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探訪記録  山形  36 : 村山 11


〔尾花沢市のコシオウ情報と探訪記録〕
佐藤地名リスト  位置番号 42 :尾花沢市延沢(旧・北村山郡常盤村延沢)   小塩堂
                      同      ( 同             )     小所堂
           位置番号 43 :尾花沢市上野畑(旧・北村山郡玉野村上野畑) 小姓天
     及び   位置番号 44   :村山市岩野(旧・北村山郡富本村岩野)        大聖天

                  〈桑原リスト:北村山郡宮沢村・御所神社
                          尾花沢市銀山上の畑・小姓天
                          尾花沢市鶴巻田・小姓田
                          尾花沢市延沢・小所堂
                          尾花沢市六沢・五所宮
                          尾花沢市・小塩堂

〈始めに〉
 尾花沢市については、佐藤リストに神社所在地情報はありません。
 佐藤偵宏による「コシオウ地名所在地」〈佐藤地名リスト〉情報として延沢と上野畑の2ヵ所に3つの地名情報が載せられています。
 桑原正史による分布情報〈桑原リスト〉には、宮沢村の御所神社の他に5つの情報が載せられています。
 これらの情報については、尾花沢市域のコシオウ情報の探訪記録としてまとめて記すことにします。
 佐藤地名リストに、村山市岩野の大聖天〈フリガナ-オショウテン〉が載っていましたので、この記事に追加的に記載しておきました。この地名情報は、佐藤リスト以外では見ていません。

《探訪の準備》
*川崎浩良『美人反別帳』に「宮城県界の五所山は、麓地方に残る資料によれば、此の山も元は豊栄村の例の如く越王山であったものを、修験時代に国常立命・市杵島姫命・伊弉冊命・素盞男命・三筒男命の五神を祭ってコシオウを五所と呼んだもので、爾来五所山と称されたのである。主峯船形山に堂宇が立っているが、越王神本来の北向きであるのも参照資料とするに足る。五所山を御所山としたに就いては、玉野盆地の人々が或る時代、順徳天皇の潜幸地として五所神社を御所神社としたものであろうが、此の事に就いては総て荒唐無稽の説のみを為して、其の間に何等科学的の根拠を見い出し得ないことを惜しむのである。盆地内に数箇所の御所神社があるが、元は五所神社・腰王神社であったろうことは、今なお上の畑に小姓天、鶴巻田に小姓田、延沢の小所堂・小塩堂、六沢に五所宮が残っているに依って窺い知られる。」の記載があります。
 なお、『古志族の検討』には「尾花沢市銀山上の畑 小姓天」の情報だけ載っています。

 桑原は、川崎がここであげた御所神社と地名情報を分布リストに載せています。
 川崎は、五所山〈船形山〉を越王山であったもので、船形山の堂宇が北向きであると述べ、順徳天皇伝説により五所山を御所山に五所神社を御所神社にしたのだろうとして、御所神社が数箇所あること、これらが五所・腰王神社であったろうことは周囲に小姓・小塩・小所等の地名が残っていることによって窺われると述べているわけですが、桑原の分布リストでは御所神社については北村山郡宮沢村の御所神社の1社の所在地情報を記しています。また、小塩堂を延沢と関係付けていません。
 佐藤は、神社所在地リストには五所・御所神社を含めませんが、地名所在地リストのほうに延沢と上野畑を入れていますが、なぜか鶴巻田を外しています。

*藤原相之助は『美人国祖神記』に「御所神社 北村山郡宮澤村」を記し、その後に記された『古四王神社の意義に就いて』では末尾に「附記、越王は、古四王、胡四王、腰王、古将、小性、御所(御諸)、五聖、五社などに訛り、奥羽越諸所に祭られて居ります、其の主なるもの左の通り」として「最上郡宮澤村 御所神社」を記しています。
 藤原の両書の御所神社はともに宮澤村ですから同じ社を指しているのだろうと思いますが郡名が違っています。単純な不注意や誤りでしょうか。
 両書間では福島県の2件の情報についても違っています。

 藤原の発表の方が川崎よりも早いのではないかと思いますが、御所をコシオウとする根拠はなんなのでしょうか。
 〈尾花沢を訪ねる前の段階では、吉田東伍『大日本地名辞書』に目を通しておりません。〉

*『平成の祭』では、御所神社は山形県に5社あり、その総てが尾花沢市に鎮座しています。
 全国では山形県の5社を含めて11社あり、徳島県に3社、茨城県に2社、愛媛県に1社となっています。
 五所神社は、◯◯五所神社等を除いて「五所神社」のみを数えると、全国に38社あり、山形県には長井市と鶴岡市〈旧・東田川郡藤島町〉に酒田市を加えると3社あります。
 法人登録のない御所・五所神社の数は不明です。

 『平成の祭』による尾花沢の5社の御所神社のうちで鎮座地が尾花沢市大字正厳字宮原746-9の社が北村山郡宮沢村の御所神社になると思います。山形県の5社のうち『平成の祭』に由緒を載せているのは正厳に鎮座するこの社のみです。
 この社が尾花沢の御所神社を代表するような社であろうと思いますので、桑原がこの社1社を御所神社としてあげたことも頷けます。
 あとの4社の鎮座地は、旧尾花沢町域の朧気と二藤袋に2社、旧玉野村域の下柳渡戸に1社、旧常盤村域の鶴子に1社となります。
 尾花沢の御所神社の祭神は5社とも順徳天皇です。
 なお、徳島の3社の内2社が承久の乱による配流の土御門天皇を祭神としています。
 徳島のもう1社は神倭磐余彦命を祭神としており、愛媛県の社は天智天皇を祭神とし、茨城の1社は主祭神は伊弉冉命で配神に誉田別命を祀り、もう1社は伊弉諾命・伊弉冉命を祭神としています。

 順徳天皇については、「順徳院」の諡号は崩御から7年過ぎた建長元年〈1249〉とのことですが、この記事では天皇の時も上皇の時も佐渡配流の時も通常は順徳天皇と記すこととします。引用文に関してはこの限りではありません。

*市町村の変遷を見てみます。
 明治22年の町村制の施行で、北村山郡尾花沢村(北村山郡尾花沢村・朧気村・二藤袋村・午房野村の合併)、宮沢村(正厳村・丹生村・高橋村・行沢村・中島村・押切村・岩谷沢村・市野々村・富山村の合併)、玉野村(上柳渡戸村・下柳渡戸村・銀山新畑村・上ノ畑村・母袋村・原田村・北郷村・鶴巻田村の合併)、常盤村(延沢村・細野村・畑沢村・鶴子村・六沢村の合併)、福原村(芦沢村・名木沢村・毒沢村・寺内村・南沢村・野黒沢村・荻袋村の合併)、等が発足しています。
 明治30年、尾花沢村が町制施行で尾花沢町になります。
 昭和29年に、尾花沢町・福原村・宮沢村・玉野村・常盤村が合併し、尾花沢町が改めて発足しています。
 昭和34年、北村山郡尾花沢町が市制施行して尾花沢市になります。

 これにより、北村山郡宮沢村は尾花沢市に属し、尾花沢市正厳・丹生・高橋・行沢・中島・押切・岩谷沢・市野々・富山の各地区の住所で表示されています。
 尾花沢市に上ノ畑・鶴巻田・延沢・六沢の住所があります。

*地図により御所神社の所在地及び上ノ畑・鶴巻田・延沢・六沢の場所を調べてみました。
 地図情報では、上ノ畑に小姓天、鶴巻田に小姓田、延沢の小所堂・小塩堂、六沢に五所宮は確認できませんでした。

