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探訪記録 福島  1     喜多方市 − 古四王神社


*新編會津風土記の腰王神社 その1 (区分ホ)
 新編会津風土記では、「腰王」神社に表記の統一がみられます。
 当時、各々の社が実際にはどのように表記されていたかを示す別の資料があれば良いのですが。

《新編會津風土記の所在地情報》
(ホ)耶麻郡(慶徳組上12箇村のうちの)宮在家村  ○腰王神社
  ○神社の項目の記述〈抜粋〉:
   ○腰王神社境内十間四方免除地 村西二町十間山上にあり
    祭神は市千魂命なり、鎮座の年月詳らかならず、鳥居あり
    別当は四天王の木像を安置せる故、古四王といえり、像は聖徳太子の作と云、〈この文節は細字で二行で記されている〉
   △別当大重院 本山派の修験なり、先祖詳らかならず、中興圓長より現住直圓まで十二世なりと云、
  ○寺院の項目の記述(抜粋):
   ○長傳寺 村より戌の方にあり腰王山と号す、曹洞宗、慶徳村慶徳寺の末山なり、
            天文二年(1533)長傳と云う僧開基して、慶徳寺五世一峯を請うて開山とす、 

《探訪記録》
 この社は、大山リストの「耶麻郡慶徳村宮在家」のことで間違いないと思われます。
 現住所を調べるため、地図情報及び市町村の変遷情報にもとづいてたどると、明治8年宮在家村と松野村が合併し松舞家村、明治10年慶徳村・堀出新田村・新宮村が合併し豊岡村、明治22年町村制の施行で松舞家村・豊岡村等が合併して慶徳村、昭和29年喜多方町・慶徳村等1町7村が合併し喜多方市発足。以下略。  
 こうなれば喜多方の古四王神社に間違いないでしょう。
 市町村名の変遷をたどるために県立図書館に通わなくてもよいので助かります。
 なお、国土地理院の2万5千分の1地形図には「宮在家」の表示がありますが、住所地名としては現在は使われていないもようです。
 この社は古四王神社の中でもよく知られているので、容易に見つけられます。

*2005年6月4日(平17)探訪
 道路端に石柱碑があり、正面に「日本三社 古四王神社」、側面に「古四王神社本殿 弘治三丁巴年建立」と彫られています。
  〈弘治三年=1557、丁巴と彫られているように見えますが丁巳かと思います〉
 石鳥居があり「古四王神社」の額があります。「石鳥居復旧之碑 昭和十三年」と読める碑があります。

 鳥居を入った正面には石の階段があり、のぼると古びた「古四王大権現」と彫られた石碑があります。
 しばらく山道をのぼり稲荷神社をすぎると古四王神社本殿があらわれます。
 石積みの基壇があり束柱をたて縁を周囲にめぐらせた三間四方の社殿が建っています。
 緩やかな石段があり正面の扉の上に木板に縦に「古四王神社」と記されていますが古いものではなさそうです。
 屋根は四角錐状で赤い金属板で覆われており頂に珠がのっています。
 よく見られる神社の建築様式ではなく、御堂のような印象を受けました。

写真左上:道路端の石柱碑  写真右上:石鳥居と里宮  写真左下:本殿正面  写真右下:本殿背面


《探訪の整理》 
 現住所は、喜多方市慶徳町松舞家字馬坂4202。これは本殿の所在地になります。
 住所を松舞家丑ノ尾3940とする情報もありますが、これは里宮の住所になります。

