探訪記録 福島 図書館
《福島県の神社明細帳と古四王神社の情報について》
〈はじめに〉
*2022年1月に、田村郡の三城目村の日枝社と合祀された越王神社について調べる手掛かりを探して、ネットで福島県立図書館の蔵書を検索していた折に、「磐城国田村郡神社明細帳」が五分冊で収蔵されていることが分かりました。
2015年6月に福島県立図書館を訪れる際の事前準備でおこなった蔵書の検索では福島県の神社明細帳に該当がありませんでしたので、2022年の検索で該当があったことに驚きましたが、県立図書館を訪ねる機会をもてないまま、神社明細帳を見ることなく過ごしていました。
*2024年6月14日、福島県立図書館を訪問しました。
図書館で神社明細帳の閲覧及び写真撮影による複写が可能とのことでしたので、福島県の古四王神社の記事で取上げた神社の神社明細帳がどうなっているか確認したいと思います。
図書館の調査相談カウンターの職員の方にお聞きしたところ、神社明細帳は2019年度に寄贈を受けて図書館の蔵書とされたそうです。
新編会津風土記に記載のあった腰王神社・腰王神に関して、北会津郡神社明細帳・耶麻郡神社明細帳・大沼郡神社明細帳・河沼郡神社明細帳を出していただいて見ていきました。
また、伊達郡神社明細帳・西白河郡神社明細帳・田村郡神社明細帳・安積郡神社明細帳・相馬郡神社明細帳も、記事で取上げた神社の関連情報がないか探してみました。
福島県の神社明細帳を閲覧していくと、それまでに閲覧してきた神社明細帳(新潟県では県立公文書館とホームページから閲覧できた幾つかの神社の明細書、山形県鶴岡市立図書館蔵書の西田川郡神社明細帳、秋田県立公文書館蔵書神社明細帳の幾つかの郡の古四王神社関連の明細書)とは異なっていることが分かりました。神社明細帳に綴じられた個々の神社の書類を示す場合には「明細書」と記すことにします。
異なっていると思った点は、記載されている項目が多いことです。これは明細帳に定められた書式によるものと思われます。
また、当該神社にとって対象外の項目も省略されることなく記されており、明細帳の書式が厳格に適用されているようです。
明細書の提出側の署名者に戸長・用係・什長が記されています。
朱筆の訂正・追記等が少ないようです。
*本稿では、「1.福島県の神社明細帳について」として、先ず福島県の神社明細帳とその項目について、及び神社明細帳への追加・訂正について見ておきます。
そのあとに、「2.神社明細帳の古四王関連情報」として、神社明細帳に古四王関連情報を求めて閲覧した明細書の記載内容等を個別の神社ごとに見ていきます。
次いで、「3.福島県の神社明細帳と明治初期の宗教政策」として、福島県の明治初期の社寺の整理と合併移転と神社明細帳について、主として藤田定興氏の論文に教えを請います。
1.福島県の神社明細帳について
福島県の「神社明細帳」は、明治政府が明治十二年にあらたに府県社以下の「神社明細帳」としての書式を策定し作成させたものとは異なる福島県独自のものとのことです。
◎櫻井治男「明治初期の『神社』調べ」(『明治聖徳記念学会紀要 復刊第13号』 平成6年12月15日)により、明治十二年の神社明細帳と福島県の神社明細帳について見ます。 〈 http://meijiseitoku.org/pdf/f13-3.pdf 〉
この論文は、「はじめに」の最後に「本稿では、明治十二年の新しい『神社明細帳』の書式策定まで(注四・略)の取調べ状況の全体を眺めながら、特に何が『神社』を把握する上で必要とされた項目内容であるのか、そしてそれら項目に変遷があるとすれば、それはどのような問題に関わっているのかについて検討しておきたい。」と記しているものです。
その「五、明治十二年の『神社明細帳』」に、「明治十二年にその雛形が提示された『神社明細帳』は、既述のように近代の神社行政において重要な公簿となり、『神社』というものの行政上の定義、すなわち『神社明細帳』に所載のものが『神社』として公的に認められるという意義を有していた。」とあります。
「その雛形」というのは、明治十二年六月二十八日付の内務省達乙第三十一号による府県社以下神社を対象とする神社明細帳作成にあたって、別紙で示された神社明細帳書式を指すと思います。
櫻井論文は、「明治十二年の『神社明細帳』を従前の調書・明細帳類等と比較するといくつかの点で興味深い展開を見せており、それに関連して(イ)項目の名称・内容、(ロ)項目の有無、(ハ)項目の順序、に留意しつつその状況を検討しておきたい。」としており、その「(ロ)項目の有無」の節の中で「福島県の事例を現存の史料に依拠して研究を進められた藤田定興氏の分析によれば」として、「同県では明治十年に『社寺明細帳』の作成を計画(注19)、同年十一月に県下に編纂方の布達が出され(県甲第九十二号)、その項目は次の通りである(注20)。/祭神・由緒・勧請・社殿・同造営・社号改替・神位・祭日・寄付物・境内地・持添地・寄付地・境内樹木・永続方法・県庁距離・氏子・神官(教導職何某)」、「明治十二年に政府の命じた『神社明細帳』について、福島県は政府に対して明治十年八月(明治十年はあるいは十二年のことか・・筆者)に、この県独自の『明細帳』を以て、それに代えたい旨の伺いをたて政府の了承を得たゆえに、政府の作成を命じたものとは異なり、県独自の『明細帳』が国家に進達されたと指摘がなされている(注22)。」と記しています。
また、「『祭日』の記載を含む福島県独自の『神社明細帳』を、政府は明治十二年の明細帳の代用として認めているから、結局、政府=国の行政の立場においては、『祭日』の記載はどちらでもよかったということになり、あえて『祭日』記載の積極的な意味は、神社把握の上でみいだされていないということになる。」〈「祭日」に関するこのあとの論考省略〉、「福島県の明細帳の項目を見る限りにおいては、政府における明治三年以来の諸調査の項目を基本的に継承するとともに、由緒と勧請を区別したり、『永続方法』の記載をするようになっていることは、明治十二年の『神社明細帳』とは違った様相が表れているといえよう。」とあります。
〈注19・20・22は、それぞれ藤田定興『寺社組織の統制と展開』(1992年、名著出版)〈以下「藤田論文」〉の295頁・298〜9頁・305〜8頁〉
なお、櫻井論文が示した神社明細帳の項目は藤田論文からの抽出になりますが、「什宝物」の項目が抜けています。
櫻井は同論文の巻末に「明治初期の神社調査項目一覧」表を掲載しています。
取上げられている神社調査は「A:明治3年『大小神社』取調、B:明治5年『府県郷村社取調雛形』、C:明治5年『官幣社摂社雛形』、D:明治6年『官幣社明細牒』、E:明治6年『国幣社末社』取調、F:明治7年『特選神名牒』、G:明治8年『国幣社末社』取調、H:明治9年『社格未定社』雛形、I:明治9年『神祠仏堂』山野路傍取調、J:明治11年『社寺明細書』、K:明治12年『神社明細帳』、L:明治18年東京府『社寺明細牒』になります。
この「K:明治12年『神社明細帳』」の調査項目一覧には、「@何府県管下何国何郡何町村字何、A社格何、B某神社、C祭神、D由緒、E社殿間数、F境内坪数 地種、G境内神社幾社/某神社・祭神・由緒・建物、H境内某遙拝所/由緒・建物、I境内招魂社/由緒・建物、J 境内祖霊社/由緒・建物・共有人員、K境外所有地/耕地段別(何町村字何)地価金額・山林段別(何町村字何)地価金額・宅地段別(何町村字何)地価金額、L氏子戸数、M管轄庁迄ノ距離数」と番号が振られて記載されています。
これによれば、先ず鎮座地・社格・神社名があって、CDEFで当該の某神社に関する項目を記載させ、境内の神社・遙拝所・招魂社・祖霊社という様々な名称の社の記載を求め、境外の所有地の記載も求め、氏子数を記載させています。神官名の記載は記されていません。
この調査項目は、内務省達乙第三十一号の別紙の神社明細帳書式によるものと思います。
福島県の神社明細帳の項目と明治12年「神社明細帳」の調査項目を見比べると、福島県の項目には、祭日・勧請・永続方法・神官の項目以外にも社殿造営・社号改替・神位・境内樹木・等の項目があります。
※福島県の神社明細帳の項目等に関してより詳しく見てみます。
◎先ず、藤田定興「福島県における明治初期の宗教政策」(『福島県歴史資料館 研究紀要 第6号』 1984年3月)〈以下「藤田紀要6号論文」〉を見ます。
ここに「明細帳の内容と特色についてみることにする。前述のごとく、福島県における社寺仏堂の明細帳は、県甲第九十二号達によって始まるが、この達の内容と雛形がまた見つけられていない。従って今のところ明細帳の内容は、明細帳そのものから窺うしかない。」と記し、この論文が県甲第九十二号達の雛形を見いだす以前に記されたものであることが示されています。
そのなかで「明細帳の内容と特色」を「明細帳そのもの」の検討を重ねて導き出しています。
神社についての明細帳についての記載(p.55)に、「神社の名称、所在地、その神社の社格(県・郷・村 )、式内社か式外社かの区別、祭神、由緒、勧請、造営(村持か氏子持か、個人持か)、社号改替(例えば何々権現、何々大明神、何々宮等を何々神社と改めた記録)、神位(その有無とある場合は正何位でいつどこからうけたかを記す)、祭日、什宝物、寄附物(神具や旗、燈籠等)、境内地(坪数と官・民地の区別)、持添地(田畑・山林の別と合計坪数、その所在地、地価、周年の純利等)、寄附地、寄附金、境内樹木(樹木の名称と本数、大きさ=目通尺回)、永続方法(村・氏子又は信者・個人等の受持の主体者と彼らによる出費の方法の記入)、県庁距離、信者(その戸数)、神官(その神社の受持神官名と住所及び士族平民の別の記入)等の項目について記されている。」とあります。
◎次に、藤田定興『寺社組織の統制と展開』(1992年)〈「藤田論文」〉に記載された「県甲第九十二号達」で示された雛形(P.298〜)を見ます。
布達の文面についてはここでは触れません。
縦書きの雛形を横にしています〈/斜線-改行、〔割書と範囲〕、/小斜線-割書の改行〉。〈カギ括弧内記述〉は当方。
◇雛形:
「県社 〔或ハ郷村社/小社〕 何国郡何〔町/村〕字何鎮座 ( ){ }此標アルハ原案朱字」
〈一行目に社格、鎮座地が記され、下部に「( ){ }此標アルハ原案朱字」の註記があります。
社格の所に「小社」とあり無格社とは記されていません。〉
「何神社 式内外{〔或ハ国史現存又ハ/一郡崇敬一村信仰〕}」
〈二行目に神社名称、式内・式外の別、等を記しています。次の行から明細書の項目が続いていますので、順に記します。〉
「一 祭神 〔何々尊/何々命〕 」
「一 由緒 何々 /
{旧朱黒印地除地旧藩主寄附地旧殿旧領主造営/等モ此所ヘ記ス}」
「一 勧請 何年月日何々 」
「一 社殿 神殿〔縦何間/横何間〕 弊殿 拝殿 /
宝蔵 (此他建物悉皆コゝヘ記ス)」
「一 同造営 村持或ハ氏子持ノ区別」
「一 社号改替 旧神号何々何年月日何々改称」
「一 神位 何位何年月日何所ヨリ宣下」
「一 祭日 何月何日(年中一度大祭日ヲ記ス)」
「一 什宝物 〔何 何程/何 何箇〕」
「一 寄附物 〔何 何ケ/何 何ケ〕」
「一 境内地 何百何十坪 地種区別」
「一 持添地 〔田/畑〕何町何反歩此〔地価 何程 周年純利 何程/名受 何誰 地番 何村何字何番」
「一 寄附地 〔山林〕何反何畝歩此〔地価 周年純利/名受 地番〕」
「一 境内樹木 松目通尺回以上 何本 杉目通尺回未満 何本 /何」
「一 永続方法 何々」
「一 県庁距離 何里何丁」
「一 氏子 何十戸」
「一 神官 教導職 何某 何国何郡何町村/族種」
〈項目は以上の十八項目が示されています。当該の神社に関する十八項目が終わると、摂末社の項目になります。〉
「境内摂社 /
何神社 /一 祭神 何々 /一 社殿 〔縦 何間/横 何間〕 /一 祭日 何月何日/
(外ニ可記件目アレハ本社ノ例ニ准ス以下 同断)」/
何神社 /一 祭神 何 /一 社殿 本社相殿 /一 祭日 何月何日」
「同末社
何神社 /一 祭神 何 /一 社殿 〔縦 何間/横 何間〕 /一 祭日 何月何日」
「境外摂社 何国何郡何〔町/村〕字何鎮座
何神社 /一 祭神 何 /一 社殿 〔縦 何間/横 何間〕 /一 祭日 何月何日 /
一 境内地 何十坪(地種区分ヲモ記ス)」 /永続方法 何々」
「同末社 当村字何鎮座
何神社 /一 祭神 何 /一 由緒勧請 不詳 /一 社殿 〔縦 何間/横 何間〕 /
一 祭日 何月何日 /一 境内地 何十坪(地種区分ヲモ記ス) /一 永続方法 何」
〈ここまで記載して〉
「右之通相違無御座候以上」
〈提出側の記載となります。〉
「 何国何郡何村何社何神社祠〔官/掌〕 /
年号干支月日 何 誰 印 /〈提出月日と前行の神官名と捺印〉
氏子総代 /
何 誰 印 /
什長 /
何 誰 印 /
用係 /
何 誰 印 /
戸長 /
何 誰 印 /」
「福島県権令山吉盛典殿」
〈提出先を記すところまで、雛形は詳細に示されています。「県甲第九十二号達」に示されている寺院と仏堂の明細帳雛形は省略。〉
※神社明細帳の雛形及び明細帳への訂正・追記に関して見ておきます。
◎長野栄俊「福井県における宗教関係公文書の史料学的研究(その一)神社明細帳」(『若狭郷土研究 五十巻二号』 福井県郷土誌懇談会 2006−2)を見ることができました。〈以下「長野論文」〉〈 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/614705.pdf 〉
*当該論文の「はじめに」に、「社寺明細帳は、国家が公認した社寺の名称や所在地、由緒等を詳述した公的管理台帳=公簿であり、明治十二年にはその書式がほぼ定まっている。」、「記載事項の変更や訂正が生じた場合、朱筆による訂正や貼紙による追加が施され、現用文書としての期間を終えるまで書き継がれてきた。」を記しています。
この論文は福井県の神社明細帳を対象にした多岐にわたる考察であり、他県の明細帳を検討する上でも大変示唆に富むものと思います。
同論文は、次いで「一、神社明細帳の残存状況」を記述し、「二、神社明細帳調製の前段階」で明治十二年の神社明細帳書式が示されるに至るまでの調査について跡付けて、「三、神社明細帳調製に関わる法令」では明治十二年の「内務省達乙第三十一号」及び「(別紙)神社明細帳書式」「明細帳取調方心得」を記載し、それへの対応について記しています。
続く「四、神社明細帳の書誌的考察」に、「○表紙」「○題箋・題」「○用紙」等々の項目があり、ここに「○追加・訂正・抹消」の項目があります。
*先ず「(別紙)神社明細帳書式」を見ます。これが明治十二年神社明細帳の雛形でしょう。
◇「(別紙)神社明細帳書式
何〔府/県〕管下何国何郡何〔町/村〕字何
社格何
某 神 社
一祭神
一由緒
一社殿間数
一境内坪数並地種
一境内神社幾社/ 某神社/祭神/由緒/建物
一境内某遙拝所/ 由緒/建物
一境内招魂社/ 由緒/建物
一境内祖霊社/ 由緒/建物/共有人員
一境外所有地/ 耕地段別 何町村字何/地価金額
山林段別 何町村字何/地価金額
宅地段別 何町村字何/地価金額
一氏子戸数
一管轄庁迄ノ距離里数
以上」
なお、論文では寺院明細帳書式及び境外遙拝所・境外招魂社・境外祖霊社の明細帳書式は省略されています。
*「○追加・訂正・抹消」の項目中に、「神社明細帳には数多くの追記や訂正が施されている。その方法は、文字の脇や行間、罫外に朱筆で行なうケースや、追記事項を朱記した小紙片(括弧内略)を貼るケース、美濃罫紙一枚をそのまま綴って訂正文を挿入するケースなど様々であり、追記・訂正の要因も、新たな記載項目が追加されたことによるものや境内建物の新改築に伴うもの、境外所有地の異動による訂正など多岐にわたっている。特に、量的に多いのは神社整理によるものであろう。明治三十九年から全国で始まる神社整理では、主に無格社と村社の他神社への合併、他社境内地への移転、廃社が行なわれ、福井県でも神社数を大幅に減少させることになった。その際、被合併の神社、他社境内へ移転した神社、廃社となった神社の明細帳には、年月日と事由とを記載した上で、丁全体に×印などの抹消の印が付けられた。一方の合併先、移転先の神社の丁には、祭神・由緒の追記や境内社の追記等が行なわれている。」とあります。
論文は、「五、神社明細帳記載項目の考察」、「六、抜明細帳、追加簿および郡本」、「おわりに」と続いていきます。
本稿では、このあとも幾つかの引用をさせていただきます。
2.神社明細帳の古四王関連情報
福島県の神社明細帳を閲覧した結果などに関して、以下に「探訪記録」記事の順番に応じて記します。
「探訪記録」記事をご参照いただきたく存じます。
ただし、三春町の真照寺境内の古四王堂(探訪記録 福島9)については、寺院の御堂のためでしょうが、神社明細帳には関連情報もないので、対象外とします。
なお、明細書などに記された旧字を改めた場合があります。
縦書きを横書きにする際に、縦書きの表記の状態を示すために、〈改行〉〈割書〉と記入するか、改行を斜線/で、項目内の改行や割書の改行を半角斜線/で、割書範囲を〔 〕で表示し、前後のつながりにー−=:などの記号を用いる場合があります。
■は判読不明又は表示不能、○○は伏字、下線の文字は判読誤りの可能性があります。〈カギ括弧〉は当方による記入です。
@探訪記録ー福島1
喜多方市慶徳町松舞家 古四王神社 祭神:大毘古命・武渟名川別命
新編会津風土記=耶麻郡(慶徳組上12箇村)ー宮在家村 腰王神社 祭神:市千魂命
*岩代国耶麻郡神社明細帳七冊之内三・四(簿冊)
七分冊の三、四を合わせた簿冊は横長の用箋を綴じていますが、七分冊の時には分冊の縦長の表紙とその大きさから用箋を中央で折って綴じていたと思われます。
ちなみに、秋田県公文書館で閲覧した神社明細帳は、用箋を半分に折って綴じられて保管されていました。
簿冊の横長の表紙台紙には、縦書きで右から「七冊之内三、四/岩代国耶麻郡神社明細帳/福島県」の縦長の標題部分が貼られていますが、この標題部分の大きさは七分冊時の用箋半折の大きさの表紙に対応するもののようです。〈標題には「岩代国」と表記されている〉
また簿冊の表紙台紙に分類整理用かと思われる小用紙が貼られていて、そこに「所属年度ー明治12年度/完成年月 ー明治13年3月/簿冊名ー神社明細帳(岩代国耶麻郡七冊之内三、四)/部課所名ー文書広報課/保存a@」が記されています。
現在の福島県庁には「文書広報課」は見当たりませんが、「開館三十五周年を経た福島県歴史資料館の近況」
〈 https://www.archives.go.jp/publication/archives/wp-content/uploads/2015/03/acv_25_p77.pdf 2024/09/13閲覧 〉という平成18年の文書中に、「文書館建設の必要性が福島県総務部文書広報課主催の福島県史編纂会議において提言」という記述がありますので、かつては県庁総務部に文書広報課が、時期は不明ですが、存在したようですので、この神社明細帳は県庁管理の文書であったと思います。
