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探訪記録 福島 11   南相馬市小高区 − 古四王神社


*南相馬市の古四王神社
 2010年(平22)に入り、新編會津風土記の古四王神社の探訪後の探訪予定先の事前調査・準備を始めました。
 サイト『日本の城探訪日誌>村上城』で貴布根神社・古四王社の記載を見つけました。
 南相馬市小高区村上字館越の未完のまま廃城になった村上城の本丸跡に貴布根神社・古四王社が祀られているという2009年11月6日のブログ記事です。
 お城関係のサイトに当たると『お城の健ちゃん陸前浜街道をゆく!』にも同様の記載がありました。
 これで場所は明確になりました。
 お城関係の複数サイトで南相馬市・相馬市の相馬藩の城についていろいろ教えていただきました。

 少しずつ調査・準備を進めていたところ、東日本大震災が起こり津波が来襲し大きな被害が出て、福島第1原子力発電所の原子炉メルトダウンにより未曾有の危機が襲いかかりました。
 南相馬市の小高区は半径20q圏内にあり警戒区域で立ち入りできない状況になりました。
 南相馬市の2011年4月6日現在の『半径20q圏内の状況について』」の発表内容によれば、小高の海岸線は、防潮保安林が数えるほどしか立木しておらず、湛水防除施設の建屋が残っているだけで、大地と海がフラット状態です。とのことでした。
 その後、国による避難指示区域の見直しによる3区域への再編で、小高区は一部を除き避難指示解除準備区域になって、翌2012年4月中旬に立ち入ることはできるようになりました。

 2012年5月、ブログ『被災地の神社・寺院へ行こう。』に小高区村上・貴布根神社(その1)(その2)の記事を見つけました。
 2012年4月16日の夕方に貴布根神社を訪ねた報告です。
 貴布根神社は被害を受けていますが高台なので流されてはいないし、行くことができると分かりました。
 古四王社はどうなっているか触れられていませんでした。
 古四王神社を探訪すべく情報を集め始めました。

《探訪記録》
 南相馬への行き方・小高区村上城跡への経路・宿泊施設・等の検討が必要になりますし、相馬氏・妙見信仰・相馬氏の城の地図確認・等、図書館の蔵書検索・等、今まで以上の準備で臨みました。
 
*2012年11月23〜24日(平24)探訪
 二本松ICから県道12号を飯館村をぬけて南相馬へ。
 原町区の南相馬市立図書館で、『小高町史』・『奥相志』や『白河市史・第10巻』等、幾つかの資料をコピーさせていただく。
 避難指示解除準備区域の小高の町に入ると被害が目立ち、居住のできない街に信号が点灯していました。
 国道6号線に出ると道路脇に車や農機具などが散乱しています。カメラを向けることができない惨状。
 通行止めの道を迂回して、津波で壊された家並みの道を進み、写真で見ていた海辺の小高い崖の手前で車を止めて、坂道(右に御堂・地蔵、左に墓地)をのぼり広い野原を進み、奥まった神社に近づきます。
 鳥居も灯籠も倒れ、貴布根神社の拝殿も潰れていますが、本殿はかろうじて無事のようです。
 参道脇の古四王神社の1間四方ほどの社殿は無事でした。
 用意していた御神酒等を捧げました。
 村上城跡の案内板の説明を抜粋すると「慶長元年(1596)相馬藩主第十六代義胤は」「十壘を築き濠をめぐらしまさに殿舎を建てようとした前日、火事が起きて山積みした材木がたちまち灰になってしまったと伝えられる。義胤はこれを不吉として、牛越えに城を築いて慶長二年、小高城から移った。」「旧本丸跡には貴布根神社、古四王社などが祭られている。」とあります。
 古四王神社の社殿裏にあげられていた由来をカメラに収めて、神社をあとにしました。