*『尾花沢市史 上巻』(尾花沢市史編纂委員会 平17・2005)の『第5章 古代中世の宗教文化、第12章 近世尾花沢の文化と宗教』の一部を鶴岡市立図書館でコピーしていましたので、見てみます。
 五所山や御所神社やその信仰に関連する事は、歴史的な経緯とか、単純ではないので、この探訪記事で取上げたり論ずることは出来ることではないと思うのですが、『尾花沢市史 上巻』から気になったところを引用して、それについての感想を記してみます。
*『第5章 第1節  2中世の修験と御所山』の「五所山の修験」の項目に「固有信仰としての山岳信仰は、奈良時代に仏教・陰陽道と深く習合しあい、とくに天台・真言密教の影響をうけて修験道となって、わが国独自の展開を研げた。〈略〉尾花沢盆地の修験山伏の動向は資料不足からよく分らないが、大方は羽黒派修験と吉野派修験であろう。しかも特徴的なのは吉野派修験山伏らは、丹生川の水上ミナカミの大滝(女滝・男滝)に『五所明神』を祀り御宝前と称し、それぞれが五所堂を建立して奉仕した。その元締めは正厳の丹生山普明院神宮寺である(「御所神社縁起」『北村山郡史』所収)。〈略〉
 …問題になるのは、丹生山普明院神宮寺の存在と勢力である。これは前述したように御所神社の神官の家は、吉野派修験『丹生山普明院神宮寺』を称したことが、丹生氏が祖神とした丹生神社(丹生都姫)の神格が忘却されて、神仏混淆の際に五行思想による農耕祭祀の『五所明神』を中央から勧請して、丹生川・赤井川に沿う二四カ村の注連親シメオヤになったからである(松田壽男、前同)。この五所明神は五社明神ともいい、神仏混淆時代は主に五所宮・五所堂などと呼ばれた。これは庶民信仰の多様化と参拝の便宜に、五柱の神々を一カ所に祭祀した合祀形態の神社である。県内では他に上山・長井・藤島・酒田にも同形態の五所神社が祀られている(『山形県神社綜覧』)。〈略〉普明院神宮寺は境内の五所堂に、どういう神々を合祀したかはよく分らない。ただ普明院神宮寺は真言修験吉野派を称したので本山吉野金峰山修験道の影響が考えられる。〈略〉」とあります。
 同じく「五所山は弁才天の山」の項目に「普明院神宮寺を中心とする修験山伏らは、丹生川の水上の大滝(女滝・男滝)を『五所明神』の御神体として御宝前と称し、その源流域の船形山を信仰上から『五所山』と別称した。したがって、五所山は実体のみえない五所明神の祭祀による山名であり、固有の船形山・金蓮山・三峰山・荒神山・白髭山という五峰(「五所黒伏神社縁起」)の総称ではない。出羽の湯殿山には社殿がなく、湧き出る温泉と水酸化鉄華の磐座を御神体として御宝前と称しているように、五所山にも社殿(山頂の御所神社は明治十五年ころの創建とする『順徳帝御遺調』)がなく、大滝を御神体として御宝前と称した。〈略〉
 ところで、五所山には古代の丹生族が祖神とした『丹生都姫』信仰がみられ、御宝前から川下約1キロほどの川床は、水酸化鉄泉で黄褐色に彩られて神秘的である。ことに、新乳アラチ(荒血)沢七滝の上の大岩窟岩に順徳天皇がしばらく潜匿したという登拝口は、水酸化鉄泉の湧出がとくに著しい。〈略〉
 五所山の修験者らは新乳沢を不帰カエラズの沢と称して擬死再生、母体からの出生デナリの秘所、聖地と考えていた。〈略〉これらの伝承には丹生神(〈略〉)の信仰がみられ、五所山信仰の根底を支えている。
 尾花沢盆地の鶴子・上柳渡戸・下柳渡戸・二藤袋・朧気の各五所堂(五所明神)は、普明院神宮寺五所堂の祭祀に準じたであろうが、明治の神仏分離によって仏教色を拝して、順徳天皇を祀る『御所神社』に変遷したので、神仏混淆時代の祭神はよくわからない。ところが鶴子岡田の御所神社(正学院)の神札『御所神社広前御祈祷大麻』には、上部に狭依毘売命・多紀理毘売命・多岐都比売命の宗像三女神、下部中央に大きな文字で順徳天皇とある。順徳天皇はともかく『宗像三女神』は、神仏混淆時代の五所堂の主祭神であったろう。〈略〉ところで『古事記』に、狭依毘売命は市杵島比売命の亦の名とあり、修験道ではこの女神の本地をインドの川の神・音楽・福智を司る『弁才天』とする。日本五大弁天で名高い安芸の宮島・琵琶湖の竹生島・相模の江ノ島・吉野の天河・陸前の金華山などは、みな市杵島姫を弁才天の垂迹神としている。ことに吉野の天河弁才天(奥宮)は海辺でもない弥山ミセン川の水上、弥山山頂に祀っている。普明院神宮寺は吉野の天河弁才天を『五所明神』の主尊に勧請したので、吉野金峰山にちなんで五所山(船形山)を金蓮山と別称したのであろう。」とあります。
*『第5章 第3節 縁起伝説と宗教遺跡 3山岳修験と御所山伝説』では、「御所山の山名と祭神の諸相」の項目に「御所山は宮城県側では船形山と呼ぶが、〈略〉。山形側では五所山(五處山)や金蓮山が古く、『出羽風土記』(明治十七年刊)には名山として『五聖山、観音寺より十里余云々』とあるが、明治十四年山形県細見絵図には『御處山』とあり、現在の国土地理院地図には船形山(御所山)と記され、現在本県では御所山とされている。これらは主峰の山名であるが、五峰の連山を指した名称と混合しているともみられる。国定公園としての呼称は船形連峰御所山とされている。
 『北村山郡史』に『五所山は古昔、金蓮山と云い、奥羽両国の境なる五所・船形・荒神の三山権現は即ち景行天皇の御宇日本武尊の御講にて聖武天皇の頼勅願所なり、後役小角の開基、了定法師の中興なり(以下略、黒伏神社縁起)』とある。金蓮というのは金剛・胎蔵の両界ないしは金剛部と蓮華部を意味し修験密教世界の表現に合致する。金蓮山は五峯の総称または前船形山を差して呼ばれる(伊藤清郎「御所(船形)山の歴史と信仰」『御所山』1989)。〈略〉登拝口に応じ五峰のとらえ方、連峰の端山(前山)の祀神や里の神社はそれぞれの名称になっている。〈略〉五所山修験で最大の沢懸け御宝前大滝への登拝口基点である鶴子は表口と称されていた。〈略〉
 御所山の連峰を源流とする両県の河川上流の渓瀑と山間に点在する湖沼には竜神伝説が語られ、断崖洞窟などに風神信仰がある。いずれも農業の作神として里人の尊崇する自然聖地であり、略〉」があります。
 同じく「五所大明神から御所神社へ」の項目に「およそ近世まで船形山(御所山)の山形側での呼び名は五所山で、金蓮山と称した時代もあった。山岳信仰の祀り神は主峰としての御船形権現、連峰としての五所(大)明神であった。鶴子口に近い里宮三カ所の御所神社棟札調査によると、鶴子村紅内宝暦二年八月(1752)同岡田寛政九年十月(1797)下柳渡戸明和二年(1765)の場合はいずれも『五所大明神』との祭神名が揚げられていた。前述した鶴子村絵図には主峰を御船形大権現とし、屋敷平の神社は五所大明神と記されているが、岡田に建つ里宮は御所神社と記され、祀り神の五所明神と神社名の御所神社の両称が出現している。鶴子村絵図が書き上げられた二年前の明治四年九月に尾花沢御役所に『神社調』が提出されている。地域に在る神社すべてが書き上げられていて、当時の本市地域三七村の神社総数一二一社を数える。これには五所(大)明神が二カ村(朧気・野黒沢)五所神社が六カ村(二藤袋・正厳・上柳渡戸・下柳渡戸・六沢・鶴子)が書き上げられている。〈略〉書き上げられた多い順の神社とその社数(カッコ内は後に村社格を得た神社数)をみると、最も多いのが稲荷神社の二六(五)社で、次が熊野神社の十五(六)社、山神社十二(五)社、八幡神社九(四)社となっている。次が五所(明神)神社の八(六)社で、その神社数に対して多くの村社(郷社格を含む)格を得ている。この時には五所改め御所神社と改称していて御所神社伝説との関わりがあったとも見られるところである。〈略〉」の記載がありました。