耶麻郡の神社明細帳七分冊のうち三・四をまとめた簿冊になっていて、その分冊三の最初の用紙に収録の村名が記されていて、そこに「松舞家村」も含まれています。
松舞家村は明治八年に宮在家村と松野村が合併してできた村ですし、明治十年に慶徳村・堀出新田村・新宮村が合併した「豊岡村」も収録村名の中にありますので、明治十年の合併以降の村名で記されているということでしょう。
この収録村名の用紙は、縦書きの茶色〈朱?〉の罫紙で片側十三行で中央の版心下部に「福嶋縣」の朱字があるもので、大きさはA3用紙よりやや小さいくらいと思われます。
先の「長野論文」にも「用紙」についての考察があり、「内務心得〈明細帳取調方心得〉に『用紙ハ美濃十三行界紙ヲ用ヒ』とあるように、美濃紙(カッコ内・略)で半丁十三行の罫紙(界紙)が用紙として指定されており、これを二つ折りにしたものを袋綴して使用している。」とあります。
ただ、新潟県の神社明細帳の用紙のなかには、十行罫紙や十二行罫紙の混在がありましたし、無地の用紙も使われていました。
秋田県の閲覧できた神社明細帳では、北秋田郡に八行・十行罫紙が見られ、仙北郡と山本郡に十二行罫紙が見られました。
*耶麻郡神社明細帳・分冊三の古四王神社の明細書を見ていきます。
明細書は、一行目・二行目で神社の社格・鎮座地・神社名称・式内式外の別・等を記し、以下所定の項目、祭神・由緒・勧請・社殿・社殿造営・社号改替・神位・祭日・什宝物・寄附物・境内地・持添地・寄附地・境内樹木・永続方法・県庁距離・氏子・神官・境内末社(社名ー祭神・社殿・ 祭日)という多くの項目について記してあります。
項目の記載が終わると「右之通相違無御座候以上」とあり、提出年月があり、受持神社名を記した神官名・印、氏子総代の氏名・印、什長・用係・戸長という行政側の氏名・印があって、提出先「福島県権令山吉盛典殿」となっています。
なお、新潟県の閲覧できた神社明細書には、氏子総代と社掌の記載のみで行政側の記載は見受けませんでした。
最初に見る明細書ですので、項目については残らず見ていきたいと思います。
明細書の用箋は、片側十三行の青色の罫紙で版心の中央より上に「福島縣」とあり、下部に「福島縣」より大きい文字で「第十三区會所」とあります。「第十三区會所」の文字にかすれも見られることもあり、少なくともこの部分は印判が使われたのではないかと思います。
◇明細書の記載内容: 〈カギ括弧〉内は当方による記入。
〈用箋一枚目:版心の「福島県」の所に「松舞家」と記した小紙片が貼られている〉
「村社 岩代國耶麻郡松舞家村馬坂山鎮座」〈一行目〉
〈「字」が村と馬坂山の間に挿入、「山」に二重朱線の抹消あり⇒松舞家村字馬坂〉
「高志王神社 式外 一郡崇敬」〈二行目〉
〈「高志」に朱線が引かれ、横に朱筆で「古四」とある。用箋欄外に朱筆で「古四王ト訂正ノ義願出ニ付十八年九月廿六日許可」の書入れ〉
〈また、用箋の中央付近の欄外に「弊饌料供/進指定社]の二行の朱印が押されている〉
「一 祭神 大毘古命/武渟名川別命〈祭神割書〉」〈三行目〉
「一 由緒 〈略〉」〈四行目〉
〈由緒に二十九行の記載あり、由緒の記載内容については改めて記述〉
〈四行目と五行目の欄外に「■■■境内坪数訂正ノ件/大正■年三月十二日許可」の朱筆書入れ〉
〈用箋二枚目:由緒の続きが六行ある〉
「一 勧請 年月不詳」〈七行目〉〈以下行数省略〉
「一 社殿 神殿〔縦三間半/横三間半〕〈三間半を朱線抹消し一尺半に訂正〉 鳥居〔壱丈/明八尺〕〔 一/基〕 石段壱番〔巾四尺/十階〕 〈改行〉石段貳番〔巾六尺/三十階〕 石段三番〔巾六尺/六階〕 石段四番〔巾六尺/四階〕〈隣の行部分に朱筆追加〉石燈籠一基」
「一 社殿造営 氏子持」
「一 社号階替 無之」
「一 神位 無之」
「一 祭日 例祭日七月十八日 〔祈年祭三月廿三日/新嘗祭十一月廿三日〕」
〈割書の祈念/新嘗の両祭は墨書ですが筆跡が違いますので追記と思われます。また例祭日の筆跡も違っており、祈念祭/新嘗祭の追記に
よって「一 祭日 七月十八日」に書き加えたものと思われます。欄外に「□□両祭ノ件/□□十九日認可ス」の墨書書入れ。用箋の上端
部分が写真に収まっておらず、□は不明。雛形の「(年中一度大祭日ヲ記ス)」からしても追記と思われる〉
〈版心 福島縣 第十三区會所〉
「一 什宝物 神鏡一面」
「一 寄附物 木綿幕 半■ 木綿旗 一流 石灯篭 一基 / 三方 四箇」
「一 境内地 二百四十六坪〈朱筆にて百八十に訂正〉 官有地」
「一 持添地 山反別未定 此〔地価未定 周年純利金廿貳■(銭)/名受塩原○○外五十一名 地番松前家村字〈略〉 〈二つの「山反別未定 その詳細割書」を略〉」
「 寄附地 無之」
「一 境内樹木 〔杉目通尺回以上二本 榎目通尺回以上壱本/松目通尺回以上同二本〕」
「一 永続方法 金二拾五円 〔塩原○○外五十一名寄附此/年分利子五円外持添地ノ純利等ヲ以テス〕」
「一 県庁距離 廿七里三十一丁」
「一 氏子 九十一戸」
「一 神官 教導職試補 大森○○ 〔岩代国耶麻郡喜多方町/平民〕」
〈用箋三枚目〉
「一 境内末社〈改行〉
白山神社/祭神ー略/社殿ー略/祭日ー略 /
稲荷神社/祭神ー略/社殿ー略/祭日ー略」
〈一行空けて〉
「右之通相違無御座候以上」
「 〔岩代国耶麻郡豊岡村郷社熊野神社祠掌/
兼岩代国耶麻郡松舞家村村社熊野神社祠掌〕」〈罫紙一行に割書、兼は追記〉
「 明治十一年七月〈何日無〉 大森○○印」
〈版心 福島縣 第十三区會所〉
「氏子総代/
猪俣○○印」
「什長/
塩原○○印」
「用係/
簗瀬○○○印」
「戸長/
杉本 ○印」
〈二行空き〉
「福島県権令山吉盛典殿」
〈四枚目:罫線の無い用紙〉
「岩代國耶麻郡松舞家村/
字馬坂山/
村社志王神社/〈訂正なし〉
境内縮図/
但曲尺貳分ヲ以テ/
壱間トス」
〈境内縮図が記されている。北の方角が示されている。境内地の周囲の形を線で表わし、それぞれの線の長さを何間何分と記してある。
「神殿」が境内のどの位置にあるかが示されており、「白山」と「稲荷」の位置も示されている〉
以上が、喜多方市の古四王神社の神社明細書になります。
*新編会津風土記では、コシオウは「腰王」表記で統一されていましたが、明治時代のこの神社明細書では「志王」とされていました。
どのような事から「腰王」という表記に統一されたのか承知していないのですが、会津領内のすべてのコシオウを調べた上で「腰王」とすることに決せられたとも思えないので、領内のいずれかの社に「腰王」と表記する契機となる社があるのかも知れません。
少なくともこの喜多方市の古四王神社は、新編会津風土記に「別当は四天王の木像を安置せる故、古四王といえり」の記載があるので、「腰王」表記の契機ではないと思います。
会津藩政下での、コシオウの「腰王」表記には、四道将軍大毘古命(大彦命)や志・古志ないし越国を思わせる気配は無いと思います。実際のところはどうだったかは不明ですが。
この明治の神社明細書では「志王」「大毘古命・武渟名川別命」になっています。
志や大毘古命の表記からは、古事記による表記が念頭にあるのだと思いますが、そうであれば武渟名川別命と表記しているのは整合性・一貫性がないと思うのですが、どうしてなのでしょう。
この神社の「志王」は「古四王」への訂正が願い出られて認められています。
志王表記に行政側の指導があったことがうかがわれるのではないでしょうか。
明細書の神社名は、「腰王神社」でも「古四王権現」でもなく「志王神社」とありますが、「社号改替 無之」になっています。
*用箋欄外の「弊饌料供進指定社」朱印ですが、村社として神饌幣帛料供進神社となったという事でしょうから、明治四十年以降に押された印となると思います。
この明細書には、神殿の大きさに朱筆訂正がありますので、訂正前の神殿の縦横三間半からすると、山頂の宝形造りの建物を神殿としたのだと思いますが、神殿が縦横一尺半に訂正されているので、社殿内に御神体にあたるものを収める一尺半の宮社があり、それを神殿とする指導があったということでしょうか。境内坪数の朱筆訂正は、不明です。
明細書の欄外には大正時代の朱筆の書込みもありますので、少なくとも大正時代には公簿として使い続けられていたと思われますが、神社合祀に関する書込みはありません。
『平成の祭』によると、古四王神社の境内社に「若宮八幡神社・大山祇神社・熊野神社・諏訪神社・伊豆神社・熊野神社・稲荷神社」が記されています。白山神社はありません。
これらの境内社は、どのような経緯を持つ境内社なのでしょうか。
いわゆる明治三十九年の神社合祀令以降に、古四王神社に合祀された神社は無いのでしょうか。
明細帳の提出以降の神社合祀の記録は、明細書への追記等による記録方式を取らなかったのでしょうか。
※由緒について
「探訪記録ー福島1 喜多方市ー古四王神社」の記事に、『喜多方市史 第一巻 第二編第三章第二節』中の項目「古四王神社」から由緒部分を引用しておりますので、ここでそれを再度引用することはいたしませんが、由緒の出典として「明治二十四年 社寺明細帳」とありました。
市史に記された由緒は、今見た明治十一年七月付けの明細帳の二十九行の記載内容を現代語で簡潔にまとめた内容になっていますので、市史の記す由緒は明治十一年七月の明細帳と同じものであろうと思われます。
ただ、市史の由緒は明細帳の由緒にある三古四王に関する部分と大納言藤原姓伊藤義貞以降の記載が省略されていますので、明治十一年七月の明細帳の由緒を見ておきたいと思います。
◇「一 由緒 社傅ニ曰當社ハ推古天皇ノ御宇聖徳太子/蝦夷追伏ノ本願ニ依テ勧請セラレシ本朝ニ/三古四王ノ其一ナリ所謂越後國五十公野ノ/古四王出羽秋田ノ古四王社是ナリト云何レ/モ祭日及ヒ社殿北ニ向フ等異ルコトナシト社殿/北ニ面スルハ當時蝦夷ノ賊ヲ鎮護ノ為ニ勧/請セルニ依ルト云同六年戊午九月十三日社殿/造営就レリ其後元明天皇六年癸丑ノ歳/諸國郡村ヲ定メ玉フノ時行基僧正勅ヲ蒙/リ来リテ當山ノ衰ヘタリシヲ再興シ其後/十七年ヲ経テ聖武天皇天平元年己巳ノ歳/再ヒ来リテ弥陀観音地蔵ノ像ヲ彫シ千/光寺西連寺等其他ノ堂塔ヲ創建セリ/夫ヨリ漸々隆盛ニ至リ例年六月十三日ヲ以テ/大祭トシ四月十七日ヲ以テ観音ノ大會ト為ス/神殿堂塔甍ヲ並ヘ金殿空ニ聳ヘ高楼/天ニ秀テ最モ盛ナリシモ數百年ノ星霜ヲ/経テ悉ク廃絶シ唯當社ノミ猶今ニ存セ/リ弘治年中大納言藤原義貞卿當國/ニ左遷セラレシ時當社ヲ深ク信仰セラレ/帰洛ノ後新ニ社殿ヲ造営セラル今ノ社殿/即チ是ナリ其梁ニ曰/
大納言藤原姓伊藤義貞卿/弘治三丁巳年八月吉日/ 大工越後國浅倉太郎左エ門/ 檀那 三瓶常實/右常實ハ其時ノ地頭ナリ其後天正年中兵/乱ノ為ニ付什宝遺記悉ク亡テ唯社殿ヲ存スル/ノミ時ニ明治五年村社ニ列セラル」
以上が明細帳の由緒です。
*明細書で社名を「志王神社」としていた時に、由緒では「古四王」とあります。
大納言藤原姓伊藤義貞も地頭の三瓶常實もどのような人物か、私には不明です。
三瓶常實が檀那というのですから、実際の造営者ということでしょうか。
弘治は、1555年から1558年までで、天正は1573年から1592年までとなります。
神社の文書記録などが兵乱で失われたが社殿があるということで、社殿の梁にあるという社殿造営の記述と年号は記録として存在するということのようです。
「梁二曰」というのは梁に墨書でもしてあったのでしょうか、棟札の文面ならば「梁二曰」とは記さないと思います。
*市史の「明治二十四年 社寺明細帳」がどういうものか分かりかねるのですが、同市史の「第二編第五章第三節」中の項目「越前大工や越後大工の往来」に、「宮在家村の腰王(古四王神社)」についての記述があり「『社寺明細帳』明治二十四年慶徳村役場」の記載がありますので、明治二十四年に社寺明細帳を役場文書として管理するための帳簿を整えたということなのかも知れないと思います。
同市史の同項目中に「弘治三年(1557)八月の古四王神社棟札(『新宮雑葉記』・『市史4』545頁)には、『大工、越後国浅倉太郎左衛門』の名が見える。」の記載があります。
『新宮雑葉記』に古四王神社の造営に関する記載があるようです。
◎『福島縣耶麻郡誌』(復刻版=歴史春秋社 昭和53年8月:耶麻郡役所編纂 大正八年刊行)の「第九章 社寺及宗教ー第一節 神社」で「古四王神社」を見てみます。
「第一節 神社」は、「一縣社、二 郷社、三 指定村社、四 指定外村社」の区分で記載されており、縣社は磐椅神社イワハシ・土津神社ハニツ・飯豊山神社の三社、郷社に八社、指定村社には二十四社の記載があります。指定村社には祭神・所在・由緒・等が記されています。
指定外村社は、五十五社が記載されていますが、神社名・祭神・勧請年月・祭日・所在地を一行にした一覧表になっていてます。由緒の項目はありません。
「弊饌料供進指定社」に列せられた村社は区別されているようです。
無格社の記載はありません。
*古四王神社は指定村社の十五番目に記されています。
ここに記された由緒は、明治十一年七月の明細帳の由緒と見比べると、「造営就レリ」が「成就す」・「定メ玉フ」が「定め給う」・「並ヘ」が「竝へ」・「最モ盛ナリ」が「甚た盛なり」の四箇所の文字表記の違いがあり、送り仮名のカタカナをひらがなにした違いがあるものの、同内容の由緒になると思います。
同書の「凡例」に「社寺の由来縁起等は主として郡役所備の社寺明細帳に拠り其他の資料により多少の取捨を加へ或は参考として附記せり」とあるように、耶麻郡役所帳簿の明細帳の由緒から記したものになると思います。
明治十一年七月の明細帳とのいくつかの違いは、郡役所の明細帳と明治十一年明細帳とにある違いなのか、郡役所明細帳によって耶麻郡誌記事に記載する際に生じた違いなのか分かりません。
ここで郡役所備となっている社寺明細帳は、明治二十四年慶徳村役場の社寺明細帳と同じものか分かりません。
ちなみに、閲覧した秋田県の由利郡の神社明細帳は、県庁迄距離のあと以上と記して提出者の署名印や日付が無いものでしたので、行政帳簿とする際に、県に提出された正式な明細帳の主に項目部分を書き写して作成したものという可能性があるのではと思います。
北秋田郡と山本郡の小数の写真複写した明細書には、県庁迄距離と以上の後に日付があり社掌と戸長の記載があり氏子総代は記載がありませんが、両郡の全明細書が同様であるかは確認していません。
福島県の場合も明治十一年明細帳から書き写した物を行政帳簿用として作成したというようなことがあるのかもしれないと思います。
◎『新宮雑葉記』(会津資料保存会編『会津資料叢書』下巻、歴史図書社、1973)を国会図書館デジタルコレクション・送信サービスで閲覧しました。
「来歴之部」−「第百六代 後奈良天皇」条に、「弘治三丁巳年耶麻郡宮在家村古志王社建 棟札ニ曰/ 大納言藤原伊藤義貞/ 大工 越前國浅倉太郎左衛門/弘治三年八月吉日 檀那 三瓶常實」の記載がありました。
「古志王社」の表記があり、「棟札ニ曰」「越前國」など明細書の由緒と異なる記載がありました。
ちなみに、同天皇条に「天文二癸巳年慶徳寺ニ住一峯宮在家村ニ建長傳寺」があります。
同書には、興味深い記載が多々あるのですが、ここでは触れません。
同書は江戸時代中期の成立で、歴史図書社版ではない『新宮雑葉記』(菊地研介編『会津資料叢書』第2、会津資料保存会、大正6)を国会図書館デジタルコレクションで閲覧してみると、菊地研介による「解題」に「本書ノ撰述ハ、元禄十五年〈1702〉ノ秋ナルベシ。而シテ珠盤氏ノ序、及自序、自跋、並ニ追記ニ因テ考フルニ、宝永二年〈1705〉ニ至ル三年間之ヲ改訂シ、宝永七年追書セルモノト思ハル。/本書ノ底本ハ著者原本ノ転写ニシテ、明治初年ノ筆ナリ。」「本書ノ著者ハ渡邊直昌、通称傳六郎、風月堂廬帆ト号ス。河沼郡砂村ノ人ナリ。子孫断絶シテ伝記知ルベカラズ。」とあります。
『新宮雑葉記』の写本には、『会津資料叢書』に収められた文言と異なる、書写による異動のあるものがあるのではないでしょうか。
*現在、喜多方の古四王神社の由緒とされているものは、明治十一年の志(古四)王神社の明細帳の由緒によるものであることは確認されると思います。
その由緒がどの時点で成立していたかは不明ですが、明治初期にまとめられた由緒書になります。
喜多方の古四王社は日本三社であるという意識が生まれていたことが、由緒内容に影響しているのではないでしょうか。
日本三社あるいは三古四王というのは、喜多方の古四王社の方で言われ出したことかもしれないと思います。
秋田市寺内の社にはそのようにランク付けする必要がありませんし、新潟県新発田市五十公野の社にも取立てて三古四王や日本三社というような事を言ってはいません。
秋田にある古四王神社について、聖徳太子建立の秋田城四天王寺を草創とするとか、蝦夷鎮護を役割とするというような認識があることで、三社たる当地の古四王社の由緒で、聖徳太子と蝦夷を結びつけて勧請年代を推古朝に持って行ったり、行基や千光寺西連寺にからめた沿革にしたり、ということを思わせると思います。
由緒の「其梁ニ曰/ 大納言藤原姓伊藤義貞卿/弘治三丁巳年八月吉日/ 大工越後國浅倉太郎左エ門/ 檀那 三瓶常實」の記述は、『新宮雑葉記』にこの情報があると知られていて、あるいは『新宮雑葉記』に留められた事柄が地元では知られていて、由緒に取入れられたのかもしれないと思います。
『新宮雑葉記』からの取入れであれば、その写本が『会津資料叢書』のものと異なるために、棟札と梁や越後と越前の違いがあるのかも知れません。
棟札ないしは梁の調査などは、なされたのでしょうか。
大納言藤原伊藤義貞や地頭三瓶常實及び天正の兵乱の事などが、分かればよいのですが。
A探訪記録ー福島2 西会津町野沢 古四王神社(こしのうじんじゃ) 祭神:大毘古尊・建沼河別尊
新編会津風土記=河沼郡(野澤組)ー野澤本町 諏訪神社ー相殿・腰王神
*岩代国河沼郡神社明細帳四冊之内一・二
河沼郡神社明細帳四冊之内一に、「古志王神社」の明細書があります。
分冊一の最初に、収録村名を記してある版心に「福嶋縣」とある十三行朱か茶の罫紙があります。
そこに記されている野沢村が町に訂正されています。野沢村は明治八年に野沢本町等が合併して成立し、明治四十年に野沢町になっています。明治八年の合併で成立した正中村と芹草越村も記されていて、両村には「野沢町ニ編入ス」の朱追記があります。この編入は大正十年になります。
「古志王神社」の明細書の内容を記すにあたり、一部の項目は記載を省略しますが、項目が存在しないのではありません。箇条書で項目を示す際に記されている「一〈ヒトツ〉」を省略し、項目名と記載事項を「ー」等の記号で結ぶ表記をしています。項目内の割書範囲や小さな文字での表記を省略します。
◇明細書は青色十三行罫紙で版心の下部に文字があるのですが薄く判読出来ませんので、印判の文字がかすれたものと思います。
先ず明細書の一行目・二行目を見て、続いて項目について記載していきます。
「小社 岩代国河沼郡野沢村字荒田山鎮座」〈「山」に二重朱線〉
「古志王神社 式外」
〈神社名が志王ではありません。古志王の表記は認められています。新編会津風土記の野澤本町の記載中に「越後街道古四王原」の地名
