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探訪記録 福島  9   三春町 − 古四王堂(真照寺 境内)


喜田貞吉提示の田村郡三春町真照寺内古四王堂 
 《喜田追加リスト》ー〈記事「所在地リストについて」―「大山リストについて」参照〉

 喜田貞吉は「越の国及び越人の研究(上中下)」〈=『東北文化研究ー第1巻・第4号・5号・6号』〉を表わし、研究(下)の「十七、古四王神社と越人」の節において、大山宏の二十二箇所の所在地情報を示し、それ以外に二社と未調査の一社の情報を追加提示しています。
  その二社の内のひとつが三春町真照寺内古四王堂になります。

《探訪記録》 
 桑原リストの福島3社〈大山新リストと変わらないまま〉のうちの1社
  丸山茂は「越国と越王神社」で分布をあげて福島3社(桑原と同所)を記しています。
  川崎浩良のリストにはありません。
  及川大渓のリストにはありません。

*2009年9月22日(平21)探訪
 桑原リストで、お寺の内にあり神社ではなく古四王堂となっているので、気になっていました。
 2005年9月にはネット情報で真照寺及び古四王堂の存在と所在地=田村郡三春町字新町258を確認できていましたが、訪問できたのは2009年9月になりました。
 2009年5月に三春方面への探訪の下調べをしている時に、ネットで福島県町並み・歴史建築見所ナビの三春町ー真照寺の記事に真照寺概要が載っているのを見つけました。
 それは三春町教育委員会の案内版を引いたもので、「〈真照寺は〉安東氏の祈願所で古四王の別当である。正保2年秋田俊季の奥州三春移封の際、常陸宍戸に残ったが、慶安3年三春2代藩主盛季によって古四王とともに三春に遷された。」とありました。

 とにかく行ってみようと訪ねました。
 高速を降りて先ず真照寺に向かいました。県道から真照寺方面に入ると小高い場所に山門があります。  
 山門への石段の下にネットに載っていた三春町教育委員会の真言宗日乗山真照寺の案内版があります。
 境内に入り本堂に参拝し、本堂に向かって左側にある古四王堂に向かいます。
 三段の階があり縁が三方に廻された三間に二間半程の御堂で、屋根は赤系の金属板に覆われています。
 側に古四王別当と標題された案内板があり「秋田市史」を引いた古四王についての説明等が第十六代住職のお名前で記されていましたが、これについては触れません。
 ここではこれ以上の事は分かりませんでした。
 真照寺のお庭を拝見したあと、城下町三春の中心部から三春町歴史民俗資料館を訪ねて、幾つかの刊行物を購入しました。
 人口2万に満たない町に歴史民俗資料館等があるのは歴史ある城下町ならではでしょうか。
 滝桜を見に行き、葉桜の迫力に圧倒されました。

左上: 真照寺ー案内板、奥が山門  右上: 本堂 
左下: 古四王堂ー本堂側から    右下: 古四王堂ー斜め後方から


《探訪の整理》
 三春藩秋田氏に至る歴史・系図を論ずるなどは私の及ぶところではありませんが、三春町歴史民俗資料館刊行の『三春藩』『三春真照寺』『三春・城下町を歩こう』他の資料からすると、安倍実季は秋田市土崎の湊城を本城として秋田城介を号し秋田氏を名乗ったが、徳川家康によって常陸国宍戸へ転封となる。本領を離れるにあたり先祖の墓石すべてを遷し、伊駒姓を名乗る。慶長16年秋田城介の宣任を受け、秋田姓を公称する。正保2年に実季嫡子秋田俊季に三春への転封が申し渡される。宍戸四カ寺のうち真照寺はこの時三春への引越しがかなわず、三春二代藩主秋田盛季の時に古四王堂とともに移転された。
 『三春真照寺』によれば、秋田における実季代に寺領を寄進している21寺の筆頭に真照寺が記載されているとのことであり、実季の慶安3年の書状に「真照寺と申候祈願所、コシ王ノ別当にて候。是ハ家ニつたわり、…」とあるとのことです。
 そうすると、安倍氏を祖先とする秋田氏が秋田の地で祀っていた古四王を秋田氏の転邦にともなって宍戸をへて三春で祀るようになったものということになります。
 この地の古四王は、古四王の分布圏の広がりを意味するものではなく、秋田から移されたものになりそうです。
 そして三春藩領内に古四王の信仰は広がってはいないようです。