 要約が難しく、整理しかね、あれこれと長く引用しました。
 「御所山」には、修験道ばかりでなく順徳天皇伝説もあり、幾つもの要素が重なっているようですので、川崎が例にあげた天童市の越王山のように分明ではなく、同じようには扱えないと思いますので、越王山を例としてあげるのはふさわしくないと思います。
 川崎は、コシオウが五所・五所山と称されたと述べていますが、さすがにそれを裏付けるような記述は『尾花沢市史 上巻=第5章』にはありませんでした。
 また、五所山には社殿がなく、山頂の御所神社は明治15年頃の創建とありますので、川崎が船形山の堂宇が北向であることをコシオウに関連付けようとしていることは、たとえ社殿が北向であったとしても、成立しません。
 さらに、川崎が周辺地名をあげてコシオウの証左としている上ノ畑ー小姓天・鶴巻田ー小姓田・延沢ー小所堂・小塩堂・六沢ー五所宮は、修験山伏らが「それぞれが五所堂を建立し奉仕した」といい「五所宮・五所堂などと呼ばれた」という修験の活動の影響による地名と考えた方がよいのかも知れません。小姓天の天が何なのか疑問ですが。
 しかしながら、明治四年に提出された「神社調」の五所明神・五所神社の所在地に川崎のとりあげている上ノ畑・鶴巻田・延沢は入っていません。五所宮という字地名がある六沢には五所神社があるとのことです。

 御所(五所)山や御所神社がコシオウであったとは、にわかには頷きがたい事ではありますが、修験は何故五所明神を祀ったのか。五所とした理由がわかりません。
 「大滝に『五所明神』を祀り御宝前と称し」「大滝を『五所明神』の御神体として御宝前と称し、その源流域の船形山を信仰上から『五所山』と別称した。」とありますが、これらからは五峰と五所明神は直接結びついていないように私には読めます。
 信仰対象の大滝の源流域の山塊を五所明神信仰から「五所山」と称したのであって、「五所山は実体のみえない五所明神の祭祀による山名であり、固有の船形山・金蓮山・三峰山・荒神山・白髭山という五峰の総称ではない」とありますので、何故五所明神だったのか疑問です。
 『北村山郡史』にあるという「五所山は古昔、金蓮山と云い、奥羽両国の境なる五所・船形・荒神の三山権現は…」が気になります。
 「金蓮山は五峯の総称または前船形山を差して呼ばれる」という記載もあります。
 そうすると、固有の五峰は船形山・前船形山・三峰山・荒神山・白髭山ということになります。
 「五所・船形・荒神の三山権現」の「五所」はどこなのでしょうか。
 五所山は金蓮山で前船形山ならば、前船形山・船形山・荒神山の三山権現でしょうか。
 船形山ではなく前船形山を中心にしていたのでしょうか。
 五所山ということが、すっきりしません。
 「登拝口に応じ五峰のとらえ方、連峰の端山の祀神や里の神社はそれぞれの名称になっている。」とありますので、いくつかの「五所山」の捉え方・用い方があったのかも知れません。
 見る場所によって山の姿は変わりますので、場所場所で信仰対象にふさわしい山が異なったのかもしれません。
 前船形山(標高約1312メートル)は船形山の北東に位置し宮城県にあり、地図上で見ると、山頂マークと思われる▲から▲までの直線距離で1600メートル程の位置です。前船形山と言うのですから宮城県側からの名前でしょう。
 船形山(標高1500メートル)からの位置関係を見ると、北西に5200メートル程で荒神山、南西方向に4200メートル程で白鬚山、南東方向に3000メートル程で三峰山となります。

 また、三山権現を祀ることと五所明神を祀ることは、どのような関係になっているのでしょうか。
 三山権現の信仰があって、それに対して五所明神を打ち出したのでしょうか。

 この地方の修験道にとって、信仰の山・修行の山があることは重大事なのだと思います。
 そういう霊山によってこの地方に修験道が根付き、霊山が五峰のところから五所山と呼ばれ、五所山が五峰全体を表す名であり主峰の名とされたのであれば、五峰をもって五所としたことが起りであるならば、あるいは三山権現に対する五所明神であったならば、五所とコシオウとの関連性は生じないと思います。
 しかし何故、五峰なのか。何故、五所山なのか。ゴショ山という名称があったゆえに五峰になったということはないのかどうか。
 もしコシオウと称するものがあったことで五所としたのであれば、修験が五所を何らかの謂われを介して信仰と関連付けるようになったのでしょうか。
 五所神社・明神と御所神社については、鶴子村の2社と下柳渡戸の1社の江戸期(宝暦・明和・寛政)の棟札に「五所大明神」とあり、明治4年の「神社調」では五所(大)明神と五所神社で8社あり、明治6年の鶴子村絵図では御所神社が現われているということです。
 明治の宗教政策により御所神社と称することになっていくのだろうと思いますが、順徳天皇の伝説がそれ以前には無かったことにはならないし、なんらかの事がなければ五所(神社)が御所(神社)にはならないと思います。

 庶民の神仏の信仰のありようは、信仰する人・祀る人の願いや思いや都合によって変わっていき、変えられていくように思うことがあります。

 行ってみて、資料を探してみないことには、いずれにしても始まらないようです。

 佐藤地名リストの大聖天については、『山形県地名録』の北村山郡の富本村に大聖天が記されておりオショウデンの振仮名がありました。他に聖天沢もあります。十二天にジフデンの振仮名があります。
 この大聖天が、現在の村山市岩野のどの辺りになるかは分かりませんし、情報が無く小姓天と関係があるのかも分かりません。
 尾花沢の正厳付近から岩野の熊野神社付近までおよそ30キロメートル程あるようです。


《探訪の記録》*2013年7月13日 
 東根市のあとに尾花沢市に向いました。
 尾花沢市民図書館に立寄り、蔵書検索しておいた文献資料に目を通しましたが、コシオウに関連する記載を見つけられませんでした。
 資料の一部をコピーさせてもらいました。

 図書館で『山形県地名録』を見つけたので目を通してみました。
 北村山郡玉野村上野畑に小姓天の地名があり、同村鶴巻田に小姓田は見当たらず、常盤村延沢に小塩堂と小所堂が見え御所ノ宮もあり、同村六沢に五所宮の地名が見えます。
 佐藤・桑原があげた尾花沢市の地名情報のうち鶴巻田を除いて存在していたことが知れました。
 ですが、それらの地名の場所が分りません。