が記されており、コシオウを古四王とする可能性もあるのではと思いますが、志王・古志王を認めているところから、古代のコシと結びつ
く神社名であれば良しとされたのではないでしょうか〉
「祭神 大毘古命/建沼河別命」〈大毘古命/建沼河別命と古事記表記に統一されています〉
「由緒 不詳」、「勧請 年月不詳」
「社殿 神殿 縦八寸/横八寸 雨屋 縦壱間/横壱間 石段 五十三階/巾三尺/石燈篭壱基」
「同造営 信者持」
〈項目「社号改替・神位・什宝物・寄附物・持添地・寄附地」には「無之」の記入〉
「祭日 九月九日」
「境内地 四拾八坪 官有地」〈民有地を朱筆で官有地へ訂正、欄外に境内地訂正の朱筆〉
「境内樹木ー略」、「永続方法 信者出金之ニ充ツ」、「県庁距離ー略」
「信者 七拾貳戸」、「神官 教導職試補伊藤○○ 岩代国河沼郡野沢村/平民」
「右之通相違無御座候以上」
「岩代国河沼郡野沢村諏方神社社祠官」
「明治十一年五月九日 伊藤○○印」
「信者総代/鈴木○○○印」
「什長ー石川○○○印/用係ー渡部○○印/戸長ー西○○印」〈用箋二枚目〉
「福島県権令山吉盛典殿」
三枚目の罫線の無い用紙に古志王神社境内縮図があります。明細書は以上です。
鎮座地と境内地の朱筆訂正と欄外に朱筆追記があるだけで、ほぼ提出時のままの明細書です。
神社名の変更に関する書込みはありません。
古志王神社では、「氏子」ではなく「信者」となっていますが、どのような理由で「信者」なのでしょうか。「氏子」としないのは、いわゆる「氏神」「産土神」「鎮守神」というような神社ではないということでしょうか。
◎『河沼神社誌』(戸内康雅心清水八幡神社宮司 河沼神社総代会 昭52)に「古四王原 古四王神社」の項目があり、古四王原と古四王神社がむすびついた項目表示がなされていました。振仮名は「こしおうはら こしおうじんじゃ」とあります。「古志王神社」ではありません。
〔鎮座地〕耶麻郡西会津町野沢字荒田甲1585番地、〔祭神〕は大毘古尊、建沼河別尊、〔例祭〕等・略、〔氏子〕20戸、〔宮司〕伊藤○○、〔役員・総代〕渡辺○○・斎藤○○・大沼○○とあり、「由緒」に「創建の年月は不明であるが、延宝年間に野沢本町諏訪神社の相殿に腰王神 本村より移せりと記されて在り、この社である。明治の初年に独立して神社と登録するに至ったものである。」があります。
鎮座地・祭神は『平成の祭』と同じです。
ちなみに同書の「野沢本町 諏訪神社」の〔項目〕を見ると、旧郷社で〔祭神〕は建御名方神、〔鎮座地〕省略、〔例祭〕九月十五日、〔本殿・弊殿・拝殿〕等ー略、〔境内地〕六百坪、〔境内社〕に若木・市・鍛冶・稲荷・琴平・氷川・秋葉があり、〔氏子〕二百五十戸、〔宮司〕伊藤○○、〔役員・総代〕に石川○○・大沼○・鈴木○○、〔区長〕佐藤○○とあり、〔由緒〕の最後に「神殿は旧領主の造営にかゝる神社で、延宝の頃相殿六座あり。」とあります。〔宮司〕の伊藤○○は古四王神社とおなじです。
同書の「凡例」の12項目中の6に「鎮座地は現行の神社明細帳(県神社庁保管)により、祭神も同様である。祭神は寛文年間の神社総録や新編会津風土記によって確認したが、本殿の相殿に祭られた祭神も〔相殿〕として明記したが、報告書や現行の神社明細帳にも記載がない時には〔由緒〕欄にそのことを付記した神社も数例ある。その際には明治11年の神社明細帳(県神社庁保管の福島県旧蔵のもの)の記載が参考となった。」があります。
△相殿に腰王神を祭っていた「諏訪神社」の明細書を見てみます。
「郷社 鎮座地ー略」/「諏方神社 式外」/
「祭神 建御名方命」、「同造営 氏子持」、「社号改替・神位ー無之」、「祭日 八月三十日」、「境内地 千三拾坪 官有地」、「永続方法 修繕 并祭典費等氏子ニテ出金」、
「由緒・勧請・社殿・什宝物・寄附物・持添地・寄附地・境内樹木・県庁距離ー略」、
「氏子 貳百八拾七戸」、「神官 教導職試補伊藤○○ 住所等略/教導職試補沼沢○○ 住所等略/清野○○ 住所等略/二瓶○○ 住所等略/矢部○○ 住所等略/中野○ 住所等略」 〈神官は合せて6人の記載となっており、3人に朱筆の異動訂正あり〉
「境内末社〈改行〉若木神社:祭神 少彦名命/社殿・祭日ー略/市神社:祭神 大市比賣命/社殿・祭日ー略/鍛冶神社:祭神 天目一箇命/社殿・
祭日ー略/稲荷神社:祭神 倉稲魂命/社殿・祭日ー略/琴平神社:祭神 大物主命/社殿・祭日ー略/琴比良神社:祭神 大物主命/社殿・祭日ー
略/氷川神社:祭神 速須佐之男命/社殿・祭日ー略/社号改替 旧号天王明治元年十二月氷川神社ト改称/秋葉神社:祭神 火産霊命/社殿・祭
日ー略」/
「右之通相違無御座候以上」
「岩代国河沼郡野沢村諏方神社社祠官/ 伊藤○○印/明治十一年五月九日 仝社祠掌/沼沢○○印/仝/清野○○印/仝/二瓶○○
印/仝/矢部○○印祠官伊藤○○代印/仝/中野○印祠官伊藤○○代印/氏子総代/鈴木○○○印/仝/斎藤○○印/什長/石川○
○○印/仝/橋谷田○○○印/用係/渡部○○印/仝/星○○印/戸長/西○○印」 〈神官6人、氏子総代2人、什長用係も2人〉
「福島県権令山吉盛典殿」
神官の伊藤・総代鈴木・什長石川・用係渡部・戸長西は古志王神社と同名です。
*『新編会津風土記』に記されていた諏訪神社の相殿の社については、神社明細書ではなにも記されていません。
境内末社に8社の記載がありますが、これらの社は明治初期の神社整理によって境内社となったものでしょうか。
また、『河沼神社誌』の「野沢本町 諏訪神社」の記す境内社と、琴平と琴比良を区別しなければ、同じですので、明治末期の神社合祀で合祀された神社は無かったということになるのでしょうか。
『新編会津風土記』(花見朔美編『大日本地誌大系 新編会津風土記第四冊及び第五冊』雄山閣 昭和7年・8年)の巻之九十四・九十五・九十六で河沼郡野澤組上・中・下の村の神社の記載を見る限りでは、若木・市・鍛冶・琴平・琴比良・秋葉神社を見出せませんでした。
稲荷神社は野澤本町に存在し、神職は諏訪神社と同じ伊藤対馬とあります。天王神社は野澤組中十五箇村中の片門町の端村軽澤と杉山村に存在しましたが、神職は伊藤対馬ではありません。
この野澤本町の稲荷神社は、『河沼神社誌』の「古四王神社」の隣頁に記載の「野沢稲荷原 稲荷神社」〔鎮座地〕西会津町野沢字稲荷山甲1716番地、〔宮司〕〔役員・総代〕が「野沢本町 諏訪神社」と同一になっている神社かも知れないと思いますが、現在は稲荷山甲という住所表示が行なわれていないこともあって、場所の特定ができず、確認が取れません。
また、同書の「軽沢 氷川神社(天王様)」は、『新編会津風土記』の片門町の端村軽澤の天王神社ではないでしょうか。
もし、そうだとするとこの二社は、諏訪神社の境内社となった神社ではないことになります。
野澤本町の稲荷神社や軽澤の天王神社は神社明細帳ではどうなっているのでしょうか。
諏訪神社の境内末社の経緯が分かりません。
『平成の祭』の諏方神社には、祭神建御名方命とあるだけで、境内社の記載がありませんので、合祀関係については分かりません。
B探訪記録 福島3
会津若松市・東山温泉 志王神社 祭神:大毘古命・建沼河別命
新編会津風土記=會津郡青木組ー湯本村 腰王神社
*岩代国北會津郡神社明細帳 三冊之内一・三 〈「三冊之内一・三」とあります〉
志王神社の明細書を見ます。
明細書の幾つかの項目だけを記載し、その他の項目は項目名も省略します。また、提出側情報や決まり文言も省略します。
明細書用紙は、青十三行罫紙で版心の中央より上部に「福島縣管下」とあります。
◇明細書:
「小社 岩代國會津郡湯本村字積鎮座/志王神社 式外」
「祭神ー大毘古命/建沼河別命」、「同〈社殿〉造営ー湯本村一村持」〈「信仰者武藤○○○ 一村持」に紙を貼って訂正されている〉
「永続方法ー信仰者中ニテ祭典并修繕ノ都度々出金以テス」、「信仰者ー湯本村一村中」〈「武藤○○○」に紙を貼り訂正〉
「神官ー権訓導 長沼○○ 岩代國會津郡若松滝沢町/士族」
「岩代國會津郡湯本村〈郷社ー朱筆追記〉湯上神社祠官/ 明治十一戊寅年四月 長沼○○」
「信仰者総代ー武藤○○○印」
神社名は、喜多方の古四王神社の明細帳の当初の社名と同じ志王神社で、現在もそのままです。
雛形では氏子とある項目は、氏子でも信者でもなく「信仰者」となっています。「信仰者」項目には「信仰者総代」に名のある武藤氏個人の名前が当初は記されていたものが湯本村一村に変更されています。この変更には、変更に関する追記がないので提出前の変更かも知れません。
△湯上神社の明細書を見てみます。
「郷社 湯本村字羽黒山鎮座/湯上神社」
「祭神ー倉稲魂命、由緒ー略〈十五行、一行に二列記入〉、勧請ー天平元年八月一日、同造営ー氏子持、社号改替ー旧羽黒山大権現御一新ニテ 広瀬大明神明治四年湯上神社ト改称ス、永続方法ー〈境内樹木訂正の貼紙が文字を隠しているが〉営繕並公事諸祭典費等ノ都度々氏子募金 ヲ以テ永続目途トス、氏子ー二百二十戸〈二十を十九に朱筆訂正〉、神官ー権訓導 長沼○○ 略/教導職試補 湯田 略/同 加藤 略/同 佐原 略/芦名 略/小高 略」
〈神官の権訓導 長沼○○ は志王神社と同じです〉
「境内末社」に、稲荷神社/雷神社/山神社/日枝神社/妙見神社/麓山神社/若木神社〈祭神・社殿・祭日ー略〉の記載があります。
「氏子総代ー武藤○○○印」
氏子総代の武藤氏は、志王神社の信仰者総代と同じです。
『新編会津風土記』に、羽黒神社・祭神倉稲魂命とあり、その縁起を下敷きに明治初期の状況に合わせて記述したものが明細書の由緒ではないかと思います。
△湯泉神社の明細書も見ます。
「小社 湯本村字寺屋敷鎮座/湯泉神社 式外」
「祭神ー清湯山主命、同造営ー湯本村一村持、永続方法ー湯本村一村ニテ都度々出金ヲ以テ諸費ニ充ツ、信仰者ー湯本村一村中〈「武藤○○ ○」を貼紙し訂正〉、神官ー権訓導 長沼○○ 略」
〈提出側の記載は、志王神社と同じです〉
志王神社も湯泉神社も、羽黒山湯上神社の総代という立場の方が信仰者総代として提出者の署名捺印をせざるを得ないと状態ということでしょうか。両社とも「氏子」と記すことはできない神社のようですが、信者ではなく信仰者とあるのは何による違いなのでしょう。
*会津藩政時代の東山温泉がどのような温泉地であったか承知していないのですが、『阿賀路 第十七集』(阿賀路の会/東蒲原郡史編さん委員会 昭和五二年三月)所収の桑原啓「古四王神社と大彦命」中に「腰王社名では、もっとひどいことになっている。会津東山温泉の腰王社は、芸者たちのあの方に効くというので、大繁盛であるという。」の記述があります。引用するのはいかがなものかとも思いましたが、記しておきます。
志王神社と表記する時代になっても、腰王で表わされる御利益が求められていたようです。
C探訪記録 福島4
新編会津風土記=耶麻郡塩川組ー深澤村 熊野宮ー相殿・腰王神
*岩代国耶麻郡神社明細帳 七冊之内一、二
喜多方の古四王神社と同じ耶麻郡の神社明細帳になります。
「熊野神社」の明細書は、七冊の一分冊部分にあります。
分冊の最初の収録村名に、明治八年の合併で成立した中屋沢村が記されています。記載されている村名に訂正はありません。用紙は茶十三行罫紙で版心下部に朱字の「福嶋縣」とあるものです。
明細書の用紙は、青十三行罫紙で版心中央より上に「福島県管下」とあるものです。版心の文字は喜多方古四王神社の明細用紙とは異なりますが、郡の違う東山温泉の志王神社の用紙と同様に見受けられます。
◇明細書:
「村社 岩代國耶麻郡中屋澤村字宮ノ西鎮座/熊野神社 式外一村信仰」
「祭神ー速玉男命/伊弉冊命/事解男命、同造営ー氏子持、永続方法ー氏子臨時出金、氏子ー八十七戸、神官ー大伴○○ 岩代国耶麻郡磐梯村/ 平民」
〈用箋欄外に、「弊饌料供/進指定社]の朱印があり、祭日に祈年祭/新嘗祭の追記が見られます〉
「岩代國耶麻郡磐瀬村縣社磐椅神社祠掌/明治十一年六月 大伴○○印/氏子総代ー須田○○/什長・用係・副戸長ー略」
『新編会津風土記』に記されていた相殿については記されていません。
相殿の神は、明細書には反映されないもようです。
境内社の記載もありません。
腰王神については、まったく分かりません。
『福島縣耶麻郡誌』では、指定村社の七番目に駒形村大字中屋澤深澤字宮ノ西鎮座の熊野神社が記載されています。祭神は明細書と同じです。由緒・勧請不詳です。
『平成の祭』では、耶麻郡塩川町中屋沢字西ノ宮甲798鎮座の熊野神社の祭神は伊邪奈美命となっています。「西ノ宮甲」は宮ノ西甲の誤り。
D探訪記録 福島5
新編会津風土記=河沼郡代田組ー槻橋村 鬼渡神社 相殿・腰王神
*岩代国河沼郡神社明細帳四冊之内一、二
「A探訪記録 福島2ー野沢」の古四王神社で見た神社明細帳の簿冊の四冊之内二にある「鬼渡神社」の明細帳を見ます。
槻橋村は明治八年の合併で倉橋村となっています。
分冊二の収録村名の用紙は茶十三行罫紙で版心下部に朱色の「福嶋縣」とあるもので、今まで見た他の収録村名の用紙と同じです。
鬼渡神社の明細書用紙は青十三行罫紙で版心に「福島縣管下」とあり、分冊一で見た明細書とは異なっています。版心上部に「倉橋」の小紙片が貼られています。
ここまでのところでは、明細書に用紙の統制はないように思われます。
また、収録村名の用紙は、各明細書を分冊にまとめる段階で作成されたために用紙も同じものになっているのではないでしょうか。版心に貼られた村落名の小紙片も分冊にまとめる段階で付けられたのではないでしょうか。
◇明細書を見ます。
「村社 岩代國河沼郡倉橋村字ク子ノ内鎮座/鬼渡神社 式外」
「祭神ー阿須波能神/波北岐能神」/「由緒、勧請ー不詳」
「同造営ー氏子持、永続方法ー式年祭典営繕等ノ都度々々出金、氏子ー七十二戸」
「神官ー教導職試補 佐々木 ○○ 岩代國河沼郡大田原村/士族」
「境内摂社ー諏方神社 略」
「岩代國河沼郡大田原村八幡神社祠掌/明治十一戊寅四月 佐々木○○印/什長・用係・戸長ー略」
この明細書に朱筆訂正などはありません。
新編会津風土記では、「大和田村佐々木右京が司なり」とあります。境内にありとされる伊勢宮は見当たりませんし、腰王神も含め相殿十座はまったく気配もありません。
明治の福島県の神社明細帳では、江戸期の神社合祀はまったく顧みられないようです。
この明細書の境内摂社の諏方神社がどのような経緯で祀られているのか分かりません。
『河沼神社誌』の「河沼郡河東村 二七社」中に「槻木 鬼渡神社(ツキノキ オニワタリ)」の記載があり、〔鎮座地〕河東村大字倉橋字クネノ内丙308番地、〔祭神〕阿須波神・波北岐神、〔例祭〕等-略、〔境内社〕諏訪、〔氏子〕二七戸、〔由緒〕文永五年十月十一日の創建と伝えられ、延宝三年の神社制度改正の時に当村の腰王(コシノキミ)、藤倉村より伊勢・鹿島・諏訪・天神・婆権現、倉道村より稲荷・熊野・白山神を合祀したと。またその際の境内社は伊勢宮であったが、今は諏訪社であると。」とあります。
「鬼渡」に「オニワタリ」の、「腰王」に「コシノキミ」のフリガナがあります。
E探訪記録 福島6 会津若松市湊町 志王神社
新編会津風土記=會津郡原組ー西田面村 腰王神社
西田面村は明治8年の合併で共和村となり、共和村は明治22年の合併により湊村になっています。
*岩代国北會津郡神社明細帳 三冊之内一・三
「B探訪記録 福島3ー東山温泉」の志王神社と同じ明細帳です。
◇明細書:
「小社 岩代國會津郡共和村字湯沢鎮座/志王神社 式外 共和村ノ内旧西田面村信仰」
「祭神ー大毘古命 建沼河別命、同造営ー共和村ノ内西田面村持、永続方法ー営繕祭典公事ノ入用等一切共和村之内西田面ノ醵金ヲ以ス、信 仰者ー共和村ノ内西田面村中、神官ー訓導 横山○○○ 岩代國會津郡八幡村/平民」
「岩代國會津郡八幡村 郷社八幡神社祠官/明治十一戊寅年四月 横山○○○印/信仰者総代ー鈴木○○○印/略」
信仰者の仰に斜線が引かれているように見え、信者に訂正したように見えます。
それ以外には訂正などが無い明細書です。
神社名表記は志王神社とあり、『平成の祭』でも同じ表記ですので、明治の明細帳で記された神社名のまま現在に至ったのでしょう。
F探訪記録 福島7 会津美里町 古四王神社(藤巻神社境内)
新編会津風土記=大沼郡橋爪組ー福永村 藤巻神社ー相殿・腰王神
*岩代國大沼郡神社明細帳 四冊之内一、二 〈「岩代國」と表記〉
藤巻神社は四冊之内一の明細帳に収録されています。
分冊一の最初にある収録村名の用紙は、今まで見てきた様式と同じです。
村名に、高田村や明治八年合併の冨川村や明治十年合併による氷玉村等が記されています。
藤巻神社の明細書用紙は、青十三行罫紙で版心に「福島縣管下」とあるものです。版心の上部に「氷玉村」の小紙片が貼られています。
◇明細書:
「村社 岩代國大沼郡氷玉村字福永鎮座/藤巻神社 式外」
「祭神ー明玉命、同造営ー氏子持、祭日ー八月廿六日、氏子ー百九十九戸、神官〈貼紙による朱筆訂正あり〉」
「境内末社/志王神社 祭神ー八百日姫命/社殿ー神殿縦三尺八寸/横五尺五寸/祭日ー三月十三日/若木神社 祭神ー倉稲魂命/社殿ー 神殿方九寸/祭日ー八月廿六日」
明細書の日付けが「明治十一年」だけです。この辺りの修正は不用だったのでしょうか。
境内縮図を見ると、旗竿地状の境内地の旗部分の中央に拝殿・弊殿・神殿があり、その左側に末社志王があり、さらに左の手前側に神楽殿があり、奥側に雑木とあります。
境内地の形状と藤巻神社と志王神社の位置関係は、2010年の訪問時も同様であったのように思えます。
この雑木は大銀杏のことでしょうか。
*延宝三年の五社合祀に含まれている腰王社(『本郷町史』)ですが、社殿を持つ境内末社として明細書に記載されていました。
祭神は、大毘古命 建沼河別命ではなく、八百日姫命とあります。
ですが、神社名の表記は志王です。『本郷町史』にある「若松県になった明治五年志王と書き改めさせられたという。」が明細書で確認されました。
なお、『平成の祭』で「藤巻神社」を見ると、境内社の欄には「忠魂碑」と「雷神社」が記されていて、志王神社も若木神社も記されていません。
*藤巻神社と同じ明細帳に、会津高田町(現・会津美里町)の「伊佐須美神社」がありますので、見ておきたいと思います。
国幣中社たる伊佐須美神社の明細書が綴じられているというのも、福島県の神社明細帳ならではなのでしょうか。
明細書用紙は、朱十三行罫紙で版心下部に「伊佐須美神社」とあるものです。
明細書の一枚目の版心上部に「国幣中社/伊佐須美神社」の小紙片の貼り紙があります。
「国幣中社 岩代國大沼郡高田村字宮林鎮座/伊佐須美神社 式内明神大」
「祭神ー伊弉諾尊伊弉冉尊、由緒ー略、勧請ー崇神天皇ノ御宇草創欽明天皇十三年今ノ地ニ遷座、社殿ー略〈24行に渡る記載がある〉、同造営ー 官営、社号改替ー無之但延喜式明神祭ノ部ニハ伊佐酒美神社トアリ、神位ー略、什宝物ー略〈20行以上の記載があるが訂正追加の貼紙が複 数あって寄附物から氏子まで判読不能〉、神官ー宮司兼大講義 武井○ 東京第二大区南佐久間町平民/禰宜兼権大講義 坂内○○○ 福島 縣會津郡下荒井村平民/主典兼少講義 内田○○ 福島縣耶麻郡上窪村士族/主典 郡○○ 福島縣大沼郡高田村平民/主典兼訓導 増山○ 廣島縣沼田郡新庄村士族」
