四王神社探訪の際に入手した『奥相志』コピーに「中村妙見末社に古支王の祠あり」の記述を見つけてから、もう一度相馬の地へ行こうと思っていました。
 「中村妙見」とは、相馬中村神社以外に無いと思いますが、2012年11月の参拝の時には「古支王の祠」に気が付いていないので不思議に思っていました。

 『平成の祭』: 相馬中村神社  祭神 (主)天御中主神   通称 お妙見様
               境内社に11社記載されていますが「古支王」はありません。
               鎮座地  相馬市中村字北町140・141
               現在住所 相馬市中村北町140

 相馬氏・相馬藩・城・信仰等についての記述はいたしません。参考資料が豊富なのでそれらをご覧下さい。

《探訪記録》
 出かけようと思っても、いろんな事に余裕が無く、この頃も遠出できるのは年1回程度のものでした。
 相馬地方への先の訪問から1年後に訪ねる事ができました。

*2013年11月2〜3日(平25)探訪
 福島西ICから国道115で霊山経由で相馬市へ。
 相馬市図書館で『奥相志』の「宇多郷・中村」「中郷・大田村」の項目をコピーさせてもらいました。
 奥相志の訳注者・解題著述者の岩崎敏夫の『本邦小祠の研究』『村の神々』の一部分をコピーさせてもらいました。

 『奥相志』=「宇多郷・中村」に「妙見祠」の記述がありその「末社」項目の中に「古支王祠」があり「稲荷祠の東にあり。小祠にして南面。伝記なし。祭神不詳。小高郷村上城趾の古支王の祠あり。里人伝て曰ふ、村上帝の霊神なりと。故に古人の所謂、元弘三年後醍醐帝の皇子義良親王、北畠顕家と共に奥の霊山に下り、少時村上塁にあり、のち南朝天子の祚を践み、村上天皇と号す。因りて以て祠を此所に建て古親王と称するか。古支王に作れるは謬れり。然れども妙見の末社に祭る所以を知らず。」とあります。
 なお「稲荷祠 本祠の東にあり。小祠。南面。云々」「雷神祠 古支王の東にあり。小祠南面。云々」とあります。
 この記述を読んで、相馬中村神社に参拝しました。

 稲荷社はありましたが、どう探しても「古支王祠」はありません。
 社務所にお邪魔しましたが、宮司さんがお留守でしたが、別の方に厩舎の方でお話を伺うことができました。
 それによると、明治の頃には無く図面にも記されていなかったとのことでした。
 お近くの郷土史家のS様をご紹介いただきましたのでお訪ねしお話を伺うと、足尾神社に合祀したのではなかったろうかということでした。
 また、『奥相志』を『おうそうし』と読むことを教えていただきました。知らないことだらけです。

上: 相馬中村神社 中左: 稲荷神社 中右: 国王社 下左: 奥が稲荷神社、左に国王社の木立 下右: 足尾神社

 その後、南相馬市小高区村上に古四王神社・貴布根神社を再訪しました。
 貴布根神社は崩れた拝殿が片付けられて本殿だけになっていました。
 村上海岸の方へ進むと、僅かに残されて立つ松を目にしました。
 相馬市の新しいビジネスホテルに宿泊。
 松川浦では、漁船が並んで係留されている姿は変わらず、釣り人は増えているようです。
 周辺では、工場の建築工事や復興作業が進み始めています。
 宇田川そして新田川に鮭の遡上を見に行きました。
 北萱浜の稲荷神社を訪ねました。
 相馬太田神社を参拝しました。
 小高町の町並みや小高駅を訪ねて帰路につき、川俣町に立ち寄って、家路につきました。

《探訪の整理》
 岩崎敏夫『本邦小祠の研究』に「古支王神(二祠) 〔名称〕こしおう。相馬のは一は古支王、一は古四王と書く。 〔分布〕(宇多郷)中村 (中郷)村上」とあり、〔異同〕としるす解説文中に「〈村上の古支王についての記述・略〉中村神社境内のものも北面であったようだが(現在は無い)、祠官田代千信氏に聞いても只の末社で由緒不詳といい、多分秋田県南秋田郡国幣小社の古四王神社の分霊を祀るものらしいとの事であった。会津野沢に行った時あの辺の人の説として古志は越で、四道将軍と関係ありといい〈カッコ内の記述・略〉、腰から下の病を祈り、そして団子を上げるという。腰云々は単に腰王と音が通う、それだけのことから来ているのではないか。〈略〉 なお、西白河下羽太の子塩権現があるが、あるいは同じものであろう。」とあります。
 〈岩崎のこの記述に関連することについて、後で記したいと思います。〉
 これによって、相馬中村神社の末社「古支王祠」は、記録によれば江戸期には存在したが、明治の頃には無くなっているということで間違いないようです。

