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探訪記録 福島 2
西会津町野沢 − 古四王神社
*
新編會津風土記の腰王神社 その2(区分チ)
《新編會津風土記の所在地情報》
(チ)河沼郡(野澤組)野澤本町 ○諏訪神社 相殿・腰王神 〈注:野澤本村と記した誤りを野澤本町に訂正しました〉
○神社項目の記述〈抜粋〉
○諏訪神社 町より卯辰の方三町五十間餘にあり、鎮座の初詳ならず
〔相殿六座〕△山神四座 二座は本村より移し、二座は野澤原町より移せり、 △腰王神 本村より移せり、 △伊豆神
△神職伊藤対馬 〈注:本村より移せりは、文献記載のままです〉
○寺院項目の記述〈抜粋〉
○遍照寺 真言宗、野澤山と号す 野澤原町如法寺の門徒なり
六地蔵・境内にあり もと町より辰の方十一町越後街道古四王原と云所にありて…
《探訪記録》
この社は、大山リストの「河沼郡野澤村古四王原」であろうと思われます。
現住所を地図情報及び市町村の変遷情報にもとづいてたどると、明治8年野沢原町・野沢本町・等が合併し野沢村。
明治22年村制野沢村。明治40年町制野沢町。
昭和29年野沢町等が耶麻郡新郷村等と合併してに耶麻郡西会津町となる。
西会津町野沢には腰王原甲、古四王原甲、本町、諏訪西甲、等があるので、住所で検索し地図に当たっていきました。
諏訪神社と古四王原のおおよその場所が分かったので行ってみることにしました。
*2005年9月17日(平17)探訪
野沢の諏訪神社〈諏方神社と表記されている〉は運の良いことに祭礼で拝殿にいらした方々に古四王についてお聞きすることができて、「古四王神社が存在し、9月25日が祭り」と教えていただきました。
以下の写真2枚は諏訪神社の参道と拝殿です。
古四王神社付近と思えるところで、通りがかりの30代と思われる女性にお聞きすると、コシオウでは首をひねられましたがコショウサマと言うとすぐに分かっていただけました。
国道400号の東北電力・野沢変電所の看板から入って探してみると山腹に鳥居の上部が見え神社の存在がうかがえますが、背丈を超すような草で近づくことができませんでした。
左: 国道400号から神社ヘ向う入口付近 右: 鳥居の上の部分が見える・赤丸でマーク。社殿は中央左側になります。
*9月25日 再訪
祭礼日に合わせて再訪すると、草が刈り払われてきれいになっていて、神社に近づくことができました。
先日草藪の奥に見えた鳥居のさきに細い階段が続いていて、のぼると屋根を赤い金属板で葺かれた小ぶりで質素な社殿があります。
拝殿と本殿に分かれています。本殿の後方に小さな石祠があり、草のかげに幾つかの小さな石碑が見受けられました。
訪れたのは午後1時過ぎでしたが、社殿の扉は閉じられていて、祭りの行事は終わっているのか、お話を聞ける方はいませんでした。
拝殿の正面は、北北東に面していました。
鳥居 参道 社殿
地図: マークは、国道400号から神社ヘ至る道の入口。発電所看板から橋を渡って進みます。
《探訪の整理》
『平成の祭』 : 古四王神社 ふりがなは「こしのうじんじゃ」とあります。
コシオウがコシノウといわれるように転じたのでしょうか。
コシ之王からの変化ということはどうでしょうか。
コシ皇をコシノウと読む可能性はどうでしょうか。
鎮座地 耶麻郡西会津町野沢字荒田甲1585
現在は荒田甲の地名は住所表示では使われていないもようです。
現住所は、耶麻郡西会津町野沢古四王原甲地内になるでしょうか。
祭神 大畏古尊、建沼河別尊
諏方神社 鎮座地 西会津町野沢字諏訪東甲916
祭神 建御名方命
新編會津風土記に、諏訪神社に相殿六座とあり腰王神本村より移せりとありますが、藩の政策にもかかわらず元の社地に祭っていたのでしょうか。山上で新田にできず元の鎮座地が残ったのでしょうか。
新編會津風土記の野澤本村の記述にも「越後街道古四王原」という地名表記があります。これもありのまま記されているのではないでしょうか。そうすれば、「古四王」と表記されていた傍証ではないでしょうか。
月光リストでは、丸山と及川による河沼郡野沢村古四王原と近藤による耶麻郡西会津町がともにリストアップされています。
河沼郡野沢村古四王原の情報は大山リストのままで、近藤による情報は所在地住所の変遷を反映したものになりますので、重複しています。このくらいの確認作業もしていないのでしょうか。
月光リストでは福島に関してもう一ヶ所で重複があります。
藤原相之助は「古四王神社の意義に就いて」(秋田郷土叢話収録ー昭9)に、福島県に河沼郡野澤村・古四王堂(六地蔵)と耶麻郡慶徳村・腰王神社をあげています。
六地蔵は古四王原にあったそうですが、情報に混乱があったのでしょうか。
藤原の「美人国祖神記」は、岩代国として耶麻郡宮在家村・腰王神社(古四王)と河沼郡大槻村・古四王原(祠宇廃止)をあげています。
昭和初期の情報事情もあるでしょうが、同一人の著作中のこの整合性のなさをみると、情報の出所などはどうなっているのでしょう。
《 追記 2022年2月 》
*『西会津町史 第6巻(下)旧町村沿革』(平3・1991)の「第二章 旧野沢町」の「神社」項目に、1番目に「諏方神社(旧郷社)本町 祭神建御名方神〈略〉なお、会津若松(黒川)諏方神社と同様に訪を方と作るのは、信州諏訪本社に遠慮してのことだと伝えられている。」があり、諏方神社と表記されています。