「境内末社/菅原神社・白山神社・事比良神社・三峯神社ー略」
次の用箋は、記載の上に境内図の用紙が貼られています。記載事項不明。以下略とします。
明細書に記された祭神は「伊弉諾尊伊弉冉尊」の二柱のみで、略とした由緒に大毘古命建沼河別命に関する記述はありません。
新編会津風土記巻之七十四ー陸奥國大沼郡之四ー高田組の高田村の神社の項目に「伊佐須美神」があり、「【延喜式】内陸奥國一百座の一にて、祭神は即伊弉諾伊弉冊の両尊なり」とあり、「縁起を按ずるに」に続く記述に大毘古命建沼河別命は見えません。
伊佐須美神社のホームページで「御由緒・歴史」を閲覧すると、「御祭神/御祭神四柱を総称して伊佐須美大明神と奉称/伊弉諾尊/伊弉冉尊/大毘古命/建沼河別命」〈祭神の振仮名・略〉とあって、「由緒と社格」の書出しは「社伝によると、凡そ二千有余年前第10代崇神天皇10年に諸国鎮撫の為に遣わされた大毘古命とその子建沼河別命が会津にて行き逢い、天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)において伊弉諾尊と伊弉冉尊の祭祀の礼典を挙げ、国家鎮護の神として奉齋した事に始まると伝えられます。」とあります。
どうしたのでしょうか。
この明細帳の分冊中には、「国幣中社伊佐須美神社末社 岩代國大沼郡米田村字村西鎮座/伊佐須美神社〈村社の朱筆〉」の明細書があり、「祭神ー伊弉諾尊/伊弉冊尊」とあります。
また、現・喜多方の古四王神社の明細書のあった耶麻郡神社明細帳七冊之内三、四の簿冊中に「伊佐須美神社」の明細書がありましたので見てみます。
「村社 岩代國耶麻郡吉川村字相ノ沢鎮座/伊佐須美神社 式外」
「祭神ー大彦命/武渟川別命、同造営ー氏子持、永続方法ー金弐拾円猪俣○○外七十壱名ニテ備置一年ノ利子弐円弐拾銭ヲ以テス〈備置以下 は貼紙による訂正、判読に誤りの可能性あり〉、氏子ー七十二戸、神官ー教導職試補 大森○○」
「明治十一年七月、氏子総代/猪俣○○印」
この社の祭神は大彦命と武渟川別命の二柱で、統一性がある表記になっています。
伊弉諾尊伊弉冉尊ではなく、大彦命武渟川別命なのはなにゆえなのでしょうか。
『福島縣耶麻郡誌』では、指定村社の十九番目に上三宮村大字吉川見頃字相ノ澤鎮座の伊佐須美神社の記載があり祭神は大彦命/武渟名川別命とあります。
『平成の祭』での「いさすみ」の検索結果は6社の「伊佐須美神社」がありました。群馬県太田市に2社存在し主祭神は速須佐之男命とあり、他4社は福島県で大沼郡に2社、喜多方市に1社、会津若松市に1社でした。
先ず、会津高田町の伊佐須美神社ですが、祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・大毘古命・建沼河別命・塩土翁命・品陀別命となっていました。
明細帳で伊佐須美神社の末社とあつた神社であろう、大沼郡新鶴村大字米田字村西乙の伊佐須美神社は、社名と鎮座地だけで祭神などの記載がありませんでした。
明細帳では祭神が大彦命/武渟川別命であった神社であろう、喜多方市上三宮町吉川字相ノ沢の伊佐須美神社は、祭神が伊弉諾尊・伊弉冉尊となっていました。
大正の『福島縣耶麻郡誌』以降に変更が行なわれたのでしょうが、いつ変わったのでしょうか。明細書には祭神の変更に関する訂正追記はありませんでした。
祭神変更はどうすれば可能なのでしょうか。変更の記録はどこかに残されているのでしょうか。
会津若松市神指町大字南四合字深川乙の伊佐須美神社は、祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命と表記されていました。
この神社の明細書はまだ見ていません。
藤巻神社と境内社の古四王神社に関する事からは、だいぶ離れてしまいましたが、気になることでしたので記しておくことにしました。
G探訪記録 福島8
新編会津風土記=會津郡橋爪組ー柏原村 伊勢宮ー相殿・腰王神
*岩代国北會津郡神社明細帳三冊之内一、三
「福島3:東山温泉ー志王神社」、「福島6:会津若松市湊町ー志王神社」と同じ明細帳簿冊です。
明細書罫紙の版心に「柏原」の小紙片があり、版心の上部ではなく中央付近の「福島縣管下」の「管下」の場所に貼られています。
◇明細書:
「村社 岩代國會津郡柏原村字宮尻鎮座/神明神社 式外氏子信仰」
「祭神ー大日■〈レイ〉貴命 〈ヨの下に大=レイ〉、由緒・勧請ー不詳、社殿ー神殿・弊殿・拝殿ー縦横寸法に朱筆訂正・略、同造営ー氏子持、社号改替ー無之、祭日ー九月廿五日、永続方法ー式年造営■■営繕祭典公事ノ入費等一切氏子出金ヲ以テス、氏子ー百七拾八戸、神官ー〈貼紙訂正、欄外に朱筆で佐藤○○試験不合格ニテ無効ニ付云々〉」
「明治十一年〈月日記入無し〉、氏子総代ー佐々木○○印」
欄外に「弊饌料供/進指定社]朱印がありますが、祭日に追記はありません。
欄外に、神殿・弊殿・拝殿改築ノ件の明治四十四年十月十三日許可の朱筆書入と松二本枯木伐採の届の朱筆書入があります。
新編会津風土記で「伊勢宮」とあったものが「神明神社」とされていて、社号改替は無之です。
祭神は、大日霊貴命あるいは大日□〈雨+口口口+女=U+5B41〉貴命などとも表記される神のことと思います。
今まで見た明細書と同じく相殿のことはまったく記されていません。
探訪記録の記事と写真に、「新祠碑」(明治四十五年)と「石祠3社」の記載がありますが、「新祠碑」は明細書の社殿の改築に関する碑でしょうが、石祠については明細書になんの情報もありません。
H探訪記録 福島1〜8まとめ・他
探訪記録のここに「新編会津風土記の『越王山』の記事について」という項目があります。
新編会津風土記=耶麻郡川東組ー都沢村 正福寺:真言宗越王山と号す
若宮八幡宮:相殿二座ー熊野宮愛宕神
寺の山号に越王山がありますが、神社情報にコシオウはありませんでした。
*岩代国耶麻郡神社明細帳七冊之内一、二
「福島4」の熊野神社で見た明細帳と同じ簿冊の分冊二に、若宮八幡神社の明細書がありますので見ます。
分冊二の収録村名の罫紙の様式は今までと同じです。収録されているのは、猪苗代町と十四の村ですが、猪苗代町と磐瀬村以外の村名の下に千里・吾妻・長瀬・月輪と小さな文字で書き加えられています。何を示しているのでしょうか。
明細書は青十三行罫紙で版心に「福島縣管下 ■■」とあって、■■は文字が塗りつぶされているようにも、墨の染みのようにも見えます。
◇明細書:
「小社〈小を村に訂正〉 岩代國耶麻郡関都村字清水ノ上鎮座/若宮八幡神社 式外一村信仰」
「祭神ー大鷦鷯命」
「由緒ー略〈一行に二列に五行、前九年の役に絡めた由緒〉、〈由緒の最後の行の下部に〉「〈朱筆割書〉明治十一年七月廿九日村社加列出願/ ■十三年十二月廿三日許可〈担当者名?の〉印」
「勧請ー天喜五丁酉年九月九日、同造営ー本村渡部○○○外三十九人持、永続方法ー積立金拾円ノ利子ヲ以テ的■トス」
「信者ー四十戸、神官ー土屋○○ 岩代國耶麻郡関都村/平民」
「境内末社/稲荷神社・熊野神社ー略」
「境外末社 関都村字清水山鎮座/越王神社」
「祭神ー大山祇命/由緒ー不詳/勧請ー年月不詳/社殿ー神殿ー縦一尺五寸/横二尺 雨覆方一間/祭日ー三月廿一日、什宝物ー無之/寄附 物ー無之/境内地ー二十坪 民有地名受鵜浦○○/寄附地ー無之/境内樹木ー無之/永続方法ー渡部○○○外三十九人ニテ臨時出金/県 庁距離〈県庁距離に朱線し「イキ」の朱字あり、十五里の朱字あり〉/信者ー四十戸」
「右之通相違無御座候以上」
「岩代國耶麻郡磐瀬村縣社磐□〈木偏に竒〉神社祠掌/ 明治十一年六月 土屋○○印/信者総代ー獅ゝ戸○○印/略」
境内図用紙の上部に若宮八幡神社の境内図があり、その下部に境外末社越王神社境内縮図もあり、横幅五間縦四間の長方形の境内の中央奥側に神殿が記されていて、神殿の向きは北西のようです。
*越王神社の存在が記されている明細帳を見ることができたのは、収穫でしたが、祭神は大山祇命ということで山の神様として信仰されていたのかも知れません。
字清水ノ上鎮座の若宮八幡神社は山の中腹にありますので、清水山鎮座とある越王神社はその山の山頂辺りではないかと思いますが、越王神社の存在についての手掛かりが見出せません。
現地を訪問したときに若宮八幡神社のある山のことをコシオウヤマとお聞きしておりましたので、清水山の通称がコシオウヤマという可能性もあるのではとも思います。
I探訪記録 福島10 白河市大信町 胡四王神社
*磐城國西白河郡神社明細帳三冊之内三 〈「磐城國」と表記〉
西白河郡の神社明細帳は三分冊ですので、分冊一、二を合わせた簿冊と分冊三のみを綴じなおしたものとになっています。
この明細帳の表紙には分類整理用の小用紙がありません。
表紙をめくると、半折サイズの旧表紙があり、次に収録村名を記載した罫紙があります。収録村は三十村です。町屋村の町の字が田の下に丁と記されています。罫紙は今まで見てきた様式と同じものです。
胡四王神社の明細書は青十三行罫紙で版心に「福嶌縣」とあり、下部に「第十区會所」とあり、一枚目の版心の「縣」のところに「町屋村」の小紙片が貼られています。
◇明細書:
「村社 磐城国白河郡町屋村字古舘鎮座/胡四王神社 式外」
「祭神ー大巳貴命、社殿ー神殿縦壱尺三寸/横三尺五寸 石燈籠二基 雨覆縦一間半/横二間 鳥居一基〈朱追加〉、同造営−村持、永続方法ー年 ■金壱円五拾銭氏子中ヨリ積立、氏子ー貳拾六戸、神官ー教導職試補白石○○ 磐城国白河郡搆ゥ村/平民」
「磐城国白河郡泉崎村郷社鳥峠稲荷神社祠掌/兼同国同郡町屋村村社胡四王神社社祠」
「明治十一年十一月五日 白石○○印/氏子総代 佐藤○○印/什長・用係・副戸長ー略」
*明細書の祭神の大巳貴命は、『大信村史3』の記述の確認になりました。
『平成の祭』の胡四王神社の祭神は「天津児屋根命」とありました。「天児屋命」の別表記のひとつかと思います。
いつどのようなことで、祭神の変更がなされたのでしょうか。
さて、社殿についての明細書記載を、2011年の神社参拝時の写真と見比べて見ます。
雨覆は明細帳の大きさでいいように思いますが、雨覆内の小神殿は明細帳の縦横寸法より大きいと思います。
雨覆内に、墨書文字の薄くなっている「胡四王神社修理 寄附人名■」の板額と比較的に新しい「胡四王神社 社屋改築負担金 寄付金芳名簿」板額があげられていて、新しい方は「昭和五十五年四月吉日」で判読が難しい方は「昭和二十■年四■」のようです。
小社殿は、少なくとも昭和前期までには新たな神殿に替えられているものと思われます。
現在の神殿は、二間社の造りを小さくしたような立派な神殿です。
三本の向拝柱の奥には左右に扉が見えますので、二柱を祀ることを考慮されている神殿なのかも知れないと思います。
J探訪記録 福島11 南相馬市小高区ー古四王神社
*相馬郡神社明細帳 明治十二年 四冊ノ一、二
この明細帳簿冊の表紙には、明治十二年と記されています。
表紙には分類整理用の横長長方形の小用紙が貼られていて、「所属年度ー明治12年度/完成年度 ー明治13年3月/簿冊名ー神社明細帳(相馬郡四冊ノ一、二)/部課所名ー文書広報課/保存a@」と、明治十一年とある神社明細帳簿冊と同様に記されています。
分冊二の収録村名に村上村があります。村名記載の罫紙は、今まで見てきた物と同じ様式です。四十四の村名が記されています。
分冊一にも収録村名が四十二記されていましたので、八十六もの村の神社の明細書がまとめられている事になります。
村上村の含まれる分冊二にコシオウ社は見当たりません。
現在の古四王神社は、貴布根神社の参道脇にありましたので、貴布根神社の明細書を見てみます。
明細書は青十三行罫紙で、版心に「村上」の小紙片が貼られており、版心下部に文字がかすれて見えなくなっているような青い跡があります。明細書二枚目の罫紙の版心には何も記されておらず、全体で二十七行の罫紙のようにも見えます。
◇明細書:
「村社 磐城国行方郡村上村字舘内鎮座/貴布根神社 式外二ケ村信仰」
「祭神ー高□神〈タカオカミノカミ 雨+口口口+龍 U+9F97〉氏子ー八拾七戸 内村上村四十一戸/福岡村四十六戸、神官ー訓導西山○○ 磐城国行方郡女場村士族」
「磐城国行方郡海老沢村郷社稲荷神社祠掌/兼同国同郡村上村〈村社朱筆〉貴布根神社祠掌」
「明治十二年五月二十三日 西山○○印/氏子総代牛渡○○印/戸長下浦○○印」〈什長・用係の記載無し〉
次の用紙に「貴船〈ママ〉神社現境内縮図」とあり、広い境内地の北側の奥に南向きに拝殿・神殿が記されています。他に記されているものはありません。
*明細書の項目は省略しましたが、福島県の定めた項目通りのものです。
明治十二年五月の記入がありますので、相馬郡では明細帳の作成が遅れていることになります。
貴布根神社の明細書には境内末社の記載もなく、古四王神社のことはまったく出てきません。
古四王神社としての明細書も見当たりませんでした。
古四王神社はひとつの神社として見られていなかったのでしょうか。
古四王神社は明治の初期にどこかに合祀とされているのかもしれませんし、合祀先の神社明細書に合祀された神社のことを記載していないのかもしれない、という可能性も考えられるのではと思います。
K探訪記録 福島12 相馬
相馬中村神社(妙見祠)に江戸期に「古支王祠」があったようですが(『奥相志』)、現在は見当たらず、境内社の足尾神社に合祀されているかも知れないと言うことでした。
念のため、中村神社の明細書を見てみます。
*相馬郡神社明細帳 明治十二年 四冊ノ三、四
収録村名の罫紙は、今まで見てきたものと同様式です。罫紙が折れた状態です。折れのところに隠されている村名があるとすれば二十二箇村が収録されているようです。
明細書は青十三行罫紙で版心に文字は無く「【 」のような標があります。
◇明細書:
「郷社〈縣に朱筆訂正〉 磐城國宇多郡中村字北町鎮座/中村神社 式外一郡崇敬」
〈欄外に「弊饌料供/進指定社]朱印〉
「祭神ー天之御中主神、由緒・勧請・社殿ー略、同造営ー拾四ケ村持、社号改替ー旧神号妙見大明神明治五年二月五日中村神社ト改称ス、神位ー無之、祭日ー略」
〈二枚目用紙〉
「什宝物ー略、〈寄附物・境内地・持添地・寄附地・境内樹木・永続方法に記載があると思われますが、寄附物境内地境内樹木に関する追加訂正の貼紙があって、元の記載不明〉、氏子ー六百戸、神官ー権小講義田代○○ 磐城国宇多郡中野村/士族/訓導岩嵜○○ 磐城国宇多郡小泉村/士族」
「境内摂社 〈一行中に三行に割書:二十一年九月十七日/願同年九月廿/四日許可〉祠掌 田代○ 磐城国宇多郡中野村/士族/
鹽釜神社/黄金神社ー祭神等略」
「境内末社/北野神社ー祭神・由緒・社殿・什宝物・祭日-略/相馬神社・稲荷神社・雷神社・諏方神社・八坂神社ー祭神・等-略」
「磐城國宇多郡中村郷社中村神社祠官/明治十二年十月十六日 乙 田代○○印/ 祠掌 甲 岩嵜○○印/氏子総代 渡邉○○印/戸長 四本末○○印」
氏名の上に甲乙と記されているのは、なんでしょうか。戸長のみで用係什長の記名無し。
*『奥相志』の妙見祠の末社は、稲荷祠・古支王祠・雷神祠・塩釜神祠・弁才天・荒神・国王祠・国王の末社の稲荷小祠・相馬天王国王合殿・天満宮とありますが、足尾神社にあたるものは見当たりません。
明細書の境内末社には古支王祠・弁才天・荒神・国王祠に当たる神社は見当たらないようですし、足尾神社はありません。
古支王祠は江戸期には存在したが明治には無いということであり、足尾神社に合祀されたのだとしたら、足尾神社は古支王祠が無くなるときには存在しなければならないと思いますが、足尾神社の記録が無いのはどういうことでしょうか。
L探訪記録 福島13・14 川俣市 小徙王神社(稲荷神社・境内社)
伊達郡の秋山村と松沢村中田に古四王社情報(及川大渓『みちのくの庶民信仰』)
『平成の祭』:稲荷神社=川俣町大字秋山字稲荷沢11
祭神ー稲倉魂命、大田命、大巳貴命、大宮姫命
境内社=愛宕神社 祭神ー軻遇突智命
小徙王神社 祭神ー稲倉魂命、稚産霊命
麓山神社 祭神ー麓山祗命
*岩代国伊達郡神社明細帳七冊之内七
分冊七のみで一簿冊になっています。分冊五、六を合せて一簿冊になっていますので、分冊七が残ったのでしょう。
罫紙を半折にした状態に対応する旧表紙があり、続いて収録の十箇村を記した版心下部に「福嶋縣」とある茶(朱)十三行罫紙が綴られています。
稲荷神社の明細書を見ます。用紙は青十行罫紙で版心下部に「福島縣管下第 区」とあります。これは印判によるものと思います。
版心上部の罫線上に朱筆の「福田村」の小紙片が貼られています。秋山村は明治十年の合併で成立し、明治二十二年の合併で福田村になっています。
◇明細書:
「村社 岩代國伊達郡秋山村字稲荷澤鎮座/稲荷神社 式外」〈用箋欄外に、「弊饌料供/進指定社]の朱印があり、祭日に追記無し〉
「祭神ー稲倉魂命 大田命 大巳貴命 大宮姫命 保食命」〈この明細書では、祭神が多く記されています〉
「由緒、勧請−不詳、社殿−〈神殿・雨覆・拝殿・木鳥居・石水盥・石水盥・石段の記載あり、神殿が朱筆で抹消され、朱筆による神殿縦二間/横二間
拝殿縦二間半/横九尺/右落成ノ旨三十六年十一月廿五日届の追記〉」
「同造営ー一村持、永続方法ー備金五拾円■(此)周年純利金七円五十銭宛テ以テ永続ス、氏子ー百四拾二戸、神官ー教導職試補三浦○○ 岩代國伊達郡鶴澤村/平民」
「境内末社/春日神社/祭神ー天津児根命 武甕槌命/斎主命 姫大神命/社殿ー神殿-略・雨覆-略・/祭日-略」
「岩代國伊達郡川又村郷社春日神社祠掌/兼同國同郡秋山村村社稲荷神社祠掌/明治十一年十月 三浦○○印/氏子総代 黒澤○○印/
什長・用係・副戸長ー略」
境内縮図に、拝殿の背後の左右に神殿雨覆がありますが社名が記されていません。右側が稲荷神社で左が春日神社かと思います。
*『平成の祭』で境内社とある愛宕神社 ・小徙王神社・ 麓山神社は記されていません。明細書の境内社の春日神社は『平成の祭』にありません。
神社明細帳に愛宕神社と麓山神社の明細書がありましたので、続けて見ます。小徙王神社の明細書は見当たりません。
△愛宕神社明細書:
「小社 岩代國伊達郡秋山村字槻木鎮座/愛宕神社 式外」
「祭神ー軻遇槌命、社殿ー神殿・拝殿・石段・石水盥ー寸法略、同造営ー当村士族橋○○外百四十二名持、境内地ー九拾二坪 民有地 名受人当村橋○○〈当村人名を抹消、小社愛宕神社の記入〉、永続方法ー金貳拾円当村士族橋○○ヨリ積立周年純利金二円四十銭宛テ以テ永続ス〈純抹消〉、信者ー百四十三戸、神官ー教導職試補三浦○○ 岩代國伊達郡鶴澤村/平民」
「岩代國伊達郡川又村郷社春日神社祠掌/明治十一年十月 三浦○○印/信者総代 橋○○印/什長・用係・副戸長ー略」
提出側名の三浦氏は、村社稲荷神社では郷社春日神社祠掌兼稲荷神社祠掌とあったのに、愛宕神社では郷社春日神社祠掌とあっても兼愛宕神社祠掌の記載がありません。
△麓山神社明細書:
「小社 岩代國伊達郡秋山村字上井戸上鎮座/麓山神社 式外」