*図書館から県道28号沿いに行き、尾花沢市正厳ショウゴン746−9(旧・字地名表示では大字正厳字宮原746−9)に鎮座する御所神社を訪ねました。
 江戸時代の出羽国村山郡の正厳村で幕府領になるようです。
 五所・御所神社に関連して出てきている地名は幕府領の2町48村にあるようです。

 御所神社は、道路端からの参道が奥に延びていて、参道脇に杉並木が続いている境内ですが横幅はないようです。
 道路から参道に進むとまず幟旗柱の支持具が左右に立ち、次いで右に御所神社と標した柱、左に「旧指定郷社 御所神社と天子塚」と題された案内版が設置されています。文字が消えていたり意味の分らないところもありますので、写真を撮って記載内容をあとでゆっくり見たいと思います。
 その先に石鳥居があり、参道脇に杉並木があります。
 参道は途中から少し右に曲がって、石灯籠、狛犬があり、社殿に続いています。
 拝殿は、それほど大きくはないものの五間社で、四本の向拝柱の三間に注連縄が張り渡されており、御所神社の社額があげられています。
 本殿は屋根以外は周囲が覆われていて建物の様子は分りません。
 拝殿と本殿の間の幣殿にあたる部分も外からはよく分かりませんでした。
 特に変った点は見受けられませんでしたし、境内社や石碑なども分りませんでした。
 神社の向って左の隣家が二階建ての大きな建物で印象的でした。案内版にある神官阿部氏なのでしょうか。

 左: 御所神社参道入り口付近                      右: 御所神社拝殿
 下: 案内板


 続いて、天子塚をめざして、尾花沢市丹生ニュウ1933の宮沢小学校に向いました。
 小学校前のグランドの手前の端に二股の枝振りの大きな木があり、その根元に「→天子塚」の柱がありましたので、グランド脇の農道をすすみグランドを過ぎると森の前に笠木の丸い石の神明鳥居と「天子塚参道」の石柱が立っていました。
 丘陵と森を背にして、その入口に鳥居が立ち、上り道の参道が続いています。
 神域の雰囲気を覚えました。
 上り道を進むと上の方に石の柵の区画と石の神明鳥居が見え、近づいて正面に向うと右に「伝 順徳天皇陵 天子塚」の石柱がありました。
 石の柵は、2〜3段積みの石垣の上に建っていました。
 鳥居の奥は少し高くなっていて、紙垂が垂らされた細い注連縄がまわされた杉と思われる木が立っていました。
 案内版には「壇三段」とありましたが、分かりませんでした。
 案内版に「上壇は方三間なり。其の中央に老杉樹あり。」とありましたが、注連縄の杉はその杉なのでしょうか。

 左: 天子塚 参道入口付近                         右: 天子塚


 来た道を戻り、二藤袋ニトウブクロ(字谷地田)1350の御所神社を訪ねました。
 両部鳥居の前にナツツバキの花がこぼれていて、杉木立のなかに参道があり、その先に社殿があります。「村社 御所神社」と左から横書きの木の社額があげられています。社殿は、拝殿と本殿の一体の形のようです。

 そこから国道347号に出て、鶴巻田ツルマキタ地区をすこしぐるぐる巡ってみて、下柳渡戸シモヤナギワタリド方面に進みました。
 六沢、延沢方面、鶴子方面には進まず、下柳渡戸から上柳渡戸、そして銀山温泉方面へ向いました。
 下柳渡戸823の御所神社を探しますと、田圃の向こうに杉の森を背に赤い鳥居がありました。
 草だらけの農道はあるのですが、車では行けそうもありませんので、望遠で見てみると鳥居の社額は御所神社のようです。石灯籠があり、森の中に社殿がうかがわれます。
 遠望するのみで、行かないでおきました。

 そこから、尾花沢市上柳渡戸207の宝沢山 薬師寺の境内にある最上三十三観音・第二十四番札所の上の畑カミノハタ観音堂を目指しました。
 『尾花沢町史 上巻=第12章・第2節・4市内の最上観音札所』に「第二十四番 上ノ畑観音は、昭和42年(1967)11月、軽井沢街道に沿う上ノ畑は集団離村し、数百年続いた村の灯は消えた。それとともに、村の高台にあった観音堂も銀山温泉入り口へ移された。軽井沢街道は、奈良時代に開かれたとされる古い街道で、近世には下柳渡戸〜上ノ畑〜軽井沢と宿駅も置かれ〈略〉現在は上柳渡戸薬師寺が別当で、観音堂も同寺境内に新築、移転した。」とあります。
 薬師寺と観音堂に詣りました。
 銀山温泉のさらに奥になる上ノ畑に既に集落はなく、小姓天の場所を尋ねる人もいないので、行きませんでした。

 左上: 二藤袋の御所神社                         右上: 二藤袋御所神社 社殿
 左下: 下柳渡戸の御所神社 遠望                    右下: 上の畑観音堂


 結局、延沢地区も六沢地区も訪ねずじまいで、予定していた鶴子(字岡田)346-3の御所神社と朧オボロケ(字下朧気)654の御所神社も訪ねていません。
 村山市岩野をあてもなく訪ねることはしていませんし、何も分からないままです。


《探訪の整理》
 調べて分かりそうなことから探訪の整理を始めたいと思います。
※御所神社について(1)
*社数について
 『平成の祭』では尾花沢に5社記されていました。
 その内の正厳(字宮原)と二藤袋(字谷地田)の2社に詣り、下柳渡戸の1社は遠望しました。
 朧気(字下朧気)と鶴子(字岡田)の訪れていない2社は、その所在地が地図で知れます。
 『尾花沢市史 上巻』によれば、明治の「神社調」で「五所(明神)神社」は8社となっており、『平成の祭』で既出の5社の他に野黒沢と上柳渡戸と六沢に3社あるようです。
 正厳の御所神社の由緒等が記された案内版に「各地に御所神社と称する社が十一社あり。」とありますので、周辺にあと3社あるのではないかと思います。
 市史上巻によれば「鶴子村紅内」と「同岡田」に里宮があったようですので、鶴子には岡田の1社だけではなく紅内クレナイにもあって2社あったようです。地図を見ますと鶴子地内には堀之内公民館近くの鶴子(字岡田)346-3に御所神社があり紅内地区と思われる鶴子1350-3に御所神社があります。
 船形山山頂の御所神社も数えれば、11社まであと1社です。

