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探訪記録 山形  27 : 村山  2


佐藤リスト 位置番号 22 : 寒河江市谷沢 腰王社    備考)オコショウ様、耳の病気の神、神像、9月15日
                 〈桑原リスト:上ノ山市(旧高松町)谷沢・腰王神社

《探訪の準備》
 桑原リストを検討をしていた時に、「上ノ山市(旧高松町)谷沢・腰王神社」という所在地情報からその場所の現在の住所の確認・地図情報の確認・図書館の蔵書検索で資料情報の確認・等を行ないました。
 現在の上山市に上山市高松という地域がありますので、上山市を構成する市町村の変遷をたどってみると、明治22年に藤吾村・細谷村・小穴村・川口村・阿弥陀地村・石曽根村・高松村が合併して南村山郡西郷村が発足していることが分かりました。
 高松村が高松町になったことはうかがえませんし、上山市高松の現在の小字地名に谷沢は見当たりませんでした。
 上山市高松地域に腰王神社の情報が見当たりませんでした。

 その後他の情報によってあらためて調べてみると、高松村は西村山郡にもあって、そちらは明治22年に米沢村・谷沢村・八鍬村・清助新田村の合併によって発足しています。
 高松村はその後の昭和29年に他の町村と合併して寒河江市になっています。
 こちらも高松町になったことはうかがえませんが、こちらの高松村の中には谷沢村の地域があります。

 寒河江市谷沢周辺をweb地図で調べましたら、御小姓神社という社が記されていました。
 「小姓」をコシオウの変化とする見解がありますので、この社が何か関係あるのかも知れないと思いました。

*川崎『美人反別帳』に「同郡〈西村山郡〉高松村谷沢に、土地の人々がオコショウ様と称する腰王社がある。」があります。
 この情報に接した時にはまだ寒河江市に結びつくことはありませんでした。
*『山形県 山形・村山地方の伝説』(武田 正 平12・2000)中の「腰王神社由来」に「上山市上生居に腰王神社があり、左沢(大江町)や寒河江では越王神社と呼んでいる。〈略〉」があり、左沢や寒河江にもコシオウ社があるのだろうかと思いました。
*月光善弘『古志(四)王神の信仰』及び『寒河江市史 上巻』(寒河江市史編纂委員会 平6・1994)の「東北地方(新潟県を含む)における古志(四)王社の分布表」で「寒河江市谷沢110 小塩神社」がありました。
 『古志(四)王神の信仰』の本文中に「寒河江市谷沢の小塩神社の前にも、自然石に穴のあいた石が供えられていた。俗別当をつとめている◯◯〈名前非表示にしました〉(72歳)氏の話では、やはり耳の病気の神で、社堂の中に御厨子があり、その中に神像が祀られていて、もとは旧九月十五日に、近隣の人や信者の方が集まって、お祀りするだけであるとのことであった。」とあり写真が二葉載せてありました。

 こういったことを経て、桑原リストの所在地情報での上ノ山市は寒河江市の誤りであると確認できました。

*『高松村史』(長井政太カ/伊豆田忠悦 共著 昭46・1971)の「第五章第三節 谷沢村の概況」によると「弘化三年(1846)の資料によると、谷沢村の家数は八十七軒、うち寺一軒・山伏二軒・神主二軒・高持七十三軒・無高九軒で、寛文八年〈1668〉の記録によると仁渡観音・小塩観音(小子王社)・新山権現・熊野神社がきされており、またほかに天神社白山神社があった…」とあり、「第五章第四節 社寺誌」に「高松村内には神社がきわめて多い。明治二十一年頃の調査によると、全部で十三社である。米沢に三社、八鍬に一社、谷沢に八社、清助新田に一社である。とくに多いのは谷沢である。惣代人一名というのは、明治十六年に惣代人三名を申告するよう達せられた時、祠堂を管理する一名のほか、氏子組織をもたないので惣代三人を選出することができないとして、一名だけ届け出た神社である。したがって、いずれも小祠である。しかし、これらの小祠も次に述べるように、江戸時代には少額ながら朱印地や除地高を与えられていた。」とあります。
 谷沢の八社のうち村社二社以外の六社が惣代人一名になっており、小塩神社も惣代人一名の神社です。
 同節の各社の由来の記載から「小子王社」を見ますと「上谷沢の小子王社は、寛文八年の調査書には小塩観音とあり、谷沢の正覚院が別当であった。その頃すでに神仏混淆されていたことがわかる。祭神は別雷命とされているが、北陸から東北地方の西海岸に分布している古志王神であるとみられる。御朱印地はなく、除地高が一石三斗であった。享保〈1716〜1736〉頃は谷沢の證誠院が別当となっている。証〈ママ〉誠院は慈恩寺宝蔵院の配下である。除地は享保六年〈1721〉の勘定所への届書によると、田畑五反四畝拾七歩とある。これが石高にして一石三斗であったわけで、寺社の除地はひじょうに縄延びがあったことがわかる。明治十六年の届書には小塩神社とあり、氏子総代人は◯◯〈名前非表示〉であった。〈略〉」とあります。 

