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探訪記録 山形  37  : 村山 12


佐藤地名リスト位置番号 52 : 西村山郡朝日町宮宿(旧・宮宿町宮宿) 小塩山
                   〈桑原リスト:西村山郡朝日町宮宿・小塩山

《探訪の準備》
*川崎『美人反別帳』に「左沢町三郷滝の沢に条件通りの腰王堂あり、宮宿町に小塩山あり、本郷村…」という記述があり、宮宿町の小塩山という地名情報が載せられています。
 (「探訪記録 村山 4」に関連記事があります。)

 神社の情報ではありませんので、神社所在地として探すような注力はしていませんでした。

*西村山郡宮宿町は、明治22年に宮宿村・新宿村・雪谷村・四野沢村・大滝村・上郷村・杉山村・古真木村・送橋村・下芦沢村・水本村・和合村・針生村によって東五百川村が発足し、昭和3年に町制施行・改称して宮宿町になったようです。
 昭和29年に、宮宿町・西五百川村・大谷村とが合併して朝日町が発足しています。

*宮宿町域で小塩山を探すことは時々はしていました。
 最初にネット情報・地図情報にあたってみたのは2005年ですが、手掛かりは得られませんでした。
 2013年に、『あさひまちエコミュージアム』のサイトに「腰王神社(中沢)」と「小塩山観音堂」の情報を見つけました。
 「腰王神社(中沢)」の記事中に「朝日町で唯一のめずらしい神社です。祭神は腰族の神といわれる腰王で、特に耳と腰の病の人が信心するとご利益があるといわれ、奉納するならわしの河原で拾った『穴あけ石』が、お堂の前に数十個供えられています。大江町所部の腰王神社から分霊されたといわれており、村人は『おこしゅうさま』と親しみをこえて呼んでいます。」がありました。
 「耳と腰の病の人」とあること「河原で拾った」石とあることなど、耳新しい事が記されていました。
 朝日町には腰王神社はここだけとのことです。
 アクセスマップも設けられており、およその場所も分かります。
 中沢地区は、明治22年に西村山郡大谷村・大暮山村・大沼村・玉ノ井村・中沢村によって発足した大谷村が、昭和29年に合併して朝日町が発足したことで朝日町中沢となっています。

 「小塩山観音堂」の記事がありましたので、小塩山がどの辺りにあるか分かりました。
 『山形県地名録』の「宮宿町の宮宿」の字地名に小塩山がありました。
 小塩山に関してコシオウの情報を見いだしていません。
 小塩山は、コシオウとの関係のある地名なのでしょうか。

 2018年10月30日に『あさひまちエコミュージアム』さんに「腰王神社(中沢)」「小塩山観音堂」の場所の問合せをさせていただき、正確な場所をお教えいただきました。
 その場所は、大手検索サイトの(当時の)マップで示される「腰王神社(中沢)」の位置とはだいぶ違いました。


《探訪の記録》
*2018年11月10日
 先ず、朝日町エコミュージアムコアセンター創遊館に行きました。
 文化祭のような行事が行なわれていて、大勢の人がいらっしゃいました。
 館内の「朝日町エコミュージアムルーム」を訪ね、送っていただいた地図のお礼を述べ、腰王神社についての資料をお尋ねしました。
 『ふるさと朝日町散歩』にある記事のコピーを取っていただきました。

