ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ

探訪記録 福島  7   会津美里町 − 古四王神社(藤巻神社 境内)


新編會津風土記の腰王神社 その7(区分ヘ)  
《新編會津風土記の所在地情報》
(ヘ)大沼郡(橋爪組)福永村   ○藤巻神社  相殿・腰王神
        (昔は火玉村と云火の字日に作り或は檜に作るもあり加藤氏火の字を忌て、寛永四年今の名にあらためき、(略)
        村中を火玉川流れ、北に田圃あり、下野街道駅所にて、村中に官より令せらるゝ掟條目の制札あり)
  ○神社項目の記述〈抜粋〉
   ○藤巻神社 村中にあり、祭神は面足尊 惶根尊〈オモダルノミコト カシコネノミコト〉なり、いつの代の鎮座なることを知らず、
         相傳て昔は永楽十貫文の社料あり、神官社僧も多かりしと云、…天正年間中蒲生氏の時社料を失ひ、
         社頭頽敗し旧礎のみ存せしを、萬治元年に再興して小社を経営す、
   〔相殿五座〕△伊勢宮 本村より移しぬ △稲荷神 同上 △天神 同上 △腰王神 同上 △玉御前神 同上 
    △神職山口越後 萬治元年此村を再興せし時、本村の農民勝右衛門と云者、始て神職となり、遠江と称す、今の越後延壽は
            其五世の孫なりとぞ。

《探訪記録》  桑原リスト外
 明治8年福永村・相川村が合併し永会村。明治10年永会村・関上村が統合し氷玉村。明治22年氷玉村・福重岡村が合併し氷玉岡村。
 明治36年本郷村が町制施行し本郷町。

 大正14年氷玉岡村・川路村が合併し玉路村発足。
 昭和29年本郷町・玉路村が合併し改めて本郷町発足。
 平成4年本郷町が改称し会津本郷町に。
 平成17年会津高田町・会津本郷町・新鶴村が合併し会津美里町発足。

 地図を調べると福永の地名があり神社記号もあり、ネット上に藤巻神社の大銀杏の案内もありました。

*2010年12月11日(平22)探訪
 福永集落へ県道23号線から下野(日光)街道にはいって南下すると川の向こうに赤い鳥居があり、橋を渡ると道路沿いに藤巻神社の鳥居があって参道が続いています。
 社殿に藤巻大明神の社額があります。
 藤巻神社由緒の額(昭和49年)があり、そこに、「寛文時代」の会津藩の「社籍査訂」において「その正しきを認められ次記年を遂うて支持擁護を受くるに至れり」「『会国八社一万石総鎮守』の称を充さるるに至り」等の記述があり、次いで「明治五年村社に列せられ更に若松県の指命により祭神を『明玉命』と改めらる。」とあり、続いて新社殿及び改築の記事があります。
 その後に、「祭神」の記載があり「元 面足尊 惶根尊〈並記されている〉神世七代の第六神  今 明玉命 別御名玉祖命 八坂瓊曲玉をつくらる」とあります。
 新編會津風土記凡例に記された「正祀を再興し」のひとつだったのでしょう。
 祭神の変更も明治の神社政策のなかで行われた事でしょうが、どのような理由で祭神「面足尊・惶根尊」を「明玉命」に変更させたのでしょうか。相殿に祀られた「玉御前神」と関係があるのでしょうか。「火玉村」であったことが関係するのでしょうか。
 祭神並びにその表記や神社名等におよぼす明治新政府・出先の意向が、それ以前の状態に変更を加えている明らかな例なのではないでしょうか。
 神社や郷土のたどった歴史は、遠方の者が調べるのは難しいことです。

左: 藤巻神社参道  右: 社殿  下: 由緒の額


 境内の一画に、古四王神社の社標と鳥居と灯籠があり岩山状の基壇の上に流造の小社殿がありました。
 社殿に古四王大権現の社額があります。
 相殿になった古四王神がきちんと社殿をもって祀られていました。
 岩山の上に祀っているのは何かを表わしているのでしょうか。そこに岩があっただけなのでしょうか。
 この辺りを走行した時、平地にぽつんぽつんと小山があり、面白い地形に思いました。