 月光リストには「喜多方市慶徳町 古志王神」、佐藤リストでは「喜多方市慶徳町 腰王神社」とあります。

 「平成の祭」 : 古四王神社 鎮座地 喜多方市慶徳町松舞家字馬坂4202
               祭神  大畏古命・武渟名川別命 

 このように、古四王神社として大畏古命・武渟名川別命〈大彦命、建沼河別命〉を祭神として祀るとなれば、会津の古四王神社として申し分のないかたちになっていると思います。
 新編会津風土記では、祭神は市千魂命なりとあります。
 新編會津風土記では、腰王神社・腰王神に祭神の記載があるのはこの腰王神社だけです。
 祭神を記さないで神社名のみを記している神社記述は多くみられ、祭神が記されていないのが不自然ではないようです。
 そして、本山派修験の別当大重院からの聴き取りと思える「別当は四天王の木像を安置せる故、古四王といえり」とあり、ここでは「古四王」表記を〈おそらくありのまま〉用いています。
 そして、“四天王の木像を安置し古四王”という認識があることがうかがえます。
 新編會津風土記では「腰王神社」と表記していますが、江戸期には、市千魂命を祀るといい、別当は四天王の木像を安置して古四王といっていたということで、「腰王」の背後から「古四王」が表われているようです。
(明治になって)別当大重院はどうなったのか、四天王の木像はどうなったのか。
 長傳寺は訪ねていません。腰王山という山号の謂われは何なのでしょう。

 調べる事は多くありますが、ほとんどが手つかずのままです。
 祭神の市千魂命は、『神道大辞典(縮刷版)』(臨川書店ー昭61・1986)によれば、「アマアイノミコト 天相命 市千魂命(いちぢむすびのみこと)ともいふ。津速産霊神の御子で、興台産霊神の父神とも傅へられるが、その他については明らかでない。」とあります。
 この神を祭神としたことの謂われが気になります。
 
 『喜多方市 歴史・観光のHP』から「古四王神社」を閲覧し、概要説明を抜書きすると「琴平山中腹に鎮座している古四王神社」「本尊だったと思われる神像は平安時代末期の作と推定される多聞天(両腕欠損)であることからかなりの古社だと思われます。」「伝承によると推古天皇の御代、聖徳太子が東夷東征の際、戦勝祈願の為、喜多方と秋田県秋田市、新潟県新発田市五十公野にそれぞれ大畏古命の分霊を勧請したのが始まりとされます(ゆえに日本三社と云われているそうです)。古くから神仏習合し別当寺院には四天王の木像が本尊として祀られていたとされ、それが転じて社号になったとも云われています。」「社殿は三間四面の宝形造り〈略〉北側を正面にする〈略〉」とあります。
  琴平山: 標高373m 山頂に琴平神社 古四王山というわけではない。
      地図によれば古四王神社本殿の標高約300m強 里宮の標高約220m
 四天王の木像は四体なのか多聞天のみでしょうか。別当寺はどこにあったのでしょうか。
 私が里宮と記した本殿への登り口にある社殿が別当寺だったのでしょうか。
 宝形造りは方形造とも書くようです。
 しかし、どこから出た創建伝説でしょうか。
 
 『喜多方史跡めぐり』(歴春ブックレット)に、「拝殿に安置する多聞天と思われる御神像」とあります。
 ここからすると、毘沙門天を祀っていたとするのが自然のように思います。
 拝殿とはどこのことでしょうか、里宮と記した社殿のことでしょうか。
 また、同書の慶徳寺の記事に慶徳寺は曹洞宗が会津入りした嚆矢で、開基源翁は越後国萩村に生れたとあります。
 源翁が庵を結んだのは応安元年(1368)。生年は嘉歴4年(1329)。萩村は弥彦村にあたるようです.