*地図によると、小塩山観音堂は創遊館の前から南南東に直線距離で370メートル程の所にあるようですので、そこに向います。
 東北電力宮宿変電所の東側を南北方向に通る道を南に進むと小塩山観音堂に続く山道になるようです。
 山道は途中から南へ向う道と西に向う道の二本に別れ、西に向う道の先に小塩山観音堂があるようです。
 変電所付近から山道の分岐点まではおよそ300メートル程の道のりで、分岐から観音堂まではおよそ240メートル程のようです。
 車で、宮宿変電所を通りすぎ山道のほうへ向いましたが、カーブを曲がると道は山道らしくなり車では行かないほうがよいようですので、引き返し宮宿変電所東側の道に車を置きました。
 支度をして歩き出し、庭いじりをしていたご婦人に観音堂はここを行けばいいですかと声を掛けました。これで得体の知れない人から観音様参りに来た老夫婦となりました。いってらっしゃいと言っていただきました。
 狭路の脇の小屋を過ぎてカーブした先は山道になり、ゆるやかなのぼりを進みます。
 地図ではそう遠くない道のりなのですが、歩いて行くと距離感が違って遠く感じます。
 しばらく歩いていくと、石仏があり右に行く脇道がありましたので、分岐道かと思って右に進みますと、墓地に出ました。
 墓地の奥に観音堂への道が続いているのかと行ってみましたが、それらしい道がありませんでしたので、もとの道に戻って、もとの道を先に進みました。
 けっこう歩いて、ようやく分岐点に至ったという印象です。石碑などが立ち並んでいます。
 そこから西に向う道をさらにしばらく進むと、リンゴの果樹園の中に杉木立がありました。
 草の多い脇道がありましたが、道なりにコンクリート舗装の道を進むと左手の小高いところに御堂がありました。
 斜面をあがり御堂の前に立ちました。御堂の正面側に石燈籠などがあり、参道がありました。先程の草の多い脇道が参道でした。
 向拝柱に「五百川霊場 第二十六番札所 宮宿 小塩山」の表示板があげられていました。
 「小塩山観音堂」でした。

 左上: 果樹園と杉木立、コンクリート道と左端に脇道          右上: コンクリート道から御堂を見上げる
 左下: 参道からの御堂                            右下: 小塩山観音堂


*山辺町北山湯舟をまわって、中沢の腰王神社に向いました。
 『あさひまちエコミュージアム』のサイトで石祠の写真を見ておりますし、場所を示す地図もありますので、迷わずに行くことが出来ました。
 細い坂道をのぼったカーブのところが少し広くなっていましたので、そこに車を入れて置かせてもらいました。熊の出没注意の看板がありました。
 カーブの手前周辺を探しますと、緩い斜面のすこし奥に腰王神社の石祠がありました。
 方形の屋根と四角柱の石宮と二段の基壇で構成されていて、正面は布で覆われています。
 お賽銭がいくつか置かれています。
 基壇の前に大小の穴あき石が、触れていませんのでおよそですが二・三十個程も積まれているようです。
 南に向いています。

 左上: 坂道と熊注意の看板()                     右上: 石祠() 
 左下: 石祠の正面                              右下: 石祠と穴あき石


 それぞれのおよその場所を、カシミール3Dの解説本の地図(1/25000)にマークを入れて載せます。
 左: 小塩山観音堂、変電所、エコミュージアムコアセンター  右: 腰王神社・石祠


《探訪の整理》
*『あさひまちエコミュージアム』のサイトで「小塩山観音堂(千手観世音)」と記されている観音堂は「小塩山」という所にあるのでしょうが、「小塩山」という名前の山(山地)があるのでしょうか。
 山地の中のある1つの場所のことを指して「小塩山」と言うのでしょうか。

 『山形県地名録』の「宮宿町の宮宿」の地名に「小塩山」がありますが、「宮宿町の宮宿」には地名は100箇所以上も記されていますので、「小塩山」がどのくらいの広さであるか分かりません。
 『山形県地名録』の「宮宿町」は、昭和3年から昭和29年までの宮宿町で、明治22年に13村によって発足した領域で、「宮宿町の宮宿」はその1つの村の領域になります。
 「小塩山観音堂」を訪ねた時は、宮宿変電所付近から歩き始め、山道を歩いて分岐路を西に行って御堂に至ったわけですが、宮宿変電所も歩いた山道も西に進んだ分岐路の道程の大半は「新宿」の地域になります。宮宿地域に入って西に約60メートルで御堂になります。
 「新宿」は西と北の境を「宮宿」と接していて、「宮宿」が覆い被さっているような位置関係にあります。
 「小塩山観音堂」のすぐそばに接する「新宿」の地名は『山形県地名録』によれば13箇所で山の付く地名はありません。
 「小塩山」の地名範囲は「新宿」地域には及んでいないということではないでしょうか。
 「宮宿」の100箇所以上の地名のうち山がつく地名は「浦山、小塩山、十暮山、戸暮山、風呂山、前山、向山」の7箇所です。「宮宿町の宮宿」の範囲には、山地がいくつかありますので、これらの山の付く地名がどこに当たるのかは不明です。 
 平地部分から山(山地)を見ると、ひとかたまりの山(山地)のように見え、そのひとかたまりについて“◯◯山”と通称することがあると思いますが、山地の中で必要なのは山地の頂き毎の□□山とか△△山とか峰や峠や沢毎の固有の名前になると思いますので、必要なだけの地名があるのだと思います。