*『平成の祭』では、寒河江市大字谷沢には天神社と白山神社の二社だけ掲載されています。これは旧村社の二社と思われます。

*「腰王」と表示しているのは川崎浩良、「越王」は武田 正(『山形県 山形・村山地方の伝説』)、「小塩神社」「古志王」「小子王」は『高松村史』、月光は「小塩神社」、地図情報は「御小姓神社」です。
 谷沢の「小塩神社」に有孔石が供えられており耳の病気に御利益があるとの伝えがあることからすれば、きかず様と呼ばれたりする例もある古四王神と思われて信仰されていることで間違いないのではないかと思います。

 地図で検索すると、月光リストの「小塩神社:寒河江市谷沢110」の住所地は、民家のようです。
 web地図の「御小姓神社」は寒河江市谷沢110の地点より西に280メートル程行ったところ、県道26の北側にありますが番地が分かりませんので、現在の住所表示の番地が当られていないのかも知れません。
 寒河江市谷沢724(大字谷沢字下谷沢724)の長福寺からは、西方向へ1200メートル程になります。

《探訪の記録》
*2018年11月10日
 西村山郡大江町から寒河江市谷沢へ向いました。
 神社の場所は上谷沢地区になり、その東側の長福寺あたりは下谷沢地区になるようです。
 県道26号で上谷沢集落の西から右折して集落に続く道路に入り、集落の端で右折し南に進んで神社に着きました。
 ネットで「寒河江市谷沢 御小姓神社」で検索すると写真を表示する検索サイトがあり、冬の神社の写真がありました。到着した神社は、写真と同じようですし、月光論文の写真とも同じようですので、ここで間違いはないようです。
 神社は、四角形の建物で、正面の扉の前に階段があり、向拝が設けられており、屋根は赤系色のトタン葺きです。
 社額は無く、社名の表示がありません。
 向拝柱に渡された梁の上の蛙股部分に輪宝紋のようなものが彫られています。
 階段の脇に、穴の開いた石がいくつか置かれています。石に触ったり動かしたりしていませんので、置かれた石を見た限りの印象ですが、くぼみはあっても穴が貫通していない石もあるようです。
 神社の向きは、磁石をあててはいませんが、北方面に向いていると思います。

左上: 神社と境内地                            右上: 社殿
左下: 蛙股と紋                               右下: 階段左側の穴あき石


《探訪の整理》
*上谷沢集落の方からお話しを聞くことはできませんでしたし、「俗別当」をつとめている方の家と思われる所も、隣家が葬儀ということもあり、訪ねてはいません。
 文献についても、寒河江市立図書館を訪ねましたが、『高松村史』以外の文献史料を見つけられませんでした。『高松村史』の詳細な「資料目録」を拝見しましたが、それ以上のことはできませんでした。

*コシオウ所在地分布リストの村山地域にだけ、コシオウに関連する地名の中に「小塩」が記載されています。
 「小塩」を、コシオウを表記する文字ではないかと見ていることになると思います。

