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探訪記録 福島 追加   会津美里町富川  腰王大権現・石碑


*2021年8月14日
 本サイトのメールアドレスに「偶然ですが腰王大権現の石碑を会津美里町でみつけましたので 念のためおしらせします。」という連絡をいただきました。
 この情報は、未知の初めて接するものでした。 情報を寄せていただいたことに感謝いたします。

 〈連絡をいただいた方のツイッター   月 日    情報のもととなったツイッターのタイトル  
  MagicalThorn@MagicalThorn    8月14日   腰王大権現              〉
  https://twitter.com/search?q=%E8%85%B0%E7%8E%8B%E5%A4%A7%E6%A8%A9%E7%8F%BE&src=typed_query 


 グーグルマップ・ストリートビューで、ご連絡いただいた場所を確認させていただきました。
 そこに、石碑等が並んでいて、向って左の端に「腰王大権現」の石碑がありました。
 右の端に縦に三文字刻まれた石碑(石柱)がありますが、上と下の文字の読み方が分かりません。
 他に、記念碑のようなものや小さな石祠が並んでいて、この場所に集められたもののようです。

*地図を埋め込みました。
 住所は、大沼郡会津美里町富川松ケ下になると思います。 
 

 リンクのURLを表示しておきます。 《 https://goo.gl/maps/9mMHYcy7hyVXrTxn7 》


*本市の図書館を通して福島県立図書館から『会津高田町史 第一巻・通史、第五巻・自然/旧町村誌、第六巻・民俗、第七巻・文化』をお借りしました。 腰王大権現の石碑に関する情報は見当たりませんでした。
 そこで、自治体の問合せ先に、手紙で「『腰王大権現』の石碑の由来などについて、また、三文字刻まれた石柱の文字の読み方、他の石碑類についての文献・資料がありましたら、ご教示いただければ幸いです。」と連絡をさせていただきました。
 暫くしてから、自治体のご担当の方からメールでご連絡をいただきました。
 一部を引用します。
 「〈略〉
  ・腰王大権現  「嘉永元申年」「八月吉祥日」とあり。
     由来については不明です。
  ・石の祠
  〈略〉
  ご指摘の通り、他所から集められたものと思われますが、
  元々はどこにあったのか、いつ移設されたものか、等々は不明です。
  恐らくは、この周辺地域では基盤整備事業が行われているので、
  その際に移設されたものと思われます。
  会津高田町史でも、基盤整備や移設のことまでは記載されていないので、
  詳細については不明です。 
  〈略〉」
 わざわざ現地をお調べいただいたようです。 有り難うございました。

*確かに『会津高田町史 第五巻 自然・旧町村誌 各論編T』(会津高田町史編纂委員会 平12・2000)の「第二編 旧町村誌ー第四節 藤川村」の「富岡」には「昭和四十七年から始まった県営圃場整備事業によって、富岡地区の景観は一変した。」があり、上中川についても「近代以前の人々の生活を知る資料の一つに石造物がある。こうした石造物は、圃場整備などで旧来の場所から移転されたものも少なくないが、〈略〉」がありました。
 地図を見ると、集落以外の場所の道路が直線で、耕地が整然と並んでいます。
 昭和36年頃のモノクロの空中写真と比較すると、現在の富川松ケ下の耕地になっている所にいくつも木で覆われた森のような場所があり、違いが歴然としていますが、現在石碑類の並んでいる場所にある木立は昭和36年頃にも昭和49年頃の空中写真にも存在しているようです。