 「小塩山」がどのような経緯から名付けられたか分かりません。
 『山形県地名録』の「宮宿町の送橋」地区の22地名のなかに「塩平」があり、「宮宿町の上郷」地区の39地名のなかに「塩水ショミズ」があります。
 「送橋」に山の付く地名は3箇所あり、「上郷」にでは1箇所が山の付く地名です。
 宮宿地区の朝日町役場から「送橋」の神明神社までは東に約2650メートル程で、同じく「上郷」の上郷地区集落センターまでは南南西へ約3500メートル程です。
 川崎浩良は、小塩山という地名を見つけたようですが、塩平や塩水は見つけなかったのでしょうか。
 小塩山の観音堂のことは知らなかったようです。
 観音堂の存在を知っていれば、何と言ったでしょうか。観音堂とコシオウを結び付けたでしょうか。
 中沢の腰王神社を知っていたら、どうしたでしょう。

 小塩山の地名の謂れや観音堂の由緒・経緯を知りませんので、断定は出来ませんが、小塩山はコシオウとの関係よりは塩関連の地名とするほうが妥当のように思います。
 『山形県の地名伝説』(安彦好重 歴史図書社 昭54・1979)に「塩地名」の項目によると、シオ(塩)というのは曲ったとか撓んだという地名を表す場合があるそうです。
 「村山3・大江町所部ー腰王神社」の記事で『大江町史 地誌編=第二編 第二章』の「塩ノ平」項目に「シオとは凹地から来たとする説もある。」があることを記しています。
 そうであれば、小塩山は小さくたわんだ山ということでしょうか。山がたわむというのはヘコミのようなものがある山でしょうか。凹地のある山のことでしょうか。
 小塩山観音堂あたりの山の様子を地図〈カシミール3Dのスーパー地形〉で見てみると南北に続く尾根筋の左右に数本の少し高い筋が出ており、その筋と筋の間は少し低くなっているので、そういった状態をたわむと言うのであれば、そうかと思うしかありません。
 ここでの尾根筋は標高250メートル以上の部分をさしているのですが、小塩山観音堂の在る場所は尾根筋の北端の250メートルの等高線から北に直線距離で130メートル程の所にあって標高220〜230の等高線の間が広くなっている場所で、へこんではいません。小塩山観音堂に向けて歩き始めた山裾は標高170メートルあたりです。

*『朝日町史編集資料 第20号』(朝日町教育委員会編 昭58・1983)の「東五百川村郷土誌=第四編第五章・寺院誌」に「宮宿小鹽山千手観音(無量院)」として「延寶三年〈1676〉今の無量院祖先戸田部なるもの京都で千手観音を新造し南都東大寺寂賢比丘に請ひて開眼し當地に下向しましたが安置すべき場所がありませんでしたから官に願って小鹽山を賜はり一宇をたてゝ之を奉安しました。其後天明三年〈1783〉若干の地を領主から拝領し聖運の長久を祈祷し来ました。別当は上宮宿村山伏無量であります。」がありました。