 『御所神社と天子塚』(宮澤村郷土研究会 制作年月不明)の冊子(A5版 全20頁、表紙右下に小さく「印刷をもつて謄写に代える」とあります)の「六、御さすらい」項目から関連するところを見てみます。
 「(一)、御前神社(一名入船神社ともいふ) 大石田の西北、最上川に沿うて下ること数町にして豊田部落あり。御前神社鎮座の地なり。順徳帝を祀る。」「(二)、福原村野黒沢にあり。順徳帝を祀り…後に至りて順徳帝なりしを知り…茲に祠を建てヽ憩われたる石を箱に蔵めて帝を祀ると。幾百年の風雨に社殿打壊せるを以て、明治三十六年現在の地、即ち諏訪神社の側に、石造の祠を建てヽ祀れりと載せたり。」「(五)、御所神社 常盤村六沢にあり。順徳帝を祭る。社殿の南三十間にして、C水あり。御所の宮泉といふ。〈夜間金色の光を放つ石の記述-略〉」「(七)、御所神社 定盤村紅内にあり。順徳地を祀り…」「(八)、御所神社 定盤村屋敷平にあり。順徳帝を祀る。阿部常次郎の屋敷跡なるを以て常次郎屋敷といふ。…」「(十三)、御所神社 御所山山頂に在り。順徳帝を祀る。社殿は明治十五年頃の改築なり。…」「(十六)、御所神社 玉野村上柳渡戸粟生にあり。順徳帝を祀り。…境内にサイカチの老樹あり。…」「(十七)、小姓天 玉野村鶴巻田にあり。順徳帝御休憩の地として伝へらるれども今は社殿も無く水田と堤とを見るのみ…」。があります。
 既出の5社等については、(三)に朧気の御所神社で「附近に佐渡屋敷、佐渡ケ島と称する字の名あり」があり、(四)は延沢の御所の宮杉、(六)岡田の御所神社、(十四)下柳渡戸の御所神社、(十八)正厳の御所神社、(十九)天子塚、(二一)二藤袋の御所神社で「順徳帝の皇子三郎良房を祀る」とあり、(九、十、十一、十二、十五、二十、二二、二三)は謂われのある地名などについての記載です。
 野黒沢・六沢・紅内・屋敷平・山頂・上柳渡戸粟生の6社と既出の5社で11社になりました。
 野黒沢の社は諏訪神社の境内の石祠のようですし、野黒沢(字諏訪山)567-1に諏訪神社があります。
 上柳渡戸は粟生地内でしょうが現在の住所表示に粟生がありませんが、御所神社のサイカチは尾花沢市の文化財とのことですので所在地が分かります。
 六沢の御所神社と御所の宮泉は分かりかねます。
 『御所神社と天子塚』の「順徳帝御遺跡略図」に六沢集落の十字路から朧気方面に北西に向かう道をいくらか進むと御所神社の記載がありますので、この場所でしょうか。
 ただ、『平成の祭』の正厳の御所神社の由緒のなかに「常盤村大字六沢には祠の跡のみありて樹木繁茂せり」があります。
 国土地理院の地図には六沢集落の西の古城山の山頂から北東に540メートル程のところに鳥居マークがありますが、何の神社でしょうか。
 山頂の御所神社については、船形山への山行記録のホームページを見ると、小さな社殿の写真がありました。山行記録では、御宝前の大滝などのようすも知ることができます。山頂の社殿について、明治十五年頃の創建という記述と改築という記述を見ることになりました。
 屋敷平は今はダムに沈んでしまったとのことですが、御所神社はどうしたのでしょうか。
 『尾花沢の信仰と民俗』(渡部昇竜 昭63・1988)の「天子塚と御所神社」に「待止橋・天人泉・屋敷平・御所の宮・鍋こわし・先達ばね・常次郎泉・六月平等は新鶴子ダムの水底に永久に眠ります」とあります。
 また、「六、御さすらい」項目の御所神社の7社に祭礼日が記されていますが、ひとつも同じ日付けがないことが気になります。

 御所神社ではありませんが、御前神社は順徳帝を祀るとのことです。

*小姓などの地名について
 この冊子には鶴巻田に小姓天があると記されています。
 鶴巻田に小姓田という地名があると川崎浩良の著作にあります。
 『平成の祭』の正厳の御所神社の由緒のなかに「玉野村大字鶴巻田字清水懸に御所田と称する地あり」が記されています。
 『山形県地名録』の鶴巻田の項目には小姓天も小姓田も御所田も記されてませんが、清水掛がありキミヅカガリの振仮名があります。この小字地名の地域に御所田があるとなると探しかねます。
 もし小姓天の天がデンと発音するようですと小姓天と小姓田は同じものかも知れません。小姓田が御所田と同じであれば順徳天皇との謂れも御所によって頷けます。
 しかし小姓天であれば、何故順徳帝の謂われある所として記されているのでしょうか。小姓天とは何なのでしょうか。
 上ノ畑には御所神社があったという伝承は記されていませんが、上ノ畑の小姓天は順徳天皇との謂われや伝説はないのでしょうか。
 小塩堂・小所堂や御所ノ宮の地名のある延沢には、御所の宮杉があり順徳帝御休憩の趾との記載がありますが、神社にかんする伝承は記されていません。
 『山形県地名録』によれば、御所神社の鎮座する正厳・二藤袋・朧気・下柳渡戸・鶴子、それから野黒沢・上柳渡戸には小姓や小所や小塩のつく地名は見当たりません。
 小姓・小所・小塩・等のつく地名について修験の活動の影響によるものではないかと思っていましたが、そうではないのかもしれません。
 だからといってコシオウに関する地名というのは、いかがなものでしょうか。塩に関する地名かもれません。
 御所神社の鎮座地では六沢だけに五所宮の字地名字があり、延沢に御所ノ宮の地名があります。
 これは修験道と順徳帝伝承による地名の可能性が大きいのではないかと思います。