*2021年11月6日
 大沼郡会津美里町を訪ねました。
 石碑の集まっている場所は、住所でいえば、会津美里町富川松ケ下になるのでしょうか。
 Googleマップで「会津美里町富川松ケ下」で検索すると、松ケ下地区の領域が表示されますが、松ケ下地区の西側の境界で富川上中川の領域が松ケ下地区に細長く入り込んでいる所があります。
 上中川と松ケ下の境から松ケ下側のT字路交差点までの間に道路に沿って石碑類が並んでいます。
 石碑類は東西方向の道路に面して南に向いて並び、その背後に木立が並んでいます。
 T字路交差点(未舗装の農道を含めれば十字路)側から東から西の順に、向って右から左へ、見ていきます。
 先ず、石材(切石)がいくつか置かれています。 何かの基礎に使われたものでしょうか。
 次に、三文字刻まれた石標があります。 中央の文字が「神」であることは分かります。
 「御大礼紀念」と右横面にありますので、大正3年とかの時代でしょうか。
 御大礼紀念で刻むとして、神を含む三文字とはなんでしょうか。
 続いて、「里仁」と碑の上部に右から左に刻まれた、真部宗意翁頌徳碑建設寄付者芳名の碑、大正二年十二月十七日。
 次に、碑上部に右から「頌徳」と刻まれた、真部宗意翁頌徳碑、大正二年十一月二十日。
 その次は、石材が段に積まれています。 小祠の基壇かなにかであったのでしょうか。
 それから石の小祠があります。
 続いて「腰王大権現」と刻んだ石が立っています。
 お教えいただいた通り、石の右側の面に「嘉永元申年」、左面に「八月吉祥日」とありました。
 高さは、土台石を含めて120センチ程のようです。
 この石造物は、湯殿山塔や庚申塔のようなものなのではないかと思います。
 嘉永元年〈1848〉に、このあたりに「腰王大権現」を信仰する人がいたのでしょう。
 「腰王」とあります.
 どこかにある「腰王大権現」を信仰の対象として意識しているのでしょうが、どこなのでしょうか。

 さて、腰王大権現塔の右に、基礎からの高さが65センチ程の石祠があります。
 この石祠は、どういうわけか、背面を道路側に向けていて、祠の正面は木立のほうを向いています。
 正面側にはセンリョウのような植物の葉が覆い被さるようになっていて、正面に回り込むスペースが殆どありません。
 正面側には屋根を支える木の柱が残っておりますが、石宮に作られた空間には御札も何もないようです。
 石祠の社名は分かりません。
 この石の小祠は、正面を北に向けています。

 現地を訪ねてみましたが、謎が増えたようです。

*写真 : 写真は「腰王大権現」碑から、並んだ石碑類に向って左側から、はじめます。

 左上 : 並んだ石碑類を左側から見る           右上 : 腰王大権現
 左下 : 道路に背を向けた石祠              右下 : 石祠 右斜め後ろから木の柱が見える。

 左 : 積まれた石材                   右 : 御大礼紀念の石柱(右) 

《 追記 》
 御大礼紀念の石碑の三文字が分らないまま気になっていました。
 辞書類で似た形の文字を探してみると、候補として「齋・斎」「神」「闥」があるように思えます。
 「斎神闥」とすると、塞ノ神の門ということでしょうか。


*この場をあとにして、二渡神社を訪ねました。
 コシオウ社も不思議な神社だと思いますが、ニワタリ社も不思議な神社と思います。
 『新編会津風土記ー巻之七十四・陸奥国大沼郡之四・高田組』の「富岡村」の「○神社」に「○二渡神社」があり、「○寺院」に「○観音堂」があります。〈国立国会図書館デジタルコレクション〉
 「○二渡神社」に「腰王」が合祀された記述はありませんでした。
 『会津高田町史 第五巻』の「富岡」の項目中に、〔二渡神社は、寛文五年の『高田組二十箇村土地帳』において、「社旧跡」として三島明神旧趾とともに記されている。近世初期にはすでに勧請や退転した年代もともに不明であった。しかし、『新編会津風土記』では、祭神が「十八よ魂命」とされて鳥居もあり、西勝・竹原・上中川各村から伊勢宮・稲荷社・雷神などが合祀され相座十三座を数える。貞享二年の「地下万定書上帳」では、「鎮守二渡権現」としてみえるので、寛文年間以後まもなくして再興されたのであろう。この時、字二渡に遷座されたらしい。圃場整備までは、原野に社地跡が確認でき、雷神社が残されていたが、圃場整備にともない現在地に遷された。〈略〉明治年間の神社明細帳になると、祭神は船玉命となり、村社に列せられた。ところが、明治三十六年、二渡神社の所在地が富岡・上中川両村より離れた宮川東岸の原野であったので、たびたびの洪水による被害や〈略〉、村民決議してこれを字惣右衛門作に移転することを郡役所に願い出て許可され、現在の場所に遷された。〕とありました。
 祭神「十八よ魂命」がどのような神か、私では分かりません。
 祭神「船玉命」も、何故なのか分かりませんが、宮川という河川がある故でしょうか。 