 左上: 参道入口の鳥居  右上: 奥に貴布根神社の拝殿、左に古四王社、右に案内板
 左下: 古四王神社  右下: 案内板

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 小高城跡に祀られる相馬小高神社を参拝し、川を渡って貴船神社を参拝しました。
 原町区に戻り南相馬市博物館に行きました。
 原町区のJR原ノ町駅裏のビジネスホテルに宿を取り、駅前通りで食事をとったのですが、飲食店の幾つかは店を閉めており閉店しているスーパーもありました。
 翌早朝に地震。
 相馬市の松川浦を訪ねました。松川浦大橋近くの漁港には数多くの漁船が係留されていました。魚釣りをしている人達を見かけます。

 相馬中村神社に参拝し、相馬中村城跡を歩いてきました。
 帰路、二本松に大憐寺、二本松城址を訪ねました。

《探訪の整理》
 古四王神社の社殿にあげられていた「古四王神社の由来」には、「古四王社と稱〈トナ〉ひ申すは人皇第十代崇神天皇の朝将軍を四道に派遣して国内を平定し給へるは国史上最も有名な事柄でありましてこの社は実に此の四道将軍に関係ある日本最古の武〔壮〕の社であります 東方十二道に郷問はせられた建沼河別命は人皇第八代孝元天皇の御孫に坐し蝦夷東方奥州深く進み入らせ遂に村上に御〔着〕きなり城を築き暫し御在城此の時城内に奥国鎮護の神として社殿を北面して奉齋せられたる武神こそ此の古四王社であると古来より申し伝ふるところでありまして今も尚社殿は其のまま北を向かれておるのであります 此の社は建国の初期に於て国家と大事な関係を有す尊ふべき社であります」
「古四王神社は明治二年己己より〈ママ〉年八月二十三日今より約百十九年前に再建された神社で古四王神社の棟木に記入されて有ります 以前から舘山にあったらしい  施主 牛渡平相舒○〔○は臼という文字の下の横棒が皿の文字のように長く記されている〕 大工棟梁 北標葉郡棚塩村 治右衛門」「古四王神社新築委員 (お名前があって) 昭和六十一年一月一日建立」〈〔 〕内は推定です〉

 小高区村上の貴布根神社のデーターは、
 『平成の祭』: 貴布根神社  祭神 (主)高■神(たかおかみのかみ)
                                           表示不可を示す■は、雨の下に口を三つ並べ龍を書きます。
              鎮座地    相馬郡小高町村上字舘内127
              現住所表示  南相馬市小高区村上舘内127
              境内社などの記載はありません

 南相馬市立図書館でコピーさせてもらった『奥相志〈おうそうし〉』に帰宅後に目を通しました。
 『奥相志』は、同書の「奥相志解題」(岩崎敏夫)によれば「奥相志とは、奥の相馬に関する記録という意味であるが、奥の相馬とは、関東の相馬に対しての謂である。相馬氏は千葉氏の分かれで、古くは下総に居ったが、〈略〉奥相志の編纂は、徳川の世も終わりに近い安政四年〈1858〉から、藩の事業としてはじめられたものであるが、藩命によって主としてこれにたずさわったのは藩士斎藤完隆(ひろたか)である。〈略〉一応完成するまでに前後十五年を要している。〈略〉」とあります。ネットで「奥相志」と検索すると、サイト『相馬デジタルミュージアム』の「奥相志の原本」記事が出てきますので、ご参照下さい。
 さて、『奥相志』小高郷・村上村の神祠の項目には先ず「貴布根神祠」の記載があり、抜粋すると「舘ノ内にあり。里社。祠官女場邑西山雅楽、別当海蔵院。」略縁起に「後醍醐天皇第七皇子義良親王、…国司北畠顕家と共に東奥に下向す。顕家霊山を以て居城となし、親王は角部内の舘にありのち村上館といふ。…親王、高□〈たかおかみ〉の垂跡貴船の神を舘内に勧請し海上の安隠を祈り祭る所の所旧祠なり。親王当館に在ること六年にして吉野大内に上洛し南帝の祚を践みて後村上天皇と号す。故にこの地を名づけて村上という。」「正徳元辛卯年より毎歳春秋の祭日に社畔に市を立つ。………今度村上古舘の内、貴船明神社頭妙見曲輪に於いて…新規の市相立て申すべき旨、屋形様思召を以て仰せ出され候」等が記されています。
 後村上天皇に関連つけた地名由来と神社創建由来は単なる伝説としても、妙見曲輪の存在と市が立っていたことが分かります。
 次いで「古支王神祠」の記載があり、抜粋すると「舘ノ内にあり。…別当海蔵院。」「祭神不詳。古支王の社号は神社考及び社家の伝記に見えず。古人曰く、義良親王後村上天皇を祭り、これを古親王と称す。後世訛りて古支王に作ると。今別当院に於いては狐子王に作る。中村妙見末社に古支王の祠あり、是も亦祭神未詳なり。」とあり、こちらも義良親王と結びつけてコシオウ名を考証しています。
 江戸末期には、「古支王」の謂われも分からなくなり公的な記録も無い状態を知ることができます。
 なお、僧院の項目に「村上山海蔵院」の記載があり「前谷地にあり。当山開基来歴不詳。真言宗久保山安養寺門派なり。本尊不動明王、夾侍二童子。別当の神仏前に見ゆ。」とあります。
 『奥相志』では、後村上天皇を「古親王」と称し祀ったものが「古支王」になって「狐子王」とも表わされるとされています。
 また、中村妙見末社に古支王の祠ありの記述がありますが、『奥相志』の今回のコピー範囲に「宇多郷・中村」がないため、これ以上のことが分かりません。
 相馬中村神社には参拝し摂末社も見てきましたが、古支王の祠には気が付きませんでした。
 再確認したいとの思いが募ります。