*由緒について
 正厳の御所神社の由緒等の案内版や『御所神社と天子塚』の記載にふれる前に、先ず『山形県神社誌』(山形県神社庁 平成12年・2000)を見たいと思います。
(1)正厳の御所神社 旧郷社
 由緒:「縁起に拠ると、順徳天皇は承久の乱に破れ佐渡に遷されてから二十年、侍臣阿部常次郎頼時と謀り、密かに佐渡を脱出、越後から庄内に出て、舟で最上川を遡り丹生川から御所山に潜伏される。其の後山をくだられた天皇は、寛元四年〈1246〉七月十九日に崩御される。常次郎は御骸を榊林の山中に斂め霊廟を造営して神霊を奉斎したのが当社の創祀と伝えられている。榊林の山稜は、社から東北へ九町程距てた所にあり、三段から成る。下段は方十間、中断は方七間、上段は方三間である。中央に老杉お生い繁り其の下に斂め申したと伝えられ、往古から近郷の人々は天子塚と称して神社と共に篤く尊崇されて来た。…古記録に依ると元禄九年の洪水で社殿流失、現拝殿は文政十三年の建立。本殿幣殿は大正八年建立。…」
(2)朧気の御所神社 旧村社
 由緒:「創建は詳らかでないが、順徳帝佐渡に崩御されるや、その臣阿部常次郎諸国を巡るうちに出羽の国最上川に至り、その支流朧気川を渡る際、当地に仮庵を作り居住していたのを、後世御所明神として順徳帝を祀ったものと言われている。…」
 ここでは、順徳帝は佐渡で崩御している。阿部常次郎を順徳帝の臣としている。御所明神。
(3)二藤袋の御所神社 旧村社
 主祭神:順徳天皇 他の4社では「祭神 順徳天皇」とあり主祭神とはなっていません。
 由緒:「順徳天皇は佐渡を脱出、正厳の地に御遷幸、王子をもうけられた。阿部上四郎吉房は順徳天皇をこの地に祀って御霊を慰め奉つたという。建長五年〈1253〉五月十五日の創建と伝える。近郷の人々は吉房を御所の王と称し種々の謂がある。…」
 ここでは、王子、阿部上四郎吉房、吉房を御所の王。
 『御所神社と天子塚』の「六、御さすらい」では、二藤袋の御所神社は順徳帝の皇子三郎良房を祀るとありました。
(4)下柳渡戸の御所神社
 由緒:「仁治の昔、順徳帝佐渡の配所を遁れ給いて、当地御所山に赴かれたときのご休息地に一宇を建て、帝を祀ったものと伝えられる。…」
(5)鶴子字岡田の御所神社 旧村社
 由緒:「順徳帝佐渡の配所を遁れ、御所山に御幸し給える時の遺跡と伝えられる。宝治元年〈1247〉四月十日順徳帝の遺跡を慕い奉り、村民相議って小祠を建立したと言う。寛政九年九月十日玉野村鉱山発掘所祈願所守護神として改築する。文政十二年八月十五日別当正学院の氏当部落民の崇拝する産土神守護神と尊称し新築したのが現在の社殿である。…」
 神社誌には以上5社の記載があります。
 同誌の他の社を見てみます。
(6)大石田町豊田(字五畝畑)1743の御前神社
 祭神:伊邪那岐神 伊邪那美神
 由緒:「第十四代十順徳天皇が、佐渡ケ島へ流島の身となり、数年後に最上川を上りこの地に上陸される。のちに村人は、一時身を隠された所に祠を建立。時に文政八年〈1825〉四月十九日と伝えられる。」
 ここでは、数年後に佐渡脱出、祠建立は文政八年と随分後のことになっている。
 文政十二年に鶴子字岡田の社の新築、文政十三年に正厳の社の拝殿建立が記されていますが、文政期になにかあったのでしょうか。
(7)東根市観音寺(字大門)202-1の黒伏神社
 祭神:伊弉諾命 埴山比売命
 由緒:「創立は延歴年中〈782〜806〉、坂上田村麿の勧請の由に言い伝える。旧号黒伏山大権現と称し御所神社を合祭。…」
 ここには、御所神社を合祭とあります。合祭が合祀のことであるならば、どこかの御所神社を合祀したのでしょうか。御所神社のあった屋敷平が新鶴子ダムに沈んだそうですが、その御所神社を合祀するならば尾花沢市内に御所神社となるのではないでしょうか。
 『尾花沢市史 上巻』に「五所黒伏神社縁起」を出典とする記載がありますが、この五所黒伏神社とはどこのことなのでしょうか。
 『東北芸術工科大学 紀要 第25号2,018年3月』がインターネットで閲覧でき、その「山形県東根市・沢渡観音堂 十一面観音菩薩立像の再評価」(村上幸奈)の論文中に「鳥越地区には…黒伏御所神社がある。」の記載がありました。東根市観音寺鳥越という地名があります。観音寺202−1の黒伏神社とは場所が異なります。
 なお、東根市大字泉郷字黒伏山3262という住所で黒伏山神社が『山形県神社誌』に記載されていました。祭神は「大山祇之神」、由緒に「創立は詳かでない。五所山修験道全盛時代、この山を掛越山と稱し参詣者多く山麓に多くの宿坊があったという。」とあります。

 このように御所神社の由緒が、神社によっては異なるものになっています。
 順徳天皇に関する伝承さえ異なっていて、御所神社にとって肝心なことであろう佐渡脱出ではなく佐渡で崩御とする由緒さえありました。

 続いて、正厳の御所神社の案内版「旧指定郷社 御所神社と天子塚」を見てみます。
 基本的には神社誌と同様の記述ですが、神社誌に記されていないことや詳しく記されていることを抜粋して見てみます。
 「…暫し御所山に潜匿し玉ひしが後、山を出てさせられ皇居を正厳に卜し僅かに雨露を凌がせ玉ふうち御悩にならせられ終に此地に崩じ玉ひぬ。」「後、常次郎聖廊〈廟?〉を建てて之を奉祀せり。廊側の一戸は常次郎の裔にして旧家なり。代々神官として之に奉仕す。社他〈地?〉及阿部氏の宅地を併称して宮内と云ひ、厳として別に一区画をなせり。…同家は昔時神仏混淆の際は丹生山普明院神宮寺と称し代々修験にして吉野派なり、二四ケ村は之を注連親と称え格式ある山法師なりき。」「…近郷に伝えられる順徳帝御さすらひの御遷幸御事蹟は古老の口碑に残るのみなれど密かに佐渡を逃れ潜匿玉ひし御事蹟に於いてをや証拠物件類の乏しきに至るも亦宜ならずや。猶寛政年中飽海の人、進藤重記の編纂になる「考補出羽国風土略記」にも之を証する記事がある。」とあります。
 案内版は、順徳天皇を祀る阿部家は旧家で格式ある家柄であるとして阿部家の存在にも重点が置かれているように思えます。

 冊子『御所神社と天子塚』に「御所神社縁起に曰く」として「 」を付けて引用されている部分から抜粋しますと「帝或時近侍の臣、阿部常次郎頼時(後に権大夫と称す)に謀りて、頼時をして出羽の羽黒の行者に姿を替しめ、御身は笈に隠れ給ひ、船客に交りて、出羽の国に着かせ給ひきとなむ。」「…それより最上川を船にて潜ませ給ひ、丹生川を見給ひて、水上の大なるを察し且一御所山を遠望し給ひ、御潜匿の地に幸と、丹生川を伝ひて、人目を忍び上らせ給へりと。それより丹生川にわけ入りて、わびしき山の御宮居は如何なりしならん。…ここに宮居定められても、元より奥深き鄙なれば、凡て物足らぬも忍ばせられ、宮居し給ふ三年にして寛元四年七月十九日、御身かくれまししと、云々」とあります。
 羽黒の行者・笈に隠れ、と脱出をより具体的に語り、御潜匿・わびしき山の御宮居・物足らぬも忍ばせられ、と帝の状況を推し量っています。
 そして、宮居し給ふ三年にして御身かくれ、と短い期間であったことを示しています。
 この冊子には、〈順徳天皇は佐渡にて二十年余を過ごし仁治三年〈1242〉九月十二日に46才で崩御し、翌日真野山にて火葬され、遺骨は都に持ち帰られ大原法華堂の側に安置された、というようなことは〉「世上史家の記する所なり。然れども佐渡に、順徳帝の御陵なきことは明治十一年明治天皇北越御巡幸の折富小路侍従を差遣して取調べさせられたる結果によりて明らかなり。今其の調査の報告たる上奏文を記するに、〈として9行の「順徳天皇御遺跡捜索之記」からであろう引用があります〉」と佐渡での崩御の反証を試み、「明け暮れ義時の専横を憤らせ給ひ。再び出でて、亡ぼし給はんとの御意志は燃ゆらん如きものありなるべし。」と脱出の理由を語り、「股肱の臣一名を御身代りとなし、顔面に火傷を加えて人相をくらませ、且警備の士に伝えて曰く、帝は突然発狂遊ばされ、燃えさかる薪木もて焼けただらし、形相恐ろしく、見るべからずとなし、翌十三日雑多郡真野山にて火葬し奉る旨を言い触らし、上皇は其の儘人目を忍びて隠れさせ給ひ、頓て康光は帝の為僧形に姿を変じ、御骨を背負い参らせ、阿部頼時は出羽の国羽黒山参詣を名として、上皇を笈に忍ばせ参らせ…佐渡島の配所の月下を漕ぎ出で…、漸く越後の海岸に舟を着け、康光一人は上陸し笈に隠れる上皇と頼時にあかぬ別れを告げ、都をさして旅を続け〈略〉」と方法を語っています。
 これによると、康光と阿部頼時は同じ船で越後の海岸に着いたことになるようですが、『越佐史料 巻一』(高橋義彦 編纂 大正14・1925刊 覆刻版・名著出版 昭46・1971)等によりますと藤原康光が御遺骨を首に懸けて佐渡より帰洛したのは崩御・火葬から半年以上経過した寛元元年四月二十八日で、五月十三日大原法華堂に奉安とのことです。
 火葬から船が出るまでの間には冬もありますが、笈にでも隠れていたのでしょうか。
 想像をたくましくあれこれ語ろうとすると、言わずもがなになってしまいます。
 佐渡での崩御の反証にあげている「順徳天皇御遺跡捜索之記」は、『越佐史料 巻一』で読みました。
 冊子に「順徳帝の御陵なきことは…取調べさせられたる結果によりて明らか」とありますが、「捜索之記」に「真野山ノ御陵ヲ始メ、山川原野ヲ跋渉シ」とあり「實ヲ索ムトイヘトモ、然レトモ年ヲ経ル六百歳」「コレヲ今日ニ徴スベキ者殆ト稀ナリ」とありますので、御陵とされる場所等を訪ねていて、御遺跡の実際の証拠を求めるのは難しい、と述べているものだと読みました。これを持って「順徳帝の御陵なきことは…明らか」と言うのは言い過ぎでしょう。
 『越佐史料 巻一』の「後嵯峨天皇」の条にある『平戸記ヘイコキ』に「仁治三年十月六日、乙卯、晴、早旦或者来告云、佐渡院(順徳上皇)去月廿(十)二日崩逝了云々」とあり「十日己未、晴」とある記事中に「御帰京事思食絶之故云々、就之存命太無益之由有叡慮云々、燒々石楡令宛御蚊触之上給」などの記述があり、本文の欄外に「供御ヲ絶チ死ヲ祈ラル」「焼石ヲ火キ腫物ニ宛テ益重ラセラル御臨終ノ模様」の註がありました。
 崩御から3週間強での情報による記録になりますが、伝聞を記したことになるのでしょうが、どのような人が伝えたどのような情報源からの伝聞でしょうか。
 この記述が「顔面に火傷を加えて人相をくらませ」に繋がっていくのでしょう。
 『越佐史料 巻一』に収められた他の史料に焼石云々の記述は見出せませんでした。「燃えさかる薪木もて焼けただらし」のような記述も見出せませんでした。
 『越佐史料 巻一』を見ると、順徳天皇(新院)の佐渡遷行〈承久三年七月・1221〉に供奉する者に、来ない者・帰る者・亡くなる者もありますが、北面の左衞門尉康光や女房二人(又は三人)が記されています。この左衞門尉康光が『御所神社と天子塚』に記されている康光でしょう。阿部頼時に関する記載は見出せません。
 ェ喜元年八月〈1229〉八月に女房督典侍が病により帰京とありますので、都より順徳天皇に従ってきた者はさらに少数になります。
 佐渡にて、順徳天皇に皇子三人が誕生の記事と皇女二人皇子一人が誕生の記事があります。
 貞永元年〈1232〉に藤原定家と隠岐の後鳥羽院に送って合点を請うたという佐渡で詠じた「順徳院百首御製」が記載されています。尾花沢での御製は伝えられているのでしょうか。
 配流から20年を過ぎ情勢も変わるなかで、たった一人の供と佐渡をすてはるかに辛い生き方を求めたりするでしょうか。