「祭神ー麓山祗命、同造営ー当村平民八巻○○○外百四十二名持、境内地ー二拾坪 民有地 名受人当村八巻○○、永続方法ー備金拾拾円当村平民八巻○○○外百四十二名ヨリ積立周年純利金二円宛テ以テ永続ス(純抹消)、信者ー百四十三戸、神官ー教導職試補三浦○○ 岩代國伊達郡鶴澤村平民」
「岩代國伊達郡川又村郷社春日神社祠掌/明治十一年十月 三浦○○印/信者総代 八巻○○○印/什長・用係・副戸長ー略」
こちらの提出側名でも三浦氏は郷社春日神社祠掌とあるだけです。
鎮座地の秋山村字上井戸上は、「探訪記録 福島13・14」で引用した『旧伊達郡神社銘鑑・古里の神々』に記されていた麓山神社の鎮座地「秋字横道山二五ノ二」とは異なっていますが、他に麓山神社があるのか、同一神社か不明です。
*秋山村字鈴ノ入鎮座、当村平民佐藤○○○外三名持、信者四戸の小社稲荷神社ー祭神稲倉魂命、の明細書もありました。
これらを見ると、愛宕神社も麓山神社も個人の祀る神社のように思えます。
探訪記録の記事の疑問はそのままの状態です。
*松沢村中田の小徙王神社の存在は不明ですが、岩代国伊達郡神社明細帳七冊之内五、六簿冊の分冊五に鶴沢村が含まれていますので、見てみました。
この分冊の収録村名は五箇村で、記載用紙は今までに見てきたものと同じ様式です。
なお、分冊六の収録村数は七箇村で、記載用紙は分冊五に同じです。
小徙王神社の情報は見出せませんでしたが、楯和気神社の明細書について記しておきます。
明細書用紙は、分冊七と同様です。
◇楯和気神社明細書:
「村社 岩代国伊達郡鶴澤村字兜森〈宮に字名訂正〉鎮座/楯和気神社 式外」
「祭神ー大亡〈ママ〉貴命/事代主命/義平御霊代 稲倉魂命〈追記〉」
〈大亡貴命/事代主命/義平御霊代の三祭神は罫紙の一行に横並びに記載されている。稲倉魂命はその下に別人の筆で追記されている。この追記に関する許可年月などの記載は無い。いかなることでの祭神の追加だろうか〉
「由緒ー鎌倉頼朝公以来将軍家御代替リ度毎御社参御名代有之/尊敬ス、同造営ー一村持、社号改替ー旧号甲大明神改称明治二年己巳四月廿三日/神祇官ニ於テ楯和気神社ト改称セラル、祭日ー九月二十五日〈この日付けを朱筆削除し、例祭十月十五/十六日に変更し、新嘗祭十一月二十五日が追加されている。欄外に「弊饌料供/進指定社]朱印。欄外に「例祭日変更並新嘗祭日制度/ノ件大正四年十月一日許可」の朱筆〉」
「永続方法ー金五十円当村平民橋○○○外九十弐名ヨリ積立此周年/純利金七円五十銭宛ヲ以永続ス、氏子ー九十三戸、神官ー教導職試補三浦○○ 岩代國伊達郡鶴澤村/平民」
「境内末社/菅原神社・疱瘡神社ー祭神・社殿・祭日-略」
「岩代國伊達郡川又村郷社春日神社祠掌/兼同國同郡鶴澤村村社楯和気神社祠掌/明治十一年十月 三浦○○印/氏子総代 橋○○○ 印/什長・用係・副戸長ー略」
M探訪記録 福島番外 及び 福島追加
○福島番外(1)記事:耶麻郡都沢村の越王山に関しては、本記事の「H探訪記録 福島1〜8まとめ・他」に記しました。
○同(2)記事:白河市小田川の古四王山については、この後に項目を立てて記します。
§○同(3)記事:「胡処明神」情報に関する「郡山市安積町日出山字旧屋敷 笹原神社」について記しておきます。
安積郡の神社明細帳を見てみます。
*岩代國安積郡神社明細帳三冊之内一 〈「岩代國」表記〉
収録村名記載用紙は朱十三行罫紙ですが版心部分が折れていて下部にある文字が読めませんが、今まで見てきたものと同様の罫紙と思います。記載村名は六箇村です。それぞれの村名に続いて朱字の書込みがあります。最初に記されている「郡山村」には「郡山村/横塚村」と記され、次の「永盛村」には「小原田村/笹川村/日出山村」とあるのが読み取れ、「冨久山村」は「■■■/福原村/八山田村」とあるようですし、「山井村」「菱形村」「九守村」にも幾つかの村名が記されています。合併の状況の一部を記しているようです。
「笹原神社」と「篠川神社」の明細書を見ます。
明細書は青十行罫紙で、版心下部に「第七区會所」とあります。
◇笹原神社明細書:
「村社 岩代國安積郡永盛村字旧屋敷鎮座/笹原神社 式外」
「祭神ー大山津見命、同造営ー氏子三戸持、社号改替ー旧神号山神明治二年九月笹原神社ト改称ス、永続方法ー氏子三戸ニテ臨時出金ヲ以テス、氏子ー三戸、神官ー権訓導 鈴木○○岩代國安積郡永盛村/平民」
「岩代國安積郡郡山村郷社/安積國造神社祠掌/兼同國同郡永盛村村社/笹原神社祠掌(祠掌は朱字追記)/明治十一年十二月 鈴木○○印/氏子総代 村上○○印/什長・用係・副戸長ー略」
◇篠川神社明細書:
「小社 岩代國安積郡永盛村(大字笹川の挿入あり)字御所ノ森鎮座/篠川神社 式外」
「祭神ー大巳貴命、由緒ー應永廿四年従四位下足利左兵エ叡満隆公奥/州ニ管領トシテ下向シ当村篠川東館ニ/居住ス満隆公守護神タルヲ以テ永享十一年/三月勧請スト申ス、勧請ー永享十一年三月、同造営ー信者持、社号改替ー旧神号御所大明神明治二年篠川神社ト改称ス、永続方法ー氏子同盟ニテ臨時出金ヲ以テス、氏子ー九拾四戸、神官ー権訓導鈴木○○ 岩代國安積郡永盛村/平民」
「岩代國安積郡郡山村郷社安積國造神社祠掌/明治十一年十二月 鈴木○○印/氏子総代 佐藤○○印/什長・用係・副戸長ー略」
この神社は、同(3)記事の篠川御所に関するものかも知れません。
§○同(4)記事:「西白河下羽太 子塩権現」
収録村名十五箇村中に「羽太村」が含まれる磐城國西白河郡神社明細帳分冊二を見てみました。
予想していたことですが、関連する情報を明細帳に見いだす事はできませんでした。
◇笹原神社の明細書がありました。
明細書は青十三行罫紙で版心に「福嶌縣」とあり下部に「第十区会所」とあるものです。
「村社 磐城國白河郡羽太村字真名子鎮座/笹原神社 式外」〈真名子を「高野舎」に朱筆訂正〉
「祭神ー猿田彦命、神号改替ー旧号笹原大明神明治三年三月笹原神社改称、氏子ー九十四戸」
*『白河風土記』(『白河郷土叢書(下巻)』歴史図書社 昭51)の「天之部ー巻之五 白川郡」の「 白川郡笹原荘笹原郷 下羽太村」中の「情光院」項目中に「子塩権現」の記載があります。
項目「情光院」の記載内容は、情光院について「狸屋敷ニ在リ永禄年中大正院ト云フ本山派ノ修験開基ス今文化二年迄二百五十年計リ当情光院ヨリ九代前大正院代野火ノ為メニ居宅ヲ始メ旧記等悉ク焼失シテ何ノ故ニ修験堂開基スト云フコトヲ詳にセズ」とあり、「子塩権現、小社ナリ石階十五間狸屋敷ノ氏神ナリ祭リ九月九日」、続いて「午頭天皇、小社ナリ情光院裏ノ山ニ在リ登ルコト二十五間許リ祭リハ六月十五日ナリ」とあります。
§○同《追記2019−10》記事:
藤田定興「福島県における明治初期の社寺整理と廃合移転社寺 上」(『福島県歴史資料館 研究紀要 第17号』平7・1995)〈以下「藤田紀要17号論文」〉の「二、廃合移転の社寺ー4,〔祠堂合併移転届〕による社寺」の「(表6)田村郡」によると、田村郡三城目村に越王神社ー祭神阿倍比良夫神霊があり、三城目村の他の神社とともに村社日枝神社に合祀されています。合祀年月日は「(明治十二年)八月限」とのことですので、磐城國田村郡の神社明細帳を見てみました。
*磐城國田村郡神社明細帳五冊之内三、四
分冊三に三城目村が含まれています。この分冊には三十六箇村が収録されており、村名記載の罫紙は今まで見てきたものと同様です。
日枝神社の明細書は、朱十三行罫紙で版心に朱字で「福島縣田村郡役所」とあります。
◇日枝神社明細書:
「村社 磐城國田村郡三城目村字山王鎮座/日枝神社 式外 二ケ村信仰」
〈欄外に「弊饌料供/進指定社]朱印〉
「祭神ー大山咋命/大巳貴命、由緒ー近江國比叡山大神ヲ当地ニ遷座スト口碑ニ傳フ、勧請ー延暦十九年庚辰四月、同造営ー氏子持、社号改替ー旧神号山王権現明治二年三月日枝神社ト改称ス、氏子ー百三十一戸 三城目村九十戸/三丁目村四十一戸、神官ー権訓導 増子○○ 磐城國田村郡/三城目村平民」
「境内末社/玖須斯神社ー祭神・社殿・祭日-略」
「磐城國田村郡丹生伊田村郷社鹿島神社祠掌/兼同國同郡三城目村村社日枝神社祠掌/明治十二年七月 増子○○印/氏子総代 三本菅○○○/戸長 略」
*この明細書の日付は明治十二年七月ですので、日枝神社の明細書に合祀社の記載が無いのは三城目村の14の神社が日枝神社に合祀されたのが明治十二年八月とすれば頷けますが、そうであれば明細書にその後の合祀社に関する追加記入が無いのは、どういうことなのでしょうか。
また、合祀が八月であれば、合祀された神社についても、おそらく明治十二年七月日付のそれぞれの明細書が作成されただろうと推測されますが、それらの明細帳が田村郡明細帳分冊三にまったく見当たらないのは何故なのでしょうか。
14神社の合祀が、七月の日枝神社の明細書提出時までに行なわれていた場合も、合祀された14神社の情報が神社明細帳に見出せないのは何故なのでしょうか。
これらの疑問に関しては、あらためて記したいと思います。
§○福島追加の記事(会津美里町冨川 腰王大権現・石碑):
*岩代國大沼郡神社明細帳四冊之内一、二
この分冊一は、氷玉村の藤巻神社や高田村の伊佐須美神社を見た分冊です。ここに冨川村が含まれているので、情報を探してみました。
ここに二渡神社の明細書がありましたので、記します。
罫紙は藤巻神社のものと同じです。版心の中程より下に「冨川村」の小紙片が貼られています。
◇二渡神社明細書:
「小社〈村社に訂正〉 岩代國大沼郡富川村字二渡鎮座/二渡神社 式外 一村信仰」
「祭神ー船玉命」
「由緒ー不詳 〈朱筆追記〉明治十二年十一月十七日村社加列出願/同十三年十二月廿三日許可」
「勧請ー不詳 〈朱筆追記〉明治十三年九月廿日新築並修繕シ異動ノ旨届出」
「社殿ー略 訂正・追記有、同造営ー一村持、九項目略、永続方法ー破損ノ節ハ一村ニテ醵金修繕、県庁距離ー略、信者ー五十一戸、神官ー〈肩書無し〉渡辺○○ 大沼郡西方村郷社稲荷神社社掌〈住所ではない〉〈社掌変更貼紙、二十四年の日付〉」
「 岩代國大沼郡西方村郷社稲荷神社社掌/〈提出年月無し〉渡辺○○印/信者総代」
次用紙に「什長・用係・戸長ー略」
私が写した明細書の写真には用紙全体がおさまっておらず信者総代以下の部分が写っていないため、写っていない部分に提出日付けがあるのかも知れませんが、この明細帳が提出され受付けられたものであることは、朱筆追加によっても明らかです。
△続いて「明治四拾年/二渡神社明細書/藤川村大字富川」とある二渡神社の明細書表紙にあたる用紙が綴られています。
用紙に「大沼郡役所(右から横書)/(縦書右行)収甲第一五二一号/(縦書左行)明治四十年十二月十二日受」の朱印〈収甲 一五二一/十二十二を墨書記入〉と不鮮明な「藤川村役場」の受付朱印が押されています。藤川村役場の日付は「明治四十年十二月二日」のようです。
次に罫紙ではない用紙に「二渡神社移転后ノ明細書〈明治卅六年五月廿八日移転許可〉/岩代國大沼郡藤川村大字富川字惣右エ門作移転〈移転許可の朱筆〉」
「二渡神社 往古ヨリ村民挙テ崇敬ノ社ナリ/祭神ー船玉命」
「松尾神社 新ニ願添ノ神ナリ/蚕養神社 同断」
「相殿十三座/神明 二座 祭神伊勢大神/三島神 二座同大山祇命/稲荷神 二座同倉稲魂命/雷神 二座同別雷神/若宮八幡神社 二座同大鷦鷯命/幸神 一座同大巳貴命/東照宮 一座同家康公/伊豆神 一座同彦火々出見命」、とあります。
「十三座外ニ二社削除」の書込みが欄外に記されていて、松尾神社・蚕養神社・相殿十三座に二重朱斜線のバッテンがあります。
〈続く記載項目〉
「由緒ー不詳、勧請ー明治参拾六年壱月拾三日、社殿ー新築 神殿・弊殿・拝殿-略、神号ー改替無之、神位ー斜線」
「祭日・境内地ー略、神官ー日吉○○、氏子ー五十戸、寄附物・什器物・持添地・寄附地・境内樹木ー略、永続方法ー破損ノ節一村ニテ醵金修繕、
県庁距離ー略」 〈記載項目は明治十一年明細帳と同じになりますが、項目の記載順に違いがあります〉
「後来永続破損之節ハ氏子中ニテ営繕仕候」〈この記載が駄目押しのように県庁距離項目のあとに記されています〉
「右之通相違無之候也」
「岩代國大沼郡藤川村大字冨川二渡神社祠掌/日吉○○印/氏子〈信者を訂正〉総代/明治四十年拾月弐拾六日 福田○○○印/〃 菊地○○印/〃 真部○○○印/〃 真部○○○印/ 藤川村長代理助役大竹○○印〈この部分追記〉/福島縣知事平岡○○○殿」
*『新編会津風土記』ー「巻之七十四、陸奥國大沼郡之四」の「高田組上七箇村」中の「富岡村」の「二渡神社」を見ると、「祭神は十八よ魂命なり」とあって「相殿十三座」として伊勢宮二座・三島神二座・稲荷神二座・雷神二座・若宮八幡二座・幸神・権現・伊豆神の記載があります。
明治四十年の神社移転に伴って提出されたと思われる明細書に記載された相殿十三座は、新編会津風土記に記された相殿十三座を引継いでいることは疑いの無いところと思います。
明治四十年の二渡神社提出の明細書に江戸時代に行なわれた相殿を祭神を加えて記載している事と、明治十一年に提出されたと思われる先に見た明細帳には相殿の記載が無い事を、どのように考えればよいのでしょうか。
活字になった『新編会津風土記』は、旧会津藩地誌局編輯・若松万翠堂印行として明治26年から34年にかけて出版されているようですので、明治四十年の明細帳に出版された『新編会津風土記』の情報を取入れることはできると思います。
明治初期の二渡神社の関係者は相殿十三座が祀られている事は伝承され承知していたのでしょうか。
まったく承知していないということはありうるでしょうか。
明治十一年作成の明細書に相殿十三座の記載が無いのは、また祭神が船玉命となっているのは、明細帳を作成させた側からの指示があったのでしょうか。
明治四十年の明細書に記載された相殿十三座は削除されています。
その他に削除された「松尾神社」と「蚕養神社」の二社は、新たに祀る事を願った神社とのことのですので、どこからかの合祀・移転の神社かも知れませんが経緯は不明です。
この二社の削除の理由は不明ですが、合祀・移転社は記載しないということなのでしょうか。 この二社の明細書の有無を確認してみたほうがよいかも知れません。
二渡神社の例だけで、他の例を見ていないので断定はできませんが、神社が移転した際などに新たに明細書を作成し届出ることがあったようです。
腰王大権現石碑の情報は見出せませんでしたが、貴重な資料に出会えました。
N探訪記録 福島15 大字小田川字古四王山
白河市小田川に古四王山という山と地名があります。古四王神社との関連がないか資料を探していますが、今のところ不明です。
*磐城國西白河郡神社明細帳三冊之内一、二
小田川村が含まれる分冊一には、今まで見てきたもの同様の罫紙に三十一箇村の村名が記されています。
見てみたところ、小田川村では村社八幡神社の明細書だけが綴じられていました。
八幡神社の明細書の概要を示します。
用紙は青十三行罫紙で、版心に「福島縣」と下部に「第九区會■」とあるようですが、文字が薄くなっていますので、印刷された文字ではないようです。分冊三の胡四王神社の明細書の罫紙版心の「福嶌縣」とは文字が異なります。
一枚目罫紙の版心の福島縣とある部分に小紙片が貼られていますが、紙片の文字は見えません。
◇明細書:
「村社 磐城國白河郡小田川村字岩久保鎮座/八幡神社 式外」
「祭神ー誉田別命、由緒ー康平年中八幡太郎義家公奥賊御征伐当地陣取ノ砌/勝利之上賊徒平定ノ後勧請ノ由申傅来候、勧請ー■(承?)コ二年、社号改替ー旧神号正八幡宮明治二年八幡大神ト改メ同五年八月八幡/神社ト改称ス」
「永続方法ー金拾五間氏子中ヨリ積立此利子ヲ以テ永続トス、縣丁距離ー拾九里拾壱丁七拾五間壱尺」
「氏子ー百七戸、神官ー権訓導 水谷○○ 略小田川村/平民」
「境外摂社 磐城國白河郡小田川村字芳賀須内鎮座/八幡神社 祭神・由緒勧請・社殿・祭日ー略」
「境内地ー二百三拾五坪 民有地 名受山田平八/他二十一人持、永続方法ー小田川村山田平八他二十一人寄附田壱反四畝四歩■■/籾五俵但四斗五升入ヲ以永続トス、県庁距離ー十九里・信者ー二十二戸〈県庁距離・信者は朱筆追加〉」
「明治十一年十一月 社掌・氏子総代・什長・用係・副戸長ー略」
*小田川に「芳賀須内ハガスウチ」という地名は現在見当たらないのですが、芳賀須内集会所が小田川欠下25−1の住所にあります。
ネットの無料地図・有料地図を見ると、この附近には八幡神社・八雲神社・愛宕神社〈小田川愛宕下〉があります。
ストリートビューでは、八幡神社のところに村社八幡神社の石標柱があります。
境外摂社の扱いの社に、村社の標柱を建てるでしょうか。
八雲神社と愛宕神社の明治初期の神社明細帳は見当たらず、『平成の祭』を見ても小田川の住所には岩久保の八幡神社があるのみです。
欠下の八幡神社が、境外摂社ではなく独立した八幡神社に変更されたのであれば、『平成の祭』に記載があっても良いのではないかと思うのですが。
不明なことが多くあります。
*福島県の探訪記録はこの福島15の記事までです。
3.福島県の神社明細帳と明治初期の宗教政策
福島県の神社明細帳の閲覧できた明細書では、それまでに閲覧できた新潟県や秋田県の明細帳にはあった明細書への神社合祀に関する追加記入が見当たらない事、また合祀された神社の廃された明細書も見受けなかった事から、福島県の神社明細帳について関連する文献に当たってみたいと思います。
*先に見た長野論文の「○追加・訂正・抹消」の項での合併・移転の明細帳への反映の方法は、主として明治後期の神社整理に関しての事と思われますので、明治初期の神社整理についての明細帳への反映が同じように行なわれたとは限りませんが、変更があれば明細帳をそのままにしておくことはないと思います。
もし明細帳に変更修正を施さないのであれば、何らかの形で変更のあることを示し、変更内容を記録保存すると思います。
◎長野論文の「四、神社明細帳の書誌的考察」の「○報告」に、「明細帳取調方心得」の「明細帳取調済ノ後、府県限リ処分セシ事件ニシテ明細帳ヲ改正シ又ハ記入スヘキ者ハ、毎月末取纏メ本省ヘ届出ヘシ」条について「明治十二年段階では、明細帳の記載内容に異動が生じた場合、内務省への異動報告は毎月末行なうよう定められていた。」「この内務省への報告は、明治十九年九月二十七日の内務省令第十七号によって、月報から半年報(一月末と七月末)へと改められることになる。」とありますので、変更についての報告は義務化されていたと思いますし、福島県の明細帳についても同様と思います。
しかし、福島県の幾つかの郡の神社明細帳の中で古四王関連で閲覧した明細書という多くはない例について言えば、訂正・追加の記入・貼紙は社格・鎮座地住所・神殿・祭日・境内地等・樹木・神官・等には見られるものの、合祀関連の記入は見られませんでした。
そうすると、福島県の管理する神社明細帳では、神社合祀や被合祀・廃社の変更情報を明細帳には記載しないで別書類にする方針をとっていたのかも知れないと思います。
明治初期の神社整理については、藤田定興氏の調査研究によって「祠堂合併移転届」というような書類のあることを知りましたが、その合併
移転は県の管理下にあったと思われる神社明細帳には反映されているのでしょうか。
明治終盤の神社整理についても、別書類による管理を行い、県管理の神社明細帳への反映をしなかったのでしょうか。