 なお、『三春真照寺』には、「古四王は当初宝形造であったと思われ、安東焼の流れを伝える丈六焼の宝珠が残されている。正徳の再建では入母屋造となり〈略〉古四王・真照寺落慶とともに藩主秋田盛季は諸尊像を納めた。〈略)本尊不動明王立像は秘仏とされ、〈略〉さらに古四王天像四躯〈区のメは品〉は安倍貞任の縁起を伝え、いっさい開帳されない。」とあります。
 『三春・城下町を歩こう』には、「本堂内にある四天王像は二代藩主秋田盛季が奉納したもので、もともとは古四王堂に安置されていました。」とあります。
 そうすると、この「古四王」には四天王像が祀られているもののようです。
 安倍貞任の縁起を伝える古四王天像四躯とは、どのようなことなのでしょう。

 2013年7月に山形県立図書館で喜田禎吉の「越の国及び越人の研究」のコピーができました。
 「研究(下)」の「十七、古四王神社と越人」の節において、真照寺古四王堂について概略以下のように述べていました。
 「多数の古四王社の中には勧請の由緒の新しいものもあるべく、随って其の分布に就いても、別に考える所が無ければならぬ」として、「三春町真照寺の古四王権現は、もと領主秋田氏が羽後檜山に住した際に、そこに氏神として祭って居たのであったが云々」と記しています。
 さらに「真照寺内に北向の四王堂を建て」「其の安置する所は四天王像で、同寺所蔵の縁起の草案に」と『(上略)ここに御家元祖安日王は須彌の四天王姓也。…安日子孫安東、東北蝦夷為追討、将軍號賜り奥州に下向し玉ふ。…安東思ふ様、我は四天王姓なればとて、虚空に向ひ深心し、四天王へ祈請し給へば、忽ち空中より四天王権りに現はれ、我は古の天王也とて、力を合せ、無程對治し、夫より現れ玉ふ四天王を、古四王権現と號し、代々御家の鎮守と奉拝、代々の御先祖陣中に古四王像を所持して、勝利を得ざるなく、常には東門院境内に城主守護として、城へ向け安置す。(下略)』を記し「東門院とは秋田寺内村なる古四王社別当の名である。随って檜山や三春の此神社が、日の本将軍たる安東氏によって、此の寺内なる古四王社から分霊移祀せられたものであるに相違ない。而して安東氏では之を以て、もと自家の祖先として四天王を祭ったものと傅へて居たのであった。安東氏は自ら長髄彦の兄安日の後と称して居る。而して前記三春古四王堂の縁起草案に、御家元祖安日王は須彌の四天王姓也。下界鎮護の為に日本へ下向し給ふと云ひ、ここに自家の祖先と四天王とを結び付けて居るのである。」と記述し、さらに論を進めています。
 喜田の論述については、また改めて触れなければならないことになると思いますが、ここでは真照寺に関する部分を抜き出して記しておくにとどめたいと思います。

 あらためて概略を記してみると、“安東氏の元祖安日王は須彌の四天王姓で、安東氏は四天王姓だからと、四天王に祈請したところ姿をお現しになった四天王は自ら古の天王也と称した。これよりお現われの四天王を古四王権現と号し、代々御家の鎮守と奉拝した。” ということでしょうか。
 安東氏は四天王で、その祈請に祖先の四天王が現われたので、古の四天王であるので古四王権現と号したということなのでしょうか。
 四天王姓とはどういうことなのでしょか。
 現われた四天王が安倍貞任の化身なのでしょうか。
 秋田氏が、秋田にあって安倍氏として祀った寺内や檜山の古四王社も四天王を祀っているということになるのでしょう。

 真照寺の所在地の現住所をあらためて記しておきます。
 田村郡三春町新町258
 古四王堂は、越王でも高志王でも腰王でも胡四王でもなく、古四王でした。

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