*ケイ〈占にL〉補出羽国風土略記について
 正厳の御所神社の案内版の文末に『進藤重記の編纂になる「考補出羽国風土略記」にも之を證する記事がある』とありました。
 『御所神社と天子塚』は末尾に文献を載せており、『出羽風土略記』については「御所宮」と題して「宗古云本宮ハ玉野の東正厳村宮内に建凡御所宮と称する者近里に皆是を祀る所々に社を建るとぞ父老相伝ふ 順徳院の稜也と 〈略〉 帝の妾阿部氏生雲子是を阿部上四郎吉房と云宮廟の側に旧宅存す吉房は王子也故に人是を尊て御所の王といふ 廟を立二藤袋に存す阿部上四郎の胤氏を称阿部者二十余家為氏神以て六月十五日祀之御所の宮ハ七月十九日祭ると云」を記しています。
〈略〉の部分は、和歌を好み詩才に富む帝は、奥州には歌に詠まれた勝景地が多くあり、藤原中将実方が阿古屋の松を最上郡に尋ねたように、帝もまた尋ねようと佐渡を出た、というようなことを記していると思います。
 この記述の出典は、『ケイ補出羽国風土略記』と言われているものからのものと思います。
 これは『大江町史資料 第十二号』(大江町教育委員会 昭57・1982)の長井政太カの序によれば、進藤重記の『出羽国風土略記』の村山郡の部分を補おうとして里見光頭が筆を起こし、平田一元が後を継ぎ、寛政四年〈1792〉に公にしたものとのことです。
 『大江町史資料 第十二号』の『ケイ補出羽国風土略記十之下』で「御所宮」の項目を見ると「宗古云、本宮は玉野原の東正厳村の宮内に建、凡御所宮と称する者近里皆之を祀る、所々に社を建るとそ、父老相伝ふ、順徳院の稜也と 〈略〉 帝の妾阿部氏生嚴q、是を阿部上四郎吉房と云ふ、宮廟の側に旧宅存す、吉房王子也、故に人之を尊んで御所王といふ、〈略〉御所宮は七月十九日祭之云々、愚未詳暫く宗古に従ふ」とありますので、同じものでしょう。
 そうすると、出典とされる「考補出羽国風土略記」も「出羽風土略記」も書名が正確ではなく、「御所宮」の項目は進藤重記が記述したものではなく宗古の考えを記したものとなります。宗古とは、同じく長井政太カの序によれば「左沢在住の松山藩医である羽柴玄倫」とのことです。
 順徳天皇の佐渡脱出の動機も、論ずる人の思うところによって異なるようです。あるいは、倒幕の思いというようなことを書くわけにはいかないのでしょうか。
 二藤袋の御所神社の由緒にあった阿部上四郎吉房・御所の王が、ここにも出ています。
 ケイ補版では、阿部氏は順徳帝の子の吉房の子孫となるように読めるので、順徳天皇に随従した阿部常次郎頼時の子孫が正厳・御所神社の神官の阿部氏とする案内版の内容とは異なっているようです。
 少なくとも、文政以前の寛政四年以前には、正厳の御所宮を本宮とする御所宮が近里の所々にあり、順徳院の稜と伝え、順徳院の子のこと等の伝承は知られていたことが分かりました。

 『尾花沢の信仰と民俗』の「天子塚と御所神社」に「鶴子・二藤袋・御所神社のむな板」の項目があり、そこに「御所神社のむな板にあった宝暦壬申年、寛政九年頃の神社名は『五所神社」(五所大明神)であったが、文政時代には「御所神社」に変わっていた。どうして、また、どのような理由で神社名が変わったのかはっきりしない。」があります。
 次に写真が載せられていて、そのなかに写真の脇に「文政時代 御所大明神(樹泉寺)」と記されたものがあります。樹泉寺は、二藤袋(字上宿)288-2に曹洞宗の寺としてあるようです。
 そして、「二藤袋の御所神社に『御所大明神』と書かれた、奉納絵馬(額)は、延沢荒町の豊嶋他人太氏が奉納されたものです。文政時代には御所大明神(御所神社)と呼ばれていたことがわかる。」という説明がされています。
 写真は奉納額ということでしょう。写真を見ると「文政十三年庚寅〈1830〉」と見て取れます。
 『ケイ補出羽国風土略記略』や『尾花沢市史 上巻』の記述とあわせると、今のところ寛政前後から「御所」表現が現われるようです。
 文政期には、大石田町の御前神社の祠建立などもあり、順徳天皇伝説の広がりがあるように思われます。