ひとつの台帳での継続的管理をする事を選ばなかったのでしょうか。
福島県が独自の明細帳作成を明治十二年六月の内務省達乙第三十一号の発令以前に始めたことが影響しているのでしょうか。
『喜多方市史』の「『社寺明細帳』明治二十四年慶徳村役場」の記述や『福島縣耶麻郡誌』の「郡役所備の社寺明細帳」の記述から、郡役所や村役場で管理する社寺明細帳があったと思いますが、郡役所等で管理する神社明細帳には神社合祀や被合祀・廃社の情報を明細書に追加訂正をしていたのでしょうか。
あるいは、被合併の小社などは記録と保存に値しないということでしょうか。
社寺整理で整理済みとなった神社は記録の必要がないということでしょうか。
郡管理の神社明細帳は所在の情報が不明のため、確かめることもできません。
県立図書館所蔵の神社明細帳と郡管理の神社明細帳とはどのような関係にあるのでしょうか。
*長野論文は「一、神社明細帳の残存状況」項目中に、「県立図書館本〈福井県立図書館所蔵神社明細帳〉のうちの県本は、神社明細帳の本簿のほか、これを補足する追加簿や抜明細帳まで含めると全部で二十六冊あり、これらの原簿となった郡本は四冊現存している。」と記しています。〈山括弧内は当方による補足。以下同様。〉
「県本」について「〈神社明細帳の〉作成・管理主体によって、『国本』『県本』『郡本』と仮称して、便宜的に分類することにした。」とあります。
国本・県本・郡本に関しては、「三、神社明細帳調製に関わる法令」項目中に「明細帳進達の手順を復元」として、明細帳作成の各段階との関連
で記述されております。
長野論文は「六、抜明細帳、追加簿および郡本」の項目を設けて、何種類か作成されている本簿を補足する簿冊について論及しています。
県立図書館所蔵本の中に「福井縣下〈割書:越前/若狭〉神社抜明細帳 全」という十七社の明細が綴じられている簿冊があることから、推測すると「抜明細帳とは移転や合併、その他の事情により明細帳本簿から抜き取った丁を綴じ直して編成された簿冊、と言うことできる。」としています。
そして「抜明細帳が後日の参考のために、不用になって抜き取った丁を編綴し直して保存したものであることは間違いない。しかし、何故この十七社についてのみ、本簿に多く見られるような形をとらず、該丁自体を抜き取ってしまい、場合によっては新規に明細帳を書き改めたのか。抜明細帳自体の調製を定めた法令が見出せないため、詳しい事情は不明と言うよりほかない。」としています。
「本簿に多く見られるような形」について、「ある神社が別の神社に合併される場合も、被合併社の丁は抜き取ったりせずに、朱の×印で抹消するにとどめ、合併先の神社の丁に合併年月日や加えられた祭神名、由緒などの事項を追記する例が大多数を占める。」とあります。
追加簿には、「本簿に記載されていない境外所有地に関する事項を載せている」ものや「脱漏や誤謬が判明して新規に届出をした時の明細を綴っている」ものや「移転した神社のみを載せる」ものがあり、本簿に「『追加簿ニ詳カナリ』と記載」されていたりすることから「本簿とこの追加簿が一体のものとして扱われていたことが分かる」運用がされていたと思われます。
しかし、追加事項の生じた「同様のケースでも、単に紙を貼り継ぐなどして本簿に追記するにとどめる例も多く見られる」ので、なぜいくつかの追加簿が作成されたのかは不明としています。
福井県の例ですが、被合併神社の明細書を本簿から抜き取るという対応も一部では行なわれていたとのことですが、抜き取られた明細書は破棄されずに別に綴じられて保管されたということです。
神社に関する諸異動事項は報告されていたはずですので、その異動報告にどのような対応をしたかは、担当者次第の面もあったのではないかと想像いたします。
福島県では神社の合併をどのように記録・管理したかについて知ることができればよいのですが。
藤田定興氏の論文に教えを請いたいと思います。
◎藤田定興「福島県における明治初期の社寺整理と統合移転社寺」(「藤田紀要17号論文」)は、私が藤田定興氏の論文で初めて目にしたものです。この論文によって「福島県における明治初期の宗教政策」(「藤田紀要6号論文」)などの論文にも目を向けることになります。
先ず、この「藤田紀要17号論文」を見ていきます。
論文の「はじめに」において「福島県域で統合移転となった寺・堂庵・社祠を把握できる史料は、『社寺廃合調』(イ)、『廃合社寺院調』(ロ)、『旧修験之内廃院調』(ハ)、〔祠堂移転並合併届〕(ニ)を知るのみである。(イ)(ロ)(ハ)の史料からは、主として信夫郡、伊達郡、安達郡、安積郡、岩P郡、白河郡における、明治元年から八年にかけての様子、また(ニ)からは、伊達郡、安積郡、田村郡、東白川郡、石川郡、楢葉郡における、明治十年と十二年の様子がつかめる。そこで、これら九郡における廃合移転の様子を、右の資料に従って明らかにしたい。」を記しています。
ここに、社祠などの統合移転を把握できる史料として四史料を知るのみとありますので、明治初期の社寺整理のありようを知る史料は、九郡についてのみのこれだけということなのでしょう。
新編会津風土記のコシオウ情報を探して神社明細帳を閲覧した会津郡・耶麻郡・大沼郡の社祠の統合移転の史料は無いのでしょうか。
この藤田論文では触れられていない明治末期の神社合祀の史料はどうなっているのでしょうか。
*さて、「藤田紀要17号論文」は「一、社寺整理の経過」項目に進み、明治初期の社寺整理の経過を見るときに「明治十年代とそれ以前の二期に分けた方が良いように思う。どちらかというと、十年代以前は、寺院(修験を含む)中心で、十年代は、有格社以外の社祠及び仏堂・碑塔が中心であった。」として、細項目「1,明治八年頃までの整理」について「右〈太政官布告第116号(明治5年4月ー布告第104号の改正)〉は、社寺合併の理由を各地方官で取調べて教部省へ伺いを出すようにとの内容であるが、文面から合併は寺院のみでなく神社も対象にされていたことと、それはこの布告以前から行なわれていたらしいことがわかる。」、「右〈教部省布達第6号(明治5年6月)〉によると、氏子も居らず頽敗している神社、無檀無住で堂宇が破壊しているような寺院、あるいは、小社・小寺で、存続の目当てもないようなものについて合併を促すというものであった。/布告104号及びその改正116号をみると、恐らく社寺の廃合は府県各地で進められていたに違いない。布告は、それを政府管轄の下に行なおうとしたものであり、教部省達は、むしろ無統制に行なわれることに対し、歯止めをかけたものかと思う。しかし達通りには行かなかったらしく、特に神社の合併に対して、七年六月十日、教部省はさらに次のように布達(第23号)している。〈布達文を省略〉/神社の廃合については、どちらかというと寺院のそれに対し慎重であった。」としています。
神社整理においても地方で過剰な対応がおこっていたということでしょうか。
細項目「2,明治十年代の整理」に、明治十年代の社寺整理は教部省達第三十七号(明治九年十二月十五日)に基づいて実施されるとあり、その教部省達について「主目的は、野外に散在する神祠と仏堂の整理にあった。」とし、それは「主要な神社については、式内社、名神大社をはじめ有格社の調査選定が進められていて、その神仏分離や、一部は廃合移転が行なわれている。しかし、まだ把握されていない神社が存在し、取り分け野外に散在する小祠が残されていた。一方、仏教系では、前述の通り修験寺院も含めて早くから廃合整理が実施されていたが、その目的はほゞ達したものと見られ、この教部省達の廃合指令には寺院が含まれておらず、仏堂が対象になっている。仏堂も前述のように既に廃合となったものもあるが、充分ではなかったのであろう。」としています。
そして、「教部省達第三七号を受けた福島県は、翌十年五月九日、次の県甲第三七号達で実施を始める。〈県甲第三七号達・略〉/右の達には、石仏石塔も対象とし、神仏に分けて移転せよとあるが、これは、福島県が、石碑石塔も合併移転の対象にしたい旨を伺って許可され、加えたからである。」を記しています。
「〈明治〉十年代の神祠・仏堂・碑塔の整理については、既に詳述〈藤田紀要6号論文「福島県における明治初期の宗教政策」〉してある」として、この論文では「どのような神祠・仏堂が合併、移転となったかについてだけ報告としたい」として、四史料についての記述となります。
*先ず「社寺廃合調」について。この調査報告書の内題は「明治元年ヨリ同八年五月ニ至ル社寺廃合調」で、その末書に「右ハ天台真言其他旧修験宗ニ至ル迄悉皆取調差遣候也/九年十月八日 第一課[印]/地理課 /御中」とあり、明治八年五月までに行なわれた廃止又は合併の社寺の調査記録になるようです。
「この調査の一覧表にみられる廃合社寺は表1の通りで合計二一六社寺である。郡別でみると信夫郡二五件で内神社は七件、伊達郡は二九件で寺院のみ、安達郡は一八件で寺院のみ、安積郡は二一件で寺院のみ、岩P郡は五八件で内神社は二八件。白河は五一で寺院のみである。」とあります。
コシオウ情報が見当たらないことで神社明細帳を見ていない信夫郡と岩P郡の明治八年五月までの廃合社寺の記録の中に神社が含まれていますので、この二郡について「表1」を見てみます。
それによると、信夫郡の七社の神社のうち三社は寺院境内の社で三社は商家の敷地内の社になるようです。信夫郡の二五の寺院うち合併となったのは四寺院で二一寺院は廃止となっているようです。
岩P郡の廃合社寺として記録される五八件の半数近い二八件が神社ということで、他の五郡に比して飛び抜けています。岩P郡長沼村では十三の神社が記されており、明治三年三月一日付けで二社は村社石背国造神社に合併となり十一社は村社稲荷神社に合併となっています。〈明治三年三月付けの合併先の神社に村社社格はあるのだろうか。のちに村社となった○○神社という事なのだろか?〉
須賀川村では明治六年四月十五日付けで三社が市神稲荷社に合併となり、袋田村では明治六年四月二十三日付けで五社が二羽多利神社へ合併。仁井田村では明治七年十一月二十日に二社がそれぞれ八幡神社と白旗神社に合併となり、前田川村では明治八年四月十五日に三社が村社天満神社へ合併、深渡戸村では明治八年五月十日に二社が諏訪神社に合併になっています。
合祀先の神社の明細書は明治十一年か十二年に調製されていると思いますので、それらの神社の明細書に行なわれた合併に関する記載はあるのでしょうか。確認する機会を設けることができれば良いのでしょうが。
長沼村では明治三年五月五日付けで寺院の廃止が一寺あります。須賀川村は六年十二月二十日付けで六寺院が廃されており、袋田村は六年五月八日に一寺院が廃され、仁井田村・前田川村・深渡戸村には寺院の廃合記録はありません。長沼村・須賀川村・袋田村では神社合併が先行して行なわれています。
寺院の廃合記録のある村が十六箇村記されておりますが、多くの村が一寺院の記載であり、二寺院は二箇村、三寺院は三箇村です。三十寺院の内合併となっているのは二寺院のみです。寺院の整理は、明治二年六月と十一月に各一寺院の廃止の記録があり、三年の三月・五月・六月・八月に各一寺院の廃止があり、あとは明治六年に行なわれています。
長沼村や須賀川村や袋田村はどのような村だったのでしょうか。この三村も仁井田村・前田川村・深渡戸村も、現在の須賀川市に含まれているようです。
*次の史料の「廃合社寺院跡地調」は、「廃合社寺の地所を主にまとめられたもので、社寺ごとの廃合地面積と社寺の所在町村が記録されただけのものである。廃合の年月日記入はない。」というもので、一五九件の社寺が記され、内訳は信夫郡三五件、伊達郡五七件、安達郡二件、安積郡は一三件で内三件が神社、岩P郡は三八件で内一件が神社、白河郡は五十件とあります。神社は四件で年月日も不明でもあり、この史料の内容については省略します。
*次の「旧修験之内廃院調」は明治八年十二月の報告で、「信夫・伊達・安達・岩P・白河五郡の九十三か寺」が記されているとのことです。この史料の内容についても省略します。
*次の史料〔祠堂合併移転届〕が、教部省第三七号達〔明治九年十二月)を受けた福島県の県甲第三七号達(明治十年五月)による合併移転の届出であり、明治十年代の整理に関するものとなります。
ここで「合併移転の対象となったのは、神社・小祠・仏堂それに石碑・石塔が中心であった。中には、石造・銅造・木造の仏像もある。このうち、ここでは神社・小祠・仏堂を取上げ、碑塔や仏像は省略した。/さて、合併移転届は、郡ごとにまとめられているが、現在確認されるのは、伊達郡・安達郡・田村郡・石川郡・東白川郡・楢葉郡の六郡分のみである。」とあります。
郡ごとの表題は、伊達郡・安達郡・田村郡が郡名+祠堂移転届で、東白川郡・楢葉郡が郡名+祠堂異動合併届となっていて、石川郡には表題がつけられていないとのことです。そうすると郡によっては表題の無い届出の綴りがあり得るのかもしれないと思います。
この史料には信夫郡も岩P郡も含まれませんが、今までの史料にはなかった田村郡などがあります。
明治十年代の合併移転届がこの六郡分は残っていて、他の郡では合併移転届出書類が見当たらないのは、どうしてなのでしょうか。
論文では、郡ごとの一覧表が掲載されていますが、「楢葉郡については、庚申塔一基、日吉神社塔一基の合併移転届しか残されておらず、
社・寺・堂分は見当たらない。」とのことで一覧表はありません。
また、伊達郡の一覧表については、藤田「福島県における明治初期の宗教政策」(「藤田紀要6号論文」)に「伊達郡神祠移転合併一覧」として掲載済みとあります。
この論文に掲載の安達郡・石川郡・田村郡・東白川の四郡の一覧表を見る前に、「藤田紀要6号論文」により伊達郡の一覧表と明治十年代の神祠・仏堂・碑塔の整理について見たいと思います。
◎藤田定興「福島県における明治初期の宗教政策」(福島県歴史資料館 『 研究紀要 第6号 1984年3月』)を見ます。
この論文は「福島県に展開された初期の諸宗教政策のうち、社寺・小祠・仏堂・それに碑塔類の整理統合について」、〈「寺院と修験を別稿に特立させるためこゝでは取扱わない」として〉「社寺のうち、寺院関係を除いて明らかにする」もので、「社寺・堂塔の整理統合」の表題のもとに項目「一 社寺仏堂請書と社寺明細帳」・「二 社格制度による有格社無格社の選定」・「三 山野路傍散在の神祠・仏堂・碑塔整理」として経過を論述して、その項目「三」の小項目「3 整理統合の過程」中に「祠堂合併移転届」に関する論及があり、最後に「伊達郡神祠移転合併一覧」が掲載されています。
◇先ず、項目「一」ですが、 「一 社寺仏堂請書と社寺明細帳」とすることについて、「〈社寺仏堂〉請書と〈寺社〉明細帳の提出が、初期に展開された社寺・小祠・仏堂の整理と統合の終了期と見られるからであり、それはまた、明治政府の進めた宗教に対する初期の諸制度の確立期にもつながると考えられるからである。」と記しています。
*「社寺仏堂の請書」とは、「福島県が、各村に対して、村内の神社・寺院・仏堂の名称、所在地、員数を確認させ、村の責任においてそれを請書として提出させたもの」とあります。
「請書に記された神社には、県・郷・村社等の社格社か、無格の小社かの別を記し、また境内社・境外社の区別が付けられている。」とありますが、「のちに境内の摂社・末社・仏堂については、いずれも朱点か朱線で抹消されているから、最終的には、境内の神社と堂は員数からはずしたものと思われる。つまり境内の社と堂は、独立した存在として認められなかったわけで、独立した神社や寺院・仏堂に付属することによってその存在が認められたのである。」とのことです。
請書については「現在県下全郡分の資料が残されており、この請書が県内全村から提出されていたことがわか」り、「その提出の年は岩代国分が明治十一年代、磐城国分が明治十二年代で、安達郡の一部では、明治十年十一月・十二月に提出したところもある。」ということす。
そして「このような請書が提出できた時期に注意したいのである。さらに注目したいのは、この請書の提出とほゞ同時期か若干あとに福島県の社寺明細帳が作成されていることである。」とし、「『請書』と『明細帳』の作成とは密接に関係し、『請書』は『明細帳』の作成の前提条件とされた感のある点を注意しておきたい。」とあります。
さて、請書から、何時の事かは不明ながら「境内の摂社・末社・仏堂については、いずれも朱点か朱線で抹消されている」事から、境内の社と堂は「独立した存在として認められ」ず「独立した神社や寺院・仏堂に付属することによってその存在が認められたのである」とありますので、請書において境内の摂末社等がどのように記載されていたのか気になります。
また、請書で抹消された摂社・末社と某神社の明細書に記載のある境内の摂社・末社との関連はどうなのでしょうか。
*それについては、『社寺明細帳』の作成経緯に関する論及のなかで、社寺明細帳の境内の摂社・末社・堂宇について「この境内に含められた小社・仏堂は独立した存在として認められなかったもので、その多くは、明治九年十二月の達第三十七号による山野路傍散在の神祠仏堂整理により移転・合併させられたものが多い。」こと、「独立の存在として公認登録された社寺堂の境内に含められることによって、その存在を認められたわけである。」との記述があります
請書で抹消された摂末社が某神社の明細書に記載がないということがおこったりはしないのだろうか、という疑問も湧きます。
現在に続く福島県は明治九年八月に磐前・若松・福島の三県の合併によるものですが、それまでそれぞれに宗教行政が行なわれており、三県合併後に「社寺行政を進める上で、それに耐えるような社寺台帳がなく問題になっていたようで、そのため『社寺明細帳』の作成が計画された」らしく、明治十年九月十一日に内務卿に「社寺明細帳之義ニ付上申」をして、同二十三日に別件の伺いを出した際に「至急御指令相成度」と督促し、明治十年十月十七日に「書面之趣聞置候條調製之上一通可差出事/但神社ハ造営村持氏子持ノ差別ヲモ記載スヘシ」の政府許可を受けて、明治十年十一月県甲第九十二号をもって福島県における社寺仏堂の明細帳が作られて行くようです。
この「藤田紀要6号論文」時点では、県甲第九十二号の内容と雛形が見出せていないとのことですので、この布達の文面については、後で触れることにします。
*この布達に基づく「社寺明細帳」以前のいわゆる「社寺明細帳」として、明治四年のものと明治七年のものが確認されているそうです。
明治四年のものは、「神官や僧侶に命じて、管轄県に提出させたもの(『社寺明細録』)」で、記載内容は「神社の場合、管轄神社の名称と所在、その神社の受持神官名とその所在地、神官の指南者名等が記入され、それに、管轄県が明治元年以来の神官や神社に関する出来事(例えば改名、養子縁組等の願と届。出生、死亡、類焼の届、祭礼興行の届)を記録してある。」とのことです。