 川崎浩良は『美人反別帳』で「越王はコシ王で最初は言葉であったが、文字が使用されるに至って」として「古志王・巨四王・古四王・腰王・小四王・子四王」「小姓・腰尾」「五所」の表記例をあげていますが、この文脈では「小塩」は記されていません。
 同書の「村山盆地の越王神」の項目で「宮宿町に小塩山、本郷村顔好の小塩下(腰王下)、東村山郡中山町長崎に小塩代、豊田に小塩、柳沢に小塩山、土橋に小塩天神、此の小塩天神も元は腰王信仰に後世天神が合流したものと見られる、等」と小塩地名を列挙し、コシオウとの関連をうかがわせています。
 多くのコシオウ表記例を示している藤原相之助『古四王神社の意義に就いて』、及び及川大渓『みちのくの庶民信仰』には「小塩」の例は見られません。
 月光善弘『古志(四)王神の信仰』には、「はじめに社名を見ると、古四王・越王・古志王・小子王・小四王・巨志王・五所・腰王・腰尾・小姓・古将および小塩などがある。」とあり、神社名としての「小塩」の記述があります。
 谷沢の小塩神社の調査があって、この記述があるものと思います。

*丸山茂は『干布村郷土史』で「村山地方への分布は、…、漆川村所部の腰王神社を始め、寒河江市八鍬にこの種の神社を残し、または平塩や小塩(中山町)の地名を残している。」と記していますが、『高松村史』で八鍬村の十四鎮守や十六末社の記載や「社寺誌」を見ても八鍬地域にコシオウ社は見当たりませんので、「寒河江市八鍬」は谷沢の誤りであろうと思います。
 「平塩」については、『地名を歩く』{宇井 啓、平4・1992、寒河江市(庶務課広報広聴係)}の「平塩というところ」の項目に「最上川の段丘上に開けた古い村『平塩』。製塩に関した『冷や塩』が転じて平塩になったという。塩水沢、塩田、塩田尻、小塩など塩水の出る泉が何か所かあり、今も塩分のため稲の成育しない所がある。戦時中の製塩工場跡が残っているが、一日十俵程も作ったという。」記述があります。
 平塩は「塩」に関連した地名とされており、「小塩」も「塩」関連の場所とされています。
 平塩地区の東に、東村山郡中山町の小塩地区があり、平塩と小塩が並んでいます。
 しかし、塩の地名とすれば、小塩とは何なのでしょうか、小塩の「小」はなんでしょうか。

*谷沢の小塩観音が明治の時代に小塩神社となった。
 小塩はコシオウなのかどうか。
 祭神が別雷命とされたのは何故なのか。
 穴あき石はありましたが、「自然石に穴のあいた石が供えられ」は、いつ頃からのことなのでしょうか。
 御小姓神社とweb地図で表示されるのはどのような経緯によるものなのか、なにゆえに御小姓としたのか、不明です。
 川崎の記す「土地の人々がオコショウ様と称する」という「オコショウ」に文字をあてたのでしょうか。その際にコシオウの表記ともされる小姓を用いたのでしょうか。
 この文字がweb地図での表示以外に使われているのか、確認できていません。 
 分からないことが多くあります。

 月光善弘の聞き取り調査に「耳の病気の神で、社堂の中に御厨子があり、その中に神像が祀られ」ているとあり、穴あき石が供えられていることからすれば、コシオウとしての信仰があったことは間違いないようです。
 それはコシオウが耳の病気に霊験があるとして信仰され穴あき石を供えることが知られていたがゆえに、小塩の社であったのでその呼び名からコシオウとして了解されたためでしょうか。
 あるいは、もとからコシオウ社であったもので、文字表記にあたって小塩が知られていてその文字を当てたものでしょうか。
 文字表記にあたっては、大江町所部の腰王神社の情報があったと思いますので、それと同じ文字を用いるのが自然ではないかと思うのですが。
 社堂の中の御厨子ですが、所部の腰王神社の社内奥の内陣に社殿型厨子が大小三つ設置されているとのことです。

 寒河江市谷沢地内の小塩神社または御小姓神社は、歴史的経過は定かではありませんが、耳の神としてのコシオウ神としての信仰があったようですので、「古四王神社」としての情報としたいと思います。


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