 『奥相志』の記述でも、「古支王」の由緒が分からず、村上城趾の古支王祠について里人の伝える創建説話を記して、そういう社が何故に妙見の末社になっているのかは分からないと疑問を呈しています。
 先に簡単に記しましたが、『奥相志』-「宇多郷・中村一」の「妙見祠」の節は、妙見祠についての記述の後「末社」の項が続き、その最初が「稲荷祠 本祠の東にあり。小祠、南面。〈略〉」で、続いて「古支王祠 稲荷祠の東にあり。小祠にして南面。〈略:先に記した通り〉」で、次に「雷神祠 古支王の東にあり。小祠南面。祭神別雷神。寛文十年庚戌〈1670〉五月天守雷火の後之を勧請して祠を建つ。」、次いで「塩釜神祠 本祠の東にあり、西面、〈略〉。奉祠真言真福寺。〈略〉」「辨財天〈略〉右二神合座、額を掲ぐ。〈略〉〈弁財天縁起・略〉」、次に「荒神 西の方にあり、小祠、南面。」、この次に「国王祠 西の方、東面に建つ。祭る所平新皇将門公の霊神。〈略〉」、次いで「稲荷小祠 国王の末社なり。」、次いで「相馬天王 国王合殿。〈略〉祭る所相馬師常公霊神。(略)」、次に「天満宮 南の方に之を建つ。〈略〉」とあります。
 現在の境内の様子と異なるところがいろいろあります。
 現在の「稲荷社」は、西の方に東面して建つ「国王社」の近くにありますので、東ではなく西の方にあります。
 現在は、本祠の東には稲荷祠はありません。
 東にあるはずの「稲荷祠」の東にある「古支王祠」も、さらにその東にある「雷神祠」も見当たりません。。
 塩竈神社と黄金神社の合殿が東側にあり西面しています。その隣に松尾神社があり、その西寄りに現在の稲荷社と同規模の「足尾社」が南面しています。
 西の方にある「荒神」も見当たりません。
 南にある「天満宮」ですが、本殿から離れた南側に「北野天満宮」「八坂神社」「諏訪神社」があります。

 そうすると、西の方に南面する現在の「稲荷社」は、「国王社」の末社の「稲荷小祠」なのかもしれません。
 ちなみに『平成の祭』での境内社は、北野神社・八坂神社・諏訪神社・塩釜神社・黄金神社・松尾神社・足尾神社・稲荷神社・國王社・伊勢大御神・雷神社の11社で、『奥相志』の頃と同じままではありません。
 足尾神社の祭神は〔主〕村上帝命になっています。
 「古支王」は「古親王」で、村上帝の霊神とのことですので、この足尾神社の祭神からすると、この社に合祀されたという情報の通りなのかもしれません。
 『平成の祭』では、相馬太田神社にも境内社に足尾神社がありますが、祭神は不詳となっています。

 『奥相志』の頃には、現・相馬中村神社たる中村妙見の末社に古支王祠があったが、現在では社殿は存在せず不明です。
 あるいは、足尾社に合祀されているのかもしれませんが、資料的な裏付けはできていません。
 今言えることは、ここまでになるかと思います。

 「古支王祠」が、相馬氏の居城に設けられた相馬氏の氏神である妙見社=相馬中村神社の末社であった以上、相馬藩の関与があって祀られたと考えるのが筋だと思います。
 そうすれば、相馬氏と秋田佐竹氏とは姻戚関係をもっているので、佐竹氏との関係で秋田の古四王神の分霊を勧請したもので、移植したような神社と考えるのが妥当ではないかと思います。そのため根付かず消えていったのでは。
 また、佐竹義宣が秋田土崎湊城に入城したのが慶長7年ですし、相馬中村城が居城になるのは相馬利胤による慶長16年(1611)の修築造営以降のことで、中村妙見社はそれを受けて祀られることになるのでしょうから、古支王祠が祀られるのはその後のことかと思います。
 奥州の相馬氏はその居城を、別所館から小高城へ移し、その後村上城を築城するが途中で木材焼失で不吉と断念し牛越城に移り、牛越城も僅か六年で不吉と廃城になり、中村城に居城を移しています。
 相馬氏は居城に妙見祠を祀り、居城を移す際には妙見祠も同道しています。
 小高城に移す際に、別所館の妙見の御神体が動かず、そのため永くそこに鎮座するとあり、小高の新祠には新たに神像を彫刻し安んじ、小高から中村に転ずる際には、御神体を中村に移し、後年新像を小高妙見神祠に安んじ祭祀とのことで、古城にも祀ることを小高でも行っています。
 現在では、別所館跡に相馬太田神社、小高城跡に相馬小高神社、中村城跡に相馬中村神社があり、相馬三妙見神社と呼ばれ、相馬野馬追はこの三社の合同祭礼となっているのだそうです。
 なお、相馬三妙見を、中村妙見山観喜寺・小高金室山金性寺・大甕山尊星院医徳寺の妙見菩薩のこと、とも云うとのことです。
 牛越城跡には現在は妙見神社は祀られていないようですが、『奥相志』によれば「妙見小祠神幣 古城の外郭妙見館の頂上に在り。例祭三、九両月廿二日。祠官多壱岐正。慶長中、公牛越在城の時祠を建て之を祀る。小高帰城の後頽破し今叢祠を存す山上に古杉有り。」とあります。
 ここに記された例祭は、牛越城が居城の時のことだと思いますが、江戸末期に叢祠となっても例祭を行っているということであれば、牛越古城にも妙見祠が残されて幕末にも祀られていたことになります。その場合は、明治を迎えてどうなったのでしょうか。
 村上城跡にも『奥相志』の記載によれば「妙見曲輪」があったようですので、祀る準備はしていたのでしょう。

 村上城跡に妙見社の代りに「古四王社」を置いたのかも知れないと思います。
 「古四王神信仰はいつからか北方を神聖視する信仰をもったと考えるべきであろう。」と桑原正史(『新発田市史上巻』=「古四王神社」昭55)が述べていますが、その信仰の性格によって妙見社の代りとされたのではないでしょうか。

 さて、岩崎『本邦小祠の研究』中に、「会津野沢」で「古志は越」と記されていますので、コシは腰ではないこと、越国等の「コシ」という認識があることの傍証になるとおもいます。なお、野沢の社は「古四王」表記です。
 「腰から下の病を祈り」とありますが、東山温泉の場合も同じように霊験ありとされて芸者衆の信仰を集めていたという話〈桑原啓「古四王神社と大彦命」による〉があります。
 腰王という表記の神社名が、名前を謂われとした信仰を生んだということでしょうか。

 西白河下羽太の子塩権現については、所在地情報とします。

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