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探訪記録 山形  34 : 村山  9


佐藤リスト 位置番号 29 : 山形市長谷堂・腰王山 腰王神社
                  備考)石囲いの中に北向き菩薩像、腰王権現

                  〈桑原リスト:山形市長谷堂・腰王神、腰王山 (旧南村山郡本沢村)

佐藤地名リスト位置番号 60 : 上山市〈原文・山形市〉狸森ムジナモリ  (旧・南村山郡山元村狸森)

                     〈桑原リスト:上ノ山市(旧山元村)狸森・腰王山

《探訪の準備》
*川崎浩良『美人反別帳』に、「長谷堂腰王山の八合目に腰王神が北向きに立つてある。石囲いの中に、高さ一尺一寸五分(34.85糎)須刈田産の斑岩で刻んだ菩薩像になっているが、斯くの如きは元は自然石であったものを、仏教に合流してから菩薩に改めたもので、同地観音寺の嘉永三年(1850)の文書に『腰王権現 石像 境内四方十間』となっている。」とあります。
 川崎『古志族の検討』にも「山形市長谷堂腰王山 腰王社」の記載があります。
 須刈田産の斑岩というのがどういうものかよく分かりません。

*丸山茂『越国と越王神社』の中に「…小瀧街道筋の長谷堂に腰王神社を残した。」の記載があります。
 小滝街道というのは、国道348号線の旧道がそれに当るようです。
 また、『腰王神社及び越王山の考察』に「昨年(昭和九年)川崎浩良氏が、南村山郡小白府街道長谷堂山中にも腰王神社を発見し〈略〉」があり、「川崎氏の話によると、小白府街道長谷堂山中の越王神社の祭神も道陸神であったそうである。」があります。
 小白府は上山市小白府のことと思われ、国道348号線を西に進むと小滝地区の手前に位置しています。

*市町村の変遷を見てみると、明治22年に南村山郡前明石村・二位田村・菅沢村・長谷堂村が本沢村モトサワになり、昭和31年に本沢村の大部分が山形市に編入しています。本沢村の長谷堂字久保手は上山市に編入しています。
 また、明治22年に南村山郡狸森村ムジナモリ・小白府村が山元村になり、昭和32年に上山市に編入しています。

*長井政太郎『本澤村誌』(山形市本沢支所 昭32・1957)=『第九章 社寺と信仰』の「(6)観音寺」の項目に「長光院の向いに観音寺があった。〈略〉嘉永三年四月観音寺より寺社奉行に報告したものに篭堂、稲荷堂東西六間、南北十二間の舘山八幡堂、村内の東西二十八間、南北十二間の薬師堂、東西四百三十間、南北二百五十間の滝山権現堂、十間四面腰王権現の石像等の除地となって堂社をすべて『前々より当寺にて支配仕申候。照光院儀は当院寺内に而前々より万事支配仕候』と述べ、〈略〉」の記述があります。
 この「嘉永三年四月観音寺より寺社奉行に報告したもの」が、川崎の記した「同地観音寺の嘉永三年(1850)の文書」でしょうか。
 この史料の所在は今のところ分かりません。
 同書・同章の「(10)小四王権現」に「現在は万年堂の祠に過ぎないが、先住民族の残した神社と言われる。外の小四王堂と同様に北向に社殿を設けられている。何時の時代かに村人の信仰の対照から離れ荒廃していたが、菅沢の志田家の四十八宮建立の計画の一部として滝山の万年堂等と共に再興されたと云う。明治三年観音寺長谷秀賢の漆山役所に報告した記録には『腰王権現、石像四方十間、腰王権現除地之儀何頃より除地相成候哉相知不申、右通村除地にて前々より当寺にて支配し来り申候』とある。」と記されています。

 長井政太郎『本澤村誌』の記述を見ますと、他の報告を引いた文では「腰王権現」としているが自らの叙述では「小四王」と記しています。
 コシオウの表記に「小四王」を選択している事になると思いますが、どのようなことからなのでしょうか。
 「万年堂の祠」とは何でしょうか。また「菅沢の志田家…滝山の万年堂」とか、よく分からない記載内容があります。
 川崎の言う「石囲い」と長井の「万年堂」というのが同じものであるならば、石造りの堂のようなものを万年堂と言うのでしょうか。