*『増補 大日本地名辞書 第七巻』(増補三版-昭50・1975、増補版-昭45){『大日本地名辞書』(吉田東伍 明治39・1906)}に羽前国-最上郡の「御所神社」を見ますと「正厳に在りて、俗云、帝王の子孫を説き、且、阿倍氏の祖という、即、越君阿倍臣等の祖を祭れるや、徴見すべし、越の王子の訛なり。本郡の五所山、及び出羽国(出庭)の条下に合考すべし。〈改行〉風土略記云、御所の王の本宮は、玉野原の東、正厳村宮内に建つ、御所宮と称するもの、近里に多し、順徳帝の稜なりといふ、帝の妾阿部氏、嚴qを生む、之を阿部上四郎吉房といふ、宮廟の側に旧宅存す、吉房は皇子なり、故に人之れを尊びて御所の王といふとぞ、二藤袋村に阿部と称する者二十余家あり。」とあります。
 「風土略記云」とする引用は、『ケイ補出羽国風土略記』からのもので間違いないと思いますので、出羽国風土略記との区別はついていなかったようです。
 『大江町史資料 第十二号』の口絵に秋田県立図書館蔵の和綴本の写真が載っていますが表紙には「出羽国風土略記 十之下」とあるのみでケイ補などとはありませんので、分かりにくいわけです。
 さて、『辞書』の指示のように「五所山」の条を見ますと「又、五聖山ゴシヤウザンにつくり、観音寺山の東巓をいふ。〈略〉五聖とは、他州郡にて古四王越王といへると同く、古四王子を祭れるにより此名あり、郡内正厳村には、御所祠といふ。県誌提要云、五所山は観音寺より頂上に至て凡七里、弁天岩あり、即、御前と称す、雌雄瀑あり、…、日光月光等、都て五峰、故に五所山と名く、〈略〉」とあります。
 陸前国-刈田郡の項目に「越王堂」の条を見ますと「今、齋川村に在り、或は古将堂につくる。蓋、越君の祖、大彦命を祭る所にして、東北諸州郡に、その祠堂往々存れり。(御所、五聖などにもなまれり)此には、謬りて坂上田村麻呂、又は苅田麻呂と為す。〈略〉」の記載もあります。

 藤原や川崎よりも前に、吉田東伍が御所神社を「古四王」としていました。そして、「御所、五聖などにもなまれり」としていました。
 吉田東伍は、大日本地名辞書を編むなかで、文献・資料に目を通すことによって膨大な研究の中からこのような見解にいたったのでしょうから、それは重いものがあります。
 ですが、あえて言えば、尾花沢の御所神社、また庄内町清川の御諸皇子神社、に関する文献にこれらの社が大彦命を祀るとか古四王・越王・等という記載のあるものはあるのでしょうか。
 辞書の記載を見ると「即、越君阿倍臣等の祖を祭れるや」「即、奥州、越後にて、越王、五社王子と号するに同じく、越の盛族安倍氏の祖、大彦命を祭る」というように著者の考えであり類推のようですし、その社について古四王・越王・等としている文献を示してはいません。
 もっとも、文献があったからといって、それが正しいとは限りませんが。

※御所神社について(2)
 いろいろ見てはきましたが、分からないことも多く、ここからは自分はどう思うかという事にならざるを得ないようです。
*尾花沢の御所神社は現在は順徳天皇を祭る神社ですが、かつて五所宮・五所堂であり五所大明神という信仰であった頃、正厳の丹生山普明院神宮寺が元締めになっている頃は、修験道ですので、その信仰のありようにおいて順徳天皇伝説は信仰の核心ではないだろうし、順徳天皇伝説がなければ修験道の五所山信仰が成立しないというものでもないでしょうから、修験が御宝前を神聖化したり峰駆け修行を行なったりすることと、順徳天皇伝説は直接的な関係はないと思います。

*順徳天皇は、佐渡院として佐渡にいることには問題はないわけですが、崩御として佐渡を脱出すれば、脱出先にいるはずのない人がいることにはできないわけで、別人として身分も隠して過ごさなければならないだろうと思います。
 そんなことをするでしょうか。行なうとすれば何の為に。何の成算があってのことでしょう。

 順徳天皇の佐渡脱出伝説というようなものは、尾花沢の他には無いのではないでしょうか。
 もし、身分を隠し別人として過ごさざるを得ない状態での3年間を尾花沢に過ごしたのであれば順徳天皇にまつわる場所等の伝承が明瞭であり多くあるのはどうしたことでしょうか。
 順徳天皇にまつわる伝承の中に、侍臣阿部常次郎の名を冠する伝承地も数箇所あるようです。
 佐渡脱出は信じがたいと思います。

*順徳天皇伝説は、阿部家が伝えた伝説であり、阿部家のための伝説のように思えます。
 阿部家が由緒ある尊い家柄であることを喧伝できれば、修験者として権威付けにも役立つでしょうし、五所山の修験道の宣伝にもなるのではないでしょうか。
 『尾花沢町史 上巻』から引用した「新乳沢七滝の上の大岩窟岩に順徳天皇がしばらく潜匿したという登拝口」等に見られるように、修験道の聖地に順徳天皇の事蹟地伝承を絡めるなども行なわれ、修験信仰と順徳天皇伝説がつながりを持つようにされているように思えます。

*順徳天皇の佐渡脱出と尾花沢遷行が無かったとすれば、何故この地に順徳天皇伝説があるのでしょう。
 以仁王であればまだしも、順徳天皇というのが唐突に思えます。

*もし、コシオウにかんする伝承やコシオウを祖とするような伝承があったとするとどうでしょうか。
 正厳・御所神社の神官家は、アベ姓をもつ家系ですので、遠祖を大彦命としコシオウを祀るという伝承を有していたのかも知れません。
 ただ、伝承の内容は忘れられ、コシオウを祀るとかコシオウの裔とかいうことだけが残ったとすれば、あとの人が家系伝承を探るうちに、越の王であれば佐渡遷幸の順徳天皇が越の皇ではないだろうかとその可能性を思ってみたのかも知れません。
 可能性を思う話は、それが伝えられるなかで、順徳天皇と尾花沢の阿部家を結び付ける話を想像することになっていったのかも知れません。

 江戸中期以降、様々な知識がもたらされる中で、尾ひれがついて本当らしく脚色されていったのかも知れません。
 順徳天皇の侍臣とする阿部常次郎の子孫という話の他に順徳天皇の皇子の子孫という話も伝わっており、皇子であるので「御所の王」というともあります。
 コシオウという要素を入れて考えると、阿部家が順徳天皇伝説を伝えていることに対する想像の道筋が付けられるように思います。

 川崎は、御所神社は五所でありコシオウであるとし、順徳天皇伝説は荒唐無稽の説のみを為し、としていますが、私は阿部家が順徳天皇伝説を伝えているから御所はコシオウからきている可能性があるのではないかと考えます。

 しかしながら、尾花沢の御所神社がコシオウであったものかどうかは、不明とするしかないと思いますので、古四王との関連を指摘する説もありますが疑問もあり、コシオウの参考情報として区分するしかないと思います。

 記事中に引用させていただいた文献の他に、記事に反映されていない参考にさせていただいた文献名を以下に記させていただきます。
 佐渡史苑 第一輯、佐渡叢書 第十六巻、真野町史 上巻、山形市史 上巻、御所山の信仰と伝説

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