 境内の古四王神社と社額

《探訪の整理》
『平成の祭』: 藤巻神社  祭神 (主)明玉命
             境内社の欄に、忠魂碑と雷神社が記されていますが古四王神社の記載はありません。
             祭礼の欄に、他社・非法人小祠の諸祭として塞神祭の記載があります。
            鎮座地 大沼郡会津本郷町大字氷玉字古屋敷丙1636
            現住所表示 大沼郡会津美里町氷玉字古屋敷丙1636

 福永村のどこかに祀られていた古四王神社が、会津藩の政策にそって藤巻神社に合祀され、いつの頃に誰によって祀られたのかを識るすべはありませんが、社殿にあげられた「古四王大権現」の額は相当古いもののように思われますので、会津藩の記録では「腰王」ですが祀る人々にとっては「古四王」だったのではないでしょうか。


《 追 記 2021ー11 》
*『本郷町史』(本郷町史編纂委員会 昭52・1977)を図書館の相互貸借でお借りしました。
 「第三編ー第三章 宗教ー第二節 神社」の中に「高志王神社」の項目がありました。
 それによると、「当社は藤巻神社に合祀られている。昔は村南字古四王山の中腹にあったが、寛政七年(1795)に福永村古屋敷の藤巻神社境内に移されたものである。旧地古四王山の中腹に苔むした礎石と二十段程の半ば崩れた石段が残り往時がしのばれる。
 祭神は大彦尊の奥方八百姫の命で若松県になった明治五年(1872)高志王と書き改めさせられたという。これはおそらく神道の大家坂内須賀美が当時高田の伊佐須美社禰宜であったときで四道将軍の一人大彦尊が、後に高志王と名のった方であるので高志王が正しいものとして書き改めさせられたものと思われる。また腰王神社とも書き足・腰が強くなるようにと願をこめて金属製の草履が沢山奉納されている。」とありました。
 「高志王神社(福永)」とある写真が載せられていて、奉納された神社名を書いた布に「古四王神社」「腰王神社」とあります。

 第二節の「藤巻神社」の項目中に「延宝三年〈1675〉、五社合祀となる。」とあって、「勧請札」の表と裏が記載されています。
 表面に記された社は「稲荷/伊勢/天神/玉御前」で裏面に「腰王」とあり「延宝三乙卯年三月吉日」とあります。

 第二節の最初の項目は「勧請札」で、そこに「神社には社籍ともいわれる勧請札が収められている。これによって勧請の年代を知ることができるわけであるが、神社によっては残された古文書・口伝・書籍等に勧請札の年代の違いのあることが見受けられる。 
 例えば、村社藤巻神社は会津八社の一つで、会津高田町伊弉住大明神の母神であって、天正(1576ー)の頃、蒲生氏郷の時に社領を失ったと記されているし、また村社稲荷神社は文治五年(1185)に佐原義連が会津に入部した時、鶴ヶ城・亀ヶ城・その他数か所に祀った一つであるといわれる古い神社であるのに、勧請札には共に『延宝三乙卯年三月吉日』とあり、期せずして年月が一致している。
 この事実を考察するに、寛文から延宝にかけて藩の方針として寄宮を奨励したので、その方針に従って合祀した際の勧請札であるものと結論づけることができる。」とありました。
 「稲荷/伊勢/天神/玉御前/腰王」の「五社合祀」の「勧請札」も、そういったことによるものではないでしょうか。

 同書「第一編 風土ー第一章ー第三節 境界」に、「本郷町の大字名、字名」の記載があり「旧玉路村ー大字氷玉」の142番目に「古四王山」がありました。
 地名として「古四王山」の表記が伝わっているということでしょうか。
 そうであれば、古四王山に鎮座していた神社は古四王神社ということになると思います。

 地名は、140番館山・141番堤入・143番梨ケ窪・144番横川山というように並んでいます。
 地図を見ると、藤巻神社の南南東650メートル程の所に標高380メートルの新山というのがありますが、新山山頂より西の方に「舘山」、南方に「堤入」、その南に「梨ケ窪」と並んでいますので、「古四王山」は「堤入」と「梨ケ窪」の間にあるのではないかと思います。
 地図では、山に入っていく道が見えません。
 Gogleマップで見てみますと、「古四王山丙」という地名が表示されていました。

 

 旧社地の痕跡があるようですので、近くまででも行ってみたいものです。

          
ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