 少なくとも、昭和の時代にもコシオウの祠のようなものは存在していたのですから、所在地を確認したいと思います。

*長谷堂地区に所在するのでしょうが、取上げた文献にはコシオウ所在地の場所情報が明確ではありません。
 長谷堂城跡があるのは城山で「腰王山」ではないようです。
 最上三十三観音霊場の十二番札所が長谷堂(長谷堂観音)で、城山山中に観音堂があり納経所の真言宗 長谷山 長光院は麓にあります。
 長光院の住所は長谷堂23−3です。
 この長光院の向いに観音寺があったのでしょうか。
 城山及びその周辺にコシオウがあったのであれば、その事が記されないはずがないと思いますので、コシオウ所在地は城山周辺ではないのでしょう。

 長谷堂地区のなかに上山市狸森腰王山の飛地があります。
 国道348号線沿いに位置していますので、小滝街道筋に当るのではないかと思います。
 川崎『美人反別帳』に「山元村狸森に腰王山」とコシオウ地名の一つとして取上げています。
 佐藤は狸森の腰王山を地名リストに入れています。
 桑原リストに狸森・腰王山があります。
 この飛地の上山市狸森腰王山の面積は小さく三角形に近い形に見える〈およそ85b×150b÷2≒6400u〉ので、腰王山がここに収まりきれるとは思えず、腰王山があれば長谷堂地区に拡がっているものと思います。
 この辺りに「腰王権現」があるのかも知れないと思います。

*長谷堂の腰王神については、所在地が分からないままで訪ねることができないでいました。
 腰王山のことを調べれば何か分かるかもしれないと思い、ネット検索をいろいろしてみました。
 そうすると、本沢村に関する記事に、風穴山が無くなりコガクラ山も削り取られ腰王山も危ういこと、腰王山には学校林があったことなどの情報を見る事が出来ました。
 ネット地図で航空写真を見てみると、飛地の上山市狸森腰王山付近の国道348号線を越えた向い側の山が採石場のようになっています。
 本沢村に関する記事の情報は、このことを言うのだろうと思います。
 「腰王山 採石」のキーワードでネット検索したところ、ブログ『地域神話の風景とフィールド』の「失われた古代の神話風景:山形編B(2010-4-7)」記事の記載にであうことができました。
 そこには「腰王山は現在は、砂利採石場となって、ほとんど元の形を残していません(写真)。腰王権現は、今もありました(写真)。案内してくれた、採掘場の作業員の方のはなしによると、10月23日あたりに、お祀りをしているようです。かつては、山の頂上にありましたが、採石したため、三ヵ所くらい下げて、今の位置になった、とのことでした。最初は大杉もあったが、それは伐採してしまったそうです。」があり写真が2枚載せられていました。
 これに違いない、この場所を探して目指せばいいのだと、探訪に目途がついたと思いました。
 このブログ記事に出合わなければ、長谷堂の腰王神については不明のままだったろうと思います。
 ブログに著者名がありましたので、検索してみますと著者と思える方の情報があり、メールフォームがありましたので、連絡を取らせていただこうといたしましたが、関係者のみのメールフォームなのかメールを送れませんでした。
 リンクを張らせていただきます。」
   http://regionalmyth.seesaa.net/article/145869032.html「失われた古代の神話風景:山形編B


*佐藤リストの29番 山形市長谷堂・腰王山ー腰王神社と佐藤地名リストの60番の旧・南村山郡山元村狸森は、同じ場所を指していることになりますので、この「探訪記録 村山 9 山形県長谷堂・腰王山 腰王神社」の記事に、この上山市狸森・腰王山の情報を並べて示しておきました。


《探訪の記録》
*2018年11月11日
 山形市常明寺から長谷堂地区に向いました。先ずは城山に行きたいと思います。
 城山(長谷堂城跡)の南の麓の、本沢川の南の道、長光院の前を通る道を行き長光院を確認しました。
 長光院の向いに観音寺があったとのことですが、長光院の前の道をはさんだ向い側の土地は道と本沢川にはさまれた狭い場所になります。長光院の向いは数台駐めるのがやっとくらいの駐車場になっています。こういう所に観音院があったのでしょうか。
 長光院は寺院らしい様子の建物ではありませんでした。
 長光院はむかしから今の場所にあったのでしょうか。