《追記 : 再訪の記録》
*2021年11月6日
 再訪しました。
 麓の鳥居をくぐり、右側の社殿へ。
 あげられた社額には、右に「大日本三社」、中央に「古四王神社」、左側に「奉納 富村 佐藤氏」とあるようです。
 神社入口の「日本三社 古四王神社」の標柱の側面に「重要建造物 古四王神社本殿 弘治三丁巳年建立」とありますので、拝殿と呼べるのはこの麓の社殿であろうと思います。
 そうすれば、ここに「多聞天と思われる御神像」が安置されているのでしょうが、外からではうかがいようもありません。
 スマホのコンパスによると、社殿は東方面を向いていて、高度は230mとなっています。
 後日、16年前の2005年の写真と比べて見て分かったのですが、社殿の屋根の色が赤色系に変わっていました。
 参道の石段を少しのぼると左側に、直方体の石材に「古四王大権現」と刻字した石塔があらわれます。
 側面は何か彫られているようだとしか分からず、建立年月は不明です。
 付近には苔むした庚申供養塔他がありますが、この石塔には上の面に苔がありますが側面にはなく、それほど古いものではないのかも知れないと思います。
 どこかから古四王神社の参道脇に遷されたのかもしれないと思います。
  


 参道をのぼっていくと、石段のあるところとないところがあり、水の流れによるものか道脇のえぐれも目立ち、落ち葉とぬかるみが残っていたせいかもしれませんが参道は以前と比べると荒れているように思いました。
 参道を暫くのぼると道が突き当り、右へ大きく曲がる場所になります。高度は290m程のようです。
 道の突き当りのところに石祠があり、横に井戸のような水場があり、右に曲がった道脇に石塔があります。
 石祠のところの以前の写真には、屋根の赤い木造の小祠が写っていました。
 石塔は、かつては一基でしたが、苔むした石造物が寄りかかるような形になっていました。
 石塔は「湯殿山供養塔」と思われますが、「湯」にあたる部分に穴が穿たれています。
 写真は、参道を右に曲がってからの撮影で、石塔のほうから石祠を見ています。


 本殿に至る最後のしっかりした石段をのぼると、右側に稲荷神社があり、左に曲がって本殿の正面前に着きました。
 上右の写真は、石段をのぼりきる前に、稲荷神社を見上げるように撮影しています。

 本殿は、ほぼ北を向いており、高度は310mとのことですので、参道入口付近との標高差は80メートル程になりますが、ゆっくりのぼってくると20分かかりました。
 本殿の屋根の傾きがやや大きくなったように感じました。
 建物の支えの金属柱の塗装が行われたようです。
 本殿の右側の広場状の場所の周囲にある小祠は整備されたようです。
 この広場状の場所には、西山遊歩道に続く新町林道のほうから軽トラックであればのぼってこれるのかもしれません。

 左 : 本殿正面                     右 : 本殿の左後方から広場越しに撮す


*麓に降りて、長伝寺へ向いました。
 長伝寺は、古四王神社の標柱の前を南北に通る県道336号を、標柱から250メートル程南に行き、交差点を左折して150メートル程のところに境内への入口があります。
 地図では、「大聖歓喜天」と記された建物が目印です。
 境内入口に、「古四王山」と「長傳禅寺」とある円柱の標柱が左右に二本立っていました。
 入口から正面の奥に大聖歓喜天の御堂があり、その手前左側に湯殿山・庚申・巳待の塔や石造物の残欠があり、境内の右側には南を向いて長伝寺があります。
 寺の入口は施錠され、無住のようです。お話をお聞きできる方はいらっしゃいませんでした。
 境内の奥の中央付近に、観音像と卵塔が左右に二基と左側の卵塔の背後に二基の角石塔があります。墓石と思われるのはこれだけです。
 残欠と思われる石材があります。
 周囲に墓地が見当たりませんので、檀家のいないお寺だったのかもしれません。
 そうであれば、古四王大権現の別当寺だった可能性もあるのかも知れませんが、そのような資料は見ていません。

 左上 : 標柱左 長傳禅寺                右上 : 標柱右 古四王山
 左下 : 大聖歓喜天の御堂                右下 : 長伝寺