明治七年のものは、「各祠官・祠掌等に命じて管轄県に提出させたもの(『社寺書上』『神社取調録』『神社・寺院調』)で、内容は「神社の名称とその所在地、社格(県郷・村社)の表示、式内社か式外社かの区別、祭神、本社(建物名とその縦横の寸法)、祭日、社領と社地、境内地(記入のあるものとないものあり)、摂社・末社の名称とその本社の寸法、由緒、氏子(戸数)、県庁よりの距離等が記されている。この時期の『神社明細帳』としては、内容のととのったものであったと思われる。」とのことです。
この明治七年のものに「摂社・末社として記録されている神社には境内外のものも多く含まれていた。これらはのちに『山野路傍に散在の神祠仏堂整理』の際に合併移転となって大整理がおこなわれる」とのことです。
明治七年の明細帳と県甲第九十二号による明細帳を比較できればよいのですが、「若松県編纂の社寺明細帳(表3)」及び「福島県・磐前県編纂の社寺明細帳(表4)」によると、明治七年の明細帳は「岩P郡社寺調」と「菊多・磐前・磐城神社明細帳」「白川郡・石川郡神社明細帳」が記載されているだけですし、それらの郡の全村分が揃っているのかは不明です。
◇次に、項目「二 社格制度による有格社無格社の選定」から、明治政府の神社に関する政策に関して引用させていただたいと思います。
「明治政府が祭政一致の施策を目標とするに当たって選んだ神道において、その礼拝祭祀の対象とされる神社を制度的にどのように位置付けて行くかは、大きな課題であったろう。この神社の再編成に当たって先ず最初になされたのは、全国の神社の格付けであった。」
「各県の式内社・大社・由緒ある旧社が調査され、このような資料をもとに政府及び各県は神社のランク付けつまり社格のある神社を選定していったのである。」
「このような調査をふまえて明治政府が、新ためて全国の大小の神社を整理統合し、国家機構の一つとして組み入れるため大改革を公表したのは、明治四年五月の太政官布告第二百三十四号及び二百三十五号によってである。この布告により、神社が国家の宗祀であることを改めて強調するとともにその祠祭者である神官・社家の私的な存在を一掃し、補任を新たにして公職とする一方、全国の大小の神社をランク付けした。即ち、神社は官社と諸社に大別され、官社として官幣社(大・中・小・及び別格)、国幣社(大・中・小)の二種に、諸社として府社・藩社(のち県社となる)・県社・郷社の四種に分けた。そして郷社の下には村社が定められ、それ以下は無格社となった。」
「官社の管轄は神祇官が、また諸社の管轄は地方官の管轄となった。府・藩・県社は、府藩県崇敬の社、郷社は郷村の産土神が選ばれたがその選定は、前述のごとく式内社及び式外の大社旧社から選定された。府県郷村社等は地方管轄庁において選定されたが〈略〉、国の指示を得ながら決定された。」
「明治四年七月の太政官布告第三百二十一号によると郷社については〈布告引用・略〉」「郷社は一区に一社とし、その選定される条件は、一郷中の式内社か、前々からの有格社、あるいは郷村中の神社中最も主要なものとされた。また、一社で五〜七か村の氏子千戸内外をもつ神社は郷社とされた。その他由緒ある神社は村社となった。」
この七月の布告は、郷社の選定についてのものであるようですが、布告に「別紙定則ノ通取調可致事」とある別紙「定則」のたとえ〈假令〉の「一郷ニ社五ケ所アリ」の例で五社から郷社と定まった「餘ノ四社ハ郷社ノ付属トシテ是ヲ村社トス」とありますので、これがこの時点での村社の位置付けであったのではないかと思います。
「福島県の場合は、明治四年八月二九日、次〈「縣社郷社取調伺」を指す〉のように県郷社を選定して報告した。」〈「縣社郷社取調伺」省略〉
「全国の神社の社格ことに村社の決定がさらに徹底されるのは、明治九年十二月十五日の教部省達書第三十六号によってである。即ち達書には、/各管下所在産土神並別段縁由有之神社等ニテ社格未定ノモノ村社加列之儀追々伺出候處今般當省ニ於テ明治神名帳編纂ニ付有格神社取調候條右等ノ類人民情願ノ向ハ管轄庁ニ於テ取纏社格見込相立來明治十年三月限可伺出此旨相達候事/但別紙雛形ニ照準明細書及絵図面相添可差出事/とあり、明治神名帳の作成にもとづき、ことに村社社格を明らかにすべくそのまとめ方を各県に達した。この達の主旨はまず全国の村社の社格を定めることにあったのはいうまでもない。」
これは、社格未定の神社が社格のある村社となる道を開いたということではないかと思います。
この達で、村社加列を願う神社の取纏の期限は明治十年三月中にということでしたが、福島県は「これを期として村社の社格付を終らせたいという考えであったらしい。それは、福島県がこれまでの若松県・磐前県・福島県の三県が合併し福島県となっていたから、三県一様に取纏めておくという意味からも、この時期に終了させておく必要があった。」ためか、村社加列願の取纏期限を明治十年五月中迄の猶予を願い出ているそうです。
そして、「これらの願いを県がまとめて提出したのは次〈「社格見込之伺」を指す〉のように明治十年八月十八日である。〈「社格見込之伺」省略〉」とのことです。
このことについて、「社格の選定は、明治九年十二月の教部省達書第三十六号によってさらに社格選定を徹底実施し、その報告が一応まとめられた明治十年八月頃が、一つの区切りであったろう。しかし、前述のごとくその後も、有格社が追加されていたから若干の変動があったが、これがもっと整理され台帳としてまとめられるのは、『社寺仏堂請書』を提出させ、『社寺明細帳』が作成された時である。」としています。
そして、「この社格のある神社を決定することで、明治政府の神社統制のうちの最も重要な作業が完了したことになる。そして、この神社統制の核造りをほゞ終了しようとする時、さらに全国の村社以下の小社小祠の整理と把握にも着手した。」となるようです。
*こういった経緯によると、明治政府は先ず、神祇官管轄の官幣社と国幣社を選定し、地方官の管轄する諸社の府県社・郷社の選定を行なった。これは明治初期から取組まれ、明治四年の諸布告によって定められた模様です。
郷社の下に定められた村社については、明治九年十二月の教部省達第三十六号により村社の社格の決定が徹底され、これにより社格のある神社の決定がなされた模様です。
その後で、村社以下の小社・小祠・仏堂の整理に手を付けていくことになるようです。
◇このことについては項目「三 山野路傍散在の神祠・仏堂・碑塔整理」を見ます。
「列格された神社は、国・県・郷・村において神社を統制していく上で中心の神社とされた」が、社格の無い神社は、小祠を含めてまだ無数に無秩序に所属も不定のまま存在していた。
「従ってそれらの小社・小祠の位置付けは、列格社選定後の課題となった。そこで政府は、それらの小社・小祠の整理と秩序付けに着手することになるが、単に小社・小祠のみでなく、これに仏堂をも加えた。」
これらの実施は、明治九年十二月十五日の教部省達書第三十七号のー山野或いは路傍に散在する神祠仏堂の矮陋で一般社寺に比べがたく平素の監守者のないものは総て最寄りの社寺に合併するか移転すること、ただし人民の信仰があり受持ちの神官僧侶を定め永続方法を立て存置を願出があれば管轄庁において聞届けて、いずれも処分をしたうえで別紙雛形によって取纏めて届出よ。但し神社寺院明細帳に記載のものは伺いの上で処分することーという主旨の達書によるもののようです。
これらの神祠仏堂については基本的には合併か移転を命じていますが、「所属受持の神官僧侶と永続の方法を決めて願い出たばあいには、管轄庁でその処分を決めよとあるから、山野路傍の神祠仏堂でも処分されないで据置かれる道はあった。」としています。
この達書の日付は第三十六号と同一日ですから、村社に列格する社を明らかにして社格の決定を徹底させる達書と管理者と永続方法を定められない山野路傍の小社・小祠・仏堂の合併移転を命ずる達書とが、神社の位置付けに関して出されていることになります。
その「雛形は@『合併届』A『転地届』B据置願聞済届』の三種類で、それぞれ、祠と堂とを区別して別冊に調製せよとある。」〈「取調記述の内容」内容省略〉
福島県は明治十年四月六日付けで、この達書に関連しての伺〈「路頭又ハ山野ニ有之石碑処分之儀ニ付伺」略〉を出しており、「教部省の対象とした神祠仏堂の他に、石碑石塔も合併移転の対象とすることを申し出たことがわかる。」、「福島県は、政府が命を下した、山野・路傍に散在する神祠仏堂に加えて、石塔石仏の類をも合併移転の対象として、その神仏を分け、合併移転させ、場合によっては破壊するという処置の実行を決めたのである。」
福島県は、これらを明治十年五月頃に県甲第三十七号として各区に通達したもようです。
これらがあって、論文の項目「三」の小項目「3整理統合の過程」となります。
※その前に、明治政府と福島県の布達をあらためて見てみます。
明治政府:
明治九年十二月=教部省達第三十六号−(期限・明治十年三月中)村社加列の取纏
明治九年十二月=教部省達第三十七号−山野路傍に散在する祠堂の合併移転
明治十二年六月=内務省達乙第三十一号−府県社以下神社の神社明細帳作成
福島県:
明治十年五月=県甲第三十七号−山野路傍散在の祠堂塔碑の合併移転等の達書
(明治十年六月頃〜多くは十二月頃までに合併移転、田村郡は明治十二年八月頃迄)
明治十年八月十八日=「社格見込之伺」提出(期限延期願出)−村社加列の取纏
明治十年十一月=県甲第九十二号−福島県としての社寺明細帳作成
◎「藤田論文」の「第二編・第一章・第二節社祠堂碑塔の整理と社寺台帳、三-社寺台帳の作成(2)社寺仏堂明細帳の作成とその意義」によって「県甲第九十二号」の文面を見ます。
◇「県甲第九十二号/今般詮議之次第有之内務省経伺之上別紙雛形之通社寺明細帳改正候条可得其意依テハ掛官出張申付実地調査何分精確ヲ要候ニ付而ハ本年県甲第三十七号布達ニ依リ合併移転之分ヲ除ノ外現今存在ノ社寺堂宇共大小無洩雛形ニ照準予メ下調致シ置可申此段社寺ヘ布達候事/福島県権令山吉盛典代理/明治十年十一月五日 福島県少書記官中条政恒」。
雛形については既述。
これについて、「文中の県甲第三十七号は〈略〉、十年五月九日に出された神祠仏堂の合併移転方の達である。『合併移転之分ヲ除』というのは、合併移転した分は、合併移転先の寺社堂を調査すればよいから下調の対象から除く、という意味か。据置となった社寺堂は沢山あったわけで、それらを主に下調せよということなのであろう。しかし、据置になった分のみが明細帳作成の対象になったわけではなく、九十二号達に付けられた明細帳の雛形に合わせて全社寺堂が調査の上記載されたのである。」と記していますが、「という意味か」とか「ということなのであろう」と、多少歯切れの悪さを感じます。
また、「この達により明細帳が作成されていく過程をみる」として、第二区〈不明〉の例をあげて「まず社寺側において下調がおこなわれ、さらに掛官員が実地に検査をして不都合の有無が確認されたのち、その下調をもとに村側が浄書して提出という順序で進められた。第二区では、社寺から提出された調査書は、内容も一定でなくまちまちであったため、区会所でまとめ、筆耕者を雇って浄書した。〈略〉本来は村ではなく社寺において浄書すべきものと考えられていた。」を記しています。
*この県甲第九十二号の布達内容ですが、現今存在している社寺堂宇は、合併移転済みの社寺等を除いて、もれなく雛形に添って調査することと受取るのがよいのでしょうが、既に合併移転の処置が済んでいる社寺等は除かなければならないというように除外を強調した受取り方をされる可能性を思います。
「合併移転した分は、合併移転先の寺社堂を調査すればよいから下調の対象から除く、という意味か。」とありますが、合併移転先の寺社堂を調査すれば、合併移転した総ての祠堂のことが知れるものでしょうか。
独立の存在の寺社に付属する境内摂末社等は調査の対象となるのでしょうから、合併移転で境内摂末社等となったものについては独立の存在の寺社に付属する祠堂として位置付けられることになるということでしょうが、合併されて神祠堂の存在しなくなった社寺等と合併された祭神等も調査されたのでしょうか。
合併されて神祠が存在しないのであれば、独立の神社に付属して位置付けられる摂末社でさえなく、「合併移転之分」として除かれて、下調べの対象にすらなり得ないのではないでしょうか。
合併されて相殿の神となった祭神の存在は除かれたまま、合併先の神社はその神社の元からの祭神を祀る独立の存在の神社として扱われたのではないでしょうか。
神社明細帳は、合併移転が行なわれた後に作成されており、そこには合併された神社の情報が見出せないように今のところでは思えるのですが、その理由がこういったことによるのではないかと思えます。
*さて、この布達により福島県独自で調製した社寺明細帳ですが、明治政府が作成を命じた社寺明細帳に代わるものとして了承を得て国に進達されたことになりますが、政府が作成を命じた「境外遙拝所明細帳」「境外招魂社明細帳」「境外祖霊社明細帳」については、藤田は「これらの明細帳もこの政府の指令に基づいてこの時期に調査しまとめるということはなかったのではないかと思う。」と記しています。
また、「政府の計画した明細帳には、『仏堂明細帳』が入っていないが、これは、明治九年十二月の達三十七号による山野路傍散在の神祠仏堂整理のとき、帳簿を作成して進達することになっていたからであり」と記して、仏堂明細帳の存在も「福島県の明細帳の特色といえるであろう。」としています。
そして、「以上、述べてきたように県甲第九十二号達によって作成された社寺仏堂の明細帳は、質量とも福島県の明治期における(実際はその後現在まで含めて)最も整ったものであったことが明らかとなった。しかも、その作成は政府が全国に指令する以前に独自に作られていったものであり、その作成完了の時期の明治十一年と十二年頃は、福島県における社寺仏堂の整理に一応の区切りがついた時期とみて大過ないものと思われる。」としています。
◎「長野論文」で、明治十二年六月二十八日の内務省達乙第三十一号について見ます。
布達の文面と「(別紙)神社明細帳書式」〈既述〉と「明細帳取調方心得」が記載されています。
◇布達文面:
「内務省達乙第三十一号/ 府県〈割書〉沖縄県/ヲ除ク/各管下神社寺院明細帳之儀、最前進達ノ分脱誤不少候條、別紙書式ニ照準更ニ精密取調、但境外遙拝所・招魂社・祖霊社・明細帳ヲモ調製、本年六月三十日ノ現況ヲ以テ取調、同十二月限リ可差出、此旨相達候事/〈真宗寺院明細帳についての但書三行・略〉」
◇「明細帳取調方心得」:
一何々として十一項目の記載があります。既に触れている部分もありますが、一部を省略して引用いたします。
「(一項)明細帳ハ神社・寺院・境外遙拝所・招魂社・祖霊社ノ五種ニ分チ、神社寺院ハ毎郡各冊ニ編製シ、表紙ニ何国何郡〔神社/寺院〕明細帳ト署記ス〔一郡ニシテ他府県ニ跨ル者何郡ノ内ト記シ/又一郡ニシテ二冊以上ナル者ハ明細帳幾冊ノ内チ記スヘシ〕一冊内ハ町村ヲ以テ次叙シ、同町村内ノ神社ハ社格、寺院ハ宗派ヲ以テ区別シ、且冊首ニ町村名目録ヲ附スヘシ、境外遙拝所以下ハ毎国各冊ニ編製シ、表紙ノ署記並目録ハ前ニ準スヘシ」
「(二項)用紙は美濃十三行界紙ヲ用ヒ、一社寺毎ニ相認ムヘシ/但、摂末社ノ名義ヲ問ハス神社境外ニ在ル者ハ総テ一社トシ各紙ニ認ムヘシ」
「(三項)神宮・官国幣社並同境内神社〔社格ノ有無/ニ拘ハラス〕ハ取調ニ及ハス」
「(四項)山野路傍存置ノ神祠並衆庶参拝ヲ許可セシ人民私邸内ノ神祠ハ、並ニ一社トシ、某神社境内ヘ移転セシ者ハ、境内神社ノ項下ニ記スヘシ」
「(六項)由緒ハ創立・公称・廃合・再興・復旧・移転及ヒ社格等許可ノ年月並該社寺ニ関スル縁由沿革ヲ詳記スヘシ」
「(九項)祭神由緒不詳ト雖トモ、古老ノ口碑等ニ存スル者ハ、其旨ヲ記シ、境内遙拝所等無之者ハ、其項ヲ除クヘシ」
「(十項)社寺ニ氏子檀徒無之向ハ信徒〔講中/ノ類〕ノ人員ヲ記スヘシ」
「(十一)明細帳取調済ノ後、府県限リ処分セシ事件ニシテ明細帳ヲ改正シ、又ハ記入スヘキ者ハ、毎月末取纏メ、本省ヘ届出ヘシ/但、従前届出方ノ成規アル者ハ格別ナリトス、尤向後新ニ明細書ヲ出スミニハ、総テ此書式ニ準スヘシ」
これらについて、「ここで定められた明細帳書式は、その後幾度かの変更を加えられることになるものの、六十年間以上続く神社明細帳書式の基準となるものであった。」と記しています。
*この「明細帳取調方心得」を見ると、二項目に明細帳で一社として記載する神社として摂末社であっても神社境外に存在する神社を含めることを指示しています。
四項目は、山野路傍に存置となった神祠は一社として明細書を作成し、山野路傍にあった神祠で某神社境内に移転した場合は境内神社の項目のもとに記入すること、という趣旨でしょうが、山野路傍の神祠で合併となり固有の神祠の存在しなくなったものもあったと思いますが、それらに対する記載上の指示は無いようです。
六項目を見ると、由緒として記載する内容が幅広く、福島県の明細帳項目の由緒・勧請や、あるいは祭日・社号改替・神位とされているものを含むものを由緒として記載するように求めているようです。
九項目では、祭神由緒が不詳であっても、古老の知る言伝えなどがあればその事を記すようにとしていますので、この心得に従えば、例えば新編会津風土記に記された相殿の神についても記載することができたのかも知れないと思います。
十項目にある、氏子の無い場合は信徒の人数を記すようにというのは、福島県の明細帳でも信者・信仰者という表記で行なわれているようです。
明治政府が、福島県の社寺明細帳調製の許可を出した折に付帯した「但神社ハ造営村持氏子持ノ差別ヲモ記載スヘシ」の記載項目は、明治十二年に内務省布達により示した神社明細帳書式には含まれていません。
福島県の神社明細帳は、項目数が多いだけ明細帳調製時の情報は多いと言えると思います。
※「藤田紀要6号論文」に戻り、項目「三」の小項目「3整理統合の過程」を見ます。
福島県に提出された「祠堂の『合併移転届』と『据置願』は、各村から提出されたものを郡がまとめて県に提出したもので、県はこれを、後に簿冊として保存した。簿冊にする段階か、簿冊にした後か、その両方であると思われるが、その保存率はそれほど良好ではない。」とあり、「当時の郡数二十二の内『合併移転届』は、伊達郡・安達郡・田村郡・石川郡・東白川郡・楢葉郡の六郡、『祠堂据置願』は、信夫郡・伊達郡・安達郡・岩P郡・石川郡・東白川郡・楢葉郡の七郡のみである。」とあります。
三県が合併して新たに福島県が成立したのは明治九年八月ですので、明治九年十二月の教部省達書第三十六号及び三十七号への対応も県甲第三十七号の通達も新福島県が行なっているわけであり、祠堂の「合併移転届」や「据置願」も新福島県に提出されたわけでしょうが、何故ひとつの県が管理する同種の書類に残っている部分と見当たらないものとが生じるのでしょうか。
旧磐前県や旧福島県に属する郡でも残っていない郡がありますが、旧若松県に属する会津郡・大沼郡・耶麻郡・河沼が残っていないのには、なにか理由があるのでしょうか。
*「合併移転届」の残っているこれら六郡では、「早いところでは、明治十年六月頃に、多くはその後十二月までに合併移転を完了しており、中には田村郡のように十二年に〈八月頃までに〉実施されたところもあった。」とありますので、県の通達が発せられるとかなり早く実施に移された模様です。
