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探訪記録 山形  26 : 村山  1


佐藤リスト 位置番号 21 : 東根市野川  古志王神      備考)明治16年廃社、もと北向き社、古文書
                     〈桑原リスト:北村山郡東根町野川中向・古志王壇、こしほのやしろ

《探訪の準備》
*川崎浩良『美人反別帳』の「村山盆地の越王神」の項目中に「北村山郡東根町野川中向に古志王壇の地名があり、元禄五年(1692)十月の野川明細帳に「こしほのやしろ」と記されて古志王社が北向きに立っていたが、明治十六年東根関山街道新設の際廃社となり、今では同境内に北向きに立っていた板碑を古志王神として路傍に立ててある。」の記述があります。
 北村山郡東根町野川中向ですが、現在の東根市野川に中向がありますので、この辺りを探す事になると思います。
 なお、野川には中向こうのように「向」の付く地名が他にも川向・下向・向原があります。
 「壇」に関しては、野川に隣接する観音寺に供養壇、桜壇の地名がありました。 

《探訪の記録》
*2013年7月13日
 雨の中を東根市を目指して行くと、東根に着く頃には雨が上がりました。
 東根の大欅を見てから、さくらんぼ東根駅の図書館〈現在は移転〉で事前に検索していた資料を中心に文献に当ってみました。
 『東根市史 別巻上 考古・民俗編』(東根市史編さん委員会 平1・1989)で「板碑」の項目を見てみますと「東根市内の板碑」として「(十一)野川字中向」がリストアップされていて「写744 野川古四王の板碑」の写真と「野川中向の板碑は、古四王社に祀られたものと伝えられる。額部の突出は明瞭であるが、二刻線は認められず頭部を欠損している。」の説明文がありました。
 「図711 市内の主な板碑分布図」から、野川中向の場所が山形空港の東にある駅から東に伸びている道路を行ったところと分かりました。
 図書館で拝見した資料から幾つかをコピーさせていただきました。
 所在地情報の実在が確認できましたので、安堵して現地に向うことが出来ました。

 県道296号を東に探しながら進みましたが見付けられず、道を戻って西に向って行くと、道路の北側の脇の電柱の側に茶色い石柱のようなものを見付けました。
 本の写真の板碑に間違いがないようです。
 このあたりに「こしほのやしろ」が在ったのでしょうか。
 板碑の四面を見回してみても、文字のようなものは確認できません。もろい石材のようですので劣化したのでしょうか。
 道路に向いている方が正面とすれば、南向きに立てられています。
 
 この板碑のある場所は、東根市野川中向地内で、県道298と296の交差点から県道296を西に400メートル程行ったあたりになります。

左上: 県道296 奥が西方向、電柱脇に板碑           右上: 板碑正面側
左下: 右斜め                               右下: 背面


《探訪の整理》
*『東根市史 通史編上巻』(平7・1995)=「第三章 中世の東根」中の「板碑」の項目に「東根市内には文献上には残るものの、既に失われているものを含めれば、約50基の板碑が確認される。所在は次の通りである。」として「18 野川中向古四王」とあり、記事中に「山形県の板碑を川崎浩良(『山形県の板碑文化』)は六形式に分類された。」が記されています。
 同書・同章の「土壇の実態」には「土壇とは土を盛り上げ、方形あるいは円形などに形成した場所のことであり、塚と呼ばれることが多い。〈略〉『東郷村史』によれば、東郷地区の土壇として養寒壇・正福寺壇・治部壇・三蔵院壇・古四王壇・おかのえ壇・長者壇などが記載されている。これらは現在では消失してしまったものも多い。〈略〉」があります。
 『東根市史 通史編下巻』(平14・2002)=「第八章 東根市の集落誌」−「第八節 東郷地区の集落誌」の「3野川村」に「元禄五年の『村差出明細帳』(小山田家文書)」からの引用はありますが、壇や板碑の記述は見られませんでした。
*『東根歴史の話』(保角里志 昭61・1986)中の「東根の板碑」項目に「その板碑は、ほとんどがやわらかい凝灰岩を使用しているために、きざまれた銘文などは消失していることも多く、また、墨書でかくのもあったが、今は消えてしまっています。」とありました。
 野川の板碑の状態はこういうことによるのでしょう。

 この訪問と文献確認の範囲では、川崎による所在地情報の実在を確認した段階にとどまっています。
 その場所にあったのは、板碑であり神社でも石祠でもありませんでした。
 かつてのコシオウ社は、移動・移転も合祀もされずに「廃社となり」ということなのでしょうか。
 この板碑以外に何も残していないのでしょうか。
 そうであれば、コシオウ社はかつてはあったが既に存在しないというしかないでしょう。
 川崎は「板碑を古志王神として・・・」と記していますが、板碑をどうすると古志王神になるのでしょうか。古志王神として祀りなおしたのでしょうか。
 コシオウ社の在ったよすが以上ではないのではないでしょうか。
 コシオウ社の境内にあったという板碑が遺されている、と言うしかないと思います。

 東郷村史(山形県立図書館)・東根町史・等、目を通すことの出来る資料を見ていません。
 文献の確認は今後の課題としたいと思います。

 ここで取上げた「東根市史」の各巻、及び市史が引用する「東郷村史」では「古四王」と記述されています。
 川崎浩良は「古志王社、古志王神」と記しています。
 東根市史・東郷村史が、この文字を用いる根拠・資料を知りたいと思います。


 《 追記 2020−07 》
*『東郷村史』(名和季蔵・著 東郷村教育委員会・発行 昭29・1954 非売品)の「第四 古跡及城址」の項目の中に「野川字中向の林中に古四王壇俗にこしょうだんと称する高さ六尺幅二尺位の板碑型の古碑がある。元禄五年十月野川村明細帳に「こしほのやしろ」とある。即ち越王(高志王)の神を祭ったもので当地方にては最古のものである。里人農耕の神と尊崇して今尚旧正月十五日に碑前に火を焚き参詣する者が多い。」〈略・三行半〉「野川の古四王社も元は北向であったが明治十五六年の頃関山より神町に通ずる新道開通の際線路に当るために新道の北側に移して南向に建てたので元禄寛保の頃までは古四王の社として社内にあったと思われる。(元禄五年の野川村古地図に拠る)」とありました。

*『東根市史編集資料 第1号』(東根市史編集委員会 昭51・1976)によって『東根町史』を見てみました。
 『東根町史』の発行は昭和2年でしたので、東郷村の範囲は含まれていませんでした。

 明治22年に野川村・沼沢村・猪野沢村・白水村・万善寺村・太田新田・幾右衛門新田により東郷村が発足し、昭和29年に東根町・東郷村・高崎村・大富村・小田島村・長瀞村が合併してあらたに東根町が発足し、昭和33年に東根市になっています。

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