6番目に「古四王神社 本町 祭神大毘古尊ほか 例祭旧八月十三日 『神社誌』に延宝年間(1673−81)諏方神社の相殿の腰王神を本町村より移し、明治初年に独立したとある。」があり、次に「稲荷神社 本町 祭神倉稲魂命 例祭七月一日 勧請不詳。〈略〉」があり、13番目に〔山神社 中野 祭神大山祇神 例祭九月九日 『神社誌』に「延宝の制度改正の時、この中野村より端村大窪の山神社に相殿として祭られ、明治の初めごろ独立した」とある。〕も記されていました。
「本町」とされているのは、諏方・古四王・稲荷の三社でした。
明治に入って「独立した」の記載が古四王神社と中野の山神社の二社にありました。
〈『神社誌』は、「河沼郡神社誌」か?〉
さて、この古四王神社の記述の「延宝年間諏方神社の相殿の腰王神を本町村より移し」は、どういうことでしょうか。
諏方神社の相殿の腰王神を(諏方神社の鎮座地の)本町村から移した(相殿を解消した)、と読んでしまわないでしょうか。
相殿から移転したとは考えにくいので、諏方神社の相殿の腰王神は本町村から移したもの、ということを言いたいのであろうと思いますが、少なくとも私はすぐには読み取れませんでした。
それはさておき、「明治初年に独立した」ことで、現在地に鎮座し祀られている神社に詣でることができたということなのでしょう。
『新編会津風土記』に諏訪神社の相殿と記されていた古四王神社が、社地と社殿をもって祀られていることを地元の方に教えていただいたときは、公には相殿となっても元々の鎮座地で祀り続けていたのだろうかと思っていましたが、そうでないならば相殿とされた元の社地と社殿はどうなったのでしょうか。
現在の社地は、旧社地なのでしょうか。
それにしても、相殿とされた古四王神社を、独自の社地と社殿を持つ神社にして祀った方は、どのような方でどのような思いであったのでしょうか。
*同書・同章の「藩政のころの村落」の「野沢原町ハラマチ」の項目中に、〔『旧記書抄』に、新町橋の手前に「尺角に二間半程の柱に〈従是東 川沼郡野沢原町領分〉」と書いた標識を建て、「村」の名を付けない旨を記しているが、これは寛政九年(1797)藩より「駅所は村の字を付けざるよう」という通達(前出・長谷川家『駅法書』)によるものであった。〕があり、「野沢本町モトマチ」の項目に「野沢組親郷、湖水が引いて初めて開けた町なので本町と名付け、その地はいま古町という(『新編会津』)。ここの諏方神社は野沢郷の総鎮守であった。」があります。
*『西会津町史 第4巻(下)近世資料』(平4・1992)に「八 文化六年(1809)新編会津風土記(抄)」があり、解題に「この新編会津風土記は会津若松市立図書館本を底本」とあります。
ここに記された「野沢本町」の「神社」項目の諏訪神社の相殿六座の記載は「山神四座 二座ハ本町ヨリ移シ二座ハ野沢原町ヨリ移セリ、腰王神 本町ヨリ移セリ、伊豆神 野沢原町ヨリ移セリ、」とありますので、当記事のはじめに記した雄山閣版の新編会津風土記で「腰王神 本村より移せり」は「本町」の誤りと思います。
*『西会津町』(相馬正男・編 西会津町教育委員会 昭31・1956)の「野沢篇ー寛文の野沢」の「野沢本町越後海道馬継」の「社」の項目に、「諏訪大明神の宮、在所より辰の方五町を隔て、社地東西廿弐間南北五拾六間、この内に古木槻弐本、杉雑木立つ。腰王権現社跡、在所より午の方九町隔る在〈社か?〉地四方弐間、この内に杉四本、松木立つ。稲荷の宮、在所より未の方七町を隔つ社地、東西弐間南北三間、この内に杉雑木立つ。山の神社跡あり、在所よる丑の方屋敷の端にあり、社地東西三間南北五間。」がありました。
寛文(1661〜1673)の頃に、腰王権現の社の跡があるということは、この頃には諏方神社の相殿であったのでしょう。
社跡とありますので、社殿は無いが旧社地は特定できるという状態なのでしょう。
相殿に関して延宝の元号が記されているのは、公式な年月をそのようにしているのではないかと思いますが、他の例もありますので藩の制度改革によるものと思いますが、それがどのようなものであったかは残念ながら今のところ私には不明です。
*『福島県の地名』(平凡社 平5・1993)の「耶麻郡ー西会津町」を見てみます。
項目「野沢町・野沢宿」に「現西会津町の市街中心部にあたる。越後街道の宿駅として発達し、近世には野沢組をはじめとする会津西端地域の行政・経済の中心地となった。街区は野沢原町村・野沢本町村の二村にまたがっていた。」とあります。
項目「野沢本町村」と記された項目の中に「地蔵原の上手には古四王神社がある。腰王とも記したため、原町花街の女性に信仰された。」がありました。
いつの時代のことなのか明瞭ではありませんが、御利益を求める人を社名が引きつけるのでしょうか。
*『西会津町史 第6巻(上)民俗』(平3・1991)ー「第七章・第三節・一」に「金華神様は白坂側のムラの入り口に祀られている。キンカとは耳の不自由な人のことで、耳が聞こえなくなったり、悪くなったりしたときにこの金華神様にお参りし、木の皿にきりで穴を開け、麻紐を通して近くの木にかけてくると良くなるといわれていた。」があり、「堀越には『三本道の北向き地蔵』と呼ばれている石の地蔵が祀られており、御利益のある地蔵として知られている。」がありました。
きんか様と穴開け木皿などについて記されていましたので、引用しておきます。
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