閲覧できた神社明細帳に伊達郡と田村郡のものがありますので見てみますと、伊達郡秋山村鎮座の稲荷神社の神社明細書の提出日付は明治十一年十月でしたが、田村郡三城目村鎮座日枝神社の明細書の提出日付は明治十二年七月となっていました。
合併移転の遅い田村郡では神社明細帳の調製も遅くなっていたもようです。
ちなみに、「社寺仏堂請書一覧(表1)」によると、「明治十一年社寺堂請書」として伊達郡・安積郡や耶麻郡・河沼郡・大沼郡などが記されており、「明治十二年社寺堂請書」として東白川郡・石川郡・田村郡・宇多郡などが記されています。
宇多郡中村鎮座中村神社の明細書の提出年月は明治十二年十月でした。
東白川郡の祠堂合併移転は明治十年六月から九月に行なわれており(「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧(東白川郡)(表8)」)、石川郡も明治十年八月から十二月に行なわれています(「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧(石川郡)(表9)」)。
にもかかわらず、社寺堂請書が明治十二年になっているのはどうしてでしょうか。
これは、「祠堂据置願(表2)」の9番に「(明治)十二年」「東白河(ママ)郡祠堂据置願」とあることと関連があるのかもしれないと思います。
「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧」表や祠堂据置願に関しては、あとで記します。
*さて、論文の「合併移転届」等の分析を見ます。
先ず「各郡の全村数に対する合併移転届の確認された村数」については、伊達郡は全90村中35村(約39%)・安達郡全60村中23村(約38.3%)・東白川郡全88村中46村(約53%)・石川郡全72村中50村(約69.4%)・田村郡全144村中62村(約43%)〈楢葉郡・略〉であり、全村分の合併移転届は出されていないようで、「この数字が合併移転届の全部をあらわした数字であるか、それとも各郡の全村分が提出されたうち、偶々残った数字であるのか明らかでない。」としています。
次に「神祠・仏堂・碑塔三種目の合併移転数の説明に進む」と、「合併移転届のみられる各村の全部に右三種が揃って合併・移転しているわけではない」ことが先ず注意される事として記されています。
伊達郡の場合は、合併移転届の確認された全村90中の35村のうち神祠の合併移転届が確認される村は15村だけであり、仏堂合併移転届については9村、碑塔合併移転届は26村で碑塔廃棄した村が1村確認されるとのことです。
藤田は、仏堂は「一体に数の少ないもので、必ずしも各村にあったとは思わないから、三種が揃う例は少ないはず」だが、小祠・小社や碑塔は「数の多少はあってもほぼどの村にも存在していたと考えられないだろうか」として、「小祠・碑塔の類をどの村も完全に合併・移転させたとすれば、少なくとも碑塔と神祠を合併移転させた村数は、多いはずである」として、神祠と碑塔の合併移転届出村の割合を見ています。
伊達郡では神祠の合併移転届が確認される15村は35村中の約43%ですが、他郡を見ると安達郡が23村中の20村で約87%、東白川郡は46村中37村で約80%、石川郡は50村中40村で80%、田村郡は62村中58村で約93%となっています。
碑塔の合併移転については、伊達郡は廃棄の1村を加えると27村で約77%ですが、安達郡は廃棄の1村を加えると13村で約56%、東白川郡は9村で約19%、石川郡は28村で56%、田村郡はわずか2村で約3%となっています。
このことについて「東白川郡や田村郡の数値は、両郡にこの程度しか碑塔がなかったという事実を示すものとは考えられない。」として、これは「各村に合併移転対象の碑塔がなかったということではなく@対象物があるのにもかかわらず合併移転をせず、その届を出さなかったかA合併移転をしたがその届をしなかったか、あるいはB合併移転の届を出したがその文書が残らなかったかのいずれかである。」が、田村郡の例〈神祠合併移転届約93%と碑塔合併移転約3%〉などから「Aの理由とは考えられない。とすれば@とBの理由であるが、両方の理由が重なっているのかも知れない。」としています。
論文掲載の「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧(伊達郡)(表5)」を見ると、伊達郡で神祠・仏堂・碑塔三種の届を出している村は4村で、神祠と仏堂の届出が3村、神祠と碑塔の届出が4村、仏堂と碑塔の届出が1村、神祠のみの届出は4村、仏堂のみの届出が1村、碑塔合併移転の届出のみの村が17村数えられます。神祠の合併移転数49の総てが合併となっています。
碑塔合併移転の届出のみの17村では神祠の合併移転はなかったのか、据置を願い出ているのか、あるいは神祠がなかったのか、届出文書が保存されていないのか、また神祠のみを届出た4村に合併移転対象たる碑塔はなかったのか等、さまざまな疑問が生じます。
安達郡の「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧(安達郡)(表6)」では、届出が確認される23村のうち神祠・仏堂・碑塔三種の届を出している村は2村で、神祠と仏堂の届出が2村、神祠と碑塔の届出が8村、仏堂と碑塔の届出が1村、神祠のみの届出は8村、仏堂のみの届出が1村、碑塔合併移転の届出のみの村が1村です。神祠の合併移転数183の総てが合併となっています。
田村郡の「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧(田村郡)(表7)」では、届出が確認される62村のうち神祠・仏堂・碑塔三種の届を出している村は無く、神祠と仏堂の届出が10村、神祠と碑塔の届出が2村、仏堂と碑塔の届出は無し、神祠のみの届出は46村、仏堂のみの届出が4村、碑塔合併移転の届出のみの村は無しです。神祠の合併移転数260の総てが合併となっています。
東白川郡の「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧(東白川郡)(表8)」では、届出が確認される46村のうち神祠・仏堂・碑塔三種の届を出している村は1村、神祠と仏堂の届出が12村、神祠と碑塔の届出が5村、仏堂と碑塔の届出は無し、神祠のみの届出は19村、仏堂のみの届出が6村、碑塔合併移転の届出のみの村は3村です。この郡では、神祠の合併移転数の203のうち185が移転となっています。
石川郡の「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧(石川郡)(表9)」では、届出が確認される50村のうち神祠・仏堂・碑塔三種の届を出している村は7村、神祠と仏堂の届出が6村、神祠と碑塔の届出が13村、仏堂と碑塔の届出は2村、神祠のみの届出は12村、仏堂のみの届出が2村、碑塔合併移転の届出のみの村は6村です。この郡では、神祠の合併移転数の330のうち280が移転となっています。
また、祠堂の「据置願」については、伊達郡・安達郡ともに合併移転届を出した村数よりも据置願いを出した村数のほうが多くあり、合併移転届の出された神祠数よりも据置願いの出された神祠数が多くなっています。
「合併移転届数と据置願届数の比較(表12)」の伊達郡を見ると、全村数90で合併移転届出村数が35村で据置願届出村数は70村であり、そのうち神祠の合併移転届出村は15村で神祠数は49であるのに対して神祠の据置願届出村は59村で神祠数は224とあります。
合併移転届出村数と据置願届出村数にどれ程の重複があるか分かりませんが、全村分の届出書類が保存され残っているわけではないようですので、届出書類の見当たらない村が届出を出さなかったとは言い切れないように思います。
もし、伊達郡の村の中で合併移転等に不満を持つ村があったとしても、県や郡からの通達や行政指導に従わずに合併移転等を無視し届出をしないでいることができたでしょうか。
あるいは、届出をしない村があったとしたら、県や郡の対処が強制的なものではなく、村の不服従を黙認した可能性はあるのでしょうか。
同表の安達郡では、全村数62で合併移転届出村数が23村で据置願届出村数は52村であり、そのうち神祠の合併移転届出村は20村で神祠数は183であるのに対して神祠の据置願届出村は44村で神祠数は339とあります。
藤田によれば「据置願の出されたものは大部分据置を認められたらしいこと。碑塔の据置願は極めて少ないが、据置かれる例もまた少ないこと等が明らかとなった。」とあります。
据置願の差戻しについては、「据置が聞届けられず差戻されたものは、そのまま県の意向を受け入れて合併か移転したものと、再度据置願を出すものとがあったが、県側の検査の段階で全く据置を認めないものと、もう一度実地検査をした上で据置か合併移転を決定したものとは区別されたようである。据置が許されず差戻しとなったものについては、これを受理した村側でそれを認める請書、あるいは仮請書を県に差出した所もある。」とあります。
そして、「もう一度検査すべきものとして据置願書が下戻されたものは、再度係員が出張して当否を検査し、再度据置を願うべきものについては、据置が叶うようなアドバイスをしたようである。」とあり、「据置を拒否されても、信者等から強いて据置を願い出るものについては、それを止めるようなことはなかったようである。係員の検査の上それぞれ据置対象の指示をうけた者は、その指示に従う旨の請書をし、再度据置願を提出した。」とあります。
係員の指示並びに指示に対する対応については、「据置差戻し神祠の検査内容と据置追願人側の対応処置(表13) (『社寺並祠堂据置願』による)」で、安達郡の11の例が記されており、それによると、検査係官の「神殿のみにては不都合に付雨屋新築指示」の3件ではいずれも雨屋新築の処置がとられており、「社殿雨屋等破損に付合併移転指示」の2件及び「社殿雨屋等大破」「雨屋拝殿破損」「雨屋破損」「社殿雨屋破損」による合併移転指示については新築ないし修繕ないしその約束の処置がとられ、「社殿境内地共狭きに付合併移転指示」には社殿雨屋の新築と境内地の拡張で対処し、「社殿矮陋に付合併指示」には雨屋を新築し境内地も狭くないように補う処置を、「合併移転指示」に神殿新築の処置を記しています。
そして、「このような係官の指示に従って処理し据置追願を出した神社や仏堂については、いずれも据置かれているから、願いが叶えられていたことになる。」とのことです。
神社明細帳を見るときに、雨屋・雨覆が記された神社の場合は、据置願により据置になった神社の可能性もあるかも知れません。
いずれにせよ、祠堂の「合併移転届」「据置願」が保存されている郡数が少ないうえに、各々の郡の全村分が保存されているわけではなく、届出をした村についても村の届出書類の総てが保存されているとは限らないということを承知しておく必要があるようです。
そして、あらためて教部省達書第三十七号について、次のように述べています。
「山野・路傍の散在する矮陋な神祠・仏堂を処分整理する事であった。しかし、山野・路傍の神祠仏堂でも、信者や受持の宗教者が明らかとされ、その維持の目途が立つものは、合併・移転せずとも据置くというのであるから、合併移転の処分をすることのみが目的でもなかったわけで、実は、把握されにくい小社・小祠・仏堂類の管理責任者を明確にし、登録することが第二のしかも主要な目的であった。」、「合併移転させられたものは、つまりその管理責任者が明らかでないか、または、明らかであっても管理が行届いておらず、今後もその望みがないようなものである。それらを合併移転とした目的は、所属の明らかな社寺(国県登録されている社寺)の下に併置することで管理者を明確とし、これを把握することにあった。つまり、国・県の管理を及ぼせる状態にしたのである。そして、これは、最終的に、明治政府が、日本全国の社寺堂を大小にかかわらず把握するという目的の一貫として実施されたものと考えられる。」と記しています。
さらに「この合併・移転は、人々の身近にあって、しかもそこに建てられるべくして建立され、その地その場所にあることに存在意義のあった信仰対象物が移動させられたということであり、しかも遠隔地に移された場合も多かったことでもある。そしてそれはかってこれらの散在していた村内の信仰的環境が大きく変化させられたことでもあったし、このような村内環境の変化が、山野・路傍に散在していた神祠・仏堂・碑塔類を中心としておこなわれて来た民俗信仰へも、当然大きな影響を与えたと思われることである。その点は新たな課題として注意しておきたい。」を記します。
さて、論文の最後に掲載されている「伊達郡神祠移転合併一覧」表ですが、「社祠堂塔」数で397が列記され、祭神本尊、勧請建立、所在、移転合併先、移転合併年月日が記されています。祭神本尊には空欄が多くあり、勧請建立には不詳もあります。
この397は、「祠堂合併移転情況の各郡比較表(表11)」に見る伊達郡の神祠合併移転数49、仏堂合併移転数30,碑塔合併移転数213,碑塔破棄数95の合計387より10多くなっています。
「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧(伊達郡)(表5)」の、各村ごとの神祠・仏堂・碑塔の合併移転数と比較して見ていけば、この一覧表の理解が深まると思います。
伊達郡の下小国村(現霊山町小国)には、「合計十八の字内に八つの小社・小祠・六つの仏堂・七つの碑塔があったが、神系は熊野神社、仏系は龍コ寺の二か所に移転合併されてしまった。このため下小国内の社寺は、熊野神社と龍コ寺のみとなり、『社寺明細帳』にも右の一社一寺しか記録されていない。」とのことです。熊野神社の神社明細書では合併移転の反映はどうなっているのでしょうか。
また、「現在県下全郡分の資料が残されて」いるという社寺仏堂請書と社寺明細帳を付き合わせて見る事が重要ではないかと思います。
◎再び「藤田紀要17号論文」に戻り、〔祠堂合併移転届〕についての項目の安達郡・石川郡・田村郡・東白川郡の神社・小祠・仏堂の合併移転の一覧表を見ます。この一覧表は、碑塔類は除かれたものになっています。
*安達郡では、「社祠堂塔」項目に199の社祠堂が列記され、祭神本尊、勧請建立、所在、移転合併先、移転合併年月日が記されています。
「藤田紀要6号論文」の「祠堂合併移転情況の各郡比較表(表11)」によると、安達郡の神祠合併移転数183と仏堂合併移転数13の計は196になり、いくらか列記数が多くなっています。
石川郡は、361の社祠堂が列記されています。「祠堂合併移転情況の各郡比較表(表11)」に見る石川郡の神祠合併移転数330と仏堂合併移転数34の計は364で、列記数の方が少なくなっています。
田村郡は、285の社祠堂が列記されており、「祠堂合併移転情況の各郡比較表(表11)」に見る田村郡の神祠合併移転数260と仏堂合併移転数23の計は283です。
東白川郡は、社祠堂列記数337で、「祠堂合併移転情況の各郡比較表(表11)」に見る東白川郡の神祠合併移転数203と仏堂合併移転数46で計は249で、この郡ではかなりの開きが見られます。
東白川郡の合併移転神祠・仏堂の列記数と合併移転の届出数の違いは、据置願が出されたが据置かれなかった神祠・仏堂の合併移転が反映しているのでしょうか。
東白川郡の列記数337を「藤田紀要6号論文」の「神祠・仏堂・碑塔の合併移転数一覧(東白川郡)(表8)〈以下・東白川(表8)〉」と付き合わせてみてみると、列記数の254番までは「東白川(表8)」の村名と合併移転の神祠・仏堂の数とほぼ対応する関係にあるようです。
東白川郡では、全88村のうち46村の合併移転届出村が確認されていて神祠合併移転届出村は37村で仏堂合併移転届出村は19村となっていますが、神祠と仏堂の合併移転届出をしている村が13村ありましたので、重複を除くと43村が祠堂の合併移転届出村数となり、3村は碑塔の合併移転届のみの村となります。
列記254番までに43村が記載されています。
列記255番から337番までには37村の祠堂が記されており、「東白川(表8)」に記載の無い村名の21村の合併移転の神祠・仏堂が記されています。
また、列記254番以前に記載のある「東白川(表8)」に記載のある村名も15村あって合併移転の祠堂が記されています。
「東白川(表8)」に碑塔のみの合併移転届出とある3村の1村の八槻村の小社(三尺×三尺)7社の合併の記載があります。
列記255番以下は、据置願がかなわなかった神祠・仏堂と見てよいのではないでしょうか。
東白川郡の合併移転神祠・仏堂の列記数337は65村になり、碑塔のみの合併移転届出か確認される2村を合わせると67村となりますが、全村数の88村とは21村のひらきがあります。
この21村については、21村の総てが据置願のみの届出でその全件が聞き届けられたという可能性は否定できないまでも小さいように思いますので、届出文書の残されていない村もあるのではないかと思えます。
合併移転届よりずっと多い届出のある「据置願」の神社・小祠・等で、据置が許されなかった神祠は結果として合併移転となったのでしょうが、それがどの村のどの神祠でどこへ合併移転になったかを知ることのできる資料は他にあるのでしょうか。
合併移転となった各々の神社・小祠・等のひとつひとつをあとづけていくことはできかねますが、合併移転の神祠・仏堂のリストが作成され存在することの意義は強調しすぎることはないと思います。
通達に対して各種の届出書類があり、届出に対する返書があり、返書への対応書類があるというような状況のようですし、それらの書類が各種類ごとにまとめられていても、系統立てて書類を集めて見ていくことは並大抵のことではないと思います。
藤田論文に神社明細帳の作成に関連していろいろご教示いただきました。
*明治初期に明治政府が社寺整理を経て社寺明細帳を作成したということについては、福島県の社寺明細帳も社寺整理を経て作成されたものであることでは、異なるものではないと思います。
神社明細帳として編纂された情報のなかに、明治初期の神社整理がどのように反映されているかを判断するためには、現状では材料が足りません。
新潟県や秋田県の神社明細帳での明治初期の神社整理の反映はどうなのだろうかと思います。
また、県庁保存文書であろう福島県の神社明細帳に明治後期の神社合祀が反映されているようには、閲覧した小数の例からはうかがえませんでしたが、これについても判断材料が足りません。
現状では福島県の明治後期の神社合祀の神社明細帳への反映に関しても不明のままです。
神社明細帳や合祀関連史料に取組む事が必要と思いますし、「福島県歴史資料館 研究紀要」の幾つかの号の論文や「福島市史資料叢書 第44輯・46輯 福島の神社明細帳T・U」などの気になっているものはあるのですが、私の関心の中心は古四王神社にありますので、福島県の神社明細帳をめぐる諸課題に取組むことを優先させることはできかねますので、この項目はここまでとしておきたいと思います。