*中沢の腰王神社については、所部の腰王神社が信仰を集めていたことはまちがいない事で、距離的にも遠くないので、「大江町所部の腰王神社から分霊されたといわれており」の情報がありますので、その通りなのだろうと思います。
 町報の連載が本になったという『ふるさと朝日町散歩』〈副書名:路傍の神々・仏たち 菩提寺めぐり 古道をたずねて〉(長岡幸助-著、朝日町広報委員会-編 昭63・1988)に「女性の参拝が多いおこしょう様」のタイトルで「中沢『越王神社〈こしおうの振仮名〉』」の昭和56年10月号の記事があります。
 それによると〔「村人は『おこしょう様』といって古くから親しみ、また、信仰深い社である。」「◯◯〈名を伏す〉氏は語る。『越王神社は風光明眉の丘に建っていて中沢から大谷に越える古道であった。社はもと北向きに建っていたが、道路改修のため現在は東南向きに建てられた。古い神であり、越後と関係が深いらしい』」「別当□□〈名を伏す〉さんは語る。『元来耳の神様であり、自然の有孔石を上げて全快を祈る、所部の腰王神と兄弟と伝えられ、例祭は四月十五日。特に女性の方の参拝が多い』」〕とあります。

*『朝日町史編集資料 第29号』(朝日町教育委員会編 平3・1991)の「私たちのむらー大谷風土記(昭34)」に「大谷口のおこしぅま」という項目があり〔「大谷口のバス停留所と、大谷・栗木沢道路の分岐点との中間ごろから、断崖を西に向って登る細い旧道路があり、登り詰めたところから、右に折れた小径を二十米程登り、更に左に折れ三十亜穂米程進めば、数本の松の大木の切り株の傍に、高さ一米程度の万年堂が最上川の方に面して鎮座している。又堂には数十個の“穴明け石”が奉納されてある。この万年堂が“おこしぅさま”即ち腰王神社であり、別当は中沢の◯◯〈名を伏す〉氏で、数年前松の大木の根基からここに遷したともうしている。この“おこしぅさま”は、大江町所部に於ける腰王太子堂の分霊を勧請したもので、その年代については明らかではない。祭日は所部と同じ旧三月十五日で、この日別当の◯◯家では赤飯を焚き、腰王に供し、家内一同参詣する慣になっている。」「腰王神社の分布は秋田・山形・新潟に最も多く、西村山地区では、寒河江市谷沢・大江町所部・大谷口の三ヶ所で、谷沢のが一番古く、これから所部へ分霊したと伝えられている。それで谷沢のものを少し述べると、谷沢では“おこしぅさま”と申し、祭日は旧九月十五日」「“穴明け石”を奉納することに就いては、このことは石器時代以来の遺風であり、大昔の或る時代には“穴明け石”を今日の貨幣即ち銭の役に用いたところから、賽銭の意味に奉納するのであると物語っている。又谷沢腰王の慣例として、祭りの時には北向きの神社から向って左の清水(約五百米東)で体を清め、神社の東口より入り、南に向って参拝することになっている。別当は正覚坊で祭日には“抜”と“神ことば”を奏上する。」〕の記述がありました。
 鎮座場所についての説明がありますが、その説明が分かりません。
 中沢ではなく大谷口なのでしょうか。
 谷沢の腰王が古く、ここから所部に分霊というのは、所部の伝説とは合いません。また、腰王太子堂というのはどこから来た情報でしょうか。
 谷沢の正覚坊が別当であったのは、『高松村史』の「寛文八年の調査書には小塩観音とあり、谷沢の正覚院が別当であった。」と対応するのでしょう。享保頃は谷沢の證〈証〉誠院が別当になっているそうです。石器時代云々、貨幣云々はどうでしょうか。

 中沢は、旧大谷村を構成する5つの村の1つで、『山形県地名録』によると「大谷村の中沢」地域には13の地名がありますが、コシオウを連想させる地名はありません。
 「大谷村の玉ノ井」地区の48地名のうちに塩台(田)と塩ノ沢があります。

 朝日町中沢の腰王神社については、位置関係からも大江町所部の腰王神社、大江町三郷乙の腰王堂の地名、山辺町北山の腰王神社、等との関係も検討課題ではないかと思います。
 探訪記録の村山2は寒河江市谷沢、村山3は所部、村山4は三郷乙、村山7は山辺町北山に関する記事になりますので、ご参照いただければ幸いです。


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