 そこから近い観音口付近の駐車場に車を置き、観音口から城山にのぼりました。
 山頂には向わず長谷堂観音に行きました。

 長谷堂観音は雪囲いがされていましたが、立派な観音堂で正面に向うとびっしり貼られた御札に驚かされました。
 この時には参拝者はいませんでした。
 境内奥の神社は残念な姿でした。

 左上: 石畳の参道と奥に長谷堂観音堂                 右上: 鐘楼と観音堂
 左下: 観音堂と境内奥の神社                      右下: 雪囲いの観音堂と御札


*長谷堂観音をあとにして、国道348号を上山市方面に進み砂利採取場を目指します。
 その手前の国道348号を進むと進行方向左側に「チェーン脱着場」が設けられています。ここに車を入れて、地図看板を見て、現在地と腰王橋を確認しました。
 この先に、上山市の飛地の“上山市狸森腰王山”が進行方向の右手にあります。
 さらに進むと上山市との境になる本沢川に架かる腰王橋があります。
 腰王橋の手前の左手方面に砂利採取場への進入路があるようですので、先ずはここへ行ってることを予定しています。

 進入路に車を進めると、前方にプールのような水溜りがあり、ダンプのタイヤの泥落とし用ではないかと思いますので、水の深さが分からないので迂回しました。
 日曜日のせいか誰もいないようですが、さらに先へ進みますと道がカーブして道幅が広がり、そこに進入禁止の看板がありました。
 車を止めて、外へ出て、どうしようかと見回しておりましたら、カーブして広くなった道路の向こうの山の端に四角いコンクリートの箱のようなものが見えました。
 何だろう。もしやと思って行ってみますと、コンクリート製の四角の箱状の物を横にした空間の中に腰王神が祀られていました。
 あった、見つけた、よかった、という感じです。
 誰もいなかったので、入ってきましたが、立入禁止を越えてはいませんが、長居は出来ないと思いますので、写真を撮って、その場をあとにしました。

 左上: チェーン脱着場の地図看板 赤丸腰王橋 黄丸現在地    右上: コンクリートの箱のようなもの
 左下: 腰王神の祠の正面                          右下: 祠の内部(お顔を見せずに…)


《探訪の整理》
*撮ってきた写真を見ますと、腰王神は、コンクリートの角升状の物を横に寝せて、後の開口部をコンクリート板で塞いで、祠として用いた、その中に祀られていました。風雪を避ける配慮のようです。
 祠の手前には、台代りのコンクリートが置かれ、花立ての筒と思えるものが左右にあります。
 祠には、午房ジメの注連縄に紙垂が下げられており、ロウソク立てと線香台があり、サカキが隅に置かれています。
 注連縄に紙垂がありサカキが置かれていますので、そう遠くない日に、お祭りが行なわれたようです。
 「失われた古代の神話風景:山形B(2010-4-7)」記事に「10月23日あたりに、お祀りをしているようです。」とありましたので、そのころお祭りが行なわれたのでしょう。
 業者の方がそうしているのではないでしょうか。
 祠の中に、川崎浩良によると菩薩像とされる像がありました。
 丸山の報告によると、川崎は昭和九年に発見しているようですが、その時はどのようなじょうたいだったのでしょうか。
 また、丸山は川崎の話として祭神は道陸神と伝えていますが、どうなのでしょう。
 お地蔵さんのように見えます。お地蔵さんも菩薩ですが。
 両手を衣の中で中国風?に前で組んでいるようにも見えます。
 腰王神像に向って右横に置かれている石に穴があるようですが、穴は貫通していないようです。
 祠の周囲に穴あき石は見受けられなかったように思いますし、写真では祠の中に他の穴あき石は見えないようですが、神像などの後方がどうなっているかは分かりません。
 祠の向きは、方位磁石をあてなかったのですが、北向きのようです。

 腰王神は、山形市長谷堂地内の国道348号線で上山市に向い、上山市に入る手前の左手にある採石場内〈腰王山〉にありました。


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