*『喜多方市史 第一巻  原始・古代・中世 通史編1』(喜多方市史編纂委員会 平11・1999)の「第二編 古代ー第三章ー第二節 古代の文化ー1耶麻郡の寺と社」に「古四王神社」の項目がありました。
 そこに「天文年中(1532〜55)に兵火にあって古記録などが灰燼に帰したというが、由緒として次のように伝えている(「明治二十四年 社寺明細帳」)。
 推古天皇時代に聖徳太子が蝦夷追状の本願によって勧請し、社殿が北に面するのは、蝦夷の賊を鎮護するためで、社殿は推古六年九月十三日に造営された。その後、元明天皇六年〈和銅5・712〉に行基僧正が勅命によってこの地に来て、衰えていた当山を再興した。十七年たって天平元年〈729〉に再来して、弥陀観音地蔵像を彫り、千光寺・西蓮寺などの堂塔を創建した。これにより隆盛となったが、数百年して廃絶し、当社のみが今も存する。なお、今の社殿は弘治三年(1557)八月に陸奥国に左遷された大納言藤原(伊藤)義貞によって造営されたものという。」という伝承が記されていました。
 そして「〈「新編会津風土記」では〉祭神を大毘古命とは伝えておらず、四天王の木像を安置していたことを伝えているが、これは仏教の四天王信仰に結びつくものであり、四天王寺を創建した聖徳太子との関連づけもなされているように思える。」〈三行略〉
 「『古四王』を明確に『越王』『高志王』と関連づける根拠は、四道将軍の伝承と結びつけられて語られるものの、それは『新編会津風土記』の時代にさえ遡ることができず、新発田市の古四王神社も祭神を大毘古命とする伝承は江戸時代後期の菅江真澄の旅行記である『高志栞』を遡る事ができないという(「新発田市史」上巻)。
 このように、古四王神社はこれまで古代に遡る信仰として扱われてきたが、喜多方市の古四王神社については、その祭神を大毘古命とする信仰は意外にも新しいのかもしれない。各地の古四王信仰についても、仏教の四天王信仰や北方信仰の一種ともいえる妙見信仰あるいは俗信の世界とも結びついた薬師信仰などとの関連や交流があると指摘されている(「新発田市史」)。」とありました。
 同書「第三編 中世ー第六章 中世の文化ー第一節 神社信仰」には古四王神社についての記載がありません。

 さて、「祭神を大毘古命とする信仰は意外にも新しいのかもしれない」という見解に、新しさの程度に問題はあるでしょうが、反論しようとは思いませんが、『新編会津風土記』で「腰王神社」の祭神に大彦命(大毘古命)の記載がないことで、大彦命を祭神とすることが『新編会津風土記』の時代にさえ遡ることができないと断ずるのは、もう少し慎重になっても良いように思います。
 『新編会津風土記』の神社に関する記述とその方法や思想についての検討が要求されるように思います。
 『新編会津風土記』では、「コシオウ」社・神をすべて「腰王」と表示しています。そこには何らかの意図があると思います。
 記述にあらわれたものがすべてではないと思います。
 また、「新発田市の古四王神社の祭神を大毘古命とする伝承」を「『高志栞』を遡る事ができないという」とありますが、『新発田市史』ではそこまでは言っていないので、喜多方市史の執筆者による急ぎすぎた判断だと思います。
 『高志栞』を「菅江真澄の旅行記」と言うのは、読んでいないのでしょうか。
 新発田市の古四王神社及び『高志栞』について、本ホームページの「新潟 1」の記事をご覧頂ければ幸いです。