 現在の社殿に掲げてある「古四王神社の由来」を引用して記しましたが、この由来書はいわゆる古四王神社という社の知識があって、義良親王に対するのと同様に建沼河別命を村上の地に引き寄せて構成されているように思えます。
 山形県の古四王神社の由緒の幾つかにも貴人〈坂上田村麻呂〉の滞在伝説がありました。
 
 村上の「古四王神社」は、城跡の妙見曲輪で市が立ったことなどで、里人が神社に接して来たことで、今に至るまで維持されてきたのではないでしょうか。
 その江戸期にこの神社を地元の方は「古四王」と言い表していたのでしょうか。
 明治二年の(神社)再建の際には何という名の神社を再建したのでしょう。
 神社明細帳への対応はどのようになされたのでしょうか。あるいは、その際に「コシオウ」についての指導のようなものがあったということはないでしょうか。それらの資料・記録はどうなっているのでしょうか。

 さて、「奥相志」で小高郷・南小高村の「社家」の項目の最後に「佐藤薩摩ノ正 小高坊に居り。弘化四丁未年〈1847〉八月十八日、大宮司田代氏より譲を受け、古支王、稲荷共に北小高妙見末社両社の祠官たり。嘉永庚戌年〈嘉永三年・1850〉五月二十三日古支王祠建立祭日九月二十二日。安政四丁巳年〈1857〉五月二十二日稲荷祠建立二月初午日之を祭る。」と記されています。〈西暦〉は補記。
 なお、小高郷・小高村の神祠の妙見神祠の項目に古支王に関する記述は無く、南小高村の神祠の項目にも古支王の記述はありません。
 幕末の出来事ですが、古支王は北小高妙見末社〈南小高に対する北小高の妙見社か〉とありますから、小高妙見祠の末社で良いでしょうが、どこにあったのでしょうか、あるいは嘉永三年に古支王祠はどこに建立されたのでしょうか。
 小高にも末社の古支王祠があったのか、末社というのが村上の古支王祠なのか、それとも小高から村上に移したのか、謎です。
 現在の古四王神社社殿が新築された昭和61年〈1986〉の由来書に、約119年前の明治2年(1869)に再建されたとのことですから、それ以前に存在していた社殿は嘉永3年〈1850〉の「古支王祠建立」の社殿ということでしょうか。
 嘉永3年から明治2年までは19年ですから、嘉永3年建立の社殿であれば老朽化による建替えとは考えにくいので、20年ごとに建替えるとか焼失とか別の理由があったか、あるいは嘉永3年建立の社殿は別の場所に在ったのか、どうなのでしょうか。

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