 農道から二渡神社に向う道を進み、二渡神社の社標を過ぎると境内地が広がり、鳥居や社殿が見えます。
 お詣りさせていただき、境内の二つの石祠と石塔を詣りましたが、石祠の社名は不明です。
 境内の入口の社標の反対側に行くと石碑があり、上部に右から「弐渡神社」と隷書のような字体で刻まれています。
 碑文は写真に撮って拡大して見ても、影や草で見えないところや読めない文字がありました。

 碑文は「岩代圀大沼郡富岡上中川両村乃鎮守二渡大神□ / 阿須波神波比伎神■社傅尓伊弉諾尊伊弉冉尊□ / 相殿伊勢神二本村西勝与里〈略1〉/  /  / ■祀旧社往古波社領神田有弖境内廣■社殿壮麗□ / ■崇敬多玖四時乃祭奠■〈略2〉」のように記されているようです。
 〈□は碑の下部で草で見えず。■は判読出来ませんでした。/改行〉 
 〈略1〉は合祀の記載の部分で、新編会津風土記では記されていない「蚕養神」「松尾神」も記されているようです。
 〈略2〉は、かつての様子と移転についての記述のようです。
 この碑は、明治の現在地への移転を記念して明治四十年に建てられたもののようです。
 『平成の祭』によると、会津高田町大字富川字宗右エ門作725に鎮座の二渡神社の祭神は「《主》伊弉諾命、伊弉冉命」と記されていました。
 二渡神社の碑文にあった「 阿須波神波比伎神」は、祭神と伝わっていた神でしょうか。

 『平成の祭』でざっと検索したところによると、表記「鬼渡神社」が17社〈福島県15社、茨城県2社〉あり、祭神に「 阿須波神波比伎神」とある社はそのうちの11社〈福島11社〉になります。
 鬼渡の読みは、オニワタリ6社〈福島5〉、キワタリ7社〈福島7〉、ニワタリ3社〈福島3〉、キト1社です。
 表記「二渡神社」は14社〈福島3社、宮城7,山形・岐阜・群馬・栃木各1〉ですが、祭神「 阿須波神波比伎神」の社はありませんでした。
 祭神「伊弉諾、伊弉冉」「伊邪那岐、伊邪那美」が4社、祭神「伊弉諾」は2社となっていました。
 二渡の読みは、ニワタシ1社、ニワタリ8社〈福島1=会津高田〉、フタワタリ5社〈福島2〉です。
 他の表記に、荷渡、庭渡、庭足、等がありました。 
 見渡・三渡〈ミワタリ〉、根渡〈ネワタリ〉もあり、見渡・三渡の祭神では天村雲命〈他表記を省略〉が目立ちます。
 キワタリ・ニワタリの神とミワタリやネワタリの神とを、同じ範疇のものとすることが出来るのか、どうなのでしょう。
 旧会津高田町に、ニワタリ等の神社は冨川の二渡神社の1社です。
 これらは『平成の祭』の検索ですので、法人社についての状況になります。
 法人社以外や合祀されたニワタリ系の神社はどのくらいになるのでしょうか。

 二渡神社の写真を載せます。


 福生寺観音堂を訪ね、伊佐須美神社へまわり楼門の大彦命と建沼河別命の像をあらためて拝見して、美里町の新しい図書館を訪ねて、帰路につきました。

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