*『喜多方市史 第九巻 民俗 各論編U』(喜多方市史編纂委員会 平13・2001)の「第七章 信仰と生活-第二節 村の神様」に「慶徳の新町〈アラマチ〉は戦前までは宮在家とよばれていたが、〈略〉新町の氏神は古四王神社である。地元ではコショウサマと呼んでいる。〈略〉なお、古四王神社の古四王という表記は明治五年に村社になったときからのもので、それ以前には高四王と書いていたという。総代は集落で決めるが、この社に縁のある居在家だけは代々総代を務めることになっている。遷宮をする際には、夜中にご神体をお移しするが、必ず居在家の当主がご神体を背負うことになっている。」があります。
 明治の神社行政の関与があって古四王の表記が公式とされたのかもしれませんが、少なくとも「腰王」と表記されていたという聞き取りではないようです。
 『新編会津風土記』にも割書で「古四王」と記されており、地元の方が「古」ではなく「高」と記すことを良しとしたのかもしれないと思います。
 ここに記された「この社に縁のある居在家」の「居在家」とは、なんでしょうか。
 名字でしょうか。
 どんな縁なのでしょうか。
 同書「第八章 民俗知識」の中に「耳疾 お椀に穴を開けて紐を通して、関柴町関柴や豊川町一ノ堰の聾神に供える。」「いぼ いぼ神様にお詣りし、そこの石を借りてきて擦る。とれたら『倍返し』といって二個にして返す。」などがあり、「聾神」と彫られた石碑の写真がありました。
 これらの信仰のかたちは、古四王神社の信仰のかたちとして記述されている例がありますが、ここでは聾神にいぼ神として存在しているようです。

*『喜多方市史 第八巻  各論編T 自然・旧町村誌』(喜多方市史編纂委員会 平3・1991)を見ます。
 ここでの「旧町村誌」は、喜多方市に合併になる前の旧町村の町村による自治体史のことではなく、喜多方市を構成する町村の合併前の地域史を新たにまとめたものになります。
 同書の旧町村誌編は、総説・第一章喜多方市から第八章豊川村まであり、その第七章が慶徳村です。
 「第七章ー第三節 各説」の「七 社寺・文化財」の「古四王神社」の記載に「[境内末社]白山神社 稲荷神社」がありました。祭神・由緒等については、既に記していることなので、省略します。
 『平成の祭』の境内社は、若宮八幡神社・大山祇神社・熊野神社・諏訪神社・伊豆神社・熊野神社・稲荷神社とありました。
 「寺院」については、寺号・山号・本尊・宗派・所在地・縁起等の項目の表形式で記載されており、1番目「慶徳寺」に次いで2番目に「長伝寺・腰王山・観音菩薩・曹洞宗・松舞家字台田(新町)・明徳元年(1390)源翁十哲の一人却外空玄和尚の開山。また天文二年(1533)長伝という僧の開基、慶徳寺五世一峯を請て開山とする。現庫裏は大正四年(1915)再建のもの」があります。
 現在の長伝寺境内入口の標柱には「古四王山」とありましたが、「腰王山」の山号がもともとの山号であって、長伝寺が神社と無関係であれば表記を変える必要はないと思うので、腰王山の表記ではないことの意味を思わざるを得ません。
 なお、『喜多方市史 第九巻』の「資料編」に「喜多方市 町・字・小字一覧」があり、「慶徳町ー松舞家」を見ると、伊勢・稲荷・地蔵・諏訪・天神・雷神・西蓮寺などの地名はありますが、コシオウ地名は見当たりません。

*『喜多方市史 第十巻 文化 各論編V』(喜多方市史編纂委員会 平15・2003)の「第八編 宗教ー第三章 修験道」があり、『新編会津風土記』に「腰王神社」の別当と記されていた大重院は、「宮在家村の修験」に「大重院」の記載がありました。
 それによると「聖護院文書『小補任』(同前〈従宝暦七年至安永三年1757〜1774〉)によると大重院は明和四年〈1767〉三月十一日付で別当職状一通を授与されている。」、「右の別当職状文面は、聖護院文書『明和四年記録留』によると次のようである。」とあって、「宮在家村古四王権現社(別当職訖、守旧例、専社役世々不可違失之旨、依三山検校宮御気色執達如件)」とありました。
 古四王権現社とあります。
 別当の大重院が、どうなったのかは分からないままです。
 大重院と長伝寺の関係も分からないままです。


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